単身赴任中のチーフ奥田のもとには、中学生になった娘の沙紀と小学生の亜衣が来ることになっていた。妻の早智子も仕事があり、この夏は休めそうにないというのだが、どこにも旅行に行かないというのもかわいそうなので、奥田が休暇を取って、奥田の住む街を、いろいろ見せて回る予定にしたのだ。
しかし、娘達が来た翌日の月曜日はどうしても出なければいけない会議があり、近所の美術館でやっている子供イベントに行かせ、奥田は朝から出社した。はて、どこに連れて行くかな・・・。いろいろ出かけても、1週間も持つとは思えなかった。沙紀はあまり出かけたくもなさそうだったし、何かいい手はないかな・・・奥田はぼんやりと、部下の晴香を眺めながら考えていた。
午後、早めに仕事を切り上げ、娘達を迎えに行くと、亜衣がかすかに涙ぐんでいる。
「どうした?」
姉の沙紀が代わりに答える。
「亜衣ちゃん、歯が痛いんだって。ちょっと見てみたら、たしかに虫歯みたいだけど。」
なんだと!!チーフは小躍りしたい気分だった。
「じゃあ・・・歯医者さんに行かないとな」
「うん」
子供のころから歯医者に通い慣れている亜衣は、おとなしく頷いた。
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奥田は歯が丈夫だったが、妻の早智子は歯が弱かった。沙紀は奥田に似たらしく、歯が丈夫で、奥田がせっせと甘いものを与えても、虫歯の気配すらなかった。
しかし亜衣は、(幸いにも)早智子に似たらしい。亜衣が幼稚園に通い始めた頃、歯の仕上げ磨きをしていた奥田は、亜衣の真珠のような歯に、輝きを失った部分がいくつかあるのを見つけた。 ・・・虫歯の前兆だ!3歳児のころに塗ったフッ素の効果が切れてきたらしい。妻にも報告することなく、奥田は毎日、適当に手を抜いて仕上げ磨きをしてやりながら、亜衣の歯を見守った。子供の虫歯の進行は速い・・・その白い染みは、みるみる広がり、やがて中心に茶色い点ができると、歯は溶け始め、夏の終わりには黒く汚い、立派な虫歯に成長していた。・・・全部で4本。少し物足りないが、奥歯が8本しかないことを考えると、このあたりで一度治療したほうがいいな。奥田は、妻を呼んだ。
「亜衣、虫歯があるようだ」
「やだ・・・私に似たのかしら。かわいそうに。」
40を前にして、健全歯がないばかりでなく、すでに虫歯のために数本歯を失っているほど歯の弱い早智子は、顔をくもらせた。
「でも私、しばらく忙しいのよ・・」
亜衣が幼稚園に通いだすと同時に、仕事に復帰した早智子は実際、あまり時間がなかった。
「ああ、俺が連れて行くよ、せっかくのフレックスタイムだ。使ってみたかったんだよ」
と理解のあるところを見せ、奥田はひさしぶりの刺激に燃えていた。
しかし結局、そのときの治療は、あっさり済んでしまった。子供の虫歯は進行が早いためか、痛みがほとんどないまま、すでに神経まで死んでしまっていたらしい。亜衣は初めての歯科治療に少しびっくりしていたものの、歯をほとんど削られても痛みもなく、抜髄治療をおとなしく受け、亜衣の小さな口の中には、銀色のクラウンが4本できた。亜衣の中には、「歯医者さんは、少し口を開けていれば、ごほうびのシールをくれるところ」という認識ができ、その後、半年ごとの検診で、小さい虫歯が毎回見つかって治療を受けたものの、痛い目には遭わなかったため、亜衣は歯医者を怖がることなく成長した。
亜衣が小学校に入ってすぐに引越しをして、かかりつけの歯医者がいなくなってしまったために、半年ごとの検診の機会はなくなった。その結果、2年生の歯科検診で要治療歯が見つかったのだが、母親の早智子は仕事で忙しく、奥田もそれが大きく育つことを期待していたので放置をきめこんだ。亜衣が3年生になると同時に、奥田は地方都市に転勤で単身赴任となり、今年は単身赴任2年目の夏だった。亜衣は4年生になっていた。どうやら、去年も今年も、治療勧告は無視されていたらしい。3年間は放置されていたわけだ。奥田は頭の中で数え、永久歯も侵されているであろう亜衣の口の中を想像した。
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オフィスビル内の歯科、後藤に電話で亜衣の治療の予約を入れた後、奥田は娘達を連れてマンションに戻った。沙紀に好きなピザを注文するように言ってから、デンタルミラーを持ってソファに座る。デンタルミラーは、最近、関係を持ち始めたなつきの歯を「診察」するために買った。割り切った大人の関係というやつで、奥田がバッグなどを買ってやるかわり、なつきは奥田の「歯みがき」と「診察」を受けた。少し恥ずかしいが歯を見せるだけでバッグが手に入るなら軽いもんだわ、というわけである。
「亜衣、どこが痛いのか、パパに見せてごらん」
亜衣は、幼稚園まで奥田に歯を磨かれていたためか、抵抗なく、ソファに横になり、奥田のひざに頭を載せた。そのまま黙って口を開けた。
「うーん」
奥田は、満足のため息を漏らした。
亜衣はもうすぐ10歳になる。上のCが抜け、3番が生えかかっているようなので、奥田の想像では、奥は上下とも4番まで永久歯になり、Eの4本のクラウン・・・おそらくこれは歯科に行かなければ抜けないだろう・・・は残っているであろう、というところであった。
しかし、亜衣の下の歯は、すでにすべて永久歯に生え変わっており・・・一番後ろには、7番も半分顔をのぞかせていた。よりによって、こんな過酷なところに、早く生えてこなくてもいいのに、ずいぶんと平均よりも早い計算になる。
「ここ・・・」
亜衣は右の上の6番を指差した。たしかに、咬合面の溝が茶色く溶けてあきらかに虫歯ではあるものの、痛むほどとも思えないが・・・奥田はミラーを亜衣の口腔内に挿入し、右上6番を丹念にチェックした。Eのクラウンとの境は・・歯肉との間に若干の歯垢がたまっているものの、虫歯はなさそうだ・・・が、後の面を見たとき、奥田の鼓動は高まった。後ろの側面全体が真っ黒になり、真ん中あたりに穴も開いている。これはたしかに大きいな・・・
「ああ、本当だ、虫歯になっちゃってるね・・・」
虫歯を見た興奮で、奥田は、親としての感情が少し弱まった。亜衣の小さい口では、この6番の後ろ側は治療もしにくいだろうな・・・口を無理やり開けられ、過酷な治療を受ける亜衣を想像し、残酷な気分になった奥田は、そのまま続けた。
「亜衣、これは・・・大人の歯なんだよ。それなのに、こんなに大きい虫歯にして。」
とたんに、ただ口を開けていた亜衣の顔が曇った。
「他の歯もパパがチェックしよう」
亜衣は、口を開けたまま頷いた。
見ていた6番からそのままミラーを移動させる。隣は乳歯で、クラウンだ。次は・・・4番か、まだ大丈夫そうだが、歯茎との間にずいぶん歯垢がたまっている。生えかけの3番・・・前歯もまだ、なんとか無事なようだ。左の4番・・・少し溝が茶色いような気もするな、次のEはまたクラウンで、6番・・・これもまた、右と同じ場所が虫歯になっている。黒くはなっていないが、小さい穴が開き、穴の周辺が薄茶色く、そこから白濁が広がっている。
「こっちの大人の歯も、虫歯だよ、亜衣。」
心配そうな顔で口を開けていた亜衣の顔がさらに曇る。
そのまま下の歯に下がる。一番うしろに、7番が窮屈そうに顔を前半分覗かせているのだが、角は白濁している。しかも磨きにくいのか、歯肉がかぶっている辺りには歯垢だけでなく、食べかすのような物も見えた。次の6番・・・生えかけの7番で、後ろ側が見えないのだが、溝は茶色く溶けて広がっている。5番・・まだ大丈夫かな、4番は溝が着色している。前歯はさすがに・・・あの早智子でさえ、最後まで虫歯にならなかったんだからな・・・右側も、ほぼ左と同じような状態だった。7番の白濁が少し大きいくらいだ。
「下も、大人の歯は虫歯だったよ、右も左も。歯医者さんで、ちゃんと治してもらおうね。」
奥田は、ミラーを抜きながら言った。亜衣がおとなしく頷く。
そのとき、沙紀が、ピザが届いたとやって来た。
奥田は亜衣に言った。
「歯磨きもちゃんとできてなかったよ。女の子なんだから綺麗にしなきゃ。ご飯食べたら、パパが久しぶりに仕上げ磨きしてやろう」
「うん。」
亜衣は、右頬を押さえながら頷いた。
歯が痛いのにピザなんか食べるのかと思っていたが、亜衣は好物らしく、左側で一生懸命食べていた。食後は、冷凍庫から奥田がアイスを出した。実は奥田は甘い物が大の好物なのだ。一日中よく食べる。そのため、奥田と付き合うと、通常の歯質の女性でも、かなり歯の状態が悪くなるほどであった。和香は丈夫だったなあ・・・奥田はぼんやり考えた。しかし、その丈夫な和香の歯も、妊娠・授乳で一時期歯が弱くなってしまったらしく、数本虫歯が出来てしまったのだが、同僚の衛生士に自分の歯を見られるなんて絶対に嫌だ、と言い張り、困り果てた荒井に呼ばれて奥田は助手として治療に付き合ったのだった。歯は丈夫だという自負のある女性が虫歯を作ってしまうショックと言うのもなかなか格別だった・・・と、奥田が考えていると、
「んんんっつぅぅ」
沙紀が、顔をしかめて左手で鼻の下を押さえている。
「なんだ?噛んだのか?」
沙紀は美人で自慢の娘だが、残念なことに歯が丈夫だ。強すぎる歯でよく、口の中を噛んでいた。
「歯に染みるぅぅ」
沙紀はまだ押さえている。・・・もしや。
「沙紀も虫歯じゃないのか?」
「やだなあ、お父さん、私は歯はお父さん似で丈夫だよ。虫歯なんてなったことないよー。でも、冷たいものって染みるじゃん」
沙紀は笑い飛ばしたが、またアイスを口に入れると、
「いっつぅぅ」
と顔をしかめ、鼻の下をおさえている。あやしい。たしかに冷たいものは歯にしみるが、健全歯の場合、それは一瞬だし、全体だ。押さえるようなことはあまりないだろう。
「左の前歯だけ、しみるのか?」
奥田が聞くと、沙紀ははっとした顔をした。
「そういえば・・・このへんだけかも」
「明日、亜衣と一緒に歯医者さんで見てもらうといい。」
「いいよ、明日は隣の図書館に行きたいし。」
「でも、虫歯は早いうちに治さないと大変だぞ・・・まあ、いい、気をつけなさい。行くんだったら、お父さんが友達紹介してやるから。単身赴任は9月で終わるからな。」
一度、歯科医院をたたんでアメリカに留学していた荒井は、最近、奥田の家のそばでまた開業したらしかった。
「平気だよー」
沙紀は笑い飛ばした。
「お父さん、歯みがきしてきたよ。」
先にアイスを食べ終わった亜衣が、歯ブラシを手に待っていた。
「よし、じゃあやろう、沙紀も油断するなよ」
リビングへ移動し、亜衣の頭をひざにのせる。歯磨きしたと言ったが・・・あちこちに歯垢や食べかすが見える。
「亜衣、もっとしっかり磨きなさい」
磨いてもお前はちゃんと虫歯になるんだから・・・奥田は心の中で思った。
その夜、洗面所をのぞくと、沙紀が鏡の前で、デンタルミラーを使って一生懸命歯を見ていた。
「どうした、気になるところでもあるのか?」
奥田が後ろから声をかけると、沙紀はびくっとして振り向いた。
「ううん、見てただけ。それに、やっぱり、なんともないみたい。歯科検診でも何も言われなかったしね。」
「ホントか?パパに見せてごらん、ほら、いーっ」
「えー、なんだか恥ずかしいなあ・・いーっ」
しぶしぶ顔を上に向け、口を横に広げて開いた沙紀の唇を少しめくりながら、奥田は片手で、鏡の横につけたスポットライトのスイッチをさぐり、ライトをつけた。なつきに、鏡の前で「診察」をして、恥ずかしがる姿を見るためのものだ。かなりの明るさがある。
さっき、沙紀が押さえていたあたりの歯・・・左上2番・3番をチェックする。普通の電気では、なんともないように見えていたが・・・強い光を当てると、2本の歯の間に黒ずみが透けて見えた。特に2番・・・
「うーん・・・」
「な、なに?」
「綺麗な歯だ。なんともないな。」
「もう、やだ、脅かさないでよー」
奥田は、ここは見逃すことにした。今、勝手に治療されても、レジンで元通りに治るだけだろう。無意味だ。
「ま、早く寝ろよ。」
「おやすみなさーい」
その夜、奥田は、沙紀が前歯に大きな虫歯を作り、「いやぁぁっ私の歯がぁ・・・っ」と泣き叫んでいる夢を見た。
次の朝。亜衣の予約は9時半だ。8時に沙紀と亜衣を起こし、朝食を食べさせる。パンに塗るチョコレートクリームを出しておいたら、沙紀も亜衣も、たっぷりと塗りつけて食べていた。
9時過ぎに、亜衣を連れて、いつも仕事に向かう地下鉄に乗った。9時半きっかりに、後藤歯科の扉を開ける。
「急にお願いしてすみません」
すっかり顔なじみになった、受付の素子に挨拶する。
「いえいえ。そのまま診察室にどうぞ。」
奥田は、亜衣と一緒に、診察室へ入った。衛生士が、亜衣を治療台に座らせ、エプロンをつけてくれた。
「いがっ、んがっ、あががが」
「原田さーん、我慢してくださーい、もう少しですからねー」
「んんー!んんー!んはぁー!んんんっ!」
ふと隣の治療台を見ると、部下の原田が治療を受けていた。支店内きってのイケメンと評判であるが、顔を歪め、うめき声を上げながら治療されている。根治中らしい。首を伸ばして、カルテを覗き見ると・・・ずいぶんとひどい歯の状況である。28歳なのに、欠損してブリッジもあるようだ。前歯が全部差し歯なのは知っていたが、事故かなにかかと思っていた。この様子だと、虫歯のせいだろう。今回も、急性歯髄炎でかけこんだようだ。
「んぁあああ!あが!いはぁああ!」
「どうしてこんなになるまで放っておくんですか。原田さん、御自分の責任ですよ。」
「んんぁああ、はああああ」
男の治療ってのは、どんなに痛がってても興奮しないもんだな、と奥田が妙に感心して、冷ややかに見ていると、亜衣が奥田の手をつかんだ。
隣で、大人の男が痛がって叫んでいるのを見て、怖くなったらしい。
「はは、大丈夫だよ。」
奥田は亜衣に、根拠なく頷いて見せた。
原田はその後、10分ほどうめき続け、ようやく治療台から解放されたときは、汗ぐっしょりになっていた。こちらを見ている奥田に気付くと、ばつの悪そうな顔になった。
「お恥ずかしい・・い、いつからいらっしゃったんですか?」
「お疲れ様だったな」
「はあ、どうも・・・歯だけは昔から弱点なんすよ・・・」
原田はそう言って、診察室を出て行った。
後藤が、手を洗ってから亜衣のもとにやってきた。
「えーと、奥田、亜衣ちゃん。歯が痛いんだって?」
はい、と亜衣が小さな声で答える。
「じゃ、見せてもらおうかな。椅子倒しまーす。はい、頭ここにのせてね、あーん。」
まだ大人用の治療台には少し小さい亜衣は、椅子が倒されてから、一生懸命ずり上がって、ヘッドレストに頭をのせ、口を開けた。
「どこだっけ?えーと、右上ね・・・」
さっき、奥田が記入した問診票を見ながら、後藤が亜衣の歯を診察し始めた。
「うーん、これ・・・痛いかな・・・?あー、遠心側ね、うん、こりゃひどいな・・・抜髄かなこれは・・・」
亜衣が「ひどい」という言葉を聞いて、不安そうに奥田を見上げる。後藤はオフィスビルで開業しているため、小児の治療にはまったく不慣れであった。
「奥田さん・・・どのくらい通えます?お嬢さん、旅行なんですよね」
「長くかかりますか、やっぱり」
「そうですね・・・たぶん、神経を取らないといけないので。って、奥田さんは歯が丈夫だからお分かりにならないですよね・・ま、普通の虫歯の治療よりやや大掛かりなんです。」
もちろん歯の治療については専門家並に詳しい奥田だが、娘のことが心配な親の顔をして聞いておく。
「大掛かり・・ですか・・ちゃんと治りますかね・・あんまり痛かったりすると可哀想なのですが・・」
「痛みは、そうですね・・やはり神経を取るとなるとそれなりに・・」
横で衛生士の素子が辛そうに頷いているのが奥田は気になった。