三田亜希子、29歳。とある女子校で、日本史の教師をしていた。
職場では、そろそろ新人とは程遠くなってきて、面倒な仕事も多く回ってくるようになり、
プライベートでは、最近、しばらく付き合っていた人に振られてしまった。
そんなわけで、公私ともにあまり順調とはいえない日々を送っていた亜希子だが、担任として受け持っている高2の修学旅行の出発の日の朝、異様に早く目が覚めた。
・・い、イタタタタ・・・・
顔をしかめ、思わず、両手で左頬を押さえる。よりによってこんな日に、歯が痛み出したのだった。
引率教師が、修学旅行を欠席というわけにも行かない。しかも理由が歯痛では・・・
せめて痛み出したのが昨日のうちなら、歯医者にも行けたのに・・・
亜希子は、生徒と違って、先生は大変なんだから、と、誰ともなしに文句を言い、あわてて、痛み止めを探し出し、水で流し込む。
幸い、痛み止めは効いたようだ。ぼわーん、となんとなく重い感覚があるものの、激しい痛みはおさまった。
亜希子は、救急箱や冷蔵庫、机の引き出しや洗面所などに散らばっている痛み止めをかき集めると、旅行準備に加えたのだった。
そんなふうにして始まった修学旅行は憂鬱だった。あちこちで生徒の数を数え、確認しなければならない。うるさい盛りの女子高生ばかりである。
常に飲んでいる痛み止めで少し頭はボーっとしているし、徐々に痛み止めを飲まなければならない感覚も短くなっている気がした。
そんな3日目の昼。これから船に乗って、瀬戸内海のクルージングに出かけなければならない。そろそろ痛み止めも少なくなってきたというのに・・
はあっ・・とため息をついていると、A組の生徒が亜希子を呼びに来た。
亜希子のクラスの藤井理緒が、前歯が取れてしまって動揺している、というのである。
取れた?折れたの間違いかしら・・・事故だとやっかいだわ・・・
そう思って、理緒の歯を見てみると、たしかに、「取れた」ようであった。
どうやら前歯を差し歯にしている治療中らしい。理緒はたしか、歯医者の娘だったと思うけど・・
ふと、亜希子の頭にいい考えが浮かんだ。ここに残って、理緒を歯医者に連れて行く役目ができれば、亜希子も歯医者に行って、痛みを止めてもらえるではないか!
亜希子は、修学旅行の責任者である教頭に相談しに行き、「生徒を歯医者に連れて行かなければいけないので」亜希子は付き添いのために残る、ということにしたのであった。
「すみません、先生」
理緒は、自分のせいで亜希子が残らなければならなくなったと思って、恐縮していた。
「いいのよ。」
むしろ有難いわ、と亜希子は心の中でつぶやいた。
しかも、宿で歯医者はないかと聞くと、近くの歯科はたいてい、水曜日の午後は休診だと言われたが、
幸い、藤井理緒の父親の後輩が開業しているというみなと歯科に電話を入れると、特別に診てくれると言う。
ホント、私もついてるじゃない・・?
亜希子は、不謹慎にも、歯科の娘である理緒の仮歯が取れてしまったことに感謝していたのだった。
みなと歯科で、理緒が診察室へ入ると、亜希子は待合室のソファに座った。することもなく、置いてある雑誌をめくる。
あ、イタタ・・・
痛みがまたぶり返してきた。さっき、お昼に薬飲んだばっかりなのに・・
亜希子は、左頬をさすりながら、
藤井さん、早く出てこないかしら・・・
と、理緒を待った。
ほどなくして、理緒が戻ってきた。
「お待たせしてすみません」
やっと来た!待ち構えていた亜希子は、すぐに立ち上がった。
「そう・・じゃ、今度、藤井さん、ちょっと待ってて・・・長くかかるかもしれないけれど」
「え?」
「私・・実はね、ずっと歯が痛くって・・ちょっと診てもらってくるわ」
そう言うと、左頬に手を当てたまま、亜希子は診察室へ入って行った。
突然現れた亜希子に、鎌谷は一瞬、怪訝そうな顔をしたが、亜希子が頬に手を当てているのを見て、察したらしい。
「もしかして、先生も何か問題ありですか?」
「はい・・実は数日前からずっと歯が痛くて・・修学旅行の引率中なので治療にも行けなくて」
痛くなる前に、いくらでも治療に行けただろ・・
鎌谷は、やれやれ、とため息をついた。
「でも、今は他の生徒たちは船の上で、私は藤井さんの付き添いのためだけにここに残っているので」
そう言うと、亜希子はスタスタと鎌谷の居るところに来て、治療台に座った。
おいおい、まだ俺は診ますともなんとも言ってないぞ・・
鎌谷はびっくりしたが、さすがにここまで来られては、治療台から降りろとも言えず、仕方なく、
「じゃあ・・診ましょうか・・」
と言って、治療台を倒して、自分も術者用の椅子に座ったのだった。