「山端女子学園 寮生活の手引き」より
第3章 歯科診療室
学生生活で一番大切なことは何でしょう。健康です。体の健康はもちろんのこと、当学園では、歯の健康もそれ以上に大切であると考えています。特に、中学・高校時代の歯の健康は、その後の人生にも関わってくる、重要な問題なのです。しかし、中学・高校時代は、歯を健康に保つことが大変難しい時期でもあります。小学校時代よりも生活は自由になり、食事のコントロールは難しくなる一方、やりたいことも多くなってきて、忙しくて歯のケアのために取れる時間は少なくなってしまうでしょう。そこで、当学園では、寮生活のメリットを活かして、寮内に歯科診療室を設置しています。これは、全国的に見ても大変珍しいものですが、皆さんの歯の健康を守るためには素晴らしい設備です。
歯科診療室では、定期的な歯科検診を行うほか、何か異常が見つかった場合には、即座に治療に入れるような体制を整えています。歯科の先生と衛生士の先生各1名が常駐して、放課後や週末、必要な場合は登校前や授業中にも、いつでも治療をしてくださいます。ただし、全校の皆さんのための診療室ですので、治療のスケジュールは診療室と生活指導部で決めたものに従っていただきます。

「生活指導部からの注意」より
第5章 歯科関連
全校生徒の皆さんは、学年、クラス、の他に、「歯科ケア優先度」が決まっています。
・優先度は、入寮前歯科検診の結果で設定されます。基準は下記の通りです。
SS:要治療歯が12本以上か、C3以上の虫歯が4本以上
S:要治療歯が9本以上
A:要治療歯が6本以上
B:要治療歯が3本以上
・優先度が高い生徒は、治療頻度・検診の回数などが異なります。
SS:2日に1度以上の治療が受けられます。1ヶ月に1回、検診を受けて下さい。
S:3日に1度以上の治療が受けられます。3ヶ月に1回、検診を受けて下さい。
A:5日に1度以上の治療が受けられます。4ヶ月に1回、検診を受けて下さい。
B:検診の回数は、優先度の設定の無い生徒と同じく、半年に1回ですが、その際にクリーニングも受けられます
。 ・入寮前歯科検診の他にも、通常の検診の結果次第で、優先度は上下します。特に、急にたくさんの虫歯が見つかった場合、ES(緊急S)として、SSよりも優先度が高くなります。ESについての詳細は略。
・その他、生活上で注意していただきたいことがあります。SS以上のの生徒の皆さんは、歯のために、食事にデザートが付きません。SS以外の皆さんもきちんと協力して、自分の分を分けてあげたりしないで下さい。

入寮前歯科検診で虫歯(処置・未処置とも)が見つからなかった皆さんは「模範歯生徒候補」になります。よりいっそう、歯のケアを頑張ってください。希望すれば、診療室でのクリーニングも受けられます。その後一年間、虫歯がなかった場合は、「模範歯生徒」と認定されます。全校の皆さんの模範としての活動が求められます。

「生活指導部・歯科調査部内部文書(部外秘)」より
模範歯生徒(候補)の扱いについて
当学園では、歯質の丈夫さ・カリエスリスクなどについての調査も重要視している。模範歯生徒(候補)は、貴重な調査材料であるから、慎重な取り扱いが求められる。
・クリーニングを希望してきた生徒の中からランダムに、もっとも清掃が甘い部分と十分にできている部分の2ヵ所以上に探針で傷を付ける。COと診断し、1ヵ月ごとの検診を命じること。同時に、スクロース添加洗口液を処方し、一日3回の使用を指導すること。以降経過観察。ただし、半期に1名までとする。
・聞き取り調査の結果、遺伝的にカリエスリスクが低いと思われるもののうち1名に、就寝前口腔内消毒タブレット(スクロース添加)を処方。1ヶ月ごとに経過観察。
・その他、必要に応じて、調査方法を考案し、実施する。

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「ん・・あっ、やばい、遅刻しちゃう。」
黒崎莉奈は、あわててベッドから飛び起きた。
寝坊しないって点だけは、二人部屋の方がいいかも・・・

たいていの寮生は二人部屋で生活しているが、「模範歯生徒」、生徒たちの間での通称エンティ(エンジェルズティースの略らしいが・・)である莉奈は、特別に寮の最上階に個室を与えられていた。最上階はエンティ達の個室だけのフロアであり、広々としたラウンジもある。食事は食堂でなくラウンジで比較的自由に取ることが出来、寮の舎監の小沢の目も比較的甘い。いわば、特権階級のようなものなのであった。学年が違っても、仲良く過ごすことができ、居心地も良い。
なんとか制服に着替え、ラウンジに朝食を取りに出た莉奈を、すでに朝食を取っていた他の生徒たちの笑い声が迎える。
「また寝坊?」
「このときだけは、二人部屋がいいって思うわ・・」
と答えた莉奈の言葉に、全員が凍りついた。
「な、何言ってるのよ・・」
「正気?」
「縁起でもないわ・・」
「そ、そういうつもりじゃないけど!」
「今年はなんだか、下界に堕ちちゃう子が多かったからね・・怖いわ、ホントに。歯のケアには気を付けないとね。」
模範歯生徒たちは、下のフロアを下界と呼び、そこに降ろされることを何より恐れているのであった。
最上階には40部屋が用意されているのだが、現在、最上階に住んでいるのは25人。だいたい、毎年2,3人ずつ脱落していくのが普通だったが、今年は秋休み明けの時点ですでに5人が抜けていたのである。
高校1年、学園では4年生と呼ばれる莉奈の場合、中学に入ったときの模範歯生徒候補は全部で15人。そのうち、2年生になったときに模範歯生徒になれたのは10人。3年生のときには6人に減り、4年生になるときには5人になっていた。
自然と話題は、最近脱落した生徒たちのことに移っていった。
「澄香は?」
「小沢先生が言ってたけど、フッ素のうがい薬ちゃんと使ってなかったみたいだって。部屋から、使ってないうがい薬が見つかったんだって。」
「やっぱり、言われてた通りにちゃんとしないとダメね・・」
「それよりカンナ、一体何があったの?」
「そうよ、家族にもほとんど虫歯のある人は居ないから大丈夫って、言ってたのに。」
「ああ、カンナはね・・夏休みに、アメリカにホームステイに行ったじゃない?」
「そういえばそんなこと言ってた気もするわ」
「そこで、食べ物が口に合わなくて、ほとんどいつもお菓子ばっかり食べてたらしいわ。」
あぁ・・と、一同が顔をしかめる。エンティなのに、なんでそんな馬鹿なことを。
「たしかに、なんか太ってもいたものね・・」
夏休み明け、10日間ほど、このラウンジでも見かけたカンナは、たしかに太っていた。その後、歯のクリーニングに出かけたカンナは、そこで虫歯が発見され、下界に引っ越していった。
「しかも、見つかった虫歯が6本だったらしくて、ESよES。」
「なんだっけ、ESって?」
「緊急Sよ。歯科ケア優先度の。毎日治療されたりするんじゃなかったかしら?」
「あら、でも、毎日治療されたらもう治ってるんじゃない?昨日、カンナが診療室の待合室に入って行くの見たわよ。」
「たしかその後、毎月歯科検診があるのよ」
「検診にしては、ずいぶん辛そうな顔してたけど・・・」
「あんなところ、ほとんど縁がなかったはずなのにね・・」
「ああ、怖いわ、もうやめましょ、あ、早く戻らないと。歯磨きの時間が無くなっちゃうわ。」
模範歯生徒たちは、首を振って、授業が始まるまで、念入りな歯の手入れをするために各自の部屋に戻った。

莉奈も、自分の部屋の洗面所で、一生懸命歯を磨いていた。
実は、さっきラウンジではとても言い出せなかったが、先月、夏休み明けのクリーニングのために歯科診療室に言ったところ、COの歯が何本かある、と指摘されたのだ。忘れもしない、9月の初めなのにやけに寒い日だった。
・・・
「あの・・4年生の黒崎莉奈ですけれど・・クリーニングお願いします」
「あ、模範歯生徒の黒崎さんね。わかりました・・・えっと、30分後にもう一度いらして下さい。」
「はい。よろしくお願いします。」
いつもは、すぐにやってくれるのに・・衛生士さんが忙しいのかしら。
莉奈は首をかしげながらも、部屋に戻った。
30分後、診療室に行くと、クリーニング用のユニットに案内された。治療用のユニットとは別の部屋に、クリーニング専用のユニットが用意されているのだ。
いつも通り、衛生士にクリーニングをしてもらう。クリーニングをしてもらうと、いつもよりも歯がツルツルとして気持ちがいい。
口をゆすいで、お礼を言って立とうとすると、
「あっ、ちょっと待って。もう一度寝てもらえるかしら。」
と衛生士に止められた。
親知らずはもう抜いてもらったはずだし・・・
前に同じように止められたときは、親知らずが生えかけていたときだったのだ。
怪訝に思いながらも、莉奈は再び倒されていくユニットに背中を預けた。
「はい、あーん・・」
かすかに不安に思いながら口を開ける。
「んー・・」
カチカチと歯にミラーが当たる感触と、衛生士が発する声があまり明るくないのが気になる。
まさか、虫歯なんてことは・・ないわよね・・
「ちょっとそのまま待っててね」
ミラーを莉奈の口から抜いた衛生士は、莉奈をそのまま残し、クリーニングルームを出て行ってしまった。
な、何?・・・もしかして・・・モデルの話?
現在撮影中の映画の1シーンで、主人公が大口を開けて中を見せる場面があるのに、主人公の女優が歯が悪いので、歯の吹き替えモデルを探していると言う噂が校内で流れていたのである。莉奈はその女優に似ているとラウンジで言われたばかりであった。
さっきの30分は・・もしかして・・・関係者の人を呼んだとか??
虫歯という可能性を考えたくなくて、莉奈は楽しい想像に少し酔いしれた。
ガチャリ。
しかし、クリーニングルームに入ってきたのは、映画の関係者ではなく、歯科医の恩田と衛生士であった。
「・・ちょーっと見せてくれるかなー、あーん」
妙に気遣うような恩田の口調に、ふたたび不安が戻ってきた。莉奈はしかたなく口を開けた。
「ふむ・・・」
ミラーはあちこちに当てられ、恩田もいろいろ覗き込み・・徐々に顔が難しくなっているような気がする。

ぎゅっ・・莉奈はハンカチを両手で握り締めた。
恩田はミラーを左手に持ち替え、カチャカチャカチャ・・という音の後、右手に先の尖った針のようなものを持って、それを莉奈の口の中に入れた。直後。
カリカリ・・カリ・・・
歯が引っ掻かれている感触があった。
やめて・・そんなことしたら・・私の歯に傷が付いちゃう!!
「カルテある?」
「はい、ここに。」
「ん・・」
恩田は、莉奈の口に左手のミラーを入れたまま、右手の探針をペンに持ち換え、カルテに何か書き込んでいる。
その後再び、探針を持って、
カリカリ・・カツカツ、カリ・・カリ・・・カリッ。
「んー・・」
再びカルテに書き込み、また探針を・・
カリカリ・・
カッカッカ・・
莉奈は、不安で手が震えてくるのを感じていた。
ようやく、左手のミラーも抜かれ、口を閉じた莉奈は、口の中がカラカラに乾いていることに気付いた。
こくっ、と唾を飲み込んで落ち着こうとしたが、なかなか口の中は潤ってこない。
カルテから顔を上げた恩田が、口を開いた。
「黒崎さん。」
「・・はい。」
自分でも声が震えているような気がした。
「あのねえ、黒崎さんの歯、COがいくつか見つかったよ。」
「し、しーおー・・」
「虫歯じゃないんだ、ないんだけどね。」
「あ・・虫歯・・じゃない・・ん」
虫歯じゃなかった・・と、莉奈は安堵の声を漏らしたが、恩田にさえぎられた。
「でもね、虫歯になりかけだね。非常―に危険な状態。1本じゃないしね。」
「・・・」
莉奈は、今にも泣き出しそうな顔になった。
「黒崎さんはもう4年生の模範歯生徒だし、なんとか食い止めたいと思うのは僕達も同じだから。虫歯に進行させないためになんとかしよう。ね?」
恩田の言葉に、莉奈はすがるようにこくこくと頷いた。
「じゃ、まず・・薬を塗ろう。あーん。」
莉奈はお願いします、と言わんばかりに大きく口を開いた。衛生士が、小さなビンを差し出し、恩田はそこからペースト状のものをヘラで掬い取って、先ほど引っ掻いた部分・・上下、前歯奥歯合わせて8ヶ所に丁寧に塗り込んでいった。
そんなにたくさんあるの・・・・どうか薬が効きますように・・・
莉奈は祈るような気持ちで手を組み合わせ、目をつぶった。
「はい、いいよ。このあと1時間はものを食べたり、口をゆすいだりしないように。」
「はい。」
ちょっと薬がザラザラする・・
莉奈は思いながらも、起こされた治療台に座って、
「あの、他にどうすれば・・・」
真剣なまなざしで恩田をじっと見つめた。
「また1ヵ月後に様子を見せに来てください。薬もまた塗りましょう。」
「1ヵ月後でいいんですか?薬、もっと塗った方がいいなら・・」
莉奈は必死の顔で聞いた。
「そうだね・・でも、多ければいいというものじゃない。じゃ、まあ、2週間後にもう一度来て貰いましょうか。」
「はい。」
少し安堵の表情を見せた。
「あと、普通よりも効果の高いうがい薬を出しますから。それできっちり、1日3回、うがいをして。」
「はい。」
・・・
その効果の高いうがい薬がこれだ。以前よりも少しトロっとしているような気がする。甘味も強い。歯を磨き終えた莉奈はそれを口に含むと、丹念に歯の間も通るようにきっちりうがいをして、ぺっ、と吐き出した。
今日の放課後が1ヵ月後の検診だ。2週間前の薬の塗布と検診では、まだ大丈夫だが、良くはなっていない、と診断されたのだが。今回も大丈夫でありますように・・・
莉奈はそう祈るような気持ちで、実家から持ってきた、北欧製のフッ素とキシリトール入りのガムを口に放り込んだ。毎朝と寝る前の習慣のようなものだ。

同じ頃、二部屋隣で、篠原千佳も同じく、「効果の高いうがい薬」で丹念にうがいをしていた。
千佳も同じ4年生で、ほぼ2週間前、どういうわけかクリーニングに呼ばれた後、莉奈と同じ診断を受けたのだった。
絶対に・・他の皆には言えないわ・・・どうしよう・・このまま虫歯になってしまったら・・・
祈るような気持ちで、念のために2度うがいをすると、授業に出るために、鞄を持って寮の部屋を出た。

授業中も、莉奈は歯が気になって、少し行儀が悪いが、舌で歯の表面を舐め回していた。
そんなひっかかるようなところも無いと思うんだけど・・・
歯の前面、頬側も丹念に舐める。
「黒崎さん?何か食べてらっしゃるの?」
飴でも舐めているように見えたのか、教師から声が飛んだ。
「あ、い、いえ・・歯が磨けているか気になって・・」
莉奈の返事に、教師は苦笑した。
「まあ、あなたは大事な模範歯生徒ですからね・・でも、授業にも集中して下さいね」
「すみません・・」
莉奈は肩をすくめた。このクラスでは唯一の模範歯生徒である莉奈は、なんとなく微妙な雰囲気を感じていた。特に、元・模範歯生徒たちからの視線が冷たいような気がする。
と、そのとき、コンコン、とドアがノックされ、小沢が顔を出した。
「小村さん。治療ですよ。先生、すみませんね。」
莉奈の隣の席の小村あかねが、ハンカチを手に、うつむきながら机の間を小走りで抜けて、教師に一礼すると、ドアの向こうに消えた。
一瞬、教室がシーンとした。授業中に治療が組まれるのは、かなり優先度の高い生徒だ。
莉奈は軽くため息をついた。あかねも、今年の春まで模範歯生徒の仲間だったのに。元・模範歯生徒たちは、どういうわけか、一度虫歯を作った後、歯の悪くなり方が激しい・・・ような気がする。詳しい歯の状態を知るチャンスも無いけれど、たとえば3年生の途中で「脱落」した生田直子は、このあいだの夏休み中に、前歯の2本が差し歯になった。去年の途中まで、虫歯になったことの無かった彼女が、学年の誰よりも早く。 ちなみに、なぜ直子の差し歯がわかったかと言うと、この寮内歯科での治療の場合、前歯の治療でも仮歯を作ってもらえないのである。学校に通って授業を受けるだけの生活で、特に他人の目を気にする必要がないのだから、仮歯は必要ないという言い分である。そこで、差し歯にする生徒は、治療中、マスクをするくらいの対策しかできず、食事や歯磨きなど、口を使う際には周囲からの興味と憐憫と軽蔑の視線に晒されることになるのだった。

放課後、莉奈は寮の部屋に戻って、丁寧に歯を磨いていた。小村あかねの言葉が耳に甦る。
今日、あかねは、治療から帰って来ると、泣き腫らしたような目をして、さらに頬を押さえて、ひどく辛そうにしていた。
休み時間に心配して声を掛けると、あかねは、「なんで私が・・」と泣きながら、虫歯が発見されたときの話を始め、それはクリーニングに行ったのがきっかけだった、と言いだしたのである。そこで虫歯のなりかけが見つかり、薬を塗って様子を見ていたがその甲斐なく・・・というものだった。まさに今の自分の状況だ。
ダメ・・そんなの嫌・・・
莉奈はさらにもう一度、歯磨きを始めた。