金曜ワインの会。
仕事を離れ、純粋にワインや食事を楽しもう、という趣旨の会である。しかし・・・その主要メンバーの実体は歯フェチの集まりであった。治療フェチ、差し歯フェチ、未処置歯フェチ、など若干の相違はあったが、金なら出す、とにかくホンモノを、普通の女性の治療を、最高の場所で見たい。そんな趣旨で集まった仲間で始めたのだった。彼らは雑居ビルに、特別の歯科治療室を作った。そのビルにも歯科医院としても不似合いな空間。診察室も間接照明の、治療ユニットのカタログにでも載っていそうな、つまり実際にはありえないと思われるようなインテリアであった。
診察室で目立つのは治療ユニット正面の鏡。鏡の向こう側にも部屋があり、飛行機のファーストクラスのようなシートが8台並んでいる。その部屋の正面は、治療台正面のマジックミラーで、治療台全体を脚側から眺められるようになっている。すぐ横の壁には大型のプラズマディスプレイ2台。1台には治療台のライトに仕込まれたカメラで患者の顔全体が、もう1台は、ミラーに仕込まれたカメラで治療される歯が映し出されるという仕組みである。その他の備品は、まず、臨場感あふれる音声システム。術者の位置での音声、後ろで付き添う保護者の位置での音声の他、隣の治療台からの聞き耳モード、治療される患者の臨場体験モードも選べるようになっていた。そのほか、写真やレントゲンが診察室から直接プリントアウトされるプリンターも備え付けられている。
治療ももちろん、ホンモノの歯科医師と衛生士が担当する。衛生士は、ワインの会の会長藤井の妻、典子であった。歯科医師は、会員の高良。高良は、もともとは普通の歯科で雇われて働いていて、日曜日だけこの治療室で治療をしていたが、このワインの会が払ってくれる報酬が良いので、最近普通の歯科の仕事を辞めた。その代わり、平日の夕方や土曜日も「治療」・・会員達がこっそり見ているという以外は、正当な治療である・・を行えるようになり、会員たち・・見物する側にも、知らずに治療される側にも好評であった。そう、治療される女性たちは、会員の中から選ばれていた。治療したい女性をまず会に誘い、その後治療させる、というやり方を取ることもあった。治療対象の選別と実行は高良の役目だったが、彼は人当たりも外見も、その役割にぴったりであった。
ワインの会では、会合の場では、あえて職業などは明かさないということになっていたが、高良はそのターゲットをさりげなく別の機会に食事などに誘い出し、歯科医であることを明かし、治療、あるいはクリーニングや検診などを受けさせる。高良には独特の嗅覚があるのか、治療の必要があるような女性を選び出してくるのが上手く、そのクリーニングや検診がそれだけで済むことはないのだった。

さて、今回のターゲットは順子。モデルエージェンシーを経営しているという20代後半の女性である。「清楚系の女子中高生モデルが専門です」とのことだが、高良はそんなジャンルがあるとは知らなかった。自身もレースクイーンやモデルをしていたという順子は、治療対象として鑑賞する価値は十分で、ワインの会の治療対象選考ミーティングでも上位にランクされた。高良の読みでは、彼女は歯の間と前歯にいくつかの虫歯を抱えているはずだ。前歯が普通の歯並びなのに天然歯のまま、ということは、さほど売れていたモデルではなかったのだろう。それでいながら業界人意識のようなものを強烈に放っていて、女優さんみたいだ、と会員の間で評される典子と張り合おうとしている感がうかがえる。というわけで、典子による治療中の精神的攻撃も期待できた。

高良は誘いをかけるため、ある土曜日の夕方、順子とバーで待ち合わせた。ホテルのバーではなく、クリスタルガラスの店の奥に最近オープンしたバーだ。相手と関係を持ちたいわけではない高良は、余計な面倒を避けたかったのであった。
飲み始めてしばらく経って、順子があらっ?という顔をした。
「高良さん・・歯医者さん行かれました?」
「え?あ、ああ、わかりますか」
「ええ、匂いが。」
「まいったな、あの匂いって染み付いて取れないんですよね・・こういうときは仕事を離れたいのに。」
高良は困ったような顔をしてみせた。実際には、典子が「歯医者の匂いのアロマオイル」という、誰も喜ばないであろうものを調合したと言うので、ちょっとつけてきただけである。意外と効果があるようだ。
「じゃあ、高良さん、歯医者さん?」
「ん、そうなんです。あまり好かれる職業じゃなくってね。」
「いえ、そんな。開業してらっしゃるの?」
「小さいですけどね。治療台も1つ。スタッフも衛生士が一人居るだけです。」
「営業時間・・って言わないわね、診察時間は?」
どういうわけか、順子は身を乗り出してきた。自分から治療して欲しいと言うのだろうか。だとしたら話が早いが・・
「ちょっと変わってるんだけど、時間は自由、っていうのかな、抱えてる患者さんも少なくて、なるべく患者さんに合わせて都合のいいときに、必要なときに治療しますっていう方針なんですよ。場合によっては、平日の夜でも、週末でも。」
「あら・・すばらしいわ。じゃあ頼みたいんだけれど」
「都合が合えばいいですよ、どこか痛む歯でも?」
今回は楽勝だ、と高良は心の中でニヤリとした。
「ううん、私は歯は丈夫だから。」
そう思ってると危険ですよ、それに見たところちょっと虫歯があるようです、とたたみかけようとして遮られた。
「私じゃないの。うちで抱えてるモデルの子よ。売れるようになってきて、今が売り込み時なんだけど、歯が痛むらしいの・・でも仕事がたてこんでて歯医者がやってる時間になかなか行かれなくて。もう、なんで売れる前の暇なときに行っておかないのかしら。気をつけるべきだったわ。ま、とにかく、今、痛み止めでなんとか抑えてる状態なの・・どうかしら、お願いできるかしら?」
少しあてが外れて、高良は、うーん、という顔をしてみせた。中学生だったりすると会員も嫌がるだろう。
「もちろんなんとかしてあげたいところですが・・実はあまり、子供の治療って慣れて無くて。」
「それなら大丈夫よ。もう、来年高校卒業。売れてきたとこだから、高校1年生ってことにしてあるけどね。ホントは3年生。」
・・それならいいか。ミーティングでも、ちょっと若い子も見たいね、という話は出たのだ。患者がワインの会メンバーだけに、未成年は望めないので、せめて女子大生なんかどうか、と話していたところである。
「それなら大人ですね。いつが良いですか?早い方がいいですよね・・」
スケジュールを調整の結果、早速明日、彼女の早朝撮影が終わってから、午前10時からということに決まった。

家に帰り、会長の藤井に連絡を入れた。患者が変更になったことと、女子高生であることを伝えると、藤井は喜んだ。電話をかわった典子も喜んでいる。なぜこの夫の趣味を、妻の典子が認めているのか高良は長い間理解できなかったが、典子も同じく歯科関係のフェチなのだそうだ。そもそも歯フェチというものがよくわからない高良には、仕事になるならば、まあどうでもよいことであった。
早速メンバーに連絡が回され、7人の枠は入札で決まったそうである。参加費の3分の1と決まっている高良の報酬は、今回は多くなりそうだった。

翌日、典子と高良は午前9時に集まり、治療室の準備をした。典子は嬉しそうだ。
「女子高生ですよ先生。んー、楽しみ。」
仕事中の典子は、冷たく厳しい衛生士を演じていることが多いが、実は明るい性格なのだ。
「でもホントは、順子さんのあの虫歯もちょっと興味あったんですけどね。」
「私は歯は丈夫だから、って言ってたよ、ありゃ気付いてないよ。」
「あー。過信は危険ですね。ま、そういう人の方が、治療が楽しみってものです。そのうち沁みるようになるはずですよね。」
「今日あんまり怖がらせたら、自分の治療ここでしようって思わないよ。」
「そこはうまくやります。今日は私は優しいモードで行きますよ。患者が女子高生だからその方が受けもいいですよ。先生はそのままでいいです。」
「へえ。そういうものなの。」
歯フェチのツボというものがあるのだろう。まあ何であれ、高良はただ治療するだけで良いのだ。
待ちきれないのか、会員達が9時15分過ぎから集まり始めた。皆一様に興奮しているようだ。
「いやあ、さすがに女子高生が見られるとは思わなかったよ。」
「ありがとう、高良くん。」
口々に高良に礼を言いながら、鏡の向こうの部屋、「天覧部屋」に消えていく。

10時を5分ほど過ぎて、順子が現れた。隣に、右頬を押さえてうつむいた少女を伴っている。撮影帰りのせいか、制服姿だ。たしかに「清楚系の女子高生」で、ややスカートは短いものの、高良が高校生だったころの「あこがれの女子」のイメージに近い雰囲気がある。
「あの・・遅れてすみません。撮影が長引いちゃって。こちらが、お話した子・・杏奈です」
「よろしく・・お願いします」
杏奈と呼ばれた少女は頭を下げた。さらさら・・と長い髪がこぼれる。少し涙声だ。よほど痛むのだろう。来てから効き目の強い痛み止めを出すので、今朝は痛み止めを控えるように、と順子に言っておいたのだ。
「こちらこそ。ではさっそく、こちらへ。」
高良は、2人を診察室に通した。
「わぁ・・オシャレですね」
順子が感激の声を上げた。順子のような女性にはこの診察室が受けがいいことは計算済みだ。杏奈も少し周囲を見回したが、ふたたび辛そうにうつむいてしまった。
典子が出てきて、順子と挨拶を交わした。順子の整えられた眉がかすかに片方だけ上がる。
「ああ、昨日は言い忘れてました、たった一人の衛生士が藤井さんだって。」
高良が言うと、順子は微笑んで典子に向いた。
「びっくりしましたぁ。典子さんって、お料理とか家事に命かける奥様、ってイメージでした。働いてらっしゃったんですね!」
どういう意味なの、という不快感を胸にしまって微笑み返した後、典子は杏奈を治療ユニットに座らせ、エプロンをかけた。
「苦しくないかしら?よかったらこれ、使ってね。私からのプレゼント。」
杏奈に優しく声をかけ、小花模様のハンカチを手渡す。ちょっとした小道具である。清楚な女子高生にはハンカチが似合う。という、今日の参加会員の持込だ。
「リラックスできる香りが沁み込ませてあるのよ。」
典子は微笑んでそう言って、治療ユニットを離れると、痛み止めのボルタレンとぬるま湯を入れたコップを持って戻ってきた。
「これ、飲んで。売っている痛み止めより効き目があるわ。」

「始めましょうか。」
高良が、術者用の椅子に座り、典子に手渡された、問診票をはさんだボードを構え、ペンを手にする。女子高生の肉声でその問診票の答えを聞きたいというリクエストがあったのだ。
「あ、ところで、時間は?どのくらい大丈夫ですか?」
順子に聞く。
「そうですね・・杏奈は今日はもう仕事もありませんので、長くても。次の予定も決めにくいので、できるときになるべく長くお願いできると・・」
杏奈が、ぴくっと体を固くさせる。相変わらず、右頬に手を当てたままだ。
「そうですか。こちらも今日は予定は無いのですが、まあ痛みが取れれば、その後は様子を見てということで。」
「よろしくお願い致します。ただ・・わたくし、別の子の撮影が入っていまして、あと30分・・長くても1時間くらいで失礼させていただかないと・・」
「あ、それはかまいません。一応、モデルさんということなので・・治療の方針などを決めるところまでは居ていただきたいですが。見た目が重要でしょうし。」
「そうですね。」
「では・・いくつか質問をしてもいいかな?」
「・・はい。」
相変わらずの涙声で、杏奈が答えた。
「痛む歯が・・ある、んだよね、右の・・どこかな?」
適当に丸をつけながら、高良は質問した。
「右・・上の奥です。」
「それはいつ頃から?」
「我慢できなくなってきたのは・・えっと・・10日くらい前からです。」
「ああ、そんなに。でも、その前も、我慢は出来たけど痛みはあったのかな?」
「はい・・半年くらい前から、ときどき。先月からは、ずっと・・ちょっと痛いっていうか・・う・・」
涙声で、ときどき顔をしかめながら話す杏奈。天覧部屋の会員達は食い入るように正面の光景を眺めていた。
「もう、なんでその半年前に言わないの」
割り込んで来る順子を軽く手で制して、高良は質問を続けた。
「歯医者は怖い?治療が痛いとか、注射が怖いとか・・怖い目にあったとか・・」
「もちろん好きではないですけど・・そんなに怖いってわけじゃ・・子供の頃は嫌々でも通ってたし・・でも、自分から行きたくはないです・・恥ずかしいし」
「恥ずかしい?」
「虫歯が・・恥ずかしい」
さすが「清楚系」だと、高良は妙なところで感心した。
「それは大丈夫よ、私たちは虫歯を治すのが仕事だから。それに、虫歯があるよりも、治さないでいる方が恥ずかしいわよ。」
はっ、と典子の方に向いた杏奈は泣き出しそうな顔になり、がっくりとうなだれた。
「治しましょう、ね?治療は少し辛いかもしれないけれど、頑張れるわね?」
典子が、杏奈の顔を覗き込むようにして聞いた。杏奈は、頬を押さえたまま、頷いた。

「じゃ、見せてもらいましょうか・・」
高良が、治療台に向き直った。ウィーン、と静かな音を立てて、治療台が倒されていく。杏奈は、ようやく右頬に当てていた手を外すと、髪を左肩からまとめて前に垂らし、手首のゴムでゆるくしばった。
「はじめは見るだけだからね・・楽にしていいわよ。」
典子が声をかけながら、ライトを点灯し、位置を調整する。杏奈は両手でハンカチを握りしめながら、目を瞬かせながら、少し落ち着かなさそうにライトのネジを見つめたり、左右を見回したりしている。高良は、会員達がその杏奈の不安を楽しめるように、少しの間、カルテを見たりして時間を稼いだ。何度目かに右を見た杏奈の目が、高良の右手のミラーをとらえた。それが自分の顔の上に移動してくるのを見届けると、杏奈は深呼吸して、静かに目を閉じた。
「はい、お口開けて・・・」
高良の声に、杏奈はゆっくりと、控えめに口を開いた。
「もう少し、大きく開けられるかな」
少し大きくなったが、まだ控え目だ。
「もう少し。」
まだまだ。
「杏奈ちゃん、恥ずかしがらないで、もう少し大きく開けてねー」
典子が言いながら、杏奈の下の歯に指をかけ、ぐいっ、と口を開かせた。目を閉じたままの杏奈の顔がかすかに赤くなり、眉根に苦しそうに皺が寄った。
ざっと見たところでは、インレーが2本。最近の女子高生の標準的な状態だ。天覧部屋では、ややがっかり、というため息が漏れた。
上の歯が見やすいように、治療台の頭の方を少し下げ、高良はミラーを右上に挿入した。
6番は、溝がすべて黒く色づいて深く食い込んでいるように見える。頬側の溝はすでに一度レジンで治療されているようだ。歯の形は保たれているので、一見、たいした虫歯に見えないが、エナメル質の黒いような怪しい透明感は、内部がすでに崩壊して、遊離エナメル質になってしまっていることを予感させた。じっくりと6番全体をミラーに映してから、
「痛むのは、この歯かな?」
高良は、6番を優しく、指で少し押さえてみた。
「あ・・あい・・」
ぐいっ、と大きく唇を引っ張られて歪んだ顔のまま、杏奈が声を出した。
「ひどい・・でしょうか。」
後ろから、順子がおそるおそる声をかけた。
「これは・・中で大きく進行している可能性がありますね、詳しいことはレントゲンを撮らないとわかりませんが・・激しく痛むところから言っても、神経を取る治療が必要でしょうね。」
「そう・・ですか。その、神経を取る治療というのは・・」
「神経を取ったあとは、かぶせる治療になります。えーと・・」
典子が、見本としておいてある模型を持ってきた。クラウンがいろいろと嵌められているものである。
「このような、クラウンと呼ばれるものですね。」
フルメタルのクラウンを目にして、順子は眉をひそめた。杏奈は、横目で見て、ひっ、と怯えたような顔になった。胸の中では、放っておいた後悔が嵐のように吹き荒れていることだろう。
「あるいは、こちらのような白いものにすることもできます。費用は多くかかりますが。かぶせものをどうするかは、後で考えておいてください。」
典子がそう言って模型を置きに行き、再び、杏奈の口を開かせた。
高良は、この6番を突き崩すべきかどうか一瞬迷ったが、しばらくはこのままで、他の歯の観察にうつろうかと考えた。視界に、5番と7番のレジンの治療痕が映ったからである。もしかすると、インレーのようには目立たないだけで、治療済みの虫歯は多いのかもしれない。
高良は、杏奈の口を覗き込んだまま、順子に話しかけた。
「ところで、どうしますか、この痛む歯だけ治療しますか、それとも、他の歯も診ておいたほうが?」
杏奈が、不安そうに薄目を開けて、高良の方を上目遣いで見ている。
「・・他にも虫歯、ありそうなんでしょうか・・」
「うーん、そうですね・・・」
高良は言葉を濁した。杏奈の目の不安の色が濃くなっている。
「では・・診ていただけますか。痛み出しそうなところがあれば治療も・・・」
「小さい虫歯なら放っておいて良いということですか?」
「あ・・はい・・いえ、もちろん時間があれば。」
「わかりました。とりあえず、全ての歯をチェックしましょう。・・藤井さん、カルテお願いします。」
「はい。」
「右上から・・7番、レジンで治療済。」
杏奈はどうやら、歯の溝が深い質らしかった。当然虫歯になりやすい。7番も、頬側の溝にレジンが埋められている。
「6番、C3。5番、レジンで治療済・・」
と、5番の溝に沿ったレジン充填を指摘した後、高良はミラーを左手に持ち替え、右手に探針を取った。すでにずっと目を開けている杏奈は、別の器具が口の中に入れられるのを不安そうに目で追っている。
高良は、4番と5番の間に咬合面から見える黒ずみを見つけると、ミラーを左手の中指と人差し指の間にうまくホールドし、唇を親指の横でめくり上げ、探針を歯列の外側から、間に差し込んだ。間が虫歯にやられているらしいのが、ミラーから天覧部屋のモニタにくっきりと映し出された。
「ぁは!」
杏奈が呻いた。
「5番、C2、4番もC2。」
「3番斜線、2番斜線で1番が・・・」
探針が前歯の裏をカリカリと引っ掻いていることに、杏奈は耐え切れない、というように眉根に皺をよせて目を閉じた。
「C1。左に行って1番はC2、」
前歯の虫歯の宣告に、ふたたび薄目を開けた杏奈の目に浮かんでいるのは、さっきまでの不安ではなく、絶望とも思えるような色だった。
順子も、思っていたよりも多くの虫歯が見つかるので、不安そうだ。うちの売れっ子モデルなんだけれど・・・
「2番、C1・・3番斜線、4番斜線・・・5ば・・」
溝が茶色く、一部が黒くなっている。探針で少し引っ掻いてみたが、痛みは無いようだ。
「5番、C1・・6番はインレーで治療済、7番・・レジンの治療痕から二次カリエス、C2。」
ここで一度休憩することにした。思っていた以上に上等だ。
「藤井さん、上の歯の状態は?」
「ええと・・C1が3本、C2が4本と、痛むC3が1本、全部で虫歯は8本ですね・・」
「ああ、8本・・・」
高良は、呟くように言って軽くため息をついて、呆然としている杏奈の顔を見下ろした。
そして、順子を振り返って言った。
「虫歯が8本見つかりました。上の歯は全部で何本かご存知ですか、14本です。」
「半分以上が・・虫歯。ですか。」
順子も、ため息をついている。可哀想だとかそういうことではない。清潔なイメージで売れているのに、お口の中には虫歯がいっぱい・・では困るのだ。歯が痛む中で行われた今朝の撮影も、歯痛では唯一許されそうな、「親不知が生えてきているらしくて」でなんとかごまかしていたのだ。
「そう、半分以上が、治療の必要な虫歯、です。1本は痛む歯ですが、そのほかの4本も痛み出す可能性がある虫歯ですね・・すでに沁みるようになっている歯もあるかもしれない。お仕事も忙しいでしょうが、気をつけてあげてください。」
「はい・・どうもすみません・・」
「杏奈ちゃん、上の歯の半分以上が虫歯なのはちょっと恥ずかしいよ、ちゃんと治そうね。」
高良は再び杏奈の顔に向かって言った。杏奈は顔を歪めて頷いた。
「じゃ、下の歯も見ましょう。お口開けて。今度は最初から、きちんと大きく開いて。」
高良が怒っていると思ったのか、杏奈は、今度は精一杯、ガバッ、と口を開けた。
「はい、左下から行きます・・」
最初から、ミラーと探針を構える。
「7番・・」
溝が黒くなっているのだが、後ろの方は中で少し広がっていそうだ。
「7番はC2。6番、レジン治療の周囲からC2。」
下の歯も、虫歯の宣告が続き、杏奈はまた辛そうに目を閉じ、ハンカチを握り締めた両手が少し震えている。
「5番、斜線・・4番から・・右の3番まで斜線。4番、レジン治療で・・」
4番と5番は間から虫歯だったようで、レジンが詰められているのだが、どちらも溝が新たに虫歯になっている。
「4番、C1、5番もレジン治療済なんだけど・・こっちはC2。6番、インレー治療済、ちょっと二次カリエス怪しいな、レントゲン撮ってから見よう、7番、C2。」
下の歯も、虫歯の宣告が多かったと自覚している杏奈は、おそるおそる目を開けると、高良を卑屈な目で見上げた。
清楚系はそんな目をしちゃダメだよ、と思いながら、高良はまた典子に聞いた。
「藤井さん、下の歯は?」
「下も・・そうですね、C1が1本、C2が4本で虫歯は5本、レントゲンでもう1本増えるかもしれません。」
「合わせると?」
「上と下、合わせると虫歯は13本ですね・・あるいは14本・・・口の中の歯のほとんど半分が虫歯ってことになるわ・・治療済みのも入れるともっとよね、これはさすがにちょっとひどいわよ、杏奈ちゃん。頑張らないと。」
さっきまで優しかった典子に、呆れた声でひどいと言われ、杏奈は目を伏せた。
「14本ね・・とりあえず、レントゲン撮ってもらいましょうか。」
典子がいじめたので、高良は今度は何も言わず、治療台を起こした。高良がレントゲン室に連れて行き、杏奈を中の椅子に座らせると、スイッチを押しに行き、カルテや問診票をスキャナに通し、その足で天覧部屋に向かった。

天覧部屋に入ると、会員達からの絶賛が待っていた。
「もう、素晴らしいよ。」
「最近の若い子は虫歯が少ないなんて思ってたけど、居るところには居るものだね」
「いや、目立つ銀歯なんかが少なくなっただけかもしれないね」
「やっぱり、半分虫歯、っていう言葉はダメージ大きいですよね」
「でも、女子高生がこれまでの中で虫歯最高記録っていうのはちょっと、悲しいなあ」
「たしかに、あんなに清楚な感じの子なのに・・いやむしろ、そこがたまらんね」
興奮さめやらぬ会員達を落ち着かせ、高良は切り出した。
「で・・治療はどのように。」
「まあC3やるよね、あれは抜髄確実でしょ?」
「でしょうね。」
「じゃまずそれで楽しめるね。その他も続けちゃおう。C2・・8本もあるもんね、シンマなしも入れられそう?まあ、どうでもやっちゃって。皆は、どう?」
「あ、前歯は見たいですね。」
「自分も。」
「顔が歪むところが好きだなあ、上の奥とか、こう、唇をぐいぃっ、と引っ張らないといけないとことか・・・あ、ワイダー入れてね。」
藤井の問いかけに、会員達はそれぞれ希望を言った。
「右上7から・・じゃ、前行って、あと適当にやってよ。時間ギリギリ使って。」
藤井がまとめ、指示を出す。会員達はそれに頷き、高良は診察室に戻った。
高良の背後では、
「続けて通ってくれるかなあ」
「うーん、清楚系に虫歯はマズイでしょう、治しておかないと。」
など、会員がまだあれこれと話を続けていた。

そのころ診察室では。
撮影が終わった杏奈を典子が治療台に連れて帰ると、順子が説教を始めた。
「もう・・杏奈、そんなに虫歯作って。杏奈は虫歯だらけです、じゃあイメージが台無しじゃないの。もう、ホントに・・」
典子が割って入る。さっきつい、いじめてしまったので、優しいイメージを復活しなければ、と思いつつ。
「順子さん、そんなこと言っても・・杏奈ちゃんだって、虫歯にしたくて、こんなにたくさん虫歯作ったわけじゃないんですから。そんなこと言ったら可哀想です。」
杏奈は、治療台に座ってうつむいていたが、典子の言葉にすすり泣きを始めた。ハンカチで鼻や目をときどき押さえる仕草は、たしかになかなか絵になる・・と、典子は思った。
典子は、出来上がったレントゲンを取りに行った。一見、インレーが2本だけの、綺麗なレントゲンだ。これが治療後、どこまで白くなってるかしらね・・と思うと楽しみだ。保留だった右下6番のインレーを確認すると、やはりインレーの下はやられている。なかなかいい感じ、典子が満足そうに頷いたとき、ちょうど、高良が戻ってきた。さっそく、杏奈と順子に聞こえるような小声で報告する。
「先生・・あの、右下6番はやはり・・」
「ダメだった?」
「ええ、けっこう深くて・・」
辛そうに言いながら、高良にレントゲンをかざしながら見せる。
「ああ、本当だね」
「それから・・ちょっとここも・・気になります」
左下の5番を指す。おそらく咬合面から黒い影が広がっている。
「ああ、これもやられてしまってるね・・」
高良は、左下5番を何と診断したか覚えていなかったのだが、典子の台詞に乗っておいた。
2人が治療台に向かうと、杏奈はさきほどの会話を聞いてさらに固くなっていた。順子は怖い顔だ。
「ちょっと、レントゲンで気になるところが見つかったので・・もう一度見せて下さい」
高良は言いながら、治療台を倒した。横目でカルテを確認すると、左下5番は斜線になっている。
ごくり。倒れていく治療台の上で、杏奈が唾を飲み込む音が、異様に大きく響いた。
典子がライトを調節し、高良がミラーと探針を手に、杏奈のほうに向いた。
「はい、大きくあーん」
あえて顔をあまり下向けずに言うと、患者は威圧感を感じる。杏奈はなるべく大きく口を開けた。
「ふ・・む」
左下5番をじっくりミラーに映す。溝のかすかな着色を問題なしと診断したのだが。探針で溝をなぞってみると、中心あたりに小さな穴があるらしい。
「ぁ・・んぁ」
探針の先がその穴に少し引っ掛かると、杏奈が体をびくっと固くし、顔をしかめて声を出した。
「あれ、痛む?」
聞かれた杏奈が、少し迷っているようなので、高良は右手の探針を置いて、スリーウェイシリンジを手に取った。シュッ!とエアをかけた瞬間、
「ぁああ!」
杏奈が顔を大きく歪めてぐっと顎を持ち上げた。
「うーん、痛む?」
今度は、杏奈は辛そうにゆっくり頷いた。
「左下5番はC2で。」
「はい。」
典子に告げ、そのまま右下6番にミラーを移動する。ここは診断はついているのだが、右手にスリーウェイシリンジを持ったままなので、ついでにやっておこうと思ったまでだ。シュッ。シュー。
「は、んぁはあああ」
少し長めにエアーを当てると、杏奈は長いうめき声を上げた。顔も大きく歪んでいる。エアーを止めると、はぁぁ、というため息と共に、歪んでいた顔が弛緩していく。顔を見つめている高良の視線に気付くと、杏奈は少し潤んだ、すがるような目を向けた。
だから清楚系、それはマズいって、と思いながら高良は口を開いた。
「この歯は・・冷たいものとか沁みるでしょう」
「・・はい」
少し声がかすれている。
「駄目ですよ、そういうのを放っておいては。・・・ここも神経まで取らなければならないかもしれません。」
後半は順子に向かって言った。
「すみません・・よろしくお願い致します・・あ・・わたくしそろそろ・・」
頭を下げたあと、時計を見て、順子が言った。
「あ、ちょっと失礼します・・杏奈、しっかり治療受けるのよ。」
治療台に近付いてきた順子に言われ、杏奈は黙って、気まずそうに頷いた。
「では、よろしくお願い致します・・この子にこんなに虫歯が多いなんて思わなくて・・あの、今日はなるべく長く治療お願い致します」
順子は診察室の出入り口付近で頭を下げた。
「あ・・順子さん、こちらお持ちになって」
典子が、いつの間に用意してあったのか、紙を2枚手渡した。
「杏奈ちゃんの歯に必要な治療と・・こちらが費用です。どうされるか後で教えて下さい。」
「はい・・」

「では、痛む歯から治療していきましょう。」
「・・はい。お願いします。」
「この治療は痛みが強いと思いますから・・麻酔の注射しましょうね」
典子が杏奈に言った。杏奈の目が不安で泳ぐ。
口腔内の治療状況から察するに、杏奈は麻酔をされるような治療を受けたことはないのだろう。痛みを感じるほどの治療を受けたこともないかもしれない。
「大丈夫よ、チクっとするだけだから。」
「はい、あー・・」
微笑んでくれる典子の顔を見つめていると、急に逆方向から高良の声がした。あわててそちらを見ると、ミラーが近付いてきた。杏奈はあわてて口を開けた。ぐいぐい、とガーゼを頬と歯茎の間に詰め込まれる。そのガーゼの消毒臭さに、杏奈は観念して、顔の上にあるライトの金具に映る、小さい自分を見つめた。
うつろな目で治療台に横たわる少女の唇を思い切り引っ張り、高良は麻酔のシリンジの針を右上7番の頬側の歯茎に打ち込む。
「う・・ぅうう・・」
チクっ、という刺激の後に、薬液が入ってくる圧迫感がある。杏奈は、思わず声を出していた。

その頃。
順子はタクシーの中で、典子に手渡されたを見ていた。
・・治療が必要な虫歯が15本もあるなんて・・そんな歯が汚いようには見えないのに。
しかし、治療済みの虫歯も9本と書かれている。順子はそんなにたくさん虫歯を作ったことはない。
・・私みたいに、丈夫じゃないんだわ。
そして、必要と思われる治療、の「クラウン」という文字を見た瞬間、さっき見たフルメタルクラウンが甦る。
・・あんな歯を入れさせるわけにはいかないわ。杏奈の清潔感が台無し。費用がかかるって言われたけど、白い歯に決まってるじゃない。
そう思いながら、2枚目をめくった順子は、目を疑った。
「う・・そ」
思わず声が上がる。

クラウン価格
フルメタル(保険内)  4000円  銀色
ゴールド 70000円  金色
ハイブリッド 80000円  白色
メタルボンド  100000円  白色
オールセラミック  110000円  白色

白い歯・・そんなに高いの・・あわてて、1枚目を見直す。クラウンが必要なのは・・1本か2本・・・
1本しか無理ね・・
売れてきたとはいえ、せいぜい、杏奈のギャラはグラビア1ページでこの白い歯1本分行けば上出来、というところである。
ふと、2枚目の下を見ると、別の表がある。

インレー価格
メタル(保険内)  1000円  銀色
ハイブリッド  30000円  白色
オールセラミック  40000円  白色
ゴールド   40000円  金色

インレーってなんだったかしら・・
1枚目を見直すと、「型を取って詰めます」・・この治療が必要な歯は・・B、と・・
「ちょっと待ってよ!」
「はい?停めますか?」
思わず上げた声に、タクシーの運転手が振り向く。
「あ・・いえ、すみません、こちらの話です、そのまま行って下さい」
運転手に声をかけ、順子は頭を抱えた。
Bと書かれているのは、7・・8・・本。しかも、よりによって、目立つ下の歯の奥歯はほとんどがB・・・
全部、安いほうの白いインレーにしても・・21万円か24万円・・・クラウンと合わせると・・・順子は、怖い顔をして計算した。
しかし、杏奈は今も下の奥歯に1本銀歯があったはずである。杏奈はあまり、口を開けた写真は撮らないから、後ろの方なら、それほど目立たないはず・・・どこまで見えるかしら・・
バッグの中から鏡を取り出し、鏡の前で口を開けてみる。
ぼんやり顔・・スマイル・・笑顔・・大きな笑顔・・
昔を思い出してあれこれ表情を作ってみる。運転手が、ちらちらとバックミラーを気にしているが、気にしない。
この歯までは確実に見えるわね、これは何番目なのかしら。
鏡に顔を近付けて、指で数えてみる。
1,2,3,4,5・・あら?
ふと、その5番目と6番目の歯の間が黒いような気がして、順子は目を凝らした。
顔の角度をいろいろ変えて、光の当て方を変えてみる。
が、やはり黒い、ような気がする。
・・まさか、虫歯??
少し動悸が早くなる。
・・違うわよね・・・
しつこく、口を開けたまま、さらに顔の角度を変え、黒く見えない角度を必死に探す。さらに、顔を窓の方に向けてみた。すると、鏡の隅に映った前歯の間にも黒ずみが・・・
・・え、ええっ・・
今度は、いーっ、と、右手の指で唇を押さえ、前歯をむき出しにして、左手の鏡に首を突き出すように顔を近付けて、必死に目を凝らす。
・・そんな、そんな・・
鏡を手に持って呆然としていると、ドクン、ドクン、という自分の心臓の音が聞こえてきそうだ。ちょうどそのとき、
「お客さん、着きましたよ」
という運転手の声がして、順子はハッと我に返った。コンコン、と窓ガラスを叩く音もする。次の仕事のモデル、優だ。
順子は深呼吸して、優に笑顔を向けると、運転手に支払いを済ませ、タクシーを降りた。

ピー、パシャッ、ピー、パシャッ・・・
順子は、笑顔を見せながら写真を撮られる優を見ながら考えていた。
・・次に売れるとしたらこの子だと思うんだけれど。歯、大丈夫かしら・・優の方が笑顔系だし・・高良先生のところに見せに行った方がいいかしら。まあ、そんなに神経質になる必要もないか・・・
撮影は次のシーンに変わるようだ。メイクさんが優に寄って髪型を直し、アシスタントが次のシーンの説明をしている。
「じゃあ、次。えーと、カキ氷の写真行きます。3カットお願いします、予定しているキャプションは、
1.わーいカキ氷、ダイスキ! 
2.いっただっきまーす で、
3.イッターイ!しみるぅ、虫歯かなあ・・グスン、歯医者さん行かなきゃ、
です。よろしくお願いします。」
順子は、少しぎょっとして手元の計画表を見た。たしかに、そう書かれている。
・・まあ、そういうグラビアならしょうがないわ。
撮影が始まり、優はカキ氷を手にいろいろなポーズを取っている。
「はい、次、2のカット」
スプーンを見つめて笑顔、口に運びながらスマイル、口を開けてカメラ目線・・・
「次、3行きます・・」
スプーンをくわえて目をギュッとつぶる、片目だけつぶって顔をしかめる、スプーンを持った手で頬を押さえる・・・
何度も同じ動作を繰り返し、シャッターが切られる。
「いいねー優ちゃん。雰囲気出てるよ!・・・はーい、お疲れ様でしたー・・」

撮影を終えた優が、順子の方に駆け寄ってくる。
「優、お疲れ様。よかったわよ。・・あのカキ氷、おいしいの?」
何気なく聞いた順子は、その答えを聞いて凍り付いた。
「味・・は普通だったけど、ホントに歯に沁みて、もう、早く終わってぇぇ、って、そればっかり考えて、涙出そうだったー」
優は、左目をつぶって顔をしかめながら、左手で頬をしきりにさすっていた・・・
雰囲気も出るわけだ。優は本当に沁みる歯があったのだ。
・・それにしても、この子たち、なんで皆、そんなに虫歯があるのよ。
順子は、自分が歯で苦労していなかったせいか、モデルたちの歯の健康なんて気にしたこともなかった。それに彼女達は中学生や高校生で、学校で歯科検診があるのだから。
順子はため息をつき、首を振りながら優に言った。
「優、沁みる歯があるなら、歯医者さんに行った方が・・」
「・・ヤ、ヤダ」
予想外にきっぱりした拒絶に、順子は戸惑った。
「でも、これからって時に、痛み出したら困るわよ」
「は、歯医者なんか、絶対行かないんだから。」
いつも明るい優が怯えたように細かく首を振りながら後ずさりした。順子はしかし、自分の歯が気になっていて、優にそれほどに無理強いするほどの気力もなかった。
「しょうがないわね、痛くなりそうだったら、早目に言うのよ。」
優しく言った言葉にも、優の返事は無かった・・

さて、歯科治療室に戻って。麻酔を打たれ、口をゆすいだ杏奈は、再び倒れていく治療台に背中を預けていた。
自分の売りを清潔感や透明感だと承知している杏奈は、こんなに虫歯があるなんて、どうしよう、と少し思っていた。
・・でも・・しょうがなかったんだもん・・
高校に入ってからの歯科検診は、なぜかちょうど、いつも仕事・・さほど多いわけではなかったのに・・と重なって受けられなかったのだ。タレントやモデルの多い杏奈の高校では、「では仕方ありませんね、受けられなかった人は各自歯医者さんで受けてください」と言うだけであったので、杏奈は特に何もせず、3年近く経ってしまったのである。
「はい、あーん」
言われるままに口を開け、目を閉じる。直後、痛む歯をコンコン、と叩かれて
「どう、感じる?」
と言われ、杏奈はドキッとした。今まで気付かなかったが、この歯医者さんの声は・・今付き合っているカメラマンの卵、和志の声にそっくりだ。杏奈は薄目を開け、高良をとろんとした目で見つめると、ゆっくりと首を振った。
その目を見た高良は、今日何度目かの違和感を飲み込んで、典子に目で合図をした。典子が杏奈の口にアングルワイダーをはめこむ。
・・なにこれ!?
おかしな、なにか恥ずかしい形に口を開かされていることは分かる。
杏奈の困惑を無視して、高良はタービンを手に取った。典子がバキュームとスリーウェイシリンジをスタンバイさせた。
「では、始めます。」
ヒュィイイイイイイ・・・・
音を立てるタービンが、杏奈の奥歯に食い込んで行った。
チュィ、チュィ、チュィイイイイ
杏奈の右上6番の歯の形を形成していたのは、やはり薄く残ったエナメル質だけだったようだ。高い音を上げるタービンにそれはひとたまりもなく崩れ去り、ぽっかりと大きく汚く口を開けた虫歯が真の姿を見せた。高良はタービンを止め、まずその汚い虫歯をミラーにじっくり映した。そして、ミラーも抜き、典子も器具を一度口の中から引き上げた。
・・もう終わり?
杏奈が口を閉じかけると、
「まだ閉じないで。」
と言って、ライトの位置を調整した。
天覧部屋のモニタには、杏奈がアングルワイダーで口を開けられ、その口の中の汚い虫歯をさらしているのが大写しになり、会員達は画面に見入った。
しばらくして、高良はエキスカベータとミラーを手に取り、杏奈の口に入れた。
コリコリ、コリコリ・・
杏奈は、顎の骨を伝わって頭の中に直接聞こえてくる音に、耐え切れず顔を歪めた。が、痛くはない。典子に、痛みが強い治療だから麻酔をします、と言われて少しビクビクしていたのだけれど、麻酔のおかげか、あの言葉がただの脅しだったのか。杏奈は、さっきまでの緊張がほぐれ、今朝、早かったこともあって、少しウトウトし始めた。
コリコリ・・
歯の中に大量に溜まっていた軟化象牙質を取り除くと、あっさりと露髄した。ミラーに写った歯の内部に、どす黒く変色した歯髄が顔をのぞかせている。
・・さてと・・ん?
さっきまで、ウサギのように、些細なことにも怯えていた杏奈は、なんと眠りかけているようだ。虫歯が恥ずかしい、と言っておきながら、その虫歯を大口を開けて見せたままで眠れるとは。高良はその神経の太さに、少し呆れた。
典子は女性であるせいか、さらに厳しい視線を向けていた。
・・たしかに見た目は清楚っぽいけれど・・案外図太いし・・間違いなく男も知ってるし・・口の中は虫歯だらけだし・・しかもこんなに汚い虫歯・・・虫歯が恥ずかしい、なんて、嘘ばっかり。なんなのこの子。
典子は、高良の視線に頷くと、再び、バキュームとスリーウェイシリンジを手に取った。

ヒュィイイイイイイイイ・・・
再び、タービンがうなりを上げる。さっきよりも尖ったバーが装着されたタービンは、眠る杏奈の深い虫歯にさらに食い込んで行った。
キュィイイイ、キュィキュイキュィイイイイイイ・・・
スコココココ・・・・
チュイン、チュイン、チュィイイイイイ・・・・
高らかに音を上げて蝕まれた部分を削り取っていたタービンは、やがて、徐々に奥へと進み始めた。抜髄・・おそらくは根管治療・・のために、歯髄の開口部を広げていく。
「ぁ・・んぁ・・・」
眠っている杏奈の喉の奥から、うめき声が漏れ始める。
やがてうっすらと目を開けた杏奈は、まず、騒音で徐々に意識が覚醒し始めた・・そして。
「ぁ、が、ぁがああああっ」
歯に感じた鋭い痛みに、杏奈は目を見開き、とんでもない声を上げた。何が起きているのか、とっさに理解できない。
「ああ、杏奈ちゃん、ダメよー、危ないわよ、動かないで。」
典子が、左の肘で杏奈の肩を治療台に押さえつけた。
「我慢してねー」
「んがぁああああ・・」
ようやく、杏奈は事態を思い出した。歯が痛くて・・治療に連れて来られたんだった・・・痛くないと思っていたのに・・ぁ、ぁああ、
チュィイイイイ、チュィイイイイイイ
何、なんなのこれ・・
あまりの痛みに、杏奈は抑えられている左肩と踵を支えに、弓なりに反ろうとする。
「動かない!」
高良の鋭い声に叱られ、杏奈はびくっとしたが、今度は体をくねらせそうになる。
ヒュゥゥゥゥウ。
タービンが止まった。
・・やっと終わった・・・
杏奈は安堵の息を漏らしたが、治療台は起きる気配がない。
「杏奈ちゃん、動いたら危ないのよ。本当はこんなことしたくないんだけど・・・」
典子の声に、ハッ、と首を起こすと、典子は治療台の右から幅広のゴムベルトを引き出し、杏奈の足首を固定して、左のストッパーにがちゃん、と留めた。
・・え、何??
次に、腰の位置。そして、上腕部。杏奈は、治療台に縛り付けられた状態になった。抗議しようにも、口はアングルワイダーで開かれて固定されていて、言葉が出ない。
「じゃ、先生、お願いします。」
「杏奈ちゃん、虫歯を放って置いたぶん、治療が痛いのは仕方のないことだからね」
高良はそう言って、タービンを手に取り、ヒュィイイイイイ・・・と音をさせ始めた。