「このガーネットの輝き・・・深いわ」
「ロワールならではの酸味が、強すぎず弱すぎず、なんとも言えないバランスだね」
畑野千夏は、最近、月一度の楽しみとなっている、金曜ワインの会で他のメンバー達と語り合っていた。
毎月、レストランを借り切ったり、会長の藤井の家に集まったりして、ワインとおいしい料理を楽しむ。
メンバーは男性が多く、年齢層も幅広いが、仕事の話は持ち込まず、純粋にワインや食事を楽しもう、という藤井の提案で、
あえて職業などについては明かさないという趣旨の会であった。
地方の短大時代から、東京での「セレブな」生活を夢見て、ワインパーティーなどに憧れていた千夏は、ワインの本を読み漁って知識だけを得ていた。
就職して東京に出てきて、高級ワイン店でワインを眺めるという「セレブごっこ」を1人でしているとき、メンバーの1人、高良に声をかけられ、
ワインの会に参加するようになったのだった。千夏は、地元ではかなり目立つ、美人の部類に入る顔と、綺麗な足を持っていた。
そのワインの会は、千夏の夢見ていた東京での生活に、かなり近いものだった。
実は神田の小さな会社で、OLというより事務員をしている千夏には、かなりの背伸びだったのだが、派手すぎない程度にドレスアップし、会の日は自分のアパートではなく、会場の近くの高級ホテルに部屋を取り、「セレブごっこ」を満喫することにしていた。
「じゃ、そろそろお開きにしましょうか」
「今日も素晴らしかったな」
パラパラと、参加者たちは会場のレストランを出て行く。
「畑野さんは、若い女性なのに、知識が素晴らしいね、感心するよ」
「いやー、会の花形だし、高良さんのお手柄だよね」
皆から賞賛の言葉をかけられ、千夏は最高の気分だった。
「そんなことないですよ・・・やっぱり、ワインは楽しい仲間と飲んでこそだと実感してます」
微笑んで謙遜していると、高良が声をかけてきた。
「畑野さん、今日は?どこ泊まりなの?W?」
「え、なんでわかったんですか?」
「僕もだよ、一緒に行こうか」
高良は、最初に声をかけてきた男だが、メンバーの中でも、見た目も服装も、かなりいけていた・・・職業はわからなかったが、稼ぎも良さそうだ。
千夏は、心の中でやったわ、と思いながら、高良の誘いを受けた。
「じゃ、失礼します、また来月!」
残りのメンバーに声をかけ、高良と二人で会場を後にした。

会場のレストランから、ホテルWまでは、ゆっくり歩いてほんの3分ほどだった。
「高良さん、今日も、おいしかったですね・・お食事も、ワインも。」
「そうだね。畑野さんは、赤が好きなの?」
「はい。ブルゴーニュもいいけれど、最近は、実は家では新世界ものにはまっていて。」
千夏は、得意になって話した。
「へえ、家でも飲むの。」
ホテルのロビーに入ると、高良が言った。
「まだ眠くないなら、僕の部屋に来ない?いや、もちろん嫌じゃなければ。ああ、おかしなことはしないよ。」
「あ、はい、喜んで!」
エレベータに乗り込むと、高良は、カードキーを挿し込み、エグゼクティブフロアのボタンを押した。
千夏は、最高の気分だった。
高良の部屋は、エグゼクティブフロアの、さらにコーナーのスイート。部屋に案内され、ソファを勧められる。
「ちょっと上着脱いでくるから、待ってて。」
高良は、ベッドルームに消えた。
千夏は、周りを見回した。千夏の、一番安い部屋よりも、ずいぶん高級そうだ。薄暗い照明がまたいい。
ふと、千夏は、ソファの後ろに置かれた、フロアスタンドが気になった。この部屋に少しそぐわない・・・やや無機的なライトがついている。
「おまたせ。」
高良が、片手にグラス2つ、片手にスパークリングウォーターのボトルを持って戻ってきた。
「もう、水でいいよね」
「あ、はい。」
高良が千夏の隣に座り、グラスに水を注ぐと、泡がシュゥウ、と音を立てる。
「じゃ、乾杯。って水だけどね。」
笑う高良に、千夏も釣られて笑顔を見せた。鏡の前で練習している、キメの笑顔だ。
「畑野さん、実は、ずっと言いたいことがあったんだけど。」
「・・・はい?」
千夏は、期待に胸を躍らせながら聞き返した。
「赤が好きなら、保険の差し歯は換えたほうがいいな。」
高良は静かに言った。予想だにしなかった答えだった。
「タンニンで染まるから、変色が早くなるよ。」
さきほどとは違う理由で、千夏の動悸は速くなっていた。

指摘されたとおり、千夏の前歯は、右上2番から左上1番の3本が、保険内の硬質レジン前装冠だった。高校の頃から、少しずつ虫歯になり、
数回のレジン治療とやり直しの後、短大時代に差し歯になった。保険の差し歯は1000円、自費の差し歯は7万円と言われ、庶民育ちの千夏は、
迷わず保険の差し歯を選んだ。1000円でできるのに、7万円も払う必要ある?と。そういえば、歯科医が、保険の差し歯は変色する、と言っていた
気がする。度重なるレジン治療でまだらに変色した歯から、綺麗な差し歯になって喜んだときから、今の今までそんなことは忘れていた。

こわばった表情で、口をつぐんでしまった千夏に、高良が笑って声をかける。
「いや、職業柄、気になっちゃったんだよね、そんなに気にしないで。」
「高良さん、じゃあ・・・歯医者さん、なんですか?」
「うん。で、畑野さん、換えない?けっこう、赤ワインって染まっちゃうんだよ。せっかくの美人なのに、ニコッ、って、こんなふうに茶色い歯が見えたら台無しだよ」
「あ・・でも・・」
茶色い歯、と言われた恥ずかしさと、べらぼうに高かった自費の差し歯の値段を思い出し、千夏は口ごもった。零細企業の事務員には・・無理だ。
「ああ、お金なら心配ないよ。畑野さんからは取らないよ。とびきりのいいやつ入れてあげる。」
高良が、綺麗な歯を見せて笑う。再び、千夏の中のしたたかさが目を覚ました。
「そんな・・悪いです・・・でも、大好きなワイン、気にせず楽しめるのはちょっと魅力的かも・・・」
「じゃ、決まりだ。今度、治療においで」
千夏が笑顔で頷くと、高良は、さらに思いもかけないことを言い出した。
「じゃ、第1回。ここで検診しよう。」
「えっ」
「他にも虫歯がないか、チェックしよう」
「だ、だったらいいです」
「そういうわけにはいかないよ。僕は歯医者だからね。虫歯を見つけたら治すよ。それが条件。」

千夏の会社には、当然、歯科検診などはなかった。それをいいことに、もう5年くらいは歯医者に行っていない。歯医者が怖いということもなかったが、
好き好んで行く場所ではなかった。千夏は高校のころに、前歯を虫歯にするくらいだから、歯が丈夫なほうではない。少しの銀歯と・・・実は最近、ちょっとしみる歯もある。千夏は必死で、自分の口の中の状況を思い出していた。

「ほら、畑野さん、口開けてごらん。」
先ほど不思議に思ったフロアスタンドが点灯された。かなりの明るさだ。いつの間にか、高良は、右手にデンタルミラーを持っている。
「あーん」
渋る千夏の顎を押し、高良が千夏の口を開かせた。そのまま少し顎を持ち上げ、口の中をのぞきこむ。高良が難しい顔になった。
「うーん、意外と虫歯ちゃんだなあ、いっぱいあるよ、虫歯。」
千夏は恥ずかしさで真っ赤になった。
こいつ、ワインの輝きがどうの、上品ぶったことばかり言って、よくこんな汚らしい歯で平気でいられるな・・。
高良はやや冷たい声になり、さらに続けた。
「もっと、外見ばっかり気を遣うんじゃなくて、口の中も綺麗にしないと。若くて美人だけど、口開けたらこれじゃ、ちょっと恥ずかしいよ。」
高良は、自分の魅力も承知の上で、しかし真剣に若い女性の歯に対する関心の低さを・・・嘆くと同時に軽蔑していた。
不純な動機だとしても、少し気のあった高良に厳しい言葉をあびせられ、千夏のプライドはボロボロだった。
「じゃ、僕のクリニックはここだから。絶対に明後日来ること。いいね。」
千夏は泣きそうになりながらも頷き、トボトボとエグゼクティブフロアのコーナースイートを出て、客室の中では一番下のフロアにある、自分のシングルルームに戻っていった。

二日後の日曜日。千夏は、迷った挙句、高良のクリニックへ足を向けた。それは意外と普通のビルの一室にひっそりとあった。
「ああ、ちゃんと来たね。」
笑顔の高良に迎えられ、千夏は少しホッとした。
「じゃ、診察室へどうぞ。」
高良に連れられて診察室に入ると、ビルの外観とは違い、現代的インテリアの部屋であった。さらにそこには、白衣姿の・・・ワインの会長・藤井の妻の典子が居た。
「こんにちは。」
「あっ、こんにちは・・・」
「藤井さんの奥さんはね、実は僕のとこの衛生士なんだよ」
高良が説明し、治療台に千夏を座らせる。座ると、正面の壁は一面、鏡張りになっていた。そのせいで、あまり広くない診察室が広々と見えるが、
少しこわばった顔の、口紅も落とした自分を見て、千夏は目をそらした。
「じゃあ、ちょっと下見お願いね」
高良が、なんのためか、奥の小部屋に消えた。
千夏が困惑していると、
「検診します。」
典子が、いつものワインの会の時とは打って変わった冷たい表情と声で治療台を倒し、千夏の頭を抱え込むようにして、上から覗き込むと、ラテックス手袋をはめた指を、千夏の歯の間に挿し込み、口を開かせた。
「あら、たしかにこれは・・・虫歯が多いわね。」
ライトを調節して千夏の口腔内を照らし、右手にミラー・・・なぜか普通のミラーよりも少し厚みがある・・・を持った。
「じゃ、よく見ていくわね。右上・・・7番。」
歯の周囲にミラーを一周させたあと、咬合面をじっくりとミラーに映す。溝が全体的に茶色く深くなり、中心にこげ茶色のくっきりとした齲蝕がみられる。
「C2ね。6番が、銀歯ね?」
千夏が頷く。
「5番が・・・」

そのころ、高良は、診察室から出て・・・診察室の鏡の後ろにある部屋に居た。部屋の中には、ワインの会のメンバー7名ほどが、思い思いの体勢で椅子に座っていた。
正面は、治療台正面のマジックミラーで、治療台全体を脚側から眺められるようになっている。すぐ横の壁には大型のプラズマディスプレイ2台。1台には千夏の顔全体が、もう1台は、歯が映し出されている。ライトに仕込まれたカメラと、ミラーに仕込まれたカメラからの映像だった。
「ああ、予想よりもずっと当たりだったね、彼女は。」
「この子は足がいいからねえ。これがもぞもぞするところを早く見たいね。」
「藤井さん、脚好きだからなあ。僕は、もう純粋に歯だね、歯。いい具合に汚いよね、この子の歯。」
「あの上品ぶった話しぶりと、この汚い歯のギャップがたまらんな。」
「俺はとにかく、痛さに悶えてくれればいいや、あ、この歯は麻酔なしでいけるんじゃない」
「あっ、もうちょっとその、前歯の裏側じっくり!」
金曜ワインの会・・・実は歯フェチの集まりであった。治療フェチ、差し歯フェチ、未処置歯フェチ、など若干の相違はあったが、金なら出す、とにかくホンモノを、普通の女性を、最高の場所で見たい。そんな趣旨で集まった仲間で始めたのだった。高良は、見た目も良く、人当たりもいい、いわばターゲットの女性会員を誘うための囮であり、さらに、治療シーンの重要な役者だった。普段は、街の普通の歯科医院で雇われて働いている。
「で、どんな方針で行きましょうか?」
「どうしようかねえ、奥歯は?要治療5本だっけ?多いなあ、ちょっとだれるから、ちゃっちゃと片付けちゃおうよ。抜髄ほどのはないでしょ?まあ麻酔なしも入れて・・・差し歯はまあ、いいの入れてあげようか、ご褒美に。そんなとこ?どう?全5回コースくらい?とりあえず今日、差し歯外して型取りから入ろうよ。」
「言葉イジメ系は多目に入れて欲しいですね、この小娘は」
「だな」
「じゃ、頼んだよ」
藤井がだいたいの方針を指示し、各自が意見を少し付け加えると、拍手が起こり、方針がまとまった。高良が診察室へ戻る。千夏の治療の始まりだった。

診察室では、典子が手にしたカルテに目を通しながら、千夏に説教をしていた。
「畑野さん・・・治療しなければならない虫歯が、5本あります。」
「はい・・5本も・・」
「ええ、ちょっと多いですね。それほどひどい虫歯ではないですが、それなりに進行してますね。若い女性なら、もうちょっと気を遣うべきです。ワインの知識を広げて自分磨きをしたいとかおっしゃってましたけど、自分の歯ももう少し磨いてくださいね。」
千夏は真っ赤になった。東京生まれで、父親の仕事の都合で日本と海外を行き来して育ったお嬢様だという典子のことは、千夏は以前から少し苦手だった。もっとも、千夏は、典子の白く美しい歯がほとんど、セラミッククラウンだということは知る由もない。まして、典子が歯を白くしたきっかけが、アメリカに居た中学生の頃、日本では当たり前の八重歯や銀歯をひどく馬鹿にされた為だとは、想像もできなかった。
鏡の裏の部屋、通称「天覧部屋」では、典子の説教に拍手喝采であった。

そこへ、高良が戻ってきた。典子に説明を求める。
「藤井さん、どうだった?」
「はい、要治療歯、5本です。」
「ああ・・多いな。どのくらい進んでるの?」
「そうですね、どれも・・少し放置されていた感じですね。もう少し早く治療に来てくれていればと悔やまれます・・かなり痛みを伴う治療になると思いますから・・少し彼女には辛いことになるかもしれません。」
もちろん、千夏に聞かせるための台詞である。その思惑通り、治療台に寝かされたままの千夏の顔は緊張と恐怖でこわばっていた。その顔は、そのまま天覧部屋のモニタに映し出されていた。会員達は息を呑んだ。
高良は、千夏に向き直ると、
「今の聞こえたと思うんだけど・・出来る限り努力するから、畑野さんも頑張ってね。あまり麻酔をすると、必要のないところまで削ってしまう危険があるから。なるべく麻酔なしで、綺麗に治したいと思ってるんだ。」
高良の真摯な態度に、千夏は頷いた。
「だから、少し痛いとは思うけど、頑張ろうね。痛むのは・・元はと言えば、そこまで放っておいた、自分のせいなんだからね。」
千夏の顔が歪んだ。

「治療方針ですが、まず、今日は、その前歯の差し歯を外して、型を取ります。綺麗なのを入れるためには、何度か色とか形とか合わせたほうがいいから、早めに始めたいんだよね。」
高良が微笑みながら言う。
「形のイメージを技工士さん・・差し歯を作ってくれる人ね、その人に伝えるために、ちょっと、今の歯の状態で写真を撮らせてください。今の歯、形はいいと思うから。」
「・・・はい。」
「じゃ、藤井さん、写真お願い。あと、レントゲンも。」
「はい、じゃあ、これはめますからねー。痛くないですから。」
すかさず典子が、アングルワイダーを嵌め込む。歯茎がむき出しになったことに気付いた千夏の顔が、不安と恥ずかしさで動揺する。
「撮りますから、動かないで下さいねー」
典子が、顔全体と、治療台に寝かされていることが良くわかる上半身全体の2枚の写真を撮る。口の周りにだけ照射されたライトが、現実感を演出している。
「次はレントゲン撮影します。」
典子は、千夏のアングルワイダーを外すと、千夏の治療台を起こし、レントゲン室へ案内した。その間に、高良が、今写真を撮ったデジカメのメモリーを抜き、デスクに置いてあるパソコンに挿入する。画像は、そのまま天覧部屋のプリンタから出力された。カルテも、スキャナーに通し、同様に、天覧部屋に送った。さらに、今撮っているレントゲンも、後で天覧部屋のプリンタから出るようになっている。
千夏がレントゲン室から戻ってきて、再び、治療台に座らされた。千夏は、器具を並べる典子を横目で見つつ、正面の鏡を見たり、自分の手元を見たりと落ち着かない。
天覧部屋では、会員達が、手にしたカルテと先ほどの写真を見ながら、正面の千夏を眺めていた。詳細な歯の状態のカルテを見ながら、女性を眺めるのは、ヌードを想像するよりもずっと興奮する。さらに、レントゲンも出力されてきた。会員達は、奪い合うようにしてレントゲンを手にし、まだ倒されない治療台に不安そうに座る千夏と見比べた。
「へー、6番は抜髄2本か・・・」
そのレントゲンを見ただけで、会員達は、歯の痛みに泣き出す千夏、あるいはテスト中に急に歯が痛み出して誰にも言えず苦しむ千夏、はたまた夜中に目を覚まし、頬を押さえて顔をしかめ、起き上がって痛み止めを探しに行く千夏などをそれぞれ想像し、満足していた。
さらに、泣く泣く歯医者に行く千夏、あるいは歯医者に行きなさいと親に叱られる千夏、西日の差し込む田舎の歯科の待合室で今のように不安な顔をして座っている制服姿の千夏、治療台の上で痛みに耐える千夏、耐え切れない痛みに泣きわめき、今時白衣の衛生士に押さえつけられる千夏、少しタバコ臭い素手で治療をする年寄りの歯科医に前歯の治療をされる千夏・・・会員達はさまざまなシチュエーションを想像して、天覧部屋は静かになり、荒い鼻息と、唾を飲み込む音だけになった。各自が自分の世界に入る時間である。そのために、飛行機のファーストクラスのような、それぞれに仕切りのついた、立派な椅子が用意されているのだった・・・

診察室では、治療が開始されようとしていた。
「じゃあ、差し歯外しますね」
治療台が倒され、ライトが点灯された。すかさず横から、典子がアングルワイダーをはめる。
「それほど痛くはないと思いますが、ちょっと衝撃があるかもしれません。」
と言って、高良が、握るハンドルのついた鉤のようなものを右手で持って千夏の口に近づけた。まず左上1番、歯と歯肉の境目に鉤の先端を当て、左手を鉤に添える。典子が、外れた差し歯を受けるために手を添える。
「いきますね」
ガコン!
予想以上の衝撃に、不安そうな顔の千夏がとっさにびくっ!と目をつぶる。
「まだ取れないな、もう一度。」
ガコン!
千夏の左上1番は、ぽろりと外れた。前歯が全くない状態というのはかなり間抜けだが、メタルコアのみ見えているというのもかなりの眺めである。高良は、しばらくの間、千夏の左上1番にメタルコアを出している状態の映像を見せるため、取れた差し歯をじっくり見る振りをして、千夏に声をかける。
「割れもなく、綺麗に取れました。痛くなかったですか?」
千夏は、歯茎とメタルコアむき出しの状態で、頷いた。
「では、隣も取りましょう。」
再び、ガコン!ガコン!ガコン!と、3回ほどの衝撃で、右上1番が外された。
しばらく待って、右上2番も外す。
「では、この状態も送るので、型を取る前にもう一度写真を撮りますね。」
千夏は、されるがままで、頷くしかない。
典子が、再び、顔全体と上半身の写真を撮り、印象材を用意しに行くついでに、デスクのパソコンにメモリーを挿入する。
「型を取ってから、奥歯の治療に入りましょう。」
「あ・・あおー・・」
アングルワイダーをはめられたまま、千夏が不安そうに高良に尋ねる。
「はい?」
「この、あえああ・・このああでふか?」
「ああ、大丈夫です、出来上がるまで、仮歯入れますから。」
「あ・・はひ・・」
「ところで、畑野さん、外した差し歯は要る?要らなければこっちで捨てるけど。」
千夏は、無言で首を振った。

そのころ、天覧部屋には、メタルコア姿の千夏の写真がプリントアウトされていた。各自が無言で1枚ずつ取って回す。
口元を隠すと・・艶やかな髪がはらりとこぼれ、綺麗にメイクをした目の美人の写真だが・・・口元は、アングルワイダーがはめられ、前歯3本があるべき位置には小さな金属片が覗いているだけの状態である。

やがて、典子が、印象材を持ってやって来た。
「じゃあ、型取りますからねー、これ噛んで・・」
高良は、その間に、小さな金属盆に外した差し歯を載せ、天覧部屋へ運んだ。あらかじめ、どの会員が差し歯を手に入れるか決めてある。
受け取った会員は、満足そうに眺めたり、臭いを嗅いだりして楽しんでいた。別の会員が高良に声をかける。
「高良くんさ、接触面は大丈夫なの?ここちょっとあやしくない?」
プリントアウトされたばかりの写真を手に、左上2番を指差す。
「ああ、僕も少し気になってました。もともと裏側はかなりレジンが入ってるようなんですけどね。ただ、今やるとちょっと型が・・ま、やってみます。」
高良が答え、まわりの会員達も満足そうに頷いていた。
高良が診察室に戻ると、印象取りが終わっていた。
「じゃ、次は奥歯の治療のつもりだったんですが・・ちょっと気になるところがあるので見せて下さい」
高良はミラーを手にすると、左上2番の裏側から1番との隣接面をゆっくり映した。裏側のほぼ半分を覆う、少し変色したレジンと・・その境目がちょうど隣接面にかかる辺りに小さく穴が開いているのが見えた。
「ああ、やっぱりやられちゃってるな・・・」
高良のつぶやくような言葉に、千夏の表情がまた不安を増した。高良が、手鏡を千夏に手渡しながら言う。
「差し歯を外したら、ここがちょっと虫歯になっているようなので・・・」
探針で、左上2番を指す。千夏は、手鏡をかざしたが、自分の口元・・歯のない歯茎から小さい金属が不恰好に飛び出しているだけの姿・・を見て、かなりショックを受けたようだった。高良は、それに気付かない振りをして、探針の先で、隣接面の穴をつつく。
「これです、見えますか?」
「んっ」
千夏がかすかな声を上げた。
「あれ、痛みますか?」
予想外、という調子の高良の問いかけに、千夏が、首を振ろうか振るまいか迷っているのがわかる。
「痛むなら、少し大きく広がっているかもしれません・・・とりあえず、ここから治療しましょう。」
本格的な治療の始まりだった。天覧部屋では、会員達が身を乗り出した。

「では、削っていきます。前歯は痛みが出やすいんですが・・痛みがひどいようなら麻酔することにしますから。大事な前歯はなるべく残したいので。」
「安全な治療のために、これ、つけさせてくださいね。もし痛みで咄嗟に動いてしまっても・・今日は私しかいませんし。」
典子が、さりげなく言って、治療台の両脇に下がっていたベルト・・シートベルトのような・・を両腕の上腕部にそれぞれ巻いた。軽く治療台に羽交い絞めにされたような状態である。
その後、典子はバキュームを持って、定位置に付いた。
ヒュィイーー
高良の手にしたタービンが、千夏の前歯に近付き、うなりを上げはじめた。
千夏が身を固くする。久しぶりの歯科治療・・・千夏は、そっと目を閉じた。
チュイーン、チュィー、チュ、チュ、チュ、チュィィイイイイイ
削り始めて間もないのに、千夏は前歯から・・脳天に響くような痛みを感じていた。
「んっ、んっ、んんんんぁあああ」
眉間にぎゅぅううっ、と皺がよせられ、喉から搾り出すような声が漏れている。痛みにのけぞりそうになったが、上腕部のベルトは意外と有効で、肩から上を動かすことができなかった。
それでも、せめてもの抵抗で、顎が上がっていたらしい。典子に顎を思い切り押さえつけられ、
「おとなしくして下さい!」
と叱られる。
「痛いかなあ、うーん、もうちょっと我慢してもらえるかなー、ちょーっと広がってるんだけどねー、まだ頑張ってー」
高良は、ミラーで患部をうまく映しながら、千夏には悠長な声をかけつつ、削る手を止める気配はなかった。
千夏の脚が、もぞもぞと動き始める。脚が自慢の千夏は、この日も、すこし短めのフレアタイトに、素脚・・要するに生脚であった。爪には、抜かりなくゴールドのペディキュアが塗られ、親指にはヒョウ柄のネイルアートまで施されていた。最初はその脚の指がぎゅっと握り締められていたが、徐々に、爪先までぴんと伸ばされるようになり、膝下をすり合わせるように脚が動き始めた。
「んがぁあ、あはぁ、は、はぁあああ」
千夏は、うめき声を発し、その声は、歯を削る臭いとともに、天覧部屋に届いていた。
痛みに耐えきれず、押さえつけられた上半身とは別の生き物のように蠢く脚。痛そうに呻く声。歯を削る独特の臭い。容赦なく削られる、汚く虫歯に侵された歯。メタルコアの口元をむき出しにして治療される、痛みに歪んだ千夏の表情。会員たちはそれぞれ、自分の嗜好に合わせ、治療を堪能していた。

千夏は、襲ってくる痛みに耐えながら、昔、前歯を治療したときのことを思い出していた。
最初に前歯の治療を受けたのは、高校1年の夏休みだった。中学のときに銀歯が取れた奥歯がひどくしみるようになり、母に無理やり近所の歯医者に行かされたのだった。
そのしみる奥歯は、抜髄され、千夏は初めて、歯の治療の痛さというのを知った。1回目の治療を受けただけで、もう歯医者には通いたくないと思うほどだったのだが、都合の悪いことに、歯医者は、千夏の実家のクリーニング店のほぼ斜め向かいにあり、次の治療の日時を千夏の母は「歯医者さんの奥さん」との立ち話で知ることができたため、その治療の日には、千夏が歯医者に入っていくまで母が店の前で見張っていたのであった。
他にも数本の虫歯の治療を受けたが、何より驚いたのは、前歯が虫歯になっていたことであった。その田舎では目立つほど、気取った雰囲気の歯科医に、
「恥ずかしいなあ、女の子なのに。前歯を虫歯になんかして。」
と説教されながら、これまたとても痛い治療を受けた。右上1番と2番の間である。
その翌年、歯科検診で今度は1番の間の虫歯が見つかり、再び治療に行かされ、またも説教されながら治療を受けた。いちいち
「女の子なのに」
と言うので、千夏は腹を立て、もう行かないぞと思っていたのだが、高校3年の秋になって、別の奥歯の銀歯が取れてしまったことと、1年のときの前歯の治療跡の変色が気になり、短大の推薦入試の面接を控えていたこともあり、仕方なくまた治療に通うはめになった。変色が気になっていた前歯は、詰め物と歯の隙間から虫歯が進んでいるといわれ、前回よりもかなり大きめに削られ、再びレジンで治療されたのだった。

チュィー、チュ、チュ、チュ、チュィィイイイイイ
「ん、ぃはぁああっ!」
ひときわ強い痛みが千夏を襲い、千夏は叫んで我に返った。
キュゥゥゥゥ...
「うーん、やっぱりかなり行っちゃってるなあ・・・」
タービンの音がやみ、高良がつぶやくように言った。
「削ってみたら、かなり中で虫歯が進んでいるようなので、神経を抜きますね。かなり今の治療での痛みもひどいようだし。」
「はぇ。」
「大丈夫、ここも一緒に差し歯にしてしまったほうが、見た目も揃って綺麗だから。」
「はぇ・・・」
アングルワイダーをつけられたままなので、発音がかなりおかしい。
「とりあえず、今は麻酔をしましょう。」
すぐに麻酔が用意され、前歯の歯茎に麻酔が注入された。効いてくるまで、しばらく待たされる。
前歯の神経を抜く・・・人生で一番痛いくらいの出来事だ・・・千夏はまた、昔のことを思い出していた。

短大に入ってすぐの夏休み。高校の同窓会があった。田舎ではまあ、一種の合コンとも言えるイベントである。千夏は、ガソリンスタンドの息子で、今は東京の大学に行っている隆にやや期待をかけていたのだが、トイレに行ったとき、男子トイレの中で隆が話しているのを聞いてしまった。
「畑野はまあ美人なんだけど、なんか歯が汚くね?いやー、東京で綺麗な歯の子を見慣れてるせいかなあ。」
にわか東京かぶれめ。千夏は心の中で毒づいたが、「歯がきたない」と言われたことはショックであった。家に帰り、洗面所でいーっ、としてみると、たしかに、前歯の治療跡が変色していて、まだらになっている。よくよく見てみると、また、治療痕の端に小さい隙間が開きかけているようでもある。翌日、実家から、1時間に1本しか走っていない電車で1時間ほどの、短大のそばにある自分のアパートに帰った千夏は、さっそく、歯医者に向かった。夏休みだが、それほど小学生もおらず、30分ほどの待ち時間で千夏の番になった。
「はい・・どうしました」
あらわれた歯科医は、年寄りで、しかも、白衣にはところどころ染みがついていた。歯科医院そのものも、なんとなく薄汚い感じである・・・しかし、このあたりには、ここしか歯科医院がないのであった。仕方ない。
「あの・・前歯が・・昔治したところに隙間ができていて・・・」
「どら」
無遠慮に、歯科医の右手が千夏の顔に近付いてきて、その太い指が千夏の唇を押し広げた。素手である。実家の斜め向かいの歯科医は、ゴム手袋をはめていたのに。不意をつかれて、千夏は戸惑った。さらに、指はひどくタバコ臭かった。
なんと、さらに歯科医はその指の腹で千夏の前歯を撫でさすり・・歯科医の指先が唇の下に突っ込まれるかっこうになった。
「あー、こりゃ、治したところがまた虫歯になっとるね。」
そう言って、さらに、治療痕の隙間のところを爪で引っかくようにして確かめている。
「んんっ」
爪がちょうどその隙間にひっかかり・・かすかだが鋭い痛みを感じて、千夏は思わず声を上げた。
「んー、痛いかね」
今度は、左手で千夏の上唇をめくり、歯科医は顔を近づけてきた。千夏の前歯をじっくりと眺める。
「はーん、他の歯もやられとるね・・ちょっと、口開けてみ・・ああ、裏もやなあ」
また、爪で歯の裏を引っかかれ、
「んぁああ」
と、声が出てしまった。その後、奥歯も触られながら診察され・・・まさに、口腔内をいじくりまわされている、という感じであった。
結局、前歯は3本、差し歯にすることにした。前歯の抜髄治療がそんなに痛いものだと思っていなかった千夏は、麻酔をしてもなお、気が遠くなるほどの痛みと、その歯科医のタバコ臭い、ややかさかさした指がじかに口腔内の粘膜に触れる感触・・・まさに苦行のような夏を過ごしたのであった。

「そろそろ麻酔も効いたと思いますから」
典子の声が、また千夏を現実に引き戻した。
「もう少しだけ削ってから、神経抜きますから」
唯一自由になる目で頷く。
ヒュィイイー
タービンが近づいてきた。千夏は目を閉じる。
チュィイイイイイイイ・・・チュインチュインチュイン、チュィイイイイイ・・
い、痛・・・いかも・・・・
ぎゅうっ、と眉根を寄せたところで、タービンの音が止んだ。
典子が、手鏡を渡してきて、高良が横から説明する。
「見えますか・・この中の、これ、神経って呼んでる、歯髄なんですけど、赤黒いでしょう。本当はピンク色なんですよ、虫歯にやられちゃうと、こういう汚い色になっちゃうんです」
歯の中を見せられて、というよりも、無残に削られてしまった歯を見せられて、千夏は顔をしかめた。
3本は金属の棒だけになり、1本は大きく削られて中身が見えている状態だ。
「これから、神経抜いていきます。まあ、痛みはかなりあると思いますが・・頑張って下さい。」
典子が用意したファイルセットを確認しながら、高良が言った。
天覧部屋では、ごくり、という音が部屋中に響くかのようであった。
「はい、あーん」
千夏が口を・・唇はアングルワイダーで開かれているが、歯を・・開いたところで、典子が千夏の上顎の犬歯に指を掛け、開いた状態でホールドした。天覧部屋に向けて、大きくあんぐりと口を開けた状態になった。天覧部屋の会員たちにとっては、ストリップのフィニッシュにも相当する眺めである。しかし、治療はこれからが本番なのだ。
「では行きますよ」
高良が、最初のクレンザーを持って、千夏の左上2番に開いた穴に挿入した。
コリ・・
「んぁは!」
一瞬で千夏の顔が歪んだ。眉根と鼻の付け根にぎゅうううっと皺を寄せ、鼻の穴を大きく広げたような顔だ。
「我慢してくださいねー」
典子が、千夏の口をホールドしたまま、さらりと言う。
コリコリ・・コリ・・・
高良がクレンザーをゆっくり回転させると、絡め取られて引きちぎられる神経が千夏に悲鳴を上げさせる。
「んぁ・・ぁはぁああああっ、あっ、あっ・・ぁああああ・・・」
「痛いですけど我慢してくださいねー、汚いのをきちんと取らないと後で大変ですからねー」
自由の利く足は、治療台の上でのたうち回るように動いていた。
あ・・ぁ・・痛い・・・たすけて・・・
千夏は、気が遠くなりそうな痛みの中で思っていた。
田舎の薄汚い歯科で、ジーンズとキャミソール姿で、年寄りの歯科医に治療されていた自分。今、東京のデザインホテルのような内装の歯科で、めいっぱい気を遣ってコーディネートして、若くて見た目も良い歯科医に治療されている自分。ずいぶん変わったつもりでいたけれど、治療の痛みも、治療される歯の中の汚さも、何も変わっていない・・・