トゥルルルル・・・
夢の奥で、電話が鳴っている。しばらくその音を聞き、
・・理沙子・・出て・・・
と、ぼんやり考えたところで、ハッと目が覚めた。この家には自分しかいないんだった。
あわてて飛び起き、電話のあるリビングに向かう。
・・しかし、この家に1人になって1年も経つのに、なんだよ、さっきのは。
自分に舌打ちしたあとで、寝起きをごまかすために軽く咳払いをしてから電話に出る。
「はい、紺野です・・」
とたんに、電話の向こうから、この世で5番目くらいに聞きたくない声が響いてきた。
「やだ、淳、まだ寝てたの?もうお昼よ?」
「うるさいな、せっかくの休みだってのに・・。」
目をつぶると、目の奥が重い。受話器を持っていない方の手で、首筋の後ろを揉んでみる。昨日飲みすぎたせいか。どのくらい飲んだのだろう。1年ほど前に1人で海外に留学してしまった妻から、もう帰らないと連絡があったのが先週のことだ。それを聞いてもなんとも思わなかったのに、一昨日離婚届が家に届いて、昨日、自分のサインをして区役所に出して家に帰ってから・・ずっと飲んでいた。一応、ショックなんだな、と、空になったビールの缶をボウリングのピンの形に並べながら思ったことは覚えている。ということは、その時点で10本は飲んでいたわけだ。そのあとウィスキーを持ち出したような気もしなくもない。
「そんな嫌そうな声出さないの。どうせまた、この世で4番目に聞きたくない声とか思ってるんでしょ。」
「・・いや、5番目になった。」
ぷふふっ。吹き出すのが聞こえた。
「やだ、どんどん順位が下がるじゃない?淳が小学校のときは、私、トップだったのに。」
そう言って笑ったあと、姉は調子を変えて付け加える。
「ま、そう落ち込むなよ。」
姉が男言葉になるのは、照れ隠しだ。ん、と短く答えた後で、紺野は口を開いた。
「で、何の用?離婚の先輩に夫婦仲の相談?」
いや、ちょっと笑えない、と、言った後で軽く後悔したが、姉は一応笑ってくれたようだ。
「あら、ついにやったのね・・でも、うちは今のところ大丈夫だと思うわ。そんなことじゃなくって、ちょっと来て欲しいんだけど。」
「・・誰か病気?」
「ううん、みんな元気よ。でもほら、ちょうど今日から3連休じゃない?」
「は?今から?」
姉は紺野と同じ歯学部を卒業して、大学病院で3年ほど補綴の修業をした後、実家の歯科医院に戻って働いている。入れ歯の得意な若先生として人気らしい。その実家は、ここから車で2時間半・・連休ならもっとかかるだろう・・のところにあった。この連休は、用事も当直も予定にないので時間はあるが、ふらっと行くには、やや遠い。
「いいじゃない、もう独り身でしょ。」
さっきは一応、心配してくれていると思ったのに、早速これである。子供の頃から女の怖さを身をもって教えてきてくれた姉だが、まだまだ教え足りないらしい。紺野はため息をついた。
「なんか理由がないと。いまさら、可愛い弟の顔が見たいわけでもないだろうし。」
「可愛い姪の顔、見たくない?知里が会いたがってるわよ。」
「あー。知里か・・」
姪というのはなかなか可愛いものだ。会いたいと言われて、悪い気はしない。そういえば半年くらい、顔を見ていない。
「というか・・あのね・・叔父さんに会いたいって言うか・・」
急に姉の歯切れが悪くなった。
「・・・その・・あんたに、仕事してもらいたいのよね・・」
「ん?それって・・」
「そうなの・・知里、虫歯、できちゃったみたいなのよ・・」
姉は、急に母の声になって、ため息をついた。
「えーと、知里、いくつだっけ?」
「4歳になったとこ・・はぁ・・」
いちいち、発言にため息が混じるようになった。相手が姉なら、『おかあさーん、あなたの責任ですよ』と、いじめてもよかったが、相手が完全に母親モードになっているので、小児歯科医の理性がそれを止めた。親は十分にショックを受けているのだ。それをさらに責めても、得なことは何もない。
「でも、そっちにも歯医者は2人居るのに。」
姉の他に、父もまだ現役だ。しかし、姉のため息がまた聞こえてきた。
「2人とも、玉砕よ。この間まで、診察室に入りたがるのを止めないといけないくらいだったのに、今じゃ、絶対近付かないわ。白衣を着てる私とお父さんにも。」
・・あちゃ・・重症だ・・
紺野は首を振った。家が歯医者なのに、そこまで拒否反応が出るとは、まったく、何をしたんだか。
「わかったよ、行くよ。」
頼もしい弟の言葉に、姉は安堵の声を漏らした。
「あぁ・・助かったわ。ありがとう。」
「でも・・できれば少し家も片付けたいし・・道も混んでるだろうし、ちょっと遅くなるよ。夕方には着くと思うけど。念のため聞くけど、痛みはなさそう?」
痛みが出ていると、ちょっと子供も興奮してしまうので厄介だ。
「それは無いみたい・・もしかすると、もう、神経が死んじゃってるかもしれないんだけれど・・」
また、ため息だ。こんな気弱な姉が相手では、調子が狂う。
「遠路はるばる、名医が行くんだから、ま、もう、大船に乗った気持ちで。そういえば、知里に、俺も歯医者だって言ったっけ?」
「言ってないと思うけど・・。おじちゃん歯磨き上手だから、とは言ってるわよね。いつも来たらやってもらってるから・・」
「ああ、そうだ、治療は嫌がっても、歯は磨かせてくれてる?」
「それは平気みたい。でも、私たちの方が、見ると気になるから・・お母さんにやってもらってるの。」
口を開けさせるのに苦労が必要ないのはいいが・・見ると気になるほど大きい虫歯があるということか。ちょっとコリコリ磨いて終わり、というわけにはいかないような雰囲気だ。
「ふーん・・ま、それじゃ、後で。出るとき連絡するから。」
「わかったわ、じゃ・・ホント、ありがと・・」
姉に感謝などされると、若干気持ち悪く、さっさと電話を切った。若干面倒な仕事ではあるが、まあ、することがあるほうが、気が紛れるというものだ。そう割り切ると、紺野は大きく息を吐き、シャワーに向かった。

「これなら、夕飯前には余裕で着くな・・」
高速を降り、ガソリンスタンドに車を入れながら、紺野はつぶやいた。家を片付けた後で、自分のバーボックスやら、業者にもらった新製品のサンプルなどを取りに職場に寄ったので、予定よりも出るのが遅くなってしまったが、道の混雑が思ったほどではなく、あまり遅くならずに済みそうだ。天気も良かったので、気持ちいいドライブだった。起きた時は、少し飲み過ぎたかと思ったものの、シャワーを浴びた後はそんなことも忘れるほどで、むしろ良く寝たせいで気分が良い。呆れたことに、さんざん飲んだ後でも、ビールの空き缶はきちんとすすいで袋にまとめてあり、グラスも綺麗に洗って伏せてあった。自分のこういうところが、少し相手に窮屈な思いをさせたかもしれないな、と少し思う。
『お姉さんがいるくせに、なんかあなたって、大家族のお兄ちゃんみたいなのよね。もっと、妹みたいな人が合うと思う。』
最後の最後に、頼んでもいないのに余計なアドバイスを残していった理沙子の言葉が、ふとよみがえった。
・・・妹みたいな人って言われても、ピンともグッとも来ないんだよな。
これまでもっぱら年上とばかり付き合ってきた紺野は、車をスタートさせた。

半年振りに見る実家は、まあ、外から見ても特に変わりはなかった。適当に庭の一角に車を停めると、玄関の引き戸をガラガラと開ける。
「ただい・・ま・・」
勝手に上がり框に座り込み、靴を脱ぎながら奥に向かって言いかけたところへ、
「いやーだーっ」
医院に通じる渡り廊下の向こうから、女の子が大声で言いながら走って来たかと思うと、紺野には目もくれず、慌てて赤いサンダルを履いて、庭の方に走り去った。
「ちょっと、ちぃちゃん、待ちなさい・・」
後ろから、父がトトトッ、と追いかけてくる。
「いつから、うちは鬼ごっこ解禁になったわけ?」
かつて、『鬼ごっこ禁止』と、わざわざ筆で書いて廊下に貼っていた父親に声をかけると、彼はホッとしたような顔を見せた。
「おお、淳。帰ってきたのか。なんていいタイミングだ。」
「いいタイミングも何も、知佳ちゃん、いや、姉貴、いや、知佳ちゃんでいいか、とにかくあの人に呼ばれたから来たんだけど。聞いてないの?」
理沙子に、30過ぎた男が姉をちゃん付けで呼ぶなんてみっともない、と言われて、姉貴、と呼ぶことにしたのだが、紺野はむしろ、姉貴、というのも中学生や高校生がカッコ付けているような気がして、落ち着かなかった。それを聞いた父は、
「なんだ、お前、別れたのか。まあ、そうでもなきゃ、3連休にこんなとこに帰って来ないか。」
と、一人で納得していた。なかなか鋭いが、話の本題からは逸れている。
「で、あの、知里・・」
紺野が外を指差すと、父は頷きながら答えた。
「そうだった。知佳が連絡したなら、事情は知ってるだろう。ちょうど、治療しようと思ってたところだ。お前、早速で悪いが、今から治してやってくれ。準備はできてるから。」
「まあ、そのために来たんだけど・・今すぐ治すのは無理だよ。」
答えた息子に、父は怪訝な顔をした。
「ん?」
「上手く行けば、明日から治療に入れるかもしれないけど。ま、長くかかるなら、また来るし。」
一度脱ぎかけた靴を履き直すと、紺野は立ち上がった。
「知里探してくる。診察室は片付けてもいいよ。どうせ今日は何もしないし、自分で準備するから。」
父親は苦笑した。
「お前はやっぱり、大学病院の人間だな。」
「コスト意識に欠けるって?ま、俺も最近、ちょっとそう思う。」
言い残して、入ってきたばかりの玄関を出ると、紺野は周囲を見回した。
探すほどのことでもなく、知里は、紺野の車のサイドミラーを覗き込んでいた。どうもその前で口を開けているような気がする。
・・自分でも、気にしてるのか・・まあ、さんざん、母親に言われたんだろうけど・・痛いんじゃないだろうな・・
少し心配になる。
「ちさっちゃん。」
声を掛けると、パッと振り向いて顔を輝かせ、駆け寄ってきた。
「やっぱりおじちゃんのくるまだったー」
地面に片膝をついて迎えてやる。
「ひさしぶりだね。」
「ひさしぶりだねぇ。」
嬉しそうに言う知里の前歯に、さっと視線を走らせる。
上の前歯はすでに、4本とも虫歯に侵されているようだ。Bはまだ、白濁しているだけだが、Aは間が茶色から黒に変色して、溶けはじめている。紺野は頭の片隅に、前歯4本、とメモした。で、奥歯のことを考えると・・・治療する歯はけっこうな数になりそうだ。
・・けっこう気を付けてたはずだけどな・・ま、なってしまったものは仕方ないけど。
「おさんぽいこうーよー」
妙にご機嫌な知里は、紺野の手を取った。紺野は立ち上がって、手を引かれるままに歩き出した。

知里と手をつないで歩きながら、紺野は、夜に任されるであろう歯磨きまでは、歯の話題には触れないでおこう、と思っていた。2人の歯医者は「玉砕」してすっかり諦めたのかと思っていたが、さっきの父の様子では、その後も知里を治療しようと躍起になっているようだった。あの2人が焦るのもわからないではないが、甘えたい相手に追いかけ回されるのでは、子供もストレスが溜まってしまう。さっき紺野を見たときから知里がやけに嬉しそうなのは、久しぶりに自分を追いかけてこない相手だからかもしれない。
・・まあ、母さんがうまくやってくれてるとは思うけど・・・
紺野の母親は、昔は近くの女子大で教鞭を執っていた。専門は幼児教育で、付属の幼稚園の園長をしていたこともある。
・・でも、知佳ちゃんは母さんのフォローなんてぶち壊すほど攻めるタイプだからねえ・・・
と、知里を見ると、横の空き地で小学生が上げている、季節はずれの凧に見とれていた。
「ちさっちゃん、欲しいの?」
手を引いて歩きながら何気なく聞くと、知里は、
「もってるんだけど、あんなにあがらないの。」
と寂しそうに言った。ま、子供じゃあんまり上がらないかな、と思いつつ、
「お祖父ちゃんが上手だよ、一緒にやってもらったら。」
と言った途端、知里の足が止まった。
「おじいちゃん、いやなの・・・」
・・あぁ、地雷踏んじゃったかもしれない・・
そのまま、へえ、と受け流そうかどうしようか迷ったが、ここは思い切って聞くことにした。
「ん、どうして?」
知里は、むーっ、とふくれた後で、
「・・だって、おじいちゃん、はいしゃさんするから。」
と、もにょもにょと答えた。
『歯医者さんする』って表現は新しい、と感心している場合ではない。紺野の顔をちらっ、と上目遣いで見て立ち止まり、知里はさらに続けた。怒ってない、と確認したのかもしれない。子供は案外大人の機嫌に敏感だ。
「みるだけ、っていったのに、がりがりってしたの・・。」
・・ちょっと、お父さん、それはダメだって・・・
紺野は思わず心の中で突っ込んだ。そんなベタな禁じ手を。かといって、知里にお祖父ちゃんはダメと言うわけにもいかず、言葉を選ぶ。
「それは、可哀そうだったねえ。」
知里は、うん、と大きく頷く。
「じゃあ、お祖父ちゃんに、見るだけって言ったらがりがりしないでね、って言っとくよ。・・そろそろお家帰ろうか?」
と、紺野が手を差し出したが、知里は手を取るかわりに、さらに話し出した。
「ママにもゆってほしいの・・」
「ん?」
「ママにも、しないでね、って、ゆってほしいの。ママも、はいしゃさんするの・・」
・・そ、それは難しいお願いですが、頑張ってみましょう・・
「ん、ああ、はいはい・・。」
微妙に歯切れの悪い答えをしてしまい、知里から、じーっ、と、疑いの視線を向けられる。
「いや、ちゃんと言うって。ああ、他の人にも、何かお願いしたいことある?パパには?」
子供の頃、両親よりも叔父の方が、頼みごとをしやすかったのをふと思い出し、話題を変えたかったこともあって、紺野は提案してみた。ハムスターが飼いたいとか、ピアノが習いたいとか・・・。しかし知里は、
「パパは、はいしゃさんできないの・・。パパは、はいしゃさんじゃないから。」
と、うつむきながら言っただけだった。どうやら、知里の頭の中は歯のことでいっぱいらしい。そんな知里が不憫になって、紺野は一瞬顔を曇らせたが、明るい声で聞いてみた。
「そっか・・お祖母ちゃんには?」
「おばあちゃんも、できないの。でもね・・」
知里は思い切ったように言い、紺野を見上げた。ん?と、軽く目を見開いて応じる。
「あのね、おじちゃんにはおねがいがあるの・・。おじちゃん、はいしゃさん?」
ここで来たか、と観念して、紺野は知里と目の高さを合わせるようにしゃがんだ。
「どう、思う?」
知里の目を見ながら、穏やかな無表情に、ほんの少しだけ笑顔を加えた顔で聞いてみた。仕事場での顔だ。
「はいしゃさん、だとおもうの。」
「ははは、どうして?」
今度は笑顔で。つられるように、固い表情だった知里の顔も少し緩む。
「はみがき、じょうずだから・・おばあちゃんのは、ごしごしって、ちょっと、らんぼうなの。」
「そっか。うん、そうだね、歯医者さんだね。わかっちゃったか。」
うん、と少し得意気に頷いた後で、知里は「お願い」を口にした。
「あのね、おじちゃんは、はいしゃさん、しないでほしいの・・」
やっぱりそれか。紺野は、少し困ったような笑顔に変えて、うーん、と少し目を伏せてから、再び視線を戻し、
「よし、わかった、今日は、しないよ。」
と答えた。
「あしたもー」
知里が口を尖らせる。
「明日はどうしよかな・・・」
ここで、しない、と答えるわけにはいかないのだ。
「やだー」
「ん、ちさっちゃんが、嫌だって言ったら、しない。」
それを聞いて、知里の顔がパッと明るくなる。
「じゃあ、やだ。」
「でも、いいよ、って言ったら、するよ?」
「いわないよー」
「言ってほしいなー」
「いわないもーん」
知里は妙に嬉しそうに言い、すっかり、元の機嫌に戻った。紺野は納得したように小さく頷いて立ち上がり、知里と手をつないで、歩き始めた。

散歩から戻って来ると、すでに夕飯の支度ができていた。
「ただいまー。さっき帰ってたんだけど、そのまま知里に散歩に誘われて・・」
と声を掛けると、母、さらに義兄が、それぞれに期待に満ちた目を向けてくる。
知里の歯の治療騒動で、家の中が・・というより主に姉が・・ピリピリしているらしいのは想像が付いた。
「あ、まあ、なんとかするつもり・・」
紺野は頷いて見せるしかなかった。散歩中の会話を思い出すと、思っていたよりは手強そうだ。
・・今晩、歯磨きするときに状態を見て、明日までにどうするか考えようか。
しかし、何事も思った通りには行かないのが、世の常で・・・
知里が突然泣き出したのは、そのほぼ直後、夕食のテーブルでのことだった。
それまで機嫌よくしゃべっていた知里は、急に口をつぐんで静かになってうつむいた。あれ、と思う間もなく、顔を歪めて口を尖らせ、うくぅぅぅん、と泣き声を上げ始めた。
「ちさっちゃん?」
「知里?」
「ちぃちゃん?」
大人たちが驚いて、口々に声をかける。
「いだいー」
知里は、右の頬を押さえてさらに大声で泣き始めた。
・・ああ、来ちゃったか・・
紺野が近寄ろうとすると、姉の知佳が先に知里の顔を覗きこんでいた。さすが母親だ。
「どこが痛いの?あーんしなさい、ちさっちゃん。」
「ちぃちゃん、見せてごらん、ほら、あーん。」
紺野の父親も一緒になって知里をせっついている。
大人がこんなに興奮していては、子供がますます興奮して、頭に血が上って痛みが増してしまう。紺野は小さくため息をつき、二人を止めた。
「ちょっと、二人とも。落ち着いてってば。」
弟の少し大きな声に、びっくりしたように振り向いた知佳だったが、
「なに暢気なこと言ってるのよ。知里が可哀想でしょ。」
と言い放つと、また元の調子に戻ってしまった。
「ほら、あーんしなさい。ママに見せてごらん。あーん。」
「いーらーいー」
・・って、だから、そんなに興奮したら・・
しかし、実のところ、こんな姉を止めるのもこれまた自分には難しい。どうしたものかと思っていると、
「淳くん?」
と義兄の孝太郎が、心配そうな顔はしつつも、姉とは対照的なのんびりした声を出した。
「はい?」
「普段の仕事のときだったらどうするの?相手が知佳じゃなくて、普通のお母さんだったら?」
「え?ああ・・あんな感じだったら、子供から離れてもらいます・・お母さんが興奮してると良くないから・・」
「じゃあ、そうした方がいいんじゃないの?」
まあ、相手が普通のお母さんなら、と思いながら、紺野があいまいに頷くと、孝太郎はさらに続けた。
「自分のやり方に自信があるなら、相手によってそれを変えるべきじゃないと思うよ。」
言われて、紺野は孝太郎の顔を見た。それはもっともだ。でしょ?と聞かれて、そうですよね、と小さく答え、紺野は気を取り直して、姉に向かって声をかけた。
「知佳ちゃん、気持ちはわかるんだけど・・任せてもらえるかな?」
バッ、と再び振り向いた知佳の顔には、困って助けを求める母親の顔と、ホントにこの子に任せていいのかしら?という姉や先輩歯科医としての顔が同居していて、紺野はまた、一瞬ひるみそうになった。
「・・ホントに、なんとかしてくれるの?」
うん、と頷いて見せたものの、なんだか安請け合いっぽいかな、と思っていると、孝太郎がまた助け舟を出してくれた。
「そのために、わざわざ遠くから来てもらったんじゃなかったの?」
ん、そうなのよね・・と、知佳があっさり同意していて、いつものことながら、紺野は感心した。二人が結婚すると聞いた時、こんなおとなしそうな人があの知佳とやっていけるのだろうか、と皆で心配したのだが、どうやら杞憂だったようで、なんだかんだ上手くやっている。
「うーん、じゃ、任せる。そうよね、小児一筋8年目の腕に期待してるわ。」
急に吹っ切れたような顔になって知佳は言い、紺野は苦笑いするしかなかった。
「なに、いきなりその挑戦的な態度。」
「じゃ、すみませんけど、よろしく。」
「いえいえ」
孝太郎に頭を下げられて恐縮している間に、紺野の両親が、知里に、ね、おじちゃんに見てもらいなさい、と言い聞かせ・・知里の泣き声がひときわ大きくなった。
「おじちゃんきょうははいしゃさんしないってゆったもんー」
次の瞬間、いわゆる『お誕生日席』に座っていた紺野は、4人の大人の視線を一気に浴びることになった。
「ちょっとあんた、そんなこと言ったの?」
姉だけが口を開いたが、他の3人も同じことを思っているに違いない・・
「ええ、言いました・・」
「バカ」
そこでつい、条件反射のように
「知佳ちゃんがバカって言った・・」
と言ってしまい、横で孝太郎が吹き出した。そうすると、
「そういえば、昔はそう言って泣いてたな、いつから泣かなくなったんだろうな」
と父親がしみじみと言い、
「そんなだから離婚されんのよ」
と知佳が言い出して、
「それはまだ早いわよ、せめて半年待ってあげないと」
と母親が真顔で止め、もうこの場を離れたくなった紺野は大きくため息をついて立ち上がると、まだ頬を押さえて泣いている知里の横に歩み寄ってしゃがんだ。
「ちさっちゃん、今日は歯医者さんしないから、おいで。痛いとこ見てあげる。」
「・・ほんとに、しない?」
うん、しない、と頷くと、知里は頬から手を離して、両手を伸ばしてきた。そのまましゃくりあげている知里を抱いて、紺野はダイニングを出た。

・・さて、どうしよ。
とりあえず廊下に出たところで、紺野は考えた。何をしたらいいのかは、まあ分かっている。
食事中にあんなに突然泣き出したということは、崩れてしまった歯の欠片か、食べ物が虫歯の穴に詰まったのが原因に違いなく、そして、それさえ取ってやれば、少なくとも今の痛みはあっさり治まるはずなのだ。
問題はその方法で、診察室に連れて行って、軽く洗ってバキュームでもかければ一番簡単に済むけれど・・知里が承知するかどうか。
「ちさっちゃん?」
「なに?」
まだグズグズと半泣きのまま、知里が顔をこちらに向けた。
「歯医者さんのお部屋行っていい?」
「やだやだっ、おじちゃんはいしゃさんしないってゆったもん!」
途端に反撃にあった。同時に手足をバタバタ振り回されて、紺野は知里を落としそうになった。
「痛い、痛いって。わかったから。暴れないで。」
「いかない?」
「うーん、歯医者さんは、しないから。」
紺野は慎重に言葉を選んだ。その場しのぎで騙そうとすると、あとあと面倒なのだ。『子供は大人より知識が少ないだけです。頭が悪いのではありません。』と、この仕事を始めてから何度となく読んだ本にも書いてある。紺野が小児の講座に入ることを決めた時に、母親がくれた本である。
・・いや、今のじゃ納得しないかも・・
かすかに思った通り、また知里に蹴られてしまった。
「やだもんーっ」