ある日の午後。

「では、チーフ、行ってきます」

滝川晴香が、声をかけた。

「ああ、なんだっけ?」

「歯科検診です」

長かった歯の治療が終わって半年。晴香の定期歯科検診の日だった。

また何か、見つかればいいが・・半年ではね・・

奥田は、夢のような半年前を思い出していた。

 

1年ほど前だろうか、詰め物が取れた晴香は、このオフィスビル内の歯科クリニックにそれをつけてもらいに行った。

しかし、それ以外にもたくさんの虫歯が見つかり、結局、週1回は通っていたにもかかわらず、完治するまでには半年を要したのだった。

そこの歯科医は大変マジメで、奥田が治療内容を伝えてくれと言うと、毎回、詳細な報告を書いてくる。それを読むのが奥田の単身赴任生活の大きな楽しみであった。

しかも、治療が終わった日、晴香の口腔内を会議室でチェックするチャンスまで得た。

 

歯科医からの報告の確認だと信じている晴香は、奥田の前で大きく口を開けていた。広告の色チェックに使う、明るい電灯が口腔内を容赦なく照らす。

「ずいぶん・・多かったんだな、治療」

10本治しました・・」

「でももっとたくさんあるように見えるな」

「もともと銀歯だったところもありますから・・ギラギラで恥ずかしいです」

「いや、恥ずかしいことはないだろう、きちんと治してあるんだから」

しかし実際、右上2本、左上2本、前歯の裏に1本、右下3本、左下3本、それも全てクラウンか全面を覆うインレー・アンレーとあっては、ギラギラも相当なものだった。23歳やそこらの女性としては、恥ずかしがって当然であろう。

 

さて、晴香の口腔内。もともとインレーが取れてしまった左上の6番は、抜髄してクラウン。5番は、インレーの下の2次齲蝕だったが、奥田の期待に反してクラウンにはならず、しかし、アンレーが入り、しゃべるたびにキラキラ光って奥田を楽しませた。

右上の奥歯は、7番に新しい虫歯ができていたが、小さくレジンで治療され、特に見た目は問題ない。6番はインレーの下の2次齲蝕で、ここも大きなアンレーが上面を覆っている。

右下の5番、インレーの下の2次カリエスは大きく、ここは抜髄してクラウン。4番も、内部が大きく進行しており、後ろ半分を覆う大きなインレー。

チーフが特に気に入っているのは、もちろん、左下の3連ブリッジ。6番の2次カリがひどく、抜歯したため、5番から7番まで、3連の保険内銀パラブリッジが輝いている。

しかし、意外な掘り出し物は、左上2番。特に期待もしていなかったのだが、レジンの下の2次カリは大きく広がっていて、抜髄した後、なんと差し歯にしなければならなくなった。しかも、治療の場に居合わせるという幸運ぶりだった・・・

 

奥田は女性の虫歯や治療は好きだったが、自分自身は極めて丈夫な歯の持ち主であった。しかし、定期的に検診も欠かさない。その日は、せっかく同じビル内にあるからと、晴香と同じクリニックで検診をすることにしたのだ。晴香の治療の予約の直前に予約を入れた。ちょうど、計画通り、奥田が検診の後、歯石取りとクリーニングを受けているとき、晴香が治療にやって来た。

「今日は、前回型を取ったところ・・・右下の奥歯の銀歯をはめてから・・前歯の治療をしましょうか。すこし端の方が変色し始めているし。」

歯科医の後藤が今日の治療方針を説明している。

前歯ってなんだったかな・・たしかレジンの2次カリだ。

ちょっと治療内容が地味だったな・・別の日を選べばよかったか・・・と、奥田は隣の治療台の様子に耳を傾けつつ考えていた。

下の前歯の裏の歯石を取ってもらっている間に、晴香のインレーの調整が行われていた。

カチカチ噛んでみてくださーい、少し当たります、ちょっと削りましょう、という、奥田にとってはとても退屈な会話であった。タービンも歯に食い込むわけでもなく・・痛みもなく・・・

しばらくして、晴香の治療は前歯に移ったようだ。インレーの調整よりはマシだろう。奥田は隣の治療に耳を傾けた。

 

「では、滝川さん、次、前歯を診ましょう。昔の治療・・これね、樹脂で詰めてあるんですけど、この周囲から虫歯が始まってるんです。」

「はい」

「痛みはないですか」

「いえ、特に・・・あ、そういえば冷たいものがしみたことがあります」

「そうですか。それは少し進んでいるかもしれませんね・・・でも、最初は麻酔なしで削っていきましょうか。痛みが出るようなら麻酔しますから」

「はい」

治療台が倒される音がし、しばらくして、タービンの音がしはじめた。

ヒュィー ヒュィ、チュイン、チュイン、チュイン、

タービンの音は徐々に高さを増していき、さらに音が長く続くようになった。

キュィイイイイイイイイ、キュィイイイイイイイイイイイ

「んぁっ」

突然、痛そうな晴香の声が聞こえた。そしてその声は、やがて連続的になった。

「ぁあ、ああ、あ、んはぁあああ・・」

どうやら、かなり痛むらしい・・・

「痛みますかー、もうちょっと頑張って・・」

衛生士がはげます声が聞こえる。

「ん、んぁ、んあ、んあ、ぃ、ぃぃぁああああぃいい」

声はどんどん大きくなり、徐々に涙声も混じってきた。

奥田は興奮を抑えきれず、さらに耳に神経を集中させる。

「あー、こりゃちょっと進んじゃってるなあ、もうちょっと我慢して・・」

若干、後藤の声に困惑が混じっているような気がした。目を閉じ、頭の中で晴香の前歯を・・それが削られている様子を思い浮かべる。

奥田が観察した様子では、晴香の左上2番のレジンは3番との境目から歯の付け根にかけて、歯の前面の3分の1くらいまでの幅で詰められていたはずである。しかし、最近、1番に接している側も、裏側からの虫歯といった感じでごくうっすらと変色してきているのを奥田は見つけていた。今はどちら側が削られているのだろうか・・・

「ぁあああっ、ぃはあああああっ」

泣き声を聞きながら、晴香の前歯が削られてなくなっていく様子を想像する。しかし、すでにずいぶん長い時間削っている気がする。そんなに削ったら・・露髄するんじゃないか?

「ああ、これはちょっと・・思ったよりずいぶんひどいな・・・」

後藤の声が聞こえ、キュウウウゥゥゥ、とタービンが止まった。治療台が起こされる気配があった。

「滝川さん、この前歯なんですが・・」

後藤が説明し始めたところで、奥田も、左手を上げ、

「ちょっと口ゆすいでもいいですか」

と、治療台を起こしてもらった。ちょうど衛生士も用事があったのか、

5分休憩しましょう」と、奥へ引っ込んでいった。

さりげなく、隣の治療台を見る。なんと、いつの間にはめられたのか、晴香がアングルワイダーを付けられ、歯と歯茎を剥き出しにした状態で、後藤の説明を受けているではないか。左上2番は・・3番側から大きく削られ、幅が半分近くまで細くなっていた。

「で、神経まで行ってしまっています。こちらもまだ取り切れていないのですが、レントゲンを見ると、反対側からも虫歯がかなり進行しているようなので、このままだと強度がもたないので、かぶせる治療にしないといけません。」

「かうせる、というと・・」

アングルワイダーをはめた不自由な口で、晴香がおそるおそる聞いている。

「一般的には、差し歯と呼ばれています」

晴香が息を呑み、顔が硬直した。

晴香の母は、50歳近くなった今でも自前の前歯を保っていたが、母の妹にあたる叔母は、かなり若い頃から差し歯で、母がときどき、

「ちゃんと歯を磨かないと叔母ちゃんみたいになるわよ」と脅していたのであった。実際、晴香も子供のころから、歯の汚い叔母ちゃん、と少し思っていたので、差し歯はある意味恐怖であった。まだ23歳なのに・・・

泣きそうになっている晴香の顔を見て、奥田の興奮はますます高まった。

そこで奥田の担当の衛生士が戻って来てしまい、奥田のクリーニングは再開されたが、さっき見た削られた歯と、差し歯になるショックの中で治療を受けている晴香の心中を想像しながら、タービンの音と晴香の上げる泣き声を聞くという最高の状況であった。

晴香は、左上2番を差し歯にした。7000円の保険内のものではなく、7万円のメタルボンドの差し歯を選択したようだった。

 

晴香が定期健診に出たあと、奥田は机の上の紙に、晴香の歯の状況を書き、あれこれ想像していた。

可能性があるとすれば・・やはり2次齲蝕か?晴香の治療はほとんどが2次齲蝕だったのだ。

左上7番と3番のレジンか・・唯一6番のインレーで2次齲蝕を免れていた右下・・・あとはどこが・・・

考えているうちに取引先から電話が入り、その後しばらく晴香のことを忘れて仕事に集中した。

 

ふと気付くと、晴香が出かけて行ってから、すでに40分が経とうとしていた。待ち時間があったとしても少し長いような・・・これは・・また何か見つかったかな?

奥田は期待に胸を膨らませた。歯磨き指導でした、などと言われたらがっかりだが・・・

 

結局、晴香が戻って来たのは1時間半後であった。少し浮かない表情だ。

「遅くなってすみまへんれした・・」

少ししゃべりにくそうでもある。麻酔が必要な治療だったのだろうか。さらに、なぜか口に手を当ててしゃべっている。

「ああ、どうだった」

軽く尋ねると、

「また何本か虫歯があって・・少し通わなけれわならなくなりました・・これ、先生がお渡しするようにと」

晴香が封筒を差し出した。

「ん。わかった。」

例のごとく興味がなさそうに受け取ったが、軽く会釈をして帰っていく晴香を目で追う。

デスクに座った晴香は、パソコンを開いて仕事を始めたが・・ときどき、左手を頬にあてて軽く顔をしかめていた。

奥田は、封筒を大事にブリーフケースに仕舞うと、今日は残業せずに家に帰ろう、と決めた。

 

その日、家に帰ると、軽く夕飯をすませ、封筒から紙を取り出す。

患者氏名:滝川晴香 年齢 24歳

定期歯科検診

右上 7番:レジン治療済  6番:アンレー(銀歯)治療済 5番:インレー治療済 4番:レジン(プラスチック)治療済 2番:1番との境から虫歯、C1要治療 1番:2番との境から虫歯、C2要治療
左上 7番:レジン治療済だがその下と遠心面から虫歯が進行、要治療 6番:クラウン治療済 5番:アンレー治療済 3番:レジン治療の横から虫歯、要治療 2番:メタルボンドクラウン治療済
右下 7番:レジン治療済 6番:インレー治療済 5番:クラウン治療済 4番:インレー治療済
左下 7番: 6番: 5番:ブリッジ治療済(6番抜歯済)4番:遠心面から虫歯、C1要治療
現時点での要治療歯:5

 

何本か虫歯が、と晴香が言ったので、せいぜい23本かと思っていたが、5本・・ずいぶん作ったな。このまま行くとすぐに健全歯がなくなってしまうんじゃないか?と奥田は想像していた。今日の晴香の治療は・・左頬を押さえていたところから見て、左上の7番だろう。奥田は早速、2枚目を読み進めた。

 

患者の口腔状況

前回の治療終了から半年後の検診であるが、半年間にしては新規の虫歯が多い。ブリッジ装着により、口腔内の衛生状況が若干悪化していると思われる。それに伴うと思われる口臭もある。

 

晴香が口に手を当ててしゃべっていた理由はこれか。おそらく口臭を指摘されたのだろう。若い女性が口臭を指摘されたときの衝撃は想像に難くない。

 

本日の治療内容
左上7番の治療。溝に沿ったレジン治療の下から虫歯が進行していたほか、遠心面にも虫歯で穴が開いていました。虫歯の部分を削っていったところ、遠心面からの虫歯が予想よりもひどく、内部がほぼ崩壊していたため、麻酔をし、治療を進めました。歯髄の除去を行い、薬を詰めてあります。ブリッジ周辺の清掃も行いました。

治療に要した時間

1時間30分 検診20分 治療50分 清掃20

今後の予定

次回以降、歯髄内部の清掃を数回にわたって行う必要があります。適宜、他の虫歯の治療も平行して進めて行く予定です。右上1番はすでに冷水痛があるため、早めに治療を進めたいと考えています。

 

半年にしては上出来、と言えるが・・・やはり半年しか経っていないため、大物はないようだ・・・と奥田は考えていた。

実際、治療はほぼ1ヶ月で済んでしまい、左上7番がクラウンに、3番は大きいレジンにやり直し、右上1番と2番、左下4番も普通にレジン、という治療結果であった。前歯のレジンを時限爆弾の仕込みと考えて待つしかないか・・・奥田は、すでに目立ち始めた左上2番のメタルボンドの周囲の歯茎の黒ずみを眺めながら、そんなことを思っていた。