3時前か。次で最後ってとこかなー。そうだといいなー。
衛生士の昌子が、カチャカチャと器具を並べているのを見つつ、平木は立ち上がって、首と肩を回した。
根管治療を二人もやると腕が上がらなくなる、と言う歯科医が多い中、大学病院で、歯内療法、すなわち根管治療やら抜髄やらを専門にしている平木は、今日も午前中だけで3人、午後にすでに1人、それもかなり手強いのを終えていた。まあ、他で手に負えないのが回ってくることが多いので、手強いのも当然といえば当然ではあるが。
「さすがに、午前中3人だと、午後きついな。」
「先生、もう年ですね」
昌子がわざわざ嫌なことを言う。
「何言ってんだよ、同い年だって知ってるよ」
「ばれてましたか・・」
「前に自分で言ってたよ?育休明けかなんかで初めて一緒になった日にさ。」
ピロリーン。
音と共に、隅にあるパソコンのディスプレイに、次の患者のカルテが届いたというメッセージが出た。
「はいよはいよっと」
平木は、キャスター付きの椅子に座ってずずーっ、っと滑り、ディスプレイの前に移動した。
「機械に向かって返事するのって、おじさん臭いですよ」
「もう年ネタはいいから。・・・あれ、追加資料を見ろだって。なんか来てたっけ?」
言った直後、担当のスタッフ、道子が資料を持ってやってきた。
「はい、平木先生、これ、次の患者さんです。ちょっと遅れるって連絡があったので、20分くらい休憩できますよ。」
病院内のカルテは電子カルテだが、他からの紹介の場合、カルテやレントゲンは、紙のままであることも多い。
「あ、ありがとう。ねえ、この患者さんで最後?」
平木は期待を込めて聞いた。
「その予定ですね。」
道子の言葉に、平木はよしっ、とガッツポーズをする。
「ふふ、お疲れ様です。じゃあ、よろしくお願いします。」
「またねー」
頭を下げて帰って行く道子の後ろ姿に小さく手を振る。
「先生、にやけてます。」
「笑顔で見送ってんの。もう、野島さん、口が悪いな。」
腕はいいのに、と小さくつぶやく。特に昌子の作る綿ブローチは秀逸で、ときどき、頼んで余分に作っておいてもらうほどだ。
「ああ、20分くらい時間があるってんならさ・・」
「ブローチでも作りましょうか?」
「・・まさに以心伝心。言おうと思ってたとこ。」
「でもこの間、村松先生には、野島さんのブローチはすぐ抜ける、って文句言われちゃいましたよ。」
「ま、相性があるからな。俺は抜けが悪い方が嫌いなの。」
言いながら、平木は道子が置いて行ったカルテを手に取った。
「おー、17歳。女子高生。」
思わず声を上げて、昌子に冷たい目で見られる。
「っていうか名前読めねぇ。なになに、ひ、な、だって。太陽の菜っぱって書いて、ひ、な。」
「菜っぱって・・」
昌子が苦笑いしてから、ふと思いついたように言った。
「でも、17歳でもう、歯内のお世話になるって、ちょっと早いですね?」
「んー、そうだなあ・・」
平木は、カルテの後ろからパノラマレントゲンを引っ張り出して、灯りにかざした。
「ああ、根っこは初めてみたいだ。でもまあ、最近の子にしては治療が多いほうかな・・・。」
ざっと見て、奥歯に白く写るインレーが10本ほど。根充された歯はないようだ。カルテによれば、さらに、上の前歯と奥歯数本にレジン治療が施されているらしい。
添付されていた紹介状にも目を通す。右上6番のインレー脱離で来院したが、レントゲンを撮ると神経に達しているようなので、抜髄してほしい、と書かれている。
「なーんだ、単純に麻抜で済みそうだよ。麻酔あっためといて。」
「はい。」
昌子が指示に従いながら、不思議そうに聞く。
「でも、それって、わざわざ大学病院に頼んでくることですか?」
「んー、コンチとか抜髄とか、手間の割には点数にならないらしいから、街の歯医者ではあんまりやりたくないらしいよ。ま、手抜いて適当にやるよりは、さっさと回す方が良心的じゃん?」
そう言いながら、平木は、空いた右手で、頬の上から右下6番に触れた。点数にならないんだからね、と文句を言いながらも、同級生の萩原佳奈子は、手を抜くどころか、ずいぶん慎重に進めている。実は今日も仕事が終わったら、治療に行かなければならない。もう1ヶ月近く経つので、そろそろ終りにして欲しいと思っているが、嫌なことに、さっきからまた、重い感じがする。
・・また、『最初に放っておいたからいけないんでしょう』とかなんとか、怒られるんだろうなあ・・
平木は、少し顔をしかめて、ため息をついた。

「まだ時間あるよね」
と、平木がトイレに行った直後、ちょうど、制服姿の竹内陽菜がやってきた。
「あの、遅くなってすみません・・よろしくお願いします。」
丁寧に挨拶し、頭を下げる様子はしっかりしているように見えるが、かなり心配そうな顔だ。
「どうぞ。荷物はここに置いてね。先生、すぐに来ますから。」
昌子は、平木先生、タイミング悪、と思いながら笑顔で応対し、陽菜を治療台に座らせると、エプロンをつけた。
陽菜は少しうつむいて、指先をいじったり、スカートをつまんだりしている。
「大丈夫よ、そんなに・・あ、先生戻ってきたわ」
昌子の声に、陽菜はビクッ、として、おそるおそる振り向き・・直後、なぜかホッとしたような顔を見せた。
「あ、ごめん・・どうも、治療を担当する平木です。」
少し焦った様子の平木に、陽菜はまた、よろしくおねがいします、と頭を下げた。
「緊張してますか?」
椅子を引き寄せて座りながら、平木が優しく聞いている。
・・可愛い若い子が来たからって、なんだか優しくしてる・・
昌子は思ったが、そういえば、平木は前よりもずいぶん、患者に優しくなった気がする。昔から別に怖いわけではないが・・職人型というのか、仕事は丁寧なのに、人あしらいはちょっと無神経という印象だった。
「あ、少し・・でも、大学病院の専門の先生って言うから、偉そうなおじさんの先生かと思ってたんですけど・・普通の・・若い先生でちょっと、安心しました。」
ゆっくりと、陽菜は答えている。『若い先生』はポイント高いわよ、と昌子は心の中で拍手を送った。さっき自分がさんざん、年をからかった後だけに。案の定、平木はふふん、という視線を昌子に送ってきて、ずいぶん満足そうだ。
「さてと。じゃ、治療に入ろうと思うけれど・・」
平木が言いかけると、陽菜はまた少し表情を硬くした。
「向こうの先生に、どんな治療になるか、聞いてきた?」
という平木の問いに、陽菜は少し困ったような顔をして、
「あの、神経を抜くって言われました・・けど・・」
と話し始めた。けど?と平木が聞くと、思い切ったように言葉をつなぐ。
「でも、私、銀歯が取れちゃっただけなんです。・・別に痛くないし・・だから、そんなことしなくても、また普通につけてもらえれば、それでいいんですけど。」
今度は、平木が少し困ったような顔をする番だった。普段、なんとか根の治療を上手にしてもらいたい、という患者ばかり相手にしているので、神経を抜く必要について説明したり説得したりするのには慣れていない。医局が担当する一般の外来、いわゆる「むし歯外来」に移らずに、紹介されてくる患者だけを担当する歯内治療科に留まっているのは、そのあたりの仕事が面倒だというせいもある。
「あ、取れた銀歯も、ちゃんと持って来ました。」
平木が言葉に詰まっていると、陽菜は胸ポケットから、畳んだティッシュペーパーを取り出した。開いて、包まれているインレーを取り出すと、畳みなおしたティッシュの上に載せ、平木に差し出した。
「あ、私がもらうわ」
戸惑っている様子の平木に気付いた昌子がサッと2人の間に手を出してそれを受け取った。昌子はそれをトレイの隅に置き、先生、ほら、がんばって、と軽く睨んでみる。
平木は、とりあえず、間を持たせようと、それを眺めるように顔を近づけた。十字型の溝を覆うだけのインレーではなく、頬側にも大きくはみ出していたであろう、ゴロリとした大きいものだ。厚みから言っても、前回、このインレーを入れたときの治療もすでに、神経ギリギリだったはずだ。よし、と思って、平木は陽菜に向き直った。
「えーと、銀歯がとれたときは、中で虫歯で進んでいるってことが、よくあってね。で・・」
しかしせっかく言いかけた言葉は、陽菜に途中でさえぎられた。相手が「若い先生」というのが、陽菜に力を与えてしまったようだ。
「それは、知っています。銀歯が取れたのも初めてじゃないし・・でも、それでも、ちょっと削って、また型を取って、新しい銀歯にすればいいんですよね?」
陽菜は、平木をまっすぐ見ながら言った。かなり可愛い・・からではなく、返す言葉に困って、平木はドキドキした。唇から時折のぞく前歯を見て、そこも再治療になるかもしれない、と思ったが、それは今言うことではない。
「ん・・そうなんだけどね・・ある程度までは・・」
なんとか説明を始めようとすると、昌子が横から、歯の断面の印刷された紙と赤いペンを出した。
・・すげー、野島さん。助かるー。
「ん。ああ、ありがとう。」
拝み倒したいほどの気持ちを隠し、なるべくさりげなく、威厳を保ちつつ昌子にお礼を言ってそれを受け取ると、平木はペンを取り、サッ、サッ、と歯の断面の一部を斜線で塗りつぶした。
・・美術は得意だったんだよねー。
と思ったが、それを発揮する余地はこの絵には全くないな、と思い直し、陽菜に見せる。
「えっと・・竹内さん。」
「ヒナちゃんって呼んでください・・タケウチサン、だと、緊張しちゃうのです。」
「あ、そう?じゃあいいや、ヒナちゃん・・の銀歯が取れてしまったところ、右上の歯はね、もともと、神経ギリギリまで削ってあったのです。」
「そうなのですか。」
「・・そうなのです。」
後ろで、昌子が声を殺して笑っているらしいのがわかる。まったく、調子が狂う。気を取り直して、図を示す。
「ここ、この図で灰色になってるところが神経ね。で、今回・・やっぱり虫歯が進んで銀歯が取れてしまったようなんだけれど・・前がギリギリだったからね、虫歯が、神経にまで届いてしまっているんだよね。だから、神経を取らないと。」
・・言えた。
平木は、妙にホッとした。こんなことを誰かに説明したのは・・衛生士学校に補習授業をしに行ったとき以来である。しかし、女子高生は衛生士の卵より手ごわかった。
「でも!」
陽菜は言葉を返した。
・・え、まだダメでした?
平木は、ちら、と陽菜の顔を見た。緊張しているようには見えない。ふと胸を見ると、校章のピンの横に、委員、というピンが付いている。
・・あー、俺、学級委員とか生徒会役員タイプって苦手・・。
と逃げたくなる気持ちを抑え、ん?何かな?という顔をしてみる。
「でも、虫歯が神経にまで行ってしまったら・・痛いんじゃないんですか?私、別に痛くないんです。」
「ぅ・・んと・・」
一瞬言葉につまった平木だったが、昌子が動く気配を感じて、振り向いてみると、陽菜のカルテに付いていた、右上6番付近のデンタルを渡された。
「そうそう、これが欲しかったの。ありがとう。」
またまたさりげなく礼を言って、レントゲンを少し上にかざしながら、陽菜に向き直る。
「これ、向こうの先生からもらった、ヒナちゃんのレントゲンだけれどね・・」
陽菜も真剣な目でレントゲンを見上げる。
「この真中が、銀歯が取れちゃってる歯、6番って呼ぶんだけどね。なんとなく黒くなってるでしょ?これが虫歯になってる部分。この下の方の黒いのは、さっきの神経。で、ほら、虫歯が、神経にまで届いてるの。わかるかな?」
「・・はい・・わかり・・ます・・・。」
まさに百聞は一見に如かず、陽菜はしぶしぶ頷いたが、完全には納得できないようだ。
「でも・・痛くないんです・・」
「もちろん、本当に神経に届いてしまってるかどうか、ちゃんと診るつもりだけれど。まあ、たまにね。まだ菌がおとなしいとか、そういう理由で、神経に届いていても、痛みが出ないことは、あるね。うん。」
少し余裕が出来たので、平木は、陽菜の『でも』にも対応できるようになった。
「痛くなくても、神経、取らないとダメなんですか・・?」
「うん、神経に届いちゃってたら、取らないとダメ。後で膿んで、顔の骨が溶けて穴が開いたり、ほっぺたから膿が出てきたりね、当然すごく痛いんだけど・・あと・・」
「ちょっと、先生!」
昌子にたしなめられ、ふと見ると陽菜は怯えたような顔をしている。
・・おっと。
平木は一息つくと、口を開いた。
「ま、そうなる前に、きちんと神経の入っていた根をきれいにしておかないといけないんだよ。じゃ、治療に入っていいかな?」
「はい・・よろしくお願いします・・・」
陽菜はしゅんとして、また頭を下げた。
・・よし、とりあえず、勝った。
勝ち負けの話ではないが、あまりに苦労したので、平木の中では、そんな気分だったのであった。
「あ・・あの・・」
治療台を倒そうとすると、陽菜がまた声を出した。
「何かな?」
平木の問いに、消え入りそうな声で答える。
「あの・・痛くないように・・してください・・おねがいします・・」
懇願されて快感を覚えるほど悪趣味でもない平木は、また動揺した。しかも、自分でも先月、不本意ながら受けてきたばかりなので断言できるが、この後には痛い治療が控えているのだ。
・・ど、どうしよ。でも、痛いもんはしょうがないんだよな・・痛くしないって言って痛かったら、恨まれるだろうし・・
「も、もちろん、なるべく痛くないようにするけれど、虫歯が深いと、ある程度の痛みは出てしまうよ。あ、でも、痛かったら言って。止められそうなら止めるから。」
なんとも煮え切らない答えを返し、様子を伺う。
「・・はい。」
「じゃ、倒すよ・・」
平木は、ようやく、治療台を倒すボタンを押すところまでこぎつけることができた。

・・ふぇ・・始まっちゃう・・
治療台がゆっくりと倒れて行く中、陽菜は心の中では半泣きだった。
発端は日曜日の夜だった。通っている歯科の先生に、
「ヒナちゃんは虫歯になりやすいから、頑張って歯磨きしてね。デンタルフロスもちゃんと使って。」
と言われているので、陽菜は念入りにフロッシングをしていた。
・・・もうこれ以上、虫歯にはなりたくないもん。
歯が悪いのが、陽菜の悩みだ。歯もきちんと磨いているし、大好きな甘い物だって、小学校の頃から、週2回だけと決めて控えているのに、虫歯はできてしまい、今では、銀歯も10本以上になってしまった。クラス委員もしていて几帳面、しっかり者として通っている陽菜は、それを皆に知られたくなくて、いつも歯科検診で記録係・・皆の検診が始まる前に保健室で先に自分の歯を診てもらい、保健の先生に記録をつけてもらえるから・・に立候補しているが、陽菜が知る限り、クラスに陽菜以上に銀歯、いや、白い詰め物を含めても、治療してある虫歯が多い子は居なかった。
大学に入ったら、バイトしてお金を貯めて、銀歯を白い歯に替えよう、と思ったこともあったが、替える時にもまた虫歯の治療と似たようなことをされることになると気付き、あっさりとあきらめた。そう、虫歯の治療が痛いのも、陽菜は本当は苦手だった。
そんなわけで、鏡を見ながら丁寧にフロスを使い、上の奥歯の間に入れて、ぴっ、と抜き・・変に手ごたえが軽い、と思った瞬間、コロリ、と下の歯に何かが当たった。
・・あぁぁ、まただ・・・銀歯取れちゃった・・・
丸いような尖ったような、少し冷たい物体を舌で探し出して、指でつまみ出す。やはりそれは、取れた銀歯だった。
陽菜はため息をついて、母親に歯科の予約を頼みに行った。
翌日、陽菜は、かかりつけの歯科の治療台の上に居た。
・・削られちゃうかなあ、そのまま付けてくれないかなあ・・・
少し落ち着かない気持ちで待っていると、助手のお姉さんが、治療台のシャーカステンに、さっき撮った小さなレントゲンをセットして行った。
陽菜は顔を近づけて見たが、白いのは銀歯らしい、ということ以外、よくわからない。
「こんにちは、ヒナちゃん。」
笑顔でやって来た歯科医は、レントゲンを見ると、少し難しい顔になった。ような気がした。
そのまま、治療台が倒され、いつものように、ライトが点灯されて、陽菜は口を開けた。ミラーが、銀歯の取れた歯の周りに当てられ、カチ、カチ、と音を立てる。
「ヒナちゃん、ここ、痛くないかしら?」
「いえ、大丈夫です・・けど・・。」
もし痛くても、痛いと言ってはいけないような雰囲気を陽菜は感じた。しかし、痛くないと言ったのに、歯科医の口からは怖そうな言葉が発せられた。
「そう・・この歯は、神経を抜かないとダメだわ。でも、私はその治療はしないから、大学病院の、神経の治療が専門の先生のところに行ってね。紹介状書くわ。」
「え・・・あの・・」
神経、大学病院、専門の先生、紹介状・・・なんだかドラマのような言葉が並び、自分がものすごい病気に罹ってしまったかのようだ。
「それって、難しいんですか・・・」
陽菜は不安をぐっと隠して、なるべく冷静に聞いた。
「大丈夫よ、普通の虫歯の治療とほとんど同じよ。それに、上手な先生だから、心配いらないわ。あ、もう一度、あーん、してね。」
今度は、ミラーが口の中をあちこち動き回っている。
「うーん、ヒナちゃん、また、虫歯作っちゃったみたいね・・・ちゃんと歯磨きしてるの?ま、それは、神経の治療が済んでからにしましょうか。向こうの先生にやってもらってもいいわ。」
・・また、虫歯?歯磨き、ちゃんとしてるのに・・
陽菜は、体がずるずると沈んで行きそうなくらい落ち込んだ。
そんなわけで、陽菜は大学病院にまで来ることになったのだった。治療台は最後まで倒れ、さらにその後、全体が少し上に上がって、止まった。
・・ああ、ホントに始まっちゃう・・・
「じゃ、ヒナちゃん、お口開けてくれるかな。」
『大学病院の、神経の治療が専門の先生』は言った。案外若くて、自分の話もちゃんと聞いてくれたので安心していたが、今、マスクをした姿を見ると、やっぱり、怖い。
「ヒナちゃん?」
先生の顔を見ながら固まっていたので、反対側から、衛生士さんにも声を掛けられてしまった。陽菜は黙って頷くと、口を開け、ゆっくり目を閉じた。

・・・痛くないようにって、言葉で言われちゃうと、ちょっとプレッシャー・・・
平木は平木で、これまた心の中で、少々弱っていた。
言い訳するわけではないが、グリグリと神経を抜くのが、痛くないわけがないのである。綺麗に腐り切ってくれていればともかく・・・とりあえず、力は尽くしておこう、と、まず、表面麻酔も使うことにした。
「最初に麻酔するけれど・・その前に、チクっとしないように、薬塗るからね。」
話しかけると、陽菜は薄目を開けて頷いた。平木は頷き返すと、唇を右上にぐいっと引っ張り上げる。右上は、5番と7番にもインレーが入っていて、7番の頬側の溝にはみ出した銀が、ライトにギラリと光った。これから治療する6番は、舌側こそ壁のように歯が残っているものの、頬側には、5番に近い方にほんの少し柱のように歯質が残っているだけだ。そして、内部には虫歯に侵されているらしい少し柔らかそうな象牙質。綿球にゼリー状の表面麻酔を取って、歯茎に塗り込む。歯列の内側にも。
しばらく待って、平木は、麻酔のシリンジを手に取った。カチャリ、という音で気配を感じたのか、陽菜がまた薄目を開け、近づいてくるシリンジを確認すると、ぎゅっ、と、眉間にしわが寄るほど目を閉じた。お腹の上に載せた手も、ハンカチを爪が白くなるほど握りしめている。
・・いやいや、まだ、麻酔だからね、もっと楽にお願いしますよ・・
平木は心の中で思いながら、
「じゃ、打つよ・・」
と言って、歯茎に針先を、ぷすり、と刺した。
すでに眉間にしわが寄っている顔は、特に変化がない。表面麻酔が効いているのかもしれない。実はほとんど今まで使ったことがなかったが・・けっこう効くらしい。たまには使ってもいいかもしれない。
表面麻酔は点数にならないらしいが、実のところ、保険の点数になろうとなるまいと、単なる病院の一勤務医である平木にはあまり関係がない。かといって痛くない治療をしてくれると評判になったところで、これまた平木には関係がない。
・・そう考えると、張り合いのない仕事だな、オレ・・
場所をかえて何箇所か刺し、シリンジを1本使い切る。
「麻酔が効くまで、少し待とうか。いったん起こすよ・・。」
陽菜は、治療台が起こされると、少し緊張がほぐれた様子だったが、何か言いたそうだ。
「どうかした?口の中気持ち悪かったら、濯いでいいよ。」
黙って首を振る陽菜を見ながら、この、半分子供のような若い子というのはちょっとメンドクサイ、よく10年以上も小児歯科なんかやってるな、あいつ、と、平木は先輩の小児歯科医の顔を思い浮かべた。もっとも彼のほうでは、大人の方がメンドクサイと思っていそうではある。
なんだか手持無沙汰なので、もう一度、陽菜の大きなレントゲンを眺めてみる。日付を見ると、10か月ほど前に撮ったものらしい。
「・・・それ、私のですか」
陽菜がおそるおそる聞いてきた。
「ん?そう。1年近く前だけどね。」
「あの・・」
「ん?何か?」
陽菜は明らかに何か言いたそうだ。あ、そうだ、と思いついて、平木はマスクを外してみた。
平木の彼女ののぞみは歯科恐怖症なので、その先輩小児歯科医・紺野に頼んで診てもらっているが、彼が診察中、必要が無くなるとすぐにマスクを外すのがずっと気になっていて、前回ついに、
「なんで?マスク嫌い?口臭いの?」
と聞いてみた。可笑しそうに笑った紺野の答えは、
「マスクしてると、子供は怖がり方が違うから」
というもので、へえ、と思ったのを思い出したのだ。もっとも、平木が愛用しているのは外科用のマスクで、ゴムは耳ではなく頭の後ろにかかっていて、外すのは面倒なので、顎の方にずらしてみただけである。
・・ホントにマスクなんか怖いかね?
と思っていたが、途端に、陽菜の顔が少しホッとしたような顔になって驚いた。
・・・あ、効いた・・
しかし陽菜はさらに、ふふふ、と笑い出した。
「何?俺の顔に何か付いてる?」
「いえ、弟がこのあいだ自転車でコケて・・顎を擦りむいて、なんか、そんな風になってました。」
どうやら、顎にマスクをしているのを笑われているらしい。どう反応していいのか微妙に困るが、まあ、陽菜がカチカチに緊張しているよりはずっとやりやすいし、平木は別に女性が苦手なわけではないのだ。とりあえず会話を続けることにした。
「あ、そう・・ヒナちゃん、弟がいるんだ?」
「居ます。センセイは?お姉さんとかいますか?」
「ん、姉と妹が。」
「あー。」
「何、その、『あー。』は?」
「超納得です。」
「皆そう言うんだけど、それ、何?どういう意味?」
「お姉さんと妹さん、あー、ナットク、です。」
「あー、道理でかっこいいと思った、ってこと?」
「え?かっこいい人と兄弟、関係ないですよね。」
「・・うん、ない。」
・・はっきりしてんなあ、委員は。
さっきから、平木の中では陽菜は委員というあだ名になった。お世辞とかそういうものは言ってくれないようだ。とりあえず、話を戻す。
「ところで、さっき、何か言いかけなかった?俺がレントゲン見てるとき。」
「え?あ・・はい・・」
陽菜は少しトーンダウンしながらも、口を開いた。
「私・・この右上以外にも・・虫歯があるって言われてて・・」
「ん?ああ、そうみたいだね。」
紹介状にも、他の齲蝕の治療も進めてくださってもけっこうです、などと書かれていた。進めてもいい、と許可を出すなんて変な紹介状だな、と思ったのと、あまり普通の虫歯の治療は興味がないのとで、特に何もするつもりはなかったのだが。
「え・・見ただけでわかるほど・・虫歯ですか・・」
陽菜が少しひきつった顔になったのであわてて弁解する。
「いや、紹介状に書いてあったからさ。口を開けただけで見えるような虫歯はなかったと思うよ。」
・・前歯はちょっと気になったけど。
というのは黙っておいた。陽菜は一瞬だけホッとしたような顔を見せ、またおそるおそるという感じで喋り出した。
「あの・・歯・・どこが虫歯なのか気になるんですけど・・診てもらえます・・か?」
実は、検診なんてもうずいぶんやっていない。正直に白状すると、面倒だ。
「んー・・でも、今、3月でしょ、学年変わったら、すぐ学校で検診あるんじゃないの?」
「あの・・学校の検診はあんまり意味がないって・・見逃されちゃうって・・」
平木は目を丸くした。見逃してもらえたらラッキー、と思わない高校生が居たなんて、驚きである。さすが委員は真面目だ。
「だから・・診てもらえないかなと思って・・」
「ん、まあ診るくらい、いいけど。ねえ、野島さん、ここさあ・・」
検診なんてできないよね、と言おうかと思って振り向くと、
「いつでもどうぞ。」
すでに昌子はディスプレイの前に座っていた。画面を見ると、現在の歯の状態を入力する画面になっている。つまり、検診用だ。
「先生、なるべく細かくお願いしますね。」
「ほぁい・・」
と、おかしな成り行きで、平木は、陽菜の歯科検診をすることになった。女子高生の検診したぜ、と同級生に自慢しよう、と不謹慎なことを思いながら、平木はマスクを元通りに戻し、陽菜の椅子を倒した。

「じゃ、口開けて・・」
倒された治療台の上で、また少し緊張気味の陽菜は、小さく頷くと、ゆっくりと口を開け、目を閉じた。
・・あれ・・どこから行くんだっけ・・?
向かい合って大量にこなす検診はやったことがあるが、診察室で検診するのはあまり経験がない。ミラーを取って・・迷っていると、昌子から声がかかった。
「先生、右上からお願いできますか。入れやすいので。」
「あ、はい。右上から・・」
7番はさっきも見たが、大きめのインレーが十字に、頬側の溝も覆うように入っていた。
「7番は○・・あ、ねえ、細かく言うって・・」
「インレーですか?」
「ん、そうです。で、次、6番は、今から治療するとこ。」
「はい。インレー脱離ですよね?」
「あ、そうです・・」
やはり慣れていないと、検診でもあまりスムーズに行かないようだ。少し落ち込んで、一般外来も少しは出ようかな、と思いつつ、とりあえず先を続ける。
「5番・・○・・インレーです。」
「はい。」
次の4番は、溝が色付いているが、着色ではなく・・溝の周囲の白濁具合から言って、すでに虫歯のような気がする。ミラーを左手に持ち替え、右手でエアーをかけると、陽菜がビクッ、と顔をしかめた。
「あ、ごめん、痛かった?ヒナちゃん。」
一瞬薄目を開けた陽菜は、小さく首を振ったが、唾液が飛んだあとの溝には、中心部に小さい穴が開いているのが見えた。たぶん、今のエアーはしみたはずだ。スリーウェイシリンジを戻すと、右手が手持ちぶさたなので、トレイの上の探針を取りながら言った。
「4番、C2かな。」
「はい。」
「3番と2番は斜線ね。」
「はい。」
「次の1番から左上の2番まで、3本、レ充で○なんだけど・・」
古そうなレジンの変色や、歯がレジンの周囲で黒っぽく変色している・・おそらく中の虫歯が透けている・・のが気になる。
「後で写真撮った方がいいと思う。デンタルで・・あ、いいや、バイトウィング撮ってもらおうかな。さっきの4番のとこも見たいし。」
「はい。」
・・平木先生、調子出てきたじゃない。
昌子は、面倒臭そうにやっていた平木が、少し本気になっているのを聞いて、微笑んだ。
「次・・3番は斜線・・4番はインレーで○・・5番は・・レ充あるな、○、6番と7番もインレーで○。です。」
・・治療、多いな・・俺のより多いんじゃ?
最近の子供は昔よりも虫歯が減っていると聞くだけに、なんだか可哀想になる。歯はツルツルと輝いていて、きっと、かなり丁寧に磨いているに違いないのだ。
・・ま、出来ちゃうものは仕方ないんだよね、これが。
「先生?」
上の歯が終わってから沈黙していたので、昌子に声をかけられた。
「あの・・・下の歯はどっちから行くの?」
・・さっき褒めたのに。普通、そのまま下がるでしょ。
昌子は苦笑いしながら、言った。
「そのまま左からお願いします。」
「はいはい・・左下、7番はインレーで○、6番は・・アンレーで○、5番が・・」
前の4番との境が虫歯になっているような、微妙な変色がある。
「C1、4番から右の3番まで斜線、4番はまた、C1で、5番インレーで○、6番もインレーで○、7番・・えっと、頬側の溝のとこにレ充なんだけど、溝、咬合面のとこね、C1かな・・」
久しぶりの検診を終えて、平木は少しホッとした。検診と根の治療なら、検診が良いという歯科医の方が多いだろうが、平木は面倒な根治でも、根の治療の方がいい。
平木が終わってから何も言わずにいるので、診察室に、微妙な沈黙が流れた。
陽菜は、C、といくつか言われたので、自分で頼んだとはいえ、ひどく落ち込んでいた。こんなに虫歯作って、と怒られるかもしれない、と、陽菜はおそるおそる目を開けた。同時に、昌子の声がした。
「先生、以上ですか?」
「ん?ああ、そう。えーっと・・虫歯、何本だった?」
「はい、今日治療するところを除いて、4本です。」
4本・・思っていたよりも、多かった。また銀歯が増えることになりませんように、と、陽菜は歯科医を見上げた。
平木は、陽菜が泣きそうな顔で自分を見上げているのを見て、自分が検診が嫌な理由を悟った。
「えっと・・聞こえた、よね?」
「虫歯・・4本ってとこですか?」
ん、と、平木は小さく頷いた。虫歯になってますよ、と宣告するのがどうも苦手なのだ。自分は別に何も悪くないが、なんだか申し訳ないような、悪いことをしているような気分になる。なんとなく、フォローしたくなって、口を開いた。
「ん、でも・・歯磨きはちゃんとできてるね。歯茎も綺麗だよ。」
「え?」
いつも通っている歯科医の、『また虫歯作っちゃったみたいね・・ちゃんと歯磨きしてるの?』という言葉が思い出される。
「え?って、なんでびっくりするの、ヒナちゃん、歯磨きちゃんとしてないの?」
「し、してます。してますよ。もう。」
口を尖らせて抗議する陽菜に、平木が笑い、少し張りつめていた雰囲気は、また少し和んだ。
「えっと・・ただ、あとでレントゲン撮ってもらわないと、詳しくは分からないよ。治してある歯の下で虫歯になったりしてるかもしれないから。今度来たとき、始まる前に撮ってもらって。野島さん、予約入れといてね。」
ここ歯内科では、各治療台に座ったまま、デンタルが撮れるようになっているし、CTも科内に持っているが、齲蝕の診断に使うバイトウィングや全体の診断用のパノラマは、別の撮影室に行かないと撮れないのであった。3時半以降は、緊急でないと撮影室のスタッフに嫌がられる。予約を入れた方がスムーズだ。それに・・
「さて。治療に戻らないと。せっかく麻酔打ったのに、あんまり待ちすぎたら、麻酔切れちゃうから。」
レントゲンを撮ったら、さらに虫歯が見つかるかもしれないと聞いて落ち込んでいた陽菜は、治療、と聞いて、さらに少し強張った顔になった。

「じゃ、もっかい、口開けて・・」
陽菜はまた口をゆっくり開け、ぎゅぅっと目をつぶった。
「もうちょっと楽にして・・あの、そんなにぎゅっと目閉じないで。」
固く目をつぶると、顔中の筋肉に力が入ってしまい、口が大きく開かないのだ。
言われて、陽菜は再び目を開けると、不思議そうに尋ねた。
「目、開けてなくちゃダメなんですか?」
「いや、閉じていいけど、軽く閉じて欲しいなって。口があんまり開かなくなっちゃうから。」
「本当はどっちが正しいんですか?」
・・委員、どこまでも真面目だねえ。
平木は不謹慎にも少しおかしくなって、マスクの下で少し微笑みながら答えた。
「どっちでも・・いや、閉じた方がいいかな。目に何か入るかもしれないし、こっちも見られてるとちょっと気になるし・・少なくとも、俺は閉じるけど。」
「え・・!?」
「え?って何よ。」
「先生、目つぶって治療するんですか?」
「そんなわけないだろ・・って、ごめん、素で突っ込んじゃった。目つぶったら、治療できないでしょ。そっち側に居るときの話。野島さん、どう?目閉じる?」
平木は意外な反応に笑いながら、昌子に話を振った。昌子は申し訳なさそうに、
「すみません、私、歯の治療って経験無くて・・」
と答え、平木は心底うらやましいと思いながら、感心した声を出した。
「おお。すごいね、いいな・・」
「で、でも、クリーニングとかスケーリングとか、そういうときは顔にタオル掛けてくれますよ。」
昌子が慌てて付け足した横で、平木は、まだ小さく、いいなー、と呟いていて、陽菜はつい笑ってしまった。
「先生、歯医者さんなのに、虫歯あるんですねー。」
「悪い?」
マスクで見えないけれど、拗ねているに違いない。
「ダイジョブです、なんかわかんないけど、好感度アップです。」
陽菜が言うと、平木は少し照れたように目を細めた。
・・先生、かわいいかも・・いじめたくなっちゃうタイプっていうか?
「先生、もしかして、今も通ってます?次の歯医者さん、いつですか?」
「嫌なこと思い出させないでくれるかな?」
目しか見えなくて怖い、とさっき思ったが、その目は案外表情豊かだ。もう少しいじっても大丈夫、と踏んだ陽菜は、調子に乗ってさらに続けた。
「えー、先生、歯医者さん行くの嫌なんですか?」
「嫌です。」
きっぱり言い切ったのがおかしくて、陽菜だけでなく、昌子も思わず吹き出し、平木をたしなめた。
「先生、そんなこと、患者さんの前で言い切っちゃダメですよ。」
「だって、俺の先生怖いんだよ・・あー、やだやだ。それに痛いし・・」
ふるふる、と頭を振った平木の様子に、笑っていた陽菜の顔がぴくっと反応した。
「痛い・・んですか?」
昌子が、あ・・先生、ドジ、と言う顔で平木を見ている。平木も、やべ、とマスクの下で舌を出しつつ、素知らぬ顔で通すことにした。
「うん、その、じーつーは。痛くなるまで気付かなくって。そんなわけで、治療が痛いんだな。ま、だから、ヒナちゃんは、痛くなる前に早く治さないとね。」
本当は、気付いてからしばらく放っておいたわけだが、このくらいの嘘は許されるだろう。陽菜は真剣な顔で、こくこく、と頷いている。
・・我ながらナイスフォロー。
「じゃ、今度こそ。もっかい口開けて。目は軽くつぶってね。」
また喋って時間食っちゃった、と思いながら、平木は、昌子に目で合図を送り、左手にミラー、右手にタービンを取った。
「もうちょっとだけ大きく開けて・・そう・・じゃ、削って行くから」
昌子が舌を押さえるように陽菜の口腔内にバキュームを入れるのを見て、平木はフットペダルを踏み込み、タービンの先端を陽菜の右上6番に当てた。陽菜の閉じたまぶたが、ぴくぴくと動く。
ヒュィィイイイイ・・・
軟らかくなっている部分を削っているので、音も手応えもあまりない。
・・ここでこの手応えだと、あっさり出ちゃうんじゃないかなあ。
平木は、さっき見たデンタルの記憶から、歯髄までの距離を頭で測り、慎重に進めながら、そんなことを思った。逆に、軟らかい分、陽菜が感じる痛みは少ないはずで、その点では、やりやすいとも言える。実際、陽菜は、顔を歪めてもおらず、おとなしく口を開いている。
ヒュィィイイイ・・ヒュィヒュィイイ・・
そこから大して進まないうちに、突然、視界に違う色のものが入って来た。開いた、という感覚もないのに、中から赤い血が流れ出してきたのだ。少し膿まで混じっている。
昌子が、即座にスリーウェイシリンジで水をかけてバキュームし、洗い流したが、また奥から赤いものが出てくる。
・・あれ、ちょっと予想外なんですけど。
痛くない、と陽菜が言っていたので、まだ歯髄の中までは達していないかもしれない、と思っていたのだが、この様子では、確実に歯髄は何かに反応して、充血してしまっているようだ。しかも中から血が溢れてくるほど圧がかかっているのに痛くないなんて、ひょっとすると、途中で神経が死んでいるとか、固まっているとか・・根管治療の必要もあるかもしれない。
・・面倒なことになったよ・・・
治療は面倒でも何でもないが、陽菜が痛がるであろうことを考えると、気が重い。
平木は、マスクの中で小さくため息をつきながら、タービンを戻し、自分が使われるのは苦手、と言いながらもけっこう愛用している、スプーンエキスカベータを手に取った。

・・あれ?もう終わり?
陽菜は、削るのが止まり、タービンが口の中から出て行った気配に気付いた。思っていたよりもはるかに時間も短い。
・・ひょっとして、やっぱりそんなに進んでなかったから、神経は取らなくてもいいよ、とか?
期待して待ったが、他のバキュームやミラーは出ていく気配がない。陽菜はおそるおそる薄目を開けた。
少し目を横に動かすと、何かが近づいてくるのが見えた。器械でも注射でもなさそうだが、なんだかよくわからない。もしかすると、神経を取る器具かもしれない。
・・それ、何・・オレ先生・・
患者の前で自分を俺なんて呼ぶ先生は初めて見たので、陽菜は平木をオレ先生と呼ぶことにしたのだ・・そんなオレ先生が何か言ってくれないかなと思っていると、陽菜の目がキョロキョロしているのを見て、衛生士さんが声をかけてくれた。
「あ、陽菜ちゃん、まだお口開けててね。」
言われて目で頷いたものの、なんだかドキドキしてきた。不安なままに目を閉じかけると、ようやく、オレ先生に、ヒナちゃん、と呼びかけられた。また目を開けると、真上から覗きこまれていて、それはそれでまた落ち着かない気分になる。
「そんな固くならないで。えーと・・これからちょっと、機械じゃなくって手で削るから。痛かったら言って。ね?」
・・う・・痛いかもしれないんだ・・
神経を取るわけではないとわかったものの、なんだか不安倍増だ。しかし、なんとか目で頷き返して、陽菜はぎゅぅっと目を閉じ・・あ、と思い返して、力を緩め、口を開けた。

・・お、委員、えらいえらい。そう、目を閉じるときは軽くね、軽く。
陽菜が目を強く閉じてから直したのを見て、平木はちょっと笑いそうになったが、なんとか我慢して心の中で褒めた。周囲のスタッフからは、平木先生は優しくなったと評判らしいが、特に優しくしているというつもりでもなく・・・去年の終わりごろ、紺野に気遣いが足りないと指摘されてから、なるべく治療中、患者の様子を観察するようにしている、というだけの話である。しかし見てしまうと無視できない性格で、声をかけたり、痛くないようにしてみたり、治療を止めたりするのが、優しさに見えるのであろう・・ときどきメンドクサイとも思うものの、今の陽菜のように笑ってしまうようなこともあったりして、実は面白いことの方が多いので止められない。
・・さて、痛くないといいんだけど・・
平木は、陽菜の右上6番の中に、スプーンエキスカベータを入れた。一番柔らかそうなところを狙って引っ掻くと、ボソボソと崩れてくる。陽菜の表情に変化が無いことをときどき確かめながら簡単に掻き取れる部分を除去していくと、やがて、グニッとした手応えに変わった。これも感染している歯質なので、除去しなければいけない。これを剥がしたら、また血が出るかもしれないな、と思い、昌子に目で合図をしてから少し力を加えると、やはり、少しめくれたところから、じゅわっと血が溢れてきた。
・・はいはい、綺麗に吸っちゃってねー
昌子の的確な洗いとバキュームに満足しながら、さらに右手の指に力を込めた瞬間、陽菜の眉間にきゅっと皺が寄り、喉の奥から声が漏れた。
「んふ・・」
・・おっと。
一瞬手を止めると陽菜の顔は緩んだので、そのまま進めようかとも思ったが・・あと一掻きで終わるようなものでもないし、どうも陽菜は痛いのが怖いようなので、平木は右手を思い切って口の外に出し、陽菜に声をかけた。
「ヒナちゃん?」

ちょっと痛かったけれど、もうちょっとなら我慢できる、と思っていたところに、突然声を掛けられて、陽菜は不安に駆られた。
・・手遅れでしたとか・・抜きますとか・・言われたらどうしよう・・
いろいろ考えながら目を開けると、また上からオレ先生がじっと見つめていて・・女子校育ちの陽菜が少女漫画や小説から得た知識によれば、この状況では陽菜はドキッ、とするはずなのだが・・陽菜はその目を見て、妙に安心した。手遅れでした、と言うときには、オレ先生はもっと悲しそうな目をするような気がしたから。何て言われるんだろう、と思っていると、
「今の、痛かった・・よね?」
と、声が降ってきた。
「は・・はえぃ」
大きく口を開けたまま頑張って返事をすると、
「お口閉じてもいいわよ、陽菜ちゃん。」
衛生士さんに声をかけられた。たしかに、いつの間にか口の中にあったものはすべて抜かれている。
「あ、ごめん・・ヒナちゃんの場合、閉じていいよ、ってのも言うべきだった。」
オレ先生の目は可笑しそうに細められている。マスクの中で笑っているに違いない。
・・ヒナちゃんの場合って、なにそれ・・しかもなんで笑ってるわけ・・
口を閉じられるようになったので、口をとがらせてオレ先生を睨んでみる。
「えっと、今くらいの痛さだったら、もう少し我慢できそう?正直に言って欲しいんだけど。」
オレ先生は陽菜の無言の抗議など気にしないかのように、真顔に戻って聞いてきた。
「え・・あの、ホントにもう少しなら。」
・・やっぱり、今の1回だけじゃないんだ・・
陽菜は思いながら、小さい声で答えた。
「ああ、もう少しって言ったけど、実はどのくらいかかるかわからないんだけどね・・でも、ヒナちゃんが、もうムリ!って言ったらやめるから。いいかな?」
少し不安だけれど、陽菜はこくり、と頷いた。さっきちょっと痛がっただけで、ちゃんとやめてくれたし、一応、その言葉は信用してあげてもいいような気がした。
「じゃ、もう一度、口開けてくれるかな。」
陽菜はまた、おとなしく口を開け、目を軽く閉じた。

再び陽菜の口をのぞきこむと、右上6番の窩洞が唾液に光っているのを見て、平木は昌子に声をかけた。
「あ・・先に防湿しちゃおうかな。おねがい。」
はい、と答えて、昌子は準備に立った。平木は陽菜にも声をかける。
「ヒナちゃん・・ごめん、もっかい・・ちょっと目開けてくれるかな。」
・・あ、委員にはちゃんと指示しないといけないんだった。
「・・・口は閉じていいから。ふふ。」
さっきの、口を開けたままハイ、と答えた陽菜の様子が頭に浮かび、平木は笑いをこらえきれなかった。陽菜は明らかに自分が笑われていると気付いているようで、ちょっとむくれている。
「いや、ごめん。あのね、これから治療するところに、こういうの付けたいの。」
平木は手を伸ばし、昌子はそれをチラッと見て、黙ってフレームにセットしてあるラバーを手渡した。
「ありがと・・えっと、ラバーダムって言って、治療する歯の中に、ばい菌が入らないようにカバーするものなんだけど。したことある?」
陽菜は黙って首を振り、なぜか直後、
「ない、です。」
と、声に出して答えた。少し不安そうだ。
「こんな感じになるんだけど・・」
平木は、その四角いフレームに張ったゴムのシートを、自分の口元に当ててみせた。陽菜は、きょとん、とした顔で、しかし真剣な眼差しで見ている。
「ホントは穴が開いてて、治療する歯だけ見えるようになるわけ。で、確認したいのは・・これ、口ではほとんど息ができなくなるから、ヒナちゃんが鼻で息出来るかどうかってことなんだけど。」
言われて陽菜は、律儀に鼻から深呼吸を2回ほどした後で、
「大丈夫みたいです。」
と答えた。こら、笑うな自分、と言い聞かせながら、平木はさらに聞いた。
「じゃ、つけてもいい?って、つけさせてくれないと、ちょっと困るから、嫌って言わないでね。」
「・・だったら聞かなくていいんじゃないですか?」
なんとも正論である。陽菜の言葉に、後ろで昌子が笑っている。
「まあ、そうなんだけどさ・・一応。聞いてみたわけ。」
平木は、マスクの中で見えないように口をとがらせた・・が、直後、何かを思いついたように顔を輝かせた。
「そうだ、何色がいい?ヒナちゃん。色選べるんだよ。」
「え・・色・・ですか?なんでもいいです・・」
陽菜は明らかにノリが悪い。
「まあ、そう遠慮せずに。」
平木は、不審そうな眼を向ける陽菜に構わず、ずずーっ、と椅子に座ったまま棚のとこまで移動して、わざわざ自分でパッケージを引き出しから出した。
「あれ、先生、そんなの、どうしたんですか?」
昌子までもが不審そうな顔になる。
「いや、この間、歯医者に行ったらさ・・自分の治療ね。営業さんが来てて、俺もついでにもらったの。なんかこれ、新色なんだってさ。」
ぺろーん、と、中からシートを取り出し、陽菜に見せる。薄いピンクと紫と水色のシートが出てきた。
「あれ、でも、なんか、薄汚れた、みたいな色ばっかりじゃん・・?」
平木も急に微妙な顔になって、パッケージを眺める。
「あ、そうそう、匂いも選べるの。ん?フルーティーなベリーの香り、だって。へー、これは初めてかも。珍しいよね。」
「まあ、そうですね・・」
昌子も相槌を打つ。実はもう、すでに一枚、穴を開けて今すぐ使えるように準備してあるのだが、平木はどうしても新しいシートに興味があるらしい。すると、なぜか突然、それまでノリの悪かった陽菜が興味を示した。
「珍しいって、普通は、どんな香りなんですか?」
「普通?普通、バニラだよね?なんでか知らないけど。」
「そうです。これですね・・」
もう、準備してあるのはどうでもいいわ、と苦笑いしながら、昌子は、バニラの香りの緑色のシートを手渡した。
「ありがと。これがちょっと微妙なの。どう?どっち?」
平木が、器用に水色と緑のシートを片手で1枚ずつ広げ、陽菜の顔の前に差し出すと、陽菜はそれに顔を近付けて、くんくん、と匂いを嗅いでいる。
「んー、こっちがいいです。」
陽菜が水色の方を指差し、平木はしつこく聞いた。
「色も選べるよ?」
「いや、ホントに色はどうでもいいです・・」
言ってから、気を遣ったのか、陽菜は付け足した。
「だって、ほら、私から見えないし。先生が見るんだから、好きな色選んでいいですよ。」
平木先生、女子高生に気遣われてる、と、昌子は笑いながら、シートに穴を開けるパンチを手に取った。