初めての夜間歯科診療所は、想像していたよりも薄暗くて、なんだか怖いところだった。1年半ほど前に行った大学病院が、想像していたよりも怖くなかったのと対照的だ。
「んぅぅ・・」
陽菜は、顔をしかめて、左手で鼻の下を押さえた。
・・早く・・なんとかして・・でも、怖い先生だったらどうしよう・・虫歯多いって怒られたりしたら・・
陽菜は、子供の頃から歯が弱い。
歯もきちんと磨いて、大好きな甘い物もほとんど食べず、フロスもしっかり使っているのに、虫歯になってしまう。
前回歯医者に通ったのは、1年半ほど前、高校2年の3月だ。
何度も銀歯が取れていた歯が、神経を抜かなければならないと宣告されて、紹介された大学病院に通うことになった。
しかし恐ろしげな肩書とは裏腹に、『大学病院の神経の治療が専門の先生』は普通の若い先生、
いや、先生とさえあまり感じられないような、普段通っていた歯科医院の女医さんよりも気楽な人で、
結局、他の虫歯も頼んで治してもらった。
もっとも、先生が怖くなくても、治療が痛いことには変わりなく、何度かは治療台の上で泣いてしまったのだけれど。
その治療が痛かったからというわけではないが、受験があったり大学に入ったりで、
なんとなく歯医者からは足が遠ざかっていた。
健康診断はあっても、大学では歯科検診はないらしい。
実は奥歯が何本か、しみたり、時々は痛んだりし始めていて、診てもらわないと、と思っているものの・・一度足が遠ざかると、怒られるのではないかと言う気がして、なんとなく行きにくい。
銀歯が取れたとか、何かきっかけがあれば行きやすいと思っているのに、昔しょっちゅう取れていた銀歯は、このところずっとおとなしくしている。
で、今日の夕方。
大学で弦楽器科の学生である陽菜は、教授のレッスンを受けていた。途中から、少し前歯が痛むような気がして、
ああ、そろそろホントに歯医者に行かないと、と、憂鬱な気分になり・・
教授に、曲に集中できていない、と怒られてしまった。
家に帰り、昔通っていた歯科医院に予約の電話を入れようと決心したのに、
どうしても診察券が見当たらず、後で探そうと思っているうちに痛みが強くなってきて、
夜中についに我慢できなくなって、寝ようとしていた父親に車を出してもらい、
なんとかここの診療所に駆け込んだ、というわけだ。
・・そうだ、帰りはタクシーで帰らないといけないんだっけ・・
と、少し痛みが引いた瞬間にボーっと考えていると、また痛みの波が襲ってきて、陽菜は口元を覆ってうずくまった。
陽菜にとっては気が遠くなるほどの時間待たされた後で、診察室に案内されると、そこは明るいものの、最近なかなか見ないような青白い蛍光灯で、少し寒気がしそうなほどだった。
・・・怖い先生に当たりませんように・・オレ先生・・名前なんだっけ・・あんな人だったらいいのに・・
考えながら待っていると、あらわれたのは優しそうな男の先生で、陽菜は少しホッとした。川上というその先生は微笑みながら、しかし少し機械的に、じゃ、とりあえず診ましょうか、と言って治療台を倒した。
「えーと、口、開けてください。痛むのは・・前歯ですね、どの歯かわかりますか?」
「左側・・たぶん真ん中から2番目かなと思うんですけど・・でもよくわかりません・・」
陽菜が答えながら口を開けると、口の中にミラーが差し込まれた。
・・あ・・この匂い・・歯医者さんに来たって感じ・・ドキドキする・・
考えながら目を閉じかけるると、痛む前歯にさらなる激痛が走って、陽菜は思わず声を上げた。
「あはぅ!」
なんと、歯をミラーの柄か何かで叩かれたらしい・・目を開け、顔の上にあるライトを見上げると、ライトがの光がぼんやりと滲んで見えた。涙が出てしまったようだ。
「うん、この歯だと思いますね・・こっちは?」
来る!と身構える間もなく、隣の歯を叩かれ、陽菜はまた、ぴくっ、と目を閉じてしまった。叩かれた歯よりも、隣の歯に響いた痛みだ。
「んー、それほどでもないのかな。じゃあ、この2番目の歯の痛みを取ればいいですね。とりあえず麻酔しますから。これまでに麻酔で気分が悪くなったことはありませんね?」
淡々としているだけなのかもしれないけれど、優しそうに見えたのに、口調や進め方はとても優しいとは言えない。むしろ面倒臭そうな雰囲気さえ感じられる。
「・・ありません。」
「じゃ、口開けて下さい。」
言われるままに口を開けると、注射が近づいてくるのが見えた。
・・あのお薬、塗ってくれないのかな・・
痛いのが苦手な陽菜は、麻酔の注射も嫌で仕方なかったのだけれど、前回の大学病院では、注射の前に駄菓子のドロップのような匂いの薬を塗ってくれて、かなり楽だったのを思い出す。
・・緊急の診療所だし、そんなの、ないのかも・・
思っていると、歯茎に針が刺されて、飛び上がりそうになってしまった。こんなに痛かったっけ。
「ちょっと、動かないでください。」
川上の声は大きくはなく、口調も丁寧だったが、陽菜は歯科医がイライラしているのを感じて、泣きたくなった。
「次、少し大きく開けて下さい。」
言われるままに口をさらに開け、軽く目をつぶると・・内側の歯茎にもプスリ、と針が刺され、今度はなんとか動かないように耐えた。
針が抜かれたので口を閉じようとしたが、川上の指が上の歯を軽く押さえていて、閉じられない。そして、口の中をミラーが動いている気配に、陽菜はたまらない気分になった。
・・あんまり、見ないで欲しいんですけど・・
診てもらわないと、とずっと思っていたのに、いざ見られると、なぜだか怖かった。と、川上が口を開いた。
「もっと歯、大事にしないとダメだなあ・・」
えっ、と、目を開けると、川上の冷たい目と視線が合った。
「まだ、20、なってないんでしょ?それでこれじゃあ、ちょっとなあ・・先が思いやられますね、っと。ふぅ。」
川上は、さきほど陽菜が記入した問診票と陽菜の口の中を交互に覗き込みながら、独り言とも思えない音量で、つぶやいた。最後に、小さい溜息のおまけまでついている。
・・大事に、してるもん・・
また、ライトが滲み始める。
・・来なきゃ、よかった・・薬飲んで朝まで我慢して・・大学病院の診察券ならあった・・でも、紹介状が要るんだっけ・・もう・・わかんない・・
と、診察室のどこかから、声が聞こえてきた。
「俺、もう上がってもいいかな?」
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!!・・オレ先生!?
特に患者の前でなければ自分をオレと呼ぶ歯科医くらい、いくらでもいるだろうけど、陽菜の、音楽を長くやっていて鋭いはずの耳は、あの声はオレ先生の声だと告げていた。
「先生、まだダメですよ、早いですって・・」「あ、やっぱり?でも、患者さん、いないしさ。」「もう、先生・・」
スタッフにたしなめられているところなど、ますますオレ先生に違いない。
・・帰るくらいなら、こっちに来てくれないかな・・
陽菜が心から思っていると、念が通じたのか、陽菜の横についていた衛生士さんが川上に話しかけた。
「川上先生、平木先生、もう上がろうとしてるみたいですよ。代わっていただきませんか?」
・・平木?うん、そんな響きの名前だったかも。
陽菜はオレ先生の名前を聞いてすっきりしたが、川上は不満そうな声を出した。
「どうして?平木先生の方が上手いって?」
「そんなこと言ってませんよ。たしかに平木先生の専門ですけど・・そうじゃなくて、あの調子だと、平木先生、ホントに帰りかねないなって。平木先生、今日、リーダーなので、最後まで居ていただかないと困るんです。」
ああ、そういうこと、と、川上は立ちあがり、
「まったく、いいかげんなんだから、あの人は。」
と呟いて、そのまま、歩いて行ってしまった。
すると、そんな川上の後姿を見ながら、衛生士さんは、陽菜に小声で言った。
「もっと、優しい先生来ますからね。」
えっ?と、衛生士さんの顔を見ると、
「別に、仕事はいいかげんでもないですから、安心して下さいね。」
頷いて微笑みかけてくれ、陽菜も少しホッとして表情を緩めた。
陽菜は、川上と話している「平木先生」の方を見た。間違いない、あの、オレ先生だ。
・・ホントに来てくれるかな。
平木は腕組みをしたまま、何かを尋ねたり、頷いたりしながら、ちら、と陽菜を見たが、特に昔の患者に気付いた様子でもなく、川上との会話を続けている。
・・お願い・・来て・・
陽菜が祈るような気持ちで見つめている中、平木は、右手の指を2本立て、2番ね?と、川上に確認した後、こちらにやって来た。
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それを待っていたはずなのに、いざ、平木がやってくるのを見ると、陽菜は急に落ち着かない気分になった。
・・どうしよう・・もう前みたいに優しい先生じゃなくなってたりして・・帰るとこだったのに、余計な仕事させやがって、とか思われてたら・・
ドキドキしているうちに、平木はすぐそばにやって来た。
「こんばんは。平木といいます。」
少なくとも、その声には、不機嫌そうな色は含まれていなくて、でも、初対面だと思っている様子の平木に合わせようかどうか迷い、陽菜は一瞬、返事が遅れた。平木がそのまま言葉を続ける。
「すみません、ちょっと交代します。」
「あっ、あ、は、はい、こ、こんばんは・・」
ようやく出した声は少しかすれていて、陽菜は自分でも狼狽えた。
「ん?大丈夫?緊張してるの?」
平木は心配そうに、しかし、急に砕けた口調になって言い、陽菜の顔を覗き込む。陽菜が慌てて首を振る。とりあえず、帰れなくなったことを謝ろうと口を開いた。
「いえ、そうじゃなくて・・でも、あの、すみませんでした。」
「・・へ?何がですか?」
「あの、もうお帰りになるところだった、んです・・よね?」
おそるおそる言った陽菜の言葉に、平木は、一瞬、きょとん、とした後、大きく笑顔になった。
「ああ、聞こえてました?あれ、冗談です。いつも言ってみるんだけど、ホントには帰らないから。だから大丈夫ですよ。」
笑った目が以前と同じことに安心しながらも、言葉遣いが時々丁寧だったりして・・オレ先生のくせに・・落ち着かないなと思いつつ、陽菜は、ハイ、と呟いた。
「じゃ、さっきの先生にも見せたのに申し訳ないんですけど・・もう一度、見せてください。」
平木は、そう言って、素早くマスクをつけ、手袋をはめると、ミラーを手に、陽菜に開口を促した。
口の中に侵入してきた消毒の匂いで、さっきの痛みを思い出したところに、歯科医の声が追い討ちをかける。
「ちょっと触りますね・・」
・・ひぃ、また、ガツンって来る!
陽菜が、目をギュッと閉じて身構えていると、指が陽菜の左上1番の前歯に優しく触れた。ホッとして、陽菜は、ふぅ、と力を抜いた。
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「ん・・この歯は大丈夫そうですね。次、痛い歯かな・・触るよ。」
「あ!」
さっきよりさらに、そっと触れられたにも関わらず、その歯に痛みが走って、陽菜は微かに声を上げた。即座に上からマスク越しの声が降ってくる。
「あ、ごめんなさい、痛かったかな。」
陽菜が薄く目を開けると、だいじょうぶ?と聞かれたので、目で頷いて答えておく。
「隣も・・平気かな。・・うん、ちょっと、一回起こします。」
左上3番まで触られたあと、予想外に治療台が起こされ、陽菜は、また不安になってきた。
・・もう、どうにもなりません、とか・・言われちゃったら・・痛いのに・・どうしよう・・
「シンマ、1本、入れてあるんだよね?」
衛生士さんに確認する平木の顔を、じぃっ、と見つめてしまった。
・・マスイ入れてあるのに、こんなに痛いなんて、おかしい、とか・・?もう手遅れ・・?
悪い想像が膨らんで、勝手に涙が滲んでくる。
と、平木が陽菜の視線に気付き、声をかけてくれる。
「ああ、歯、痛くなるの、初めて?」
こくり。頷いたはずみで、右の眼に溜まっていた涙がぽろり、とこぼれてしまった。
ありゃ、と呟きながら、平木はピンセットで、ロールガーゼを一本つまみ、はい、と陽菜に差し出した。
・・?涙、拭けってこと?・・これで!?
戸惑いながらも、アリガトウゴザイマス、と受け取り、そっと涙を拭う。
「初めてだったら、こんなに痛いなんて、もうダメだ、って思ってるかもしれないけど・・ま、よくあることだから。特にこんな所だと。」
・・よくあるって言われても・・
と、陽菜が戸惑った顔を見せると、平木は自分でも変なことを言ったと気付いたのか、苦笑しながら言葉を重ねた。
「・・って、よくあるって言われても困るよね。今、痛いんだもんね。」
こくこくこく。激しく頷いてしまったが、振動がまた少し、歯に響く。