瞳は、この春、中学生になった。中学受験をして、一応、このあたりでは名門と言われる女子校に合格したので、嬉しい反面、皆、きっとすごく頭がいいんだろうな、と不安も半分入り混じった気持ちだった。

入学して1週間ほどは、オリエンテーションと、健康診断などの行事に費やされる。
木曜日の午前中は、歯科検診があった。
歯科検診かぁ・・・大丈夫かな・・・

瞳は、乳歯のころ、かなりの虫歯持ちであった。しょっちゅう歯医者に通わなければならなかったのだが、
それが嫌で嫌でたまらなかった。
歯医者に行くのが嫌だから学校から帰りたくない、といつまでも学校に残っていて、母親が怒って迎えに来たことがある。
そのときの様子を、ちょうどサッカークラブの練習をしていた、歯科医院の息子の亮に見つかってしまい、
瞳はそれからしばらく、
「おい、平野、今日は歯医者行かなくていいのかよー」
と、からかわれ続けた。
その頃に虫歯にしてしまった上下左右の6番は銀のインレーやレジンで治療されているが、高学年になってから生えてきた永久歯の臼歯は、なんとか、無事を保っていた。

クラス全体で、歯科検診が行われる会議室へ向かう。
まだ、それほど皆打ち解けていないので、歯科検診や、体重や胸囲測定など、やや緊張しているときは、無言になりがちだ。
しーんとしたまま、歯科検診が行われていくので、歯科医が言っていることが全部聞こえ、それがさらに生徒たちを緊張させていた。
歯科医は、この学校の卒業生の、若い女医だ。かなりはっきりモノを言うタイプらしい。
「ちょっと虫歯が多いわ。ほら、ちょっと歯茎も腫れているでしょう。歯磨きがきちんとできてない証拠よ。これから気を付けて。」
「綺麗な歯ね。歯茎も綺麗だし、これからも頑張ってね。」
うわ、歯磨きができてないとか言われたらどうしよう・・・クラスの皆に汚い子だと思われちゃったら・・・
瞳は、そおっと、舌で歯の表面をたしかめ、ザラザラしていないかどうか確認した。
・・・たぶん、大丈夫・・・
ドキドキしているうちに、瞳の番が回ってきた。
「37番、平野瞳です。よろしくお願いします。」
と言って、口を開ける。
クレゾールの臭いのするミラーが差し込まれ、検診が始まった。
「右上から。6番○、5番から・・5番まで斜線、6番○、左下行って7番斜線、6番○、5番から5番まで斜線、6番○、7番斜線。」
歯科医は、そこまで言い終わってから、さらにミラーであちこちを見直しているようだった。口の中でミラーがカチカチと音を立てる。
な、何・・?虫歯・・は、今、なかったよね?歯磨きができてませんとか?何言われるんだろう・・
瞳は、膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめた。
ようやくミラーを抜いた歯科医は、
「ちょっと、いー、ってしてみて。」
と、瞳に言った。言われたとおりにすると、歯科医は、両手で瞳の唇をめくって、じっくりと眺めてから、言った。
「歯並びが悪いわね・・。歯が重なってるところ、前歯も奥歯も、あちこち虫歯になりかけてるから、気をつけて磨いてね。フロスも使って。まだ虫歯じゃないから、しっかり手入れすれば健康な歯に戻るわ。」
「はい・・ありがとうございました。」
瞳はショックを受けた。あちこち虫歯になりかけている、と言われたのもそうだが、「歯並びが悪い」と言い放たれたのがさらにショックだった。
み、みんなに聞こえたよね・・・
瞳は、教室に戻る途中、トイレに行って、鏡の前で、いーっ、としてみた。
はならびがわるいわね。
頭の中で、歯科医の声が聞こえた。
ぴっちり綺麗に並んでいるわけではないが、ひどい八重歯がある、というわけでもないので、これまでに気にしたことは、特になかった。が、たしかに、上も下も、歯の向きがそろっていなくて、ガタガタしている。そういえば、乳歯のときはもっとぴちっと綺麗に並んでいた。逆に言えばそのせいで、今は歯が入りきらないのであるが・・・
ガチャッ。
ドアが開いて、誰かが入ってきたので、慌てて口を閉じて、手を洗う振りをする。
同じクラスの、渡辺ありさだった。目が合ったので、微笑んだありさの口元には、矯正装置がキラッと光った。
「ね、ねえ」
思わず、瞳は声をかけていた。
「なあに?」
しゃべるたびに、矯正装置がキラキラ光る。瞳の目には、何か素敵なアクセサリーのように見えた。
「歯の・・矯正って・・・どうやってやるの?長くかかる?」
「え?歯医者さんに行って、いろいろ検査して・・・私はまだ、このあいだ始めたばっかりだけど。1、2年くらいかかるって聞いた。」
「そうなんだ・・ありがとう」
「あ、歯並びが悪いって言われてた・・よね?そうね、矯正、すれば?」
にっこり笑って、ありさはトイレの個室に入って行った。キラリ。
始めたばっかり・・・そう言っていたが、ありさの歯は、瞳の歯よりはよっぽど綺麗に並んでいた。少し犬歯が前に出ているくらいで。
あんな歯並びでも、矯正、するんだ・・・
考えながら、教室に戻る。
気になって、みんなの口元を見ると、半分くらいの子が、矯正装置を付けている。銀色のではなく、歯についている部分は透明な装置の子もいた。そうではなくて、金属の細い棒だけをつけている子もいる。矯正していない子は、皆、綺麗な歯並びに見えた。
私だけが・・歯並び悪いんだ・・・
瞳は、そう思いながら、落ち込んで家に帰った。

家に帰ると、瞳はさっそく、母親に訴えた。
「ねえ、私、矯正したい。」
「キョウセイ?ああ、歯の?」
「うん・・今日、歯科検診で、歯並び悪いって言われたの。」
「そうかしらねぇ・・そんなに悪いともお母さん思わないけど。」
「悪いよ!ガタガタだもん!皆、キョウセイやってるよ!」
「そうねぇ・・・そうみたいねえ。」

実は母親も、入学式の直前の父母会で、母親たちがしきりに矯正にお金がかかる、と言う話をしているのを聞いていたのだった。
「ホントに矯正はお金かかるわ、なんで保険きかないのかしらね」
「でもねえ、親の義務よね」
「そうなのよねー、女の子だしねぇ、これは親としてやってあげないと」
そんなに矯正って必要なものかしら、でもやっぱり私立に行かせるような家だとそういうところもお金かけるんだわ、と、母親も少しは気になっていたのだ。

「じゃあ、一度、歯医者さん行ってみる?」
「うん。」
その夜、瞳の母親は、父親に相談していた。
「瞳がね、歯科検診で、歯並び悪いって言われたんですって。で、他の子はみんな矯正してるって言うの。」
「瞳、そんなに歯並び悪いか?しなきゃいけないのか?高いんだろ、矯正。」
「そうなのよね・・・」
瞳の家では、最近マンションを買ったので、あまり家計に余裕はなかったのであった。
「あんまり高かったら困るぞ。まあ、いろいろ聞いて、安いところ探して、やってやろう。」
「そうね・・女の子だしね・・・」

そんなわけで、母親は、マンションや近所で、いろいろと矯正の評判を聞いて回ったのだった。
マンションは、同年代の家族が多いので、情報には事欠かない。
大学病院の矯正歯科がいいらしいが、検査や指導が多くて、なかなか始めてくれない。隣の駅の前の歯医者も評判がいいが通う回数が多くて、高い。などなど。
そんな中、近所に新しく出来た、矯正専門、という歯医者。ここは通う回数も少なめ、すぐに装置をつけて矯正を始めてくれるらしい。しかもちょっと安い気がする、ということだった。
近くて安いなら決まりだ。瞳は、さっそく、この近所の「やよい矯正歯科」に、母親に連れられて行った。

歯科はまだ新しいせいか、とても綺麗で明るかった。内装も白とナチュラルカラーの木目でまとめられていて、落ち着ける。
待合室に居た、ヘッドギアをつけた女の子を見た瞳は、少しだけぎょっとしたが、母親同士の話で、それはいわゆる「受け口」の矯正に夜だけ付けるものだと聞いて、一安心した。歯並びがガタガタしているだけの自分は、あのキラキラ光る矯正装置をつけるだけでいいはずだ。
やがて瞳の番が来て、瞳は、母親と二人で、診察室へと入って行った。
診察室は、待合室と同じ色目に、ピンクの治療台が並んでいた。矯正歯科なので当然だが、キュィーンという音も、あのたんぱく質が焦げる臭いもなく、瞳は、
これなら怖くない・・・
と思っていた。しかも、歯並びを直してくれる良い歯医者さんなのだ。
カウンセリング用のテーブルに座ると、歯科医の山崎弥生がやってきた。
「こんにちは。」
女の先生だ!
優しそう、という印象を持って、瞳はうれしくなった。
「えーと、じゃ、まず、ちょっと見せてくれる?」
瞳は、素直に、いーっ、と口を開けた。
「そうね・・・次、あーん・・・」
あごの大きさを確かめるために、瞳の下あごに当てられた弥生の手は、かすかにいい匂いがした。

「歯を綺麗に揃えたい、ということですよね。」
「はい・・・」
「そうね、特に噛み合わせが悪いということはないように見えますし・・スペースが少し少なそうなので、奥歯は1本ずつ抜くことになるかな・・下は検査次第で抜くかどうか・・ま、とにかく、何本か歯を抜いてスペースを作って、ワイヤーで歯を動かす・・イメージなさってるあれですね、あの銀色の装置を付けてという形になります。」
「どのくらいかかりますでしょうか・・」
「1年半から2年ですね。」
「あの、費用の方は・・・」
「検査をしてみないとなんともいえませんが、ごく普通の歯列矯正なので、そうですね、全部で・・定期的な検査なども入れて・・・」
母親が少し身を乗り出した。
「50万とちょっとくらいでしょうか。あ、検査に3万円ほどかかります。」
母親が小さくため息をついたのを瞳は聞いていた。高すぎるからダメなんて、言わないよね・・・祈るような気持ちで、瞳は母親を見た。
「矯正って、した方がいいんでしょうか」
「私の立場では、しなくてもいいとは言いにくいわけですが・・」
弥生は苦笑しながら答えた。
「悪い歯並びだと、虫歯や歯周病の原因になりやすいですね。あとは、悪い歯並びに劣等感を抱いたり、歯を見せたくないということで笑顔やおしゃべりができなくなったりするケースも指摘されています。」
劣等感・・それはかわいそうだわ、と、母親は瞳を見た。
「矯正するなら、今頃の時期がいいとは思いますね。もっとも、逆に、矯正装置が恥ずかしいというお子さんもいらっしゃるので、親御さんが決めるというのには実は私は反対なんですけれども。瞳ちゃんはどうなの?」
そういって、弥生は瞳を見た。
「私、歯並びが悪いから綺麗にしたいんです・・学校では皆装置つけてるから、恥ずかしくないし・・歯並びが悪いのが恥ずかしい・・」
瞳は、隣の母親を意識しながら訴えた。
「そう。でも、痛いこともあるわよ。頑張れる?」
「はい!」
その様子を見ていた母親は、矯正をする決心をしたのだった。
「じゃあ・・よろしくお願いいたします」
そう言って、頭を下げる。
やった!瞳は、すでに、綺麗な歯並びになった自分を想像していた。

「じゃあ、早速、検査しましょうね。まずレントゲンを撮って・・・」
レントゲン室に連れて行かれる。普通の歯科のレントゲンと同じだった。
「次に、お写真撮りましょう。」
写真?と思った瞳は、いきなり、アングルワイダーをはめられて、困惑した。
な、なにこれ・・こんなに口開けられて・・はずかしい・・・
カシャ、カシャ・・・
私のガタガタの歯がうつっちゃう・・・
瞳は、初めてヌード写真を撮られるアイドルのように緊張していた。
「次はお口開けて・・もっと大きく。こう。」
ぐいっ、と口を開けさせられ、まずは下顎・・・次にそのまま上を向かされて、上顎・・・
「次は横からも取りますね・・ちょっと痛いけど我慢してね。」
衛生士が、口角鉤を持ってきて、瞳の唇を思い切り耳の方に引っ張った。
「い、いはい・・」
「我慢してねー」
「いー」
「次反対側撮りますね」
ようやく鉤が外されると、次はかみ合わせの型取り。
「はい、お口開けて・・」
昔、虫歯の治療をしたときに取った型は、歯数本分のものだったが、今回のものは、歯列全体を取るためのものだった。
口を開けると、いきなり、すごい大きさの印象材を口の中に突っ込まれて下あごに押し付けられ、瞳は思わず、
「うぇっ」
と言ってしまった。
「ちゃんと噛んでてね」
う・・唾がたまってきた・・・どうしよ・・・飲み込めるかな・・・あ、動いちゃったかな?
などと考えながらしばらくたつと、衛生士が型を外しに来た。
衛生士は、今度は上の歯列に印象材を噛ませると、今取った下顎の型を弥生に見せに行った。
これがまた・・唾が出る味というか・・・う・・
瞳はそう思っているうちに、口角からダラダラとよだれが垂れて来てしまい、あわてて手で押えて、母親を目で呼んだ。
タオル!と目で訴え、母親にタオルハンカチをもらう。
もう・・中学生にもなって、よだれ垂らしたなんて・・恥ずかしいよぉ・・・
そうしているうちに、衛生士がまた型を外しに来た。が、もう一つ印象トレイを持っている。
「瞳ちゃん、さっき、動いたでしょう。きちんと取れてなかったから、もう一回ね。今度は動いちゃダメよ?」
そう言って、さっきよりもさらに深く、印象トレイを突っ込んで、両手の親指でしっかりと奥歯の位置に押し付けた。
「ぐ、ぐぇっ」
辛かったが、我慢しなければならない。瞳は、印象材の感触と、流れ出るよだれと戦いながら、今度はじっと我慢した。
ようやく型が外されると、瞳は口をゆすいだ。ぺっ。ぺっ。口から糸を引いた唾液がなかなか切れない。瞳の唾液は、やや粘度が高いのであった。
検査はそれで終了した。

数日後。検査結果を聞きに行く。
上下左右の4番を抜歯して、矯正装置を付けて矯正することになった。
抜歯は、矯正歯科ではできないとのことなので、別の一般歯科を紹介される。
抜歯が終わったら、念願の装置だ。抜歯して、奥歯に少し隙間が開けば、すぐに装置をつけてくれるらしい。
上だけ先に抜いてもらって、装置をつけて、下はそれからでもいい、ということだった。
歯医者さん・・行かないといけないのかぁ・・・
瞳は、憂鬱な気分で、学校帰りに、母親が予約を入れてくれた駅前のサンライズ歯科に足を踏み入れた。
ああ・・歯医者さんだ・・・
診察室から聞こえる、キュィーンという高い音、子供の泣く声、たんぱく質の焦げるような臭い。
思わず、そのまま後ずさりして帰りそうになったが、受付に、持参した紹介状を保険証を出す。
今日は虫歯を治療されるんじゃないけど・・・
待合室の椅子に座っている間、やはり落ち着かない。周囲を見回しても、不安そうな小学生と・・暗い顔の大学生のお姉さんと・・・
ダメダメ、今日はそんなに不安になる必要ないんだから!歯並びを綺麗にするために抜くだけなんだから!
瞳は、自分に言い聞かせて、順番が来るのを待った。
「平野瞳さーん」
呼ばれた!
瞳は、深呼吸して、診察室へ向かった。

「ふ・・ん。矯正で抜歯ね。4本か。じゃ、今日は右上行こうか。3日後に左上。でいいかな。」
毛深い、熊を連想させる歯科医だった。瞳は、怖いな・・と思いながらも、なんとか
「おねがいします」
と言った。
「じゃ、口開けて」
治療台が倒され、ライトが点灯された。
あぁー、歯医者さんだ・・・
きゅっと体が縮む感じがする。
瞳の口腔内を覗き込んだ歯科医は、もう一度、紹介状を裏返したりして眺めたあと、瞳に言った。
「これ、歯抜いたら、すぐ装置つけるって?」
「はい」
瞳は頷いた。
「あ、そう。ふーん。」
それだけ言って、歯科医は、ミラーを瞳の口の中に入れた。抜く歯を見るのだと思ったが、歯科医は、ミラーをあちこちに当てて見ているようだ。
「ふーむ」
な、なに・・?歯並びが悪い子だな、って思ってるの?
瞳は、不安で開けた口から心臓が飛び出そうだった。
「ま、じゃあ、麻酔するからね」
ミラーで唇がくいっと開かれ、ロールワッテが詰められ・・・注射器の針が近づいてきて、瞳は思わず目を閉じた。
「ちょっとちくっとするよ・・・」
「ぅうっ」
最近忘れかけていた、麻酔の痛みに思わず声が出る。歯茎がふくれていく感じ・・・
痛い、と言ったら怒られそうな雰囲気だったので、瞳は黙って堪えた。

しばらくたって、麻酔が効いたら、いよいよ抜歯だ。ペンチでえいっ、と抜くのを想像していたが、
その前に、歯科医は何かヘラのようなものを手にとって、瞳の口に入れた。
ミシミシ、という音が、骨を伝わってであろうか、耳に聞こえてくるのが怖かった。
それに、痛い。
「い、いぃぃぃぃ」
思わず声を上げる。
「ま、健康な歯を抜くんだから痛いのは当たり前だ。」
ミシミシ、メリメリメリ・・・
「ぃ、ぅぅぅううう」
麻酔したのに・・・痛いよぅ・・・
しばらく耐えたあとで、歯科医はようやくペンチのようなものに持ち替え、瞳の歯を抜いた。
そこは意外とあっけない。
何か薬をつけられたあと、ガーゼを噛まされる。
歯科医は、抜けた歯をしばらくじっくりと眺めた後、
「歯、持って帰るか?」
と、瞳に聞いて、シリンジで水をかけて軽く洗って渡してくれた。
別にいらなかったが・・渡されたので、受け取って、瞳も眺める。
3番と重なっていた部分だろうか・・少し白く色が変わっていた。

痛み止めをもらって、次の予約を3日後に入れてもらい、瞳は家に帰った。

4番がなくなったことは、舌で触るとわかったが、3番の後ろに重なっていたせいか、鏡で見ると、意外と目立たなかった。
それでも、次の日、学校に行くと、何人かが、
「瞳も矯正するの?」
と聞いてきた。歯が抜かれているのを目ざとく見つけたのであろう。
「うん!」
瞳は、なんとなく誇らしい気持ちで答えていた。

3日後、左上の4番も抜いて、その足でやよい矯正歯科に向かった。
「ちょっと痛いんだけどね・・これで歯の間に隙間を開けて、ちょっと間が開いたら、奥歯にリングはめて、装置つけるからね。」
そう言って、弥生先生は、小さな丸いゴムの円盤を瞳に見せた。
「はい、あーん」
ここの歯医者さんだと、口あけるのも怖くないなあ・・・
瞳は思いながら、おとなしく口を開けた。
弥生先生が、5番と6番の歯の間に、スペーサーをくいくい、と挟みこむ。
「んー」
歯の間が押し広げられるような感じがして、声を出してしまったが、痛みはなかった。
「1週間くらいしたら、ちゃんと隙間が出来るからね。」
「そうしたら、装置つけられるんですか?」
「そうよ。つけたら痛いから、今のうちに美味しいもの食べておいてね。1年半は装置がついたままだから。かじるようなものはその間食べられないから。」
「はい。」
かじるようなもの・・
瞳は食べることは好きだったが、いろいろ食べられなくなるのは悲しい、という気持ちはなかった。

瞳は、1週間後を待ち焦がれた。ゴムを入れた翌日は少し奥歯が痛かったが、少し経つと痛みはなくなったので、
矯正の痛みに対する恐怖もあまりなかった。むしろ、早く付けたい!という気持ちが強かった。
歯を見せて微笑んでいる自分の写真に、矯正のブラケットをシルバーのペンで書き入れてみたり。
新聞に載っていた、首相の笑顔にもブラケットをつけてみたりした。

1週間後。念願の装置が装着される日だ。
瞳は、学校から急いで帰ると、着替えて、母親と一緒に矯正歯科へ行った。
診察室へ入ると、トレイの上に金属の部品がいろいろ並んでいるのが見える。
あれが、私の口の中に入るんだ!
治療台に座ってからも、ドキドキしながら、部品をいろいろ眺めていた。
「さてと。覚悟はいい?」
弥生先生が、笑顔で言う。
「はい!」
「じゃあ、まず、ゴム外すわね」
奥歯の間に挟んであったゴムを外してもらう。
すると、先生は、金属の輪っかを手に取り、
「どれが合うかしらね」
と、奥歯にいろいろ嵌めている。
「これね。」
とサイズを決めた後、
「これを嵌めた奥歯が、歯を後ろに引っ張るのよ」
と、衛生士が説明してくれる間に、弥生先生が、輪に接着剤を塗った。
「さ、いよいよ入るわよ。はい、あーん」
歯に金属製の輪が嵌められ、ぐぐっと噛む。
希望に燃えている瞳の口の中で、瞳の上顎6番は、金属のベルトで拘束されたような状態になった。
「あ、ちょっと待ってください・・つける前に写メとってもいいですか?」
「いいわよ」
弥生先生が、時代は変わったわね、と、衛生士と苦笑する。
にっこりと、歯を見せて・・ガタガタで恥ずかしいから最近は歯を見せて笑ってないんだけど最後だから・・カシャリ。
「ありがとうございました。お願いします・・」
「じゃ、次に、ブラケットつけていくわね」
アングルワイダーが瞳の口にはめられた。
歯の表面に、ブラケットが接着されていく。
「じゃ、乾くまで10分くらいこのまま待ってね。写メ、撮ってもいいわよ」
ふふっ、と笑って、弥生先生が言うので、瞳はまた、カシャリ、と、自分の口を写した。
アングルワイダーがちょっと気に食わないけど・・・

10分経って、ワイヤーがブラケットに通される。そして、何か細い別の針金で、ブラケットにワイヤーが固定された。
「今日はまだ、細いワイヤーだけどね・・これで慣れる、という感じね。たぶん痛いだろうけど、慣れてね。」
「はい!頑張ります!」
「この後は・・・えっと、下の抜歯が今週よね・・」
「そうです。」
「じゃあ、下に1週間後ゴム入れて・・・その1週間後に装置付けて、そのときに一つ太いワイヤーに変えましょうね。」
「はい・・」
「あ、食べかすなんかがつきやすくなるから、歯磨きは気をつけて、いつもより多めにやってね。」
「はい。」
「じゃ、頑張って。一応、軽い痛み止めも出しておくわ。」
アングルワイダーが外されると、唇の内側に、ブラケットが当たって、痛い。
家に帰ってからは、じんじんと歯というか歯茎の中というか・・・鈍い痛みがあった。
「うー」
食事は噛めそうになかったので、おかゆにしてもらった。
それでも、瞳は満足していた。

瞳の、矯正生活が始まった。
学校でも、他の矯正している子たちと、痛いとか痛くないとか、もう少したつと、ゴムをブラケットにはめるとか、いろいろな会話ができて、瞳は楽しかった。
痛みは・・相変わらずだったが、辛くはなかった。早く、歯が動いてくれないかな・・・

下の4番を抜きに、サンライズ歯科にも行かなければならない。
「サンライズ」と言いつつ、ちょっと薄暗い、黒い合成皮革のソファのある待合室も気分を落ち込ませる。
いやだな・・・なんで弥生先生のところで抜いてくれないんだろう・・・
そう思いながら、治療台に座った。倒されて、口を開けると、歯科医が不思議そうに言った。
「あれ、もう装置付けたのか」
「・・・はい」
「ふーむ」
またも、この歯科医は、瞳の口の中を見ていた。
「ちゃんと歯磨きしないとダメだろう・・装置になんか食べ物がついてるぞ、ほら」
手鏡を渡され、ブラケットについた食べかすを見せられる。
そんなの見せてくれなくてもいいのに・・嫌なやつ・・
瞳は反発しながらも、手鏡を覗いた。
あれ・・なんだろう、これ・・あ、昨日の夕飯のトマトの皮だ・・・
「ちゃんと歯磨きの指導されるだろ?それの通りにやらないと。」
そんなの、なかったもん・・と思いながら、瞳は、麻酔の注射を受けた。
何度受けても、痛い。
その後、また、メリメリ、ミシミシ、と嫌な音を聞きながら、瞳は、右下4番を抜歯されたのだった。
「あと、左下の4番を抜いたら、うちに来るのはとりあえず終わりだな。」
歯科医が鼻で笑ったような気がした。
とりあえずって何よ・・もうこんなところ、もう一本抜いたら絶対来ないんだから・・・
瞳は、むすっとしたまま、サンライズ歯科を後にした。

3日後に、左下4番も抜いてもらい、そのときにも、ブラケットにはさまった鶏肉を見せられ、すっかり気分を害した瞳は、
もう絶対に来るもんか、と怒りながらやよい矯正歯科に向かった。
隙間を開けるゴムを入れてもらうためだ。
下は、7番まで生えているので、5番と6番、6番と7番の間にゴムを入れる。
「上よりもたくさん隙間開けるからね、ちょっと痛いかもしれないわね。骨も下あごの方がしっかりしてるしね。」
弥生先生が言った通り、その日からしばらく、瞳は何も噛めないくらいの痛みに悩まされた。頭まで痛い。
「はあ・・おなかすいた・・でも痛いし・・・」
学校で頭を抱えていると、クラスメイトたちが、アドバイスをくれた。
「私も、最初ヨーグルトとかしか食べられなかったー」
「でも、甘いと歯に悪いかと思って、私はお豆腐食べたよ」
そっか、ヨーグルトか。と、瞳は、自動販売機で紙パックの飲むヨーグルトを買ってきて、空腹をしのいだ。

1週間後、なんとか痛みも薄れてきた頃、ついに下の歯にも装置がつくことになった。
「あら、瞳ちゃん、痛くても歯磨きはちゃんとしてね。歯垢がいっぱいついてるよ。」
と、装置を入れる前に歯を磨いてくれる衛生士に指摘された。恥ずかしい。
「で、でも・・歯ブラシが触るだけで痛くて・・・」
瞳は一生懸命弁解した。
「まあ、わかるけどね。歯磨きは頑張ってね。一応、フッ素のうがい薬も出しましょ。また装置つけたら痛いけど、なるべくがんばって磨いて、仕上げにうがい薬使ってね。」
と、弥生先生が言ってくれた。
そうして、下の歯にもブラケットが装着され、ワイヤーが通された。
い・・いたい・・・
これまでは、家に着いたころから痛み出したが、今回は、装置を着けた瞬間から痛い。
「痛い?瞳ちゃん。」
泣きそうな顔の瞳に、弥生先生が聞いた。
「はい・・痛いです・・」
「そう・・じゃ、上のワイヤー強くするのは今度にしましょう。下の痛みが少し楽になったら、また来てね。」
装置が入って1週間は、ゴムを入れたときよりもさらに強い痛みに悩まされた。
ううう・・痛いよぅ・・・綺麗な歯並びのためだもん・・でも痛い・・・
とてもじゃないが歯も磨けない。瞳は、うがい薬だけでもいいかな、フッ素だし。と、何度か、歯を磨かずに済ませた。

10日ほど経って、ようやく下の歯の痛みも落ち着いてきたので、上の装置のワイヤーを取り替えてもらいに行くことになった。
また歯垢たまってるって言われちゃう・・
瞳は、30分ほどかけて、おそるおそるなんとか歯を磨き終えた。
うわー、歯磨くのにすごい時間かかっちゃった。急がなきゃ!
「どう、落ち着いた?」
「はい・・」
「また、ちょっと痛いけど我慢してねー。上の歯も、あと何段階か太いのがあるからね。」
ええっ・・・でも、頑張ろっと。
そう思った瞳だったが、新しく入れた強いワイヤーで、また痛みがぶり返した。
「1ヵ月後に、また新しいワイヤーに変えるからね」
「はい・・・」
痛いのが早く引くといいな・・みんな、こんなに痛いの我慢してるんだ・・・

ワイヤーを変えてから1週間は、また痛くて痛くて、飲むヨーグルトを飲んで、うがい薬で済ませる、という日々が続いた。
でも、こんなに痛いのに、あんまり、歯並び変わってないし・・・
瞳は、少しがっかりしていた。2週間経つと、痛みはだいぶん引いたのだが、歯磨きがこれまた異様に面倒だ。
普通にやっても15分くらいかかるということがわかった。
はぁ・・みんな、偉いなあ・・・
ざっと磨いて、うがい薬、ということが多くなった。

1ヵ月後、ワイヤーを換えに行き、瞳は思い切って聞いてみた。
「歯並び・・いつごろ綺麗になるんですか?」
「せっかちねえ、瞳ちゃん」
弥生先生も、衛生士も笑っている。
「まだ2ヶ月ほどでしょ?まだ動きそうに無いわね。」
弥生先生が、瞳の歯を触って言った。
「でも、動き出すまで長いけど、動き出したらどんどん動くようになるわよ。我慢してね。」
そして、ワイヤーが上下とも強いものに交換された。当然・・・
い・・痛い・・・
また、ヨーグルトとうがい生活に逆戻りだ。
ワイヤーを換えるたびに同じことを繰り返し、4ヶ月ほど経ったころ。
「あ!ちょっと動いてるかも!?」
後ろに入っていた上の前歯が少し前に出てきた気がする。

その次の診察のとき、瞳は喜んで弥生先生に報告した。
「先生!歯が動いてきました!」
「そうね、やっと動いてきたわね・・ちょっとちゃんと診せてね」
そう言って、瞳の口の中を診察した弥生は、
あら・・?
前に出た隣の歯の裏側と、そのほかいくつかの場所に、小さな虫歯を見つけたのだった。
・・でも今は治せないわね。歯磨きを頑張るように言おう。
弥生は、黙っていることにした。
「じゃ、またワイヤーの強さ換えるけど、頑張って歯磨きしてね。」
「はーい」
「一応、次からは診察は1ヵ月半くらい空けていいわ」
「はい」

その次の診察のときから、ワイヤーを換えるほかに、上下の装置にゴムをかけるようになった。
ワイヤーを強くすると痛い。歯が動き始めたことで瞳は、ふたたび、
矯正がんばる!
という気分になっていたが、さらにゴムの力が加わって、今まで以上に痛かった・・・
夜中にときどき、うなされて起きるほどだ。
ホントに・・もう・・
しかも、今回の痛みは3週間ほど消えなかった。
歯ブラシが当たっても痛い期間が長く続き、歯磨きをざっとしてうがい薬、が、すっかり習慣として身についてしまった。
うがい薬はミント味でスーッとするので、口の中が十分さっぱりしたような気になるのであった。

次の診察。
弥生は、3ヶ月前に見つけた虫歯が少し気になっていた。
この前よりも、絶対大きくなってるわよね・・・
しかも、奥歯の間もあちこち黒くなりかけているのが見える。
弥生は少し迷った。が、治療するなら、装置を外さなければならない。ようやく動き始めてきたところなのに・・
あと・・装置が1年3ヶ月くらい・・・
弥生は、そのままにすることにした。

季節は秋から冬に近づいていた。
歯の向きはそろっていないものの、少なくとも同じ列上には並び始めた気がする。
瞳は喜んでいた。
1ヵ月半後、ふたたびワイヤー交換をして、ゴムも強いものに変わった。
相変わらず、交換直後は痛くてたまらない。
うーん、水も冷たくなってきたあ・・
震えながら歯ブラシの先を洗い、まず水でうがいするために水を口に含んだ瞬間。
「ぅ、つぅっ」
冷たい水が上の奥歯に強烈にしみた。
なんだろ・・装置は金属だから、冷たいのがしみるのかなあ・・・
瞳なりに考えて、納得する。その後も歯磨きのたびにしみたが、瞳は、不安を覚えることはなく、
単に、ぬるま湯を使うことにした。

「ね、瞳、ゴムどこまで行った?」
「んー、キツネさんのゴム。」
瞳は、学校で友人たちとしゃべっていた。
ゴムは歯を磨くたびに交換するのだが、ゴムの入っている袋には動物のイラストが書かれ、ゴムの強さをあらわしているのだ。
「そうなんだー。けっこう綺麗になってきたんじゃん?」
「見せてよー」
口々に言われ、
「まだ綺麗に揃ってないんだけど・・」
と、瞳は、いーっ、と口を開けて見せた。
「あ、まっすぐには並んでるじゃん」
「ホントだ!」
でしょでしょ、と、心の中で喜んでいると、友人の一人が突然言った。
「ちょっと、でも、瞳、虫歯出来てない?」
えっ!?虫歯?
「ほら・・こことか・・・」
「ぁ・・・」
覗き込んでいた友人たちが、気まずそうに目をそらす。
「え・・虫歯って・・?」
慌てて、最初に指摘した友人に聞いた。
「装置がついてるところ、虫歯になりやすいんだけど、瞳のも、ちょっと茶色くなってるかなって・・あ、影かもしれないけど」
自分も、装置を外してしばらくの間、歯の表面にできた虫歯の治療に通わなければならなかった友人は、ようやく歯が動きかけたという瞳を刺激しないように、フォローしつつも説明した。
「そ・・そうなんだ・・ありがとう・・・」
瞳は、自分の席にもどり、はぁ、とため息をついた。虫歯になってたらどうしよう・・
しかし、次の診察は約1ヵ月後だ。
虫歯じゃないか見てください、って聞きに行くほどじゃないし・・・
とりあえず、瞳はそのことは考えないことにした。

次の診察の前の晩。瞳は、母親に言った。
「ねえ、お母さん、ここ、虫歯かなあ・・・」
さっき、やはり気になって鏡でじっくり見てみると、やはり装置のついている周囲が茶色くなっていた。それも、1本だけではない。
ええっ・・どうしよう・・・
さらに、茶色い部分が少し凹んでいるような気がする歯もある。
怖くなって、母親に相談したのであった。
「どこよ・・うーん・・、汚れてるだけじゃないの?」
母親は、爪楊枝を出してきて、少し大きく汚れているように見える歯、右上2番の茶色い部分を引っかいてみた。
カリ、カリ・・
「あっ!」
「んんっ」
母親の慌てたような声と、瞳の痛そうな声が同時に上がった。
茶色い汚れは取れず、逆に、爪楊枝の先で、なんと歯に穴が開いてしまったのである。
「ごめんね瞳!・・でも、これ、虫歯だわ。」
「お母さん、何したの?」
「汚れだと思って・・取ろうとしたら穴が開いちゃったわ・・どうしましょ・・ごめんね・・」
瞳は、洗面所に走っていって、鏡でその歯を見た。
右上の2番目の歯、装置のついているところに、たしかに小さく穴が開いている。
入ってきた母親を、瞳が泣きそうな顔で振り返る。
「ホントにごめんね。痛い?」
「・・・痛くはないけど・・」
「もう一回見せて。今度は何もしないから。」
瞳は、おそるおそる口を開けた。
「やっぱり、穴開いてるわよねえ・・・」
母親は困ったように言い、じゃあ、他の茶色いところも全部虫歯なのかしら・・・と、暗い気持ちになった。
まだ中学生の娘が、前歯にこんなに虫歯を作ってしまうなんて・・・
たしかに自分も、あまり歯は丈夫な方ではない。奥歯もほとんどは治療済みだし、歯が痛くて泣いた経験も一度ではない。神経を抜いた歯も4,5本ある。昔は可愛いと言われた八重歯があったが、重なっていた歯は虫歯になってしまい、瞳を産んでしばらくして、前歯が2本差し歯になった。30前なのに差し歯・・と、ひどく落ち込んだものだ。最近はその差し歯がいつ取れるかとビクビクしている。姉はもっと歯が弱く、中学生の頃前歯を虫歯にしてしまったのだが、当時、アマルガムで治療されて、前歯のふちを黒く光らせていたのを思い出す。
まさか、今は前歯に銀歯なんてしないだろうけど・・・
そう思っていた母親は、表面だけでなく、歯の間にも黒ずんだ部分があるのを見つけた。
しかし、ショックを受けている様子の娘に伝える気にはならず、
「明日、歯医者さんでしょ。治してもらえるようにお願いしなきゃね。」
とだけ言った。

翌日。やよい矯正歯科の診察室に瞳と母親は居た。
「どう、瞳ちゃん。だいぶん動いてきたでしょう」
「あの・・」
「どうしました?」
前回と打って変わって暗い表情の母娘に、弥生は笑顔を消して聞き返した。
「瞳・・・前歯に虫歯ができているようなんですけれども・・・」
母親の言葉に、ああ、見つかったか、と、弥生は思ったが、冷静に言った。
「どこかな・・・ちょっと見せてね」
「ここです・・」
いーっ、とした瞳の右上2番に、小さいながらもしっかりと穴が開いていた。
え、ちょっと、前面!?
裏側の虫歯のことかと思っていた弥生は、思わぬ場所の虫歯に驚いた。
たしかに、ちょっと清掃の甘い子だと思っていたけれど・・・
他の歯も、装置の着いている部分がやられているようだ。
「穴開いちゃってるわね・・痛む?」
瞳は、口を開けたまま首を振った。
「そう・・困ったわね・・・」
弥生は考え込んだ。
「あの・・治して・・いただけないんでしょうか」
母親が、不安そうに訊ねた。
「ええ・・まず、ここは矯正歯科なので、虫歯の治療はできません。歯を抜いた歯科に行っていただくことになるんですが・・」
えっ!あそこ行くのヤだ!
瞳は、身体を固くした。
「ただ、治療のためには・・装置を外さないといけなくて」
「じゃあ、こちらでは装置だけでも外していただけるんでしょうか」
「そうですね・・・あんまり装置は外したくないんですが・・・でもたしかに、この歯は穴も開いちゃってるし、治した方がいいわね・・・本当は、装置は終わるまで外さないんですよ。特別に、この歯だけ外しましょう。特別ですよ。」
母親は、妙な念押しが気になったが、
「よろしくお願いします。」
と、頭を下げた。
そして、最後のワイヤを入れるはずだった瞳の矯正治療は一時中断され、右上2番の表面に着けているブラケットが外された。
「なるべくすぐまた装置は入れたいので、今から治しに行ってもらって・・ちょっと連絡してみましょうね。」
弥生は、サンライズ歯科に電話をかけた。

「あ、よろしいですか?ええ、上顎の側切歯1本です。あ・・その歯だけお願いします。ブラケットはそこだけ外しましたので。はい。」
電話を切った弥生は、瞳と母親に向き直って言った。
「今から行けば、ちょうど予約のキャンセルがあったから診ていただけるそうです。治ったら戻ってきて下さい。ワイヤ付けますから。」
弥生は治療依頼を書いて、母親に渡した。
瞳と母親は、あわただしくやよい矯正歯科を後にした。

はああ・・ゆううつだよぅ・・・
瞳は、母親と一緒にサンライズ歯科への道を歩きながら、気分が沈んでいくのを感じていた。
歯医者がそもそも嫌だし、久しぶり歯の治療でキュイーン、とされるのも嫌だし、あの熊みたいな先生も嫌だし・・前歯の治療も怖い。
「ほら、急ぎなさい。」
気分が足取りを重くさせるのか、遅れ気味になって母親に急かされる。
5分ほどの道のりで、二人はサンライズ歯科に着いた。
受付に治療依頼と診察券を出すと、
「そのまま診察室へどうぞ」
と通される。
後でいいのに・・・
数人が待っている暗い待合室を横目で見ながら、瞳はスリッパを引きずって、診察室に入り、案内されるままに治療台に座った。
すぐに熊のような歯科医があらわれ、カルテを見ながら、こっちを見て鼻で笑ったような気がした。
「ああ・・戻ってきたか。虫歯作っちゃったか・・どら。」
そう言うと、歯科医は瞳の口に左手を伸ばしてきて、唇をめくり上げた。
「穴まで開いちゃったか・・ん?」
歯科医はさらに右手で、瞳の唇の左の方もめくり上げ、しげしげと眺めた。アングルワイダーをはめられたときのように、歯がむき出しになる。
やめて・・
瞳の心に反して、歯科医はさらに左右にも唇を大きく広げ、じっくりと見ている。
「他にもあちこち虫歯作ったんじゃないか?・・・まあ、今回はこの歯だけ治せって言われてるんだけども・・他も治した方がいいぞ、早いうちに。」
歯科医はぶつぶつ言って、ようやく手を離した。
「他も・・やっぱり虫歯でしょうか・・・」
母親が不安そうに聞く。
もう、お母さん黙っててよ・・歯医者にお母さんが着いてきてるってこと自体恥ずかしいのに・・・
瞳は心の中で思ったが、自分でも、他にも虫歯があると言われたのは少し心配だった。
「そうですね・・あちこち茶色くなったり、黒くなったりしてるでしょう、これは全部虫歯ですね、えーと・・口開けて、こことか・・このへんとか・・」
歯科医は急に治療台を倒し、ライトを点けると、瞳の口を開かせ、母親に示して見せた。
「そんなにたくさん・・」
「まあ、装置があったり、痛かったりで、歯磨きがどうしてもおろそかになりますからね。よっぽど頑張って歯を磨かないと。当然虫歯になりますよ。」
これ・・全部なの・・・
母親は、瞳の口の中の、奥歯の間がほとんど黒くなっているのを見て顔をゆがめた。
「ま、でも今日はとりあえずここだけ治すことになってるからな。」
「あの、他は・・治していただけないんでしょうか。」
母親が懇願するように言った。
「矯正中は、治せないんですよ。いや、まあ治せるところもあるけれども、レントゲンとか撮りにくいから治しにくいし、矯正の先生も歯の形やかかる力が変わってしまって嫌がりますから。治療を希望する場合は装置取ってもらってきて下さい。」
歯科医は微妙に不機嫌そうに言い、タービンの先を選び始めた。
左側にも衛生士がスッと付き、母親は一歩後ろに下がらざるを得なかった。
「じゃ、行くぞ」
瞳の口にアングルワイダーが・・しかもなぜかいつも矯正歯科で使うものよりも大きいものが・・装着された。
嫌・・いやだ・・・
瞳はぎゅっと目をつぶった。
ヒュィイイイイイイ・・・
タービンが音を立てはじめ、前歯から振動が伝わってきた。
私の前歯!前歯削られちゃってる!!
今さら、そんなことに気が付き、瞳は足をバタバタさせた。
「じっとして!」
歯科医の怒声がとび、他から衛生士が飛んできて瞳の足を押さえた。
前歯の、しかも前面が削られているというのはショックであった。しかも、前歯の歯質は薄い。
前歯が・・い、痛い!!
削られ始めてすぐ、痛みが瞳を襲う。
「ぃいいい!ひぃいいい!!」
しかし、足はしっかり押さえられているし、顔もバキュームをしている衛生士がガッチリと押さえているので、びくともしない。
「すぐ終わるから我慢して。」
チュィイイイイイ、チュィィィィイイイイイイ・・・
「っひぃぃいいいい」
歯科医はすぐ終わると言いつつも、しばらくタービンは続いた。
瞳はもう、声が嗄れてしまい、しかも顔は涙でぐちゃぐちゃだ。
娘が泣き叫ぶ間、目をつぶって少し後ろに下がって耐えていたが、涙を拭くミニタオルを渡すために近づいた母親は、前歯の前面に開けられた窩洞にめまいがするほどショックを受けた。
そ・・そんなに大きく・・・
瞳は、もう泣き叫び疲れてしまい、ぐったりしていたが、埋めるための薬やレジンは、飛び上がるほどしみた。
「んぃぃぃいいっ」
「んひぃぃっ!」
ようやく治療が終わってアングルワイダーも外され、治療台を起こされた瞳は、思わず唇の上から前歯を押さえてうずくまってしまった。
うう・・いたい・・・じんじんする・・・
「他のも、まあ治した方がいいと思いますけどね。矯正の先生に相談してみてください。」
歯科医は、母親にそう言って、二人を診察室から送り出した。

サンライズ歯科を出て、やよい矯正歯科に戻る二人の足取りは重かった。
まさか・・矯正で虫歯になるなんて・・・
歯磨きちゃんとすればよかった・・でも痛かったんだもん・・痛くて出来なかったんだもん・・

「どう?治ったかしら・・痛かったの?」
さらに沈んだ様子で戻ってきた瞳に、弥生が声をかけた。
瞳は黙ってうなづき、母親が耐えかねて聞いた。
「あの・・装置、取っていただけませんでしょうか」
「はい?」
弥生は、怪訝そうに聞き返した。
「あの・・瞳、あちこちに虫歯があるって。で、装置を取らないと治せないとあちらの先生に言われまして。」
「あ・・でも、せっかく動きかけたところですし、今が大事なところですよ。」
「・・・でも・・虫歯が・・」
「虫歯の治療は装置が外れてからでも。装置を今外すと、歯並びが戻ってしまいますよ。一度外して治療したら、歯にかかる力なんかも微妙に変わってきますからね。次の矯正治療はまた最初の検査からはじめる、ということになります。」
弥生の言葉に、母親は、これまでに支払った矯正治療費のことを思った。たぶん最初の検査から、というのはそういうことだろう。もう一度払うなんて・・無理。
「そうですか・・・」
母親はうなだれた。
「じゃあ、またこの歯にブラケットつけて、針金入れるということで良いですか?」
「・・・お願いします。」
こうして、大人の都合・・矯正を途中で止めるのを嫌がる矯正歯科医と、費用が気になる親・・によって、瞳の矯正は虫歯に目をつぶって続けられることになった。

さて、年が明けて。瞳の虫歯は、徐々に本人を苛み始めた。歯ブラシが当たると痛い歯ができてきたので、ますます悪循環だ。冷たいものだけでなく、熱いものもしみる歯がある。甘いものもしみるので、ほとんど食べなくなった。前歯は、装置越しにも、歯の間が黒ずんでいるのが見て取れた。さすがに両親も、矯正治療費がもったいないなどとは言っていられないのではないか、と考え始めた頃、ついに奥歯の虫歯の一本が痛み出した。
「うぅ・・いだぁ・・・いだいよぅ・・」
明け方、パジャマのまま、頬を押さえて痛がる瞳を見ながら、両親は、矯正の装置はもう外してもらおう、と相談を始めた。と、
「い、いや・・あと3ヶ月なのに・・・」
瞳が痛みに悶えながらも抗議した。ほぼ歯並びは揃っていたが、まだ向きが少しバラバラなのだ。
「そんなこと言っても、そんなに痛むんじゃ・・」
「この歯だけ治してもらう!ぅ、ぅうう・・」
「でも他も虫歯だらけじゃないか」
「うぇ・・あぁ、いだぁぃいい・・」
痛みと悲しさで、瞳はついに泣き出した。
かわいそうな娘の肩を抱いてやりながら、なんで、歯って、いつも夜とか明け方に痛くなるのかしら、と、母親はふと関係の無いことを考えた。

翌朝、瞳は学校を休み、「やよい矯正歯科」に向かった。虫歯が痛むんです、と前もって連絡してあったせいか、受付に顔を見せるとそのまま診察室に通された。
「どこが痛むのかしら?」
弥生は迷惑そうにしているようにも見えた。
「右の・・上です」
倒されながら、瞳が答えた。
「診ましょうね・・」
瞳が開けた口の中に、ミラーを入れ、右上の奥歯を映す。
「ああ・・」
バンドの巻かれた6番は、もともとインレーが入っていたのだが、バンドの周りからインレーの縁まで達する大きな穴が開いてしまっているのが見えた。
弥生は眉をひそめた。実は弥生は、虫歯が嫌いなのであった。自分が虫歯に苦しんだとかではなく・・もちろんそれもあるが・・単に、見た目が汚いからである。矯正歯科医になった理由もそこにある。
「あの、どうなるのでしょうか・・」
母親が横から恐る恐る尋ねる。
「どうって?」
弥生は軽く首をかしげた。
「治療・・歯医者さんで治療していただくには・・その歯の装置を外していただかないといけないと思うのですが・・」
「そうですね、前に言った通りです。」
「私はもう・・矯正を途中で止めても虫歯を治療していただきたいと思っているのですが・・他にもたくさんあるようですし・・」
「たしかに、たくさんありますね」
「この子・・瞳は、あと3ヶ月だから続けたいと・・」
そこで、瞳は弥生の方を見た。
「そうですね・・ただ、この歯はね、他と違って、輪をはめて引っ張っているような歯なので・・これを外すとなると中止になるかしらね。見た目から言っても・・痛み出しているところから言っても、大きな、歯の形が変わる治療になるでしょうから。」
弥生は淡々と説明した。瞳は落ち込んだ。
「まあ、一度、一般の歯科で診てもらってから考えてもいいですけれどね。とりあえず、ワイヤーだけ外しましょうか。」
弥生は冷静さを崩さず、黙って衛生士にペンチを持ってこさせると、バチンバチン、とワイヤーを切った。切りながら、
「サンライズ歯科に電話して」
と助手に指示を出す。またあの熊みたいな先生の居る歯医者に行かないといけないんだ・・・瞳は痛みをなんとかして欲しいとは思いつつも、あの歯科医のことを考えると、さらに気が重くなってくるのだった。

30分後、瞳はサンライズ歯科の治療台に座っていた。
「先生すぐに診て下さいますから」
エプロンをつけてくれた衛生士が言い残して去っていく。
瞳は右頬を押さえて、うつむいていた。
・・うう、怖いよぅ・・すぐに診てくれなくてもいいです・・でも痛い・・
やがて横に人の気配がして、声が降ってきた。
「ついに歯が痛くなったって?」
瞳は頬を押さえたまま、そぉっと声の主を見上げた。
「はい・・・」
と母親が後ろから答える。歯科医は母親をちらっと見ただけで、そのまま瞳の治療台を倒すスイッチを入れ、横から衛生士が瞳の腕を取り、頬を押さえている右手を外させた。
「痛いのはどこだって?」
「右の・・上だそうです・・」
母親がまたも後ろから声をかけ、歯科医は不満そうに母親を見た後、
「口開けて」
と瞳に言った。
・・ひぃ・・怖いよ・・・
瞳はギュッと目を閉じて、おそるおそる口を開けた。
「もっと大きく・・ああ、これね。」
コツコツ。歯科医は口に入れたミラーでそのまま、瞳の痛む歯を叩く。
「んぁっ!」
瞳が思わず頬に持って行こうとする手を衛生士が押さえつけた。
「でもねぇ、これじゃ治せないよ、輪っかがはまってるんじゃあ。あっちの先生が外さないって言ったの?」
歯科医はミラーを抜いて、瞳に聞いた。
「いえ・・あの」
口を開きかけた母親の方を見て、歯科医は言った。
「お母さんに聞いてるんじゃありませんよ。」
母親は口をつぐんだ。
「どうなの?」
歯科医に冷たい視線を向けられ、瞳は怯えて固まってしまった。
「ほら、瞳。」
「どうなのかって聞いてるんだ。」
瞳は、ひっ、と息を吸い込んだと思うと、ついに泣き出した。
「中学生にもなって話もできないんじゃ・・」
歯科医は大げさにため息をつき、仕方ないという風に母親を見て、あらためて訊ねた。
「で、アッチの先生は何て?矯正は止めさせないって?」
「い、いえ・・あの・・」
母親も瞳につられて怯えたのか、急な質問に頭が真っ白になってしまい、弥生が何を言っていたか一生懸命思い出さねばならなかった。
「先生は・・この歯は他の歯を引っ張る歯なのだけれど・・・」
「そんなことは知ってますよ、輪を外さないって言ってたかどうか聞いてるんです。」
「す、すみません・・いえ、おそらく大きな治療になるから外さないといけないだろうと。」
「じゃあなんで付いたままなの。」
「それは・・瞳があと3ヶ月だから矯正を続けたいと・・・言いましたので・・先生が、こちらで診てもらってから考えてもいいと。」
それを聞いた歯科医は、はん、と鼻で笑い、瞳に視線を戻した。
「歯もろくに磨けないのに、矯正を続けたいだなんて、よく言えるねえ。まあ、あと3ヶ月くらいなら続けても大して状況は変わらないとは思うけれど?どうせ・・ほとんど全部虫歯にしただから。」
「ぜ・・ぜんぶ・・むしば・・」
後ろで母親が呆然と言った。同時に、瞳の泣き声が高くなる。
「い・・いらぁあいぃぃ」
泣いたせいで、痛みが増してきてしまったのだ。
「でもまあ、外さないと、その今痛い歯も治せないよ・・とにかく、今ここで、それが嵌ったままじゃ、出来ることは何もないよ。外してからだな。」
瞳は追い出されるようにサンライズ歯科を出た。

「瞳、もう装置外してもらって、虫歯治してもらいましょ。」
歯の痛みに泣き止まない瞳に、母親が諭すように言った。
「うぅ・・うっ・・うぅぅ・・」
矯正・・歯並び綺麗にするのに・・・でも痛い・・・
瞳は、しぶしぶ頷いた。
「じゃあ、やよい先生のところ戻りましょう」
2人はとぼとぼと、やよい矯正歯科クリニックへの道を戻った。
「・・で、でも・・うっ・・もうあの歯医者さん、イヤだ・・・こ、怖いもん・・」
泣きながら訴える瞳の言葉に、母親も少し考え込んだ。たしかに怖い。が・・
「でもねぇ・・」
「小学校のときの・・先生のほうがいい・・・」
「ああ・・なんだったかしら・・瞳の同級生の・・・藤井歯科?」
瞳はこくこくと頷いた。昔はもちろん藤井歯科に通うのも嫌だったのだが、熊のようなサンライズ歯科の先生と比べると・・怒らないし・・ずっと良かった。
「弥生先生に聞いてみましょ」
母娘は、矯正歯科に戻って来た。