「たらいま」
「おかえりー」
「佳奈子・・」
「あ、びっくりした。何?」
いつも、声だけ掛けて自室に直行する夫の淳が、今日はキッチンにやってきたので佳奈子は驚いた。
「取れちゃった・・・」
淳が、右上1番を指差して見せた。高校生のときにスキーでぶつかって折れ、差し歯になったという歯である。今は、金色の土台が歯茎からにょっきりと出ている。ゴールドコアだったんだ・・と佳奈子は思った。
「・・どうしたのよ」
「診察中に子供の手が当たったんだけど、まあそのときはなんともなくって・・でも、さっき車の中で、あれ、ちょっと変かな、って舌でいじってたら、取れた。」
「うーん・・ちょっと見せてね・・痛む?」
「いや。」
佳奈子が聞くと、淳は小さく首を振った。佳奈子は歯科医の目になって、夫の歯をじっと見つめた。
「特に虫歯になったりはしてないみたいだけど・・・ちゃんと診て、綺麗にしてからつけた方がいいわよね。」
「そうだな・・どうする?今から診てもらえる?」
「そうね、医院に行って・・・あ、さっきお義父さんから電話があって、私の・・・できたって」
「じゃ、明日まで我慢するか・・そうか、できたのか、良かったな」
淳に言われて笑顔を見せた佳奈子の左上4番の根元には、キラリと光るものがあった。
佳奈子は、もともと歯が弱い性質で、子供の頃はいつも歯が痛いと泣いていたほどだった。
永久歯になってからは手入れに気を遣っていたおかげで、生えてすぐ虫歯になってしまった6番の上2本のアマルガム治療(後でインレーに換わったが)、下2本のレジン治療のほかは、虫歯とは縁がなく過ごしていた。しかし、高校生のころにできたらしい左上1番と2番の虫歯を、治療せずに放置してしまい、気付いたときには手遅れで抜歯せざるを得なくなっていた。結局、ここは右上の1番から左上の3番までの4連ブリッジを入れることになった。このときの治療をしたのが淳で、その後もずっと、佳奈子の歯は淳が診て来ている。そのとき、上の2本の7番の奥に虫歯が見つかり、レジンで治療された。5年後、下の2本の7番の奥の虫歯もレジン治療を受けている。
そのさらに5年後。そろそろ30になろうかと言うころ、佳奈子の歯は大工事を受けることになった。右下の6番に痛みを感じて診てもらうと、レジン治療の下で2次齲蝕が進んでいた。ここは大きなレジンに入れ替えるだけで済んだが、右上の6番はインレーの下の2次齲蝕がより大きく、抜髄治療を受け、クラウンを入れることになった。さらに齲蝕は後ろの7番にも通じており、大きなインレーが入った。さらに酷かったのは左上の6番であった。右上の治療中に痛み出した左上の6番は、2次齲蝕から根尖性歯周炎を起こしており、さらに前後の歯も虫歯に巻き込んでいた。7番は大きいインレーで済んだが、5番は始め神経を残して治療したものの、後になって痛み出し、抜髄する羽目になった。5番にフルクラウンはさすがに目立つので、頬側のみレジンを張った前装冠である。6番は、淳の治療を2ヶ月、その後通った大学病院で3ヶ月治療を受けても結局良くならず、最終的に抜歯するしか方法がなかった。30歳の誕生日に抜歯されて、落ち込んでいた佳奈子に淳はプロポーズしたのである。しかし、なかなか抜歯痕が安定せず、半年後の結婚式の日にも6番が抜けたままの状態であった。もちろん仮歯を入れていたのだが、すぐに取れてしまうそれは、結婚式当日も、途中で外れてしまい、スナップ写真の何枚かには、歯が抜けた部分が見える笑顔が写っている。結婚式の翌日から、新婚旅行にも行かずに5番から7番の3連ブリッジを入れるための治療に通い、7番も抜髄された。5番のみ前と同じレジン前装で、6番と7番はフルメタルのクラウンである。2ヶ月ほどでようやくブリッジが入ったが、半年以上に及ぶ大工事に気を取られて他の歯の手入れがおろそかになったのか、口腔内のバランスが崩れたのか、その後、小さい虫歯が次々に出来はじめ、また頻繁に治療を受けることになった。右上2番、右上4番、左上4番、左下5番、右下5番・・・と次々にやられ、奥歯の健全歯は3本だけになった。さらに次の年、右下7番の2次齲蝕、左下の6番の2次齲蝕も発見され、大き目のインレーに変わった。
結婚2年目の結婚記念日、さらにショックな出来事は突然起きた。食事中、左上奥のブリッジが壊れて脱離してしまったのである。7番の部分は残っており、新しくクラウンを作り直すだけで済んだが、5番は歯の根が割れて一部が一緒に取れてしまった。当然、5番は残根を取り除いて抜歯しなければならなかった。4番も抜髄こそ受けていないもののすでに治療済みの歯であり、新しく4番から7番のブリッジを入れても良いところだが、5番がだめになってしまったことに佳奈子はひどくショックを受け、また4番が犠牲になると困ると悩み、インプラントを希望した。ただし、顎の骨が薄い佳奈子の場合は難しい治療になるとのことで、インプラントにする場合は、大学病院で入院して手術を受けなければいけないと診断された。いまだ結婚前と同じ歯科で働く佳奈子は、この6月から夏休み明けまでの忙しい時期に長く休むわけにも行かず、今のところ、取り外し式の義歯、要するに部分入れ歯を装着してなんとか過ごしていた。佳奈子の歯が悪いことは周知の事実とはいえ、さすがに30代前半で、勤務先で入れ歯の治療を受けるのは嫌だった。そんなわけで、佳奈子は、車を飛ばしても2時間はかかるところにある、淳の実家の歯科医院で治療を受けているのであった。小児歯科が専門の淳には大人の義歯は手に余り、淳の3つ年上の姉が補綴を得意としているのだが、彼女に頼むのも少し抵抗があって、淳の父、つまり義父に治療してもらっていた。インプラントを入れるまでの仮の義歯というつもりで、保険の部分床義歯を入れた。欠損している5番6番の部分を覆うピンクのレジンに人工歯が付いていて、4番と7番に金属の鉤をひっかけて留めるタイプである。部分入れ歯としては小さいものだが、それでも口の中の違和感はかなりのものであった。なかでも鉤はかなりの曲者で、職場では鉤が見えないように異様に気を遣い、しかも、食事の後はかならず外して口をゆすがないと、鉤に食べかすが絡まってしまうのだった。しかも、5番の痕が落ち着く前に急いで入れたので、安定もあまり良くない。安定のために3番にも鉤をかけると鉤が目立ってしまう上に、前歯のブリッジの大切な支台歯である3番に余計な負担をかけることになるので避けたかった。そんなわけで、ここ1ヶ月ほど、週末のたびに遠い道のりを調整に通っていたが、淳の母が突然、仮のものでも、自費の目立たないものをプレゼントするから換えなさいと言ってくれた。最初のうちは、息子が頻繁に帰ってくるのを喜んでいた母だったが、そろそろ佳奈子が参ってきているらしいのと、4番の鉤が意外と目立つのを心配してのことだった。2週間前に型を取って、先週、義父だけでなく義姉にも口の中を覗き込まれながら調整したものが、さっき出来上がったと義父から電話があったのであった。
「ごちそうさま」
食事を終えると、佳奈子は自分の食器だけキッチンに運び、他のものを片付けている淳に
「ごめん、お願いね」
と声を掛けると、そのまま洗面所に行き、カチャリ、と鍵をかけた。
鏡の前で、ふぅ、とため息をつくと、口をあんぐり開けて、両手の指先を左上奥に突っ込み、指先で7番に引っ掛けてある鉤を探る。
「んっ」
7番自体もクラウンがかぶせてある歯なので、余計な力はかけたくない。丁寧に鉤を外しながら、ふと視線を上に上げると、うつろな目をして、唇の端を思い切り引っ張って口の中に手を入れている自分の顔が映っている。佳奈子は見ていられなくて目を閉じた。夫である上に自分の歯の主治医で、これまでさんざん汚い歯も見せてきた淳にも、この姿はどうしても見せたくなくて、佳奈子はいつも無意識に鍵をかけているのだった。
後ろが外れると、次は4番の鉤も外す。
「ふぅ」
入れ歯を取り出すと、口の中の違和感が減り、すっきりしたが、同時に、頬の内側が少しスカスカして、なんともいえない喪失感も同時に感じる。つい、舌がそちらへ行ってしまい、歯の無い歯茎を実感することになる。2年ほど前、しばらく6番が無いまま過ごしていたわけだが、今はその隙間が大きくなっている。
・・いつか・・もっとたくさん・・・ダメになって・・・
どうしても考えがネガティブな方向に向いてしまう。佳奈子は頭をふるふる、と振ると、取り出した入れ歯を眺めた。大小2本の臼歯が、やけに健康そうな色のピンク色の床から生えているが、その両脇にはピカピカ光る金属の鉤が恐ろしげに付いている。その鉤にも、不自然に白い人工歯にも食べ滓が付いていた。水で軽く口を濯いだ後、佳奈子は鏡が扉になっている物入れを開け、入れ歯用の柔らかい歯ブラシを取り出すと、水を流しながら丁寧に洗った。歯ブラシを歯ブラシ立てに戻し、再び入れ歯をはめるかどうかちょっと考えてから、物入れから蓋つきの容器を取り出した。水を入れ、入れ歯を入れる。佳奈子はしゃがんで、流しの下の物入れを開け、洗剤の箱の後ろに隠すように置いてある箱から、入れ歯洗浄剤を1つ取り出し、袋をやぶり、容器に入れた。シュワッ・・・と泡が立ち、白とピンク色と金属の忌まわしい物体は、見えなくなった。佳奈子は容器にきっちり蓋をして、上の物入れにしまい、ぴっちり扉を閉めた。袋も小さく丸め、ティッシュでくるんでゴミ箱に捨てる。知られていても、見られたくはない、そんなところだった。
丁寧に歯を磨いてキッチンに戻ると、食器洗い機が音を立てていた。一人暮らしに慣れている淳は、家事もよく手伝ってくれる。しかし、流しにはアイスクリームを食べたらしいガラスの器とスプーン。これ以上入れるものはないってわかってから食器洗い機スタートさせればいいのに、男の人ってちょっと抜けてるわ、佳奈子は笑って、リビングに入った。ソファでは淳が寝ている。夕飯のうえにアイスも食べてそのまま寝るなんて、佳奈子には恐ろしくてできないが。佳奈子は歯の丈夫な淳を少し妬ましく思った。
翌日、土曜日、佳奈子は昼まで仕事をした後、家に戻り、昼食を食べた。
食事の後、二人で車に乗り込み、淳の実家へと向かう。道が混んでいたせいもあり、3時間ほどかかって到着すると、義父はすでに診察室で待っていた。淳の差し歯の取れた前歯を見ると少し驚いたようだったが、
「ま、後で佳奈子さんにやってもらえばいいじゃないか。ああ、母さんが庭の草抜いて欲しいって言ってたぞ。ほら、行って来い。」
と言って、淳を診察室から追いやった。佳奈子の気持ちを思いやってのことだ。60を超えても全て自分の歯が残っている義理の両親は、半分以下の年齢の息子の嫁が入れ歯を入れなければならないと聞いて、驚きはしたようだったが、馬鹿にしたり嫌味を言ったりせず、いろいろと気遣ってくれた。むしろ、佳奈子は、自分の両親にはとても入れ歯を入れていることを告白できなかった。「歯医者です、って普段偉そうなこと言ってるくせに、自分の歯は・・」と嫌味を言われるであろうことは容易に想像がついたからだ。
「よろしくお願いします」
と頭を下げ、治療台に上がった佳奈子に、
「出来たのはこれだよ。」
と、義父は、仕上がった義歯を見せた。白い歯だけが、透明な薄いサポートの上に付いている。ピンク色の床も、金属の鉤もない。
「付けてみようか」
そう言って、治療台を倒した。
「あ・・」
治療台に上がったときに入れ歯を外すのを忘れたことに気付き、佳奈子が慌てて口に手を入れようとすると、義父がそれを制した。
「そのままで大丈夫だよ、口開けて。」
その言葉に従い、佳奈子がおとなしく口を開ける。
下の奥歯にはインレーが4本輝いている。上の歯は・・右奥はフルクラウンとインレー。左側は前歯の裏も含めて、入れ歯以外の歯はすべてギラギラと光っていた。
可哀想にな・・
「もう少し大きく開けて・・」
義父は、左手の親指でぐいっ、と唇の端を引っ張って佳奈子の口をさらに大きく開けさせると、右手の人差し指と親指を歯列の一番奥に突っ込み、7番にかかっている鉤を外した。
「ぅぐ」
佳奈子が若干苦しそうな顔をする。
「大丈夫、こちらは外れたよ」
声をかけ、少し唇を緩めて、4番の鉤を外す。
佳奈子は、口に手を入れられたことも苦しかったが、それ以上に、優しいとは言え、倍ほどの年齢の義理の父親に入れ歯を外されているということに、居たたまれなさを感じていた。
「外れたよ」
佳奈子の口の中から取り出された入れ歯に、唾液が糸を引く。唾液の粘度が高いことも、佳奈子のカリエスリスクを高くしていた。
「ちょっとすすごうね、あーん」
スリーウェイシリンジを手に、義父が佳奈子に開口を促す。
「あー」
さっきまで白い歯があった部分は、歯肉がヌラヌラと光っているだけだ。あまり安定がよくない入れ歯で擦れているせいか、ピンク色というよりはやや赤黒い。
その部分に向けて水をスプレーし、バキュームで吸い取る。
佳奈子は、その水の刺激を心地よく感じていた。
「では、新しいのを入れるよ」
「はい」
義父が、新しい入れ歯を佳奈子の左上に装着した。
「噛んでみて」
佳奈子が、おそるおそる、感触を確かめるように歯を噛み合わせる。
「どうかな?」
「だいぶん・・すっきりして・・気分がいいです」
佳奈子がようやく笑顔を見せた。
「よかった、ちょっと見せてもらえるかな」
再び佳奈子に口を開けさせる。
ギラギラの左上に、再び白い歯が入った。かなり自然の歯に近く見えるように精密に作られた白い歯は、この口の中ではむしろ不自然に見えた。
・・・銀色の歯を付けた方がよかったかもしれない。
唇を引っ張ったり、ミラーを入れたりして装着状態を確認する。安定は良いようだ。
治療台を起こし、佳奈子に鏡を渡す。
佳奈子は、口を開けたり閉じたりしながら、鏡を見て、再び微笑んだ。
「気に入った?・・というのもおかしいか。」
「前のよりも・・大分良いです」
「そうか、よかった。」
「どうも・・ありがとうございました。」
そう言って治療台から降りようとする佳奈子を、義父は止めた。
「ああ、もう少しそのまま。鉤を掛けていたところを埋めないといけない。あと、どうも1本虫歯があるようだから。どっちも主治医に任せようかね、淳を呼んでこよう。」
診察室から出て行った義父の言葉に、佳奈子はショックを受けていた。
・・また、虫歯なの・・?
淳が入ってきた気配に、振り向いた佳奈子は、トレイの上に、古い入れ歯が置いたままなのに気付いた。
「あ・・」
とっさに手を伸ばして、手に持っていたハンカチにくるむ。
淳は、佳奈子の4番にかかる鉤は目にしていても、入れ歯そのものを見るのは実は初めてであった。
佳奈子の入れ歯について、淳自身は自分でも不思議なほどに何とも感じないのだが、佳奈子が見られるのを異様に気にしているようなので、気付かなかった振りをして手を洗い、佳奈子のそばに来ると、
「どう?」
と笑顔を見せた。前歯が1本無いのはやはり少し間が抜けている。
「いいわ」
と佳奈子は答えた。
「じゃ、埋めよう。あと、虫歯があるって親父が言ってたんだけど、ちょっと見せてもらおうかな。」
右手に持ったミラーのミラー部分を左手でいじりながら、淳は術者用の椅子に座り、治療台を倒した。
「はい、あーん」
「あー」
淳は、ちらりと左上に目をやり、入れ歯部分の白い歯が少し不自然だな、と、父親と同じことを思ったあと、虫歯があると聞いていた、右下に目を移した。
「ああ、これかな」
ミラーを左手に持ち替え、右手に探針を取り、右下6番のレジンの周囲を探る。
たしかに、虫歯になっている。
「んっ・・」
痛むのか、佳奈子がかすかに顔をしかめた。
自分はけっこう、レ充は得意だと思うんだけどなあ・・
佳奈子の虫歯は、ひどく手強いということであった。
ミラーと探針をトレイに置き、淳は佳奈子に告げた。
「これはたぶんインレーにしないといけないから、戻ってからやろうか。」
佳奈子は少し不安そうな顔で、黙って頷いた。
「で・・左上の4番埋めたいんで・・外しておいてもらえる?レジン取って来るから。」
言った瞬間、佳奈子の目に動揺の色が走るのが見えた。
「は・・外さないと・・ダメ?」
「ダメってこともないけど、外してもらった方がやりやすいかな、と思っただけ。新しいのに薬とかついても嫌かなって。」
口をつぐんで考え込むような表情になった佳奈子を見て、淳は付け加えた
「いや、嫌ならいいよ、そのままで。親父に頼むって手もあるけど、レ充は俺の方が上手いぞ。」
軽く微笑んで佳奈子の肩を叩き、立ち上がって棚に向かった淳は、俺も丸くなったもんだ、と感心していた。
この3年ほどで、淳は佳奈子の、というよりはおそらく歯の悪い女性が持つ、根深い心の陰を理解するようになった。歯が悪いことへのコンプレックスと、それを隠したいという気持ち、これ以上悪くなることへの不安・・しかも自分自身が歯科医だということでそこに自己嫌悪が加わる。たかが歯じゃないか、噛めるように治せばいいんだよ、と思うのだが、歯と言うのはそれ以上の存在であるらしかった。気にするな、治してあげるから、という言葉はまったく彼女の心には届かず、救いにはならないのだった。
・・あの頃、気付いていたらどうだったかな・・
淳は、棚から取り出したレジンの箱を手にしたまま、理沙子との結婚生活を思い出していた。理沙子も歯科医で、佳奈子と同じように、いや、もしかするとそれ以上に歯が悪く、しょっちゅう歯のトラブルに悩まされていた。ちょうど30になるあたり、歯科医としてもそこそこ自信がついてきたころに同窓会で再会して結婚したのだが、結婚後も歯のトラブルをなぜか隠そうとする理沙子と、歯が悪いなんて気にするな、俺がなんとかしてやる、と言う淳との間には、いつしかピリピリした空気が流れるようになった。1年後に突然、理沙子がアメリカに留学すると決まったとき、淳は心のどこかでホッとしている自分に驚き、さらに1年後、もう帰りませんと言われたときには、肩の荷が下りたような気分になって苦笑いしたのだった。それでも一応、軽くショックは受けたけれど・・
・・まあ、ああいうのを、若かったっていうのかもな・・
無力感に苛立ち、俺ならなんとかできるのに、どうしてもっと頼ってくれないんだ、と理沙子を怒っていた当時の自分を思い出す。もっとも、相手が同級生というのも、理沙子が素直に歯を見せる気になれない理由ではあっただろうが・・
「・・淳?」
後ろから、佳奈子の不安そうな声がして、淳はふと我に返る。そういえば理沙子は、佳奈子のように不安で落ち込むタイプではなく、逆に相手に不満をぶつけてくるタイプだった、と淳はさらに思い出した。自分だけが昔と違っても、結局のところ、自分たちは衝突していただろう。
「ああ、レジンのメーカーが違うなと思って。」
言い訳しながら、淳は治療台に横たわったままこちらを不安そうに見つめている、自分がほとんどの歯を治療した年下の妻のところへ戻った。
「ちょっと色見るから・・いー・・あ、やっぱり軽く口も開けて」
佳奈子は素直に、いーっ、として見せた後、あー、と口を開けた。
その4番と5番の間に、透明なストリップを差し込む。いくつか合いそうな色のレジンを取って、4番の根元に当て、色を確かめる。
「やっぱりこの色かな」
最初に思いついた色が一番しっくり来て、淳は妙に満足した。佳奈子の歯のことはよくわかってる、というちょっとした満足だ。次の瞬間、去年、平木の結婚式で久しぶりに会った、アメリカで知り合った審美歯科医と再婚したという理沙子の、妙に真っ白い歯が頭をよぎった。見た目だけを優先したようなその歯に、淳は少し違和感を覚えたが、本人が昔よりも晴れ晴れとした顔をしていたので、まあ、精神安定のためと割り切って、そういう歯も有りかな、と思ったのだった。
・・しかし、今日はやけに理沙子のことを思い出すな。
淳は軽く頭を振って、佳奈子の新しい入れ歯の、4番の歯茎に沿ったサポート部分をカバーするために綿やガーゼを詰め込むと、古い入れ歯の鉤を引っ掛けるために4番の根元に作った凹みを埋めるレジンを充填する作業を始めたのだった。
最後の磨き以外、タービンを使うこともない治療で、いとも簡単に、それは終了した。
「はい、お疲れ。」
治療台を起こすと、それまで不安そうな顔をしていた佳奈子の表情が歯科医のものに変わった。
「じゃ、次。紺野淳さん、治療台へどうぞ。」
昨日取れてしまった、前歯の差し歯の治療だ。
淳は手袋を外し、ゴミ箱に放り込みながら、治療台に上がると、手を洗いに行った佳奈子の背中に話しかけた。
「なんか怖いんだけど。この立場って、初めてだよな。」
「そういえば、そうよね。ふふ、大丈夫、怖くないですよ。私は優しい先生って評判ですから。」
「嘘つけ。ああ、そうだ、萩原先生は怖いんだった。」
倒れていく治療台の上で、淳は、佳奈子を下から見上げながら、医院での厳しい佳奈子の様子を思い出して、冗談でなく、怖くしないでくれよ、と思ったのだった。
「ちょっと見せてね」
そう言う佳奈子の口元を下から見上げると、ギラギラと賑やかだ。
・・歯医者の歯は、下から見ると、こんな風に見えるものなのか・・
佳奈子はそんな淳の視線に気付いたのか、ぷい、と立って、マスクをして戻ってきた。
「見ないで。」
「いや、見えるんだよ」
「そんなこと言うと、痛くしますよ。」
「すいません。・・・って、それは脅迫だろ。」
「いいから。あー。」
佳奈子の左手が顎に添えられ、淳は口を開けさせられた。見るだけだからか、素手のままの、冷たくも熱くもない、心地いい温度の手だ。人差し指が上唇を軽く持ち上げるように添えられ、ここの診察室の消毒用石鹸の匂いに混じって、家で使っているハンドソープの微かな香りが漂ってくる。スケーリングなどを衛生士から受けるときは、どういうわけか顔にタオルをかけられるので考えたことはなかったが、こういうときは目は閉じるんだろうか、と思いながら、閉じて何をされるかわからないのも不安で・・少し歯科医としての佳奈子が怖いというのもあって・・目は開けたままにした。佳奈子が右手に持ったミラーで、差し歯の取れたコアの周辺をチェックしている。真剣な目だ。
「これ、入れたのいつ?」
「高校・・何年だったかな、まあ、20年とちょっと前かな。上は15年位前に換えて・・7,8年前に取れてもう一回付け直したけど、コアはそのまま。」
そこで淳は思い出した。前回取れたときに付け直してくれたのは理沙子だった。やけに彼女のことを思い出すのはそのせいか・・
「そう。まだしっかりしてそうだから・・レントゲン撮って、問題がなければそのまま、付け直しましょ。たぶんセメントの劣化だわ。」
そう言って、佳奈子は治療台を起こし、撮影室に向かった。
詳しく見るために、前歯周辺だけのデンタルを撮ることにする。
「はい、動かないでね」
佳奈子は機器をセットすると、撮影室を出て行った。パタン。静かにドアが閉まる。
・・これもデジャヴっていうのかね・・
バターン!
大きな音を立てて閉められたドアに、淳はビクッとした。
・・なんでそんなに怒ってるんだ?
いや、原因はわかっていた。直前の会話だ。
「これ、入れたのいつ?」
「高2の終わり。・・で、6年になる直前に換えた。」
「なんで換えたのよ?」
「なんでって?ちょっと欠けたから。知り合いが、換えれば、って換えてくれた」
「ふーん、知り合い・・女でしょ、あの、なんだっけ、アシスタントしてた・・」
「男が入れたか女が入れたかなんて、関係あるか?」
「私には関係あるわよ!ほら、写真撮るわよ」
で、バターン!だ。・・・原因が会話にあるのはわかるが、理由がわからない。
たしかにそれを換えてくれたのは当時の彼女・・淳や理沙子の実習のアシスタントをしていた3つ上の美人歯科医、百合子だったのだが、だからといってそんなことを今、怒らなくても・・当時理沙子と付き合っていたわけでもないのだから。関係ないだろ。
淳は、納得の行かない気持ちで、ピーッ、という撮影音を待っていた・・
ピーッ。
ガチャリ。ドアが開いた。
「はい、お疲れさま・・って、そっちは別に疲れることしてないわよね。」
淳は、むしろ機嫌が良さそうな今の妻の顔をまじまじと見つめた。
「なに?私の顔になんかついてる?」
前にここが取れたのを付け直してくれたのは理沙子だ、と言ってみたい衝動に駆られた。佳奈子はどんな顔をするだろう。たぶん、怒ることはなく、ちょっと困ったような顔をするに違いない。
「・・あ、いや、なんでもない。」
「なあに、もしかして、怖いの?」
ふふふっ、と笑いながら佳奈子は踵を返し、診察室へと戻っていく。淳は理沙子の影を振り払うように、軽く頭を振りながら佳奈子の後をついて、レントゲン室を出た。
「ねえ、痛かった?」
治療台に戻ると、佳奈子が聞いてきた。
「ん?な、何の話?」
ちょうど、前回つけ直してもらったときは、理沙子が怒っていたせいか妙に痛かった、と思い出していたところだったので、淳はひどく動揺した。
「私、そんなにびっくりさせるようなこと言った?歯が折れたときとか、その後の抜髄とかって痛いのかなーって。神経、ばっちり生きてるわけじゃない。」
「ん?ああ、そんなことか・・・知りたい?」
少し余裕を取り戻して聞くと、佳奈子はあっさり、
「知りたいかって聞かれたら、別にそれほどでもないんだけど。なんか話題ないなって思って。」
と答えた。佳奈子にはときどき、こういう淡白なところがある。淳は苦笑いしながら告白した。
「話題ないって何だ、俺たちは倦怠期か?・・・実を言うと、泣きそうなほど痛かった。」
「泣いたの!?」
佳奈子は急になんだか嬉しそうだ。
「いや、だから泣いてないって。泣きそうなほど、って言ったでしょうが。」
「いいんだよー、別に泣いたって。でも、男の子は泣くのを我慢してるのがこう、なんとも、いいんですよって、金子さんは良く言ってるの。」
「なにそれ・・」
淳が苦笑いして首を振っていると、佳奈子は急に立って、出来あがったレントゲンを取りに行った。
「んーと・・」
と言いながら、写真を明かりにかざしつつ戻ってくる。
「・・どうだった?」
・・面倒なこと・・再治療だとか、歯根破折でブリッジにするとか・・になったら、ちょっと嫌だな・・
もう20年以上経っているので聞かれるまで忘れていたが、折れた時の治療はひどく痛かった上に、ぐりぐりされたりして、気持ちも悪かった、と思い出したのだった。
「そうね・・」
そんな淳の気持ちを知ってか知らずか、佳奈子はやけに熱心に眺めている。淳は少し不安になってきた。
「なんともないみたいね。」
佳奈子が突然こちらを向くと、笑顔で言った。その笑顔にふと感じるものがあった淳は、手を差し出す。
「ちょっと見せて。」
はい、と渡された小さなデンタルを、同じように灯りにかざして目を凝らしてみる・・。
「萩原先生・・?」
言いながら、佳奈子を横目で軽く睨む。佳奈子は笑っている。
「なんですか?」
「わざとでしょ。じっくり見てたの。」
「ふふふ、バレた?」
「パッと見で、なんともないってわかるし。」
「ま、そうなんだけど。ちょっと見てみたかったのよね、心配そうな顔。」
淳は脱力した。仕事中にそんなことをされるとは思わなかったので、油断してしまった。
「で、満足したわけ?」
「んー、イマイチだったかな・・」
「なんで。けっこう心配したんだよ、痛かったって思い出したとこだし、再治療とか嫌だなって。」
「そうなの?あんまり、顔に出てなかったけど・・・ごめんね。」
最後は小さく言いながら、佳奈子は淳の頭を少し撫でると、セメントを取りに立った。
さて、その日の夕食後。淳が
「あ、食べたら歯磨きしないと。先生に怒られちゃう。」
と言ったので、姉の知佳は驚いて聞いた。
「何?ついにあんた、虫歯でもできた?・・なかったわよね、今まで。」
「そうなんだよねー」
と、淳が笑いながら言い、
「できてないからっ」
と、いつになく強い調子で佳奈子が否定した。
・・それで、佳奈子さん、なんだかさっきから暗かったのね・・
知佳は心の中で納得した。横から母がのんびりと、
「で?どっちなの?」
と尋ねる。
「できちゃった」「できてません」
淳と佳奈子は同時に言って顔を見合わせた。
「私は別にどっちでもいいんだけど、どっちなのよ?」
知佳が聞くと、淳が苦笑いしながら白状した。
「COだって。2本くらいだったっけ?」
淳は『主治医』の佳奈子に聞き、佳奈子は少し口を尖らせて頷いた。
「なんだ、じゃあ、できてないじゃないか」
父の心なしかつまらなそうな声に、食卓の全員が思わず笑ってしまう。
「ですよね?」
と、味方を得た佳奈子の顔も少し緩む。
「でも、できてるかできてないかで言えば、できてると思うんだけど。」
「そういう話なら、私もそう思うけどね・・」
淳と知佳は言い、知佳の夫の孝太郎が口をはさんだ。
「なんだそれ。歯医者さんが違うこと言っちゃ困るよ。どっちか決めて欲しいなあ、素人組としては。ねえ、お義母さん」
「そうよ・・で、淳、治してもらったの?」
母親が頷きながらさらに入ってくる。
「いや、治さなくていいの。自然に治るかもしれないから。」
淳の答えを聞いた途端、『素人組』は不信の目を向けた。
「だったら虫歯って言わなくていいじゃない。私、お父さんと佳奈子さんに付くわ。」
「俺も」
「私も」
「ももかもー」
それまで黙っていた子供たちからも反論されて、姉弟はしぶしぶ形勢不利と認めるしかなかった。が、佳奈子はそれでも浮かない顔だ。自分のせいで、淳に虫歯ができたと思っているのだろう。知佳はとりあえず話の方向を変えることにした。
「でも、淳は、ふだん検診なんか受けてるわけ?ちゃんとした検診よ。」
「んー、ユニットに乗るのは、スケーリングしてもらうときくらいかなあ。それもあんまり多くないんだけど。」
「・・私、たまに見てますけど・・でも、実は、ちゃんとライト点けて、ユニットで診たの、始めてです。」
「じゃあ、今までも、気付かなかっただけで、COくらいなら出来たり治ったりしてたんじゃないの?今日はたまたま見つけちゃったから、気になるだろうけど・・佳奈子さんが気にすることじゃないわ。」
佳奈子が少し考えるような顔になった横で、淳はウンウン、と頷く。
「ちょっと、あんたは気にしなさいよ、食べてそのまま寝たりしてるんでしょ。」
知佳が突っ込むと、今度は佳奈子がウンウン、と頷いた。知佳は真剣な顔になって忠告した。
「ホント、それは止めた方がいいわよ。いきなり来るんだから。」
「いきなりって、気付かなかっただけじゃ?」
「一気に来るって意味よ。」
知佳は、2年前、生まれて初めて虫歯ができ、しかも、4本も治療したのであった。
「はいはい。じゃ、ほら、歯磨き、行くよ。ちさっちゃんも、ももやんも。」
「ももやんじゃないもんー」
「このあいだまで、自分でももやんって言ってたよ」
「ゆってないもん、おねえちゃんのうそつき」
「いいから、ほら、行くよ。」
淳は子供たちを連れて洗面所に賑やかに向かい、それを笑いながら見送った知佳と佳奈子は、片付けをするために台所に立った。
・・さすがに今、俺が歯を磨くのは早すぎないか??
思いながら、淳は子供たちと一緒に洗面所で歯を磨いていた。まあ、後で何か食べたら、また磨けばいいわけだが。
「あれ、ももやん、もう終わったの?」
百佳はさっさと口をゆすいでいる。
「ももやんじゃないもん!終わったもん!」
「ももちゃん、ちゃんと歯磨きしないと、ホントの虫歯になっちゃうよ。虫歯治すの、痛いんだから。」
知里が、お姉ちゃんらしく、経験者らしくたしなめている。
言われた百佳は、むすぅ、と口をとがらせた。
「あれ、何、ホントの虫歯って。」
「このあいだねー、ももちゃん、小学校の歯科検診で、おととい、紙もらったの。シーなんとかって言われたんだよ。おじちゃんとおんなじ。」
「あ、そう。」
ちゃんと聞いてたか、と、淳は苦笑した。しかし、知佳には何も言われなかった。2人目なので、知佳も少し落ち着いたのかもしれない。
「ママがなおさなくていいってゆったもん。」
百佳が一生懸命抗議しているのは可笑しいが、ここでちゃんと止めなければいけない。
「治さなくていいのはいいけど、お姉ちゃんが言うとおり、ちゃんと歯磨きしないと、それ、ホントの虫歯になるよ。はい、おいで。」
淳はいそいで自分の歯磨きを終えると、百佳の歯ブラシを取って、仕上げ磨きのために居間にでも行くことにした。洗面所を出かけたところで、まだ歯を磨いている知里に声をかける。
「あ、ちさっちゃんは?歯科検診、今年もなんともなかった?」
ここ数年は、幸い、知里も新しく虫歯はできていないのだ。が、軽く聞いた言葉に、知里は、びくっ、と反応した・・