次の金曜日のワインの会。高良は順子に手招きされ、会場の隅に向かった。
「高良さん、ちょっとお仕事のことでご相談が・・」
「あ、杏奈ちゃんなら、この間の水曜日もちゃんと来ましたよ。ちょっと辛いようだけれど、頑張ってます。」
順子の経営するモデル事務所に所属する杏奈は、歯痛がひどくて高良の「歯科治療室」に連れて来られ、治療を受けている。痛む歯のほかに14本もの虫歯を溜め込んでいるのを見つかってしまった「清楚系」モデルの虫歯治療は大人気で、とにかく少しでもいいから見たい、という会員のために、前回水曜日の治療では、史上初の立ち見まで出さねばならないほどであった。残念ながら、次回の治療は杏奈の仕事の予定がわからないために未定なのだが。
「あまり間が空いても良くないので・・まだまだ治療の必要な歯は多いですし、次の予定が立ちそうでしたら教えて下さい。なんとかしますので。」
高良は言ったが、順子はやや上の空のようだ。
「え?あ、ああ、杏奈。そうですよね、はい・・」
高良は、相談というのは、クラウンやインレーの値段のことかな、と思っていた。実のところ、治療で利益を出す必要はないので、タダで白い歯を入れてもいっこうに構わないのだが、杏奈ちゃんにぜひ銀歯をはめたい、と思った典子が、あえて白い歯を高くした価格表を渡しただけのことだ。
「ご相談って、杏奈ちゃんのことでは無いのですか?そういえば、お元気がないようですけれども。」
「あ、はい・・実は・・わたくしの歯も見ていただけないかと・・」
順子が、いつもの自信たっぷりの態度とは違う、おずおず、という雰囲気で切り出した。
「おや、順子さん、たしか、歯は丈夫だとか・・」
その言葉を聞いてうつむいてしまった順子に、高良は少し胸がざわつくのを感じて驚いた。治療室での治療中、典子に言われて患者に厳しい言葉をかけるようにしているのだが、このところ、その言葉が考えなくても出てくるようになったうえ、その言葉イジメがやや快感になりつつある。自分では、それは単に昔イジメっ子だった性格のせいで、歯フェチのような変態の仲間入りをしているわけではない、と思いたいのだが・・
「そう思っていたんですが・・あの、少し黒くなっているところがある気がして・・それも1箇所じゃなくって・・心配でもう・・」
辛そうに言う順子を見ながら、歯が丈夫だって思いあがってるからですよ、ああ、ここもここもやられてますね、虫歯だらけですよ、もっときちんと歯を磨かないと、ああ、前歯も虫歯ですねぇ、などの台詞が頭の中に次々浮かんできて、高良は心拍数が上がるのを感じていた。その考えを振りほどくように軽く頭を振って、心配そうな声を出す。
「それは・・良くないですね、一度拝見しましょう。ただ、今は手帳も何も持っていなくて。仕事を離れるためにここに居るものですから。後でご連絡しましょう。ご都合のいい日をいくつか教えて下さい。」

翌日、土曜日の昼、高良は藤井の家の地下の客間に居た。一見、オーディオルームのようでもあるが、部屋で目立つのは、昔の歯科治療台である。応接室などによくある、普通ならコーヒーカップなどが飾られていそうなキャビネットの中には、カップとは別の種類の陶器・・セラミック細工の歯、などが飾られている。壁には絵のかわりに、これまで治療室で治療した患者たちのパントモ写真が、治療前後のセットでかかっている。部屋に漂うのも、花の香りではなく、歯医者の匂いだ。
「これはあの、アロマオイルですか、典子さん。どこでこんなもの・・」
高良が言うと、典子は嬉しそうに笑って言った。
「あら、調合したのよ、簡単よ、タイムと、クローブ、あと、ローズマリーのオイルを混ぜただけ。」
「おう、お待たせ。」
藤井が、歯の模型と共に現れた。その中の1本には、インレーがはまっている。杏奈の右下7番のためのもので、ギラギラと光る、保険内金パラインレーだ。
「できたけど、これ、いつ付けるんだ?決まったか?」
歯科治療室の技工は、実は藤井が担当している。本業は別にあるらしい・・実は藤井が何の仕事をしているのか高良も知らない・・が、趣味の歯科技工とはいえ、出来は見た目も適合もかなりのものだ。本人曰く、「趣味だからこそ出来上がりにシビア」とのことだが・・
「それなんですが、順子さん、それどころじゃなさそうなんです、今日うかがったのも順子さんのことですが・・」
高良は、昨日の順子の相談を話した。
「あー、それでなのね、昨日、順子さん、私に向かって、『歯が綺麗でいいですね・・きちんとお手入れしてらっしゃったんでしょうね・・』って、ため息つきながら言ったのよ。『いえ、まあ・・』としか言えなかったけどね。」
典子の綺麗な歯は、ほとんどがセラミッククラウンなのだ。
「ふーん、しかし、いっぺんに2人患者をかかえるのか・・あんな女子高生が居るからなあ、オバハンに人が集まるかな」
「でも私、順子さんの治療にも興味あるわ、オバハンって言っても、たしかまだ27歳だし、余所に行かれて治療が観られないのは惜しいレベルでしょ。それに、別系統じゃない。いじめ甲斐があるのは順子さんの方よ。」
「まあ、それもそうだな。で、いつが良いんだって?」
「日曜日、明日ですね、の夕方4時以降か、平日の夜8時以降らしいですね。」
「じゃ、明日で聞いてみるか。少なめでもいいか?」
「まあ、僕は別に。杏奈ちゃんでずいぶん稼がせてもらいましたから。2人でもいいですよ。」
高良の報酬は会員たちが見学のために支払う参加費の3分の1と決まっているのだ。参加者が少ないと報酬も減るのだが、ここ2回の杏奈の治療で、通常の倍は稼いだので別に構わない。
「そうか、それくらいなら来るだろう、4時でいいかな、ちょっと待ってて」
藤井は、会員たちに連絡を回しに席を立った。
「ああ、ところで典子さん、前歯、どうですか。もし心配ならきちんと・・」
「いえ、今のところ、大丈夫ですから。」
高良の問いかけに、典子は少し微笑みながらも、拒絶するような雰囲気で答えた。実は、前回の水曜日の杏奈の治療の前、典子の前歯の差し歯が取れてしまったのだ。杏奈が来る直前だったため、典子は慌てて、そのまま元通りに差し込んで戻し、治療後は2人ともそのまま忘れて帰ってしまったのであった。
「そうですか・・ならかまいませんが・・・」
2人の間に、少し微妙な沈黙が流れた。
藤井は、15分ほどで笑顔で戻ってきた。
「なんと4人も集まった。」
「では、明日の4時ということで順子さんに伝えます。」
「じゃ、先生、また明日―。」

さて、日曜日午後4時。順子は治療室の治療ユニットに座らされていた。
たいていの約束に遅れてくる順子だったが、今日はなんと5分前に現れて典子を驚かせた。
先日、杏奈の付き添いでやってきたときはオシャレ、と感激した診察室の内装には目もくれず、順子は緊張した面持ちで少しうつむき気味に座り、脚は揃えて少し斜めに流している。
「順子さん」
と、後ろから典子に声をかけられ、びくっ!として身構える。
『緊張してますねえ』
『典子さんのイジメも見ものですね』
『じゃ、頼んだよ。』
天覧部屋では、会員たちと高良のプレミーティングが終了した。
「エプロン、着けますね」
典子が後ろから優しく声をかける。
「もうすぐ先生いらっしゃいますから。もっと楽にして下さいね。」
「はぃ・・」
そこへ、ちょうど高良が現れた。
「こんにちは。」
「あ、よろしくお願い致します・・」
エプロンをつけられた姿で、順子が頭を下げる。
「こちらこそ。えーと、早速ですが、黒くなって気になるところがあるというお話でしたが・・痛みは?沁みるとか。」
「いえ、そういうことは。」
そうか・・治療そのものは、あまり面白くないかも知れないな。とりあえず言葉でいじめておくか。
「前回歯科を受診されたのは?」
「いつだったか・・たしか高校生の頃だったと・・10年くらい前でしょうか。」
少し上目遣いで申し訳なさそうに答える順子に、高良は軽く微笑んでみせた。
「あ、治療ではなくて、検診とか、そういうので行かれるでしょう。」
「い、いえ・・そういうことは・・」
「ええっ?」
「10年も、検診も無しですか?」
典子は絶句、という声を上げ、高良も微笑から一転して、少し問い詰めるような口調で迫る。
「は・・はぃ・・すみません・・」
順子は小さくなっている。
「いえ、僕達に謝ることではありません。ご自分の歯が悪くなって辛い思いをされるのは順子さんご自身ですから。でも、10年も放って置かれたとなると、あれこれ問題が起きているかもしれませんねぇ、歯は丈夫だとおっしゃってましたが・・」
「もう、それは・・」
たしかに順子は、自分は歯が丈夫だと思っていた。歯の治療を受けたことは、乳歯時代に2,3本、永久歯になってからも2本くらいである。順子の年代では、周囲の友達は10本近くの銀歯を奥歯に抱えているのも普通であったし、最近あった高校の同窓会では差し歯にしている友人もちらほら見かけた。モデル時代も、順子ちゃんは写真の銀歯修整がいらないと言われていた。それに安心して、夜、面倒だと歯を磨かずに寝ることもあった。歯に気を遣っていたとは言えない。
「まあ、とにかく、見せていただきましょうか。」
「はい・・」
治療台が倒されていく。

典子が、ライトをカン、と点灯する。一瞬顔にまともに当たったライトにまぶしそうに顔を背けた順子は、モデル時代の撮影を思い出した。しかし、ライトは順子の顔などどうでもいい、とでもいうように、口の周りだけを照らし出すように調整されて固定された。
「では、お口開けて・・あーん」
高良が、ミラーを手にして言った。順子は目を閉じ、あーん、と言いながら口を開ける。
んっ・・
マスクをしていなかった典子は、あー、と吐き出された順子の口臭に顔をしかめた。原因は舌についた苔のせいか、それとも・・歯茎は赤く腫れ、あまり丁寧に手入れされていないことが容易にうかがえる。歯はたしかにそれなりには丈夫なのだろうと思われたが、手入れのずさんさには勝てなかったようだ。あちこちの歯の間に黒ずみが見て取れ、咬合面の裂溝の真ん中に小さい穴が開いた歯も少なくない。
・・これはそれなりに、治療で泣かせることもできそうだ。
「うーん・・」
高良は、難しそうな声を出した。順子が、不安そうに目を開ける。
「これはけっこう・・あちこち・・・やられて・・・ま・・・す・・ねぇ・・・」
ゆっくりと間をおいて言いながら、左手で唇を引っ張ったり、顔の向きを変えさせたりしながら、ミラーを当て、ときどき目を細めたりしてみせる。
・・あちこち?ってどのくらいなの?私が見つけたのは・・奥に2ヶ所と・・前歯なんだけれど・・・
順子は自分の手が冷たくなっているのを感じていた。
「それに・・」
ミラーをトレイに置きながら、高良は聞いた。
「失礼ですが、歯はきちんと磨いていらっしゃいましたか?」
「は・・はい・・一応・・」
消え入りそうな声で答えた順子に開口を促し、高良は手に取ったスパチュラで、下の奥歯の頬側にべっとりと溜まっていた歯垢を軽く掻き取り、順子に見せた。
「これは歯垢です。これをきちんと落とさないと、歯を磨いたとは言えませんよ。」
順子は辛そうに頷き、見せられた歯垢から目を背けた。
「うーん・・これじゃあ、どこから手をつけて良いかわからないな・・まあ、痛みがある歯がないのが幸いではあるけれど・・」
高良は困りきったような声を出した。
・・そ、そんなに困るほど虫歯が・・・
驚いた時のくせ・・順子がモデルをしていた頃、「びっくり」のポーズといえばこれだったので、いつの間にか癖になってしまったのだ・・で、順子は口に手をやった。鼓動が激しくなる。歯が丈夫だと安心して・・丁寧に手入れをしなかったことも、問題がなくて歯医者に行かなかったことも悔やまれる。
「とりあえず・・レントゲンを撮らせてもらいます。で、それを見て・・僕は診断してるから・・」
ちら、と典子を見やる。典子はこのあたりのカンは素晴らしい。即座に後を引き取った。
「では、私はその間に順子さんの歯の清掃を。ちょっとこのお口の状態では治療、いえ、検診もできませんからね。」
典子が、治療台に横たわる順子をちら、ちら、と見下ろすように見ながら言った。
「ああ、そうしてもらえると助かるな・・」
別に検診に問題もないのだが、高良はホッとしたような声を出しておいた。
「はい。」
典子は頷いた後、今度はきちんと順子に顔を向けて、微笑みながら言った。
「それでお口の臭いも少しは軽くなると思いますから。もう、そんなに気にしなくても大丈夫ですよ。治療中は私たち、マスクをしますし。気にせずに、大きなお口開けて、治療受けてくださいね。」
「えっ・・私の・・くち・・あの・・」
順子は泣きそうな顔だ。典子の攻撃は続く。
「あらやだ・・気付いていらっしゃらなかったの。順子さん、よくお口に手を当てるでしょう、ああ、お口が臭いのを、ご自分でも気にしてらっしゃるんだわ、慎み深い方よね、って主人といつも感心してたのよ、私。」
実は、さっき口を開いたときに臭ったのと、順子が驚いて口に手を持っていったのを見て思いついた出まかせだが、まあ、あの口腔内から考えれば、普段からそこそこ臭うに違いない、どうでもいいことだ。しかし順子に与えたダメージは相当だったようだ。
順子の目にみるみる涙が盛り上がった。典子を見ると、大丈夫、とばかりに、慈愛に満ちた微笑を返された。
高良の方を見ると、高良はふっと目を反らし、治療台を起こしながら口を開いた。
「まあ、とにかく・・レントゲンを撮ってもらってから・・・。」
「はい・・」
順子は、高良の顔が近くに来てしまったので、あわててハンカチを口に当ててから返事をした。
パントモの撮影を済ませ、順子は典子に伴われて治療台に戻った。その間、高良は天覧部屋へ・・・

「まったく、典子のやつ・・」
高良が天覧部屋に入ると、濡れ衣を着せられた藤井が苦笑していた。
「いや、でも、たしかに時々けっこう臭いましたよ、彼女の口は。もうそれ以来、この日が来るのを待ってました。」
女子高生には興味が無いと言っていた会員が口を開いた。
「ええ、大丈夫ですよ藤井さん、あれ、事実です。」
別の会員も同意する。
「ところで、どうですかね実際。期待できないの?治療は。」
そこに、ちょうど、順子のレントゲンがプリントアウトされてきた。
高良が取って、全員に配布する。
「あれ、けっこう良いんじゃない?」
一人が声を上げた。
「杏奈ちゃんのこと叱っておいて・・これ、良い勝負じゃないですかね」
別の、杏奈の治療にも参加した会員が、レントゲンを宙にかざして数えながら言った。
「そう・・ですね、けっこう良いと思います。検診もじっくりやりましょうか」
高良が言い、会員たちは頷いた。
「あ・・典子さん始めるみたいですよ」
誰かの声に、会員は画面と目の前の光景に意識を集中させた。

治療台に戻ると、典子は治療台を倒しながら順子に言った。
「ちょっと最初に見せてくださいね、あーん・・」
順子は、あー、と言いかけて、典子がマスクをしていないことに気付いた。
あわててハンカチを口に当てる。
「順子さん、それじゃ見えませんよ・・恥ずかしからずに見せて下さい・・」
典子は、治療台の高さを上げながら言った。
ハンカチを当てたまま、順子は首を振った。
「あの、典子さん、マスク・・してください・・」
「はい?ちょっと、こもってよく聞こえないんですけど・・ハンカチ外していただけますか?」
典子はわざと、順子の顔に自分の顔を近づけて聞き返した。
順子は仕方なく、ハンカチを外し、
「あの、マス・・」
と言いかける。途端に、典子は、
「うっ」
と顔をしかめて横を向き、直後、
「あっ・・あ、ごめんなさい、大丈夫ですよ。そんなに気にしなくても。」
と微笑んで立ち上がった。
順子は一人、口に手を当て、はーっ、と息を吐いて自分の息の臭いをたしかめているようだ。一瞬、目が落ち着きなく動き、その後、順子はきゅっと口を閉じた。
『自分でも、臭かったんですかねぇ・・』
天覧部屋では誰かが呟く。
やがて、マスクをした典子が戻ってきた。
「お待たせしました。では、改めて。ちょっと見せてくださいね・・」
順子は、おそるおそる口を開いた。
典子がライトを調整し、手袋をはめた指にワセリンを少し取ると、順子の唇に塗った。そして、
「失礼します」
と言いながら、アングルワイダーをはめ込む。
順子の目が不安に泳ぐのが分かった。
順子をそのままにして、典子は再び立ち上がり、器具の棚のほうへ。
画面には、口元を丸出しにした順子が映し出されている。
赤く腫れ上がった歯茎。
歯の付け根に歯垢を溜めている。
不安に少し顔を横に向けたとき、奥歯の歯間に黒く虫歯の穴が開いているのが見えた。