「歯医者さんは、虫歯がないんですか?」と聞かれることがある。
もちろん、人よりも気をつけてはいるが、
歯医者だって、虫歯には、なるのだ。
あれから10年。佳奈子は、歯科医として、充実した日々を送っていた。
佳奈子自身は、左上の前歯を酷い虫歯にして失ってから、
きっちり歯を磨き、半年に1度、前歯を治療してくれた紺野にチェックしてもらい、予防に努めてきた。
もともと、歯が丈夫でない性質なのだが、努力の甲斐あって、
この10年では、2本の治療で済んでいた。
他の歯の状況は、こうだ。
幼稚園の時に、生えるなり虫歯にしてしまった、6番4本。
下の2本にレジン充填、上の2本は、もともとアマルガムだったのが、
2次齲蝕を起こして、小学生の時に、銀のインレーに変わっている。
あとは、前歯の治療の時に、上の7番の奥に、C1の虫歯が2本見つかり、レジンで充填されている。
5年前、親知らずを抜いたとき、下の7番の奥にも、やはりC1の虫歯が2本見つかったので、同様に治療してもらった。
もともとの歯が弱い佳奈子は、歯ブラシの届きにくいところがあると、すぐ、虫歯になってしまうのだ。
ある日。佳奈子は、勤務中に、右下のあたりに、違和感を感じた。少し、重いような・・・
「肩でも凝ってるのかな。もう年だし」
そう考えて、肩を揉んでいると、
「萩原先生。今日、すごい患者さん来たんですよ」
と、衛生士の金子夏美が話し掛けてきた。
夏美は、佳奈子と同じ時にこの医院に新卒で来たのだが、
衛生士なので、佳奈子より年は下である。
「どうすごいのよ。」
「虫歯が19本もあるんですよ。おじさんじゃないですよ。19歳の女の子。
彼氏に連れられてきたけど、男にぼーっとなってるから、あんなに虫歯になるんだわ。」
これだけ聞くと、彼氏ができない女の僻みのようだが、夏美は、佳奈子から見ても美人であった。
「ちょっとちょっと。19本はすごいけど、あなた、言いすぎよ。」
夏美は、歯が丈夫なようで、今まで、一度も虫歯になったことがない、と自慢していた。
そのせいか、虫歯を作る人間に対して、かなり手厳しい。
佳奈子が、患者に対して厳しいのは、自分の苦い経験からだが、
夏美の場合は、虫歯にしてしまう、ということ自体を軽蔑しているようだった。
たとえば・・
佳奈子は、患者を治療するとき、椅子を倒している間は、絶対にマスクをはずさない。
理由はもちろん、前歯の裏である。
佳奈子のブリッジは、紺野が気合を入れて、一番腕がいいという技工士に頼み、
2度も色あわせや修正をしてくれたおかげで、前から見ると、自前でないとは気付かない。
しかし、強度から言って、絶対に裏は金属でないとダメだ、と紺野が譲らず、
裏は、金属がギラギラ光っているのだった。
下から見れば、絶対にわかってしまう。
最初の頃は、声がこもって聞こえにくいからと、あまりマスクをしていなかったが、
歯医者になった年の秋。医院内で、衛生士や助手の歯科検診をしたときのこと。
夏美の担当になり、綺麗な歯に少し嫉妬をおぼえつつ、検診を終えたとき、
下から、夏美が言ったのだ。
「萩原先生、銀歯、見えてますよ。前歯の裏も。欠損してるみたいですけど、
まさか、虫歯じゃないですよね。」
佳奈子は真っ赤になった。
その反応を見て、夏美は、信じられない、という表情をし、さらにこう続けたのだ。
「前歯も虫歯にする人がいるなんて、いないと思ってた。」
衛生士である以上、そんなはずはないのだが。
それ以来、佳奈子は、マスクをすることに決めた。
その後、二人は、歯科医と衛生士というよりは同期として、比較的仲良くすごしていた。
夏美は、検査でカリエスリスクが高いことがわかった佳奈子が、
その割には歯を健康に保っていることに感心し、
PMTCを定期的に行って、予防に協力的したりもしていた。
が、ときどき、佳奈子は、夏美が歯のことで自分を馬鹿にしているのではないかと、
たまらない気持ちになることがあるのだった。
さて、佳奈子の、肩こりが原因だと思われた右下の違和感は、
徐々に、奥のほうに収束していった。
しかし、自分で鏡の前で念入りにチェックしても、特に異常はみられなかった。
これで明らかな痛みでもあれば、レントゲンで調べるところだが、
半年に一度、検診を受けていることもあり、佳奈子は安心してしまっていたのだった。
その頃、佳奈子は、件の19本の虫歯の患者、香緒里の治療を担当していた。
彼女の歯は虫歯が進行しているため、神経や根の治療が多い。
歯科治療は、重労働だが、特に、根の処置には集中力が必要だ。
その日も、香緒里の2本の奥歯の根を治療することになっていた。
「んあ!あぅ!」
「我慢してー、もうちょっとだから、動かないで・・」
「あぁぁ」
「はい、よく頑張ったわ。ちょっと休憩しましょ」
1本目の処置を終え、佳奈子も少しホッとして、手を洗いに立った時だった。
ズキーン。
佳奈子の右下6番に、痛みが走った。とっさに、顔をしかめ、右頬を手で押さえる。
「えっ・・虫歯?」
ドキリとしたが、一度深呼吸をすると、痛みはほとんど消えた。
「何だったんだろう・・」
首をかしげながら、香緒里の治療に戻った。
「じゃあ、次はこの歯をやるわね。」
ピンセットで、仮の封をはずし・・・
ズキ。
「ぁ」
思わず声が出た。また、痛みが走ったのだ。
不思議そうに見つめる香緒里に微笑みかけて、ピンセットで詰めてある綿を取り出し、
深呼吸してみる。
しかし、今度は、痛みは消えなかった。
ズン、ズン、ズン、ズン・・
痛い・・・。
根の治療など、とてもできる状態ではなかった。
急に黙り込んだ佳奈子を、夏美が厳しい目で見ていた。
佳奈子はその視線に気付くと、ふぅ、と短くため息をつき、
「ちょっと炎症が残ってるわね。薬を入れて、もう少し置きましょう。」
と、香緒里に告げた。
「じゃあ、今日は・・」
少しホッとして、しかし、不安げに香緒里が尋ねる。
「そうね、薬を入れて閉じたら終わり。あ、心配することはないわ。大丈夫よ。」
そう言うと、佳奈子は手早く薬液に漬けた綿をつめ、封をして、治療を終えた。
香緒里を送り出し、医院内の片づけをはじめる。
今日の最後の患者は香緒里で、他のスタッフは、すでに帰ってしまっていた。
「先生」
夏美が、器具を洗浄器に入れながら、隣の佳奈子に言う。
「ひょっとして、歯・・痛むんじゃないですか?」
「え?」
内心の動揺を悟られないよう、笑顔で返した。
「右の歯でしょう。」
思わず、ぴくっとする。夏美は、さらに続けた。
「どうして隠すんですか。そんなの、歯科医として失格でしょう?」
その強い口調に、少しカチンと来て、佳奈子は言い返した。
「ちょっと頭痛がしただけよ。歯はなんともないわ。ほら。」
自分でチェックして確かめた後なので、堂々と口を開けてみせる。
すると・・・
「たしかに、見たところ大丈夫そう、ですね、でも」
夏美は、顔をしかめながら言った。
「先生、口臭がしますよ」
佳奈子は、とっさに口をつぐんだ。思わず、手で口を押さえた。
「その臭いは、絶対に虫歯になってますよ。ちゃんと調べました?」
夏美に言われ、口から下ろした佳奈子の手が、かすかに震える。
「そんな」
臭いでわかるわけないでしょう、と、思わず詰め寄ると、
「うっ」
夏美が顔を背けた。
佳奈子の顔が蒼白になる。
「すみません、今の、わざとじゃないんです。でも、きっと虫歯あると思います」
夏美があわててフォローした。
佳奈子は黙ったままだ。
重い沈黙が流れる。
「そうだ、明日から、紺野先生がお見えになるそうです。」
夏美が思い出したように言った。
佳奈子の歯を治療してくれた紺野は、目標どおり、小児歯科専門医になったが、
今は学位を取るため、主に大学で研究をしていた。
大きなマンションが近いこの歯科医院には、夏休み、治療勧告をもらった
子供たちが、大勢やってくる。
そこで、院長は、夏休みの間、後輩である紺野にヘルプを頼んでいるのであった。
「で、今日、小児用の器具のチェックに来られるって言ってました。
ちょっと遅くなるそうですけど・・待って、診てもらったらいかがですか」
と、夏美が提案した。
佳奈子は考えた。たしかに、あの痛みは、なんともないわけがない。
でも、見た目はなんともないのに・・・
突然佳奈子は、痛む歯、6番はレジンで治療済みなことを思い出した。
・・2次齲蝕?
先日治療した、香緒里の歯が、中でボロボロになっていたのが目に浮かぶ。
「そうね、そうするわ」
佳奈子は、軽くため息をついて、治療椅子に横に座った。
夏美は、棚から佳奈子のカルテを探し出し、治療台に置くと、
「私も、待ってます」と言い、そばの椅子に座った。
1時間後。紺野がやってきた。
「ひさしぶり。でも、こんな時間までどうしたの、二人とも」
時計は8時を回っていた。
「実は・・歯がちょっと痛くて」
右頬を押さえながら、佳奈子が言った。実は、待っている間に、我慢できなくなり、
ボルタレンを1錠飲んでいたが、なんとなく痛みは消えなかった。
「ああ、それはいけないね。ちょっと見せて」
佳奈子が口を開ける。
「半年前にはなんともなかったけどね。どこ?」
「ひたの、6番です」
口を開けたまま答えると、紺野がかすかに眉をひそめた。
「佳奈子ちゃん、ちょっと、はー、ってしてみてくれる?」
佳奈子の顔が硬直する。
「診察だから。ほら。」
紺野に促され、佳奈子は、しぶしぶ、
なるべく、息が出ないように、控えめに口を開けた。
「はー」
「いや、もっとちゃんと。」
強い口調で言われ、佳奈子は、思い切って、
「はーっ」
と息を吐いた。
「んっ」
紺野が思わず声を出す。
佳奈子は、泣きそうな顔になって、
「クサイ・・ですか」と、小さな声で尋ねた。
伏目がちに、ふっ、と肩でため息をつくと、紺野は佳奈子の顔を見た。
「ちょっと、口臭がひどいね。おそらく、進行した虫歯があるのだと思う」
淡々と、事務的に言われたが、佳奈子は真っ赤になった。
「大丈夫。虫歯を治せば、ちゃんと消えるから。」
紺野になぐさめられ、かえって、恥ずかしかった。
カルテを手にとって、紺野は続けた。
「おそらく、この6番の下で齲蝕が進んでいるね。ひょっとすると、上かもしれないけど」
そう言いながら、椅子を倒した。
歯の痛みでは、上下を混同してしまうことが、しばしばあるのだ。
「はい。口開けて。」
ミラーで下の6番を念入りにチェックした後、
上の6番も、唇を指で押し広げながら、丹念に観察する。
佳奈子の口は、やや小さいので、少し見にくいらしかった。
そのため、紺野は、いつも佳奈子にリトラクターをはめて診察・治療するのだが、
佳奈子は、はずす時に、自分の唾液が糸を引くのが、とても恥ずかしかった。
「ちょっと我慢して。」
そう言うと、上の6番に、シュッ、とエアーをかける。
「んぁあ!」
佳奈子が顔をしかめる。
「次は下いくね。」
シュ、シュッ。
「ぁあー」
ふたたび、顔をゆがめる。
「どうやら、両方ともやられてるみたいだ。上のほうがひどそうだけど、
レントゲン撮ってみよう。金子さん、お願い。右側だけでいい。」
夏美に伴われ、レントゲンを撮って、椅子に戻った。
しばらくたって、レントゲンができてきた。
やはり、上下とも、中で虫歯が進行しているらしい。
そればかりか、上の歯は、7番の中も、黒っぽく抜けて写っている。
「やられたね・・」
紺野は、半年前の検診の時、時間がなくてレントゲン撮影をしなかったことを、
少し後悔していた。
「ま、治すしかないね。」
佳奈子が頷く。
「じゃ、リトラクター。あと、麻酔お願い。」
深夜の、治療が始まった。
「じゃ、麻酔するね。最初ちくっとして・・って、言わないでも分かってるか」
紺野は笑いながらそう言うと、注射器を手に取り、佳奈子の歯茎に刺した。
「んっ・・」
手に力が入る。麻酔の注射って、こんなに痛かったっけ。
「もう一本ね」
眉間にしわが寄る。痛い。
「麻酔が効いてくるまで、ちょっと一服してくるね・・ちょっと眠くてね」
紺野はそう言って、注射器を台におき、診察室の外に出て行った。
「ふぅ・・」
佳奈子がため息をつくと、夏美が冷たい声で
「そうやって前歯ダメにしたんですか?」と言った。
佳奈子の肩が、ぴくっと震えた。
「患者には『こんなになるまで放っておいて』って言うのに、自分は痛くなるまで我慢ですか」
はっ、と嘲るように笑う夏美。佳奈子は唇をかんでうつむいた。
「で?私が言わなかったら痛くなっても放っておく気だったんですか?」
「ち、ちがぅ・・」
目に涙が浮かんできた。力なく首を横に振ると、目尻から涙がこぼれる。
「じゃあ、なんで隠したんですか」
何も言い返せず、うつむく。悔しさと恥ずかしさで、涙がどんどんあふれてくる。
「そんな気持ちでやってるなら、歯医者やめた方が良いんじゃないですか」
「言い過ぎだ。金子君」
紺野の声が、診察室に響いた。びくっとして後ろを振り向くと、紺野がドアのところに立っていた。
いつから聞いていたんだろう。たまらなく恥ずかしい。
「でも・・」
夏美が言い返そうとすると、紺野はきっぱりと
「萩原君は良い歯科医だ。指導してきた僕が保証する」
と言った。夏美は、何か言いたげな顔をしていたが
「すいませんでした」といって黙り込んだ。
紺野が、佳奈子の正面にたった。泣いてる顔を見られまいと、涙を拭く。
「萩原」「っ、はいっ・・」
紺野にそう呼ばれ、どきっとした。学生時代、紺野がこう呼ぶ時は必ず学生をしかる時だった。
「君にも、もう少し早く来てくれたらもっと良い状態で歯を残せたのに、って悔しくなる時があるだろう」
今まで聞いたこともない、厳しい口調だった。
佳奈子は、すこし怯えながら「・・はい」と言った。
「特に気にかけてる患者にそれをやられると、空しくなるだろう」
申し訳なくなって、うつむきながら「・・はい」と答える。
「君は聡明だから、今の僕の気持ちが想像つくだろう。僕は今怒る気力すらない」
紺野はそう言うと、佳奈子に背を向けエアタービンをいじり始めた。
紺野に、これほど厳しくしかられたことはなかった。
佳奈子の目から、また涙がこぼれ始めた。「くっ・・んくっ・・ひっく・・」嗚咽がこみ上げる。
夏美が、哀れむような目でこちらを見ている。
「ご・・ごめんなさい・・」
紺野の背中にそう言ったが、紺野は何も返さなかった。
「泣いてないで。治療始めるよ」
もう一度こちらを向いた時、紺野の口調はいつもの優しい口調に戻っていた。
「は、はいっ・・」
涙を白衣の袖で拭き、佳奈子は口を開けた。
紺野が素早くリトラクターをセットする。
「まず、入ってる詰め物はずしていくから」
ピンセットを手に取り、紺野が言う。
口の中でかちゃかちゃという音が響き、引っ張られたと思うとスポっと詰め物がとれた。
はずした詰め物を台に起き、そのまま下の歯のレジンも抜き取る。
「全然くっついてなかったね。触ったらくずれていくな」
紺野がピンセットを台に置くと、金子がけほっとむせた。
そう、自分の口の中とは思えない臭いが、診察室に漂っていた。
「見るかい?」
紺野が手鏡を差し出したが、首を横に振った。
涙で曇って、周りがよく見えない。
「んっく・・」
しゃくり上げると、余計にその臭いが感じられて、悲しくなってくる。
「うっく・・ひっく、ひっく・・」
紺野にこんな姿を見せるのは、いやだった。
「ほら、泣かない泣かない。なっちゃったもんはしょうがないから、早く治そう」
紺野は、優しい声でそう言うと、佳奈子の肩をぽんぽんと叩いた。
夏美が、佳奈子の涙をさっと拭く。
「続けるよ?」
紺野がそう念を押したので、佳奈子はもう一度涙を拭き、こくんとうなずいた。
紺野は微笑むと、タービンを手に取った。
ひゅいーん、といういやな音とともに、上の歯を削られる感じがする。
そう思った直後、痛みが走った。
「ん、んぁっ・・」
声を上げるが、紺野は
「ん、大丈夫。ちょっと我慢してな」
といいながら削り続ける。
ごぼごぼ、とバキュームの音が響く。
「あ、んぁぁあっ」
もう無理、と思った時、タービンが止まった。
「すごい広がってる・・出来るだけ歯質を残したいけど、厳しいなぁ・・」
紺野はそう言うと、タービンのヘッドを付け替え、もう一度佳奈子の歯を削り始めた。
「んぁ・・あ・・」
どのぐらい続いただろう。上の六番は、もうほとんど原形を残していなかった。
タービンの音が止まった。
「ふぅ・・うがいして」
リトラクターをはずして、そう告げる紺野。佳奈子はほっとしてうがいをした。
「これで、神経を抜いていって・・後、下も同時にやろうか。レントゲンでは、下は神経まで行ってないはずだし。麻酔なしでさっと行こうか」
紺野はそう言うと、佳奈子の方に目を向け同意を求めた。
「え・・あ・・はい。お願いします・・」
佳奈子がそう言うと、紺野はにこりと笑って、リーマーを手に取った。
「じゃ、行くから」
そう言うと、紺野は佳奈子の歯に針を入れた。
「んっ・・ぁあ・・」
ぐりぐりとねじり、抜く。
いつもは、佳奈子が患者にしている事なのに、自分がされる側になるとやはり痛かった。
「ん…んぅっ」
痛みよりやるせなさと自責の念、申し訳なさと悔しさが渦巻いていた。
目を閉じればその思いの濁流に飲まれてしまいそうで、佳奈子は目を開けた。
しかし、紺野の顔はとても直視できない。
横目で夏美を見ると、馬鹿にしたような目つきだ。
仕方なく天井の模様を数えて、痛みと感情に耐えた。
「はい、終わり。大丈夫、根の先までは行ってなかったからね」
そういって手早く薬を入れ蓋をすると、佳奈子ににうがいをするように促す。
「前回レントゲンを撮らなかった僕も悪かった。
でも、佳奈子ちゃんはカリエスリスクがかなり高いから、
次から違和感があったらすぐ連絡して欲しい。いいね?」
佳奈子が返事をしようと水を吐き出している間に、夏美がたたみかけた。
「そうですよ。先生には自覚がなさ過ぎます。大体、上下とも二次齲蝕だなんて」
何も言えないでいると、紺野が言った。
「…そうだね。左は大丈夫そうだし…歯磨きが雑になってるんじゃないかな。
右利きの人は右が磨きにくいからね。」
「私、指導しましょうか?」
「嫌よ!あ、あなたにだけは、指導されたくないわ」
佳奈子は叫んだ。
「私だって私なりに気をつけているわ…あなたが休憩中につまんでいるお菓子、
一度でも私が口にしたことがあった?
午後の診療に出る前に歯磨きをしなかったことが一度でもあった?
それでも、虫歯にはなるのよ!
あなたに虫歯がないのは私より技術や心意気が優れているからではないわ。
たまたまあなたがラッキーな人だったからよ!
そんな人に、そんな、虫歯を作ってしまった人の気持ちを理解しようともしないで、
優越感に浸るために衛生士になった人に、
侮蔑の目で見られながら指導されるなんて、死んでも嫌だわ!」
最後は嗚咽と混じって、自分でも嫌になるほど醜い声だった。
「そんな…侮蔑だなんて…」
「見てるわよ! 自覚がないなんて更にタチが悪いわ!」
夏美の顔が青ざめたのが判ったが、もう止まらない。
止めたのは紺野の声だった。
「はいはい、終了終了。
佳奈子ちゃん、言い過ぎ。さっきの金子君と差し引きゼロだ。
金子君、僕は君が衛生士になった理由は知らないが、
さっきの言い方では確かに、誤解されても仕方ないよ。
佳奈子ちゃんなら今までの交友もある。謝れば許してくれるだろう。
でも患者さんは一期一会だ。フォローは効かないよ。気をつけた方が良い。」
乗った僕も同罪だけどね、といいながら、紺野はハハ、と軽く笑った。
夏美は、済みませんでした、と言ってきたが、佳奈子は気が立って許すどころではない。
ぷい、と夏美から顔を背ける。
「ふぅん、じゃあ今日のところは僕が指導しよう。」
その様子を見た紺野がそう言ったので、佳奈子は驚いてしまった。
「小児歯科医だよ。こう見えても指導も評判いいんだ。
はい、下もやるから倒すよ。」
佳奈子の返事を待たずに、紺野の指導が決定してしまったらしい。
さっきとは別の恥ずかしさが頭を支配して、他のことは考えられなくなってしまった。
「佳奈子ちゃん、佳奈子ちゃん? 終わったよ。」
紺野に肩を叩かれて、ようやく正気に戻る。
「えっ・・?何が?」
横で、紺野も夏美も苦笑している。
「下の歯の治療だよ。まあ、神経まで行ってなかったし、痛みはなかったんだろうけど、
ホントに気付かなかったの?」
「あの、考え事してて」
「まあ、疲れてるんだろう。もう10時だし、明日もあることだし、今日のところは終わろうか。
歯磨きは、また今度ね。じっくりと。」
紺野にいたずらっぽく笑われ、最後は顔を近づけて言われたので、
頭に血が上って、赤くなってしまった。
夏美が、やれやれ、という顔をする。
佳奈子は、さっきのことを思い出し、夏美を睨んだ。
「ほら。二人とも。明日は患者さんの前で仕事があるんだから、そんな顔しない。
怖いおばさん達だと思われるよ。」
紺野の言葉に、二人は同時に、紺野を睨み、
「ま、子供から見れば、おばさんかもしれないわね」
「でも、おじさんに言われたくないですよねー」
と、笑った。
「ま、いいから。帰ろう。そうだ、佳奈子ちゃん、治療の続き。上の根の治療と、上の7番。
僕は明日から毎日来るから、都合のいいときに進めていこうね。これ以上広げるんじゃないよ。」
最後は主治医の顔に戻り、佳奈子に釘をさすと、
紺野は帰って行った。佳奈子と夏美もそれぞれ、帰途についた。
佳奈子は、家に帰ると、鏡の前で、右下の歯を写して見た。
今までと同じように、レジンが綺麗に詰められている。
上の歯を見ると、仮封とはいえ、これも丁寧に蓋がしてあった。
もちろんこれは、紺野の腕であって、特に自分のために丁寧にやってくれたわけではないのだが。
突然佳奈子は、自分の口の中に、紺野が神経をそそいだ結果がある、ということに喜びを感じた。
なぜ、今まで気付かなかったのだろう。もっと、治してもらおうかな・・・
ふと、そんなことを考えたが、そこに、夏美の馬鹿にしたような目つきが浮かんできた。
・・・また、あの目で見られるなんて御免だわ。
佳奈子は、一生懸命に、歯磨きを始めた。
雑になっていると言われた右側も、頑張って磨く。と。手に少し抵抗を感じ、次の瞬間、
ぽろり。と、流しに何かが落ちた。
「あっ。」
とっさに、右上を舌で探る。やはり、6番の仮封がなくなっていた。
口の中に、薬の味が広がっていく・・・
時計を見ると、12時近かった。
紺野に、連絡しようかどうしようか迷った。
・・待っていても、明日の朝になれば、治してもらえるのだ。
そう思ったとき、歯が、シクシクと痛み始めた。紺野に叱られ、背中を向けられたときの辛さも思い出す。
治療は明日の朝やってもらうにしても、一応、連絡しておこう。
佳奈子は、痛む頬をさすりながら、紺野に電話を掛けた・・・
「もしもし」
「佳奈子ちゃん?どうした。」
「あの・・歯磨きしてたら・・」
「取れちゃった?」
「はい。」
「で、杜撰な治療の文句言いに電話した、と。」
「いえ!そうじゃないんです!」あわてて否定する。
「あはは、わかってるよ。」紺野は笑っていた。「ちゃんと連絡してきて、偉かったね。」
こんなことで誉められて、子ども扱いされているようだ。
「すみませんでした、夜遅くに。」
「いや、いいよ。で、どうするの?」
「明日の朝、少し早めに、診ていただけたらと思って」
「それでいいの?痛むなら、今何とかしたほうがいい。明日は仕事なんだから、痛み止め飲むわけにいかないだろう。」
そうだった。「ちょっと、痛いです。」
「OK。じゃあ、今からなんとかしよう。遅いから、迎えに行くよ。」
「すみません。ありがとうございます」
長い1日だわ・・さっきよりも痛みが強くなった気のする頬を押さえながら、佳奈子は、紺野を待った。
12時ごろ、携帯が鳴った。紺野からだ。
「家の前に着いたんだけど、降りてこられる?」
「はい、すぐ行きます」
降りていくと、紺野が車で待っていた。
「乗って」
乗り込むなり、佳奈子は、紺野に謝った。
「すみません。こんな時間に」
「ホントだよ。寝ようと思ってたから、正露丸でも詰めとけ、って言おうかと思ったよ」
「本当にすみません、明日にしようかとも思ったんですけど」
佳奈子が恐縮する。
「いや、嘘だよ。ビール開けようと思ったとこだったんだ。飲む前でよかった。
その歯はかなり削ってあるからね。詰め物がないとすぐに欠けるし、割れると厄介だ」
そこまで言うと、紺野は佳奈子に向き直り、真剣な顔で言った。
「明日の朝、それを見せられたら、立ち直れないとこだったよ。昨日叱ったのに、通じてないのか、ってね。」
「紺野先生が、ですか」
ん、と軽く答えると、紺野は車を発進させた。
「大学でもよかったんだけど、最近はセキュリティが厳しくてね。」
と、医院へ向かう。
「金子君とのことだけど・・まあ、彼女はたしかに言い過ぎる。僕がこんなことを言っちゃいけないけど、
一度くらい虫歯になったほうがいいかもしれない。」
前を見たまま、紺野は笑った。佳奈子もつられて、笑う。
「でもね、佳奈子ちゃんも、ちょっと気にしすぎだよ。もちろん、前歯がちょっと酷かったからね、
自分があんなにしちゃったんだ、っていう気持ちが強いのはわかるけど」
佳奈子はうつむいた。歯を折った以外、歯の悩みのない紺野に、わかるわけない。
そんな佳奈子を横目でちらっと見て、紺野が続ける。
「他は、大して酷くないよ。冷静に考えて、奥歯が8本、それも全部処置済みだ。抜髄も今回のが初めてだし、
半分は目立たないだろう。30前の女性としては上出来だと思うけど。」
たしかに、医院に来る同い年くらいの女性は、6番は2次齲蝕でクラウンか、ブリッジになっていることもある。
でも!虫歯のない人も、かなりいるのだ。たまに、歯科検診に借り出されることがあるが、
いつも、虫歯のまったくない女性に、嫉妬を覚え、落ち込んで帰ってくるのだった。
「そりゃ、金子君みたいな歯の人もいる。でも、虫歯をなくすってのは無理な話だし。それにね、あんまり気にされると、
僕の立場がない。主治医として、けっこうきちんと治してるつもりなのに。ま、これは僕の勝手な言い分だけれど。」
佳奈子はハッとして、紺野の横顔を見つめた。
「ごめんなさい・・自分のことで頭がいっぱいで・・・失礼なこと言ってたんですね」
紺野は、何も答えず、軽く笑っただけだった。
しばらくして、医院に着いた。
「もう遅いし、さっさとやっちゃおう」
早速、ユニットにすわり、診てもらう。
「うん、よかった、歯は大丈夫だ。でも、薬も抜けちゃってるな・・。痛みはどう?」
「ん、シクシク痛い感じです」
「取れたときだけ?まだ痛い?」
「それが・・だんだん、強くなってくる気がするんですけど・・」
紺野は、ちょっと考えるような顔になり、もう一度、佳奈子に口を開けさせた。
「んー、ちょっと、炎症起こしかけてるね。ちょっと乱暴に磨いたんじゃないかな?」
そう言うと、紺野は立って、器具を取ってきた。
佳奈子の口に、リトラクターがはめられる。何度やられても、どうしても恥かしい。紺野は、そんな佳奈子にはかまわず、
「感染おこすとイヤだから、もう一回、綺麗にしてから詰めよう。はい、行くよ。」
リーマを歯の中に入れていった。
「ちょっと痛いかもしれないな・・」
そう言いながら進めていく。
「あっ!」
佳奈子が叫ぶ。さっきよりも、ずいぶん痛みは強かった。
「ん、我慢して・・」ぐりぐり。
「ん・・・んんんん」
佳奈子の目から涙があふれる。
左腕で佳奈子の顔を抱え込むようにして押さえつけ、紺野はさらに進めた。
「んぁあ!ああっ」
かかとで、治療台を蹴る。
「動いたら危ないよ!もうちょっとだから」
「あぁぁぁぁ」
「はい、終わり。蓋しちゃうからね。」
そう言って、薬を詰めて、歯に封をした。
ようやく解放され、佳奈子は、肩で息をしている。しゃくりあげながら、ハンカチで涙を拭う。
「子供みたいに泣くなあ。」
紺野は、その様子を見て苦笑して、肩をポンポン、と叩きながら、うがいをするように言った。
佳奈子がうがいをする間に、紺野は、予約表を見にいった。
「佳奈子ちゃん、明日の午前中は担当の患者さんがいないようだから、休んだほうがいいな。」
佳奈子がえっ、と言う顔をする。
「もう夜中だし、たぶん今晩痛みが出ると思うから、痛み止め飲んで、ちゃんと寝たほうがいい。
疲れると、腫れたりするからね。明日は院長も戻ってくるし、僕もいるから。さ、片付けたら帰ろうか。」
佳奈子はおとなしく従うことにし、痛み止めを持って、紺野の車で家まで送ってもらった。
「歯磨きは、やさしくすること。」
という台詞を残し、紺野は帰って行った。
佳奈子が家に帰って寝ようとすると、紺野の予告通りずきずきとした痛みが襲ってきた。
「っ・・」
顔をしかめながら、痛み止めを飲む。
脳裏に、ふっと香緒里の顔が浮かんだ。
「・・あの子も、こんな事やってたのかな」
そう思うと、最初に診た時にかけた厳しい言葉が空しくなってくる。
「・・自分に言え、って話よね」
そうつぶやくと、またずきずきと痛みが襲う。
しばらくは寝れそうにないが、とりあえず横になることにした。
起きると、時計は10時を回ったところだった。
「・・ふぅ」
痛みはとりあえず治まってはいる。昨日のように、患者さんの前で失態をさらけ出すことはないだろう。
そう自分に言い聞かせ、朝とも昼とも言えない食事を取り、家を出た。
午後から治療にはいると、季節柄、小中学生が多い。
小学生はともかく、中学生ともなると結構すごい状態になってから来る輩もいる。
「これだけひどい虫歯なら、前の検診の時も言われたんじゃない?」
「え、えへへ・・」
「笑ってごまかさないの。どうしてもっと早く来ないの。こんなになるまでほおっておいたらダメじゃないの!」
そう言って、ふととなりのユニットを見ると、となりのユニットで院長の助手をしている夏美がにやっと笑った(気がした)。
怒りと恥ずかしさで、顔が真っ赤になりそうになる。
「とにかく、もっと歯を大事にしないとダメよ。治療するわね」
恥ずかしさを隠すようにそう言い、治療を始めた。
治療が終わり、手洗い場で手を洗っていると、後ろから紺野がぽんぽんと肩を叩いた。
「ちょっと、話があるから来てくれないか」
すこしどきっとして、「は、はい」と答えながら、手を拭いて振り返った。
紺野はさっさと歩いていくと、廊下の端で立ち止まった。
「な、なんでしょう」
微妙な期待を押し殺すように、佳奈子は言った。
「萩原君は、患者さんに厳しすぎる気がするよ」
はっとなって、紺野を見る。そうだ、同じ診察室で治療していたのだ。
紺野にさっきの声が聞こえていないわけがない。夏美のにやっとした顔がまた浮かぶ。
「確かに、君の悔しい気持ちは分かる。でも、患者さんがユニットに座るのは大変なことだ。それは君がよく知っていることだろう」
昨日のことを言われているような気になり、佳奈子はまた恥ずかしくなる。
「は、はい・・」
「我々は、知人のところで治療が受けられる。それでも、出来れば治療は受けたくないだろう」
顔を真っ赤にしながら、申し訳ない気持ちでこくんと頷く。
「君は優秀な技術を持っている。患者の気持ちも分かるはずだ」
「・・はい」
「君がユニットに座った時、一番かけて欲しい言葉。それを患者さんにもかけてあげようよ」
「はい、分かりました」
佳奈子が言うと、紺野は満足そうにうなずいて戻っていった。
かけて欲しい言葉・・。佳奈子はそれを考えながら、ユニットについた。患者もユニットに座る。
一通り診察をして、レントゲンを見る。・・うん、これだ。
「つらかったでしょう。もう大丈夫よ」
佳奈子がそう言うと、となりのユニットで院長がぷっと吹き出した。
・・二度と言うまい、と心に決めた佳奈子だった。
さて、その日の夜。
夜、たいてい最後に残るスタッフは、院長、佳奈子、そして衛生士チーフの夏美である。
助手や他の衛生士は、自分の仕事が終わると、それぞれに帰って行くのであった。
スタッフがだいたい帰ったのを見計らって、紺野が言った。
「佳奈子ちゃん、今日、どうする?」
一瞬、食事のことかと思って振り向いてみたが、紺野は、人差し指で、右ほほを叩いていた。
院長が、それを目ざとく見つけた。
「ん?何の合図だ?まあ、若いんだし、おじさんは何も言わないが」
院長は、紺野と佳奈子をくっつけたがっているらしい。
もはや、慣れっこになっている紺野は、
「はは、見逃してください」
と適当にあしらっている。
佳奈子は、できれば院長に虫歯のことを知られたくなかったのだが、夏美が
「萩原先生、虫歯を作っちゃったので紺野先生に治療してもらってるんですよ」
と、あっさりバラしてしまった。
佳奈子は、赤くなってうつむいたが、院長は、
「なんだ、そうか。ま、紺野君は上手いし、優しいしな。萩原君みたいにきついことも言わないだろう」
と、特に虫歯を作ってしまったことについては気にしていないようだった。
「じゃ、あまり遅くならないように。戸締り頼んだよ。金子君、雨が降りそうだから駅まで乗せていこう」
と、夏美を無理やりに連れ、院長は帰って行った。
「さて・・と。本当に、どうしようか。あのあと、痛みはどうだった?」
「先生に言われたとおり、痛み出して、薬飲んで寝ました。」
「じゃあ、明日があるから、6番は休みの前の日にやるとして、今日のところは、
薬だけ取り替えておこうか。あとは7番だけだけど、どうする?」
「・・・どっちがいいんですか?」
「うーん、先延ばしにするな、と言いたいところだけど、神経ギリギリまでいってたら、しばらく痛むからね。
やっぱり、休みの前にやろう。」
ということで、佳奈子は少し、ホッとした。
「じゃ、口開けて。」
歯の仮封を外し、綿を取り出す。
新しい綿に、薬をつけて、詰める。
「んんっ」
「ん、しみるか?」
一瞬、正直に言っていいかどうか迷う佳奈子に、紺野が苦笑する。
「懲りないな、君は。」
そういいながら、再び封をした。
「じゃあ、くれぐれも歯磨きはやさしく。何かあったら、すぐに言うこと。いいね?」
最後まで、歯科医としての態度を崩さない紺野に、少し寂しさをおぼえつつ、その晩は別れた。
2日たった土曜日。土曜日は、診療時間が少し短い。
「じゃ、佳奈子ちゃん、やろうか。」
紺野は、仕事中は佳奈子を「萩原君」と呼ぶが、終わったとたん、呼び方を「佳奈子ちゃん」に変える。
どうやら無意識らしいが、佳奈子は、少し嬉しさを感じていた。
とはいえ、治療が始まるときは別だ。
白衣を脱ぎ、しぶしぶ治療椅子に座る。
「お願いします・・」
「じゃ、まず、6番からやっていこう。」
そう言って、封を取り、少し観察する。
「大分きれいになってきたよ、今日で終わるといいけどね」
リーマを選び、口を開かせる。
「もうそれほど痛くないと思うけど」
と言いながら、ゆっくりと進めていく。たしかに、痛くな・・
「あぁっ!」
やっぱり痛かった。前回のように、脚をばたつかせるほどではないものの、涙は出てきた。
「んんんー、ん、んぁ!」
「もうちょっと・・ちょっとだからね・・・」
そう言いながら、紺野の手はなかなか止まらなかった。
「んんっ」
「はい、おしまい」
手早く、薬を入れて蓋をする。
「ちょっと休憩したら、7番始めよう。」
そう言うと、紺野は、帰り支度をはじめている夏美を呼び止めた。
「金子さん、今日は用事あるの?」
「いえ、特に何も・・」
「じゃ、補助入ってもらえるかな?」
夏美は、笑顔を浮かべながら戻ってきた。
「もちろん、いいですよ」
佳奈子は憂鬱になった。が、たしかに、治療のとき、衛生士がいたほうが格段にやりやすい。
特に、夏美のような補助が上手い衛生士ならなおさらだ。技術はいいのよ、技術は・・・
それがわかるだけに、紺野に異議を唱えることもできないのだった。
夏美が、手を洗って戻ってくると、治療が始まった。
「痛くなったら言って。」
紺野は佳奈子に微笑みかけると、タービンを手にした。
ヒュイーーーーン
普段聞きなれている音だが、自分の口の中で聞くのは大違いだ。
ヴィ、ヴィン、ヴィン、と、頭蓋骨に振動が伝わってくる。
「ん、ん、んぁ!」
やがて、痛みが襲ってきた。
「ぁあああああ」
「んー、意外と広がってるなあ、もうちょっと頑張って」
「あ、あっ」佳奈子の顔がゆがむ。
無意識に口を閉じかけていたらしい。
夏美が、バキュームを持ちながら、ぐいっ、と佳奈子の顎をおさえる。
うっすらと目を開けて、夏美を見ると、今日は、佳奈子の顔ではなく、
口腔内の作業に集中していた。
なんとなくホッとしたが、痛みは続いていた。
「んぁあ、んぁあっ」
「もう少しだからねー、我慢して。」
ずいぶん長いもう少し、の後、ようやくタービンの音がやんだ。
「えっとね、神経までは行ってないけど、かなり際まで行っていたよ。
なので、神経は取らずにおくけど・・わかってるよね?」
「しばらく痛むから、ですか」
「いや、それよりは、後で痛みがひどくなるようだったら、ちゃんと言って、と言いたかったんだけど」
歯の型を取ったあと、薬を詰めて、仮の歯をかぶせた。
さあ、終わったわ、と思い、佳奈子が
「ありがとうございました」
と、椅子を降りようとすると、紺野が止めた。
「ちょっと待った。何か忘れてない?」
微笑みながら聞いてくる。
まさか・・・
「歯、歯磨きですか」
「なんだ、覚えてるじゃないか」
「紺野先生に・・・ですか」
「金子君にやってもらうのは嫌なんだろう」
「・・・どっちか選ばないと、ダメですか」
楽しそうに、片づけを終えた夏美も傍へやってきた。
「わかりました。金子さんに頼みます」
先日の怒りはおさまっていたし、何より、紺野に歯垢を染めたりされるのは、嫌だった。
「ほう」
紺野は、意外そうな顔をした。
「金子君、いいかな」
「やりますよ」
夏美は、ニヤッと笑った。
「じゃ、歯ブラシ選んでください。差し上げますから。」
夏美が歯ブラシを持ってきた。
「じゃあ・・キリンさんで。」
こうなったら、ヤケだ。なぜか大人用なのに絵が描かれた黄色い歯ブラシを選ぶ。
傍では、紺野がおもしろそうに見守っている。
「まず、いつもどおりに磨いて下さい。」
夏美が指示する。
シャコシャコシャコ、と磨くが、二人のプロに見られていると、緊張する。
「右上、取れても治せるようにスタンバイしてるから、好きにやっていいぞ」
紺野も楽しそうに茶々を入れる。
「そんなに見ないで下さい」
少し赤くなりながらも、磨き終えた。
「じゃ、残っている歯垢のチェックをしますね。」
夏美が、口の中に歯垢染め出し液を塗る。
「軽くゆすいでください。軽くですよ!」
二人の目がしっかりとこちらを見ているので、軽くゆすぐだけにした。
「じゃ、見せて下さい。」
夏美が、佳奈子の口にリトラクターをはめる。
紺野も面白そうにやってきた。
やめて・・と思ったが、リトラクターのせいで、何も言えない。
「はい、んー、さすがですね、だいたい磨けてます・・・でも、やっぱり、右側が甘いですよ。
青いのも残ってるし。青は、数日前からの汚れですよ。赤は新しい歯垢です。
歯医者さんなんですから、歯磨きくらいきちんとしてもらわないと。
歯が弱くても、汚れが残っていなければ、虫歯になんかならないんですからね。」
紺野にも、じっくり覗き込まれ、佳奈子は顔が赤くなるのを感じた。
さらに、手鏡を手に持たされ、自分でもチェックさせられる。
たしかに、奥歯の外側や一番奥など、右側の方が磨き残しが多かった。
昔、予防歯科で徹底的に教えられたから、歯磨きには自信があったのに・・・
ややショックを受けていると、
「これじゃあ、またやっちゃいますよ」
夏美の声が降って来た。ニヤニヤしている。
やっぱり、やめておけばよかった・・・佳奈子は後悔したが、もはや、やめられなかった。
「じゃ、歯ブラシ、こう持ってください。で、上の歯は・・・」
佳奈子は指示通りに磨くが、
「そんなんじゃダメです。来年には残りの歯も虫歯ですよ」
と、即座にダメ出しされる。そんなことまで言わなくていいのに・・・
佳奈子は落ち込んできた。
助けを求めるように紺野を見たが、やさしく微笑んで首を振っただけだった。
「はい、萩原先生、よそ見しないで下さい。また虫歯になりたいんですか?」
本当に、いちいち気に障ることを言う。
そんなことを思いつつも、右側の磨き残しもなくなり、無事に終了、と思ったとき、
「ダメです、萩原先生には、まだ特別レッスンがあります」
と、夏美は許してくれなかった。
「萩原先生、歯間ブラシは使われますか?」
「使わないわ、フロスは使っているけれど」
「それじゃダメです、萩原先生、ブリッジあるでしょう」
「・・・ええ。」
「ブリッジは、かぶせてあるところから虫歯になりやすいし、それでどんどんダメな歯が外に広がっていって、
入れ歯になったりするんです。ご存知ですよね」
「・・・・ええ。」
「だから、ブリッジのところは念入りに磨かないと。特に、欠損しているところの下なんかは
歯間ブラシも使わないとダメなんです。じゃ、やりましょう」
ブリッジのところは、綺麗にしておかないと臭う気がして、歯ブラシでは細かく磨いていたが・・・
佳奈子は、夏美のプロぶりに、やや感心した。
紺野も、ほぅ、という顔をしている。
さきほどのようにイヤイヤでなく、真剣に、歯間ブラシの指導を受けた。
「はい、今度こそ、終わりです。お疲れ様でした。」
「いえいえ、どうもありがとう、ためになったわ」
夏美がにこっと笑う。
「それはよかったです。さすがに萩原先生が入れ歯になったら、可哀想で見ていられないですから」
「・・・・・」
「でも、金子君にやってもらってよかったじゃないか。僕じゃ、歯間ブラシはなかったな。
子供向けの指導にそれは入ってないから」
紺野が笑いながらフォローを入れる。
「さすがにお腹空いたよ。もし佳奈子ちゃんの歯が大丈夫なら、帰りに何か食べに行こう。」
紺野が提案し、3人で外へ出た。
翌日の、日曜日。
前の晩、やはり根の治療中の右上6番がなんとなく痛く、痛み止めを飲んで寝たせいか、
夏休みで患者が多いのに疲れていたせいか、
12時を過ぎてもまだ眠っていた佳奈子は、突然、歯の痛みで目が覚めた。
「ん、いたたた・・」
左頬をおさえる。痛み止め、飲まなきゃ。
え、・・・左・・・?
寝起きの頭で考える。治療してもらってるのは・・・右じゃなかったっけ・・・
じゃあ、今痛いのは・・?新しい虫歯?
ハッ、と、飛び起きた。
紺野に連絡しようと、電話を取る。
が、今日は日曜日だった、と気が付いた。
紺野は何をしているだろう、デートでもしているかもしれない。
実は、佳奈子は、紺野の私生活はよく知らないのだった。
昔から、なんとなく憧れは抱いているものの、会うのはほとんど仕事の時だった。
さすがに日曜に電話をするのは気が引けた。
痛み止めを飲んで、もう少し様子を見てみよう。
そう思って、薬を飲んで、また横になった。
・・・ダメ。
30分ほど横になってみたが、痛みはおさまりそうになかった。意を決して、紺野に電話をしようと、電話を取った。登録してある、「紺野先生携帯」に電話をかける。
「・・・お客様のおかけになった電話は、現在、電波の・・・」
つながらなかった。一応、と思い、「紺野先生自宅」を選んで、通話ボタンを押す。
トゥルルル、トゥルルルル・・・
7回ほど呼び出し音を聞き、もう切ろうかと思った瞬間、電話が取られた。
「はい?どちらさまですか」
若い女性の声だった。
「あ、すみません、間違えました」
あわてて電話を切った。鼓動が速くなり、それでさらに、歯の痛みが強くなったような気がした。
うっ、うっ・・・
歯の痛みと、胸の痛みで、佳奈子は泣いていた。
ちゃらっらー、ちゃらっらー
携帯のロッキーのテーマが鳴った。佳奈子は、泣いているうちに眠ってしまったようだ。ふと見ると、
「紺野先生携帯」と表示されている。
ズキン、と動悸がし、同時に左の奥歯も痛み出した。
決意して、電話を取る。
「もしもし?」
「あ、佳奈子ちゃん。もしかして、家に電話くれた?」
「はい。」
「どうした?痛み出した?今からでよければ診るよ。」
「はい・・でも、紺野先生、お忙しいならいいです」
時計は4時を指していた。
「ん?僕は何もないよ、佳奈子ちゃんが歯が痛いんじゃなければ食事にでも誘おうかと思ってたよ。でも、痛むって?」
佳奈子は、急に紺野がいい加減な男に思えてきた。さっきは家に女の人を連れ込んでたくせに。でも歯は痛む。そのイライラも手伝って、佳奈子はぶっきらぼうな返事をした。
「痛いです。」
「OK、じゃあ今から迎えに行くよ。外で待ってて。」
「はい」
電話を切ると、まだパジャマだった佳奈子は、あわてて着替え、最低限のメークをして、外へ出た。
ほどなくして、紺野がやってきた。
さっきは腹が立ったものの、紺野の顔を見ると、佳奈子はやはり少し胸が痛み、適当なメークを後悔した。
乗り込むと、紺野が優しく聞いた。
「どっち?6番?7番?ってわかんないか。」
「それが・・・左なんです」
「え?左?・・・まあ、診てみるしかないね。」
「はい」
気まずい沈黙だった。佳奈子は耐え切れずに聞いた。
「今日は・・お出かけだったんですか?おうちにどなたかお留守番の方が・・」
意味のわからない質問をしてしまった。
「は?ああ、まあね。」
固い顔になった佳奈子を横目で見ると、紺野はため息をついて話し出した。
「一応カミさんというか・・・結婚したことがあって。同業者だったんだが。でも、カミさんは4,5年前かな、一人でアメリカに留学に行ってから、研究の道を歩きたくなったって言い出して、永住権なんかも取ったらしくて、それっきり帰ってこないんだよね。
ところが急に昨日、今日本にいて、荷物取りに行くから、会いたくないから家には居ないで、って連絡があったんだな。で、することもないし外も暑いし、一人で映画観てた。」
「・・・た、大変だったんですね」
カミサン、という言葉に胸がちくちく痛んだ。
「大変というかまあ、ちょっと情けない話だね」
紺野はふふっ、と笑った。これまでとは違う顔に見えた。
「紺野先生がバツイチだったなんて、知りませんでした」
なるべく空気を軽くしようと、佳奈子は軽く言ってみたが、気分は晴れない。
「バツイチ、って言うとなんかちょっとかっこいい感じがするね。友達には、マウスに負けた男って言われてるんだけど。カミさん・・・だったやつは、歯の研究でマウスいじってるんだ。」
ぷっ。紺野がミッキーマウスにノックアウトされているところを想像して、佳奈子は吹き出した。
「着いた。吹き出すなんて、これから治療なのに、勇気があるね。」
紺野は、にやっと笑い、車を止めた。
日当たりのいい診察室の中は、ブラインドを閉めてあったが、汗が吹き出るほど暑かった。
紺野が、佳奈子のカルテを取り出して眺めている間に、佳奈子は空調のスイッチを入れた。
「痛いのは、左だって?上?下?」
「はい・・左上です・・・」
「ああ、この間は右しか撮らなかったか・・僕も油断してきてるな。まず写真撮ろうか。」
左側だけのレントゲンを撮り、できあがったものを、二人で眺める。
「ああ・・・」
「やっぱり6番か。」
左上6番のインレーの下が、やはり虫歯に侵されて黒く抜けている。
「けっこう行ってるような気がするなあ・・・ひどく痛む?我慢できない?」
「いえ・・あ、いえ、痛いです。ズキズキして・・」
「困ったね。できれば右が落ち着いてからにしたいけど・・・」
紺野はカルテを眺めた。右上6番は根治中、7番は仮封中だ。
「痛いのなら仕方ないか。よし、そこ座って。」
佳奈子は言われるままに治療台に座った。
「倒すよ」
「はい・・・」
さっき車の中で変な話を聞いたせいか、診察室が暑いせいか、ちょっとドキドキする。
が、紺野はてきぱきと、佳奈子の頬の内側にロールワッテを詰め込み、麻酔の準備をしていた。
「チクッとするよ・・って言っちゃうのは条件反射だね、はは」
紺野が笑いながら、佳奈子の唇を引き上げ、外側の歯茎に針を刺し込む。
「んっ・・・んんん・・・」
「ほら、力抜いて・・・」
知らないうちに体に力が入ってしまうらしい。だって痛いんだもん・・・と思いながら、佳奈子は、毎日治療している患者のことを思った。
彼らも皆、痛いんだもん、と思っているに違いない。
「はい、中から行くから口開けて・・・大丈夫・・・」
「んぁふ・・・はぁ・・」
「はい、いいよ。口ゆすいで。」
治療台を起こし、タービンの先を選びながら、紺野がおかしそうに言った。
「佳奈子ちゃん、色っぽい声出すね。」
ぶへっ。
ただでさえ、麻酔で口からこぼれそうになる水を思わず噴出しそうになり、佳奈子は慌てて口を押え、水が今度は喉の方に入ってしまって、激しくむせた。
げほっ、げほげほっ。
「いや、冗談だけどね?ごめん、そんなに動揺するとは思わなかった」
紺野が、笑いながらも背中をさすってくれる。
あ・・・
佳奈子は、動悸が激しくなって、頭がくらくらしてきた。
「もういいかな?」
「あ、はい」
動悸はおさまらなかったが、佳奈子は、頷いて、倒れていく治療台に体を預けた。
「まず、と・・・口開けて。」
紺野は、ライトの位置を調整すると、尖ったピンセットとミラーを手に、佳奈子に開口を促した。
佳奈子は黙って口を開ける。
ピンセットを左上6番のインレーにひっかけ、揺すってみたが、インレーは動かなかった。代わりに、鋭い痛みが佳奈子を襲った。
「ん・・ぁあっ」
思わず声が出てしまい、さっき、色っぽい声、と言われた佳奈子はドキドキしながら紺野の顔を見たが、紺野は今度は気にも留めていないようだった。
「しっかりくっついてるな・・・じゃちょっと削っていこう。動くなよ。」
紺野は、バキュームを引っ張り出して佳奈子の唇に引っ掛けると、タービンを手に取り、その先をインレーに食い込ませていった。
ヒュィイイイイイイ
キュイン、キュイン、チュルルルルルッル
甲高い音をたてて、インレーの一部が削られていく。
ヒュゥゥゥ。
外れそうな気配を感じて、紺野はタービンを止め、再びピンセットを取り、インレーを摘み上げた。
「ああ、これは痛そうだね。」
インレーを外した後は、真っ黒い齲窩が広がっていた。
「ここも抜髄だな・・・けっこう汚いからすぐやっちゃいたいな・・・右はもう痛みは引いた?」
“汚い”虫歯を紺野の目にさらしていることに居たたまれなさを感じつつも、佳奈子は頷いた。
動悸が、速くはないが強くなった気がする。
「じゃ、削って行くからね。」
ヒュィイイイ・・・
再び、左上の歯に嫌な振動が伝わってきた。
キュィィィイイ、キュィィィィイイ、キュィィィイイイイいい・・・・
タービンの音は、なかなか止まなかった。
そして、振動は痛みに・・
「ぁ、ぁああ」
「大丈夫・・・ちょっと我慢して・・・」
キュィンキュインキュィィィイン
「んぁっ、あっあっ・・・」
痛みに思わず、体がビクン!と硬くなる。
「動いちゃダメだって・・・」
ギュィィィィイイ
「ぁああああっ!」
鋭い痛みに、思わず叫び声を上げてしまい、驚いた紺野がタービンを止めた。
ヒュゥゥゥ。
「そんなに痛い?」
こくこく、と佳奈子は頷いた。
「じゃ、もう1本入れるか・・・・」
紺野は、キシロカインのシリンジをもう1本取ってくると、佳奈子の歯茎に打ち込んだ。
「ぁ・・ふぅ・・・」
「ああ、その声がね・・・」
紺野はからかうように言い、佳奈子はまた、動悸が激しくなるのを感じていた。
ドクンドクンドクンドクン・・・
「じゃ、続けるよ」
「はい・・すみません」
ヒュィィィィィィィイイイ
先ほどより、痛みはやや弱くなったが、消えたわけではない。
「ぁあ・・・あふっ・・・んはぁ・・・・」
「そう・・力抜いて・・・頑張って・・・・」
そのまましばらくタービンの音は続き、
ヒュゥゥゥウウ・・・
ようやくタービンが止まったときには、佳奈子はもう、叫び疲れてぐったりしていた。
「ごめんごめん、痛かったな・・でも、取ってしまいたかったんで。ゆすいでいいよ。」
紺野が治療台を起こしてくれる。
水を口に含もうと、背もたれからのろのろと体を起こす。
「抜髄までやって置いたら明日から楽にな・・・佳奈子ちゃん?」
と紺野が声をかけるのと、佳奈子の視界が暗くなって、上半身がよろり、と紺野にもたれかかるように倒れたのはほぼ同時だった。
「ちょ、ちょっと!佳奈子ちゃん!」
「ん・・・」
佳奈子が目を開けると、心配そうに覗き込んでいる紺野と目が合った。
「気が付いた?」
「あっ・・・」
慌てて飛び起きようとして、紺野に肩を押えられる。
「こらこら。いきなり起きちゃダメだよ。」
どうやら、診察室の端にある、ベッド型の治療台に寝かされているらしい。
腕からは、点滴のチューブが伸びている。
そうだ・・・歯を削られたあと・・・どうしたんだっけ・・・おぼえてない・・・
「あの・・ふみまへん、こんな」
まだ麻酔でややしゃべりにくい。ということはまだあまり時間は過ぎていないのだろう。
「いや、ごめん、僕のミスだ。歯が痛かったなら、朝から何も食べてないだろ?ちょっと確認すればよかったね。」
「いえ・・・」
「たぶん、痛みで寝不足気味、空腹、さらに暑い診察室で熱中症と脱水みたいになってるところに、キシロ2本も入れちゃったからね」
「はい・・・」
「脈取ったらすごく速いし、驚いたよ。具合悪いなとか、なかった?痛かったから気付かなかったかな?」
「ああ・・・」
そういえば、動悸が激しいのは感じていたのだが、自分が紺野にドキドキしているせいだとばかり思っていた。恥ずかしさと可笑しさとで、顔が赤くなる。
「あ、目もしっかりしてきたね、もう大丈夫だ。でもとりあえず、泣いてたわりに涙もあんまり出てないし、脱水っぽかったから、点滴入れてるけど。飲むほうがいい?」
紺野はそう言って、ペットボトルのスポーツドリンクを指差した。
「いえ・・こっちのほうが歯に悪くなさそうですから・・・」
「はは、そりゃそうだ。」
「でも・・病院に運ばれたんじゃなくてよかったです」
「なんで?」
「だって・・・私、歯医者なのに、歯の治療が痛くて気を失った、みたいなそんな、恥ずかしくて」
「それを言ったら僕も、同僚の歯科医に麻酔を過剰投与していたずらしようとした鬼畜歯科医、みたいで困るな」
「あ、そっちの方が恥ずかしいですね・・」
「恥ずかしいじゃなくて、犯罪だろ。容疑者はその日、元妻が荷物をまとめに来たことにむしゃくしゃしていたという。とか新聞に載って、暑いとイライラする人が増えるのよねえ、とかお茶の間で言われちゃうわけ。」
「あはは・・・」
さっき聞いたときは胸がちりちり痛んだが、もう大丈夫だった。
「さて。でも、今日は抜髄までは無理だな。そのまま薬入れて閉じよう。」
「はい・・・」
「ここでやろうかな。口開けて・・・」
「あー」
「ちょっと痛いかもしれないよ」
「んぁあっ!」
薬がひどくしみて、佳奈子は身をよじった。
「暴れないで・・・」
紺野に顎をおさえつけられ、仮封をされる。
「ぁううう・・」
「よし、と。口ゆすいでいいよ・・あ、ゆっくり起きて。」
治療台は起きないので、紺野が手を貸して起こしてくれた。
「なんともない?」
「あ、大丈夫です・・・すみません」
口をゆすいで、治療台に腰掛ける形になった。
「これ・・外していいですか」
「ああ、自分でできる?」
終わった点滴の針をそおっと抜く。
横から、紺野がガーゼと絆創膏を貼ってくれた。
「どうもお手数おかけしました」
「いやー、点滴なんて何年ぶりだろ、実は3回刺した、すまん。」
「そういえば、学生の頃は二日酔いのときに点滴とかやりましたけど、最近はないですね・・・」
「さ、片付けて・・・何か食べようかってわけにもいかないが・・・ちゃんと栄養食品かなんか飲んどけよ。流動食持ってく?たしかサンプルが・・・」
紺野は、外傷患者などに出す、流動食のサンプルを探し出して佳奈子に渡した。
「これ、不味いんですよね・・・」
車の中は、これまたサウナのような暑さだった。
窓を開けたまま走る。
「明日・・・もし辛いようなら早目に言って。休まれると痛いけど、まあなんとかするから。」
「はい。本当すみません。」
ふと、また痛み出したらどうしよう、とかすかな不安が胸をよぎる。言った方がいいかな・・・
「あの」
「何?」
「また痛み出したら・・・どうしよう・・とか・・・」
「心配?」
「少し・・」
「じゃ、僕の家に泊まる?変な意味じゃなくて。一人分空いて広くなったしね。その方が安心だって言うなら、別にかまわないよ。」
「え・・あ、あの・・」
「嫌なら別に。ま、痛み出したって言うのを迎えに行って、っていう手間は省けるかな、くらいだから。いや、それが面倒だって言ってるんでもないけど。」
「痛み出すと思いますか?」
「まあ、抜いてないしね。可能性はあるね。」
「じゃあ、お邪魔してもいいですか」
「いいよ、たしかに倒れた後でちょっと心配だしね。じゃ、このまま行くか。あ、家で取ってくるものがあるかな?」
「はい、寄っていただけると・・・」
家に戻り、荷物をまとめながら、佳奈子は、
おかしな成り行きになった・・・でも、歯のためだけよ・・・
と、自分に言い訳をしつつ、落ち着かない気持ちでいたのだった。
荷物をまとめて、急いで車に戻り、紺野のマンションに着いた。佳奈子のマンションよりもずいぶん広い。
「どうぞ。掃除して行ったみたいだから、散らかってはいないけど。暑いね。向こうの部屋空いてるから、具合が悪ければ横になってもいいし。好きにして。」
そう言って、紺野は自分の部屋らしいところに入って行った。
佳奈子はリビングに取り残された。ダイニングテーブルに、メモが載っている。
「PM1時、若い女の子から電話あり。つい取ってしまいました。すみません。」
と女性の字で書かれていた。見てはいけないものを見てしまった気がして、佳奈子は目をそらした。
することもなく、荷物を置いてソファに座る。
若い女の子って見て、私のことってわかったんだ・・・
そう思うと嬉しくなったが、自分のとこに電話をかける前に、何十人にもかけて聞いたかもしれないのだ。と考えなおし、勝手に落ち込む。
「・・佳奈子ちゃん?具合悪い?」
よほど暗い顔をしていたのか、紺野に声をかけられた。
「あ、いえ、大丈夫です・・・明日は患者さん、何人はいってたかなって・・・」
「ああ。ならいいけど。水分は取った方がいいな。冷蔵庫にいろいろ入ってるから。俺シャワー浴びてくるから適当にどうぞ。」
「あ、はい・・・」
言われたとおり、冷蔵庫を開けると、意外と食材もいろいろ入っている。
紺野先生、自分で料理するのかしら・・・それとも誰か・・・
そう思いながら、ドアポケットから、ミネラルウォーターを出し、流しに伏せてあったグラスに注いだ。
見回すと、戸棚にはペアのマグカップ・・・
胸がちりっと痛み、あわてて口に水を流しこむ。
「いっ!!」
両方の奥歯に、冷えた水がズキーンとしみて、グラスを取り落としそうになった。特に痛む左頬を押さえて顔をしかめる。
ソファに戻り、左頬をさすりながら、ちびちびと水を飲む。
少し多く口に含むと、歯に水があたって、てきめんにしみるのだ。
はぁぁ・・もう嫌だわ・・こんな歯・・・
涙がにじんでくる。
私、歯医者なのに・・・歯が痛くてこんなに辛いなんて・・・
情けなさで、涙はさらにあふれてきた。
「佳奈子ちゃん?泣くほど痛むの?」
気が付くと、紺野が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「いえ・・ちょっと水がしみて・・・それでなんだか、情けなくなってきてしまって・・・歯医者なのに、私・・・」
言っているうちに、さらに涙がこぼれた。
「うーん、まあ、医者だって病気になるんだし。歯医者だって、虫歯になるよ・・・」
「でも・・・水も飲めないなんて・・・普段偉そうに言ってるのに・・・自分はこんなに歯がボロボロで・・・・」
「ボロボロってほどじゃないだろう・・・タイミング悪く、左右にしみるところがあるから困るけれど。ちょっと疲れてるんだな。少し横になって、寝たらいい。」
紺野に言われ、佳奈子はおとなしく横になることにした。
「夕飯作るよ。なんか食べられそうなもの。食べたら痛み止め飲んで、ちゃんと寝るんだな。」
佳奈子は素直にこくり、と頷いた。紺野先生に言われると、落ち着く・・・
1時間後。佳奈子は目が覚めた。眠ってしまったらしい。
「起きたかい?食べられそう?」
向かいで本を読んでいた紺野が言った。
「あ・・起きるの待っててくださったんですか?ごめんなさい・・・」
ダイニングテーブルには、食事が用意されていた。
佳奈子の前には、何か液体状のものが置かれていた。
「野菜スープだよ。ガスパッチョ。ホントはつめたーくするとおいしいんだけど。人肌くらいになってるから、歯にはしみないと思うけど。気をつけて飲んで。」
「あ・・すみません・・・」
「俺のはつめたい。ま、これはまた今度な。歯が治ったらのお楽しみだ。」
「いただきます」
二人で、またご飯食べようってことだ・・・佳奈子は嬉しくなりながら、スープを口に運んだ。
「おいしい・・・」
「そう。ならよかった。」
ぬるいスープと、ぬるいお茶。という夕食を終えると、紺野が薬を出してきた。
「じゃ、コレ飲んで。うまく朝まで寝られればいいんだけど。そしたら仕事もできると思うんだ。」
「本当にすみません・・・何から何まで。助かります・・・」
「いや、夏休みの戦争状態なのに、兵士が一人倒れると困るからね。おっと、歯磨きちゃんとして。自分でできる?俺がやろうか?」
「い、いえ・・自分でできます・・・」
恥ずかしさで真っ赤になりながら、洗面所に行って、丁寧に歯を磨く。
シャワーを浴びてから、ベッドに入る。
奥さんのベッドだったらしい・・・ってとこに寝るのはフクザツだけど・・・
佳奈子は、すぅっと眠りについた。
夜中。佳奈子は目が覚めた。上半身を起こす。
そうだ。紺野先生の家に泊まってるんだった・・・・
窓の外で、すごい雨と風の音がしている。
・・・そういえば、台風来るって言ってたっけ・・・・
しかし、目が覚めたのは、窓の外の音のせいではなかった。
「ううっ」
激しい痛みに、思わず両手で左頬を押さえてうずくまる。
ドクン、ドクン、ドクン・・・
脈打つのに合わせて、痛む。
「ぁ・・ぁああ」
い・・今何時だろう・・・
頬を押えたままで時計を探す。3時ちょっと前・・・
さすがに紺野先生を起こすのは・・・・でもこのままで居るのは無理・・・薬飲めばちょっとは・・・
佳奈子は部屋を出て、キッチンへ行った。
薬・・このへんに置いとくって言ってたような・・・
「ぅううう」
思わず、声が出てしまうほどの痛みだ。
ごそごそしていると、後ろに人の気配がした。
「佳奈子ちゃん・・・痛むの?」
「あっ・・起こしてしまいました?す、すみませ・・・うぅっ」
「ああ・・ずいぶん痛むようだね、とりあえず薬飲んで」
紺野が、薬を出して、水もコップに入れて渡してくれる。
「すみません・・・」
祈るような気持ちで、薬を流し込む。
頬を押さえて、ソファに移動する。
「うーん、この天気じゃさすがにちょっと、車でも行きたくないね・・・」
カーテンを開けて外を見ていた紺野が言った。
「紺野先生は・・・寝てください・・ぅ。」
「冷やしてみるかい」
紺野が持ってきたアイスノンをタオルに包んで当ててみるが、頬が冷たさで痛くなるだけだ。
「うーん、ちょっと無理してでも抜髄までしとくべきだったね・・といっても遅いけど」
「すみませ・・ぅ、私が・・倒れたりしたから・・・ぁ・・・」
「いやいや、ごめん・・ま、この天気だし、一人で家にいてこうならなくて良かったね・・って、居ても役に立ってないけど。」
「いえ、申し訳ないですけど・・ぁ・・助かります・・・」
本当に、一人で家に居てこんな状態だったら・・・昔、歯が痛くてその歯をピストルで撃ち抜いた人がいると聞いたが、あながち嘘でもないかもしれない。
「ぅううう・・・」
我慢しても、うめき声が漏れてしまう。痛さと情けなさで、涙もポロポロ零れ落ちる。
「参ったね・・・」
紺野が困り果てたような顔で行った。
「まだ当分外に出られそうに無いし・・・痛みも軽くなってないよね?」
ポロポロ涙を流しながら、佳奈子は頷いた。明日も仕事がある紺野に、こんな時間に起きてもらっているのも申し訳ない。
「そんなに痛いってことは・・・何か炎症起こしてるな・・・とりあえず開けてみようか?もしかすると楽になるかもしれないし。少なくとも、それ以上酷くはならないだろう。いい?」
そう言って、紺野はピンセットか何か、使える道具を探しに行った。
いっそ、歯を抜いてしまったら楽になるかも・・・
歯科医なのに、そんなことをふと考えた自分にちょっとびっくりした。
横になってみたが、頭に血がのぼって、痛みが強くなる気がしたので、ふたたび起き上がる。
はぁ・・もう、ホントに情けない・・・
紺野が、水を入れたコップと脱脂綿を手に戻ってきた。コップには、ミラーと先の細いピンセットが入っている。
「さて、処置室へどうぞ、って、どこでやるかな」
紺野は冗談ぽく言ったが、佳奈子は笑う余裕も無く、のろのろと立ち上がった。
「自分も座ってないとやりにくいし・・変な格好になって悪いけど、そこ座ってみて。」
佳奈子が床に座り、ソファに座る紺野の足の間に身体を入れて、後ろに頭を反らせる。
「うん、これでいいや。暴れないように身体も押えられるし。」
そう言って、紺野が両脚で佳奈子の身体を両側からホールドした。
普段なら、恥ずかしくて出来る体勢ではないが、非常時である。
「とりあえず仮封取ろうか」
横に置いたスタンドの電気が点けられ、佳奈子はまぶしくて目を閉じた。治療ユニットの電気と違って、絞り込めず、周り全体を照らし出すのでまぶしいのだ。
「口開けて」
ミラーが頬の内側を滑って入り込んできた。コップに入れられていた水は消毒用の液体だったらしい。保健室のようなにおいがする。
紺野は、左手で佳奈子の顎を抱え込むようにして持ち上げ、ミラーに変えて歯科用ピンセットを右手に持つと、先を閉じた状態で5番との間からくいっと仮封の下に差しこみ、少しひねった。
「ぁ、ぁあっ」
痛む歯に刺激が加えられ、佳奈子は思わず叫び、身体を固くした。
「動かないで・・・声出していいから」
紺野の両脚に力が込められる。
「んぁああ・・っはぁああああ」
「よし、取れた」
ポロリ。仮封は外れたが、あまり痛みは軽くなっていないようだ。
「もうちょっと我慢な」
中に詰めた小さな綿球をピンセットでつまみ出す。
「ぁはっ・・はっ・・・」
痛くて涙が出るだけでなく、本当に泣いてしまった。
ピンセットを置いた紺野が、若干困ったような顔で、右手を佳奈子の額に載せた。
「ほらほら、ちょっと落ち着け。はい、深呼吸・・」
佳奈子は言われたとおり、一瞬目を閉じて深呼吸した。額に載せられた手の冷たさと重みが気持ち良い。が。
ビーン、と耳鳴りがするような痛みはまだ続いていた。
プルプル、と首を振る。
「まだダメなのか?痛い?」
上から覗き込むように聞いてくる紺野に、目で頷く。
「んー、夕方髄開までしたんだけどなあ、孔が塞がっちゃってるのかな・・・ちょっと待って」
紺野は立ち上がって、また何かを探しに行った。
「はあぁ・・ひっく」
残された佳奈子は、ソファにもたれかかって、ため息をつきながら壁にかかっている時計を見上げた。泣き止んだつもりだが、ときどきしゃくり上げる声が出てしまうのが微妙に情けない。
時計は3時半を過ぎて4時になろうとしていた。
ああ、もう・・・紺野先生に迷惑ばっかりかけちゃってどうしよう・・・・歯も・・・痛いままだし・・・
左頬に手を当てて考え込む。
と、カタカタと音をさせて、紺野が戻ってきた。
「こんなのあったぞ」
手に持った木の箱を振って見せる。
ソファに座り、XX期 紺野、と書かれた蓋を開けると、中にメス、ピンセット、針・・・
「これでいけるかな」
「あ、あの・・これ・・・解剖セットじゃ・・しかも基礎時代の・・・・」
「そうだよ。よく取ってあったなあ。15年くらい前のなのに」
紺野はやけに満足そうだ。
「まさかそれを・・・」
「使えそうだなと思って。・・・怖いか?」
心配そうに聞いてくれるが、若干、心配がずれている。
「それよりも、それ・・何に使いました?牛の目玉とかカエルとか・・・」
「あれ、佳奈子ちゃんのとき、カエルまだあった?最近、取れなくて高いからカエルなくなったらしいんだよ。」
「ありましたよ。私もう卒後5年ですよ。って、そういう話じゃないですよ。基礎用のセット使うのは・・・」
「大丈夫だよ。洗って消毒するから。火炎消毒は信用できるぞ。」
「い・・ぃやです・・・」
「案外神経質だな。」
「神経質じゃなくって普通ですっ。それに、案外ってなんですか」
ははっ、と紺野は笑って、柄付き針を取り出して見せた。
「大丈夫、これだけ新品だから。無くしたと思って買ったら、もう基礎の生物実験終わりだったんだ。ほら。」
言われて、佳奈子はじぃっ、と観察した。たしかに、新しいときのスリーブもついているし・・・先端も鋭い・・・・
納得したように視線をはずした佳奈子に、紺野が聞いた。
「で、どう?」
「んー、新品みたいですけど・・・」
「いや、そうじゃなくて。どう、ちょっとはマシになったんじゃないか?歯。」
「あ・・・」
頬を押さえ込むほどの痛みはなくなった。痛み止めが効いてきたのかな・・・
きょとんとしている佳奈子を、紺野がおかしそうに笑いながらからかう。
「痛い痛いと思ってると、どんどん痛くなって来るんだよ。ま、あれだ、子供が泣いてるうちにますます興奮しちゃって、泣き止まないみたいな。」
「そんなんじゃないです!・・・う、痛っ・・・」
またズキズキと痛みがぶり返してきて、佳奈子は頬を押さえた。
「だめだって、興奮しちゃ。せっかく気が反れたのに。いいや、さっさとやっちゃおう。これ、ホントに新品だから。いい?」
頬を押さえたまま、仕方なく頷く。
「じゃ、はい、ここ来て。」
さっきと同じ体勢を取る。紺野は柄付き針の先を手でぐいっ、と曲げ、テーブルの上にあったライターで先端をあぶっている。
・・ちょっと怖い・・・
佳奈子はその光景を横目で見ながら思ったが、
大丈夫、同じことよね・・・歯医者なんて、そもそも大工仕事みたいなものなんだから・・・
と、必死に思い込む。
「怖い?そんなことないよな?よし、口開けようか。」
と、両手で顎を挟まれ、上を向かされた。同時に、体もギュッと締め付けられる気がする。
「じゃ行くぞ・・・これできっと楽になるから。」
きっぱりと言い切る紺野の言葉に、覚悟を決めて、佳奈子は口を開けた。
「声出していいからな・・動くなよ・・・・」
針の先が・・佳奈子の虫歯の穴に触れた。
「ぁ・・・っあ・・・」
「ちょっと我慢してな・・」
言うと同時に、紺野は指先に力を込めた。
「あっ、はぁああああっ・・・・」
「んっ」
「あ、あぁああああんん」
「よし、開いた。ちょっとそのまま・・・」
紺野は、左手で佳奈子の顎を支えたまま、右手の針を置き、ピンセットで器用に綿を摘んで先に小さな綿球を作ると、消毒液にちょん、と浸し、今開けたばかりの穴から染み出てきた血液と膿を拭った。
「ぁ・・・」
「大丈夫だからね」
声をかけながら、同じことを何度か繰り返す。
「どう、抜けた感じする?」
口を開かされたまま聞かれ、佳奈子は目で頷いた。
「ここどうしよう・・・ま、同じもの詰めておくか」
と、もう一度綿球を作り、くいっと詰めた。
「はぁん!」
「よし、終わり。」
紺野は右手のピンセットを置き、左手も佳奈子の顎から外した。
はぁ、と息を吐き、後ろに反らして固まってしまった首を前に倒していると、
「ふぅ。お疲れさん。よく頑張ったな。」
と、紺野が後ろから頭を撫でてくれた。
うっ・・・
思わず涙が零れたが、泣いている場合ではない。
あ、ありがとうございますって言わなきゃ!
「あ、あの・・あり・・・ありが・・・」
きちんと言葉にならなかった。立ち上がろうとするが、うまく力が入らない・・うえに、紺野の脚がまだ体を押さえていた。あれ?
「どうした?まだ痛いか?」
不意に、両脇に後ろから腕が差し込まれ、佳奈子はソファの上に引っ張り上げられた。
「あっ、あっ・・・あの」
自分が紺野の腕の中にいると気付いた佳奈子は焦った。頭に血が上って、また歯が痛くなりそうだ。
「どう?痛み止めなしで寝られそう?」
耳の横で聞かれて、佳奈子はこくこくと頷くしかなかった。
「そうか。そのまま寝れば・・・まあ、それでも明日、朝の最初から働くのはちょっとやめたほうがいいかな。とりあえず、寝てから考えよう。」
時計を見ると4時半だ。
ああ、明日も仕事なのに・・・どうしよう・・・・
と思っていると、急に足が床から浮いた。
気がつくと、紺野の膝の上で「お姫様抱っこ」状態だ。
「んしょっと」
やや年寄り臭い声を出して紺野が立ち上がった。
「大手術の後だからね、ベッドまで運ぶよ。」
「そ、そんな・・・歩けます・・・」
「こら、暴れない。よく暴れるなホントに。」
「す・・すみません・・・」
佳奈子はおとなしくなった。
ああ・・歯が痛いんじゃなかったら幸せなのに・・・
部屋に入り、ベッドに降ろされ、
「あ、ありがとうございました、ホントに・・・すみませんでした」
オロオロしながら頭を下げる。しかし、
「じゃ、しっかり寝るんだよ」
と紺野に頭を撫でられ、
あ・・落ち着く・・・
と思った佳奈子は、つい、思いがけないことを言ってしまった。
「ま、また痛くなったらどうしよう・・・」
部屋を出ようとしていた紺野は、へ?と振り向いた。
「・・・ど、どうしろと?」
自分でも自分の発言に驚いた佳奈子は、言葉が出てこない。
「あ、いえ・・いや・・その・・・なんでもないです。」
ぷっ、となぜか笑った紺野は、
「それじゃ俺が寝られないだろ」
と言い残して、部屋から出て行ってしまった。
佳奈子は、激しく後悔しつつも、紺野の言葉の真意を考えているうちに、
疲れと寝不足で、そのまま引きずられるように眠りに落ちていった。
さて。翌朝。
「おいっ。起きろ、遅刻だ。」
佳奈子は、紺野の声で目が覚めた。時計を見ると8時。
診察時間は8時45分から。いつもは8時10分ごろには出勤しているのだ。
一応、勤務時間は8時15分からだが。
佳奈子はベッドから飛び起きた。
でも、なんで紺野先生の声がするの・・・っていうかここ何処よ!
佳奈子は周囲を見回した。
あ・・そうだ、歯が痛くて・・・治療中に倒れて・・・泊めてもらって・・・夜中にまた・・・・
最後の部分まで思い出して赤面する。
ど、どんな顔して出て行けば・・・
迷っていると、歯ブラシをくわえた紺野がドアから顔を出した。
「おい・・って起きてるのか。どう、痛くないか?仕事行けそう?」
そういえば、歯はなんともない。
「だ、大丈夫です」
「じゃあ急いで支度して」
急いで歯を磨いて、着替えて、支度をして、荷物を詰めて、ベッドを直・・・
「もう行くよ」
ベッドは起きたときのままだったが、呼ばれたので慌てて出る。
エレベータの中で、
「髪がはねてるよ」
と、紺野に髪を直された。
「あ・・・」
と、笑ってごまかす。
車に乗り込む。8時10分だ。
「ギリギリ間に合うかな・・・」
車を走らせながら、紺野が言う。
「さっきはよく確認しなかったけど、本当に大丈夫?」
「あ、大丈夫です。起きたときは忘れてましたから。」
「そっか、忘れてたくらいなら大丈夫だ。昼休みにちゃんと見よう。」
「はい・・あ、そういえば、お邪魔したのにろくに片付けもせずに出てきちゃって・・・ホントすみません」
佳奈子が頭を下げるのを、紺野はちら、と横目で見てから言った。
「また来てくれればいいよ」
「あ・・え・・・あの・・・か、片付けにですか」
嬉しいのに、動揺してまた変なことを言ってしまった。
「片付けくらい自分でやるよ・・・あ、いや、無理にとは言わないけど。」
また、なんとも微妙な空気が流れてしまい、佳奈子はなんとかしようと口を開いた。
「いえ、無理にって、そんなことはないです・・いえ、ぜひ、お願いしたいところです。」
ぷぷっ。
紺野が吹き出した。
「いや、佳奈子ちゃん、10年以上の付き合いだけど、こんなに面白かったとはね。」
佳奈子は真っ赤になった。
「さ、着いた。じゃ、近いうちにまたってことで。あー、ギリギリ遅刻だよ。」
言うなり、二人は車を飛び出し、走って医院に駆け込んだ。
「おっと・・なんだなんだ、二人そろって・・・遅刻か?」
院長は時計を確かめてからニヤッと笑った。
「楽しい週末はいいが、仕事はちゃんとしないとな。さ、かかったかかった。」
忙しい夏休みの一日が始まった。
午前中は、3人ともフル稼働であった。昼休みに入り、全員が控え室に入る中、紺野が佳奈子を手招きした。
「適当なものしか詰めてないから、ちゃんとしようか。」
佳奈子は、白衣姿のまま、治療台に座った。
そういえば、治療されて倒れたの、昨日のことなんだ・・・
その後いろいろあったので、もっと前のような錯覚におちいる。
治療台が倒され、ライトが点いて、佳奈子は口を開ける。
紺野は、佳奈子の6番から詰めた綿を取り除くと、ミラーで歯をじっくりと見た。
「うーん・・まあ、柄付き針で開けたにしては上等かなあ・・痛くない?」
「あ、大丈夫です・・」
実は午前中最後の患者の治療中から、少しぼわーんとした痛みが気になる感じではあったが、つい、癖が出てしまった。このところ、意識して痛みを伝えるようにはしていたのだが。
「うーん・・」
紺野が考え込んでいる様子なのが気になって、佳奈子は思わず聞いた。
「あの、何か・・」
「ああ、ちょっと膿が出てるんで・・昨日の残りだったらいいんだけど、元で出続けてるのなら、ちょっと穴が小さいからね、そのうち詰まってあとでかなり痛み出すと思うんだよね・・・」
佳奈子は、昨日の夜・・というか今朝・・の絶望的な痛みを思い出して身震いした。しかし、紺野の次の言葉も衝撃だった。
「かといって、開けるとしても、今昼休みだから、麻酔は入れられないかなと思って。特に、ほら、昨日は麻酔であんなになったし、今朝はメシ抜いちゃったし。」
ま、麻酔なし・・麻酔しても痛いのに、そんな・・・考えただけで痛くなってきそうだった。
「だから、もし痛くないなら様子を見るって手もあるけれど・・」
「そ・・ぅ・・」
そうします!と言いかけて、佳奈子は先ほどからの鈍い痛みを思い出した。これはたぶん、紺野の言うように“元で出続けてる”のではないかと思う。佳奈子は意を決して、深呼吸をして言った。
「あ・・開けて下さい・・昨日のあの痛みはちょっと・・無理です・・・」
「そう?でも、痛いと思うぞ・・・じゃ、ちょっと頑張って。表面麻酔でも塗りこんでみるか・・気休めにはなるかな・・・あーん」
紺野は、佳奈子に口を開けさせると、左上の6番の周囲に綿球で表面麻酔をたっぷり塗り広げた。
「ここは・・しみるかな・・」
ゼリー状の麻酔が付いた綿球を、黒茶色の穴を開けている虫歯にぐいっと突っ込む。
「んはぁああっ」
鈍い痛みを感じていた歯に、びぃぃぃん、と鋭い痛みが走り、思わず声が上がる。
「んー、大丈夫かなあ」
う、うぅぅ、と頬を押さえて苦しむ佳奈子を見て、紺野が心配そうな声を出したとき、控え室から夏美が出てきた。
「二人きりで、ヒミツの治療ですか?」
いたずらっぽく言いながら出てきた夏美は、佳奈子の様子を見て、
「大丈夫ですか?手伝いますよ」
と駆け寄り、佳奈子が押さえているのが左頬であることに怪訝そうな顔をした。
「あれ・・左?でしたっけ?」
「おお、助かるよ。いや、昨日から別のとこが痛み出したらしくてね・・はい、もう良いかな」
紺野は言って、佳奈子に口を開けるように促した。綿球が摘み出された後の穴を夏美が見て顔をしかめる。
「うわ・・ここが一番ひどいんじゃないですか?あぁ、痛そう・・」
佳奈子は汚い歯をさらしているのが恥ずかしくて・・実はこの歯は自分では見ていないのだが、歯科医として、だいたい歯がどうなってしまっているのかは分かる・・目を閉じた。
「で、どうしたらいいですか?」
夏美の声が仕事モードに変わった。
「昼休みだから、麻酔したくないんだよ・・どうも昨日あんまり寝てないらしいし・・でもこのままだと、後で痛みがぶり返しそうなんで、治療は後にするとしても、ちょっと開けておきたいんだ。押さえてくれるかな?」
「はい。」
と、夏美の両手が側頭部を挟む。
あ、昨日、紺野先生の家に泊まったことはナイショなんだ・・そりゃそうよね・・と佳奈子が心の中でにやけていると、前触れもなくヒュィイイイ、とタービンが音を立てて口の中に入ってきた。
「頑張れよ」
短い言葉を聞いた瞬間、痛みが上顎から・・目の後ろを通って頭まで響いた。
「あ、ぁはああ」
反射的に逃れようと頭を動かしそうになるが、夏美のサポートはほぼ完璧だった。
チュィイン、チュイン、チュイン、ヒュゥゥゥ。
時間にして3秒ほどだったはずだが、佳奈子はタービンが止まると、治療台に沈んでいきそうな気がするほどの疲れを覚えた。
「よし、開いた・・んー・・開けてよかったみたいだぞ・・・」
紺野は開けたばかりの穴からあふれ出てくる膿を見てつぶやいた。すぐにタービンをシリンジに持ち替え、なるべくそっと患部を洗う。それを見た夏美が、すばやくバキュームを取り、サポートする。
ジュボボボ・・・
「んぁ・・はあ・・あはぁ・・」
じーん、と残る削られた痛みに、沁みる痛みが一緒になって歯を刺激する。佳奈子の目には涙が滲んできた。
「あの怖い萩原先生が、ずいぶんと弱ってるなぁ・・」
しばらくたってシリンジを置いた紺野が苦笑交じりに言い、手袋を外した指で佳奈子の涙を拭った。夏美が少しニヤニヤしながらバキュームの先を取替え、器具の片付けに入る。
「金子さん、ありがとう。助かったよ。」
紺野は、そんな夏美を笑いながら軽くにらみつけながらも礼を言い、治療台を起こすと佳奈子の顔を覗き込んだ。
「とりあえず、おしまい。午後はできそうか?」
「あ・・はい・・楽になりました・・いえ、あの、痛かったとかじゃなくてその・・もう大丈夫・・だと思います」
「ん・・なんか腹に入れたほうがいいな・・ゼリーみたいなのでも買ってくるか。ああ、膿が出てくるかもしれないけど、固まると嫌なんで塞いでないから。口にたまったらなるべく出して。」
「あ・・はい・・」
そのまま買い物に出て行った紺野の背中をぼんやりと見ていると、夏美がからかうように言った。
「ちょっと先生、いい感じじゃないですか。」
佳奈子はえっ・・と言ったきり、真っ赤になった。
「先生、今朝二人で遅刻って、まさかお泊まりですか?やだなあ、もう・・でも、ちょっと感動しちゃいましたよ、膿が出てくるようなあんなひどい歯を見ても、嫌いになったりしないものなんですね。愛ですね、愛。」
ちょっと、からかわないでよ、と言おうとした佳奈子だが、あんなひどい歯、と言われて、急に気分が落ち込んできた。
・・そ、そうよね・・普通・・引くわよね・・
「でも、あんまりこう、紺野先生ってキスが上手そうな感じじゃないですよね、どうですか、指はけっこう綺麗だけど・・」
なぜか一人で盛り上がり始めた夏美に、
「昼間から診察室でそんな話したって仕方ないでしょ」
とつっけんどんに返しながら、佳奈子は泣きそうだった。
・・泊まったんだから・・キスくらいしてくれてもよかったのに・・やっぱり私の歯が・・汚いから・・・
自分が昨日は弱りきっていたことも忘れて、佳奈子はうつむいて控え室に向かった。
午後の診察時間も、大忙しだった。自分が休んでしまったらどうなっていただろう、というくらいに佳奈子も働いた。幸い、歯は痛み出すことはなかったが、膿と血の混じった味を舌に感じることがあって、顔を歪めた。
「大丈夫?」
紺野は患者の合間などにときどき声を掛けてくれたが、落ち込んでいる佳奈子は黙って頷くだけで、それがまた紺野を心配させた。
診察時間が終わり、スタッフ達は皆、ぐったりして帰っていった。夏美も、気を利かせたのか本当に用事があるのか、
「今日はお手伝いできませんけど・・頑張ってくださいね」
と、治療器具だけセットすると、帰って行った。
「じゃあ、佳奈子ちゃん、始めようか・・本当に大丈夫だったのか?診察を見てる限りは大丈夫そうだったけど・・」
紺野が心配そうに声を掛けてくれて、佳奈子はちりちり胸が痛んだ。こんな気分で二人きりになるのは避けたい。
「あの・・今日は治療は・・・」
言いかけた佳奈子を紺野がさえぎった。
「そんな歯を放っておくわけにはいかないだろう、ダメだよ」
「そんな汚い歯、ってことですか」
「は?」
「そんな汚い歯を放ってる女のことなんて構わないで下さい」
「どうした、一体。たしかに、ひどいことになってるけど別に汚いとは思わないよ・・でも治さないと、また痛み出したら・・」
「汚いって、昨日最初に見たときに先生言いました!」
子供みたいなことを言ってると思いながらも、悲しくなってきて、佳奈子は泣き出した。
「ちょっと、汚いって、そんなこと言ったかな・・いや、でも、感染してる患部のこと、汚いって言うだろ?そうだよ、感染はしてるから、ほら、ちゃんと綺麗にしないと後で大変に・・」
治療で佳奈子を泣かせたことは何度もある紺野だが、治療も始めていないのに泣き出されて、紺野は少し動揺した。
「やっぱり汚いって思って・・だからキスとかも・・」
佳奈子も泣いて頭に血が上ってしまい、昼間のショックをつい口走ってしまったが、その一言で紺野は思わぬことを言い出した。
「は?キスって、いや、昨日のあれはちょっと、いや、目を覚ましたらマズイと思って軽くしただけで、汚いとかそういうんじゃ・・というか気付いてたんなら・・」
「き、昨日のアレ?」
心から不思議そうな佳奈子の表情に、紺野はしまった、という顔になった。
「私が倒れてたときに、キスしたんですか?」
「いや、気付いてなかったなら忘れてくれ、そんなことはどうでもいいから、とにかくその歯は治させてくれ。」
「麻酔たくさん打ってキスするなんて、ホントに鬼畜歯科医じゃないですか」
「いや、違うって。っていうか、したから怒ってるのか、軽かったから怒ってるのか、どっちなんだよ」
「どっちにしても、したんですね?」
「・・ごめん、いや、でも、ちょっとだけだから。」
紺野は、片目をつぶって人差し指と親指でちょっと、のジェスチャーをしてみせた。
「やっぱり・・汚いと思ってるから・・」
「またそれか。いや、だから・・ああ、めんどくさいな、もう。よし、わかった、キスしよう。」
「だ、ダメです・・汚いからダメっ。」
「なんだそれ、初体験投稿コーナーかよ。」
「え?」
「いや、なんでもない。口の中なんて汚いんだ、それくらい知ってるから。」
「で、でも、今はホントに・・ちょっと膿が出て・・」
紺野は苦笑いした。
「それはたしかにあんまり・・おいしくないな、よし、じゃ、口ゆすいできて」
すぐそばの治療台のスピットンを指差す。佳奈子はパタパタ、と小走りで行って、くちゅくちゅ、と勢い良く口をゆす・・
「あ、あうっ」
うめき声を上げて、コップを取り落とし、左頬を押さえる。
ふぅっ、と溜息をついて紺野が治療台に近づくと、佳奈子は左頬を押さえたまま、半分涙目になって紺野を見上げた。
「さ、先に・・治療・・おねがいします・・」
「その方がよさそうだね・・じゃ、そこ座って。」
佳奈子はのろのろと治療台に座り、紺野は手を洗って、術者用の椅子に座ると、麻酔のシリンジのキャップを外した。
「一応、シンマ入れるけど・・昨日のこともあるし、今日もほとんど食べてないんだし、半分くらいにするよ。」
昼は、紺野が買ってきた栄養ゼリーを1パック飲んだきりだった。
「はい・・」
「じゃ、始めようか、ちょっと見せて」
もしかして最初に軽くキスとかしてくれたりして、と淡い期待をしたが、治療台はあっさり倒され、ミラーを手にした紺野が開口を促す。
「あーん」
あー、と口を開けると、ライトを調節し、口の中を覗き込んだ紺野が軽く眉をひそめるのを見てしまった。紺野は、佳奈子の悲しそうな目と合うと、
「汚いって思った、って今思っただろ。忘れろ、それは。」
と言って、ミラーを左手に持ち替えると、右手で麻酔のシリンジを手にした。
「いくよ」
と声をかけ、針を外側の歯茎に刺す。
「ん・・ぁふ・・」
「力抜いてな」
針が抜かれ、中からだ、と思いきや、再び、外側に針が刺された。内側の歯茎にも、同じように2箇所。
「はぁ・・ぅ・・」
カラリ、とシリンジをトレイに置いた後で、紺野が聞いた。
「しびれてきた?」
「あ・・はぇ・・すこひ・・へ?」
言い終わらないうちに、紺野の顔が近づいてきた。
あ・・しびれてて・・ちょっと・・ちょっと変な感じ・・・
佳奈子は、目を閉じるのも忘れ、むしろ目をパチパチさせてしまった。
紺野は体を起こすと、
「ん、もう効いてるみたいだな」
と言って軽く笑ったあと、真顔に戻った。
「さてと。始めるよ。」
リーマを手にすると、左手で佳奈子の顎を抱えるように押さえた。
佳奈子は目を閉じた。歯の中の敏感な部分にリーマの先端が当たるのがわかる。そのまま、尖った先がキリキリと進んでくる。
「ぁ・・あ・・んんん・・んぅぅぅ・・」
「力抜いて・・」
「はぁぁあああぅぅぅううううぁあああ」
「そうそう、声出していいから、力抜いて」
「んぁあああっはぁああああ・・んくっ」
やはり、この治療は痛い・・・佳奈子は、治療台を掴み、涙を流しながらも痛みに耐えた。
もう抜髄は嫌だわ・・歯磨きもしっかりして・・ちゃんと検診してもらって・・・それにしても、いつになったら終わるんだろう・・・・
「はい、まあ今日はこんなところかな、とりあえず薬入れて閉じるけど・・右よりもやっかいそうだよ、たぶん根治だな、夏休み中に終わるといいけど・・いや、夏休みが終わってからでも治療に来るけれど。」
そう言いながら、紺野は薬を入れて封をした。
ふう、やっと終わり・・佳奈子は治療台が起こされるのを待ったが、ふと見ると、紺野はタービンの先を選んでいる。
え?何?他にも虫歯なんて・・あった?
こちらを見ている佳奈子に気付くと、紺野が言った。
「その前と後ろ・・5番と7番も、さっき見たら虫歯がつながっちゃってるよ。5番はちょっと大きそうなんで、今日は軽く7番、治しとこうかなって。一応さっき麻酔しといたから・・はい、あーん」
有無を言わさず、タービンが近づいてきた。観念して目を閉じ、口を開ける。
チュィイイイイイイイイイ・・・
プィン、プィン、プィン・・という振動が上顎から頭に伝わってくる。
「もうちょっと大きく開けられるかな・・そうそう。」
チュイイイイイイ・・・チュィイイイイイ・・・
ああ、顎が・・外れそうなんですけど・・・早くおわら・・な・・ぃ・・ぃ・・た・・い?
「ん、んんんっ!!」
「ああ・・痛いかな・・もうちょっと、もうちょっと我慢して」
「んぁはああん・・」
軽く治しとこう、って・・・軽く済まないじゃない・・・ぃ・・いたぁあああいぃ・・
ヒュゥゥゥウウ。
声を上げ始めてしばらくして、タービンが止まった。
ふぅ。とりあえず終わった・・
佳奈子は息を吐いて、口を閉じた。
「はい、もう一度、口開けて」
紺野のほうを見ると、齲蝕検知液を手にしている。
全部取りきれてますように・・祈りながら目をつぶり、口を開ける。
「んぁ!ぁああ!」
液も、その後の水も、びっくりするほど沁みた。
「うーん・・・」
紺野の声に、おそるおそる目を開けると、難しい顔をしてミラーを覗き込んでいる。
「もうちょっと頑張・・れる・・か?」
佳奈子は、口を開けたまま小さく首を振った。
「痛みは少ないと思うんだよ、えーと・・」
紺野がトレイに乗っていた手鏡を渡してくれる。
「見えるか?」
佳奈子は落ち込みながら頷いた。半分以下の高さになった6番の仮封・・そして、7番の虫歯は想像していた以上に大きかった。レジンで済むような虫歯を想像していたが、6番との境から始まった虫歯は、歯の中心近くまで削られている。そして、齲蝕検知液の赤い色は、7番の前半分、残された側面を染め出していた。
「削らないといけないのは、側面に近いほうだから、そんなに痛くな・・」
と言いながら佳奈子を見ると、潤んだ目でこっちを見て小さく首を振っている。
「無理か・・でもここでやめるわけにはいかないよな・・・気が進まないけど、もう少し麻酔入れてみるか?」
「お・・おねがいします・・」
なんとか声を絞り出す。紺野は立ち上がって、シリンジを取ってきた。
「あーん」
口を開けると、くいくいと綿を詰め込まれる。ああ、この人はやっぱり小児歯科医だわ、綿使うのよね、などと考えて気を紛らわせることにした。なんだか怖くなってきたのである。
「いくよ。」
こ、この人、これが口癖みたいなものよね・・
ちくり。
うっ、とかすかにびくっとしてしまったらしい。紺野のおかしそうな声が降ってくる。
「いやあ、昼間の怖い萩原先生からは想像も付かない姿だね。ほら、頑張って。」
笑われたことに少しムッとした佳奈子は、声が出そうになるのをぎゅっと目をつぶって必死にこらえた。目を開けるタイミングを逃して、そのままつぶったままで居ると、そのうち、針が抜かれ、綿も抜かれ、バキュームが口の端に引っ掛けられると、ヒュィイイイ、と音を立てたタービンが入ってきた。無言というのは少し怖い。恐る恐る薄目を開けると、真剣な顔の紺野が見えた。
ヒュィイイイイイイ、チュイイイイイイ・・・チュィイイイイイ・・・
先ほどよりは痛みは少ないが、それでも、ときどき、びくっとするような痛みが襲ってくる。
「んはっ、ぁ・・」
「頑張って・・もうちょっと大きく開けられるかなあ・・」
チュィイイイイ・・
「んあぁん!」
佳奈子は眉根をぎゅぅっと寄せ、爪が真っ白になるほど力をこめて両手を組み合わせていた。
ぃ・・たい・・麻酔・・したのに・・・
チュィイ、チュィイイイイイイ
「んぁああはぁあああ」
「もう少しだからね、頑張って」
ヒュゥゥゥウウ。
言葉通り、すぐにタービンの音は止んだ。
佳奈子は、耳の中に流れ込んできた涙の冷たさにびくっとした。
・・や、やだ・・泣いちゃった・・・
「泣くほど痛かった?そんなことないでしょ、どうしちゃったの」
バキュームを抜いてくれながら、紺野が少し心配そうに言った。
起こされていく治療台にぐったりと体を預けたまま起き上がり、苦労しながら口をゆすぐ。
ゆすぎ終わって、頭をヘッドレストに預けたまま周囲を見回す。紺野は後ろの方で型を取るための準備をしている。
あらためて患者の視線で見てみると、トレイの上に載っているものは全て怖そうなものばかりだ。
ああ、今日は何されるんだろう・・
患者達はこう思っているに違いない。
印象採取のトレイを持った紺野がやってきた。
「ホント、どうしたの、何されるんだろう、って顔してるよ・・はい、型取るよ、あーん」
あーん、と口を開けた佳奈子の唇に指を掛けてもっと大きく開かせながら、紺野がトレイを佳奈子の口に突っ込んだ。
「はい、噛んで・・・しばらくそのままね。」
紺野は印象材が固まるまでの間で、手際よく治療台の上を片付け、タービンやバキュームの先も取り外している。
・・よかった・・今日はこれで終わりってことね・・・
佳奈子は、ほっと胸をなでおろした。
しばらく経って、印象トレイが外され、仮封も入れられた。
「はい、おしまい。口ゆすいでいいよ。よく頑張りました。」
紺野は、そのまま座って、胸ポケットからペンを取り出すと、カルテを記入し始めた。
「これで・・右上の7番はまあ、明日あたりインレーが来て入れられるだろ、右上はもう痛みはないの?」
こちらを見る紺野に、佳奈子はぷるぷると首を振って見せた。
「そうか、えーと・・今、一応見てみようか?いいや、明日にしよう、綺麗になってたら型取って・・・これで右はオッケー。左上が、7番のインレーを頼んで、6番は根治中で、5番は未処置、と。ここも削って、インレーかな。」
その紺野の言葉を聞いていると、佳奈子は、自分の虫歯はあまり大したことが無いような気がしてきた。昨日の夜、もう自分の歯はおしまいだ、くらいに感じられた反動かもしれない。
・・1ヵ月半後くらいには、治ってるかな・・夏休み中に治るといいって言ってたし。でも、治ったら次の冬休みまで紺野先生に会えなくなっちゃうとか・・ないわよね・・・ないない。
佳奈子は一人、ボーっと治療台に座ったまま、あれこれ考えていた。
「ちょっと、佳奈子ちゃん、もうおしまいだって。大丈夫?」
「あ、だ、大丈夫です。」
「今日は家、帰れる?」
聞かれて、佳奈子は一瞬、ダメかもしれません、と言おうかと心が揺れ動いたが、今日のところは帰ることにした。
「大丈夫、だと思います。」
「そう?痛み出したらまた連絡して。夜中でもいいから。」
「はい・・・」
1ヵ月半後。
今日で夏休みも終わりである。今回の手伝いも最後だから、このまま飲みに行こう、という院長の誘いを、「1時間後に店で待ち合わせ」にしてもらって、紺野は佳奈子を治療台に座らせ、エプロンをつけた。
「よろしくお願いします・・・」
「それはまた、ご丁寧に。」
治療台を倒しながら、紺野は笑った。
「親しき仲にもっていうでしょ、今は治療してくれる先生なんですから。」
今回の夏休みで、紺野と佳奈子の仲はずいぶんと進展した。
「じゃあ、患者さん、始めるよ、はい、あーん」
佳奈子が口を開けた。
・・二人の仲と同様、佳奈子の口腔内のギラギラもかなり進展していた。
右の7番にはインレー、6番にはフルクラウン。1番から左の3番までは元からある裏が銀色のブリッジ。左上7番には前半分を覆う大きなインレー。そして、手前の5番には・・ギラギラと光るクラウンが嵌められていた。頬側にはレジンが貼ってあり、前からはそれほど目立たないのだが、こうして口を開けると、フルクラウンと見た目は変わらない。もともとは、この5番はインレーで治療されるはずであった・・
少し遡って、夏休みのとある夜。
「ん、ぅうううっ」
佳奈子は、救急歯科センターの廊下で、左頬を押さえてしゃがみこんだ。左上の奥歯から、ズキズキと頭まで痛い。
・・どうしよう・・・・
左上の5番にインレーを入れてもらってから、5日ほど経っていた。ここの虫歯は思っていたより大きく、露髄するまで削り取らなければならなかったが、抜髄するかどうか選択を迫られた佳奈子は、神経を残してくれるよう、紺野に頼んだ。もう痛い思いをして抜髄されるのには疲れていたし、左上の7本の歯のうち、4本はすでに欠損か失活歯である。どうしても残して欲しかった。
「じゃあ、とりあえず残してみようか・・。」
紺野は、今思えば、しぶしぶと言った感じで、残すことに同意した。
薬を詰め、インレーが入った日、歯を磨くときに口をゆすぐと、水がびっくりするほど沁みた。もっとも、しばらくは冷たいものが沁みたりするのは正常な範囲である。そのうち、歯髄の中から象牙質が作られて、沁みなくなる。佳奈子はそう自分に言い聞かせたが、翌日からかすかながら自発痛を感じるようになった。何もしなくても、痛む。そしてその痛みは日に日に強くなり、今日、夜間当直のために救急歯科センターに入ってしばらくして、ついに耐え切れずしゃがみこんでしまったのだった。
「萩原先生、どうしたんですか?具合でも悪いんですか?お腹が痛いとか?」
今日のチームリーダー、中村に後ろから声をかけられ、佳奈子はとっさに、手を頬からお腹に下ろした。
「あ・・はい、ちょっと・・」
「ああ、顔色も良くない、今日は無理ですね、誰か代わりの人を頼みますから、萩原先生、どうぞ帰ってください。ああ、救急車でも呼んだ方がいいですか?」
「いえ、タクシーでも拾います・・・どうもすみません、本当に。」
「そうですか。じゃあ」
佳奈子はのろのろと立ち上がった。手を頬に戻す。
・・・えっと、紺野先生に・・・はっ!
佳奈子は愕然とした。あいにく、紺野は一昨日から、実家に帰ってしまっている。たしか、戻るのは2日後。実家はここから高速を飛ばしまくっても最短記録は2時間だと紺野が言っていた。無理だ。
・・・じゃあ、ホントに救急車・・って、痛いのは歯だから、行くのは病院じゃなくて、救急歯科センター?
それはまさに、この場所のことである。
佳奈子は軽くめまいを感じた。隣の市の救急歯科は休日だけで、夜間は無かったはず・・・さらに隣となると・・・無理。とにかく早くなんとかしてもらいたかった。インレーを外しさえすれば、少しは楽になるはずなのだ。自分でなんとかできるだろうか。とりあえず、少し口を開け、唇を横に引っ張るようにして、左手の中指で痛む歯に触れてみる。
「うぅっ!」
痛む歯は、猛烈な痛みで抵抗した。しかも、5日前に入れたばかりのインレーである。セメントが劣化しているわけもないし、上手い技工士に頼んでいるので、手がかりになるような隙間も開いていない。手で外せるはずはなかった。
・・やっぱり・・恥ずかしいけど我慢して、ここで診てもらうべきなの?
半ばあきらめて、顔をしかめながら奥歯をいじっていると、
「何やってんの?」
と、今度は前から、今日の当直チームに入っている、平木がやってきた。佳奈子の大学時代の同級生である。名前が近いので、実習などで組むことが多く、彼には前歯のブリッジは見られている。しかし、彼は勝手に佳奈子のブリッジは事故だと思っているようだった。
・・ちょっと、彼に今のこの状態を見せるわけには・・・せめて知らない人ならよかったんだけど・・・
「な、なんでもない。今日、当直入ったんだけど、お腹が痛くて・・中村先生が代わりの人呼んでくれるっていうから、帰るね。」
佳奈子は右手でお腹をさすりながら言い、そのまま裏口へと向かった。
タクシーを拾って乗り込み、行き先を告げる。勤務先だ。こうなったら、自分でやるより仕方ない。
ときどき、自分の虫歯を鏡を見ながら治している歯科医はいるのである。もちろん、小さい虫歯だが。
佳奈子は、バッグから痛み止めを取り出し、水で流し込むと、左頬をさすりながら、窓の外を見つめた。
少し運転の荒いタクシーで、よく揺れた。揺れるたびに、痛む歯に衝撃が響き、佳奈子は顔を歪めた。
ようやく到着し、暗い歯科医院と佳奈子を不審そうに見比べている運転手に料金を払ってタクシーを降りると、佳奈子は鍵を開け、まるでトイレにでも駆け込むように、バッグを放り出すと、診察室に入った。早く、早く・・・
一番近い治療台のそばの術者用の椅子に座り、ライトを調整し、左手に手鏡を持って、痛む歯を写す。
・・見にくいわ・・
右手で唇を押し広げないと、よく見えない。
もう一度立って、アングルワイダーを取りに行く。ついでに、タービンのバーボックスも。
再び椅子に戻り、アングルワイダーを自分ではめ、タービンにバーを装着して、ライトを調整し、ライトの横についたミラーに歯が写るようにして、佳奈子は意を決して、タービンのコントロールペダルを踏み込んだ。
ヒュィイイイイイ・・・
歯の後ろ半分は歯の高さの半分くらいまでがインレーで覆われている。前半分は咬合面のみ。歯の側面の境目から・・
チュィイイ・・
「あ、ぁうっ!」
歯にタービンが当たり、音が変わった瞬間、強い痛みが襲った。とっさに、ペダルから足を離す。なんとか、タービンは取り落とさずに済んだ。
・・やっぱり、麻酔が必要かしら・・・当たり前よね・・・
佳奈子は、再び立つと、シリンジを持って戻った。
・・うまく角度が・・力も入れにく・・ぅっ・・・んんんん・・・
なんとか麻酔を打ち、効いて来るのを待つ。
ズキズキと痛む頭で、どこから削れば一番簡単にインレーが外れるか考えるが、なかなか考えはまとまらない。
・・えーと、えーと・・とにかくやってみよう・・
ヒュィイイイイイ・・・・
「んぁあっ!」
歯にタービンの先が当たると、びくっとするほどの痛みが走る。深呼吸してもう一度・・
ヒュィイイイイ・・・チュィイイイイ・・・
「ぁううううっ」
今度は少し長く耐えられたが、インレーが外れるほどには削れていない。
チュィイイイイ・・・キュィキュィイイイイイ・・
「ぁは・・は・・ぅううっ」
とにかく外れて欲しい一心で、佳奈子はアングルワイダーをはめた口をあんぐりと開け、涙を流しながら、インレーのあちこちにタービンを当てまくった。しかし、インレーはびくともしない。どうして、紺野先生が実家に帰る前に言わなかったんだろう・・という後悔が頭をよぎる。
10回ほど試して、もう抜いてしまおうかとさえ思った瞬間、ふと思いついた。
・・あ・・穴が開けばいいんだ・・・
佳奈子は、もう一度深呼吸をして、両手でしっかりとタービンを上下逆にして持ち、痛む歯の咬合面にまっすぐに当てると、ペダルを踏み込んだ。
ヒュィイイイイイ・・
「ん・・んんんんぁああ・・・」
チュィイイイイイイ・・・
ゆっくりとそのままタービンを上に押し上げていく。
「ぅ・・・ぁ・・あ・・」
確実に痛みが強くなっていき、近い・・という思った次の瞬間、
開いた!
という手ごたえがあった。
ヒュゥゥゥゥ。
ゆっくりとタービンを抜く。痛みが少しではあるが楽になった。
・・ふぅ、助かった・・・
アングルワイダーを外し、穴からにじみ出てくる血と膿をガーゼで拭いながら、肩で大きく息をつく。
舌で探ると、歯はあちこちをめちゃくちゃに削られ、ガタガタになっている。
そして佳奈子は、胸元が冷たいことに気付いた。ふと見ると、カットソーがべっとりと濡れている。
涙と唾液と、タービンからの水だろう。
・・やっぱり要るのよね、エプロンは。
佳奈子はやれやれ、と首を振ると、ペーパータオルで胸元を押さえたあと、周囲を片付け、どうやって帰ろうか、と、床に放り出したバッグに手を伸ばした。バッグの口から、携帯電話が落ちそうになっていて、画面には
着信 1件
と表示されていた。誰だろう、と見ると、紺野からだった。
あわてて、発信ボタンを押すと、3回ほどの呼び出し音で、電話はつながった。
「もしもし・・あの・・電話・・」
『もしもし?ああ、さっき、ふと気になって掛けたんだけど、今日は当番だったっけ?救急センターの。』
「あ、そうらったんですけど・・」
『あれ、どうした?もしかして、麻酔効いてる?痛み出しちゃったかな?』
「はい・・」
『ああ、やっぱり。で、当番が患者さんになっちゃったか?』
「いえ、歯が痛いとは言えなくて・・・今・・自分で・・」
途端に、電話の向こうから、ため息とも笑い声とも取れる声が聞こえてきた。
『は。もう、何やってるの。で?今はどう?どこ?』
「今医院で・・なんとか穴が開いて・・・痛みは少し落ち着きましたので、帰ろうかと・・」
『ん・・落ち着いたならいいけど・・開けっ放しってのはちょっと嫌な感じだな・・よし、今から行くからちょっと待って。』
「え、今から行くって・・」
時計を見上げると、夜10時を過ぎている。
『うーん、2時間半くらいで着けるかな。大丈夫、飲んでないから』
「でも、もう10時過ぎです」
『大丈夫、時間外料金は取らないよ。じゃ、おとなしく待ってるように。』
電話は突然切れ、プー、プー、という音だけが響いてくる。
・・このまま2時間半、ここで待ってるの・・
佳奈子は携帯を握ったまま、途方に暮れた。
濡れたカットソーの胸元を見つめ、右手で摘み上げて、顔を近付け、くんくん、と匂いを嗅いでみる。
ふと横を見ると、その姿が窓ガラスに映っていて、佳奈子はおかしくなって吹き出した。顔も涙でぐちゃぐちゃだ。
2時間半か・・家に帰って着替えてこようっと。
佳奈子は、電気を消して戸締りをして、医院を出た。
その晩、医院に戻った佳奈子は、車を飛ばして戻ってきた紺野に、
「滅茶苦茶なことをするな」
と叱られ、さらに痛みに泣きながら、明け方近くまで、5番の抜髄治療を受けた。本来なら1本であるはずの根は微妙に先が分かれていて、予想以上に手間取ったのであった。
「家まで送っていくのが面倒だから」という理由で紺野の家に連れて帰られ、その後の3日間の夏休みは、ほとんどの時間をベッドの中で過ごした・・といっても楽しい夏休みだったわけではなく、最初の滅茶苦茶な処置のせいか、翌朝から左頬が腫れ上がった上に熱も出てしまい、ベッドの中で寝ているか、医院に連れて行かれて治療台の上で痛みに声を上げているか、という辛い状態だった、というのが実際のところである。そんなわけで、佳奈子の左上5番には、頬側にレジンが貼られたクラウンが入ることになった。
夏休み中は、歯医者は忙しいものだが、ほぼずっと自分の歯の治療も受けていた佳奈子。最後に残った左上の6番の治療は、夏休みが終わっても終わりそうに無かった。
紺野が、その歯から、白い仮封を外した。
今日こそは綺麗になったかな、と目を凝らした歯の中心に、じわっ、と膿がにじみ出てきて、思わず、ため息をついた。
その声を聞いて、佳奈子は少し目を開け、表情を曇らせた。
「先週あたり、ちょっと良くなりかけたと思ったんだけどな」
言いながら、紺野はトレイに並べた器具を使って、もう何回目になるかわからない処置を始めた。
今日こそは必要ないかもしれない、と思いながら並べた器具である。
「ん・・ぁあ・・」
時折、佳奈子が痛そうに呻く。
「来週からも、この歯治しに来るつもりだけれど・・」
「んぁ・・はひ」
「あと半月くらい経っても良くならなかったら・・」
・・抜く?
佳奈子は怯えながら次の言葉を待った。
「専門医に任せた方がいいかもな。大学病院で、ちょっと誰か当たっておくよ。」
「あぃ・・ぁが」
ありがとう、と言おうとしたところに、ひときわ強い痛みがやってきて、佳奈子はまた、顔をしかめて呻いた。
「まだ、そんなに痛む?」
紺野は困ったような顔で、いつも通りに薬を詰めると、歯に仮封をして、治療台を起こす。顔を少し歪め、左手の中指で頬を撫でながら起き上がってきた佳奈子に軽くキスすると、
「はい、よく頑張りました」
と声を掛け、立ち上がって、「ありがとうございました」という佳奈子の声を背に、片付けにかかった。
佳奈子も口をゆすぎ、トレイの上や治療台の消毒を済ませると、二人で院長の待つ居酒屋に向かった。
翌日から、仕事に行っても紺野の居ない日々が始まった。夏休みが終わると紺野が居なくなるのは毎年のことだが、今年は、いつもよりもその寂しさが強く感じられた。
夜には、「歯は大丈夫?」というメールを携帯に送ってくれるのだが、心配しているのは歯だけなの?と、不満が募る。
夏休みの最終日に行った居酒屋で、当然、院長は二人の仲をあれこれと聞いてきたのだが、紺野はただ、笑っていただけだったというのも悲しかった。仲良くなったと思ったのは、自分の勘違いなのかしら・・何回も家にも泊めてくれたのに・・・
次に紺野が治療に来てくれる日が待ち遠しいような、怖いような気分だった。
そんな中、新しく週に2回手伝いをしてくれる歯科医を募集することになり、応募してきた若い歯科医と面接のあとで皆で食事に行ったときのこと。
衛生士の夏美が
「一応お約束なんでお聞きしますけど、好みのタイプは?」
と冗談で聞くと、
「やっぱり、歯の綺麗な人っすかねぇ・・ほら、この仕事してると、顔よりも、歯の綺麗さの方が気になりません?」
と言い出した。
「でも、ほら、出会いは多いぞ、患者さんとか・・」
もともと患者だった彼と付き合っている夏美が切り返したが、酔っていたせいか、
「いやあ、健診くらいならいいけど、ありえないっすね、虫歯女は。だいたい・・」
と、さらに力説し始め、佳奈子は、耐えられなくなり、明日早いから、と、先に家に帰ったのだった。
翌日は、夏休み後、初めて紺野が治療に来てくれる日だった。診療時間が終わっても帰る支度を始めない佳奈子に、院長が聞いた。
「どうした?帰らないのか?」
「あ、今日、紺野先生が来てくださることになっていて・・あの、私の歯の治療に・・」
ああ、と頷いた院長は、少し心配そうにさらに訊ねた。
「まだ治療中だったか・・大丈夫か?」
「ええ、ちょっと長引いているところがあって・・歯医者なのにそんな酷い虫歯を作るなんて・・恥ずかしいというか・・治療にわざわざ来てもらうのも申し訳ないし・・」
昨日の歯科医の言葉も思い出し、顔を曇らせてうつむいた佳奈子の様子に何かを察した院長は、佳奈子の前に立ち、肩を叩きながら言った。
「ああ、大丈夫だ、こんなことを言っていいかどうか知らないが・・まあいいだろう、あいつが付き合ってた相手はほとんど全員知ってるが、たいてい歯が悪い子だったからな、問題ないぞ。ありゃ、むしろ歯が悪いのが好きなんだろうなあ、ああ、俺が言ったって言うなよ。」
へ?
佳奈子が院長の顔を見た瞬間、背後から
「本人の前で言っておいて、言うなよ、は無いでしょうが。」
という紺野の声がした。佳奈子はびっくりして振り向いた。
「おう。来たか。」
院長はわざとらしく、手を上げて挨拶した。
「もう。しかも、むしろ歯が悪いのが好きなんだろう、とか、そんなわけ無・い・・」
と院長に抗議しかけた紺野は、佳奈子がはっ、と顔を強張らせたのに気付いて、少し言い直した。
「歯が悪いから付き合うとか、理由としておかしいですから。まったく、人を変態みたいに・・」
「ははは、いや、あまりにうちの有能な先生が思いつめた顔をしてるもんで。」
笑いながら言う院長の言葉に
「まあ、たしかにね・・」
と軽く頷いた紺野は、佳奈子に近付いてきて、言葉をつないだ。
「気にしすぎだって、前からずっと言ってるだろ。この際だからはっきり言っておくと、歯が悪いのは嫌じゃないけれど、それを治さないで居るのは嫌いだから。わかった?」
頭を撫でられて、佳奈子は半べそ状態になりながら頷いた。
「はい、わかったらおとなしく、そこに座る。」
紺野に指差されるままに、佳奈子は治療台に座った。
「じゃ、あと、戸締りも頼んだよ」
院長は、紺野に目配せして、帰って行った。佳奈子は、少しだけ安心して、倒れていく治療台に背中を預けていた。
佳奈子の恋の?悩みはなんとか解決を見たが、歯の方の悩みは解決することなく、半月後、佳奈子は仕事を早めに切り上げ、大学病院の廊下で、不安な思いで紺野を待っていた。今日から、歯内療法の専門医に診てもらうことになったのだ。卒業後、半年間ほど働いた場所だったが、まさか、患者として来ることになろうとは・・
「お、逃げずにちゃんと来たな。じゃ、行こうか。」
研究棟に続く渡り廊下の向こうから、紺野がやってきた。一緒に歩き出しながら、
「逃げずにって・・子供じゃあるまいし」
佳奈子は口を尖らせて抗議してみたが、
「でも、今にも逃げ出しそうな顔してるぞ。」
と返されてしまった。実際、できることなら逃げたいくらいであった。
「良く考えたら・・大人になってから、紺野先生以外に診てもらうのって初めてで・・なんか怖くって」
「ああ、そういえばそうだな。ま、大丈夫、怖くはないよ。ちょっとおしゃべりだけどな。歯髄生理の教室で一番手先が器用な・・あ、着いた。」
紺野が、開いているドアをコンコン、とノックした。
「ほーい、あ、どうぞ」
紺野に付いて部屋に入ると・・そこには・・
「ひ、平木くん・・」
「あれ、萩原さん。」
「ん?もしかして、同期だったか?・・そうだよな。そういえば、ダメコンビだったよな。」
紺野が、少し青ざめた佳奈子を見て、少し気まずそうな顔になる。
「それより、紺野先生、患者さん連れてくるって言ったじゃないですか。今日は主治医と相談か何か?」
平木が不思議そうに言った。
微妙な沈黙が流れる。佳奈子は、今度こそ本当に逃げようかと真剣に考えたが、紺野の手が佳奈子の肩に回された。
「患者さんの萩原佳奈子さんです。こちらが歯内療法科の平木先生。」
佳奈子は紺野の手からは逃れられないと観念して、頭を下げた。
「よ、よろしくお願いします・・」
「いえいえ、こちらこそ。」
どうしたわけか、平木も慌てて挨拶をした。
佳奈子は、吐きそうなほどにドキドキしてきた。
「そうそう、そういえば、ちょっと前に、救急センターの当直一緒になって、お腹痛いって帰ったでしょ。あのとき、あれ、もしかしてこいつ、歯が痛いんじゃないかなーって、オレ、ちょっと思ったんだよね。歯医者になってから、歯が痛い人って顔つきでわかるようになってきたっていうか・・」
しかし、治療は全くはじまる気配を見せず、挨拶の後、ディスカッションテーブルで、佳奈子が持ってきたカルテを前に、紺野と佳奈子と向き合って座った平木は、かれこれ15分ほど、しゃべりっぱなしであった。こちらにもあれこれ質問を投げて来る。そうだ。彼は人を巻き込むおしゃべりだった。と佳奈子は思い出す。実習のときは、パートナーの彼のおしゃべりのせいで、よく注意されたものだ。
紺野が、佳奈子をちらっと見て、
「ああ、当直って、あのときか。」
と、ふとつぶやいた。
「それにしても紺野先生、ずいぶん熱心に治療してるね・・個人休日夜間歯科診療所って感じ?」
佳奈子のカルテをめくりながら、平木は言った。
「ホントに、ただのバイト先の同僚・・?」
平木は嬉しそうに二人の顔を見比べる。
佳奈子はうつむいた。紺野先生はなんて答えるんだろう。さっき廊下で感じたのとは別のドキドキが佳奈子の胸を支配した。
「おいおい、ただの同僚だとしたら、俺はどんだけお人好しなんだよ」
こういう軽い調子の紺野はあまり見たことがなかったので、ちょっと新鮮で嬉しい。
・・ん?というか、それはどういうこと?ただの同僚じゃないぞってこと?
佳奈子は思わず考え込んでしまった。
「まったくもう、わかりにくいんだよ。もっとはっきりしてあげないと、彼女が悩んでるじゃん。」
突然、平木に指差されて、佳奈子はびっくりした。
「ん?そう?そんなことないよな?」
さらに紺野に肩を叩かれて、佳奈子は面食らった。
「え?」
「え?って・・」
佳奈子の反応に、なぜか紺野は驚いているようだ。
「ほらね。」
平木はさらに嬉しそうだ。
「この人は、私のことどう思ってるの?って悩んでるよ。そんなだからさあ、」
言い分はなかなか鋭いが、それよりなにより、やけに平木の口調がぞんざいなのが急に気になりだした。
そんなことで怒る紺野ではないと思いながらも、佳奈子は一人でビクビクしたが、次の平木の言葉で、椅子から落ちそうなほど驚いた。
「姉ちゃんに逃げられるんだよ。」
「えええっ」
佳奈子は思わず声を出してしまい、紺野と平木の顔を見比べた。どうやら平木の姉が紺野の結婚相手だったらしい、というところは察しが付いたが、紺野がさすがに怒ったのではないかと気になったのだ。
「あれ?オレ、マズイ事言った?知ってた・・よね?」
平木は平木で、紺野と佳奈子の顔を見比べる。
「まあ、同期のやつと結婚してたことがあるって話は、した・・・よな?」
紺野に見つめられ、相手が同級生という話はたしか言わなかったはずだが、佳奈子は、こくこくこく、と頷いた。
「ん、よし・・よかった。けど、別に逃げられたんじゃないから。オトナの事情ってやつだ。ま、この間は会いたくないって言われたけどな、ははは」
紺野は平木に向き直って、笑いながら抗議した。
「だろ?会いたくないって言われるなんてよっぽどだよ。まあ、何はともあれ、オレは、嫁に逃げられた元義理の兄が新しく彼女を見つけてくれてホッとした。」
「だからそれは違うって言ってるのに。」
佳奈子は、紺野が怒っていないことにホッとすると、急にくたびれてしまった。紺野が、どこを違うと言っているのか、嫁に逃げられたところなのか、新しい彼女のところなのか、もうどうでもよくなってきた。
思わず、はぁっ、と大きくため息をつく。
「ああ、そんなことより、患者さん患者さん。」
紺野が、思い出したように佳奈子の背中を叩いた。
「そうだったそうだった」
平木も、カルテの下の封筒から、レントゲンを取り出して、テーブルの横のシャーカステンにセットすると、蛍光灯のスイッチを入れた。
「ふーん・・卒業してから、ずいぶん治したね」
真剣な顔になって、平木はまずパントモを眺めた。学生時代はしょっちゅう、お互いの口の中を覗き合っていたのだ。覚えていても不思議はない。平木はたしか、小さいものではあったが、すべての大臼歯にインレーが入っていた気がする。歯が丈夫なのか弱いのかよくわからないという印象だった。ふと佳奈子は、平木の前歯にメタルボンドが数本入っていることに気付いた。学生時代には無かったはずだ。今年に入って、何度かこの間のような救急センターの当直で会っていたのだが、こんなに間近で話すことも無かったので気付かなかったのだろう。
「大きい治療はほとんど、この夏休みかな」
主治医の紺野がコメントする。
「で、問題はコレか・・」
平木がデンタルを手に取った。時系列に並べたりして、詳細に見ている。
真剣になるときは静かなんだわ、と思ったのも束の間、
「これ、紺野先生が撮ったの?器械は何?へえ、上手いよね、パントモも、端までクリアだし、根も綺麗に分かれてるし、・・・」
また話が反れそうになり、紺野にたしなめられる。
「そんなことはどうでもいいから。」
「へいへい。そうだな、じゃ、そろそろ診せてもらおうかな。」
3人は、隣の診察室に移動した。佳奈子の職場よりもそっけない診察室・・・佳奈子はごくり、と唾を飲み込もうとしたが、口の中が乾いていることに気が付いた。また、ドキドキしてきた・・・
「じゃ、そこ座って」
佳奈子は、靴を脱いで治療台に上がった。
「倒すよ」
患者である佳奈子は歯医者だから、特に歯の治療は不安でもないと思っているのだろうか。それとも、大学病院ではこんなものなのだろうか。平木の態度はひどくそっけなかった。佳奈子の頭の中では、治療が痛かったら、もう抜くしかないと言われたらどうしよう、平木にこんな口腔内を見せるのは嫌だ、歯医者の癖にって思われるに違いない、など、いろいろな考えがグルグルと回っていて、逃げ出そうという気持ちを抑えるのに必死だというのに。しかし、治療台は倒れてしまい、佳奈子は、すがるような目で紺野を見上げた。大丈夫、というように紺野が頷いてくれたので、佳奈子は少し安心して、小さく深呼吸をしてみた。両手をお腹の上で組み合わせる。
「じゃ、あー」
ライトをカン、と点灯して、平木がミラーを手に、佳奈子に開口を迫った。
目を閉じて、佳奈子はゆっくりと口を開けた。
「もう少し大きく・・」
佳奈子は言われたとおり、少し顎を突き出すようにしてさらに口を大きく開けた。
平木の目に、ギラギラと光る佳奈子の上顎が映った。
・・うーん、思ったよりひどいもんだな。本数としてはこっちの方が少ないんだけどな。
1ヶ月ほど前に見た、姉の口の中を思い出す。日本に帰って来てるんだけど、前歯の差し歯が取れたからなんとかして欲しい、と言ってきたのだった。紺野に会いたくない、と言ったのはおそらくそのせいだ。同じようにこの治療台で口を開けた彼女の口の中は、平木の予想とは違って、真っ白く輝いていた。姉は高校生までに臼歯はほとんど全部虫歯になり、インレーがギラギラと賑やかで、その後かなりクラウンに変化していたはずだったのだが。アメリカで全て白くやり直したらしい。差し歯の裏さえ、かなりの部分が白い、フルベイクに近いものだった。綺麗だが、装着した感じでは、コアとあまりしっくりなじまない気がしたのが気になった・・・
「んぁ」
佳奈子が苦しそうに喉の奥から声を出した。
平木は我に返り、トレイからピンセットを取り上げると、佳奈子の左上6番の仮封を外した。タラ・・・と血の混じった膿が流れ出てきて、平木はあわてて、ガーゼと綿をピンセットでつまみ、周囲に押し込んだ。
「ん・・」
首を伸ばしてカルテを確認する。
「2ヶ月くらい治療した・・んだよな?」
「ん、ちょうど2ヶ月かな」
佳奈子の代わりに、紺野が答えた。
「うーん・・・2ヶ月ねぇ」
平木の声に、佳奈子が口を開けたままおそるおそる目を開け、平木の表情を確かめようとする。
「痛みは?無い?」
佳奈子の視線に気付いた平木が尋ね、佳奈子は小さく首を振った。
「とりあえず、ちょっとCT撮ってみるか」
一度押し込んだガーゼや綿を捨て、新しくロールガーゼを折って6番に当てると、
「噛んでて」
と言って、平木は治療台を起こした。
再び、3人は連れ立って、隣の撮影室に行った。
「ほぅー」
紺野が感心したような声を上げる。
「あんた別にCTなんて珍しくも無いだろ・・・」
たしかに。紺野の職場はこの病院なのだから。
「いや、この1年はあんまり臨床に出てないし。そもそも、小児では自前でCT持ってないしね。」
「そっか。じゃ、萩原さんはここ座って。」
そう言って、平木はさっさと部屋を出て行った。
「普通のパノラマと変わらないから怖くないよ。10秒くらいで終わるから。」
紺野が平木の後を追って出て行きながら、振り向いて付け加える。佳奈子が少しビクビクしている様子を感じたのだろう。
佳奈子は、椅子に座って待った。CTは、このあいだ勤務先に営業が来て、あれこれ宣伝していったので、医者のCTとは違うと知ってはいたが、自分が撮られるのは初めてだ。ま、モニター体験みたいなものかしら、と思っている間に、顔の周りをぐるーっと装置が回転して止まった。思ったよりあっけなく、たしかにパノラマと変わらない。
すぐに扉が開き、そこから紺野が手招きした。
「怖くなかっただろ?」
「ん、大丈夫・・」
佳奈子は、紺野がいろいろと優しくしてくれるし、秘密?も少し知ることができたし、来てよかった、と、少し浮かれた気分になってきていた。平木の待つパソコンの前に行くまでは・・・
「綺麗に撮れたか?」
さっきの部屋に戻り、ディスカッションテーブルの隣のパソコンの前に座る平木に紺野が声を掛けた。
「あ、ああ。」
平木は少し慌てた様子で二人に椅子を勧め、二人は画面に目を向けた。
画面は4つに分かれ、全体、前から、横から、上から、の写真が見られるようになっている。
「ここが問題の、左上6番なんだけど・・」
マウスのポインタで平木が示してみせる。
「上から見ていくと・・」
画面上の線をなぞると、歯を上からどんどん輪切りにして、断面を見ているような映像が次々映し出される。
「あ・・」
「うーん・・」
佳奈子と紺野がほぼ同時に声を上げた。
映し出された6番の根の先は、ぽっかりと黒く抜けていた。大きな根尖病巣があって、骨が無くなっているのだ・・・
「思ったより大きかったな・・これはちょっと」
平木が言った。デンタルにも根尖病巣は写っていたのだが、CTで撮ってみるとそれは思っていたよりはるかに大きかった。
これはちょっと・・何?無理?抜くしかないの?
さっきの少し浮かれた気分は消し飛び、佳奈子は再び、自分の心臓の音が胃に響くような、重苦しい気分になって、次の言葉を待った。
「これはちょっと・・気合入れてかからないとな。100%治るとは言えない、って先に言っておくよ。ま、頑張ってみますか」
佳奈子は平木に懇願するような、問い詰めるような、必死の目を向ける。
「まあ、ちょっと荒いこともするかもよ、根尖端切除とか。」
それは・・怖い。佳奈子は一瞬顔を強張らせたが、そのとき、横の紺野が言った。
「よろしく・・お願いします」
佳奈子もあわてて頭を下げた。
「いや、そんな堅苦しい挨拶はいらんけど・・とりあえず今日は薬入れて埋めよう。週に1回くらいのペースで様子見て。」
平木はそう言うと、さっさと立って再び診察室へ向かった。
その後、佳奈子は週に1回のペースで平木のところに治療に通った。紺野は治療後には必ず迎えに来てくれ、治療が始まる前にも「うちの怖がりの患者さんが逃げずにきちんと治療に行くように」待ち合わせしてくれることも多かったが、治療に付き添ってはくれなかった。
「治療してるところを他の歯医者に見られたら緊張するだろ?」
という言い分は納得できたが、治療は佳奈子が思っていた以上に辛く・・紺野が居たからと言って辛さが減るわけではないが・・平木は特に叱ったりすることもないが、優しい気遣いの言葉を掛けてくれることもなく、毎回、心細い思いをしていたのだった。
最初の治療は、根管の形成状態を顕微鏡で確かめる、というもので、いつもよりも頭の方を下げられた姿勢で、いつもより大きく口を開けさせられ、ひどく苦しかったが、大丈夫?とも聞いてもらえず、そのままの状態で30分ほど診察された。しかも、衛生士がまた怖かった。街の歯科医院に居る衛生士はたいてい、若いと相場が決まっているが、大学病院にはベテランの衛生士というのが居るのである。怖いだけでなく、少し黄色味がかった、いかにも丈夫そうな歯をしたその衛生士は、歯科医である佳奈子の歯を見て、明らかに軽蔑したような目を向けてきたのである。被害妄想ではない証拠に、彼女はその日の診察後、
「最近の先生達は、皆さんお二人のように虫歯が多いんですか?」
と平木と佳奈子に言い放って帰って行き、二人で思わず、スイマセン、自分たちは多いほうだと思います、と小声で謝ってしまった。
「そういえば、平木くんもそこそこ虫歯多かったよね」
「ま、本数だけなら俺の方が勝ってる自信がある。」
「ホントに?」
「ああ。前歯以外は生活歯ではあるけどな。」
「ナニソレ、自慢?」
まあ、なるもんは仕方ねえよ、と平木は口の中でぶつぶつ文句を言いながら片付けを始め、佳奈子もなんとなく手伝っているうちに、紺野が迎えに来た。
「どうだった?」
「おばちゃんが怖かった・・」
と佳奈子が訴え、後ろから平木がその台詞に笑いながら、
「ま、根管は思ったより綺麗だった。ただ、すごい細い枝が出てるの見つけたよ。あそこ突けば、もしかしたら良くなるかも。・・あるいは関係ないかも。」
と答えた。
「ま、それで良くなったら、来てよかったってことだな。」
紺野は言って、佳奈子に帰ろう、と促した。
その次からしばらく、その細い枝、の抜髄と根管形成が続いた。久しぶりの抜髄に、佳奈子は声を上げて痛がった。
「ぁ・・ぁああ・・・はっ、はぁああ・・」
「ん・・動くなよ」
顕微鏡を覗きながら、平木はコリコリ、と細いリーマで作業を続ける。
「んぁ・・は・・ぃはぁあああ・・・」
「動いたら折れるからな、動くなって」
前回とは違うが、やはり怖そうな衛生士に押さえつけられていた佳奈子は、声を出しても動かないようにと頑張っていたものの、びくっ、としばしば動いてしまっていたようだ。
「危ないですよ、ホントに・・」
治療後、起こされた治療台の上で涙を拭っていた佳奈子に、衛生士が文句を言い、スミマセン、と、今回は佳奈子が一人で謝った。
ある日の治療後、佳奈子は思い切って、平木に気になっていたことを聞いてみた。
「ねえ・・お姉さんって、どんな人?」
「どんな、とは?」
「そう言われると困るわ・・」
「それじゃ答えようがねえよ」
「そうよね・・歯は綺麗なのかな・・私みたいにぼろぼろじゃなくて」
「・・いきなりそこかよ。そんなこと気になるか?」
「なる。」
「そんなもんかねえ。ま、どうだったら安心なのか知らんけど、萩原さんの歯がぼろぼろなら、姉貴のは・・ずたぼろくらいだな。」
「・・そう・・なの?」
「とりあえず、大学に入るときにもう、上の歯に健全歯は無かったからな。それほど重症ってわけではなかったけど。」
前の奥さんの歯は悪かったと聞いて少し安心した佳奈子は、紺野が彼女も治療したのかと思うと、軽く嫉妬に似た感情をおぼえた。
「紺野先生が・・治したのかな」
「は?そんなことも気になるか?実際のところ、ほとんど何もしてないんじゃないかなあ、俺たちほら、実家住まいだから、大人になっても子供の頃から診てもらってる近所の歯医者に通ってたし・・付き合いだしてすぐ結婚して、1年ほどで姉貴はアメリカ行っちゃって戻ってこないから。」
「ふーん・・」
佳奈子はもう10年以上、半年に1度は紺野と会っているのだが、結婚した気配も、離婚した気配も気付かなかった。
「そんなことより、いつから付き合ってんの」
平木に突然聞かれ、佳奈子は動揺した。
「え?そ、そんなんじゃ・・ないような気もしてる・・なんていうか・・今回、私の歯の治療がややこしくて続いてるだけのような・・歯がなんともなかったら、何もない気がするのよね」
「へえ。そう言っちゃ、ちょっとあいつが可哀想な気がするけど。で?」
平木は意外と面白そうな顔をした。
「最初にこの前歯治してもらってから・・大学1年のときね・・それからずっと半年に1回診てもらってるんだけど、それだけだったし。ここ3年くらいは夏休み、うちの医院に手伝いに来てくれるようになったからよく会ってはいたけれど。あんなに近くに住んでたことも、奥さんがいたことも、今年の夏、知ったばっかりだし。」
「・・ふーん。今は?まさか、ここに来る日しか会わないってこともないんだろ?」
「・・・かなり近いものがあるわ」
夏休み中、かなり仲良くなったと思っていたのだが、その後は、週末に数回食事に行っただけだ。それ以外には、治療の前日に、翌日の待ち合わせを決める電話がかかってくるくらい。
「あいつめ・・」
平木がちょっとニヤっと笑った。
さて、その細い枝、の治療後、たしかに一度良くなりかけたように見えたが、その後、今度は歯茎に腫れが出てきたりして、悪化したり良くなったりを繰り返していた。佳奈子にとって少し嬉しかったのは、平木があの後、紺野に何か言ったのか、急に紺野からの夕食の誘いが増えたことである。もっともどこか良いところに連れて行ってくれるわけではなく、たいていは紺野の家で、食後に歯磨き付き、ときどき泊まり付きである。
大学病院に通い始めて2ヶ月半ほど経ったとき、平木は治療後、佳奈子をまたディスカッションテーブルに呼び、迎えに来た紺野を待って、説明を始めた。
「2ヶ月ちょっとやってみて・・思っていたよりずっとしつこいね。細い根管もいじってみたし、抗生物質も入れてみたし。とりあえず、思いつくことは全部やったと思う。」
佳奈子はまた、気分が悪くなりそうなほどに緊張していた。
・・ついに来た?抜歯の宣告?
膝の上に置いた手をぎゅうっと握り締める。ツインニットの上を脱いで半袖になっていた佳奈子の肘の上のあたりに軽く筋が浮き出て、それを横目で見た紺野が、机の上で組んでいた両手をほどき、左手で佳奈子の腿の横を軽く、大丈夫だよ、というように叩いてくれた。
「で、思い切って手術してみたいと思うんだけれど、どうかな」
と、平木が佳奈子に向かって身を乗り出した。佳奈子は何も言えず、体を強張らせて口をつぐんだ。
「怖いかな・・紺野先生はどう思う?」
平木は今度は紺野に顔を向ける。
「ん・・手術して、見込みはどれくらいと踏んでる?」
紺野が聞き返す。
「そうだな・・正直に言うと、40%ってとこかな」
「治る方が?」
「そうだね」
佳奈子は息を呑んだ。なんとなく、手術は怖いけれど、すれば治るものなのかと思っていたのだ。手術をしても治る見込みは半分にも満たない・・
「しなかったら?」
平木はすぐには答えず、紺野の目をじっ、と見つめたまま少し首をかしげて見せ、
「まあ、厳しいかな・・・」
と小さな声で言った。
「そうか・・で、手術はまあ最後の手段だと。」
「そういうことになるかな」
「ん・・」
紺野は答えたあと、佳奈子のほうを向いて聞いた。
「で、どうする?手術したら治るかもしれない。ただし確率は40%。しなかったらまあ、治る可能性はほぼゼロ、らしい。」
佳奈子はうつむいた。
「するって言うならもちろん、なんでも協力するよ。付き添いでも拘束でも。」
どうしよう・・昔、口腔外科の授業で見たビデオは、ゴリゴリ、ガリガリ、という怖い印象しかない。
「む・・難しい?」
平木におそるおそる聞いた。
「いや、簡単だよ、ぺろーん、って歯茎のところを開けて、骨開けて、膿の袋取って、根に問題がありそうなら・・たとえば先が石灰化してるとかな・・それを直して、また閉じて終わり。日帰りレベルだよ。翌日から働けるぜ。」
日帰りレベルと言われても、内容はひどく恐ろしそうである。佳奈子は紺野を見上げた。
「こっち見られても。決めるのは佳奈子ちゃんだからね。」
その言葉を聞いて悲しそうな顔になった佳奈子を見て、紺野はあわてて付け足した。平木は紺野の足を蹴ろうとしたが、やめた。
「俺は、したら良いんじゃないかって思うけど。でも君は怖がりだから。怖い思いをしても40%に掛けようと思えるかどうか、そこは自分で決めた方がいいよ。」
最初の言葉に突き放されたような気がした佳奈子だったが、紺野の気遣いなのだと気付く。でもやっぱり怖い・・・ど、どうしよう・・
「ああ、今日決めなくても、いいぞ。来週までに考えてくれれば。」
平木が言い、佳奈子はなぜか、そこで急に
「いいです、今日決めるから。手術、します。よろしくお願いします。」
と頭を下げた。口に出してしまえば、決断できるような気がしたのだ。しかし、言った直後から、佳奈子はすでに後悔し始めていた・・
そして、翌日から働けるとは言ったものの、手術の日は、翌日が祝日の、翌週の水曜日・・・6日後・・・に決まった。
その日の夜、紺野の家の台所で並んで夕飯を作りながらも、食事をしながらも、ずっと佳奈子は上の空だった。
「佳奈子ちゃん?・・萩原先生?・・萩原!」
紺野があれこれ呼びかけてみる。少し声を大きくすると、ようやく佳奈子はびくっ、と反応した。
「・・あっ、すいません、ボーっとしてて・・」
「うん、それは見たらわかるよ」
笑いを含んだ声で言った後、紺野は急に真面目な表情になって言った。
「手術・・大丈夫か?しますって言ったの、後悔してるんじゃない?」
図星だった。よっぽど、後悔してます、止めます、と言おうかと思った。しかし、紺野に「したら」と言われたからではなく、自分でも、したいと思ったからそう言ったのだ。と、あれからずっと思い込もうとしていた。
「・・・大丈夫です。」
佳奈子の答えにも、紺野は不審そうな顔だ。
「本当に?やっぱり怖いって言うんだったら・・・」
「大丈夫だって、言ってるじゃないですか!」
佳奈子は立ち上がった。少し息が荒い。
「ああ、ごめん。」
「今日は、失礼します・・片付けもせずにすみません。」
そのままバッグと上着を取ると、玄関に向かった。これ以上居ると、手術、止めたいです、と言ってしまいそうで。
「ちょっと、佳奈子・・」
自分でも、呼び捨てにしたことに少しびっくりして、紺野は一瞬追いかける足を止めた。
玄関のドアが閉まる間際、佳奈子の背中に
「ちゃんと、歯磨いて・・・」
と言ってしまい、ドアが閉まった後で紺野は可笑しくて笑ってしまった。
「・・今の台詞はないよな。」
1ヵ月半ほど前、平木に言われた言葉がよみがえる。
「あんた、立場をはっきりしなよ。歯医者なのかオトコなのか。しばらくの間、歯医者は引き受けてやるからさ、そっちは気にせずに、オトコ紺野淳として、面倒みてやれよ」
「オトコねえ。もう10年も歯医者だったからなあ。・・しかし、お前はなんでそんなに偉そうなんだ?もう俺はお前の義理の兄でもなんでもないんだぞ、先輩だぞ先輩。」
「そういえばそうだねえ・・」
まあともかく、平木に言われて、このところ、紺野は少し頑張ってみたのだが・・
「歯磨いて、ってなあ・・」
ついつい、癖が出てしまったというところだ。
翌日の金曜日。
佳奈子の勤務先では、月に2回、木曜日の午後が休診になっている。昨日の午後がちょうどその休診だった・・ということは、翌日はひどく忙しくなるということで、朝から待合室に人が途切れず、夜は予定の診察終了時間の8時を超えてから最後の患者の診察を始めるという有様であった。
紺野は紺野で、学生の実習レポートの採点を、臨床に出ていない分働いてね、とばかりに一学年分すべて押し付けられ、採点が一段落して気が付くと8時半を回っていた。
・・おっと。
仕事が終わる頃迎えに行って、様子を見ようと思っていたのに。あれはどう見ても「大丈夫」じゃない。
慌てて、佳奈子に電話を掛ける。
「もしもし、佳奈・・」
「・・ただいま電話に出ることが・・」
・・ん?診察時間は終わってるはずだけどな。無視か?
まあそれなら仕方ないか、と、紺野は一人、家に帰った。
が、食べるのは自分だけかと思うと、一人分の食事の準備をするのも面倒である。
ほんの半月前までは、普通に毎日やっていたことなのに。
驚いたことに、男の独り暮らしなのに、紺野の家にはインスタント食品が無いのであった。特にグルメを気取るつもりもなく、単にスーパーでその棚の近くを通らないので意識に上らない、というだけの話である。
・・うーん、何か途中で食べてくれば良かった。
食べるものが無いと思うとお腹が空いてくる。冷凍庫にアイスクリームなら入っているが、塩味のものが食べたい。出かけるのも面倒だ。
何かあるだろう、と台所を探していると、流動食のサンプルを見つけた。
・・・あ、不味いんだよなこれ・・
夏休み、初めて佳奈子を家に泊めた日、というのか、別れた妻、理沙子がこの家から荷物を引き上げていった日・・まあ、とにかくあの日、治療中に倒れた佳奈子に持たせたが、結局この家で食事を食べさせたので要らなくなった流動食だ。
実はあの日・・休日なのに治療させられるし、治療中に倒れられるし、夜中に起こされるし、器具もないのに応急処置をする羽目になるし、佳奈子に振り回されたような日だったが、紺野はそれで救われたような気がしていた。理沙子とよりを戻したいという気は全くなかったのに、それでも、彼女の気配が完全に消えた家に戻った紺野は、鼻の奥がツンと痛いことに気付いて、自分でも驚いたのだった。直後、「若い女の子からtelあり」というメモを見つけて佳奈子に電話をかけ、
「もしもし?」
という佳奈子の不審そうな声・・普通「若い女の子」は電話に出るとき、もう少し気取った声を出すと思うのだが、佳奈子はいつも不審そうな、何か私に用ですか?という声を出すのだ・・その声を聞いたときの、安心感と不快感が入り混じった気持ちを紺野は急に思い出した。一人きりの家に帰りたくなくて、車の中で、佳奈子が痛み出したら不安だというのを口実に、家に呼んだことも。
あの声を聞こう。
ふと思って、紺野はダイニングに戻って、テーブルの上に置いた携帯に手を伸ばした。
プルルルル・・プルルルル・・・
5回ほどの呼び出し音の後、
「もしもし?」
という期待通りの不審そうな声が聞こえ、紺野は軽く吹き出した。
「ちょっと、なんですか、いきなり。」
電話の向こうで佳奈子は抗議したが、怒っているようではない。
「いや・・まあ今はいいや。ところで、今どこ?」
もうしばらく、この声で楽しませてもらおう、と紺野は思い、話題を変えた。
「家ですけど・・」
「食事は?」
「これからです・・今ちょうど作ってるところで。」
「じゃ、俺にもなんか食わせて。」
「・・え?」
「お腹空いた。」
「は?」
佳奈子は、いつもと違う紺野に面食らった。
「いいですけど・・ホント、適当に冷蔵庫の中のもの炒めた、みたいなのですよ?」
「いいよ、何でもいい。助かった。じゃ、すぐ行くから。」
「あ・・」
佳奈子は、プー、プー、と言っている電話を見つめながら、しばらく混乱していた。
・・何だったの?今のは。しかも、助かった、って。紺野先生、自分で料理できるじゃない。
が、いつも頼っている相手に頼られるというのも、悪い気はしなかった。佳奈子は、そそくさと台所に戻ると、週末にたくさん炊いて、1回分ずつ小分けして冷凍庫にしまってあるご飯をさらに2つ取り出し、野菜炒めだけにするはずだったおかずをもう一つ増やして、お味噌汁でも作ろうかな、それとも・・と、忙しく働き始めたのだった。
一方の紺野は、車の中で、妙に楽な気分になっていた。平木に言われて、このところちょっと頑張りすぎた。
「オトコとして面倒見てやれよって・・偉そうに言いやがって、あいつもまだまだ分かってないな。それなら、オトコとして面倒見てもらうってのも、ありだろ、うん。」
一人で頷いてから、メニューは何だろう、と想像した。
・・しかし、食事を食べさせてもらうのに、わざわざ出かけないといけないってのは、ちょっと面倒だよな、いっそ・・って、ちょっと先走りすぎか・・・
ちらりと頭を横切った考えに自分でも戸惑いながら、紺野は佳奈子のマンションの来客用駐車場に車を停めると、階段を1段抜かしで上がっていった。
ピンポーン、とドアホンを押し、
「はーい」
と出てきた佳奈子のエプロン姿に、「ただいま」と言いそうになり、紺野は少し動揺した。
「れ、冷蔵庫が空っぽで」
思わず、とっさに嘘をつく。嘘をつく理由も何もないというのに。
「えー?昨日いろいろ入ってたじゃないですか、何言ってるんですか」
先を歩いて台所に入っていく佳奈子が、おかしそうに言った。
そういえば、昨日は一緒に食事を作ったんだった。
「作るのが面倒だっただけでしょう、ホントのこと言わないと、食べさせません。」
佳奈子が振り向いて笑う。
そうです面倒だったんです、と言うのも癪だが、佳奈子ちゃんの手料理が食べたかったんだよ、というキャラでもない。
困った紺野は、佳奈子の顔が近くにあるのをいいことに、佳奈子の唇をふさぐことにした。
ん・・
口の中の状態を知っているせいか、佳奈子の口の中はやや金属の味がするような気がする。もちろん溶け出すような金属が使われるはずはないので、気のせいなのだろうが。
「で、メニューは何だって?」
「いただきます」
食卓には、肉団子、野菜いため、ポテトサラダにご飯とお味噌汁が並んだ。
「ビール、飲みます?」
佳奈子が聞く。
「俺が車で来たって知ってて聞いてるなら、飲むよ」
「ま、歩いて帰れなくもない距離ですよね。」
「・・え?」
「そんな困った顔しなくても・・」
オトコとして面倒みてもらう、という立場になるのもそれなりに辛いものがあるようだ。
しかし、この様子なら、佳奈子は大丈夫そうだ。まあ、あとできちんと話してみる必要はありそうだけれど・・・
「・・んっ」
食事の途中、突然佳奈子が顔をしかめた。
「ん?」
「うーん、良くないですね、挽き肉って。口の中で散らばるから。左で噛まないようにしてるんですけど、迷い込んじゃう」
「あー、そんなこともあるか。」
片側が使えないという状況になったことのない紺野には、ピンと来ず、適当に聞き流してしまった。
「うーん、旨いね。人に作ってもらうとさらに。」
「ああ、ありがとうございます・・」
佳奈子の食べるペースが少し落ちたことも、口の中で舌をもぞもぞ動かしていることにも気付かず、紺野はあれこれあれこれ箸を伸ばしていた。
食事のお礼に後片付けを済ませ、紺野は、ソファに座ってお茶を飲んでいる佳奈子の左に腰を下ろした。
「ごちそうさま。」
「いえいえ、お粗末様でした。さ、歯、磨かないと。先生に怒られちゃう。」
お茶を飲み干した佳奈子は笑った。やはり、昨晩の最後の言葉は聞かれていたらしい。紺野は苦笑いしながら言い訳した。
「いや、自分でもあれはびっくりした。自分のプロ根性に。」
「プロ根性っていうか・・私、コントみたいに階段から落ちそうになりましたよ。でもおかげで、気は楽になりました。」
「そう?たしかに、昨日より元気そうだけど。」
「まだ怖いことは怖いんですけど・・昨日は、手術しても抜歯だったら怖い思いする意味ない、だったらそのまま抜いてもらえばいい、ってずっと思ってたんです。でも、」
「でも?」
「でも、このまま抜歯してもらったら、『手術していたら歯は残せたかもしれないのに』って後悔するかもしれない。その方が後で辛いかもって。」
なるほど。しかし、歯を残せるかも、というところにすがっていると、それもまた後で辛い。一応、確かめておきたかった。
「意地悪で言うんじゃないけど、手術しても歯は残せないかもしれないんだよ?」
「それはわかってます。手術は、本当にダメかどうか診るためにするんだ、って。私も歯医者だから、抜くしかない歯があるってことは知っているし・・」
わかってる、と言いつつ、さっきまでよりも暗い顔になって、佳奈子はうつむいて小さくため息をつきながら言った。
「でもちょっと怖い・・先生、付いてきてくれるんですよね。」
「ん、今度は治療にも付き合うよ」
紺野は頷いた。
すると佳奈子は、意外なほどの切り替えぶりで、パッと顔を上げた。
「じゃ、決まり。歯、磨いてきます!」
「今日は自分でできるの?」
「・・今日はって。普段は自分でやってますっ。」
佳奈子はけっこう簡単に怒るので楽しい。紺野は、笑いながら佳奈子の肩を抱き寄せた。
「じゃ、俺はまだこれから飲むつもりだから、佳奈子が歯を磨く前に・・」
紺野の「歯を磨いた後で歯を磨いてない人とキスしたらもう一回歯磨きしないといけない理論」である。
・・一応、筋は通ってるんだけどね・・キスするときに、歯を磨いたかどうか考えるなんて、この人、普通の人とは付き合えないんじゃ??
佳奈子は余計な心配をしながら目を閉じた。
・・そういえば、佳奈子って呼ばれた?
嬉しさに浸っていると、
「・・ん?」
紺野が声を出して、二人は離れた。紺野は、さっき感じた気がする金属の味だけでなく・・何か別の味を感じた。薬臭いような。
「ちょっと見せて。あーん・・」
佳奈子は口を開けさせられ、明るい方に口を向けられたうえ、唇をぐいっと引っ張られた。
「んー・・」
紺野の難しい声に、少し不安になる。
「あ、あんれふか・・」
「いや、仮封がちょっと、ゆがんでるなと思って。痛くない?」
佳奈子の口から手を離して、紺野が言った。
「う・・やっぱり。痛くはないです。でも、さっき、食事中に、ちょっとここで噛んじゃったかなっていう気はしたんですよね・・。」
少し気になって、佳奈子は左頬を指先でさすった。
「ま、痛くないならいいけど。仮封は取れても別にいいんだから。ま、歯磨きは優しく・・俺がやろうか?やっぱり。」
「じゃ、じゃあお願いします」
結局、佳奈子は、その日も紺野に歯を磨いてもらうことになったのであった。
「普通さあ、逆らしいのにね、歯科業界の女と付き合うと、歯磨いてもらえるってねー」
と言われながら。
「それ、もう何度も聞きました。」
と抗議しながら、佳奈子は反撃を思いついた。
「あ、そうだ、奥さんには磨いてもらってたんですか?」
しかし紺野は悪びれもせず、
「ん?ああ。そうだね、毎日じゃないけどね。」
と、しれっと答えた。佳奈子はむすっと膨れると、
「自分は磨いてもらうの好きじゃないって言ってたじゃないですか・・。」
と言いながら立ち上がった。
「いや、好きじゃないのはホントだから。でも、最初に言わないと、後から実は好きじゃありませんって言い出しにくいんだよ。」
「へえ、夫婦ってもっと、なんでも言い合うのかと思ってました。そういうもんですか・・」
佳奈子は不思議そうに言った。
「まあ、そんなことも言い合えないから別れたと思ってるかもしれないけど、それは誤解だね。案外、そういうもんだよ。」
紺野はそう言い残すと、ビールを取りに台所へと入っていった。
佳奈子が洗面所で口を濯いで出てくると、玄関に置いた携帯が鳴っているのに気付いた。同期の由美子からだ。
「もしもし?」
「おー、佳奈子。相変わらず冷たい声だすねー。今、どこ?」
「家だけど・・」
「金曜日なのに、寂しいねぇ。あ、ところで、佳奈子そろそろ誕生日でしょ?」
「ん、そうね。」
「20代お別れ飲みしようよ。明日とか、明後日とか。ん?明後日じゃ30なっちゃうんだっけ?」
そうだ、日曜日は誕生日だった。しかし、この歯のことが落ち着くまではあまりそういう気分にもなれそうにない・・・
「ん・・でもここんとこ、ちょっとバタバタしてて・・できればもうちょっと後の方が・・・」
と、台所の方から、「佳奈子・・」と呼ぶ声がした。
「あれ?誰か居る?」
その声はさほど大きくなかったはずだが、地獄耳と呼ばれた由美子は聞き逃さなかったらしい。
「え?な、なんで?」
佳奈子は動揺した。昔・・大学に入った頃は、佳奈子の恋心を由美子は面白半分で応援してくれたのだが、その後、2,3人は付き合った相手がいたものの、別れるたびに「んー、でもやっぱり私は・・」と言う佳奈子に、由美子は呆れていたからである。
そのままとぼけようとしたとき、
「萩原!」
と、さっきよりも大きな声がした。返事が無いと呼び方を変えて来るのだ。
佳奈子は観念して、「ちょ、ちょっとごめんね」と由美子に言った後、携帯を肩に当てて塞ぎ、
「電話中ですっ!」
と声を張り上げた。
電話に戻ると、由美子は案の定、興奮していた。
「ちょ、ちょっと、今の、コンちゃんじゃないの?」
由美子は勝手に紺野をコンちゃんと呼んでいた。
「そ、そうだけど・・」
「んー、ついにコンちゃんが金曜日に家に泊まりに来るような仲になったか・・どうやって落としたか知らないが、あたしゃ感慨深いわ」
「あ、そんな落としたとかじゃなくて・・」
歯を治してくれてて・・と言いかけて、佳奈子は口をつぐんだ。こんなに歯が悪くなっていることは、歯科医の友人にはあまり知られたくない。
「またまた。ま、とにかく、飲みに行こうって。明日もコンちゃんお泊まり?っていうか、コンちゃんも知らない仲じゃないんだからさ、一緒に来たらいいじゃん。」
ガチャ、とドアが開く音に振り向くと、紺野がリビングから顔を出し、拝むように右手を上げて、「ごめん」と口を動かしている。佳奈子は紺野に首を振って見せ、
「んー、でも、しばらくはちょっと。20代お別れじゃなくって、30おめでとうでいいから、また今度ね。じゃ。ありがとねー。」
と、さらに何か言いたげな由美子を無視して、電話を切った。
「・・で、何で呼んでたの?」
自分もリビングに戻り、佳奈子は紺野に聞いた。
「いや、ビール、この間の日曜に1ケース買わなかった?って思って。」
そ、そんなことですか、と佳奈子は脱力した。
「それ、紺野先生の家に買ったんでしょ、うちにじゃなくて。」
時に、紺野は意外なほどのボケっぷりを見せる。昔はとてもそんな風には見えなかったのに。
「あー。そうか。見つからないと思った。ところで、さっきの電話聞いちゃったけど、佳奈子、30になるの?」
「はい・・」
「いつ?」
「あ、明後日です・・」
「なんだ、もっと早く言えよ」
「へ?」
「ふーん・・明後日ねえ・・」
紺野は一人で考え込んでいる。
佳奈子は実はちょっと期待していたのだ。ここ1、2ヶ月の様子から行くと、紺野は佳奈子が思っていたよりも佳奈子に真剣なようだったから。紺野は佳奈子のカルテを見ているから、誕生日も知っているはず。こっそりプレゼントくらいは用意してくれてるかも。そう思っていたのにあっさり期待は裏切られ、佳奈子は少し拍子抜けした。
・・男女の記念日に対する温度差、ってこういうことなのねー。
以前ほどには落ち込まないのは、ちょっとした自信のおかげかもしれない。
翌日、佳奈子は午前中のみだが仕事に出かけ、紺野も、さっさと採点の集計まで終わらせたいと、大学に出かけた。
佳奈子が診察時間終了後、最後まで残って片付けをしていると、院長が声を掛けてきた。
「どうだ、手術の件は。決心はついたか?」
「ええ。まだ怖いんですけど・・紺野先生も付き添ってくれると」
「あ、そう。あいつがねぇ。」
「なんですか?」
「あいつ、血とか苦手だろ」
「ええっ?そうなんですか?私、抜歯苦手なんで、先月、金子さんの抜歯頼んじゃいましたよ・・あ、でも結局抜いてくれなかったんですけど」
「そうだろ?ああ、俺が言ったってナイショだぞ」
佳奈子が首をかしげていると、
「なんでそうやって、本人が居るのを見てるくせにそういう話するんですか」
またしても、紺野の声が後ろから聞こえてきた。
「ちょ、今朝、大学行くって言ってたじゃないですか」
「行ったよ。終わらせてきた。」
「おう、なんだ君たち、ドウセイしてるのか」
院長は嬉しそうだ。
「してませんっ!」と佳奈子が言ったのと、
「してもいいな・・」と紺野が言ったのは同時だった。
えっ!?と佳奈子が紺野を見る。
「・・だって単純に便利そうだろ?」
という紺野の言葉を聞いて佳奈子の目に不信の色が混じったのを見て、紺野は
「いや、冗談だから。」
と笑ってみせる以外になかった。女の子は難しい。
「それはともかく、紺野先生、血とか苦手なんですか?」
佳奈子が心配そうに聞いた。
「何それ。君、抜歯の実習、平木がやったら血が止まらなくなって、誰に助けを求めに行ったか覚えてないの。」
「・・あ。」
佳奈子は口に手を当てると、
「院長・・・」
と、院長を恨めしそうに見た。
「いや、冗談だから。」
院長はさきほどの紺野の台詞をそっくり真似て言い残し、帰って行ってしまった。
「さてと。どうしよう。どうしたい?」
紺野が、手近にあった術者用の椅子に座りながら聞いた。
「はい?何が?」
「いや、誕生日だからどこか旅行に行きたい、とか、今はそういう気分じゃないから家でゆっくりしたい、とかさ。」
「んー・・」
「なんかあるだろ、なかったら・・あんまりいつもとおんなじでもつまらないからさ、車で海の方でも行こう、魚かなんか買って帰ってきて・・家で食べよう」
「あ・・それいいですね。行きましょう」
あっさり佳奈子は喜んだ。
・・ホッ。
実は紺野は、午前中、大学で仕事をさっさと済ませ、平木に助けを求めに行っていたのである。
カルテの生年月日見てなかったなんてアホじゃない?とバカにしつつも、最近の佳奈子への聞き取り調査の結果とやらを、あれこれ教えてくれた。曰く、夜景の見えるホテルとか温泉旅館を予約して旅行に連れて行くのは、普通はウケがいいが、佳奈子は自己満足とか自分勝手な感じがして嫌いらしいのでアウト。しかもあんたに似合わない。ちょっと気合入れて食事に行くのも普段はいいけれど、今は歯が気になって食事を楽しめないらしいのでこれもダメ。遊びに行っても、疲れて歯が腫れてきちゃったりすると嫌だからこれもダメ。
平木の結論は、
「というわけで、特にすることねぇな。プレゼントに歯ブラシと歯磨きしてあげる券でも用意しろ。」
という使えないものだったのだが、佳奈子は魚が好きだと思いついて、海の近くで、土曜日に市場が出るところを調べ、家に帰ってクーラーボックスを取ってきて、研究室から持ってきた保冷材を詰めて、車で迎えに来たのだった。
さて、シーズン外れの海までのドライブは順調に進んだ。市場での買い物では佳奈子が張り切っていた。
「冷凍すればいいわよね・・」
と、あれこれ買い込む佳奈子の背中に、それは俺の家の冷凍庫に冷凍するつもりか?とつぶやいてみる。
「何か言った?」
振り返って聞く佳奈子に、
「言ったよ!可愛い奥さん!こっちのマグロどう?」
と、別の魚屋から声がかかったりして、なかなか楽しい時間であった。
帰り道はところどころ少し渋滞していた。佳奈子は少し疲れたのか、眠そうだ。
「寝ていいよ。その辺に捨てたりしないから。」
と紺野は声をかけたのだが、佳奈子は悪いと思うのか、必死に眠気と戦っている。
「無理するなって」
と言われながら、佳奈子は半分寝ぼけてバッグの中をあさった。
・・あった。
ミントタブレットと、フッ素入りのガム。今にもこっくり、と寝てしまいそうな佳奈子は両方を口の中に放り込んだ。
もぐもぐもぐもぐもぐ・・・
そして・・
「んは!」
佳奈子は、突然目が覚めた。
「あ・・あ・・」
佳奈子のおかしな様子に紺野が助手席の方を見ると、佳奈子が泣きそうな顔をして、口を半開きにしている。
「どうした」
運転中なので、ちらちらと前と横に視線を往復させながら、紺野が聞いた。
「か・・噛んじゃいまひた」
「ん?舌か?血出てる?」
「い、いえ・・ひらりれ・・かんじゃった・・」
「ああ・・え、左?治療中のとこか?」
「はひ・・」
「で、どうなってる、あ、ああ、ちょっと待て、停めるから」
紺野はあわてて、非常駐車帯に車を進めながら聞いた。
「痛い?」
「い・・いえ・・れも、封が取れしゃったみたいれ・・」
「どら、口開けてみろ」
佳奈子はおとなしく紺野に向かって、口を開けた。
左上を覗き込む。
たしかに、表面を覆っていたはずの白い仮封はなくなっていて、歯の内部が見えていたが、根管はきちんと詰まったままに見える。
「中は大丈夫に見えるけどな、仮封は取れてるけど。どこ行ったんだ?ガムにくっついてる?」
口を閉じた佳奈子は、もごもごと口の中を探り、
「そ、そうみたいです」
とばつが悪そうに答えた。
「ガムねぇ・・寝ていいって言ったのに。」
「すみません・・普段なら噛まないんですけど、寝ぼけてて・・」
「じゃ、まあ、帰るか。違和感があったらちゃんと言うんだよ。」
こうして、ハプニングはあったものの、2人は無事に紺野の家にたどり着いた。大量の魚はやはり、紺野の家の冷凍庫に収まることになっていたようだ・・
その夜中、紺野は隣で眠る佳奈子のうめき声で目を覚ました。
「ぅ・・ぅうう・・」
歯が痛むのだろうか。やはり、夕方のアレが・・・
「佳奈子?痛いの?」
紺野は佳奈子の顔を覗き込んだ。
しかし、佳奈子は眉間に皺こそ寄せているものの、眠っているようだ。
・・なんだ、夢でも見てるのかもな。
せっかく寝ているなら起こすのも悪い、と、自分も眠かったせいもあって、紺野は再び眠りに付いた。
しかし翌朝、目を開けた紺野は、
「んっく・・ぅっく・・ん、んっく・・・」
起き上がって頬を押さえ、泣いている佳奈子を見て、一気に目が覚めた。
「どうした。」
「んっく、痛くて・・・」
「ちょっと見せて。」
左上の6番の部分の歯茎は、歯列の内側までも赤黒く腫れ上がっていた。前後のギラギラした金属とのコントラストが醜い。
「うーん・・どうしようか・・・とりあえず薬持ってくるから。で、平木に連絡してみるか・・・」
紺野はベッドから飛び降りるようにして部屋を出て行った。
・・うぅ・・誕生日なのに・・歯が痛くて目が覚めるなんて・・
残された佳奈子は頬を押さえながら、痛みと悲しさで涙を流していた。
「ん、腫れがけっこうひどくって・・」
携帯でしゃべりながら、薬と水の入ったコップを持って紺野が戻ってきた。
「うん・・・ん・・・」
電話に相槌を打ちつつ、佳奈子に薬とコップを渡すと、飲んで、と声を出さずに口だけを動かして言う。佳奈子が飲み終わったコップを両手で握り締め、うつむいてしゃくり上げていると、紺野は空いている右手で頭を撫でてくれた。
「んー、今、ロキソニン飲ませたから・・これで痛みが治まってくれれば・・」
言いながら、紺野は頭を撫でていた右手を佳奈子の左頬に下ろし、佳奈子を上向かせながら、親指で目の下に残っている涙を拭う。ひんやりとした手が気持ちよく、佳奈子は、大きく息を吐いた。
「外からはそれほど腫れてないと思う・・ああ、ありがとう、助かるよ、じゃあ後で。朝早くに悪かったね。」
そう言って、紺野は電話を切った。「朝早く」と言う言葉に、佳奈子がハッ、と時計を見ると、6時を少し回ったところだ。
日曜日の朝、こんな時間に2人を・・しかも平木君まで起こしてしまって申し訳ない。おそらく、昨日の自分の不注意でこんなことになっているのに・・・佳奈子はまた新しく涙をこぼした。
「ほらほら、泣かない。平木が後で、8時くらいから見てくれるって。様子によっては今日切るって言ってたけど、大丈夫か?」
それは・・ちょっと怖い。佳奈子は涙に濡れた目で紺野を見上げた。紺野は微笑んで頷きながら、
「大丈夫だよな。もし寝られそうなら、もう少しでも寝た方がいいな。7時くらいにまた起こすから。」
と言って、部屋を出て行きかける。
「あの、紺野先生・・」
自分でも何が言いたいのかわからないまま、佳奈子は声をかけた。一人にされるのは心細かったのかもしれない。
振り返った紺野は佳奈子のすがるような目でそれを察したのか、仕方ない、というように笑い、
「ん・・すぐ戻ってくるから、ちょっと待ってて。」
と言い残して消えた。
しばらく経って、トイレの水を流す音がして、さらにもうしばらく経ってから、「起きたらお腹が空くもんで・・」と言い訳しながら、マグカップとシリアルボウルを手にした紺野が戻ってきた。
「・・食うか?ま、食べるにしても起きてからにしろ。とりあえずは体を休めて。はい、寝て。」
言われるままに横になった佳奈子に布団をかけてやり、紺野はその右に座って、自分は朝食のヨーグルトをかけたミューズリーを食べ始めた。じぃっ、と見ている佳奈子に気付くと、
「いいから寝ろ。」
と、左手に持っていたボウルを脚の間に置き、左手を伸ばして、佳奈子の左頬を覆うように当てた。
「まだ痛いか?」
佳奈子は少し辛そうに頷きながらも言った。
「でも・・ちょっとくすぐったい・・・」
頬に当ててくれている左手の指先が首筋に少し触れるのだ。
紺野が慌てて戻そうとするその手を自分の左手で押さえる。
「でも・・冷たくて気持ちい・・い・・・」
何か冷やすもの持ってくるか?と言いかけてやめ、紺野は片手でヨーグルトの続きを食べ始めた。
「おい、そろそろ起きないと・・・」
佳奈子は目を覚ました。7時15分。
左頬に、紺野の手を当て、自分の手で押さえたままだ。薬が効いたのか、痛みはずいぶん楽になった。
「あ・・もしかしてずっと・・・す、すみません。」
「いや、いいよ。支度して。」
・・そしてその1時間後。佳奈子は、同じように紺野の手を握り・・・緊張した面持ちで、ここ3ヶ月ほど通っている、大学病院の診察室の一つのユニットに横たわって口を開けていた。
壊れそうなほど張り詰めた様子の佳奈子の様子を平木が心配し、
「あんた、手でも握っててあげなよ。今は俺しか居ないから。」
と、紺野に偉そうに言ったからである。
痛む歯茎を押さえられたりするたびに、佳奈子は、きゅっ、と紺野の手を強く握った。
「うーん・・」
平木が難しそうな声を出し、佳奈子はいっそう強く、紺野の手を握った。
「外から眺めてるだけじゃ埒が明かないな、やっぱり、開けてみていいかな。」
平木は、どちらにともなく言った。紺野は、ちらりと佳奈子を見て小さく頷いた後、
「お願いします。」
と平木に頭を下げた。
「い、いや、そんな。こちらこそ。っていうか、よせよ。緊張するだろ。」
平木は少し動揺した。
「じゃ、ちょっと待ってて。ナース一人呼んであるから。紺野先生、術着そっちの棚に入ってるから。ディスポのやつね。ああ、萩原、トイレとか行きたかったら行っとけよ。」
言い残して、平木はあわただしく出て行った。
「ど、どうしよう・・やっぱり怖い・・怖いです・・」
おろおろする佳奈子を紺野はぎゅっ、と抱き締め、耳元で囁いた。
「トイレとか行きたかったら行っとけよ。」
佳奈子はそれを聞いて、ふふふっ、と可笑しくなり、
「はい、そうします・・」
と、笑顔になった。
「手術ったって、ふだんの治療と変わらないよ。ここはそもそも治療台兼用だから・・・ほら、ライトが少し仰々しいだけだ。」
紺野は、治療台の上の、手術用無影灯のアームを引っ張り出して見せた。
「はい・・よろしく、お願いします。」
佳奈子は診察室を出て行った。
紺野が言われた棚から術着を引っ張り出していると、看護婦を連れた平木が戻って来た。
「あ・・紺野先生。こんにちは。」
小児歯科から頼む手術に付いてくれることの多い、生田のぞみだった。彼女なら佳奈子も怖がらないな、と紺野はホッとした。
「ああ、こんにちは。」
「小児でお見かけしないのは院の研究のためかと思ってたら・・歯内に転職ですか?」
「いや、今日は付き添いで・・」
「へえ、そうなんですか。」
2人で話していると、平木がのぞみを呼んだ。
「ちょっと、のぞみ、手伝って・・」
術着を着ながらもぞもぞしている。
・・ふーん。
紺野は、派手好きだと思っていた平木の相手がのぞみとは少し意外だなと思いながら、術着を着るのをお互いに手伝う二人の様子を眺めていた。
「紺野先生もお手伝いしましょうか?」
と言いながら、のぞみが近付いてきた。
「いや・・彼女が戻ってきてから着るよ、ありがとう。患者、ちょっと怖がりなもので。ほら、いきなり皆で術着だと、入り口で逃げ出すかもしれない。」
紺野が言うと、のぞみはやわらかい微笑で応じ、向こうで平木が暢気な声を出した。
「ああ、そういや萩原さんは?逃げた?」
「今頃気付くなよ。トイレに行った。」
「あ、そう。そういえば。俺、知らなかったよ、いつから一緒に住んでんの?」
「まだ住んでないよ」
紺野の言葉に、平木は「まだ、ね・・」と嬉しそうにニヤリと笑い、
「そのうち一緒に住む気なんだ?」
と振り返った。
「それはわからないな。断られるかもしれないし。」
自分で言って、少し落ち着かない気分になって、紺野が術着のビニール包装を破ったとき、ドアが開いて、佳奈子が戻ってきた。紺野の言った通り、平木とのぞみの術着姿に、少し足がすくんでいるのが誰の目にも明らかだ。
「おかえり。よし、偉かった、逃げなかったね。」
「に、逃げませんよぅ。もう、失礼ね。」
紺野が笑顔で言った言葉に、固い表情だった佳奈子は口をとがらせ、自分から治療台に近付いて行った。
・・う、うまい。
平木は紺野の佳奈子の扱い方に感心した。この3ヶ月、佳奈子を診察してきて、患者としての佳奈子は平木が学生時代に見ていた「萩原さん」とは違い、怖がりだとわかったのだ。しかし自分も歯科医なだけに、怖くても頑張ろうとするので、そこがなんとも痛々しかった。今の紺野は、佳奈子を怖がらせることなくあっさり治療台に座らせている。小児歯科医だからなのか、2人の仲だからなのか・・
・・あとで詳しく教えてもらおう。
と、手術の準備をしているのぞみを横目で見ながら平木は思った。のぞみは口腔外科の看護婦で、どんな血まみれの手術でも平気で付くが、自分自身は歯科恐怖症である。抜髄に至るような虫歯になっていないのが幸いだが、本数はそこそこ多い。去年、全身麻酔でだいたい治療したのだが・・小さい虫歯はいくつか残っているらしい。らしい、というのは、麻酔をしていない状態では、のぞみが歯を見せるのは口腔外科の女医にだけで、平木はミラーさえ入れさせてもらえないのである。信頼関係が足りないのかねえ、と、佳奈子に術着を着せてもらっている紺野を少し羨ましく思いながら見ていた。
「さてと」
紺野も準備が出来たようだ。3人で治療台を囲むと、佳奈子がビクッ、と身体を固くした。また少し怯えている。
「あ、ちょっと、手でも洗ってきて、いいって言うまで戻ってこないでくれ。」
紺野に言われ、平木は
「ごゆっくり」
と返して、のぞみを連れて、部屋の隅のシンクで手術前の手洗いを念入りにした。
「はい」
のぞみがピンセットで渡してくれる布で手を拭きながら、平木は言った。
「萩原さんあんなに怖がってるなら、逆に、今日でよかったかもな。他人も居ないし。」
「でも、ちょっと意外だったなー、先生たちも治療、怖かったりするんだね。」
のぞみが答えるように話し出した。
「お前だって怖いんだろ、血まみれは平気なくせに。おんなじだよ」
笑った平木を軽くにらむ様にして、のぞみは最後は呟くように続けた。
「私、紺野先生に診てもらおうかなあ・・治療、しないと、って思ってるんだけど・・」
俺じゃダメなのかよ、と平木は軽くむくれて治療台を振り返りそうになる。
・・おっと・・お取り込み中だっけ・・
キスでもしてるんかな、この先のご褒美が欲しかったらおとなしく手術受けろとか言っちゃったりしてなー、と下世話な妄想をした平木は、ついそれを確かめたくてたまらなくなり、そぉっと振り返った。意外にも、紺野は真剣な顔で話しかけているだけだった。患者の手を握って、肩に手を回しているところ以外は普通である。佳奈子がこく、こく、と頷いている。
「なんだ、つまらねぇ・・」
「何を期待してたのよ、バカね」
と小声でやりあっていると、紺野が2人の間から腕を出した。そのまま手を洗いながら、
「準備できたから。じゃ、おねがい。あの、でも、顔のとこの被布なしでやってもらってもいいかな。ムリ?」
と2人に話しかける。
「んー、そうだな・・・まあ無くてもいいって言えば無くてもいいかな、帽子被ってもらって・・どう?」
「私ナースですから。先生に従いますよ。」
「じゃ、ナシでいいや。準備してきて。」
「はいっ」
のぞみが、佳奈子の準備をしに行ったところで、紺野が口を開く。
「ところで、ずっと気になってたんだけど、お前・・」
そして15分後・・・佳奈子の手術は始まった。
・・・普段の治療と変わらないって紺野先生言ったけど・・全然違う!
佳奈子は、治療台の上で、恐怖と闘っていた。
たしかに、自分が横たわっている治療台は、一般歯科のものと同じだ。しかし、患者の目に映る光景は全く違う。
治療台の上から照らしているのは、手術用の無影灯。これは紺野も「ライトが仰々しい」と言っていたので、納得できるが・・・
自分の体全体に、緑色の被布がかけられている。そしてなにより、術者が手術着を着て、帽子までかぶっているのだ。ここ数ヶ月で身近な存在になったはずの紺野も、まるで知らない人に見える。
そんな佳奈子の視線に気付いた紺野が、佳奈子をじっと見て、笑顔を見せて・・マスクで目しか見えないが・・頷いて見せた。
佳奈子はさっき言われたこと・・着ているのが術着でも、白衣でも、普通の服でも、いつでも同じ目で佳奈子のをことを見てるから、怖がったりしないで・・を思い出して、一度目を閉じて、深呼吸をした。
「シンマ・・」
という声が横から聞こえ、思わず目を開ける。少し落ち着きかけた鼓動がまた速くなってくる。
・・シンマ?そんなのでいいんだっけ・・骨をごりごりってするのに・・・上顎の6番のときは・・
昔、ノートに描いた、伝達麻酔の範囲を示す絵を必死に思い出していると、意外にも平木が口を開いた。
「痛みを感じるのは、歯肉を切るところだけだから。骨は痛覚が無いから、シンマで大丈夫だ。」
・・ああ、そうか・・そうよね・・・
佳奈子は、「わかった」と、平木に頷いて見せ、ホッと小さく息を吐いて、もう一度目を閉じた。目を閉じた佳奈子の顔の上では、今度は紺野が平木に頷いて見せていた。こちらは、佳奈子のように「わかった」ではなく、「それでいい」という合図である。
実は、のぞみが佳奈子の準備をしている間に、平木は、紺野に説教されていたのであった。
「お前、治療中、気持ちに余裕がないわけじゃないだろ?」
「へ?何の話?」
「お前の治療は、ちょっと気遣いに欠けると思う。」
「えっと・・どういうこと?」
先輩からの指導を受ける機会もほとんどなくなり、自分の腕に自信も付いてきた平木は、紺野の不意の指摘に、表情を少し硬くした。
「いや、技術がどうとか言う話じゃないんだ。そこはむしろ認めてる。だからこそ佳奈子の治療も頼んだわけだし。」
歯科医同士は、お互いの治療について、特に「腕」については批評しあわないのが暗黙のルールだ。紺野はそこをフォローしつつ、さらに続けた。
「治療が終わった直後のトレイも散らかってないし、ホースもコードもこんがらがってない。カルテも綺麗に書いてあるし、診察中にちゃんといろいろ目を配れる余裕があるのはいいことだ。」
一応褒められて、悪い気はしないが、・・治療終わった後にしか来ないから何も見てないと思ってたのに、そんなとこチェックしてたなんて、お前は小姑かよ、と平木は心の中で軽く毒づいた。
「ん・・どうも。」
と、あいまいに返事をしながら、
・・でも、余裕があるっていうなら、じゃあ、気遣いに欠けるって・・なんのことだよ?
と思っていたのが顔に出ていたらしい。紺野はふっと笑って言った。
「そんな食い付くような顔するな。せっかく周りを見回せる余裕があるんだから、その目を、患者さんにも向けてみたらどうかな。もちろん、麻酔が効いてるかとか、そういうところは見てるんだろうが・・もうちょっと深く。怖がってるなとか、不安そうだなとか。お前ならちゃんと見えるはずだ。で、それをちゃんと解決なりフォローなりするんだぞ。とりあえず今日、ちょっと気にしてみるといい。こんな応急処置みたいなときになんだけど、佳奈子はわかりやすいから。安心させたほうが、扱いも楽だってのがわかるよ。」
・・・たしかに、萩原さんは怖がりだなってのは俺だって気付いてるんだよ。しかし、フォローねえ。面倒そうだけどなあ。
しかし、個人的にだけでなく、歯科医としても慕っている紺野からの「助言」である。平木は、しぶしぶながらも、それを受け入れることにしたのだった。
とはいえ、いきなり、麻酔を打つ前から、「フォロー」を入れる羽目になるとは。平木は軽くため息をついた。
「じゃ、軽く口開けて・・」
安心させた甲斐あって、佳奈子はおとなしく口を開いた。唇を大きく左上に引き上げて、赤黒く腫れ上がった歯茎に、シリンジの針を打ち込む。
「んぅ・・」
佳奈子が辛そうに眉根に皺を寄せる。
少し薬液を注入した後、針を抜いて別のところにもう一度・・打ち込む前に、平木は一応声をかけた。
「もう一回刺すからな」
少々ぶっきらぼうな物言いに、紺野は苦笑いしながらも、満足そうな眼差しを平木に注ぐ。
「んん・・」
・・あれ?
平木は、少し力をこめた指先に、感じるはずの抵抗が無いことに気付いた。
・・うーん、これは・・っと・・、一手間省けたってやつかな・・それだけだといいけどな。
中の様子を想像しながら、平木は少し深く行き過ぎてしまった針先を戻し、ククク、と残りの薬液を押し込んだ。
静かに針を抜き、キャップをはめると、シリンジをトレイに置く。
金属の共鳴音を含んだ、カチャリ、という音が、静かな部屋に響き渡る。
「・・・・」
目を閉じている佳奈子の瞼が、少しひくひくしている。目を開けようかどうしようか迷っているのだ。
「・・てっ」
紺野が、治療台の下で平木の足を蹴った。なんとか言え、と平木に目で伝える。
「あ・・く、口、ゆすぐ?」
平木の言葉に、佳奈子は目を開け、軽く首を振った。
「大丈夫・・だけど?」
「あ、そう・・」
再び、微妙な沈黙が流れ、平木も佳奈子も困ったような目で紺野を見た。紺野はため息をついて、ついに口を挟んだ。
「平木、お前いつもこんな風なわけじゃないだろ?・・・って、なんだ、二人ともそんな顔で俺を・・・いや、なんかこの状況は見覚えが・・」
「あ、ありまふね・・」
佳奈子が、麻酔の効き始めた口で答えた。平木も、はっ、と目を見開いた。
「あるな。ってか、それだ!なんか今日調子狂うんだよ。紺野先生が見てるからだ。こう、実習みたいで。」
「ああ、お前は実習がうまく行った試しがないからな。」
「ちょっと、嫌なこと言わないれくらさい・・・」
シーン、としていた手術場は、急に賑やかになった。空気がほぐれた、と言うべきか・・・
トレイの横できょとん、としているのぞみに、紺野が説明を始めた。
「この二人、学生時代、二人実習のペアだったんだよ。俺はこの学年の実習のTA多かったんだが・・、うまく行かない班がある、としたら絶対にこの二人。ここが出来てたら、他全員出来てる、くらいの勢いだった。」
「落ちこぼれ・・だったんですか?」
のぞみが、二人の元実習ペアの顔を見比べた。
「いや・・卒業してからの仕事を見てると、それも違うような気もするんだが、なんかうまく行かなかったんだよ。たぶん、こいつがおしゃべりで、説明を聞いてなかったせいだと俺は思ってるが・・」
佳奈子がこくこく、と首を縦に振っている。
「ともかく。俺はなんか今日調子が狂うと思ってたら、紺野先生のせいだな。」
平木は断言した。なんだか緊張するのは事実である。
「いや、他人のせいにするなよ。って、調子が狂うなんて言ったら、患者さんが怯えるじゃないか。ほら・・ん?」
しかし、佳奈子自身は、さっきまでの息詰まるような沈黙よりはずっといいような気がして、さっきまでよりも落ち着いた表情になっていた。
「そうでもなさそうじゃん?」
平木は一瞬、勝ち誇ったような顔を見せ、しかしすぐに真顔に戻って続けた。
「なんだけど・・やっぱり妙に緊張するんで。代わってくんない?」
「んば?俺が?」
紺野が変な声を出すので、佳奈子は思わず笑ってしまった。痛みも少し和らいできて、事態の深刻さを忘れかけたほどだ。
「ま、さすがにそれは冗談だけどな。そろそろ始めますか。患者さんも少し落ち着いたようだし。」
平木が真面目な顔になり、佳奈子の方を見て頷いた。佳奈子もなんとか頷き返したが、また少し不安になって紺野を見上げた。紺野は微笑んでから、佳奈子の肩を軽く叩いてくれた。
・・手の重さって、なんでこんなに安心できるんだろう・・
佳奈子はほぅっ、と息を吐き、自分の上の無影灯を見上げ、静かに目を閉じた。
「よし。じゃ・・始めます。紺野先生、視野確保お願い」
「ん。」
平木はルーペのついたゴーグルをかけた。ついに佳奈子の手術が始まった。
ぐいぐいぐいと綿を頬の内側に詰め込まれ、さらに唇が思い切り引っ張り上げられる。佳奈子は無残な顔になった。
消毒薬が塗りこまれた後、平木の右手のメスが、佳奈子の赤黒い歯茎に切り込んだ。
パアッ、とも、ジワッ、ともつかないスピードで血が盛り上がる。
「ぅ。」
紺野が小さく声を出して、顔をしかめ、少し目を逸らす。実は院長が佳奈子にバラしたように、紺野は本当に血が苦手なのであった。露髄や乳歯の抜歯で出る程度の血ならかまわないが、こういう派手なのは困る。
しかし今日は助手についているので、邪魔にならないように拭わなければならない。なんとも微妙な顔で血を拭き取っている紺野を上目遣いで見やり、平木は思わず笑った。
・・この後、さらに骨ゴリゴリか・・
と、紺野が少し憂鬱な気分で、平木が歯茎をベロリと開けるのを見つめていると・・中には骨は見当たらなかった。
「やっぱり、溶けちゃってたか。ま、一手間省けたってやつだ。ゴリゴリされるのを我慢しなくていいから良いよ、萩原さん。」
平木はこともなげに言い、佳奈子は目をつぶったまま、
「ん。」
とだけ返事をした。少し声が震えているようにも思える。
「えっと・・よくあることだからそれ自体は心配いらない。原因の病巣がなくなれば、ちゃんと再生するからな。」
珍しく、平木は丁寧に説明した。
「で、問題は・・この中だ。」
中を覗き込むと、大きい嚢胞の一部と思われるものが覗いている。
「これを破らずに取れると快感っていうかさ、今日なんかいいことありそうな気がしたりね・・」
平木は不謹慎なことを言いながら、トレイの上に並ぶ器具の中から、スパチュラ状のものとピンセットを選び出すと、歯茎の穴の中に突っ込み、作業を始めた。
「思ったより形が複雑かなー、ズルっと気持ちよく行かないかな、ズルっと。」
おいおい、とたしなめようとした紺野が黙ったのは、血みどろの状況に気分が悪くなったからではない。平木が言葉とは裏腹に、真剣な眼をしていたからだ。
「ほら、千切れたりせずに、いい子で出ておいでー」
平木はこれまたふざけたような言葉を口にしながら、慎重に、そしてどうやら無事に嚢胞をつまみ出し、のぞみが横に差し出した小さな膿盆に、ピンセットごと載せた。
「うまく取れたな」
「ん、そだね。」
紺野がかけた言葉に、そっけなく返しながら、平木は真剣な顔でそのさらに奥を見つめている。ふと、その顔が難しい顔になった。
「えっと・・一応、ルーペくれ。紺野先生にあげて。」
「はい。」
のぞみが、紺野に、平木と同じようなルーペを渡し、紺野は、片手で佳奈子の唇を引っ張りながら、ルーペをかけた。ちら、と平木の眉間の皺を見やってから、その視線の先、佳奈子の左上6番の根に目を凝らす。
「えっとさ。ここの先がちょっと石灰化してるんで、取るつもり・・だったんだけれど」
平木の右手の探針が、根の先を示す。
・・だったん・・だけれど、何?
目をつぶって聞いている佳奈子の鼓動が、また速くなりはじめた。平木か紺野の次の言葉を待つ。
「ここに、線が・・見える?」
平木は、根の一部分を縦になぞった。
・・線?それって・・
佳奈子は、体中が脈打っているように感じるほど緊張してきた。何か言って・・
「ん・・割れて・・るな。」
紺野も、平木の眉間のしわが伝染したかのように難しい顔をして、低い声でつぶやいた。
くっ、と、佳奈子が息を呑むのが感じられた。
平木と紺野は視線を交わし、紺野に目で促された平木が、小さく頷き、佳奈子に声をかける。
「あの、萩原さん。自分で見てみる?」
佳奈子はおそるおそる目を開けた。大きく唇を引っ張られ、歯肉もめくられた状態である。
「どうも、根に亀裂が入ってるみたいなんだ・・」
それはすなわち、抜歯は避けられないということであった。
数秒前に聞いたこととはいえ、面と向かって宣告されると、ショックは大きかった。みるみる目に涙が盛り上がり、零れそうになる。
紺野は何も言わず、ガーゼを取って、佳奈子の涙を押さえてやった。
「で・・自分で見たい?」
平木がもう一度聞き、佳奈子はかすかに首を振って答えた。
「じゃあ・・抜いてもいいかな。」
佳奈子はじっ、と紺野の顔を見た。
「ああ、そこは俺がやるよ。」
紺野は佳奈子の顔を見て頷きながら言い、佳奈子は平木に小さく目で頷いた。
「わかった・・じゃ・・どうしよ。先に閉じちゃうかな。」
そうして、佳奈子の、べろりと開かれた歯肉は閉じられ、紺野に、左上6番を抜歯された。それはいとも簡単に、素直に抜けた。
帰りの車の中、佳奈子はじっと黙ってうつむいていた。
紺野先生が心配しているから、何か言わなきゃ、とは思うのだが、何を言っていいかわからなかった。
そんな気配を察したのか、紺野が口を開いた。
「佳奈子?」
「ん?」
傷口が痛み始めたので、さらに元気のない声になってしまった。
「怒ってる?」
「・・どうして?」
「誕生日なのに・・いや、それはいいや、今日ので、俺が抜いた歯、3本目だけど。」
「ん・・そう・・だけど・・仕方ないじゃない?」
何が言いたいのだろう・・佳奈子はとりあえず、相槌を打ったが、
「これからも・・佳奈子の歯・・抜くことがあったら・・何本でも・・俺が抜くから・・?って、ちょっとおかしいよな・・・いや、今の無し。忘れてくれ。」
紺野も何が言いたいのかよくわかっていなかったようだ。佳奈子は思わず聞いた。
「あの・・・それ、嫌がらせですか?それとも、プロポーズかなんかですか?」
最後の言葉には、自分でも驚いた。傷口が痛み出して少しイライラしてきたとはいえ、言い過ぎだ。
「・・そうそう、そのつもりだったんだけど、うーん、やっぱり、今のは無いか・・」
しかし、紺野はあまりにあっさりと認め、首をかしげた。佳奈子の胸は高鳴り始めたが、肝心の部分は『今の無し』と取り消されてしまった。これでは答えようがないではないか。どうしていいかわからず、とりあえず抗議してみる。
「そうですよ・・歯を抜かれて、落ち込んでるのに・・何本でも抜くぞなんて、無神経です・・・。」
「そうだよな、ごめん、謝る。で、何ならいい?これからもずっと、歯治します?主治医でいさせてくれ?」
「ちょっと、もう。離れて。歯医者から離れてください。結婚と関係ないじゃないですか。もっと普通のこと、ないんですか。」
なぜかプロポーズにダメ出しをする羽目になり、佳奈子も混乱してきた。
「たしかに。そう言われてみれば・・もっと普通のこと・・うーん、これから毎日、歯磨きしてあげるから、結婚してください、は?」
「・・はい?先生、私の話、聞いてないでしょ。」
「あ、今、はいって言ってくれたね?」
「そういう意味の『はい』じゃありませんよ、もう・・」
「じゃ、いやなの?歯磨きしてあげる、は抜いたほうがいい?それとも、フロスも付けたほうがいい?」
佳奈子は堪え切れず、笑い出した。それを見て、紺野も安心したように笑顔を浮かべると、車を路肩に寄せて停めた。
「じゃ、聞かせてもらえるかな。」
「・・ん?」
急に真顔に戻った佳奈子の声が少し震えている。
「結婚、してください。」
紺野は自分の声も震えているのではないかと、少し心配になった。実を言うと今まで、付き合ってください、とも言ったことがないのだ。前の結婚も、気がついたらそういうことになっていた、というのが近い。
佳奈子はなぜか黙ったまま、じっとこちらを見ている。
・・な、なんとか言ってくれ・・
これほどまでに、自分がどうしていいかわからない状況というのも初めてだ。今決めなくてもいい、と言おうかと思ったとき、佳奈子の口が動いた。
「ぜ、ぜひお願い、します・・」
ほうっ。紺野は大きく息を吐いた。こんなに緊張するとは知らなかった。断られても死ぬわけでもないのに。
「でも・・」
やっと安心したところに、さらに佳奈子が口を開いたので、動揺した。
・・でも、何でしょうか!?
見ると、佳奈子の目に涙が盛り上がっている。
「な、何?」
「・・い・・」
「ん?」
佳奈子は左手で頬を押さえ、涙を流し始めた。
「いたい・・です・・」
ふぅ。二度目の安堵の息を漏らす。大丈夫だ。この状況なら、いくらでも対応できる。
「ああ、もう、泣くからだ。泣いたら頭に血が上って余計痛いんだよ。泣くな。」
頭を撫でてやる。
「先生が・・泣かせたんです・・うぅ・・痛・・」
さらに泣かせてしまったようだ。
「薬は?ああ、俺が持ってるんだった・・ほら、手出して。」
さっき、病院で受け取った薬を、ポケットから取り出し、ぷち、と佳奈子の手に載せてやる。
「水は・・はい、これ。」
ドアポケットに入れてあったペットボトルのキャップを取って渡す。
「ん?麻酔、切れてる?飲める・・?」
案の定、佳奈子は水をこぼしそうになって左手で口元を押さえ、紺野は、佳奈子が膝の上に持っていたタオルで拭いてやった。
「あ・・すみません・・ふ、ふふ。」
佳奈子は謝りながら、可笑しそうに笑い出した。
「何。」
「先生、これじゃ、お兄ちゃんみたいですよ・・」
誰かにも昔、そんなことを言われた気がする。誰だったっけ・・
「何言ってんだか。佳奈子、お兄さんなんて居ないのに。」
「先生だって、妹なんか居ないでしょ。そういえば先生って、お姉さんが居るようには見えないんですよね・・お姉さんが居るっていうと、ほら、平木君みたいな・・・」
「・・あ。」
佳奈子の言葉で、誰に言われたのか思い出した。はーん、と一人で納得しながら、紺野は再び、車を発車させた。
「なんですか?」
不思議そうな顔で、佳奈子が尋ねる。
「いや、別に。佳奈子は一人っ子だっけ?」
「そうです。あんまりそう見えないって言われるんですけど。どう思います?」
「いや、よくわからない。そんな我儘じゃないでしょって言いたいわけ?しかし、一人っ子か・・挨拶に行ったら殴られそうだな・・」
「大丈夫ですよ、うちの父、実はバツイチですから。」
紺野は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「それをわざわざ言わないでくれる?俺は別に、バツイチだから殴られるって思ったんじゃないんだから。」
「えっ・・そうなんですか・・・すみません・・」
「ま、いいけどね。どうする?このまま家帰っていい?家で取ってくるものがある?」
「あ、寄って欲しいです・・・」
「このまま引っ越すか?」
「え、それはちょっと・・」
「いや、冗談だから。」
「もう・・先生・・」
佳奈子は少し本気で怒って、口を尖らせている。
・・・妹みたいな人、か・・
紺野は、佳奈子を横目で見やって笑うと、とりあえず、先生って呼ぶのは、いつやめてもらおうか、と考えながら、佳奈子の家に車を向けた・・・