「今度の連休、何か予定入ってる?」
紺野に聞かれて、佳奈子はううん、と首を振った。
「どこか連れてってくれるの?」
佳奈子は期待を込めて紺野の顔を見た。先月の誕生日にプロポーズされてから、年末年始を挟んだりしてバタバタしてしまい、意外と二人で楽しむ時間がない。年明けに佳奈子の実家に挨拶に行って・・その後、なぜか紺野は週末ごとに用事がある、と出かけていて、佳奈子は少し不満なのであった。
「そんな顔されると言いづらいな・・うちの実家に一緒に行ってくれないかな、と思って。ダメ?」
「ううん、大丈夫。」
紺野はすまなそうに言ったが、佳奈子は嬉しくなり、微笑んでまた首を振った。実家にご挨拶、というのは、もちろん緊張するけれど、少し待ち遠しいような気持ちもあった。
「そっか、よかった。でもあの、ちょっと俺、向こうですることがあるんで。ま、その間、うちの家族とでもしゃべってくれればいいからさ。」
「う、うん・・?わかった・・」
・・それじゃまるで面接みたいじゃない・・?
少し不安な気もしたが、とにかく、二人の次の連休の予定は決まった。
さて、当日。午前中に出ようと言っていたが、少し寝坊し、ダラダラしていると昼前になってしまった。
途中で食事をするところまでは佳奈子が運転することにして、二人で車に乗り込む。
佳奈子は最近までペーパードライバーだったので、運転は真剣そのものだ。
「ねえ、何食べようか。佳奈子何がいい?」
「今は話しかけないで下さい。」
「・・・」
一蹴されてしまった。言われたとおり、少し黙ってみる。
・・・しーん・・・
「でも、何食べるか決まらないと、どこで食べるか決められないよ?」
「話しかけないで下さいって。勝手に決めていいですから。」
「・・・」
紺野は、じぃっ、と真剣な佳奈子の横顔を見つめた。運転すると本性が出ると言うが、これが地なのだろうか。たしかに、診察中の怖い萩原先生は普段の佳奈子と少しイメージが違うが、この運転中の佳奈子なら・・・
ま、どっちでもいいや、と紺野は思い、前に見えるガソリンスタンドを指差した。
「あそこ入れて。」
「わわっ、急に言わないで下さい!」
「大丈夫だって。ほら。ウィンカー出して。はい、曲がる。」
「は、はい。・・あ、ふう、無事入れた。」
車を止め、ガソリン満タン、と頼むと、紺野は佳奈子に言った。
「で、嫌じゃなければ、運転替わって。」
佳奈子がバッ、と怖い顔でこっちを向いたので驚いたが、直後、佳奈子は笑顔になった。
「よかったー。」
言うなり、そそくさとシートベルトを外し、車を降りる。
いつもの指定席、助手席に落ち着くと、佳奈子はほぅぅぅっ、と大きく息をついた。
「はあ、緊張した・・運転、替わってくれないかなーって、ずっと思ってました。」
・・いつもの佳奈子だ・・
紺野は、安心したような、しかし少し物足りないような複雑な気分になった。
「だったら言えばいいのに。」
「乗る前、食事するところまで、って決めたから、ダメかなって・・でも、替わりたいほど、下手でした?」
「いや、割と大丈夫だったよ?」
言いながら、エンジンをかけ、車を出す。そして小さく付け加えた。
「でも、話が出来なくて、つまんなかったんだよね・・」
「え、何ですか?」
「いや、なんでもない。運転してないんだから、何食べるか決められるよな?」
「緊張から解放されたらお腹空いちゃいました。もう、何でもいいです。」
「あ、そう・・・」
紺野は困ったように笑い、最初に目に着いた駐車場のある店に入ることに決め、結局、その日の昼食は、そば屋で取ることになった。
昼食後走り始めて間もなく、紺野が口を開いた。
「そういえば、平木、どうした?」
「どうって?」
さっきとは打って変わってリラックスした様子の佳奈子が、のんびりと答えた。
「まだ来ない?虫歯があったから、佳奈子のところに治療に行くかもって話。」
「あー、その話。でも、来てません。」
「ふーん・・」
「歯医者なんていくらでもあるんだし。どこか他に行ったんじゃないの?同僚の先生に頼むとか。」
「・・ならいいんだけど。」
紺野が少し顔を曇らせたので、佳奈子は思わず笑ってしまった。
「平木くん、もう大人じゃない。ホント、お兄ちゃんみたい。」
紺野もつられて笑いながら、もしかすると俺がお兄ちゃんキャラになったのは、平木のせいかもな、とぼんやり考えた。子供だって、下に弟や妹ができると、お兄ちゃんやお姉ちゃんぽくなるではないか。しかし、大人もそんな風に変わるのだろうか。
目的地に近付くにつれ、佳奈子はときどき、ため息を吐くようになった。
「どうした?」
「歯・・私の歯のこと・・なんか言われるんじゃないかって・・」
「なんだ、そんなことか。まあ、母親はともかく、二人は素人じゃないから、見たら分かるだろうけど、別になんにも言わないよ。」
「でも、ご家族は皆・・先生みたいに、歯が良いのよね?」
佳奈子はますます心配そうな顔になる。
「歯が良かったら、そうじゃない人に何か言うってわけ?」
紺野は少し意地悪く聞いてみた。佳奈子は首を振った。
「そんなことない・・ね・・ごめん。」
「だろ?それに、うちの人間はまあそこそこ丈夫だけど、お義兄さんは悪い方だし。」
で、子供が・・と佳奈子に言うのは、止めておいた。結婚する前から、将来の子供の歯について悩む必要はない。
佳奈子は、遠くを見つめながら、分かったのか分からないのか、頷いている。
「それに、こんなこと言っていいのかどうか分からないけど・・俺、歯の悪い奥さんもらうの、初めてじゃないからさ。」
さすがに佳奈子の顔は見られなくて、遠くの山を見ながら、言った。
「あ、そう、そうよね。ちょっと変かもしれないけど、それ聞いたら、なんか、安心しちゃった。」
ははっ、と、佳奈子は笑って、佳奈子の機嫌はあっさり戻った。紺野は初めて、心の中で理沙子に感謝した。
「さ、着いた。あそこがウチ。医院は、左手の奥の方にあるんだけど、ここからは見えないか・・。」
言いながら、紺野は、生垣の途切れたところ・・扉はないが一応、門と言うのだろうか・・から、敷地の中に車を入れた。
そこに建っていたのは、想像していたよりもはるかに大きい家で、佳奈子は緊張した。
「どうしたの?また歯の心配?」
「き、緊張してきた・・・」
「いやいや、この間の俺の緊張に比べたら。」
「そうは見えなかったけど?」
「いや、佳奈子が、バツイチなんて気にしなくていいですよ、とか言うからさ。それまで気にしてなかったのに、もう、自分がすごい悪い奴みたいな気がしてきちゃって。ほら行くよ。」
紺野は笑いながら、サイドブレーキを引き、腕をのばして後部座席に置いた佳奈子のコートを取ってやった。
「ありがと。あれは大丈夫だったじゃない。あー、どうしよう。」
佳奈子はまだブツブツ言っている。
「こっちも大丈夫だから。」
キーを抜き、紺野は車から降りた。トランクからボストンバッグと手土産の入った紙袋を取り、コートは腕に引っ掛けて、佳奈子を促した。
「寒いから早く。」
佳奈子は玄関の前で、ちょっと待って、と言って深呼吸し、それを見て笑った紺野が、ガラガラ、と玄関の扉を開け、佳奈子の手を引いて先に入った。
トテトテトテ、という足音がして、小さな女の子が玄関に現れる。
「こんにちは、モモちゃん。」
紺野が言うと、その子は恥ずかしそうに笑顔を見せた。先週も見たばかりなのに、その口元からのぞく歯に目が行ってしまうのは職業病だ。真っ白く可愛い歯が少し隙間を空けてならんでいる。ちょうどこの年齢で、姉の知里は虫歯を作ってしまったが、百佳の歯は、今のところ、問題無いようだった。
さらに、奥から女性が出てくると、百佳は彼女の腰にまとわりついて、後ろに隠れた。
「あら、いらっしゃい。」
「ん。あの、彼女がね・・」
「初めまして。淳の姉です。遠かったでしょ。えーと・・」
「あ、萩原佳奈子と申します。あ、あの、初めまして。」
佳奈子を紹介しようとした紺野を差し置いて、女性陣は二人で自己紹介を始めてしまった。紺野は仕方なく、姉の知佳の後ろから顔を出したり引っ込めたりしている百佳に小さく手を振ったりしてみる。すかさず、知佳が百佳の背中を押して前に出した。
「あ、これはね、下の子、百佳です。上にもう一人娘がいるの。ほら、百佳、おじちゃんたちに、こんにちは、したの?」
「おじちゃんがした・・」
大人たちは噴き出した。
「こんにちは、は皆でするのよ。一人がしてもしょうがないでしょ、もう、ほら、こんにちは。はい。」
知佳は百佳の後頭部に手を当て、百佳はぴょこん、と頭を下げた。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
佳奈子もあわてて頭を下げた。
床に座るのは嫌だ、と紺野が主張したので、お客さんなのにねえ、ま、私も畳に座るのって、あんまり好きじゃないんだけど、と知佳は言いながら、和室の客間ではなく、ソファのあるリビングに二人を案内した。そこには百佳の姉の知里も居て、床に座って本を読んでいた。
両親は買い物に行って戻らないとかで、知佳が入れてくれたお茶をすすりながら、3人の歯科医は妙にくつろいだ雰囲気で会話を始めた。佳奈子は案外、知佳のようなさっぱりしたタイプは苦手でなく、さっきまでの緊張もほぐれてきていた。百佳は知里と横で折り紙を始めた。
「かなこさん、一般歯科?」「開業とか考えてるの?」「どんな患者さんが多いの?」「子供は好き?」
矢継ぎ早の知佳の質問に、紺野が笑って遮った。
「面接受けに来たんじゃないんだからさ・・」
「あらやだ。ごめんなさいね。でも、かなこさんって・・」
紺野の言葉は完全に受け流されてしまった。俺は居なくても一緒か、と思い、紺野はもう一度口を開いた。
「じゃ、ちさっちゃん、行こうか。」
知里が、ぴくっ、としたような気がした。が、
「ちょっと、かなこさん一人で置いて行く気?」
知佳が紺野を止めた。
「だって、俺居なくても一緒でしょ?」
「そういうもんでもないわよ。後でいいじゃない。」
「ふーん。後でいいって。」
紺野はなんとなく知里に向けてそう言い、知里はこくりと頷いた。
後でいいって、何かしら、と思っている佳奈子に、次の質問が飛んできた。
「かなこさん、って、どういう字書くの?」
「え?あ、ハイ、にんべんに、土二つの佳に、奈良の奈、です・・」
「わ。私の、知佳の佳とおんなじ。なんかうれしいわ。」
知佳が本当に嬉しそうに言ったので、紺野は突っ込んでみた。
「何がさ?」
「おんなじ字って、なんか、姉妹みたいじゃない。なんか妹できたみたいで嬉しいわー。」
「ホント、私も、一人っ子なので、なんか嬉しいです。」
佳奈子も嬉しそうに答えている。紺野の頭にはさっきから、蚊帳の外、という言葉がちらついて仕方ない。姉と仲が悪いよりは喜ばしいことだが・・・
「無理に知佳ちゃんに合わせなくていいんだよ。」
小声で、佳奈子に言ってみる。
「そんなことないわよ。」
「聞こえてるわよ。あんた、へそ曲げないの。」
二人から反論を食らってしまった。紺野は反撃を試みた。
「でも、姉妹みたいって、知里と百佳はおんなじ字、入ってないよ。」
「いやーね、イメージよ、イメージ。いいの、この二人は私の名前が入ってるんだから。」
さすが知佳ちゃん、と感心したくなるほど強引な言い分である。知佳は全く取り合わない。
「それに、佳奈子と姉妹はちょっと無理があると思うなー、年が。」
そこでようやく、知佳の表情が変わったので、紺野は少し満足した。
「あなたたち、いくつ離れてるの?」
「7つ・・かな。」
佳奈子と顔を見合せながら答える。すると、知佳は挑戦的な笑みを浮かべた。
「あら、ずいぶん下がったじゃない?どうやって知り合ったんだって?」
歯の治療をずっと担当してて、というのはあまり言って欲しくないな、と、佳奈子が心配していると、紺野は、少し言いにくそうに切り出した。
「ん・・あの、実習のアシスタントしてたときに持ってたクラスに・・」
知佳の笑顔がさらに楽しそうな顔に変わる。
「どこかで聞いたような話ねぇ・・」
「いいから、そんなこと。」
「しゃべっていい?」
「いやだって。しゃべりたかったら自分でしゃべるから。もう。」
紺野が、本当に嫌そうな顔で言った。こういう、いかにも弟、という紺野の姿は初めてで、佳奈子は思わず笑顔になって、しみじみと言った。
「いいですねぇ・・姉弟って。」
「・・それ、今の会話を聞いた感想としておかしくない?」
紺野がおかしなものを見るような眼で佳奈子を見たが、知佳は笑顔を向けた。
「淳にいじめられたら、お姉さんに言ってね。妹、欲しかったのよー。ま、居たことあるんだけどね。居なくなっちゃったのよねぇ。あ、私がいじめたりしたせいじゃないから安心してね。」
平木と言い知佳と言い、どうやら、紺野の前の結婚はタブーではないらしい。本人が本当に怒っていないのかどうか、佳奈子はちらっ、と紺野の顔を窺った。
「ん?この小姑にいじめられたら、ちゃんと言えよ。ま、慰める以外、何もできないけど。」
怒ってはいないらしい。おおらかなのか何なのか、佳奈子は少し不思議だ。
「と。じゃ、佳奈子は小姑に任せた。やっぱりちょっと、俺、行くよ。さっさと済ませちゃいたいし。」
と、紺野は立ち上がった。
「そんな急がなくてもいいのに、まあ、淳先生がそうおっしゃるなら?じゃあ、お願いね。あ、佳奈子さんも連れて行ったら?」
「んー・・いや、今は。医院なら、また後で見せるよ。ちさっちゃん、おいで。」
紺野に言われて、知里も立ち上がる。
「ももかもいくー」
「百佳ちゃんも、また後でね。じゃ、ちょっと仕事してくるだけだから。」
紺野は佳奈子に手を振り、知里の肩に手を添えて、居間を出て行ってしまった。
「・・・仕事?」
「そ、仕事。」
義妹の疑問に短く答えると、知佳は軽くため息をついて、新しくお茶を注ぎ足した。
知佳が急に静かになったせいか、部屋に少しの間、沈黙が流れた。佳奈子がなんとなく口を開く。
「検診とか・・矯正の下見か何かですか?でも、紺野先生、小児だけど、矯正は専門じゃないですよね・・」
「え?知里のこと?普通に淳の専門、治療よ。虫歯の。」
「ああ、むしば・・」
ふと呟いて、佳奈子は、『お義兄さんは歯が悪い』と言っていた紺野の言葉を思い出してハッと口をつぐんだ。その様子を見た知佳は、なんとなく、佳奈子の考えていることの想像がついた。佳奈子の前歯がブリッジであることは、まあ見ればわかるし、左上の5番は前装冠だと思う。歯はかなり悪そうだった。将来の子供の歯のことでも考えているのだろう。
「ま、知里は、甘いもの大好きだし。私が昼間は仕事してるから、ずっと見張ってるわけにはいかないじゃない?で、外で遊んで、家でおやつ食べて、そのままくたびれて昼寝とか、よくあったのよね。ま、なるべくしてなった、って感じかしら。」
淡々と知佳は語った。さらに笑いながら続ける。
「私たちが子供の時はね、祖母が医院の経理とかやってたんだけど、ケチだったのよ。すんごいケチ。でね。自分のとこの子供が虫歯になって治しても、ちっとも儲からないんだから、子供は絶対虫歯にするな!って。何か食べたら食卓ですぐ歯磨きさせられてたのよ。お箸の横に歯ブラシ置いてあって。お友達のところで食事御馳走になったら、歯ブラシ置いてないんだもん。びっくりしたわ、ホント。祖母が亡くなったら、途端に、食卓から歯ブラシが消えたから、母はたぶん、嫌だったのよね・・」
テンポよく進む知佳の話に、佳奈子もなんとなく引き込まれてしまった。
「淳ね、今でこそあんな、何考えてるんだか分からないようなところがあるけど、子供の頃はけっこう、元気だったのよ。祖母の歯磨き攻撃に反発して、隠れて何か食べてやる!なんて言って。でも、祖母はもう、近所中の駄菓子屋さんに、うちの孫に何も食べさせるな、って根回ししてあってね。で、挙句に、落ちてたミカン拾って食べてねえ・・おなか壊したのよ、あの子。」
そこまで言って、知佳は堪え切れない、という様子で笑い出した。佳奈子も予想外の紺野の少年時代に、思わず噴き出した。
「なあに?楽しそうねえ。」
ドアが開いて、目の前の知佳にそっくりな女性が入って来た。
「あ、お帰り。えーと、こちら、佳奈子さん。」
「お邪魔してます・・あの、萩原佳奈子です。よろしく、お願いします・・」
佳奈子は慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「淳の母です。こちらこそ、お世話になって・・」
母親も頭を下げ、その姿がおかしいのか、その横で百佳が真似して頭を下げている。
・・かわいいな・・子供はやっぱり、女の子がいいな。でも、男の子だったら、紺野先生の昔みたいに元気な子になるのかしら?
佳奈子は、百佳を見ながらそんなことを考え、さっき、子供の歯が悪くなったらどうしよう・・と落ち込んでいたことなど、ほとんど忘れていたのだった。
さて。居間を後にした紺野と知里は、渡り廊下を通って、診察室に入った。今日も昼までは診察していたという診察室は、まだ冷え切ってはおらず、紺野はエアコンのスイッチを入れ、知里に聞いた。
「寒くない?」
「大丈夫。」
「じゃ、好きなとこ座っててね。」
カルテキャビネットから、知里のカルテを探し出し、技工所からの完成品が入っている棚から、インレーが載った模型を取り出した。知里が座ったブルーの治療台のトレイにカルテと模型を置き、診察用器具セットの上に被せるように置いてあるエプロンを取って、知里につける。
「先週削ったとこ、痛くならなかった?」
知里が不思議そうな顔で首を振ったのを見て、紺野は少しホッとした。実は、かなり神経ギリギリまで削ったので、心配していたのだ。
「そっか、良かった。じゃ、先週のとこ詰めて・・最後にもう一回診るけど、たぶん、今日で終わりだからね。がんばったね。」
その言葉に、知里も笑顔を見せた。
今回の始まりは、年末、紺野が帰省したときのことだった。
年末年始の連休前は、病院もかなり混む。大学病院も例外ではなかった。時間超過で働いて、渋滞を避けるために夜に車を走らせ、夜中の2時頃に実家に着いてそのまま布団にもぐりこみ、朝起きた紺野を待っていたのは、朝食、さらに、怖い顔をした姉と少し脹れっ面の知里、そして、知里が小学校でもらってきた、歯科治療勧告書だった。しかも、初夏に一度配った後も治療に行っていない生徒のための、二度目の催促用ものだ。
「お休みなのに悪いけど、叔父ちゃんじゃないと嫌だって言うの。今度は、永久歯なのよ・・」
知佳は、そう言ってため息をついた。治療勧告書には、上の6番2本がC1とC2、と書かれている。
「ん。全然構わないよ。どうせ、他に役にも立たないしね・・・」
おせち料理を作るわけでもないし、大掃除なら手伝えるのだが、義兄はマメな人で、例年、紺野が帰ってくる前にさっさと済ませてしまっているらしい。
「じゃ、早速お願い。私、ちょっと買い物行ってくるから。診察室に、一通り用意はしてあるわ。」
知佳はさっさと立ち上がった。淳はあわてて、姉に声をかける。
「あ、ひとつ聞いときたいんだけど。技工所、もう閉めてる、よね?」
お正月といえば、楽しみの半分は食事のようなものだ。下手に治療中で仮封のままになったりすると可哀想だ。
「昨日で最終だったかしら。でも、自分でもできるわよ。うちは。大学病院の先生はやらないかしら?ま、私も、ほとんどやらないんだけど。」
「・・久しくやってないから、自信ないよ。やめとく。」
紺野は笑って立ち上がり、急いで歯磨きを済ませると、知里を促して、診察室へと向かった。
歩きながら、紺野は治療勧告書をひらひら、と振った。
「ちさっちゃん、1回目のはどうしたの?」
「まだ持ってる・・夏におじちゃんが来たとき、見せようと思ってたの。・・でも、明日は見せよう、と思って、寝て、次の朝起きたら、おじちゃん、居なくなってたんだもん。」
紺野は逆に責められてしまった。
「え?・・ああ、あのときね。ごめんごめん。用事が出来て。」
思い出した。こっちに来ていた連休中、佳奈子が気になって電話したら、治療した歯が痛くなって、自分で穴を開けたというので・・あわてて車を飛ばして帰ったのだった。
「ううん、ちょっと嫌だったから、ちょうどよかったの。」
知里は言って笑い、紺野は、それは言ったらダメでしょ、と苦笑しながら、知里の肩に手をかけて、後ろから軽く押すようにして診察室に入った。知里の肩にはぴくっ、と力が入り、足取りが重くなったのが感じられた。嫌だった、は本音に違いない。
昨日で今年の診察が終わった診察室には、棚に鏡餅が飾られていた。そして冷え切っている。紺野はとりあえず、電気とエアコンのスイッチを入れた。
「そこ、座っといてね。座れる?」
一番近い治療台を指し、知里の顔を伺う。明らかにさっきよりも緊張した表情ではあるが、知里は黙って頷き、言われたとおりに治療台に上がって座った。
「寒い・・よね、えーと・・」
紺野は診察室を見回し、自分のために用意されていたらしい白衣を取って、笑いながら知里に渡した。
「はい、これでもかぶってて。」
「えー。変なの。」
知里は抗議しつつも、寒かったらしく、それを受け取った。
「一通り準備してあるって、肝心のカルテないし・・」
姉に文句を言いながら、知里のカルテを探していると、
「おじちゃーん。見てー。」
という知里の声がした。振り返ると、知里は、白衣を前後逆に着て妙に得意気である。
「うん、似合うよ。歯医者さんになるの?ちさっちゃん。」
「えー。しゅじつとかするお医者さんがいい。歯医者さんは、やだなー。」
「外科のこと?それもいいと思うけど、歯医者さんやだって言われると、なんか傷付く・・」
「ん・・ホントはヤじゃないけど・・虫歯あるから・・なれないの。」
うつむいた知里を見て、紺野は治療台の横の椅子に座った。自分も昔、歯が丈夫な人が歯医者になると信じていたことを思い出したが、知里はそれよりも、自分の虫歯を悩んでいるように思えて、少し不憫になったのだ。
「それ、別に関係ないよ?」
「ホント?」
「うん、病院の歯医者さんも、虫歯がある人の方が多いよ。ま、治してあるはずだけどね。なりたかったら、別に関係ないよ。」
「ふーん・・」
知里は真面目な顔で頷いていたが、突然、ニッ、と笑って口を開いた。
「でも、やっぱり、なりたくない。歯医者さん、皆にきらわれてるもん。」
・・ああ、忘れてたよ、知里は知佳ちゃんの子供なんだった・・昔は可愛かったのに・・
「あー、はいはい、教えてくれてありがとう・・」
紺野は苦笑いしながら、首を振って立ち上がり、再びカルテを探しに戻る。
「だいじょうぶだよー、知里はおじちゃん、嫌いじゃないからね。」
背後からフォローの声が聞こえてきて、噴き出しそうになったとき、ちょうど知里のカルテが見つかった。
「ん、それはうれしいな。」
言いながら、少し厚みのあるカルテを手に自分の所に戻ってくる紺野を見て、知里の顔にはまた、緊張の色が走った。カルテをめくると、一番最後のページには、姉の字でクリスマスの日付だけが書き込まれている。
「ママに診てもらった?」
紺野はなるべく、さらっと聞いたが、知里は、むぅっ、とふくれて首を振った。また一騒動あったに違いない。しかし、さっきまでと打って変わって知里が黙り込んでしまったので、紺野は少し後悔した。知里の気分をほぐそうと、会話してみることにする。
「・・こわい?」
ううん。また、知里は首を振っただけだ。質問の仕方が悪かった。
「じゃあ・・何が嫌かな?」
知里は今度は、少し考え込んでから、口を開いた。
「・・わかんないの。ガリガリってされるのも、ちゅうしゃも、痛いのも、好きじゃないけど・・だいじょうぶなの。」
「ん・・じゃ、歯科検診はどう?見るだけだけど。」
知里の顔がさらに曇った。治療もしてないのに、ここで泣かせちゃったら嫌だな、と、紺野は姉に似てきた姪の顔を見つめた。
「見るだけだけど・・でも、その方がいや、かも・・。」
「なんで?検診の歯医者さん怖い?怒るの?」
検診の時に、虫歯があると怒ったりする歯科医も、少なくない。しかし知里はまた首を振った。
「じゃあ、他の子にからかわれるとか。」
「なんで?」
「家が歯医者なのに、虫歯があるー、って。」
自分は経験がないので知らなかったが、実家が歯科医院の同級生たちがよく言っていたことであった。
「みんなは、歯科検診で、C1、とか聞いても、虫歯ってわかんないもん。」
「ちさっちゃんは?わかるの?」
「うん。わかるよ。あと、○、は治してある歯でしょ。」
妙に誇らしげな様子が微笑ましい。
「へえ、えらいね。まだ3年生なのに。おじちゃんは、そうだな、中学校になるくらいまで知らなかったかな。」
嬉しそうだった知里の顔は、また突然曇ってしまった。
「・・おじちゃん、虫歯なかったからだよ・・知里、マルもシーもあるもん・・だから知ってるの・・だからちっともえらくないの・・」
そう言って俯いた。
・・これだ。紺野は納得した。治療が別に嫌でないのなら、虫歯があるのは悪いことだ、と思っているせいで、歯科検診で虫歯が見つかるのが嫌、というか、虫歯があると認めたくない、という感情になるのだろう。なかなか難しい。
「でも、マルもシーもあっても、他の子は知らないんでしょ?」
うん、と、知里が顔を上げた。
「じゃ、すごいって思っていいと思うよ。ところでさ、ちさっちゃん、風邪引くの、悪いこと?」
突然聞かれて、知里は不思議そうな顔をした。
「え?わるくないよ。」
「じゃあ、転んで、怪我するのは?悪いこと?」
「うーん、よそ見してて転んだら・・だめだけど・・ちゃんとしてたら・・わるくない。」
「うん、しょうがないよね。」
うんうん、と力強く頷く知里の膝には、すりむいたらしい跡が残っていた。転んだらしい。
「じゃあ、虫歯は?」
「え・・わるい・・・」
「なんで?」
「はみがきとか、ちゃんとしてないから・・」
「あれ、ちさっちゃん、歯磨き、ちゃんとしてないの?」
「してるもん!」
「じゃあ、ちゃんとしてたんだったら、悪くないんじゃない?」
「うーん・・ホント?」
知里は考え込んで、少し首をかしげた。
「あ、でも、知里ね、おかしすきなの・・」
「え、お菓子好きだったらダメ?そんなこと言ったら、みんなショックだよ。」
「ん・・ダメじゃない・・でも・・もう、おじちゃん、変なこというから、わかんないよぅ。」
ぷるぷるぷる、と、知里は首を振った。
「何がさ。」
「だって・・虫歯になってもいいって、おかしいもん。」
「いや、なっても悪くないのと、なってもいい、は違うよ。ならない方がいいけど、なっちゃっても、ちゃんと歯磨きとかしてたら、なった人は別に悪くない。しょうがない。って、そういうこと。」
「んー・・びょうきとおんなじ?」
「まあ、歯の病気みたいな感じかな。治すのは、歯のお医者さん、だし。」
「ふーん。びょうきだったら、しょうがないねえ・・」
知里は、なんとなく納得したような顔になった。
「でもー。虫歯は治さないと、治らないからね。治さないでいるのは良くないよ?わかった?」
言いながら、知里の目をじっと見る。
「ん、わかった・・」
知里は、もぞもぞ動いて、治療台にきちんと座り直した。
「じゃ、倒すよ・・」
水平になった治療台の上では、やはり、知里は不安そうな表情だ。瞬きの回数が普段よりずいぶん多い。
「ねえ、ちさっちゃん、べーって、べろ出してごらん。」
ん?と言いながらも、知里は小さい舌を出した。
「で、それ、自分で見てみて。」
言われて、知里は一生懸命舌を突き出し、目を寄せて言われたとおりにしようとした。瞬きも忘れている。
「ははっ、もういいよ。」
「・・なに?」
紺野が笑ったので、知里はとたんに、不審そうな顔になった。
「ん?なんでもないよ。でも、ちさっちゃん、変な顔になってたよ。」
「もぅー、おじちゃんがさせたんでしょー。おじちゃんもして。」
「え?ああ、終わったらしてあげる、終わったら。」
「ぜったいだからね・・」
こっちを睨んではいるが、気がまぎれて、落ち着いたようだ。
「はいはい。あ、そうだ、今日は、すぐ治りそうだったら治すけど、そうじゃなかったら・・今日は何もしないで、お正月の後で治そうね。他の人たち、お休みだから。」
「うん。」
「じゃ、あーん。」
言いながら、右手をのばしてミラーを取り、ライトを点けて調整して、両手を知里の顎に添えてやる。
目をつぶって口を開けた知里の口の中を覗き込む。
右のDと左のEにはインレー、さらに右のEにはクラウンが入っていて、ライトをギラリと反射する。
・・6番ね・・って、あれ?虫歯、1本じゃ?
左はたしかに、C2にさしかかろうかという虫歯だが、右の6番は、虫歯になっているようには見えない。
安心して、首をのばして治療勧告を見た紺野は・・聞こえない位に小さく舌打ちした。治療勧告に書かれていたのは上の歯、今見ているのは、下の歯だったのである。ということは、これは、さらに新しく出来てしまった虫歯であるようだった。
「ちょっと頭の方下げるよ」
知里に言って治療台の角度を変え、上の歯に視線を移す。左右とも、DにもEにもインレーがあって、下よりもギラギラとまぶしく見える。
去年見た時には少し白濁していたものの、なんとか持ちこたえていた6番は、今では、治療勧告にあった通り、左右とも虫歯に侵されてしまっていた。しかも、書かれているようにC1とC2ではなく、両方ともC2になってしまっているようだ。
・・あの薬、効いてたんだ・・?
大学病院の同じ講座に、ミュータンス菌の除菌をする薬の研究をしていた同僚が居た。知里の初めての虫歯騒動のときに、知佳が試してみて欲しい、というので、それから1年に1,2度、知里にその薬を塗っていたのだった。が、1年半ほど前に、その同僚は研究をやめて田舎に帰ってしまい、その薬も製品化はされていなかったので、知里に薬を塗るのは中止になった。生えて数年無事だった6番に、今になってこんな風に虫歯ができたということは、あの薬は効いていたのかもしれない。ただ、3年も塗っていれば、ほとんど除菌できる、という彼の主張は甘かったと言える。あるいは、知里の口に住んでいる菌が相当強いか・・小さい頃に勢いづかせてしまうと、なかなか厄介だ。
「うーん、今日はちょっと、治すのやめようか。」
ミラーを抜いてそう告げると、知里の顔は嬉しそうに輝いた。やはり、治療は嫌なのだ。もうすることもないので、治療台も起こしてやる。
「でもね、ちさっちゃん・・この紙で、治しなさいって言われてるのは、上の2本なんだけど、今見たら、下の歯にも虫歯できちゃってたから、治すのは3本ね。」
「ぇ・・さんぼんも・・」
知里は顔を再び曇らせ、カルテを記入している紺野をじっと見つめた。
「・・いたい?」
さらに心配そうに尋ねる。
「ん?うーん、そんなには痛くないはずだよ。大丈夫、痛かったら麻酔するから。」
うん、と頷く知里の頭を撫で、降りていいよ、と声をかけてから、紺野はカルテを仕舞いに行った。
一番上のキャビネットを開け、手前の方を探る。実は、さっきは、紺野、を探していてなかなか見つからなかった、というのは内緒である。義兄の姓は朝倉なのであった。
「あかさか・・あきやま・・あべ・・行き過ぎた、あさか・・あ、あったあった」
朝倉、の一番手前にあったのは、義兄のものだった。相当に厚い。主治医の知佳が、2行書くのに3行分使うくらいの勢いで豪快にカルテを書くというせいもあるが・・実際に治療も多いらしかった。高校時代の同級生らしいが、結婚するきっかけになったのは、義兄が知佳の患者になったことだと聞いている。
・・知里の歯、自分のせいだと思ってるかなあ・・子供に虫歯ができたら、佳奈子は気にしそうだから・・
小児歯科医としては、虫歯になるのは遺伝よりも他の要因の方が大きいと思っているのだが、親の気持ちはどうなんだろう、と初めて気になった。そしてなにより、実はプロポーズはしたものの、少し実感が薄いと思っていたのに、無意識に子供のことまで考えている自分にも少し驚く。後で義兄さんにそれも聞いてみよう、と思っているところに、ちょうど義兄の孝太郎が現れた。
「来たばっかりで疲れてるだろうに、いきなり仕事させちゃって、悪かったね。」
孝太郎は、さらっと気遣いの言葉をくれる人だ。仕事のせいかなと思っていたが、孝太郎の父は、いかにもワンマン経営者という感じで、少し意外な気分がしたものだ。
「いや・・他に何もすることもないし、大丈夫。」
「そう?ありがとう。」
紺野に軽く頷くと、孝太郎は知里に父親の顔で向き直った。
「どうだった?診てもらった?」
「うん・・三本も、虫歯、あったの・・」
知里は、口をとがらせながら、消えそうな声で答えた。孝太郎は娘の頭に手を載せると、
「大丈夫、治せばいいから。ね?」
と言い、知里が小さく頷くのを確認すると、さらに続けた。
「おばあちゃんが、『ちいちゃんに栗きんとん作るの手伝ってもらう』って言ってたよ。」
「そうだった!」
その言葉で、知里の顔はパッと輝いた。
「じゃ、行っておいで。・・あ、おじちゃんに・・」
「あ、おじちゃん、ありがと!」
知里は、それだけ言うと風のように去って行ってしまい、紺野と孝太郎は、思わず顔を見合わせて苦笑いした。
「まさか、栗きんとんに負けるとは・・ま、機嫌が直ってよかった。けっこう落ち込んでたよ、子供なりに。知佳ちゃん、怒ったの?」
「知佳も、僕の歯は、あっさり治せばいいって言うのにさ、自分の子供となると、冷静じゃ居られないみたいで。いや、それでも、虫歯作ったってことを怒ったりはしないんだけどね。」
孝太郎はそれだけ言うと、紺野に向かって少し意味ありげに笑いながら聞いた。
「で、淳くん、話って何?」