「んっ!」
病院食堂の日替わり定食Aセット、小鉢についていた海藻サラダの氷のような冷たさが、右下の奥歯にしみた。冷凍ものを使っているに違いない。うまく解凍できていないのだ。
「・・ったく・・ちゃんと解凍くらいしろっての・・ぅう・・」
一度興奮した神経は、最近ではなかなか鎮まってくれなくなっている。他の皿に手をつけようとしていた平木は、ジンジンする歯の痛みに閉口して、ため息をついて箸を置いた。ぬるめのお茶を口に含み、落ち着くのを待つ。ただでさえ薄い食堂のお茶に、適温にするためにさらに水を入れたので、なんとも言えず不味い。しかしこのプラスティックの湯飲みは案外冷めにくく、お茶だけだといつまでも熱いままで・・それがまた歯にしみるのであった。
・・ふぅ、何やってんだ、俺。
唾液と混ざって、さらに不味くなったお茶をコクリ、と飲み込みながら、ため息をつく。先輩歯科医紺野に、ちょっとした成り行きで検診されることになり、右下6番の虫歯を指摘されてから、1ヶ月ほど経つ。その前からもときどきしみることが無いではなかったが、指摘されてから意識に上るのか、実際に虫歯が進行しているのか、やけによくしみるようになった。紺野にも、痛み出すかもしれないから早く治療しろと言われているのだが。
・・自分でも分かってるんだけど、こう、きっかけがなくって・・爺さん先生のところに行くだけなら簡単なんだけど。
子供のころからずっと診てもらっていた歯科医は、2年ほど前に引退して閉院しまったのだ。それ以来、患者として歯医者には行っていない。診てもらうなら同級生の萩原佳奈子にしよう、というところは、ようやく先週決めたのだが、連絡するきっかけもなく、ズルズルと時間が過ぎていた。
ようやく痛みがおさまり、平木は鯵フライに箸をつけた。サクッ、と噛み切って口に入れ、慎重に左の歯だけで噛むようにする。
・・めんどくせぇ。よし、今日の夜こそ連絡しよう。・・・って、毎日、昼飯食いながら思ってる気が・・・いや、今日こそ。なんて言い出そうか・・・
考えながら、無造作に茶碗に手を伸ばし、ご飯を口に放り込む。
ガリッ。
「☆★※!」
舌でもぞもぞと、固いものをご飯からより分け、口の中から出す。悪い予感どおり、やはりインレーだ。
・・はあ。ついに・・取れちゃったか・・きっかけができたとでも言いますか。
ついに歯医者に行く時が来たか、と観念して、舌で右下6番を探る・・あれ?
そこには、穴は開いていなかった。首をかしげながら、舌で奥歯を順に探っていく。平木は歯科医ではあるが、歯は丈夫でないので、大臼歯はすべて虫歯にしてしまい、インレー治療がされているのであった。
・・右下じゃない・・右上・・でもない・・左上・・あ。
左上の7番に、穴が開いていた。
・・おい、左かよ・・どうしよ。
平木は、目の前の、まだほとんど食べていない日替わり定食Aセットを見つめた。食べられないと思うと、なぜか急に空腹感を覚え、さっきまで避けていた右側で・・左側が使えなくなってしまったので・・続きを食べることにした。
・・なんだ、右でも食えるんじゃん。今まで苦労して左だけで食べること無かったな・・というか、右で食えるなら、もしかしてまだ大丈・・ぐっ。
また、冷たい海藻サラダを噛んでしまい、右下の歯に痛みが走る。じぃぃん。
食事を始めて何度目かのため息をつき、平木はまた、ぬるいお茶を口に含んで、痛みが引くのを待った。
じぃぃぃいん。
待った。
じぃぃぃぃいいん。
待った。
じぃぃぃぃぃいいいん。
・・や ば い。
痛みは引くどころか、少し強くなったような気さえする。
もう一度箸を取ったが、何かを口に運んで歯で噛み締める気は起こらなかった。
また大きくため息をつき、箸を置くと、のろのろと席を立ち、ほとんど食べ物が残ったままのお盆を下げ、自分の居室へと足を向けた。幸い、今日の午後は外来に出る予定は入っていなかった。

トクントクントクン。
「んんー」
「なんですか?よっぽど難しいことでも書いてあるんですか?」
医員室、向かいに座っていた一年後輩の狭間範子に言われ、平木は顔を上げた。
「へ?」
「へ?じゃないですよ、さっきからずっと、ウンウン言って・・1ページも進んでないじゃないですか。」
「くだらないこと見てないで、自分のことやれよ」
「平木先生がうるさくって進まないんです。いったい何読んでるんですか?」
範子が立ち上がって覗き込んできた。えーと、なんだったっけ?と、平木も開いていたページを改めて眺める。
「・・に、認定歯科衛生士試験対策・・?」
「やだ、先生、DH向けの雑誌じゃないですか。欲求不満ですか?ここのユニフォームの写真とか見てたんでしょ」
「うるせえな、この」
ブス、と言い掛けた後半を飲み込み、平木はイライラしながら席を立った。そのまま廊下に出て・・外階段に出る。タバコを口にくわえ、ポケットを探ったが、ライターは忘れてきたらしい。
かといって、部屋に戻るのも癪だ。火を点けないタバコをくわえたまま遠くを眺め、軽く顔をしかめる。
トクントクン。
「んん・・」
昼食を食べた後、ずっと痛みが引かないのだ。そして時々、脈打つような痛みの波がやってくる。どうも波が来る感覚が短くなっているような気がする。
・・まったく、陣痛じゃあるまいし。
平木は、ポケットから携帯を取り出すと、佳奈子の番号を画面に呼び出した。ここまでは何度かやったことがあるのだ。その後、なかなか通話ボタンが押せないだけだ。
・・ま、今は診察時間中だろうから・・メッセージでも残して、夕方に連絡が来るのを待てばいいか・・
平木は、ついに緑の通話ボタンを押した。呼び出し音を聞きながら、もしもし、平木ですけど、実は・・と頭の中で留守電に吹き込むメッセージを復唱していると、
『もしもし?平木君?』
と、無愛想な佳奈子の声が聞こえてきた。
「お、おい、なんで出るんだよ」
動揺して、変なことを口走ってしまう。
『そっちからかけといて、なんで出るんだよ、も無くない?』
「そうだけどさあ。今、どこ?出かけてんの?」
『仕事場ですー。って、片付けて帰るとこだけれど。何?恋愛相談かなんか?』
「それとはちょっと違うんだけど・・帰るって何で?診察中じゃないの?」
平木の声の中の小さな焦りを、勘の鋭い同級生は聞き逃さなかったようだ。
『んふふ。もしかして・・・歯医者の私に用事があるのかな?』
平木は観念してため息をつくと、ここは素直に、とはいえそのまま頼むのは恥ずかしく、微妙な言い回しで乗っかることにした。
「ん、まあ・・。萩原先生に診てほしい患者が居るんだけど。」
『今すぐ?』
「で、できれば早いほうが・・・。」
ちょっと緊張しているせいか、再び右下が痛み出した。頬をさすりながら、佳奈子の返事を待った。
『そう。平木くん、ついてるわよ。今日の午後は休診だから。今から来てくれれば診るわ。』
「おぁ・・助かった・・」
思わず情けない声を出した平木に、佳奈子はおかしそうに言った。
『やだ、そんなに切羽詰ってたの?一つ言っておくけど、私、紺野先生みたいに優しくないわよ。手先はおんなじくらい器用だと思ってるけど。』
「あ、かまわない・・頼む。」
一瞬不安も覚えたが、引くわけにもいかなかった。
『じゃ、待ってるわ。場所分かる?』
「ん。」
そうして平木は、吸っていないタバコを、どうしようか一瞬迷ってから灰皿に突っ込み、佳奈子の待つ歯科医院へ、嫌々ながら、しかし行かざるを得ない状態で向かったのだった。

・・う、いて・・
目的の歯科医院に着いたとき、ちょうど強い痛みの波がやってきた。顔をしかめながらドアを開けると、正面に佳奈子が腕を組んで立っていた。
「患者さんは?連れて来なかったの?」
ふふふっ、と笑いながら、佳奈子は平木の後ろのドアの鍵をかける。休診中なのだから当然だが、平木はふと、退路を断たれたような気分になった。
「ん・・あ、悪いな、休みなのに」
「こっちも休日の朝からお世話になったことがあるし。あの時はありがとね。ま、お互い様ってことで。」
佳奈子は、肩をすくめ、診察室へと入った。
「あ・・あの、さっき言い忘れたんだけどさ」
後を追いかけるようにして、平木が声をかける。
「俺が・・駆け込んできたって、紺野先生に言わないで欲しいんだけど。」
佳奈子は平木の顔を見て、目をぱちくりさせた。
「もう言っちゃったけど?」
「ちょ、なんでだよ・・自分の患者のことを他人に軽々しく話すのかよぅ。」
平木は口を尖らせた。
「軽々しくは話さないわよ。でも、今回は紺野先生、紹介者なんだもん。紹介された患者の経過を報告するのはまあ、普通でしょ」
佳奈子は笑った。納得が行かないような顔をして突っ立っている平木に、佳奈子はさらに続けた。
「平木くんがたぶん来るからよろしくって言われたの。もう2,3週間前かな?まだ来ないか、って一昨日も言ってたからね、やっと来ます、って、さっきメール打っちゃった。駆け込んできたとは言ってないけど。ほら、早く座って。」
・・紺野先生、最近何も言わないと思ったけど、忘れてたわけじゃないのか、案外世話焼きというか・・
とため息をつきながら、平木は指し示された治療台に座った。佳奈子は、作りかけたカルテを控え室に忘れてきた、と、診察室から出て行ってしまった。一人治療台の上に取り残され、大学病院よりも、診察室の色合いや雰囲気がやわらかいな、と、物珍しそうに周囲を見回していると、
「こんにちは。衛生士の金子です。エプロンつけますねー。」
と言いながら、どこからともなく若くて可愛い衛生士が現れた。
「わ、いえ、自分ででき・・あ、どうもすみません。」
診察室だけでなく、スタッフも可愛いのか、と平木は変なところに感心した。爺さん先生のところに居た衛生士は、奥さん、つまりおばあちゃんだった。病院の衛生士は怖いおばちゃんが多いし・・。
「で、今日はどうされました?」
「えっと・・インレー脱離です・・左上7番。それと・・」
「あ、先生なんでしたよね。萩原先生と同期だとか。」
言葉の途中でにっこり微笑まれて、平木は、痛む歯がある、と言い出せなくなってしまった。先生、と呼ばれながら、歯が痛いんです、なんて、恥ずかしくて言えたものではない。
・・患者としては、ばあちゃんの方が気楽でいいな・・
思ったとき、また痛みの波がやってきた。当然、右下に、である。
「う・・」
しかし、突然襲ってきた痛みの中でも、とっさに左頬を押さえた見栄っ張りぶりに、平木は自分でも呆れた。
「えっと、インレーはお持ちですか?って、あら、痛みますか?痛むなら再治療になると思いますけど、お持ちだったら、一応。」
「あ、あります。」
ポケットから取り出して、差し出されたトレイの上に置く。
実は左上は痛くないのだが、右下のことは、いつ言い出そう、と思っているうちに、佳奈子が戻ってきた。
・・萩原さんに気付いてもらえるかなあ・・
淡い期待を抱いていると、夏美が、
「えっと、インレー脱離だそうです、左上7番。」
と佳奈子に報告してしまった。佳奈子が、あら、という顔をする。
「なんだ、そうなの。てっきり、どこか痛くて泣きついてきたのかと思っちゃった。」
「やだ先生、こちらも先生なんでしょ。」
「それは理由にならないじゃない。歯医者だって虫歯になるって知ってるでしょ。」
「そうですけどー。さすがに、痛くて泣きつくまではなかなか・・萩原先生ちょっと隠そうとしてましたけどね。」
「もう、患者さんの前でそんなこと言わないでくれる?ま、私の先生でもあったけど、ね?」
「ん?あ、ああ。」
佳奈子に話を振られ、平木はあいまいに微笑んだだけだった。平木はまたも、歯が痛むと訴えるきっかけを失った。
「じゃ、見せてもらいましょうか。左上だっけ?」
「・・ん。頼む。」
そうして、治療台はゆっくりと倒れていった。痛くない左上7番の治療のために。

カン、と乾いた音を立ててライトが点灯され、佳奈子の手が顎に添えられた。ラテックスを通しても、少しひんやりした手の冷たさが伝わってくる。
「はい、お口開けて・・」
少しゆっくりと平木が口を開けると、さらに治療台の頭の方がわずかに下がった。ミラーが口の中に差し込まれる。
「ああ、ここね・・ちょっとエアかけるわよ」
佳奈子は、スリーウェイシリンジを引き出し、インレーが脱離してしまった後の窩洞に光る唾液を吹き飛ばすためにエアーをかけた。
シュッ、シュッ。
「んぁっ」
平木は顔をしかめて小さく声を上げる。後には、やはり、少し齲蝕が進行しているのが見えた。
「んー、神経までは行ってないといいけど」
そう言いながら右手でスプーンエキスカベータを取り上げた佳奈子は、それを平木の口の中に持っていく途中で、「あ。」と言って止めた。口の中に入れていたミラーも抜いて、平木に尋ねる。
「これ、嫌なんだっけ?」
「え?」
一瞬、何のことか分からなかった平木は、佳奈子が手に持つスプーンエキスカベータを見て苦笑した。
たしかに、のぞみの診察のときに、紺野にスプーンエキスカが苦手だと言ったことがある。
「そんなことまで申し送られてるのかよ・・でも実際、苦手なんだよね。コリコリ、ってされると、もぞもぞもぞ、ってするじゃん。」
「するかなあ・・する?」
佳奈子は首をかしげながら、夏美に聞いた。
「しますね・・わかります、わかります。」
夏美は、平木の方を見て頷きながら言った。
「だよね。」
うれしいことに、夏美の同意が得られ、平木は満足そうに言った。
「ふーん、そうなの・・私は削り過ぎなくっていいと思ってるんだけど・・じゃ、やめとく?他の使おうか?」
「いや、どうしても私はこれじゃないと、って言うならいいけど。他のでもいいんだよね?」
「別にいいわよ。じゃ・・。」
佳奈子は、右手のエキスカを置くと、代わりに超音波スケーラを手にした。
平木はそれを横目で見ながら、
・・へえ、あくまでも削り過ぎないようにって方針なのか・・
と感心していた。一般歯科から遠ざかって久しく、根がいかに綺麗に詰まるか、というところで生きている平木には、やや新鮮である。時には違う職場で、違う論理に接するのも面白い。
そんな真面目なことを考えていた平木の歯に、プィン、という振動が伝わったと思うと、直後、鋭い痛みが走った。
「ぁはっ!」
声を上げ、ビクンッ、と体を突っ張らせてしまう。幸い、佳奈子はすぐに手を止めてくれたが・・
「やだ、痛かった?削る前にちょっと様子見るだけだからいいかな、って思ったんだけれど。麻酔入れる?」
涼しげに言う佳奈子に、平木は涙目で頷いた。
「じゃ、シンマ・・」
「はい。」
夏美が立って、準備してきたシリンジを佳奈子に手渡した。
「あら、カートリッジ温めてあった?」
「はい・・さっき、痛むみたいでしたから。要るかなって。」
・・可愛いだけじゃなく、優しいし良く気が付くよ、この金子さん・・・
平木は感動しながら、佳奈子に促されるままに口を開けた。
「はい、チクッとしますよ・・って、これ言っちゃうの、条件反射よね。」
佳奈子の言葉通り、かすかにチクッとはしたが、痛みはあまり感じない。
・・うーん、腕はたしかに良さそうなんだが。
シリンジを抜いた佳奈子は、そのまま、再びスケーラを取って、治療に入ろうとした。
「おぁい。」
ミラーが入っているので口を開けさせられたまま、なんとか声を上げ、佳奈子の動きを制する。
「どうしたの?口ゆすぎたい?」
佳奈子がミラーを抜いて、怪訝そうな顔で尋ねてきた。
「いや、麻酔効くまで待ってくれよ。」
平木の目には、哀願の色さえ浮かんでいる。
「ん?ああ、そう?普通の患者さんのときは待つんだけどね。平木くん歯医者だし、いいかなって。」
目を細めて微笑んでくる佳奈子に、
「良くねぇだろ」
平木は小さく不満を漏らすのが精一杯だった。
「じゃ、待ってる間に、他のところ見せてもらおうかしら?他にもあるみたいだし。そもそも、紺野先生に言われたの、違うとこだと思うんだけど。」
言われた途端、しばらく忘れていた右下の痛みがまたぶり返してきた。
「んぅ、そう・・です」
「じゃ、金子さん、カルテお願い」
「はい」
言われた夏美が、カルテとペンを構えた。
「じゃ、診せてもらいましょうか、平木先生。」
・・わざわざ、先生って言わなくってもいいのに・・
近づいてくるミラーを見て、平木は口を開け、目を閉じた。

・・そうそう、だいたい、こんな感じだったわ。
昔、実習でペアを組んでいたときに、良く見たことがあるのだ。あれから7,8年経った今、平木の口腔内を見て、佳奈子は妙に安心感を覚えた。この間、初めて、紺野の歯を磨いたのだが、前歯の1本を除き、すべて真っ白く綺麗な歯が並んでいて、佳奈子はいたたまれない気持ちになったのだった。それにひきかえ、平木の歯は・・・
大臼歯にはギラギラとインレーやアンレーが咲き乱れている。
さらに、たしかレジンで治療されていただけの前歯は、4本ずらりと裏が銀色のメタルボンドに変わっている。
「先生?」
何も言われないので、夏美が佳奈子に声を掛け、それを聞いた平木も不安そうに目を開けた。
「あ、ごめん、実習で見てたとき、どんなだったかなって考えてて。右上からお願い。」
佳奈子は慌てて、右上の歯に視線を移した。
「えっと、8番○、7番○、6番も○・・・5番は・・大丈夫ね、4番がちょっとね・・」
・・ああ、この間も何か言われたっけ・・
平木は、ぼんやりと考えながら、また目を閉じた。直後、歯の間に探針が食い込んできた。
「んぁぃっ」
思わず声を漏らし、顔を歪めた。
「あら、痛い?ま、たしかに、見た目よりは、けっこう進んでるみたいだけれど。」
佳奈子は淡々と言いながら、同じところを違う方向から、カリカリと突き回している。
「んぁ・・あぁっ・・」
時々、痛いところに当たり、平木は不覚にも、治療台の上で呻き声を連発することになった。
「これは早く治したほうがいいわね、4番C2で・・3番もC2です。2番から・・」
ようやく、探針が虫歯の箇所を離れ、平木はホッと力を抜いた。
「左の2番まで○、MBね・・3番から5番は斜線、6番は○、7番・・これから治すところ、インレー脱離です。8番も○。」
夏美は、カルテをつけながら、驚いていた。さっき、初めて平木の口の中を見たときも、そのギラギラぶりに、
・・これが歯医者さんの口?
と軽く驚いたが、今数えると、上の歯16本に、健全歯は4本しかない。
「じゃ、下行きますね・・左下ね、ここも、8番から6番まで○でしょ・・5番から右の5・・じゃないわ、4番まで斜線。5番はね、C1かなぁ・・。次・・ちょっと、痛くないの?」
佳奈子が軽く眉をひそめて、呟くように言った。
・・いてーよ。だから来たんだって。
平木は心の中で答え、少し目を開けて様子を伺おうとした。痛そうだから、先に治しましょ、とか言ってくれたりしないだろうか・・と、淡い期待を抱いたのである。
しかし、佳奈子は、
「痛そうだけどねえ・・今日のところが治ったら、次はこの歯治すわよ。紺野先生に頼まれたの、右上かと思ったけど、きっとココよね。逃げないでちゃんと来てよね?」
と言って、平木を軽く睨むような表情で微笑んだだけだ。
他人に、どこが痛いかなんて分かるわけはないのであった。
平木は、せめて、探針グリグリはやめてくれ・・と願うことしかできなかった。
祈りが通じたのか、佳奈子はそのまま、
「6番はそうねえ、ギリギリC2・・ううん、やっぱりC3で。7番と8番は○。」
と言って、あっさりと検診を終えた。
「平木先生、5本も治すとこあったわよ・・と、言いたいとこだけど、もう麻酔も効いた頃でしょ、お説教は後にして、とりあえず、治療始めるわ。口開けて。」
佳奈子が再び、スケーラを手に取り、左手のミラーで、平木の口をぐいっと大きく左奥に開かせると、カルテをどこかに置いた夏美も、バキュームを平木の口に突っ込んだ。
・・あが・・ぐるじ・・・
そういえば、奥歯の治療を受けるのは久しぶりだった。前歯の治療の痛さにも参ったが、奥は奥で、口のあまり大きくない平木には、これまた辛いのであった。
「ちょっと苦しそうだけど・・頑張ってね、じゃ、行きます」
意外な佳奈子の優しい言葉を聞いた直後、プィイイイ、という独特の音が歯から頭の中に響いてきた。
プィン、プィン、プィンン
シュ、スコココ・・
プィン、プィン・・・
ときどき、夏美が、水をかけて洗いながら進めているらしい。
・・・へえ、なかなかいいコンビだね?
平木は、大学病院の怖い衛生士を思い浮かべながら、少し羨ましく思った。と、そのとき。
「ぁは!」
突然、痛みが襲ってきて、思わず声を上げる。
「あら・・痛かった?まだ平気だと思ったけど・・」
佳奈子が手を止めた。
「あ・・いや・・らいじょう・・」
本当だ。左上は大丈夫なのだ。痛むのは、しばらく忘れかけていた、右下の歯の方だ。
「・・そう?なら、もう少し続けるけど・・。」
佳奈子は、トレーに置いてあった齲蝕検知液を手に取った。
患歯に垂らし、軽く洗って、ミラーでじっくりと見る。
「うん、もう少しでいいと思うわ、我慢して。」
残りの治療の間、平木はかすかに呻き続け、夏美にずっと励まされることになったのだった。

「はい、終わり。口ゆすいで。」
佳奈子が言って、治療台を起こす。
「そんなに痛いようには見えないんだけど・・抜髄する必要もないと思うし。このまま型取っちゃうつもりだけど。自分でも見る?」
難しい顔の平木を、佳奈子が不思議そうに覗き込みながら言った。
「あ、いや、いい。信用しときます。」
平木の答えがおかしかったのか、印象トレイを持ってきた夏美が、んふふ、と吹き出した。
「平木先生、面白いですね。はい、噛んでください・・」
「んぅ・・」
右下が痛くて、また思わず呻いてしまう。
「何?まさか、印象、沁みた?」
佳奈子が眉をひそめながら聞いて来るので、平木は首を降った。
「じゃあ、いいけど・・もし、今晩痛くなっても、私、救急センターの当番だから、診てあげられないわよ?ま、センターに来てくれればいいけれどね。」
・・おいおい、顔見知りも居る中に、歯が痛いですなんて、恥ずかしくて、行けるかよ・・・
平木は、カルテを書いている佳奈子を見ながら心の中で・・印象を取っていて口がきけないので・・思っていた。
その後、仮封もしてもらい、治療台から立ち上がる頃には、右下の痛みもまた少し治まっていた。佳奈子も拍子抜けするほど優しかったし、平木は少しホッとした気分で、2年ぶりの歯科を後にした。
が、その気分は1分と持たなかった。ドアの前の2段ほどの階段を降り、最後に右足で着地した瞬間、衝撃が右下の歯に走った。
「はぉぅっ」
思わず、しゃがみ込みそうになるのを抑え、手を頬に当てて立ち止まる。
・・はあ・・とりあえず、家帰って薬飲むか・・。
歯医者の前に居るというのに、中に入ろうという考えは浮かばず、平木は、歯に響かないように、慎重に歩き出した。

数時間後。
平木は、自宅のベッドの上で、冷や汗を流しながら呻く羽目になった。
「んぅぅうううう」
頭まで痛いような気がする。痛み止めは、もう、実は2倍飲んでしまったので、これ以上飲むわけにも行かない。
・・穴さえ開けてもらえば・・いいはずなんだけど・・
平木は、枕元に置いた携帯に手を伸ばし、発信履歴の一番上の佳奈子を選び、通話ボタンを押した。一日に二度も、佳奈子に助けを求めることになるとは・・・
今度は、祈るような気持ちで、平木は呼び出し音を聞いていた。
そのころ、佳奈子は家でおにぎりを作っていた。救急センターの当番は、だいたい9時から3時まで。途中で小腹が空くのだ。もちろんコンビニも近くにあるが、忙しい日は外にも出られない。そして、忙しいかどうかは、行ってみないとわからないのだった。
たいていは行く前に何か買うところだが、午後が休診だったので、まだ2時間ほど時間があるし、それに、今日は紺野と一緒に入ることになっている。おそらく、ギリギリまで研究室で論文書きをしてから来るであろう紺野がササっと食べられるようにと、小さめのおにぎりをせっせと握っていた。
「それにしても、ちょっと多かったかしら・・」
数を数えながら、満足げに眺めていると、携帯が鳴った。
「あ、はーい・・あっと、手、手・・」
あわてて、ご飯粒の付いた手を洗い、タオルで手を拭いて電話を手に取る。どうやら、平木かららしい。
・・何?痛くなったのかしら・・変ね。
「もしもし?」
紺野が言うところの「不機嫌そうな」声で電話に出ると、苦しげな平木の声が聞こえてきた。
「あの・・萩原さん、助けて・・ぅ・・欲しいんだけど」
「何?どうしたの?痛み出しちゃった?そんな風には見えなかったんだけど・・」
「ん・・あの、治してもらったほう・・じゃなくて・・右の・・下・・んぅっ・・」
「あー」
佳奈子は、ピンと来た。虫歯持ちのカンとでも言おうか・・
「もしかして、昼間から痛かったんじゃない?正直に言いなさい?」
「ん・・まあ、そう・・なんだ・・」
やはり、痛くて駆け込んで来たのである。インレー脱離は不幸なおまけだろう。
「もう、どうしてちゃんと言わないのよ。言わないと、こっちには、どこが痛いなんて分からないんだから。」
どこかで聞いたような台詞だわ、と思いながらも佳奈子は、少しずつお説教モードになってきた。
「はい・・うぅ・・で、今から・・診てくれたり・・・」
「そうね・・でも、今からうちの医院に行くってのは・・ちょっとタイトだから、救急センターの方がいいんだけれど」
「ど、どこでもいいよ・・」
よほど切羽詰っているらしい。
「でも、センターだと逆に、勝手に早く行って入れてあげるって、できないじゃない・・?」
「はぁぁ・・」
平木が、泣き声のようなため息をついた。
「泣かないの。まあ、リーダーによっては、待合室の人を見て、30分くらい早く開けたりするわよね・・。リーダーに頼んでみれば、早めに入れてあげることも・・」
「た、たのむ・・・」
「でもね、今日のリーダー、紺野先生なのよね。」
「ぁああ」
平木は、自分のタイミングの悪さを呪った。
あれだけ、痛み出す前に歯医者に行けと言われていたのに・・・
「んふふ」
あまりに情けない平木の声に、悪いとは思いつつも、佳奈子は思わず笑ってしまった。
「笑うなよ・・でも、それでもいいから・・」
「よっぽど痛いのね。ちょっと聞いてみる。たぶん、書きものしてるだけだから、早めに来られるとは思うんだけど。」
「ん・・ぅぅ・・おねがいします・・・」
平木は、電話を切り、時計を見ながら、早く見てもらえるとしても1時間は待つのか、と、絶望的な気分になった。

携帯を握りしめるようにして待つこと5分、意外にも早く、佳奈子から連絡が来た。
「平木君?」
「どう・・らった?」
右手で頬を押さえながら話すので、若干しゃべりにくい。
「知らない相手でもないんだし、平木君が自分で頼めばいいんじゃないのかなって。」
「え・・はぅ・・」
平木は絶句した。この情けない状態を見られるのは我慢するにしても、自分で頼むのは、さすがにちょっとハードルが高い。
「思ったんだけどね、ま、恩もあるし、歯が痛いのにそれは可哀想よね。で、本題。紺野先生、早めに開けてくれるって。」
だったら最初からそう言えよ、と心の中で突っ込みつつ、少し安心すると、また強い痛みがやってきた。
「んぅ・・うぁ・・で、い、いつ?」
「私は45分後にセンターで、って約束したんだけど。平木君は、ついでだから、紺野先生が拾って行くって言ってたわよ。だから、そのまま家で待ってて。」
「あ・・ん・・わかった。」
離婚してから、紺野がこの家に来るのは初めてではないだろうか。平木は元義弟なりに、少し心配になった。
「それに、紺野先生が、何か言うことあるらしいわよ。じゃ、後でね。待ってるわよ、ふふ。」
「えっ・・あ・・あの・・」
最後の佳奈子の笑いも不安を煽るが、紺野が何か言うことがあるというのも、さらに気になる。怒られるのだろうか。
「はぁぁ・・」
ツー、ツー、という音の聞こえてくる電話を握りしめ、平木はさらに重い気分になった。歯だけでなく、胃まで痛くなりそうだった。

「ちょっと。お兄ちゃん。一馬くん。」
「ん・・?ぅ、あぅ!」
母親に揺すられ、目を開けた平木は、激痛に顔をしかめた。歯があんなに痛かったのに、眠ってしまったらしい。
「紺野さんが来てくれたわよ。歯が痛いんですって?もう・・ホントに・・歯医者さんでしょう・・」
情けなさそうに首を振る母親の後ろから、紺野がひょい、とあらわれた。
「一馬くーん、歯医者さんの時間だぞー。」
紺野がベッドの横までやってきて、膝を曲げて視線を低くすると、横になっている平木の顔を覗き込む。
ぷっ、と後ろで母親が吹き出したのには腹が立つが、紺野の小児歯科医ぶりには少し感心した。
・・・なるほど、同じ高さに目があると、ちょっと安心する・・・って、俺は子供かよ、はぅ・・痛ぇ・・・
「んくぅ・・」
思わず喉の奥から声を洩らす。
「泣いても、痛いのは治らないぞ。ほら、支度しろ。怖い先生が待ってるから。」
紺野にポンポン、と肩をたたかれ、平木も右頬をさすりながら、のっそりと起き上った。
「泣いてないだろ、あぁ、いて・・」
しかし、少し涙目になっているのも事実であった。

「どうも、突然お邪魔しましてすみませんでした」
「いえいえ、こちらこそ、いろいろと、なんと言っていいか・・ホント、すみませんでした・・あ、一馬、よろしくお願いします」
「あ、はい・・」
玄関先で日本人らしく頭を下げあっている母親と紺野を置いて、平木はさっさと玄関を出た。
・・ああ、痛・・明日仕事できっかな・・
頬を撫でながらため息をついていると、紺野が出てきたので、二人で車に乗り込む。
「思わぬとこで、時間食っちゃったよ。佳奈子怒ってるぞ。ちょっと電話しといてくれ。」
エンジンをかけながら、紺野が言った。
「自分でしろよ・・」
と言いながら携帯を取り出すと、紺野からの着信が3件あることに気付いた。
「あれ、電話くれた?」
「ああ、したよ。」
少しぶっきらぼうな紺野の返事に、平木は少し不思議に思ってさらに聞いた。
「なんで?」
「なんでって・・家の前に来たから出て来いって。何回鳴らしても出ないから・・・家の中まで迎えに行く羽目になったんじゃないか。」
「羽目にってそんな、大袈裟な。」
笑いを含んだ声で言った平木をちらりと横目で睨んで、紺野は口を開いた。
「お前もいっぺん離婚してみろ。」
あ、やべ、忘れてた、と思い、平木はあわててフォローを入れた。
「いや、でもさ、うちでは皆、姉ちゃんが悪いって思ってるから。平気・・」
「だーかーら嫌だったの。」
ちょうど信号が赤になり、車を止めたが、紺野は前を睨んだまま答えた。怒っているようにも見える。
「あの家に居る間に、お母さんに何回すみませんでしたって言われたか・・・」
言いながら、紺野は指を折り始めた。
「玄関開けていきなり2連発、玄関上がるまでに1回だろ、階段上がりながら・・」
平木は吹き出した。同時に、激痛が走り、両手で頬を押さえて呻く。
「う、ぅお・・」
「お前こそ、そんな、大袈裟な。」
車を発進させながら、呆れたように言う紺野に、今度は平木が言い返した。
「いっぺん虫歯になってみろ・・ぅう・・」
「もしなっても、そんなになる前に治すから、関係ないな。だいたい、それ、治せっていつ言ったっけ?」
負けた。平木は気になっていたことを聞いた。
「1ヶ月前・・ところで、言うことあるって、説教?もう十分反省してるからさぁ・・」
「あ、そうだった。違う違う、説教じゃなくて。」
言いながら、紺野は笑った。
「今日入るDHさん、守田美加さんって言うんだけど・・・どこかで聞いたことある名前だなって・・・」
「あぁぁ・・」
平木は頭を抱えた。美加は、衛生士学校から来ていた、部活のマネージャーだったが、どういうわけか、平木を「憧れの先輩」という目で見ていたのだ。そんな彼女の前で、痛むまで放っておいた虫歯を治療されるなんて・・・
「大丈夫、学生時代の憧れの人ってのは、再会したらがっかり、と決まってるんだ・・さ、着いた。」
「そうでもない人があそこにいるじゃん・・」
フロントグラス越しに、学生時代の憧れの人にまだ憧れている、佳奈子が見えた。
「いや・・そろそろ・・まあ、時間の問題だと思うよ・・そういえばお前、結局、電話しなかっただろ・・・」
「あ・・」
あわてて車を降りた2人は、佳奈子に向かって走り出し・・直後、平木は、右頬を押さえてうずくまる羽目になったのだった。
走った衝撃が、顎を殴られたときのように突き抜け、しかも、脈打つように痛み続けた。
「・・うう・・いだ・・」
「ホントに・・なんで昼来た時に黙ってたのよ」
佳奈子の声が上から降って来た。
「私、そんなに怖くなかったわよね?」
でも、今、怖いです・・平木は佳奈子の顔を見上げた。間違いなく、涙目になっているに違いない。
「おれの気持ち、わかっ・・」
横から口を出した紺野は、佳奈子に睨まれて口をつぐんだ。『それ、今言うこと?』と目が語っている。
「ま、とにかく、もう準備できてるから。なんとかできるかどうか、診ましょ。」
そう言って、佳奈子はスタスタと、駐車場から建物の中に入って行った。
・・なんとかできるかどうかって!なんとかしてよ!
後を慌てて追おうとした平木は、またも痛む歯に衝撃が走り、
「はうぅ・・・」
と呻きながら、佳奈子の後を付いて行った。紺野がその横に付き添うように歩く。
ちょうど診察室の目の前に来たとき、件の美加が「平木先生!」と嬉しそうな声を出しながらあらわれた。
・・あああ・・
平木は、穴があったら入りたい、という言葉を体で理解した。
「あれ?でも、今日、3人Dの日じゃないですよね?」
救急センターは、週末や連休のときだけ、歯科医が3人で、普段は2人なのだ。
怪訝そうに言った美加は、頬を押さえている平木の様子に気づくと、突然、紺野をきっ、と睨んで言った。
「ちょっと、どうしたんですか・・紺野先生に、殴られたんですか!」
「は?」
平木を含んだ全員が、同じ反応を返した。
「俺が、そんな暴力的に見えるか?」
紺野が苦笑いしながら言った。すると美加は、今度は佳奈子を睨んだ。
「じゃ、萩原先生が殴ったんですね!?」
佳奈子は嫌そうな顔をして立ち止まった。後ろで平木が、
「うぅ・・はやぐ・・」
と、半泣きの呻き声を上げる。
「ほら、わかった?これは先生じゃなくて患者さんなの。殴られたんじゃなくて、虫歯を放っておいたのが痛み出して、どうしようもなくなって駆け込んで来たの。というわけで、時間前だけれど、仕事よ、守田さん。」
「う・・そ・・そんなはず・・」
美加は、自分は歯が丈夫で潔癖症なタイプの衛生士であった。あまり他人の虫歯には寛大になれない。まして、憧れの歯科医に虫歯があるなんて、信じられないことであった。呆然とつぶやく美加を残して、佳奈子はさっさと診察室に入って行った。平木も後に続き、今のところ待合室に誰も居ないので、することもない紺野も、とりあえず中に入ることにした。

「ほら、早く座って。」
診察室の中に入ると、佳奈子が、手袋をはめながら平木を促した。平木はそろそろと歩き、治療台に座る。美加がまだ外でぼんやりしているので、仕方なく、紺野が平木にエプロンをつけた。
やめてくれ、と言う元気もなく、平木はされるがままだ。
「今日はどうしましたか?・・って、聞いた方がいい?」
紺野は冗談で言ったつもりだったが、佳奈子は椅子に座りながら同意した。
「そうね。一応聞いておきましょうか。どうしたのかしら?」
言いながら、平木の顔をじっ、と見る。
「は・・歯が・・いだい・・でふ」
強く頬を押さえたまま、平木は訴えた。目をスッと細めた佳奈子の手が伸びてきて、その手をどける。
「ぁあぁ」
頬に手を当てていても、痛みが和らいでいたわけではないのに、手をどけられると、それはそれで痛みが増すような気がするから不思議である。平木は思わず声を上げた。
「んー、腫れては・・ないかしらね・・明日は?仕事?」
頬に触れながら、佳奈子が淡々と聞いてくる。
・・そんなことより・・早く・・なんとかしてくれ・・・
思いながらも、こくこくと頷く。願いが通じたのか、治療台が倒れ始めた。
「そう。遅刻の言い訳考えておいた方がいいわ。明日の朝から働くのは無理かもしれないわよ。」
上から冷静な佳奈子の声が降ってくる。頭が低くなって、痛みが増したうえに、佳奈子の残酷な言葉を聞いて、平木は顔をしかめた。
「あのね、別に意地悪で言ってるんじゃないのよ。私の経験上、の話なんだから。」
佳奈子は、黒い前歯の裏を見せながら言うと、マスクをつけ、ライトを点灯した。
「じゃ、とりあえず診るわ、あーん・・」
・・ああ・・これで・・楽に・・
普段、根の治療は数多く担当しているものの、痛みの強い急性状態の患者をほとんど診ることのない平木は、ホッとしながら口を開けた・・・
「ふががっ!」
いきなり、痛む歯に鋭い刺激を感じて、平木は顔をしかめて叫んだ。
おそるおそる目を開けると、佳奈子が先の尖ったピンセットを突っ込んだらしい。
「んー、ほとんど取れそうに見えるのに、ずいぶんしっかりくっついてるのね・・」
佳奈子は不思議そうに、あるいはやや不満そうにも聞こえる声で呟くと、持っていたピンセットで今度はロールワッテを平木の口に突っ込みながら、
「シンマください。」
と言った。周囲を見回し、佳奈子と平木の他に居るのは自分だけか、と悟った紺野が、傍のワゴンに置いてあったシリンジを取って、佳奈子に手渡す。
「はい。」
佳奈子はびっくりしたように顔を上げた。
「あ、先生。すみません、先生使って・・守田さんは?」
「いや、別に暇だからいいよ。彼女は・・まだ外でぼんやりしてるみたい。」
診察室の外を振り返り、紺野は答えた。補助者用の椅子を前後逆にして座ると、低めの背もたれに両肘を載せて腕を組み、平木の口の中を覗く。
「あーあー。進んじゃったんじゃないか?」
平木は口を閉じて紺野の目から虫歯を隠したかったが、ミラーが口の中に入っていて、さらにシリンジが近付いてきたので、そうもいかなかった。左手でしっしっ、と追い払おうとすると、
「動かないで。」
と佳奈子にたしなめられた。直後、チクッ、と歯茎に針が刺さり、じわーっと熱い感覚が入ってくる。
「先生、代わります?」
ゆっくりと麻酔を入れながら、佳奈子は紺野に話しかけた。
「いや、いい・・君の患者さんでしょ?それに、ほら、急患で子供が来るかもしれないし。」
「あー、そうですね、それは先生の方がいいですね。・・・はい、いいわ。口ゆすぎたかったらゆすいで。平気だと思うけれど。」
佳奈子はそう言って、マスクを外しながら立ち上がると治療の器具を揃えに行った。紺野と会話しつつも、丁寧に作業したようで、特に麻酔は漏れていない。
「あ、平気・・あっ、ぁあ・・」
返事をした途端、また痛みの波が来て、平木は声を上げて顔をしかめた。
その様子を見て、紺野が苦笑いする。
「だから早く行けって言ったのに。言うこと聞かないから。」
突然、のんびりした佳奈子の声が聞こえてきた。
「そういえば先生、ご飯食べて来ました?」
「ん?ああ、始まる前に食べてこよう、って、いつも思うんだけど、時間がなかった・・いや、いつものことだから、お前を責めてるわけじゃないんだけど。」
なぜか紺野は、平木にフォローを入れた。平木は治療台に横たわったままなので、なんとも複雑な気分になる。憐れまれているような・・・
「よかった、おにぎり作って来たんですよ。後で食べてください。ちょっと作りすぎちゃったんですけど・・」
佳奈子は嬉しそうに言った。タイミングを合わせるように、平木のお腹が、ぐーっ、と鳴った。
昼はほとんど食べられなかったし、夜ももちろん、食べていない。当然、お腹は空いているのだ。
笑い出した紺野と佳奈子に合わせて、平木も自分でも笑ってしまった。
そのとき、受付のスタッフが紺野を呼びにきた。
「紺野先生・・お手すきですか?急患です。小学3年生の男の子なんですけど・・2番に入ってもらっていいですか?」
「あ、はい、大丈夫です。って、おっと、白衣着てないし。」
紺野はそう言って立ち上がった。
「一馬くん、あの怖い先生に、ちゃんと治してもらうんだよ。歯が痛くなくなったら、一緒におにぎり食べられるからね。」
じゃ、がんばれよ、と言い残して、紺野は、着替えるために診察室を出て行った。
「怖い先生って何よ・・もう。」
紺野の消えたほうを笑って睨みながら、佳奈子が治療台の横に戻って来て、再びマスクをつけ、ライトも点灯した。
「もう麻酔も効いたでしょ。始めるわよ。・・補助がいないんだけど、ま、右下だしね、居なくてもいいかしら。はい、あーん。」
彼女なら、居ない方がいい、と思いながら、平木は言われるままに口を開いた。
佳奈子は、バキュームを左手で引き出し、少し先端を調節すると、舌を押さえるように、平木の口の中に挿入した。実は学生時代、歯科助手のバイトをしていたので、補助も得意なのだ。ん、と満足そうに頷くと、右手でタービンを取った。近づいてくるタービンを見て、平木は目を閉じた。
すぐに、ヒュィィィイイ・・・という音と共に、顎に震動が伝わって来る。
圧迫感はあるが、麻酔が効いているのか、痛みは無・・
「ぁがっ、ががが・・」
平木は体を固くして、顔をしかめた。痛い。しかし、
「ちょっと早すぎるわよ。インレー外れるまで我慢して。」
佳奈子に怒られてしまい、平木はうめき声を上げながら、体を突っ張って痛みに耐えた。
そこへ、美加が入って来た。治療台の上でみっともなく呻いている平木を見て、一瞬足が止まったが、ふっ、と息をつくと、補助者用の椅子に座る。平木は目を閉じているのでそれに気付かず、ずっと、
「んぁ!あはぁ・・」
と声を出して顔を歪めている。『かわります』と声を出さずに言って、佳奈子からバキュームを受け取り、美加は平木の口の中を覗き込んだ。
・・うげ・・平木先生、こんな虫歯だらけだったんだ・・・
思わず美加は顔をしかめた。見える範囲の大臼歯・・下と右上はすべてギラギラと光っているし、今削られている歯は、かなりひどく虫歯に侵されている。
・・しかもそんなになるまで放っておくなんてありえない!・・・前歯も全部差し歯だけど、絶対、虫歯のせいよね・・うわー、ムリムリ。私、もう先生とチューとかできません。だって、虫歯うつっちゃいそうだし、それに、なんか臭いそうだし・・あんなに好きだったんだけど、ごめんね、先生。
付き合ってくれとも言われていないのに、美加は勝手に頭の中で「お断り」した。やや妄想癖のある美加は、何度か夢の中で平木とキスもしていたのだが、夢の中の平木は、こんな風に銀歯をギラギラ光らせるのではなく、真っ白な歯をまぶしく光らせていたはずなのに。はあ・・と、美加がうまくいかない人生にため息をついていると、
「守田さん、一旦止めてもらえるかしら?」
という佳奈子の声が聞こえた。ハッと気付くと、佳奈子はもうタービンを止めて、ピンセットでようやく外れたインレーをつまみ出そうとしているところだった。慌ててバキュームを戻す。
しかし、さらに驚いたのは目を閉じたままの平木である。
・・ちょ、守田さんだって?
慌てて目を開けると、美加が心なしか冷たい目でこちらを見ていて、
「先生、虫歯は、そんなになる前にちゃんと治してくださいね。」
と微笑んだ。平木は小さく、ハイ、スミマセン・・と言うしかなかった。そのこと自体も恥ずかしいが、さっきから痛みに声を上げていた姿も見られていたのかと思うと、消えてしまいたいほどだ。
ぶふっ。佳奈子がふき出しながら、シリンジを手に平木に向き直った。
「そうよ。もっと言ってあげてね。痛み出す前に治療してたら、麻酔だって、もっとちゃんと効くんだから。これで効かなかったら、次は中に打つわよ。はい、あーん。」
・・ひぃぃ・・効きますように・・・
平木は祈るような気持ちで口を開けた。まだ自分がされたことはなかったが、直接神経に注射を打たれるなんて、自分がされたら気絶すること間違いなし、と、習った時から思っていたのであった。
すでに1本麻酔が入っているので、あまり何も感じないままに麻酔は追加された。ふと気付くと、隣が騒がしい。
「いだぁああぃいいいい、いやぁああ」
「かずまくーん、大丈夫だよー、泣かないでー。」
「・・へ?かずまくん?」
佳奈子と平木は同時に声を出した。二人で思わず美加を見るが、美加は顔の前で手を振り、もう一つの治療台を指差した。二人でそちらを見ると、小学生の男の子が泣き喚いている。
「痛いなら治してもらわないとダメでしょ、かずま。」
「いやぁああああ、いだぁああいぃぃぃいい!」
・・紺野先生が居る日で助かったー。
佳奈子はホッと胸を撫で下ろした。自分も一応は子供の治療もするが、ああなってしまった子供は、なかなか手がつけられない。
「えーと、阿部、和磨くん・・か、かずまくん?どうしました?」
カルテを見た紺野も、名前に引っかかったようだ。笑いをこらえているような微妙な表情だ。
「はい、夕飯を食べている時から急に痛がり始めまして・・・」
「いぎゃぁあああ・・」

「んんぅぅぅうう・・」
子供の泣き声が痛む歯にビンビンと響き、平木はまた頬を押さえてうめいた。
・・頼むから・・泣き止んでくれって・・
その様子を見た佳奈子が口を開いた。
「ま、紺野先生なら一人でなんとかするでしょ。私たちは、こっちの一馬くん、何とかしましょ。」
ああいう子供が来た場合、全員が抑え役に借り出されることもあるが、今日は大丈夫だろう。美加も、
「そうですね。」
と頷き、二人は平木に向き直った。
「じゃ、削って行くわね・・抜髄なんかは、後でうちでやりたいから、今日のところは痛みを止めるだけにしようと思うんだけれど?」
佳奈子は平木に確認するように言った。そういうデリケートな作業は、自分の慣れている器具や治療台で、息も合っている夏美と一緒にやりたかった。この痛みさえ止めてもらえばどうでもいい、と、平木は頷き、治療が始まりそうな気配に、口を開けた。
「じゃ、そうするわ。穴さえ開けば楽になりそうな感じよね。あ、守田さん、マスクした方がいいわ。」
治療に入りかけていた手を止めて、佳奈子が美加に言った。
「あ!やだ・・そうですよね、この様子だと、相当臭いそうですもんねー」
美加が小走りでマスクを取りに行き、平木は真っ赤になって、きゅっと口をつぐんだ。さすがに佳奈子が困ったような顔で、戻ってきた美加をたしなめる。
「守田さん、そういうのは・・うーん、せめて、患者さんに聞こえないところで。」
「でも、患者さんって、平木先生も知ってるはずじゃないですか。あれはちょっと、ありえないって。」
・・・はいはい、その通りですよ、もう、許して・・ってか、まだ痛い・・うぅ・・
平木は、またも呻いた。この痛さでは、本当に、美加の言うとおりになるかもしれない。
「ほら、口開けて。」
佳奈子に促されたが、平木は口を閉じたまま、二人の顔を窺った。佳奈子が笑い、
「大丈夫だから。口開けてくれないと、痛いまんまよ?」
と言ってくれたので、平木はおそるおそる口を開けた。
「もっと開けて大丈夫ですよ。今は、感じるほどの臭さは無いみたいですから。」
美加が横から余計なことを言う。平木は、気にするな自分、と言い聞かせて、目をつぶって口を大きく開けた。
・・で、でも、やっぱり気になる・・汚いとか思われてんだろーなー・・
少し、閉じたまぶたがピクピクしてしまう。
・・うわー、やっぱりありえないよ先生、その歯。よしっ、開きそうになったらバキュームで吸いまくるわ・・
美加はバキュームを握る手に力を込めた。真剣に、タービンが虫歯に近付いて行くのを見つめる。
チュィイイイイイ・・・
「ぁがぁっ」
タービンの先が歯に当たった瞬間、平木は大きく顔を歪め、体に力を入れた。
・・いだぁぁぃぃい・・麻酔効いてんのかよ!
チュイ、チュイ、チュィィイイイイ・・
「あ、ぁあはああ・・」
・・せ、先生・・いい年したオトコがそんな声出さないでよ・・人間、歯が痛くなったら終わりね、もう、超みっともないったら!
美加は、溜息をつきながら、しかし、クサいのは勘弁だからね、と、目はきっちりと患部を見つめ続けた。
「ぁ・・は・・はぅっ!」
ここで痛がったら、髄腔内麻酔だ、と思って、なんとか必死にこらえようとしたのだが、どうやら限界のようだった。左手で、美加の腕をポンポン、と叩く。右手だと・・佳奈子のタービンを握っている右腕を叩くことになってしまい、危険だ。
「平木先生、もうムリですか?」
美加は気付いて、平木に尋ねてくれた。その言葉に、佳奈子もタービンを止める。
ヒュゥゥゥゥゥ。
「うーん、我慢できない?みたいね・・できなかったら、中に打つしかないんだけど・・」
佳奈子も少し困ったような顔で聞いてきた。歯科医の側でも、あまりやりたいものではないのだ。かといって、痛がっているまま治療を進めるのも、これまたけっこうなストレスである。
「・・でも、他に方法もないわよね・・しょうがないわ。守田さん、用意お願い。」
「はい。」
美加は、麻酔の用意をしに立って行った。
「なるべくさくっと開けてあげたいから・・」
言いながら、佳奈子は、バーボックスから一番鋭そうなバーを選んでいる。歯髄を露出させるところまでは削らないといけないのだ。
カチャカチャ、と音がして、美加が準備のできたシリンジをトレイに置いた。
「ヘルプ・・呼びます?隣、一段落してるっぽいですけど・・」
美加は隣の治療台を指差して言った。たしかに、泣き叫んでいた「かずまくん」は泣き止んで、おとなしく治療を受けているようだ。こっちの「かずまくん」はこれから泣き叫ばなければならないかもしれないのだが。
「でも、子供の治療台の抑えにヘルプに行ったことありますけど、大人の治療のためにヘルプ呼ぶなんて・・私、初めてかもです。」
美加がまた棘のあることを言い、平木は消えてしまいたいような気分だった。