とある5月の朝。
口腔発育学講座の医局では、4月に入ったばかりの医員が3人でじゃんけんをしていた。
「あ・・3回勝った奴が行くんだっけ?」
「負けた奴だろ。紺野、お前リーチ?」
「リーチじゃなくて、紺野君、もう3回負けたわよ」
「お、決まりか。いってらっしゃーい。」
「えー、俺、先週のも先々週のもその前のも行ったのに・・いや、その前もかも。」
紺野と言われた青年は、ため息をついた。
「いいじゃない、検診のプロになれそうで。」
「出張のは嫌なの。もう3クラス分くらいで、右手上がらなくなるもん・・・」
「筋トレしろよ」
「俺は学校検診しにここに来たんじゃないっての・・しかも高校生なんて、ウチの担当じゃないだろ?」
愚痴を言いながらも、彼は立ち上がり、同期に手を振ると、椅子の背に掛けてあったジャケットを羽織って、検診セット・・と言っても着替えの白衣が入っているだけだが・・を手に、部屋を出た。
外に出ると、すでに初夏の陽射しだ。
・・今日は、勉強会出たかったんだけどな・・ま、しょうがないか。
紺野は観念すると、今日の仕事先の高校へと足を向けた。そういえば、高校は初めてだ。
たいていの学校では、1学期のうちに、歯科検診がある。もちろん、校医というものが居るはずなのだが、それだけでは足りないのか、この周辺の学校からは、検診用の歯科医の派遣依頼が大学病院に来ることが多い。検診を行うのは歯科医でなければならないが、特に経験が豊富である必要はない。というわけで、医局に回ってきた歯科検診の依頼は、今年入局したばかりの新人に押し付けられるのが普通だ。そして、紺野の居る口腔発育学、早い話が小児歯科の医局は、ダントツに依頼が多い医局である。もちろん専門分野に近いせいもあるが、教授が人が良くて断り切れないというのも大きい。なぜか歯科検診の依頼は木曜日に多く・・街の歯科医院に木曜日休診のところが多いせいなのだが・・木曜日は外来に出ない紺野は、入局以来、不幸な星のめぐりあわせで(実際には単にジャンケンに負け続けて)検診屋と化しているのであった。
・・まあ、父さんも春はよく検診行ってたよな・・まだ行ってるのかな・・
紺野の実家は、田舎で何代も続いているらしい、歯科医院である。らしい、というのは、両親も祖父母も、そんなことは気にしない性質で、何も言わないのでよくわからないからである。小学校の社会見学で行ったお城の資料館に展示されていた「ナントカ公の入れ歯」に「紺野家寄贈」と書かれているのを見て初めて、自分の家が、昔から、お殿様のお抱え歯医者だったと知ったくらいだ。家に帰って父親にそのことを尋ねると、「先祖は村で一番歯が丈夫だったから歯医者に選ばれた」と教えられ、紺野は、3つ年上の姉が高校に入って歯学部を目指すと言い出すまで、「歯が丈夫な人が歯医者に選ばれるんだ」と信じていた。実際、祖父も父も叔父たちも歯がとても丈夫だったからである。この話は、親戚内では笑い話として伝えられていて、紺野自身、かなり面白いと思うのだが、いざ歯学部に入ってみると、周囲には歯が丈夫でない同級生の方が多く、笑い話として披露する機会がないのが残念だ。
・・しかし、俺はなんで結局、歯医者になってるんだっけ?
親からプレッシャーをかけられたわけでもないし、跡を継ぐとか継がないとかいう話なら、すでに姉が歯学部に行っていたし、医学部に行きたかったが成績が足りなかった、という現実的な理由でもないし、歯医者はものすごく儲かりそうだという印象もないし・・やっぱり、歯が丈夫だからか??
答えが思いつかないまま、目的地の高校に到着した。校門を入り、正面玄関と思われる方に向かう。今朝、少し悪い?予感がして、ジャケットを羽織って来たので、誰にも咎められることなく、受付にたどり着くと、控え室になっている会議室に案内された。
「本日はよろしくお願いいたします、先生。」
教頭と名乗った男性教師と、白衣姿の若い養護教諭に丁重に挨拶され、紺野は恐縮してしまった。
「いえ、こちらこそ・・宜しくお願い致します。」
・・こんな若造に頭下げるなんて、とか思ってるんだろうな・・
と思うと、なんとも落ち着かない。教頭は案の定、探るような視線でこちらを見ている。
そこへ、中年男性が入って来た。
「あー、これはこれは。佐々木先生。今日もよろしくお願いいたします。」
二人の教師は、紺野のときよりも、さらに丁重に頭を下げている。きっと校医だろう。紺野も立ち上がって、頭を下げておく。
「えーと、キミが、大学病院からの援護かね?講座は?」
「はい、紺野と申します。口腔発育学から来ました。宜しくお願い致します。」
「ん?もしかして、紺野弘の息子か?」
「あ、いえ、それは叔父です・・」
「おーそうかそうか。ちょっと年が合わんか。」
教頭がすかさず尋ねた。
「佐々木先生・・お知り合いで?」
「直接は知らないんだが、彼の叔父は同級生なんだ、彼の家は代々歯医者でね、まあ彼はエリートってわけだ。な?」
・・か、関係ないって。
突然の展開に、紺野はオロオロした。いえいえ、そんなことないです、と呟きながら首を振って小さくなっていたのに、教頭は妙に感心し始めた。
「ほぅ・・代々ですか・・」
さっきまでとは見る目が変わったが、しかしそれもまた、別の意味で落ち着かない。
紺野は、出された薄いお茶を飲みながら、これならいっそ、早く検診が始まってくれた方がマシだ、とひそかに思っていた。
幸い、ほどなくして教頭は誰かに呼ばれて出て行き、養護教師と3人で、実際の検診についての相談になった。
「1学年6クラス、全部で18クラス、まあ、1人で9クラス分やれば終わるってわけだ。クラスの偶数と奇数で分けようか・・偶数は私がやろう・・あ、3年生だけは、紺野先生には4組から6組をやってもらおう。いいね?」
「あ、はい。」
佐々木の不可思議な提案に、紺野は首を傾げつつも了解した。養護教師が、
「3年生、5組と6組は、理系クラスなんですよ。だから男の子が多いんです。佐々木先生ったら。」
と、笑いながら種明かしをしてくれた。
・・あ。
その口元から覗く、少し1番の後ろに入った2番が、半円状に少し変色しているのを見てしまい、紺野は目を反らした。保健室の先生に虫歯があるというのは、なんとなく、見てはいけないような気がして落ち着かない。
「ところで紺野先生、学校歯科健診は?初めて?」
佐々木に言われて、紺野は指を折って数えた。
「えっと・・4回やりました。小学校2回と、中学校2回。」
そんなにやったのか、と自分でも情けなくなっていると、佐々木はニヤリと笑った。
「なんだ、君、じゃんけん弱いのか?」
「自慢じゃないですが、弱いみたいですね・・。」
「まあそれはどうでもいいが、大人・・高校生は初めてか。専門も小児だろ・・ふーむ。」
一応、学生時代には全て習っているのだし、たしかに来る前は、高校生は担当じゃないと文句は言ったものの、検診にそんなに専門が関係あるとも思えなかった。
「いけませんか。」
「いや、いけないとは言ってないよ、ただ、大人はやっぱりちょっと見るところが違うんだよ。」
佐々木は、そう言いながら、養護教師の方をちらりと見て、あ。と小さく声を出した。
「うむ、少し練習してもらおう。この先生に練習台になってもらって、検診してみなさい。」
「え・・は、はい。」
佐々木の思いつきに、紺野は戸惑いながらも返事をしたが・・養護教諭は一瞬驚いた後、急に顔をゆがめ、左手で口を覆って、小さく首を振った。
「はい、ここ座って。紺野先生はこっち。ミラーもほら、ここに。記録は、まあ今は私がやろう、本番は生徒さんがやってくれるから、わかりやすく、はっきり言うように。」
へえ、記録係は生徒か、それは中学校までと違う、と思いつつ、佐々木のペースに押され、紺野は養護教師・・白衣の腕の刺繍によれば野田さんというらしい・・と向き合って座らされてしまった。野田さん、は泣きそうな顔のままだ。子供の扱いには慣れているつもりの紺野だが、若い女性というのはどうしていいかわからない。どうしたものか、と思っていると、佐々木が横から口を出した。
「恥ずかしがることはない。歯だってちゃんと磨いて来てるでしょう?」
野田さん、は小さく頷いた。でもまだ口は開いてくれない。佐々木はつづけた。
「まさか歯医者が怖いのかね?大丈夫、見るだけ、見るだけ。痛いことはしないからな。それにこの先生は小児の専門だから、優しいよ。」
「あの・・別に、練習とか無くても、平気だと思いますから・・」
紺野は思わぬ状況に居たたまれなくなって、思わず立ち上がりかけた。
「いや、した方がいいな、それに、こういう生徒さんも居るんだよ、口を開いてくれないっていう・・」
佐々木に言われ、紺野は帰りたくなった。
・・えぇぇ。高校生、ハードル高いな・・
しかし、困っていても仕方ない。仕事は仕事、今日はこの佐々木がボスだ。紺野は目を閉じ、小さく一息つくと、野田さん、の目を見て言った。
「すみません、よろしくお願いします。」
言ってから、頭を下げる。はい、と、野田さんが小さく言うのが聞こえた。
「野田、香苗、です。よろしくお願いします。」
「はい。」
まず最初に、生徒が自分の名前を言うという流れになっているらしかった。横の佐々木の手元の紙を見る。
「ん、そうだ、検診票の名前を確認したら、始めていいぞ。」
わかってます、と言いたいのをこらえて、じゃ、あーん、と、香苗に声をかける。香苗は一瞬戸惑った後、ぎゅっと目をつぶり、上を向いて口を開けた。
・・はーん・・なるほど・・でも、暗いな。本番はライトあるんだろうけど。
香苗が口を開くのを渋った理由はすぐわかった。暗い中でも、いくつかインレーの脱離痕が見える。歯医者が苦手なのだろう。
「矯正ですか?」
香苗は目をつぶったまま頷いた。4番が4本とも抜歯されている。もっとも、その後またずれてしまったのか、途中でやめてしまったのか、さっき見たように、上の前歯は少し重なり合っている。
「じゃあ・・」
「右上から始めて、左で下に降りてくれ。記録係にはそう教えてある。」
「ありがとうございます、右上、7番から・・」
紺野は、香苗の口にミラーを入れた。香苗がさらに固くなった。しかしそんなことを気にしていては、検診はできない。今日は4、500人診なければいけないのだ。紺野は視線を7番に移した。
最初の歯、7番から、溝が着色しかけていた。治療するほどでもないような・・
「7番・・えっと、CO出しますか?」
「高校生だからな・・出してもしょうがないんだよ。」
「じゃあ、斜線にします。」
「ほい」
次の2本は、インレーが嵌っている。
「6番○、5番○で、4番は△です。3番斜線で、2番も斜線・・1番・・」
言いかけたところで、佐々木はわざわざ立ってやって来た。
「前歯は、前からも見て。こうやって、ミラーで・・」
佐々木は、紺野の手から取ったミラーで上唇をめくり上げた。香苗は歯茎を剥き出しにされ、可哀想な顔になった。
「探針も使っていい、こういう所とか・・」
香苗の右の1番の根元近く、左の1番との間にある茶色い点に、佐々木は探針を当てた。それはレジンで治療した痕と歯の境にステインが付いているようにも見え・・しかし佐々木が引っ掻いたところでは、どうやら、新しく齲蝕が進んでいるようであった。
「ほらな。」
「はい。」
他にどう答えたらいいかわからず、紺野はとりあえず、返事をしておいた。佐々木から探針とミラーを押し付けられるように渡され、香苗の検診を再開する。じっと佐々木が見ているので、ミラーで上唇をめくり上げて、佐々木のやり方に従ってみる。佐々木は満足そうに頷くと、視線を手元の記録用紙に戻した。
「じゃ・・右上の1番からもう一度・・C1です、左に行って、1番・・もC1、2番が・・」
さっき、ちらっと見えて気になっていたところだ。表からも変色しているが、裏から見ると、さらに黒くなっている。
「C2です。3番は斜線・・4番△、5番斜線・・6ば・・ん・・」
ぽっかりと大きな穴が開いている。インレーが脱離した痕だ。昨日今日取れたわけではなさそうだ。
「インレー脱離、ってどうしましょう。」
人によって・・おそらく、講座によって・・カルテへの記載の仕方が違ったりするのである。しかも今日は生徒が付けるらしい。紺野は一応聞いてみた。
「それは教えてないはず、だね、先生?銀歯取れちゃいましたってやつ。」
佐々木も、香苗に聞いた。香苗は、口を大きく開けたまま・・紺野は一応ミラーを抜きかけてみたのだが、香苗は口を開けたまま、はひ、と声を出して頷いた。
「だそうだ。C2とかで適当に行ってくれ。どうせ治療は同じようなもんだろ。でも先生、銀歯取れてるのか・・良くないなあ、取れたままっていうのは。」
佐々木はぶつぶつ言いながら、紙に記録した。香苗がさらに、ぎゅぅぅっ、と目を強くつぶった。
「次の7番・・C1です。下に行っていいですか?」
「ああ。」
左下は、最初の2本にインレーが入っていた。
「左下は・・7番○、6番○・・5番C1・・」
矯正したのだから、歯と歯のコンタクトは緩めのはずだが、5番は6番との間から黒く変色しているのが見えのだ。と、言い終わらないうちに、佐々木の大げさなため息が聞こえた。
「ああ、もう6本目だね、先生。学校の・・それも生徒の健康を考える先生がそんな・・」
「あの、次行ってもいいでしょうか?」
香苗の、膝の上に置いた両手がかすかに震えているのを見て、居たたまれなくなった紺野は、つい口をはさんだ。佐々木は、一瞬紺野を見て少しニヤッとすると、
「ああ、いいよ。」
と言って、視線を用紙に戻した。
「すみません。4番△・・3番から・・右下3番まで斜線、4番△、5番斜線、6番・・○、7番斜線、以上です。」
6番は実はインレー脱離だったが、あえて何も言わないことにした。治療が必要な虫歯はすでに何本も指摘したわけで、もし治療に行けば、ここも治療の対象になるだろうから。
・・やっと終わった。
紺野が少し荷の重い検診を終えてホッとしていると、佐々木からまた声がかかった。
「他に所見があれば言うように。小中学校でもあるだろう?項目は、歯周病、歯石、清掃が甘いとか、あと・・口臭があるとか。」
「はい。」
「で?」
「・・で?」
思わず聞き返すと、佐々木は、用紙を指さしながら言った。
「この先生の所見は?」
紺野はドキッとした。歯の付け根などに歯石や歯垢が溜まっている個所もあって、一部には腫れている部分もあったのだ。
「あ・・いえ・・特には。」
「ふーん、そう。じゃ、これで練習は終わりか。」
佐々木はかすかにつまらなそうに言い、香苗に検診票を渡した。
「はい、先生。歯医者にはちゃんと行くように。恥ずかしいよ。いや、いじめてるわけじゃないんだからね。」
香苗はうつむいて、すみません、と言うのが精一杯のようだった。