孝太郎は、隣町まで行った仕事の帰り、信号待ちをしながら、交差点の向こうに歯科医院があるのを見ていた。
・・歯医者かあ・・そろそろ、どこか見つけといたほうがいいよなあ、当分、いや、たぶんずっと、こっちに住むんだもんな・・
3か月ほど前、孝太郎は、実家のあるこの町に戻ってきた。父親の経営する会社で働くためだ。大学に進学する時にここを離れてから、ほぼ10年くらいになる。
そんな孝太郎にとって、引っ越してまず大事なのは、歯医者選び。子供のころから、虫歯にはかなり悩まされていて、歯医者と縁が切れたことがない。というより、縁を切ると後で自分が困ると何度か思い知らされているので、切るわけにはいかないのであった。そろそろ、こっちでも通う歯医者を探さないとまずい。
高校生時代まで通っていたところは、代替わりしてから腕が落ちたという評判だし、そもそも、その若先生というのは、同じ高校の1学年上で・・高校も留年ギリギリだったという噂なのに、あっさり歯科大学に進学していったというのが、なんだか信頼できない気がして、行きたくない。実家の近所には他にもあるが・・会社にもそこそこ近く、従業員と顔を合わせそうで、たとえば治療中に痛がっているところを見られたら、と思うと、恥ずかしい気がする。
ここならば、会社からも家からも車を飛ばして20分ほど、しかし仕事でよく行く場所からの帰り道、と、立地としては悪くない。
・・うーん、思い立ったがナントカ?今から五、数えるまでに信号が変わったら、思い切って入ろう・・い・・ん?
と、一、も数え終わらないうちに信号はあっさり青に変わり、孝太郎は、少し苦笑いしながら歯科医院の前の駐車場に車を入れた。
歯科医院は、あまり新しそうではないが、しっかりした建物だ。ドアを開け、パッと周囲を見回す。掃除も行きとどいている感じだ。別に小姑体質なわけではないが、以前の仕事で、小売店の経営指導なんかをやったことがあるおかげで、つい、そんなこともチェックしてしまうのであった。
・・合格かな。
ダメそうだったら、道でも聞きにきたふりをして帰ろうと思っていた孝太郎は、受付に向かった。
「こんにちは。初めての方ですか?今日はどうされました?」
予約もせずにいきなり来て、検診してほしいと言うのもおかしいかな、と気付いたが、他に言いようもないので、その通りに伝えることにする。
「最近、こちらに引越してきたので、かかりつけの歯科医院を作りたいのです。まず、検診をお願いしたいと思いまして。」
「はい、検診ですね。では、特に痛むところは無いですか?」
怪訝な顔もされず、話が通ったので少し拍子抜けした。
「痛むところはないです・・たぶん、虫歯はあると思うのですが。」
実は気になっているところはあるのだが、それは黙っておくことにした。
「痛いところはないけれど、検診は今から受けたい、ということですよね?予約を取って後日ということではなく。」
「はい、できれば。」
「わかりました、先生に聞いて参りますので、少々お待ち下さい。」
・・今日はダメって言われたら、気分が萎えちゃうだろうな・・それも困るんだな・・
と思いながら待っていると、受付の女性がにこやかに戻ってきた。
「15分ほどお待ちいただけるなら、今日検診できるそうです、どうされますか?」
「ではお願いします・・」
問診票を書いて、保険証と一緒に出し、孝太郎は待合室のソファに座った。
・・なんで、いきなり歯医者なんか来ちゃったんだろ?信号待ちでふと目に入っただけだってのに。
急に、孝太郎は、自分の行動が無謀なような気がして、ドキドキしてきた。
・・でも、こういうのは、勢いも大事だぞ。今日ここで入らなかったら、また機会逃すって・・行かなきゃとは思ってたんだし。
孝太郎は、自分を説得しながら、手を組んで、肘を両膝にあずけ、目をつぶって深呼吸してみた。ドキドキは、なかなかおさまらない。

計ったように15分後、孝太郎は診察室に呼ばれ、治療台に座らされた。ヒュィイイイイン、という音が、また少し動悸を激しくさせる。
・・怖いってんじゃないんだけど、やっぱり緊張するよなあ・・
ここに来てから何度目かの深呼吸をしていると、急に声をかけられた。
「こんにちは・・・朝倉君。緊張してる?」
勝手に男性歯科医を想像していたのに女性の声だったということもあるが、それ以上に、君付けで呼ばれたことに驚いて、孝太郎は振り向いた。
「え?あ、えっと・・高校の・・」
たしか、高校の同級生で、3年生ではクラスも同じだったという記憶はあるのだが、名前が思い出せない。さっき見た歯科医院の看板を思い浮かべ・・孝太郎は、あっ、と思い出した。
「紺野さんだ。」
もう、それは旧姓だったりして、と思ったのは、言ってしまった後だが、
「当たりです。」
紺野さんは、よろしい、と言うように頷いた。たしかに、この、なぜかちょっと偉そうな頷き方には見覚えがある。下の名前が思い出せないのは黙っておこう。と思ったところで、孝太郎は大事なことに気が付いた。
「あの・・紺野さんが検診、してくれるわけ?」
名前も思い出せないような相手ではあったが、それでも知り合いに口の中を見られると思うと・・それも、あまり自慢できない口の中を覗かれるとなると、相当に恥ずかしい。さらに、見つかった虫歯を治療されるとして・・いや、他の歯医者に診てもらいたいという気持ちになっているので、その可能性は低いが・・治療が痛かったら、声を上げたりもしてしまうかもしれないのだ。さらに恥ずかしい。
「ん、その予定になってるけど・・嫌?」
あまりにさらりと聞かれたので、孝太郎はつい、うん、と思い切り頷いてしまった。あわてて弁解する。
「いや、知り合いに見られるってのはちょっと・・もし他の先生が居るならそのほうが・・」
「ま、気持はわかるわ、ちょっと待ってて。」
紺野さんはちょっと微笑むと、席を立って、別の治療台で治療中の別の歯科医二人・・どちらも、年配の男性だ・・のところに行って言葉を交わし、さらに、受付に行ってから戻ってきて、申し訳なさそうに言った。
「うーん、1時間くらい待ってもらうことになっちゃうけど。どうする?」
1時間待つのはちょっと長い。というより、実はちょっと緊張に耐えられそうにない。するなら、さっさと済ませてしまいたかった。
「うーん・・・紺野さんだったら?」
「今すぐよ。私、新人さんだから、指名取れないのよね。なんてね。」
紺野さんが笑いながら言い、孝太郎もつられて笑ってしまった。・・しかし、ホントに新人なら怖い。歯学部って、何年行くんだっけ?
「し、新人なの?」
「え?ああ、ここではね。1年ちょっとかな。でも、別に歯医者は新米じゃないわよ。大学病院に・・3年近く居たから。前の店ではけっこう売れっ子でした、ふふ。」
「ふーん・・4年ちょっとか・・」
考え込んだ孝太郎に、紺野さんはカルテを見ながら、意外な言葉をかけた。
「ま、かかりつけの歯医者作ろうってのは大事だしね。よく選んだ方がいいわ。なんだったら、どこか別のとこ紹介するし。うち、朝倉君の家からはちょっと遠いんじゃない?祖父にでも聞けば、あのあたりなら誰が良い、ってわかると思うけど。」
「あ、仕事でちょくちょく、この辺は来るから、それはまあ、いいんだ。」
「そう?ならいいけど。きちんと通うのには、なるべくハードルは低いほうがいいから。」
歯科医院同士はライバル店みたいなものではなく、けっこうあっさりしたものなのかな、と、孝太郎は思った。お祖父さんも歯医者か。そういえば、歯医者の一族だという噂を聞いたことがある気もする。高3のとき同じクラスだったということは・・あれは国立大進学クラスなので、かなり成績も良かったはずだ。もちろん、家も成績も、あまり腕とは関係ないが、信頼できない相手というのは怖い。それに、たしか習字が得意だった気がするから、手も器用に違いない。いろいろ考えると、紺野さんは悪くないような気もしてきた。これまでにも、街で歯医者なんていくらでも見ているのに、今日突然、ここには入ってしまったのだから、乗り掛かった船、という気もする。いや、ちょっと違うか。
とはいえ、やはり、恥ずかしい。
「あのさ・・正直なところ、虫歯が多かったりするの見て・・歯医者さんってどう思うの?」
「きたなーい、って思うとか、人格疑っちゃう、みたいな話?」
「そうそう。」
「んー、まあ、人によると思うんだけど、私はあんまり何にも思わないかな。こう、目も神経も、治す歯に集中しちゃって、虫歯が綺麗~に削れたりすると、すごく嬉しいのよね・・。」
「目、輝いてるね・・。」
「あ、あの、変な人って思われると困るんだけど。ま、だから、何とも思わないわよ。そこはそんなに気にしなくていいわ。朝倉くんが、ひそかに私に想いを寄せてたっていうなら、知らないけど。名前も覚えてなかったみたいだし?ま、私も、カルテ見るまで思い出せなかったから、それはお互いさまってことで・・」
だって、朝倉くん、居るんだか居ないんだかわからないような人だったから、と言うのは踏みとどまった。そういえば、友達の美和ちゃんに朝倉君が好きだと聞かされたことと、その翌日のもう一つのこと以外、何も覚えていない。
「それに、虫歯が多くても、それが手入れが悪いせいなのか、なりやすい人なのか、それは見たらすぐ分かるわよ。」
「そっか。じゃ・・検診、お願いしようかな。」
「わかりました。」
言ったとたん、紺野さんの顔が「センセイ」に変わったような気がして、孝太郎は、下の名前を聞きそびれた。

「じゃ、倒しますよ・・」
「はい。」
雑談めいた会話の間は少し気がまぎれていたが、治療台が倒されると、また、緊張してきた。カチャカチャと横のトレイの器具を選び、衛生士さんに指示を出している、すっかりセンセイになってしまった紺野さんの様子を見ると、なおさらだ。
「緊張してますか?そんなに唇舐めたら、後で割れるわよ。ちょっと待って。」
センセイはそう言って軽く笑うと、右手の薬指で孝太郎の唇をなぞった。ベトッとした・・グロスが流行り始めたころにしたキスを思い出させるような感触があって、孝太郎は不意を突かれてゾクっとした。
「大丈夫、乾燥を防ぐためのワセリンだから、舐めても平気ですよ。」
固まっている孝太郎に、衛生士さんが親切に教えてくれる。あ、はい・・と、もごもごと返事をしている横で、センセイはワセリンのついた手袋を新しいものに取り換えながら、
「舐めても平気だけど、舐めないでよ。別においしくないわよ。」
と笑いながら注意した。よく考えると、女医さんというのは初めてだ。それも緊張する理由かもしれない。急に口数が減った孝太郎に、センセイはさらに話しかけた。
「急にガチガチになっちゃったけど、大丈夫?怖いんだったらそう言ってね?笑気っていう、気持ちを楽にするガスとか、あと、注射とかもあるから。ホントに大丈夫?・・ああ、そうだ、はい、でもいいから、何か声に出して喋った方が楽になるわよ。」
言われて、素直だとよく褒められる孝太郎は喋って答えることにした。
「いや、久しぶりでちょっと・・緊張してるだけ。」
たしかに、声を出すと少し気が楽だ。
「ならいいけど、久しぶり・・って、1年ぶり?うーん、それじゃ、虫歯見つけても、もっと早く来なさいって、怒れないわ。」
センセイが、問診票をチェックした後、あまりにつまらなそうに言うので、孝太郎は吹き出してしまった。
・・もう大丈夫ね、落ち着いたみたい。
と、ミラーを手に取ったセンセイに、孝太郎は念を押した。
「あの・・虫歯、多いから。びっくりしないで。銀歯とか・・差し歯とかもあるし。」
・・そんなの、10年前から知ってるわよ。
美和ちゃんの打ち明け話を聞いた翌日、ちょうど歯科検診があった。記録係をしていたので、美和ちゃんの朝倉君だ、とふと顔を上げると、前歯が1本、裏の黒い差し歯なのが見えた、というのが、数少ない朝倉君についての記憶の二つ目だ。
「私も、虫歯が40本あったらびっくりするんだけど、どう頑張っても、虫歯は32本しかできないのよ。残念でした。びっくりしてあげられないけど、見せてもらえる?」
「・・はい、お願いします・・」
センセイの目の奥が笑っているのを見て、孝太郎は、なぜか妙な安心感を覚えながら、眼を閉じて、口を開けた。バチッ。ライトが点く音がして、少し口の周りが温かくなった。

・・うーん、驚くほどじゃないわね。
10年前に1本だった差し歯は3本にも増え、奥歯にはクラウンもあり、あちこちにインレーが入っているが、白いままの歯もそこそこ残っている。あえて気になる所と言えば、右上奥に入っているブリッジだろうか。
「右上の歯・・いつ抜いたの?」
聞かれて、孝太郎は眼を開けて答えた。
「ん・・大学の4年の頃。」
「あ、それはちょっと早い方ね、びっくりしてもいいわ。」
センセイの言葉を聞いて、孝太郎は軽く笑った。
「ん・・ちょっとイギリスに行ってたんだけど・・半年くらい経ったころに痛くなって、向こうじゃうまく治らなくって。あっさり抜かれたよ。」
「あらら・・旅行じゃなくて、長く行ってたんだ?」
「もともとは1年の予定で行って・・でも、9ヶ月くらいで逃げてきちゃった。情けないことに。」
行ってから半年目に歯が痛くなって歯医者に駆け込んだものの、2回ほどの治療の後で手遅れだと言われて、いきなりその歯は抜かれてしまい、顔が腫れたり熱が出たりして大変だった。しかも抜いた後はそのまま放っておかれたのだ。さらに3ヶ月後、別の歯が痛み出したときには、もう怖くなって、飛行機に飛び乗って帰ってきてしまった、というのが真相である。孝太郎には歯を抜かれてしまったことは少しトラウマになっていて、実は、実家に戻ってきたのは、勤めていた会社で海外転勤を命じられそうになった、というのも理由の一つだ・・・
「あら、別の歯でも痛くなったかな?」
センセイに見抜かれて、孝太郎はびっくりした。苦笑しながら頷く。
「で、日本では、ちゃんと治してもらえたの?」
「ん、2ヶ月くらいかかったけど、治してもらった。」
イギリスで抜かれたままだったところにも、歯が入った。
「じゃ、逃げて来ちゃって良かったじゃない?」
「え?」
自分が歯を抜かれるのが怖くて逃げてきてしまった、というのは、もうずっと、孝太郎の心になんとなく引っかかっていて、留学を途中でやめた理由も人に話したことはなかった。予想外のセンセイの言葉に、孝太郎は急に気が楽になった。
「ああ、そういう見方もあるか・・面白いこと言うね、センセイ。」
「まあ、いろいろあるけど、体は第一よ。・・それより、センセイって何?さっきまで、紺野さんって呼んでたくせに。」
「なんか、ここから見上げると、センセイオーラ出てるもん。」
「そんなの初めて聞いたわよ・・・ま、いいわ、話それちゃった、ごめんね。もう一回見せて。記録お願い。」

結局、検診の結果、虫歯は4本ほど見つかった。途中、エアーをかけられたり、探針で引っかかれたりして、思わず呻いてしまったこともあったが、最初に思っていたほどには、恥ずかしくなかったのが意外だった。
治療台を起こしてから、センセイは孝太郎に尋ねた。
「で?どうしますか?」
「どうしますか、って?」
「治療、どうする?他の先生に頼んでもいいし、別の医院に紹介してもいいけど。」
「今から治してもらうつもりだったけど・・センセイは指名できないの?」
「私?私でいいなら、するけど。さっき、知り合いは嫌だって言わなかった?」
「もう、恥ずかしいとこ見せたから、いいよ。」
それに、これまでの感じでは、うまくやれそうだった。
「そう?じゃ、指名料はサービスしてあげてもいいわ。」
「・・指名料なんて要らないでしょ?」
「まあ普通、取らないわね。」
横で、衛生士は吹き出した。
「お二人・・仲良しなんですか?」
ちょうど、最初の対面の部分を見ていないので、二人の関係も、指名のネタもよくわかっていないらしい。
「え?高校で同級生だったんだけど・・10年ぶりに会って・・名前覚えてなかったくらい。」
「息ぴったりですよ?新造おじいちゃんを上回るレベルです。」
「・・新造おじいちゃん?」
「知佳センセイの患者さん、もとい、ご指名のお客さんです。」
・・知佳!
孝太郎は、センセイの下の名前を思い出した。というより、知った、と言う方が近い。記憶のどこにも、そんな名前は残っていなかった。
「そんなこと言ったら、新造さん、怒るわよ。」
「そうですねえ、知佳センセイとのおしゃべり楽しみに来ますからねえ。自分より息の合った人が・・」
「そっちじゃないわよ、ご指名、ってほうよ。」
「新造おじいちゃんなら、ホントにご指名料払ってくれますよ。そのうちプロポーズしかねません。」
知佳は苦笑いしながら、衛生士の暴走を止めた。
「いいから。もう、写真と治療の準備お願い。」
「はい。」
衛生士が行った後、知佳は孝太郎に言った。
「えっと・・まず、レントゲン撮ってみてから、どこから治療するか決めるつもりなんだけれど。特に気になるところ、ある?」
実は、気になっているところは・・無いわけではない。
「んー、任せるよ。」
「ホントに無い?ちょっと、口開けてみてもらえる?」
「んぁ」
さっき、もう知佳の前で口を開けるのは恥ずかしくないと思ったが、向き合った状態で口を開けるのは、やはり恥ずかしい。知佳の顔に息を吐きかけたりしないように・・いや、臭くはないと思うけど・・息を吸ってみたりして、ちょっと気を遣う。ふと、知佳の左手が右頬に添えられ、唇を右下の方に引っ張られた。さぞ、間抜けな顔になっていることだろう。
「ここ、さっきの4本のうちには入れてないんだけど・・前から3番目の奥歯。詰めて治してある歯ね、ちょっと中が怪しい気がするのよ、何ともない?」
・・バレてたか・・
歯医者の目というのをちょっと見くびっていたようだ。一度、出張先で詰めてある銀が取れてしまって、その旅先の歯医者で、「仮止めしておきますけど、戻ったら絶対にちゃんと治療してもらって下さい、中で虫歯になりかけてますから」と言われながらとにかく付け直してもらい・・また取れたら歯医者に行こう、などと思って、そのままになっている歯なのだ。実は最近、夜中など、ときどきビクッとするほどの痛みが走ることがある。
「ん・・たまに。」
「たまに、どうなの?」
「痛い・・ような気がする。」
やっぱりね、と言いたげな知佳の顔を見て、孝太郎は突然、既視感の予感・・とでも言うのか、いつかまた、この顔を見て、ああ、前もこんな顔をされた、と思っている自分、がなんとなく想像できた。
・・まあ、このまま主治医になってもらうなら、そんなこともあるかもな。
ちょうど、レントゲンの用意ができたと呼ばれたので、孝太郎は治療台を立ち、衛生士と知佳の後について小部屋に向かった。
撮影が終わり、衛生士に連れられて治療台に戻ると、知佳は受付であれこれ打ち合わせをしていた。盗み聞きするつもりもないが、内容はなんとなく耳に入ってくる。
「○○さん・・ちゃんと作るまえにもう一度調整してもらいたいって・・下の入れ歯も合わなくなってるから一緒にって」
「はいはい、それは・・カルテに書いたつもりだけど、確認お願い。」
「はい。あと、△△さん、さっき、入れ歯ふんづけて壊れちゃったって連絡が・・明日の朝早めに見ていただけないかって」
「あらあら、もし困ってるなら、今晩来てもらってもいいって言って。8時過ぎてたら家の方回ってって。」
「はい」
テキパキ指示を出す知佳からなんとなく目が離せずにいると、知佳がこちらに気付いて笑顔を見せ、受付に、「じゃ、お願いね」と言い残して、こちらに近付いてきた。
孝太郎はそれまでじっと知佳を見ていたのを見られたことで何故か軽く動揺し、さらに、自分がエプロンをしているのが情けなく思えて、とにかく何か言おう、と、戻ってきた知佳に声をかけた。
「入れ歯の患者さん、多いんだね。」
「あ、聞こえた?まあね、私の専門なの。」
「え・・入れ歯専門?」
変な顔をしていたのだろう、知佳は白い歯を見せて笑って言った。
「大丈夫よ、朝倉くんにはまだ早いから。入れ歯にはしないわよ。」
「あ、お願いします・・。でも、歯医者にも専門ってあるんだ?」
「うん、看板に書けるのは、小児と矯正と口腔外科だけど、大学病院だと、簡単に言うと、入れ歯とか、神経と根っこの治療とか、咬み合わせとか歯周病とか、いろいろ専門に分かれてるの。」
「じゃ、大学病院では、専門のことしか見ないの?」
だとすると、知佳は入れ歯以外は1年ほどしか経験してないことになるではないか・・孝太郎は少し不安になりながら聞いた。
「んー、だいたいそうね。でも私は、こっちに戻ってくるつもりだったから、半分は、むし歯外来っていう、一般歯科に回してもらってたわ。・・ま、そんなわけで、もし朝倉くんが、ずっとこっちに住んでるなら、将来は入れ歯も作ってあげる。」
「あ、どうも・・安心して年取れるよ・・でも、考えたくないなあ。」
それでも考えてみた孝太郎は、両親は、40くらいから小さい入れ歯を入れ始めていた、ということに思い当たって身震いした。あと10年・・早すぎる。
「ま、その前に、ならないように頑張ってよ。」
知佳はいいながら、衛生士から、孝太郎のレントゲンを受け取り、ユニットに付いているシャーカステンにセットして電気を点けた。知佳はカルテと見比べ始めた。
「えーと、そうね・・ここ・・」
「聞いていい?この、白いの、治してある歯?だよね。」
白い歯はたくさんあって、あまり数えたくない感じだ。
「主に、金属で治してある歯ね・・って、レントゲン、見たことない?」
「うーん、自分でちゃんと見たことは、ない。」
歯科医が見るものだと思っていたので、横目で見たことくらいしか無い。
「興味ある?」
「ん・・上の奥歯なんか、どこ治してあるか知らないし。ちょと知りたいね。」
「うむ、良い心がけじゃ。」
知佳はまた、偉そうに頷いた。といっても、ムカッとくる雰囲気でもなく、頼り甲斐が感じられて、悪くない。知佳はペンを取って、レントゲンを指し示す。
「分かると思うけど、これ上の歯ね。で、こっちが右、こっちが左。どこから行こうかな・・右上、ここが抜いた歯のところで・・あと・・」
知佳はこまごまと、全部説明してくれた。実のところ、自分の口の中はあまり正視したいものでもなかったが、無傷な歯も残っていると知ったのはよかった。現状把握、は何においても大事だ。知佳が妙にイキイキとした表情で説明するのは気になったが・・まあ、ため息をつきながら説明されても落ち込むだろう。それに、嫌そうに仕事をする人間に治療されたくはない。
「で、治すところなんだけど・・やっぱり、さっき言った、右下の歯、これが一番重症みたいね。痛くなってないのはラッキーよ。」
・・あ、やっぱり・・
「これ・・取れた銀歯、自分でつけたりしなかった?」
「へ?」
「それか、応急処置、みたいに、とりあえずくっつけてもらったとか。」
「・・わかっちゃった?」
やっぱりね、という知佳の顔を見て・・孝太郎は、さっきの予感がもう当たった、と妙におかしくなった。
「どうも、ちゃんと合ってないのよ。すぐちゃんと治しに行きなさいって言われたでしょ?隙間から虫歯が進むんだから。」
「すみません。」
「私に謝らなくてもいいけど・・だから、ここ、早く治した方がいいんだけど、朝倉くん、明日、お仕事?」
「うん、平日だから。」
「そっか・・じゃ、ここは、今日は治療するのやめて、休みの前にした方がいいかもしれないわ。もしかすると腫れるかもしれない。いつお休み?」
「普通に、土日です。」
「じゃあ・・」
知佳は受付に歩いて行き、モニタでスケジュール表らしきものをチェックしていた。
「今度の、金曜の夜か土曜のお昼頃は?」
「・・今度の週末じゃないとダメ?」
孝太郎は、こっちに来る時に残してきた彼女、仁美の顔を思い浮かべた。先週も先々週も会いに行っておらず、そろそろ怒られそうな雰囲気だったので・・昨日の夜の電話で、今週こそは行く、と言ってしまったばかりだった。
「んー、私は、早い方がいいと思う。痛くなってからだと、治療も面倒だから。でも、いろいろ予定もあるだろうから、今度の週末じゃなくても構わないわよ?痛くなったら、駆け込んできてくれれば、まあ、いつでもなんとかするつもりだけれど。」
「いつでもって、紺野さんにも、予定もあるでしょ。で・・」
デートとかさ、と軽く言うつもりだったのに、なぜか自分の口はそこで止まってしまって、孝太郎は戸惑った。
「デートとか、って言おうと思った?」
代わりに、知佳が笑いながら聞いてきた。ん、まあ・・と孝太郎は頷く。
「それは無いかな・・・今週は・・」
知佳は、大学病院の講師の顔を思い出そうとした。こっちに戻って来た当初は2週間に1度は会いに行ったり旅行に行ったりしていたのが・・知佳に受け持ちの患者が増えるに従って徐々に減り・・入れ歯を無くした患者さん、を理由に2回連続で予定をキャンセルして浮気を疑われてから、3か月くらい連絡もしていない。今週は、ではなく、今週も、無いのだ。
「今週は、新造おじいちゃんくらいだわ。」
はははっ、と知佳が笑うと、真白い綺麗な歯が奥まで並んでいるのが見えた。
「紺野さん、虫歯・・ないの?」
「え?・・ない、よ・・」
虫歯の多い自分に気を遣ったのか、威張ってもいいことを、少し申し訳なさそうに言うのがおかしい。
「って、話が逸れたわよ。なんだっけ、右下は、いつにする?来週がいい?」
「いや、今度の土曜日にする。」
・・おいおい、いいのか!?仁美は?
自分の答えに、驚いている自分も居る。
「あれ、今週でいいの?」
「早い方がいいんでしょ?」
「と、思うわ。完全に、神経まで行っちゃってるみたいだから。」
「怖いこと言うなよ・・」
「ホントのことよ。じゃあ、土曜日の11時半で予約入れとくわ。念のため、痛み止めも出しておくから、痛み出したら飲んで。」
「あ、どうも・・」
今晩、仁美にまた電話しなくては。一度行くと言った後だけに、やや面倒なことになりそうな気がして、少し気が重かった。
「で、今日どうする?」
「・・え?今日?」
「今日治せそうなところあるけど、治す?」
「ああ、歯か・・」
「他に何があるのよ。飲みに行く相談するわけないじゃない。」
本当にそう思ってしまった孝太郎は、そんなに否定されると反論したくなった。
「するわけない、とも言い切れなくない?」
知佳が、一瞬、きょとん、とした顔で孝太郎を見て、笑い出した。
「は・・?ああ、そう言われれば、同級生と久しぶりに会って飲みに行くってことはあるわね。まあ、思いもよらなかったけど。」
「そんなに笑わなくても・・」
「ごめんごめん。じゃ、完治したら、お祝いにでも、飲みに行こうか。うーん・・いつになるかなあ・・。」
「だから脅さないでくれって。」
知佳はその後、また、センセイの顔に戻って、言った。
「じゃ、今日から、治療始めましょうか。」
「あ、お願いします・・」

「えーと、治そうと思ってるのはね・・ちょっとこれ持ってね、で、軽く、いーって。あ、坂田さん、ちょっと。」
手鏡を持たされ、言われたとおりに、いーっ、とすると、坂田さん、と呼ばれた衛生士が、左側から、孝太郎の上唇を左上に少し引き上げた。差し歯を入れている部分の歯茎が少し黒ずんでいるのが嫌でも目に入り、孝太郎は少し眉をひそめた。
「この歯、このあたり、ちょっと中が黒っぽい気がするでしょ?」
知佳が、左の前から2番目の前歯の、真中に近い方を、先の曲がった針のようなもので指した。たしかに、なんとなく色が変だ。気付かなかった。
「ん・・」
孝太郎はかすかに頷いた。
「今度、軽く口開けてね」
言われたとおりに口を開けると、そこからミラーが差し込まれ、前歯の裏側が映し出された。差し歯の裏側は金属のはずだが、影になっているせいか、真っ黒に見える。3本も裏が真っ黒い歯が並んでいるのを見ると、さすがに少し落ち込む。そういえば、高校生の頃に初めて差し歯が入った日の夜はなんだか変な喪失感のようなものがあって、いつまでも眠れなかったんだった。
・・はぁ。
が、見せられているのは差し歯ではないらしい。
「えっと、裏の方が、ちょっと進んでるのね・・前からよりも、よく分かるでしょ・・」
前から見るとかすかに変色しているだけだった2番目の前歯は、後ろから見ると、もっとはっきりと黒ずんでいた。
・・げ。
「で・・あら、ここ、ちょっと穴開いちゃってる・・・」
言いながら、知佳はさっきの針で、歯の端近く、真中あたりに開いた穴を突っついた。
「ぃはっ!」
孝太郎は、びぃぃん、と来る痛みに思わず声を上げてしまい、手鏡を取り落としそうになる。
「んー、痛い?・・ま、治そうと思ってるのはこんな感じの虫歯なのね。今までに、しみたりしなかった?」
知佳は、ミラーと探針を孝太郎の口から抜きながら言った。
「ん・・特には・・」
孝太郎は、舌で歯の裏を撫でながら考えたが、特にしみたような記憶はない。一つ聞いておかなければいけない。
「あの・・ここも・・差し歯、かな。」
さっき見た、真っ黒い差し歯の裏がちらついて、少し暗い気分になりながらおそるおそる聞いた。もう一本増えたって同じだ、という気持ちと、やっぱり嫌だ、という気持ちが交互に押し寄せる。男だって気になるのだ。
「ううん、ちょっと削って詰めるだけよ。今日治せるって言ったじゃない。」
知佳がさらりと言って、ちょっと笑った。
「あ、そっか。」
孝太郎はホッとした。
「あー、ちょっと、ってのは言いすぎかもしれないけど。削って詰めるだけってのはホント。えっと・・麻酔にアレルギーとか、ないわね?」
問診票を見ながら聞く知佳に、うん、と頷くと、横で、カチャカチャと衛生士が注射器や器具を揃え始め、知佳もマスクをつけた。治療台が倒されると、再び、少し落ち着かない気分になる。
「痛いの、苦手?」
知佳がトレイに手を伸ばしながら聞いてくる。
「へ?ああ、麻酔の注射くらいなら、別になんとも。」
「じゃ、そのまま打つわ・・軽く口開けて・・」
言われたとおりに口を開けたが、目は閉じずに伏せるだけにした。針がいつ刺さるのか全くわからないのは怖い。
知佳の左手の人差し指が上唇を少し押し上げ、すぐに注射器が近付いてくるのが見えた。
・・なぜ歯医者の注射器は金属でこんなに怖そうなんだろう・・
と思っている間にチクリと針が刺さる感覚があり、少しずつ熱い感じが広がって行く。思っていたよりも痛みは軽かった。
・・けっこう慎重なのかな。
まったく役に立たない経験だが、歯の治療に関しては経験豊富な孝太郎は、麻酔でなんとなく歯科医の仕事ぶりを推測できてしまうのだ。
針が抜かれ、コトリ、とトレイに注射器を戻す音がして、いよいよ治療か、と身構えて軽く目を閉じようとすると、知佳の声が降って来た。
「さっき、突いたら痛かった歯だから、ちゃんと麻酔が効くまで待とうか。」
「あ・・うん・・」
本当のことを言うと、始めるならさっさと始めて欲しかったのだが・・
「あ。また緊張してるでしょ。怖い?」
知佳が笑いながら言う。
「いや、そんな・・あ・・そうかもしれない・・少し。」
否定してみたものの、よく考えると、今の気分に一番近いのは、怖い、だ。
「うーん・・何が怖い?痛いの大丈夫でしょ?」
知佳が少し真面目な顔になって聞いてきた。自意識過剰かもしれないが、心配してくれているようにも見える。患者のナントカおじいちゃんに好かれているというのも頷ける。平気、と言おうとすると・・隣の治療台から、『いぁははぁぁぁっ!』という叫び声が聞こえてきて、孝太郎は知佳と顔を見合せて苦笑した。
「あ、あんな感じじゃなければ、大丈夫、かな。」
「うーん、まあ、一応、努力はします。」
「なにそれ。痛いってこと?」
「ふふ」
心配してくれていると思ったら、今度は意味ありげに笑われてしまい、まるでからかわれているような・・
と思ったら、また知佳は真顔に戻った。
「でも、痛いのは、痛くて我慢できなくなったら言って、としか言えないな。痛いかどうか、本人しかわからないんだもん。こっちだって、痛くしようと思ってするわけじゃないし。」
うん、と、納得したような孝太郎を見て、知佳はさらに続けた。
「それにね。私の仕事は、痛くないようにするのが第一じゃないと思うのね。きちんと、ベストな状態に治す、ってことの方が大事だと思うわけ。だから、痛みが少ないって理由だけで半端な方法選びたくないの。もし自分の歯だったらどう治してほしいかな、って考えながらやってるから。」
知佳の落ち着いた声はとても心地よかった。『男なんだから、痛いのくらい我慢しなさいよね、自分のせいでしょ』くらい言われるかと勝手に想像していたので、心の中で謝っていると・・。
「・・なんて言っとけば、ちょっとくらい痛くても我慢してくれるかなって思ったんだけど、どう?」
楽しそうな目をした知佳に、笑いながら聞かれてしまった。孝太郎は、
「はいはい、がんばります・・」
と答えて苦笑するしかなかった。そんなことを言ってはいても、さっきの言葉が本心だろうな、と思いながら。

「じゃ、そろそろ始めるかな。楽にしてね。ホントに痛かったら言って。」
しばらくして、知佳はトレイを引き寄せながら言い、また、スッと「センセイ」の顔に変わった。
「ん、あ、はい。」
「ふふ、じゃ、軽く口開けてね。」
声を出して答えると・・また緊張してきたのでさっき言われたように声に出してみたのだ・・知佳はまた軽く笑った。そういえば、センセイの顔になる瞬間はわかりやすいのに、そこから戻る瞬間は見たことが無いな、と思いながら、孝太郎は言われたとおりに軽く口を開け、目を閉じた。
くいくいくい、と上唇の下にロールワッテが詰め込まれ、口の中にミラーが入ってくる感覚があった。
「あ、裏から削っていくから、もうちょっと大きく開けて・・はい、ありがと、そのくらいがいいです。」
歯医者で口を開けてありがとうと言われるなんて初めてだ、と思った瞬間、ヒュィィイイ、という音と共に、プィィィン、という振動が前歯から伝わってきて、孝太郎は思わず、ぎゅぅっ、と目をきつく閉じた。
・・や・・だ・・!
と、急にタービンの音が止んだ。
「・・朝倉くん?」
呼びかけられて目を開けると、マスクを外した知佳が、トレイを押しやりながら孝太郎の横に移動してきて、心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫?」
「え?・・だ、大丈夫・・なんとも・・ない・・」
答えたが、自分でも息が荒くなっているのがわかる。
「大丈夫じゃなさそうよ・・ちょっとごめんね。」
知佳は手袋を外して、その手を孝太郎の手に伸ばしかけて・・言った。
「手、震えてる・・。」
お腹の上で組んだ自分の手を見ると、たしかに細かく震えている。
「あ、あれ・・なんで・・」
止めようとするが、なかなか震えは止まってくれない。
「無理に止めようとしないで。大丈夫よ、そのうち止まるから。」
知佳の左手が組んだ手の上にそっと載せられた。あまり温度の感じられない手だ。と、右手は首筋に伸びてきた。
「んー、だいぶん脈が速いかな・・」
つぶやきながら、知佳は胸ポケットからペンを取り、カルテに何か書き入れる。
「ちょっと起こそうか。」
治療台の背が少し起こされ、知佳と向き合うような形になった。なんだかちょっと気まずい。