平木は大学病院に勤める歯科医だ。主に根の治療をする歯内療法科を担当している。毎日毎日、神経を抜いたり、根を洗ったりしているわけだが、「なんでみんな、もっと早く歯医者に来ないかなあ」と愚痴りたくなることもしばしばである。
が、自分自身の歯はどうかというと、あまり自慢できた状態ではない。
一応今のところ、すべて治療済みではあるものの、けっこう虫歯になりやすいほうなので、奥歯は上下左右とも3本ずつインレーと呼ばれる銀の詰め物がされていて、前歯は4本がいわゆる『差し歯』である。
この前歯が入ったのは去年だが、裏が銀色の金属で、感触というのか味というのか、どうもいまいち違和感があって、慣れない。
ふとしたときに気付くと、舌の先が下前歯の後ろに避難していたりして、そのうち舌に押されて、噛み合わせがずれてくるのではないかと心配している。
さて、今日も、診察を終えて自分の机に戻り、まっすぐ帰ろうか、新しい携帯でも見に行くか、などと考えているときに、舌がぐいぐいと下の前歯を押しているのに気付いて驚いた。
携帯が鳴ったのはそのときだ。妹の真由子からだった。お互い実家暮らしで、毎日顔を合わせているので、妹から携帯に連絡が来るのは珍しい。病棟に居て携帯を切っている間に、家族に何かあったんじゃないか、いや、もし緊急なら、院内電話にでも連絡はできるはずだし、などと、少しドキドキしながら電話に出る。姉には笑われるが、意外と繊細にできているのだ。
「な、なんか用?」
「ああ、よかった・・やっと出た・・」
ホッとしたような妹の声と言葉に、胸の鼓動はさらに速くなった。泣きそうな顔になっているに違いない。なんとか声を絞り出す。
「おい、なんだよ・・」
「あの、あのね・・」
「早く言えって!」
「歯・・取れちゃった・・前歯・・」
その瞬間、体中から力が抜けた。一家揃って歯が弱く、真由子も平木よりも早く、高校生くらいから、前歯が少しずつ差し歯に代わっていた。そろそろ取れてもおかしくはない。
「なんだ、歯かよ。」
「なんだって何よ・・お兄ちゃんは毎日何本も見てるかもしれないけど、私にとっては一大事なんだから!」
まあ、それはそうだ。実はこのあいだ同じことを新人に偉そうに言ったばかりであった。
「ああ、ごめん。家帰ったら付けてやるよ。今日も遅いんだろ?」
春から働き始めた真由子は毎日、仕事が忙しいとかで、遅く帰ってくる。残業もほとんどなく、かといって翌日に仕事が入っているときは思い切り飲みに行くわけにもいかない平木は、毎日妹よりもはるかに早く家に帰っており、まるで自分が仕事をしていないような、微妙な気分になる。
「え・・家でもよかったの?もう、病院着きそうなんだけど。」
「痛いとかじゃなければね。ま、来るならその方がいいけど、俺、ほとんど帰るとこだったよ。」
「やだ、そんな早く帰ってんの?で・・どこから入ればいいの?」
診察時間は終わっているので、平木は裏口まで真由子を迎えに行った。なんとマスクをしている。
「お前、自意識過剰じゃん?誰も見てないって。もう花粉症の季節でもないのに、よくマスクなんか売ってたな・・」
「もう取っちゃお。はー、すっきりした。歯がないってけっこう、わかっちゃって変なのよ。」
平木は真由子の顔を横目で見た。たしかに、話すときに口元から覗く歯が1本無いのは変だが、何か別の違和感があるような気がする。何かよくわからないが。
「ってか、ホントに歯医者さんみたいだね。白衣、初めて見たよ。」
「いや、歯医者さんみたい、じゃなくて、ホンモノだから。」
平木も含めて、一家そろって、家の近所の歯科医院に昔から通っているので、同じく歯科医になった姉の理沙子も平木も、家族を診たことはないのであった。もっとも、その歯科医院は半年ほど前、院長が引退して閉院してしまい、他を探さなければいけないと思っているところである。
診察室に着いた。
「何ここ。マイ診察室?なんかすごいじゃん。」
入口の横にかかっている名札を見て、真由子が声を上げた。一般の開業医で歯科助手のバイトをしていた真由子が見慣れているのは、治療ユニットがいくつか並んだ診察室だが、ここでは、各治療台はパーティションで仕切られて半個室になっており、担当する歯科医の名札がかかっているのである。
「いや、明日も担当だから名札かかってるだけだし。」
ふーん、とつまらなそうな返事をしながらも、真由子は面白そうに携帯電話で写真を撮っている。
「ねえ、荷物、どうしたらいい?」
真由子は、建築学科を出て建築事務所に勤めている。今日はブリーフケースに図面の筒も持って大荷物である。
「ああ、そのへん置いていいよ。あ、リップとか・・」
言いかけて、平木は先ほどからの違和感の正体に気付いた。
「・・お前、なんですっぴんなの?」
真由子は嫌そうな顔になった。
「いいでしょ、細かいこと気にする男は嫌われるよ。」
「いや、別に好かれなくてもいいし。髪もなんか濡れてるし、あやしいなお前・・」
「そういうオヤジっぽいの、やめてもらえます?」
やはり真由子は呆れきったような顔になった。この辺が引きどきだ。
「お前が遅いのは仕事のせいじゃないのかよ・・なんか妙な罪悪感感じて損したぜ。」
ぶつぶつ文句を言いながら、真由子を治療台に座らせ、エプロンをつける。手袋をはめ、明日の準備がしてあるトレイからミラーを取ると、治療台の横に座った。
「で、取れたのは?」
真由子は、取れた前歯をポケットから出した。ティッシュに包まれているのを、丁寧に開く。いわゆる「保険の差し歯」といわれるものだ。
「これ。ポロッて。舌の上に、あ、落ちた、って感じで・・」
手にとって見てみたが、特に亀裂なども入っていないようだ。そろそろ換えてもいいのではないかとも思うが、とりあえず今日はこれを付け直して済みそうだ。
「じゃ、ちょっと歯の方も見せて。」
治療台を少しだけ倒し、ライトを点灯する。真由子の顔が少し緊張した。
「軽く口開けて。」
左手で上唇を押し上げると、右上1番、歯が取れてしまった部分があらわになる。見えているのは金属のコアと、その周囲に残っている歯質・・
「ん?」
平木の眉間に少し皺が寄った。ミラーを差し込み、裏側からもチェックする。
「痛くないか?」
「いはくらい」
真由子が口を開けさせられたまま答え、平木は、ふーん、と頷いた。
「にゃに」
「ん・・土台のとこの歯が、虫歯になってるよ・・ちょっとこのまま付けるってわけにはいかないな」
ミラーを抜きながら説明すると、真由子に猛烈に抗議されてしまった。
「ちょっと、それは困るよ!明日、大事なプレゼンがあるんだから。とにかく今日は付けてよ。」
「んー、それが終わったら、ちゃんと治しに来いよ。」
「はいはい」
平木は軽くため息を付いてから、仮止め用に使う接着剤を取って来ると、妹の言い付け通り、取れた前歯を付けてやった。
「しばらく自分で押さえてて。後でちょっと他も見せてみろよ。お前、じいさん先生が店閉めるとき、居なかっただろ。ってことは、1年半以上歯医者に行ってないわけじゃん・・」
真由子はちょうどそのころ、アメリカに留学に行っていたのだ。まったく、うちの女どもはアメリカが大好きなんだから・・
しかし、探針も持ってこよう、と立ち上がった隙に、真由子は治療台から下りてしまった。前歯は右手で押さえたまま、器用に左手だけでエプロンもさっさとはずす。
「今日は明日の準備とかで忙しいから。また今度ね。ありがと。」
そして、荷物を取るとさっさと帰って行ってしまった。
「あ・・」
そういえば、真由子は子供のころ、兄弟の中で一番歯医者に行くのを嫌がってたな、と思い出したのは彼女の姿が消えてからである。高校生のころからは、真由子はその近所の歯科医院でバイトをしていたので、なんとなく忘れていた。
さて、翌日の大事なプレゼンとやらが済んでも、真由子は治療には来なかった。
「いつ来るんだよ」と聞いても、
「今は忙しいから」
と言われてしまい、ほとんど相手にされない・・。
ま、それならそれでいいけどね、と思い、徐々に平木もそのことを忘れかけていた、約1ヵ月半後の日曜日の朝。
「ちょっと、お兄ちゃん、起きて、真由ちゃんの歯、見てあげて。」
と、母親に叩き起こされた。
「ん・・後にして・・俺、5時に帰ってきたんだよ、5時。」
ちょうど前の晩は、救急歯科診療所の当番に当たっていたのだ。2時半で終わりのはずが、1時間半以上も仕事が延び、ぐったりして帰って来て、2時間ほど前にベッドに入ったところだ。
・・うう、そうだ、あいつのせいだ・・
土曜日の夜は、本来なら3人で入るはずが、12時頃に1人が『明日家族で出かけることになってんだよ、悪いな、先帰る。』と言い出した。一応先輩なので、あまり何も言えず、えー、と嫌な顔をして控え目に抗議してみたのだが、『あー、お前まだ独りだからわかんないかなー、家族で出かける予定すっぽかしたら、離婚されちゃうよ』と、しれっと言って、さっさと帰ってしまったのであった。
・・家族持ちがそんなに偉いのかよ。お前が離婚されようが知ったこっちゃねえよ、ばーか。
と、心の中で悪態をついて後姿を睨みつけてみたが、彼はそんなことはおかまいなく軽い足取りで帰って行き、しかも運の悪いことにその直後からセンターは大繁盛、残された平木たちは、死にそうな思いで働く羽目になった。というわけで、遅く帰って来ただけでなく、疲れ切ってもいるのであった。起こされなければ、一日中寝られそうなくらいだ。実際、そんな風に寝ていて日曜日が潰れてしまうことも多い。常々平木は不満に思っているのだが、独身だと、土曜日やら連休の合間に当番が回ってくる。
・・俺もそろそろ結婚でもすっかなー・・・
とは思うが、休みが続いても旅行にも連れて行ってくれないという理由で、先月、付き合っていた彼女に振られたばかりである。
「別に旅行とか行く必要ないじゃん・・」
「何が旅行よ。寝ぼけてるの?ほら、起きて。真由ちゃんが可哀想でしょ。」
母親がうるさく言い、俺は可哀想じゃないのかよぅ、と、しぶしぶ起き上った平木の目に、鼻の下が大きく腫れ上がった真由子の泣き顔が映った。
「あーあ、腫れちゃいましたねぇ」
思わず言ってしまい、また母親に怒られる。
「なによ、その冷たい言い方は。」
だから早く来いって言ったのにさ、とぶつぶつ言いながら、平木は重い体を無理やり起こすと、シャワーを浴びて何か食べないと働けない、と言い残して、シャワーを浴びに下に下りた。
30分後、平木は、真由子を乗せて車で職場に向かっていた。出してやった薬を飲んでもまだ効かないらしく、ずっとさっきから口元を押さえ、喉の奥から高い声を出して泣き続けている。
だから言っただろ、とよっぽど言いたかったのだが、まあ、いまさらそんなことを言っても仕方ない。平木は、頭の中で病院に着いてからの手順を考えながら、黙って運転することにした。
・・どうするにしても、補助が誰も居ないのは、ちょっと辛いな・・
職場に到着して、とりあえず薬が効き始めたのか、少し落ち着いた真由子を診察室に残し、平木は病棟にある口腔外科のスタッフステーションに向かった。口腔外科は入院患者も抱えているので、誰か、しかもタイミングが良ければ夜勤明けで非番になったスタッフが居るかもしれない、と思ったからであった。先輩しかいなかったりしたら困るが・・
・・なんか不審者みたいだよ・・
エレベータを降り、ほぼ無人、しかも省エネなのか電気も薄暗い廊下を歩いていると、ナースに出くわした。
「ちょっと、どなたですか?・・って、あれ、平木先生?どうされたんですか?担当患者さん、入院されてました?」
「ああ、いや、そうじゃないんだけど。ちょっと、妹が急に歯が痛くなっちゃって・・」
「当直の先生なら、今、いらっしゃいませんよ?」
「あ、それは俺が自分でするからいいんだけど。」
「やだ、ごめんなさい、そうですよね・・」
ナースは恥ずかしそうに笑った。
「治療するのに、補助が誰も居ないと困るから、あの・・」
名前を呼ぼうとしたが思い出せず、少し近付いて名札を見るが・・抱えて持っている細長いノートで、姓が隠れている。困った。
・・いいや。名前呼んじゃえ。
「のぞみちゃんでも誰か他のスタッフでもいいんだけど、ちょっと補助入ってくれないかなって。」
のぞみは、えっ?とびっくりしたように平木の顔を見つめて、なぜか突然顔を赤らめた。
・・あれ、やっぱり、名前はマズかったか?
平木は姉妹に挟まれていることもあって、気安く女性を名前で呼べてしまうのだった。そして、それが誤解されたことも少なくない。
しかし、こんなところで時間を食っている場合ではないのだ。
「あとで食事くらい奢るから。」
のぞみはうつむいてしまった。間違いない。
・・ったく、だから女はめんどくせえよ。
もとはと言えば、自分が名前を忘れたのが悪いが、平木はちょっとイラっとしてきた。
「他の人でもいいんだけどさ。手が空いてそうなら。」
「私、大丈夫です!今、夜勤から上がって、帰ろうとしてたとこですから。」
「あ、そう?じゃ、来てもらえると助かるな。」
「はい!」
なんだかおかしなことになってる気がするが・・ま、後で考えよ。頭をポリポリ掻きながら、平木はまたエレベータに乗り込み、後から乗り込んできて、ボタンを押しているのぞみの後ろ姿をながめていた。
逃げていないかと少し心配しながら診察室に戻ると、真由子はおとなしくそこにいた。まあ、痛みが若干引いたとはいえ、鼻の下が腫れ上がっているのだから、逃げるわけにもいかないだろう。
「えーと、手伝ってくれる、生田さん。帰るとこだったのに、来てもらったから。」
ようやく名札が全部見え、フルネームが判明した。真由子の前で、下の名前を呼ぶ羽目にならなくてよかった・・と、勝手なことを考える。
「どうもすみません・・ご迷惑かけちゃって・・」
真由子は治療の準備を始めたのぞみに謝ってから、平木にこっそりと、『ねえ、カノジョ?』と聞いた。
「そんなんじゃないから。」
冷たく言ってから、平木は妹に通告した。
「その痛いとこなんとかしたら、全部診るからな。」
少し笑っていた真由子の顔が、一気にこわばる。
「え・・や、やだ。」
必死に抗議する妹の声を無視して、平木はシャツのボタンを外し、下に着ているシャツの上に白衣を着ようと・・
・・あれ?す ず し い な・・
仕事の日はいつも下に着ているはずのアンダーシャツを着忘れてきたらしい。
「ちょっと、何脱いでんの、カズマ・・」
「だから頑張ってカズマとか言うなって。」
アメリカから帰ってきてから、この生意気な妹は、兄を名前で呼んでいる。いや、呼ぼうとしている。本当に自然に出てくるなら許せるが、気を抜いた時は「お兄ちゃん」と呼んだりするのだ。だったら無理に名前で呼ばなくてもいいのに・・
「先生、いい広背筋してますね。」
「勝手に見るなよ」
いきなりのぞみに言われて、激しく動揺した平木は、思わず口を尖らせて抗議した。のぞみがビクッとしたのを見て、少し後悔する。しかしこれまた真由子に突っ込まれる。
「人前で脱いどいて、勝手に見るなって、おかしいから。でもねえ、たしかに、体だけはそこそこ、いい線いってると思う、私も。」
「体だけはって何だよ。」
白衣を羽織り、ボタンを留めながら、妹を睨む。
「他に褒めるとこなんてないもん」
「でも、平木先生、ナースにはファンも多いんですよ」
「それって、女慣れしてるからじゃないですか?私と姉に挟まれてるから、女性に免疫ありまくりっていうか。さっきみたいに平気で裸にもなっちゃうし」
・・さっきのは事故だから。
思いつつも、反論すると面倒なので黙っていると、のぞみがまた驚くようなことを言い出した。
「でも、先生、いつもはちゃんとアンダー着てますよね・・ノースリーブの。」
「な、なんで知ってんの」
「そういうのは、ばっちり見られてるんですよ~。大庭先生みたいに、汗っかきなのにハダカはちょっとありえないとか、でも村松先生みたいに、Tシャツの袖が白衣の袖からチョロって出てるのもねー、とか。だからチョロ松って呼んでるんですけど。」
「そんなとこ、見てるわけ」
「それ、自意識過剰ー。見てるんじゃなくて、見たくないのに見えるんですよ、ねー。」
横から真由子が口を挟み、二人でうんうん、と頷き合っているのがまたうんざりだ。
「お前は歯が痛かったんじゃないのかよ・・ほら、始めるぞ」
平木が手袋をはめると、真由子は、また顔をひきつらせた。
そんなことにはかまわず、平木はユニットの上の方についているレントゲンのアームを引き寄せながら、のぞみに聞いた。
「デンタルのフィルム準備できる?」
「はい」
真由子が今にも泣きそうな顔になっているのを見て、のぞみの動きが止まる。
「あの、フィルム・・いいや、自分でやるから。」
平木は、あまり寝ていないせいか、少し機嫌が悪いなと自分で思いながら、フィルムのある棚に向かった。