翠は、隣に座る和人に起こされた。

「ほら、サンゴ礁が綺麗だよ」

つい眠ってしまったらしい。この2週間、ホントに忙しかったからなあ・・・

昨日結婚式をあげたばかりの和人の手を握りながら、翠は思っていた。

 

結婚前は忙しい。昔もまあたしかに花嫁修業だなんだで忙しかったのであろうが、今は、花嫁も直前まで仕事があるし、「独身最後」の飲み会に誘われるのは新郎だけではなくなったし、エステにも行かなければならない。ネイルアートも頼んだし、あれやこれやでもう・・・

結婚式の後は、2次会で遅くまで騒ぎ、ホテルに戻って・・・昼過ぎまで寝た後、あわてて空港まで行って、もうすぐ新婚旅行先のハワイに到着しようというところであった。「なんでいまどき新婚旅行がハワイなの」と友人達にバカにされたが、昔からの憧れだったのだ。新婚旅行はハワイ。

 

飛行機が高度を下げ始めたとき、翠は右の奥歯にかすかな違和感を感じた。肩が凝っているせいだわ・・・翠は左手で肩を揉み、和人に笑われた。

飛行機を降り、添乗員に付いてバスに乗り込む。朝だというのに日差しがきつくて暑いが、乾燥しているので気持ちいい。和人と顔を見合わせて、微笑みあう。翠はまさに「幸せの絶頂」だった。

 

翌朝3時ごろ、翠は突然目が覚めた。時差ボケもつらかったが、そのせいではなかった。

「いたたたた・・・」

思わず顔をしかめ、右頬を押さえる。歯が痛かった。

「和人・・歯がいたい・・・」

隣に眠る和人を起こしたが、時差ボケのせいか、

「んんん?ああ、んー。」

という声を出しただけで、また眠りに落ちてしまった。

「クスリクスリ・・・」

スーツケースを探るが、なんとなく「海外旅行には正露丸」というイメージで、正露丸しか入っていなかった。

あ、そうだ、財布の中にいつもバファリンを一つ入れていた。

あわてて財布の中を探り・・・ようやくバファリンを探し当て、洗面所のぬるい水で流し込む。おそるおそる鏡の前で口を開けてみると・・・

たしかに小さく茶色い穴が見えるのだが、痛くなるほどとは思えない。翠は頬を押さえながら考える。たしかに・・・ときどきちょっと冷たいものがしみるような気がしていたけど・・・まあ別になんともないだろうと放っておいたのだ。とにかく、痛みがおさまりますように・・明日の朝は、憧れのホテルの海辺のレストランのブランチ、が予約してあるのだ。そして、その後ノースショアに移動して、二人でサーフィンを楽しむつもり・・・翠は、ベッドに戻った。

 

翌朝6時。翠は再び目が覚めた。

「いったたたた」

右頬をさする。どうやら、一度はバファリンが効いたようだが、ふたたび痛みがぶり返してきた。どうしよう。

「和人・・和人・・・」

今度は、和人も目を開けた。

「和人・・歯がいたい・・・」

「え?」

和人があわてて飛び起きる。

「薬無いの?」

「さっき飲んだけどもうない・・・」

「っていうか、歯がいたいってなんだよ。虫歯か?」

「そうみたい・・よくわかんない・・・」

「そんなの旅行前に、ってか結婚前に治しとけよ、バカ」

「そんなこと言ったってしょうがないじゃない・・・私だって忙しかったんだから・・」

悲しさと歯の痛さで涙が出てきた。

興奮したせいか、痛みが強くなってきた。

「痛い・・痛いよぅ・・・」

「おい、泣くことないだろ」

涙を見て慌てた和人が、肩を抱いてくれたが、はっきり言って、何の効果も、ない。

歯の痛みは大人も泣くほどだって聞いてたけど・・・そんなことをここで実感することになろうとは思いも寄らなかった。よりによって、なんでこんなときに・・・翠は、10年ほど歯医者に行っていないことを、死ぬほど後悔した。そういえば母親に言われたのだ。

「昔は結婚する前に健康診断に行った、あんたも歯医者くらい行っときなさい、いつ子供ができるかわからないんだから」

と。古臭いと笑い飛ばしたのだが、そうだ、あのときに言われたとおりに行っていれば・・・なんにせよ、後の祭りだ。

「朝になったら、添乗員さんに相談しよう、な。」

和人がやさしく声をかける。

「でも・・ブランチ・・」

「何言ってんだよ、歯が痛かったら食べられないだろ」

「ずっと行きたかったのに・・・うぅぅ・・痛いよ・・・」

 

8時ごろ、和人が添乗員の部屋に電話をかけ、ブランチのキャンセルを頼み、翠の歯痛について相談した。

和人は戻ってくると、

「日系人の歯医者さんで診てくれる人がいるらしいよ。よかったな。ほら、支度しろよ」

と、翠を促した。翠は、痛みから解放されそうなことにホッとしたものの、今度は、少し怖くなってきた。

もともと、歯医者は好きなほうではない。それも、ハワイとはいえ、日系人とはいえ、ガイコクで歯医者に行くなんて・・

「和人・・怖いから歯医者さん行くのヤダ」

「バカ、痛いんだろ?一人で行くんじゃないんだから。それに、今日からサーフィンに行くんだし。さっさと終わらせようぜ。」

和人に促され、しぶしぶ着替えてメイクもすませる。新婚旅行とハワイということで、服が妙に浮かれているのが逆に気分を落ち込ませる。

「はあああ・・・」

添乗員と待ち合わせたロビーへと向かった。

「大丈夫ですかぁ?せっかくのハネムーンなのに辛いですよねぇ。申し訳ないですが私はブランチの方々をお連れするので同行できないんですがぁ・・タクシーのドライバーに頼んでおくのでぇ」

「すみません、お手数をおかけしてしまって」

「いいんですよぉ、仕事ですからぁ。歯が痛くなった方は初めてじゃないですしぃ」

タクシーが到着し、二人が乗り込むと、添乗員は行き先を告げ、

「じゃあ、ガンバって下さいねぇ」

と、最後まで、明るいつもりなのか、間延びしたしゃべり方で二人を見送った。

 

歯科に到着すると、思ったよりも明るい雰囲気のリゾート風の建物で、翠は少しホッとした。

受付で、和人が説明する。添乗員から話は通っているが、他にも急患がいるので、少し待たなければならないらしい。翠は、和人に寄り添われながら、待合室に入った。待合室はハワイアンキルトなどで飾られた明るいインテリアで、他に3人の日本人らしき先客がいたが・・・二人は自分達と同じ状況・・・歯が痛むらしい女性とそれにおろおろと付き添う男性という組み合わせ・・・であった。もう一人は女性で、英語のペーパーバックを読みながら、時折冷ややかな視線をカップルに向けている。翠と和人は、カップルとその女性の間に座った。翠は緊張のせいか、ますます歯痛が強くなってきて、頬をおさえてうつむく。ときおり、呻き声も出てしまう。

「ぅううう」

「痛い?」

口を開くのもおっくうで、ただ頷いて和人の問いに答えるしかなかった。

 

しばらくすると、診察室から、男の子が走り出てきた。

「マム!」

ペーパーバックを読んでいた女性が立ち上がり、男の子を迎える。

「どうだった?」

「いつもどおりだよ」

男の子の後ろから来た白衣の若い女性が、

「特に問題なしです。じゃ、また3ヵ月後にね。」

と言いながら、親子を送り出すと、もう一組のカップルに向かって言った。

「次の方どうぞ。えーと、患者さんだけでけっこうです。」

女性の方が不安そうに男性のほうを見、男性が立ち上がりかけたが、

「患者さんだけどうぞ。」

白衣の女性が強く言って診察室のほうへ立ち去りかけ、カップルの女性は、慌てて後を追った。

 

待合室には、翠と和人、そしてカップルの男性が残された。男性は心配そうにしている。

「奥さん・・ですか?」

和人が、男性に話しかけた。

「いえ・・彼女です。」

「大変ですね、せっかく旅行に来たのに、歯が痛み出すなんて」

「いえ、違うんです、彼女、昨日、カニ食べたら前歯が折れてしまって。歯が綺麗で自慢だったのにって、ショックらしくて。昨日から泣きっぱなしで大変でした。そちらは?」

「うちは新婚旅行なんですが、いきなり歯が痛いって言い出して・・・」

和人が困ったように翠のほうを見て苦笑し、男性は

「ああ、それはまた・・」

とだけ言って、黙ってしまった。

 

意外と早く、女性は診察室から戻ってきた。

「こんなに綺麗につけてもらった、ほら」

笑顔で、彼氏に、イーっとして見せる。

「ああ、元通りじゃん。よかったな」

白衣の女性が、また診察室から出てきて、受付に向かう二人に

「強度は以前より落ちてますから気をつけて。あと、小さい虫歯が奥にあるようですから、日本に帰ったらちゃんと診察を受けて下さいね」

と言ったあと、翠と和人のほうにやって来た。

「次の方どうぞ。ええ、患者さんだけどうぞ。」

翠は、和人とつないでいた手を離すと、白衣の女性について、診察室へと入っていった。

 

診察室は、待合室の雰囲気とは打って変わって、ほぼ白一色、明るいが殺風景な部屋だった。

「こちらへどうぞ」

別の白衣の女性が、翠を治療台に座らせ、エプロンをつけてくれる。

日本と同じだわ・・・翠は治療前の不安と、日本と同じ、という安心感の入り混じった微妙な感情で治療台に座っていた。

「坂口・・翠さん。あら、同じだわ、私もミドリっていうの。紺碧の碧っていう字だけど。」

歯科医らしい、さきほど待合室に呼びに来た女性が、カルテを手に横に座った。同じ名前ね、というところに、親近感ではなく、心外だわ、という感情がこもっている気がして、翠は不安を増大させた。

「で、歯が痛いんですって?どこ?」

「右の・・下の奥歯です」

「ではまず、見せてもらいましょうか」

「お願いします・・」

治療台が倒される。ハワイの太陽よりも強烈な、しかし冷たい感じのするライトが、翠の口腔内を容赦なく照らし出した。

ところどころにある古そうな銀色の詰め物と・・・放置されて茶色や黒に変色した虫歯・・・汚いわ・・・

ミラーを使う前にざっと状況を眺めただけでミドリは眉をひそめ、

「ちょっとこれは酷いわ・・・最後にチェックアップ・・検診受けたのはいつなの」

と聞いた。

「あ・・5年・・くらい前です・・」

実は10年ほど歯医者は御無沙汰なのだが、なんとなく嘘をついた・・が、足りなかったようだ。

5年!?あなた、仕事が無いとかじゃないんでしょう?それなのに大事な歯のことを放っておくなんて、どうかしてるわ」

少し軽蔑を含んだ口調で、ミドリは言い放った。アメリカでは、中流以上なら、歯の手入れはきちんとしてあるものなのだ。アッパーミドルの住むエリアで開業しているミドリが、こんなひどい歯を診たのは・・・学生時代にボランティアでホームレスの歯科検診に借り出されたときと・・・そうだ、2年ほど前、やはり日本からの旅行者の女性が歯痛で駆け込んできたときだ。いったい、日本人はどういう意識なのかしら?身に着けているものから考えて、お金が無いとは思えないのに、口の中はホームレスと同じ状態だなんて。

「とりあえず、痛むところをなんとかしますけど、他のところもすぐ痛み出しますよ、放ってお・・」

「あのぅ・・」

ミドリが話し出したのを、おそるおそる翠がさえぎった。

「どのくらいで治してもらえるんですか?痛みがなくなればいいんですけど・・・」

「はい?」

「今日ノースショアに移動することになっていて。お昼に出るバスに乗れないと困るんです」

「あなたねぇ・・あなたの歯はそういう状態じゃないですよ」

「でも・・和人も楽しみにしているし。」

「・・・」

ミドリは呆れて、アシスタントに、待合室に行って和人を呼んでくるように言った。

すぐに心配そうな顔をして、和人が現れた。

「えっと、和人さん?」

「はい・・」

「ノースショアに行くつもりだそうですけど、行きたければお一人で行ってください。」

ミドリの言葉に、和人は状況が飲み込めず、ぽかーんとしている。

「そんな・・痛くなくなったら私も行くわ」

翠があわてて言った。

「あなたの虫歯はそんなすぐ治るようなものじゃありませんから。痛みだけ取るなんて無理です」

ミドリの強い言葉に、和人が、

「あの・・ひどいんでしょうか?」

と尋ねる。

「あなた、翠さんの歯がどういう状態かご存知ですか?」

「いえ・・歯なんて気にしたこともないし・・」

「じゃあちょっと来て下さい」

ミドリが、和人を治療台の横に立たせ、翠に口を開けるよう促す。

「えっ・・」

意外にも、結婚した相手にさえ、口を開けて中を見せるというのは恥ずかしいということを翠は知った。これまで、歯のことなんて気にしたこともなかったが、虫歯があるのを見せるというのは・・・さらに恥ずかしい。

「早く」

ミドリの声と和人の目に急かされ、翠は仕方なく、少し控えめに口を開けた。

「もっと大きく」

口の中を覗き込んでくる和人の顔を見ないようにして、口を大きくガバっと開いた。

「ほら・・ここが虫歯・・ここも・・ここも・・ここもここも・・・こっちも・・・」

翠の口の中の汚く黒や茶色に変色した歯を、ミドリがミラーの柄で次々と指し示す。

「ああ・・ほんとだ・・こんなに虫歯だらけだったんですね・・・」

ため息まじりに和人が同意し、眉をひそめるのを見て、翠はたまらず目を閉じた。

「痛むのは・・これです」

ミドリが、唇の端をぐいっと引っ張り、右下の奥歯を見せ・・探針で穴をくいくいっと広げると・・・

「んっ、いはぁあっ」

翠の叫び声とともに、周囲になんともいえない悪臭が漂った。

「うわっ、くせっ・・・」

思わず和人が声を上げる。

翠は硬直し、目から涙をあふれさせた。

そんな翠の様子にはおかまいなく、

「中がこんなに崩壊してしまってるんです、ほら」

ミドリはその歯の齲蝕部を突き崩して見せ、和人は鼻と口を押さえて覗き込む。

そこには、虫歯がぽっかりと大きく茶色い口を開けていた。

・・・昔週刊誌で見た、ハセキョーの歯みたいだ・・・

和人は思い出し、急に翠が不潔に見えてきた。昨日の夜も翠と激しくキスをしたことに気付き、気分が悪くなる。

こんな虫歯だらけの口の中を・・俺は舐めまわしたのか・・・?

「こういうわけで・・翠さんは歯の治療を優先するべきなんです」

ミドリの言葉で、ハッと我に返る。翠が治療台から、すがるような上目づかいで見上げている。

「ああ・・そうですね・・それは治したほうがいいぞ、翠・・・」

和人の言葉を聞いて、翠は目を閉じた。

 

結局、和人は予定通りその日から5日間ノースショアにサーフィンに出かけ、その間、翠は、ミドリの自宅兼クリニックに滞在して、歯の治療を受けた。ミドリのクリニックを訪れるのは、ほとんどが定期検診かクリーニングを受けに来る患者で、ほぼアシスタントのみで良かったため、ミドリは、翠の虫歯の治療に専念できた。日本の歯科で働いたこともあるアシスタントに、日本では、治療が痛くても「自分が虫歯を放っておいたからだ」と患者のせいにしていいし、取らなくていい神経を取られたと訴えられることもなく、頑張って神経を残すよりは、むしろ後で痛み出さないように取ってしまったほうがいい、と聞いたので、ミドリはルートカナルの練習も兼ねて、何本かの歯に積極的に抜髄治療を施した。憧れのハワイでの新婚旅行を、5日間、ほとんどの時間を歯科の治療台の上で痛みに耐えたり泣き叫んだりしながら過ごす羽目になるとは・・・翠はこれまでの自分の歯に対する無関心さを悔やまずにはいられなかった。そして、毎日増えていく銀歯・・セラミックよりも安く、短時間でできるためにメタルしか選択肢がなかった・・を見るたび、翠はますます落ち込んだ。

5日後、和人が日に焼けて、白い歯がまぶしく輝く姿になって戻ってきたとき、翠は、度重なる治療の疲れと、歯の痛みからくる寝不足で、すっかりやつれてしまっていた。

それでも、新婚旅行最後の夜、オーシャンビューの部屋に泊まり、久しぶりの二人の夜を過ごしたが・・・和人は、あの汚い歯の残像と悪臭が忘れられなかった。さらに、今目の前にいる翠の歯は・・・ギラギラとやけに輝く銀歯が奥歯にズラリと並び、さらに、のけぞったときに見えた前歯の裏も・・・ギラリと光った。

和人はその歯を見ないようにして、気持ち悪さに耐えていたが、半年後、

「ごめん・・その歯が・・無理だった・・」

二人はついに、別れた。