・・なんで大きい病院の待合室って、こんなに落ち着かないんだろう・・
ななは、すでに人もまばらになった病院の外来棟で、廊下のような通路のような、なんとも微妙な空間に置かれたビニールレザーの長椅子に座り、なんとなく指先に触れた裂け目に人差し指を突っ込みながら考えた。中の黄色いスポンジは、なんとも頼りない弾力しかなく、指はどこまでも入って行きそうだ。ふと視線を落してその穴を見たななは、少しぎょっとして、手を引っ込めた。そして、舌でおそるおそる、右上の6番・・実はインレーが取れてしまってから3ヶ月ほど経つ・・を探る。当たり前のことだが、そこには穴が開いている。取れてしまったのはかなり大きめのインレーで、舌で触ると、それはソファの裂け目のスポンジに似て、どこまでも入って行きそうに感じられた。
・・もっと早く来なさいって、怒られちゃうかなあ・・
緊張しているせいか、喉が渇いてきたので、壁際にある水色のウォータータンクから、紙コップに水を入れ、また元のソファに戻る。ふう、とため息をついて、コップを口に運ぶ・・
「くぅぅっ」
何も考えずに水を口に含んだななは、小さく声を上げて右頬を押さえた。
・・水、冷たすぎるよ!
何の罪もない水のタンクをじぃぃっ、と睨みつける。すると突然、ぽこっ、と、空気が水の中を上がっていくのが見え、水面で消えた。タンクがごめんなさい、と言ったような気がして、ななは一瞬満足した。けれど、それは何の助けにもならなくて、もう一口飲むと、また右下にキーン、と痛みが走った。インレーが取れたのをしばらく放っておいたのに、今になって歯医者に来ようと思ったのは、半分くらいはこの歯のせいだ。この歯は、最近では、冷たいものがなくても、時々痛むことがあって、ななは小さい頃の、虫歯が多くてよく泣いていた頃を思い出して、少し怖くなってしまったのだった。
・・他にも、ちょっとしみるところも、あるし・・
またまた溜息をついていると、看護婦さんが出てきて、声を上げた。
「白河さーん。白河ななちゃーん。」
「あ、はい。」
ななはとっさに立ち上がった。いかにも高校生、といった制服姿のななを見て、看護婦さんは一瞬不思議そうな顔をしたが、手元のボードを確認してから、ななに笑顔を向けた。
「診察室、3番にどうぞ。付いて来てね。」
「はい。」
トクトク、と心臓の鼓動が強く感じられ始めた。ななは慌てて、横に置いていたバッグを肩にかけると、看護婦さんに走り寄る。看護婦さんの白衣の胸には、いわゆる病院の名札のほかに、幼稚園のようなピンクのチューリップ形の「なかむら みほ」とひらがなで書かれた名札がついており、さらには、小さいマスコットの犬がぷらぷらと揺れている。
そう、ここは、小児歯科なのであった。ななは実は、ここに来るにはちょっと大きいのだけれど、普通の歯医者さんは少し怖くて行かれない。壁には、動物のイラストやポスターが貼られていて、たしかに、少し気持ちが落ち着いた気がする。案外、頭って、騙されやすいのね、と、ななはホッとしながら、看護婦さんの後について足を進めた。
と、突然、廊下全体にも漂っていた「歯医者さんの臭い」が、急に強くなった。診察室に入ったのだ。鼻からのこの些細な情報で、ななの鼓動は再び速くなり、足も止まりそうになった。どうやって息をするのか、忘れてしまった感じがして、ちょっと息苦しい。
・・だ、ダメかも・・もう帰りたいよぅ・・
軽くパニックになりかけたななの耳に、
「こんにちは、ななちゃん。」
と、名前を呼んでくれる声が聞こえ、ななは、ふぅぅっ、と、久しぶりに息を吐くことができた。溺れそうになって、ギリギリのところで助けられたみたいな感じ。
少し強張ってはいるものの、ななは何とか笑顔を作り、ディスプレイの前に座っている声の主に挨拶した。
「こんにちは・・・紺野先生。」
「ひさしぶりだね。どこでも、ななちゃんの良いところに座って。早速そっちでもいいし。」
紺野先生は、治療台を指した。
「嫌なら、最初はこっちでもいいし。お茶とか何も出ないけど。」
自分が座っているすぐ横の小さなテーブルと椅子・・たぶん、付き添いで来たお母さんが座ったり先生としゃべったりする用の・・を指した。
「じゃ、こっち。・・・・にします。」
ななは、バッグを下ろし、椅子に座った。くるり、と椅子ごとこっちを向いた紺野先生と向かい合せになる。
・・白衣、変わったんだ・・っていうか、それ、白衣?
久しぶりに会った紺野先生は、薄いブルーの、どう見てもポロシャツのようなものを着ている。胸にはポケットと名札も付いているし、たぶん白衣なんだろうけれど・・ななは、思い切って聞いてみた。口を開くきっかけにも、ちょうどいい。
「白衣、変わったんですか?」
「ん?ああ・・ななちゃん、これ、初めて?」
ななは、こくこく、と頷いた。
「子供は白衣を見て泣き出すことが多いから、白衣っぽくないのにしましょう、って思いついた人が居て。1年くらい前からかな、小児と、なんだっけ、歯科恐怖症の人がかかる外来は、これになったの。」
「ふーん、似合ってる。」
紺野先生はそれを聞いて、目を細めて笑った。
「どうもありがとう。ところで・・ななちゃん、もう、普通の歯医者さんに行ってるのかと思ってたよ。」
ななは急に顔を曇らせ、少し勢い込んで聞いた。
「高校生はもうダメですか?小児歯科って、何歳までって、決まってますか?先生もう診てくれないんですか?」
「いや、特に決まってないし、来てくれたら診るけれど、ちょっとお家から遠いかな?と思って。」
紺野先生は、あくまで落ち着いた調子を崩さずに答えてくれた。
「たしかにちょっと遠いんですけど・・近所の歯医者さん、行こうかなとも、思ったんですけど・・やっぱりちょっと、怖くて・・」
ななの声はどんどん小さくなる。
「そっか、怖いか・・」
紺野先生は、ちらっ、と、横目でディスプレイを見た。前回の受診日を確認したのだろう。たぶんそこには、2年くらい前の日付が書かれているはずだった。
「うーん、じゃあ、他の歯医者さんには、行ってないのかな?」
紺野先生は、しゃべるとき、ときどき、最後に、どう?と尋ねるかのように、目を少し大きく開いて微かに頷く癖があって、ななはそれを見ると、真剣に話をしてくれてる!という気がするのだった。同時に、隠し事をしたり、嘘をついたりできないような気分にもなる・・
「はい・・すみません・・ずっと、行かなくちゃとは思ってて・・でも・・」
声が小さくなる上に、どんどん顔が俯いてしまうので、ななの声はほとんど聞こえなくなりそうだった。
「大丈夫、謝らなくていいよ。怖いのに、頑張って、よく来たね。」
ななは、俯いたまま、小さく首を振った。
・・優しすぎるよ、先生。ななは・・あの・・ごめんなさい・・・
その様子を見て、紺野先生は、今日は検診ではなく、どこか治療することになるな、と確信した。頭の中で少し言葉を選び、口を開く。
「で、今日は・・何か、気になるとこがあるのかな?」
少しだけ顔を上げて、紺野先生の顔を見ると、じっとこっちを見ている先生と目が合って、どう?と目で聞かれてしまった。ななは、この目には勝てないのだ。思わず白状させられる。
「あの・・銀歯が・・取れちゃって・・・」
「ああ・・痛くない?だいじょうぶ?」
こく、と、ななは頷いた。心配そうに聞いてくれるその声に、つい、聞かれもしないのに、口が動いてしまった。
「ホントは、取れたの、だいぶ前・・先月なんです・・あの・・ごめんなさい・・」
「じゃあ、ご飯とか食べるとき、不便だったんじゃない?」
なんでもっと早く来ないの、とは言われなくて、ななはホッとした。そういえば、10年くらい診てもらっているけれど、紺野先生に怒られたことは、まだない。
・・でも、先生、あんまり変わってない・・ううん、やっぱりちょっと老けたかな・・
なんとなく考えて、まじまじと顔を見つめていると、突然聞かれてびっくりした。
「取れた銀歯は、ある?持ってきた?」
「あ、いえ・・ないんです・・あの・・噛んじゃって・・」
「呑んじゃった?」
「いえ、小さく割れちゃってたので・・」
いくらなんでも、授業中にキャラメルを食べていたら取れて、慌てて出したけれど、キャラメルの中に銀歯が割れて埋まってたので仕方なく一緒に捨てました、とは言えない。それ以来、キャラメルは舐めて食べていることも・・。
「そうか、じゃ、無いよね。」
紺野先生はさらりと言って、もう一度、ななの顔を見た。
「ほかは?」
「ほ、他って・・?」
痛いところを突かれて、動揺してしまった。
「うーん、あと他に、気になるところはある?ってこと。」
紺野先生はなるべく軽く聞いた。大人になってみて一番驚いたのは、子供が隠し事をしていることは、大人にはこんなに簡単にわかっていたのか、ということであった。ななはたぶん、他にも言わなきゃ、と思っていることがあるはずだ。案の定、ななは、小さな声で告白した。
「あの・・ちょっと、しみる歯があるんです・・」
1本ではなく、ちょこちょこある、というところは黙っておいた。
「ん・・それも治さないといけないかもしれないね。」
ななは、また、こくり、と頷いて、よろしくおねがいします、と、小さな声で付け加えた。
「えーと・・あっちに座れるなら、診せてもらおうかな。どう?」
「あ、はい・・。」
また、ななの顔が少し強張る。紺野先生になら診てもらえると思ったけれど、それでもやっぱり、あの治療台に座るのは、かなりハードルが高い。
「急がなくていいよ。ななちゃん、最後の患者さんだからね・・でも、準備は始めてもいい?」
先生は、のんびりした声を出して、実際、立ち上がる気配も見せずに言った。硬い表情のまま、かすかに頷いたななを確認すると、紺野先生は、後ろを振り向いて、奥の看護婦さんに合図を送った。
すぐに、看護婦さんが、ガーゼをかけたトレイを持って来て、治療台のテーブルの上に置いた。重い感じの、ゴトリ、と、カチャリ、の間のような音がして、ななは、ひっ、と息を吸い込み、体を硬くした。
「ななちゃん、緊張してるね・・息吐いてごらん。」
紺野先生に言われて、ふっ、と息を吐く。
「んー、もっと。」
ふう。
「もっと。」
ふ・・
・・もう、息、残ってないよ・・
ななは困って、紺野先生の顔を見て、ぷるぷる、と首を振る。
「うーん、もっと吐けるよ、ちょっとごめんね。」
紺野先生の右手が伸びてきて、ななの左肩の上に置かれた。
ひゃっ。
ななは、また思わず息を吸い込んで、体を硬くしてしまった。紺野先生が苦笑いする。
「ごめんごめん、もっかい最初から。吐いてごらん。」
ふう。
「もっと。はい、ふーーー。」
ふうう・・ぅ。
先生の声に合わせて、なんとか吐いてみる。でも途中で止まってしまった。
「ほら、ここ、ちから抜いてごらん。」
先生は、ななの肩をゆらゆら、と揺すった。
「で、下げてね。」
肩がぐっ、と下に押され、ななは初めて、自分の肩がすごく上がっていたことに気づいた。
ふう。
・・あ。
同時に、どこかに溜まっていたらしい、息が吐けた。少し驚いて紺野先生の顔を見ると、先生は頷きながら言った。
「ん、抜けたね。じゃ、もっかい、深呼吸してごらん。」
すぅぅぅぅ、ふうううううううう。
「どう、楽になった?」
「はい、すごく・・」
自分でも不思議なくらい、落ち着いてきた。もっとも、自分の肩に先生の手が置かれていて、少しドキドキなのだけれど、それは、さっきまでの息が詰まるような緊張とはまったく違っていた。紺野先生は満足そうに微笑むと、ななの肩に置いていた手を引き揚げた。最後に、ポンポン、と肩を叩いて、
「緊張してきたら、ここ、下げて。わかった?」
と言って。ななは、ゆっくりと頷いた。
・・よしっ。
何度か深呼吸をした後、ななはついに決意して、立ち上がった。治療台に近づく。
「あれ、もう大丈夫?」
と、少し驚いたように言う先生に、ななは誇らしげな気分になって、
「ここ、座ってもいいですか。」
と聞いた。ホントは、立ち上がったとたん、またドキドキしてきたのだけれど。
「もちろん。どうぞ。」
という紺野先生の言葉に押されるように、ななは自分の体を治療台の上に押し上げた。
・・座れたよ・・
横の先生の顔を見ると、先生は椅子ごとこっちを向いて、おめでとう、と小さく言ってくれた。
「じゃ、衛生士さんに、エプロン着けてもらって。ちょっとカルテ書くからね・・」
そう言って、ななに背を向け、ディスプレイに向かった先生が、あ。と声を出した。
・・なんだろう・・
エプロンをつけてもらいながら、少し不安に思っていると、紺野先生がこっちを向き、少し申し訳なさそうに尋ねた。
「ななちゃん、原田先生呼んでもいい?予防プログラムの。」
「あ・・・ぇっと・・」
予防プログラムは、この小児歯科で、特に乳歯に虫歯が多い子供を対象に行っているもので、歯磨き指導やフッ素、定期検診などを組み合わせ、大きくなって歯が生えかわってからは、虫歯のないきれいな歯にしましょう、というプログラムだ。なかなか成功率は高いらしく、この大学病院の小児歯科の自慢のひとつである。ななは、子供の頃虫歯が多かったので、プログラムの第1期生に選ばれてしまったのだった。まあそれはラッキーだったとも言え、予防をしっかり仕込まれたおかげで、歯が生えかわった頃には、ななは、虫歯のない、きれいな歯になった。
原田先生は、そのプログラムを始めたメンバーの一人だ。熱意ある女の先生で、でも、それだけに怖くて、ななは、少し苦手だった。特に、中学生になってすぐ、2本「も」虫歯を作ってしまった・・結局、右上の6番にはインレーが入り、左下の6番はレジン充填された・・ときには、ひどく怒られて、それは、なんとなく、歯医者から足が遠ざかるきっかけのひとつになった。
「いや、もちろん、嫌なら、嫌って言っていいんだよ。」
紺野先生は、やさしく付け加えた。ななの「女のカン」では、紺野先生もあまり、原田先生が好きではないのだ。
「あ、じゃあ・・」
言いかけて、ななは、ふと思い出した。その後また左下の5番に虫歯を作って紺野先生に治療してもらったときに、原田先生に言わないでおいてもらったことを。そこもインレーでの治療になったので、2度目に、銀歯をはめてもらいに行くと・・原田先生が来ていて、『紺野くん、どうしてあなた、そんなに非協力的なの』とかなんとか、紺野先生に怒っていたのだった。
「でも、先生、原田先生に怒られちゃうよね?だったら・・」
ななが言うと、紺野先生は笑った。
「ななちゃんがそんなこと気にしなくていいよ。それに、別に怒られるわけじゃないよ。原田先生は先輩だけど、上司じゃないから。ま、たしかに、怒りんぼさんだからね、原田先生は・・」
「怒りんぼさんって・・」
紺野先生は、普段、子供を相手に仕事をしているせいか、ななが言うのもおかしいけれど、使う言葉が、ときどき子供っぽい。
「ま、とにかく、ななちゃんが決めていいよ。呼ばなくても来ちゃうかもしれないけど。」
カルテが電子カルテになってから、『どこで、誰がカルテを開いた』というのがわかるようになっているのは、便利でもあり、こういうときは、少々面倒だ。付箋のようにメッセージを付けることもできて、ななのカルテには、『受診があったら原田まで連絡下さい』と、ごく最近の日付でメモが付いていた。うっかり、確認しました、というボタンをクリックしてしまったので、原田先生は乗り込んでくるに違いない。
そろそろ、プログラムが始まって10年になるので、彼女がいろいろなデータ集めに必死になっていることは知っていた。ななの歯が綺麗なままなら、『プログラムの成功例』として出すだろうし、ななの歯が虫歯になっていれば、『途中でプログラムを止めたので虫歯になってしまった例』として使うことだろう。ななは、どちらにしても有効に使える大事なサンプル、なのだ。そんなふうに、研究材料のような扱いをするのは好きではない。もっとも、大学病院なのだからそれも当然で、臨床だけやりたいのなら開業している医院で働けばいいのだ・・が、そうなると今度は今のように好きなだけ時間をかけて治療するというわけには行かず・・そのあたりが、ここ数年の紺野先生の悩みどころである。
「じゃあ・・来ちゃったらしょうがないですけど・・最初は紺野先生だけでお願いします」
ななの声に、紺野先生もふと我に返って頷くと、治療台の方に近づいた。
「ん、そうしようか・・で、ななちゃん、心の準備できた?見せてもらっていいかな?」
言われて、ななはまた、ドキドキと緊張してきた。顔もこわばってくる。
「ほら、また、上がってるよ。」
紺野先生は微笑みながら、ななの右肩をぱたぱた、と叩いた。あっ、と思い出し、肩を下げて、ふぅぅっ、と息を吐く。
呆れられてないかな、と心配になって紺野先生の顔を見ると、こちらを見ながらゆっくりと顔を上げ下げしてくれたので、ななはそれに合わせて、吸って・・吐いて・・・何度か深呼吸をした。怖い気持はあるけれど、落ち着いてきた。
「いい?落ち着いた?」
「はい。」
「じゃ、見せてもらうよ・・椅子倒すよ。」
「・・はい。」
「あ、止めて欲しくなったら、ちゃんと言って。言ってくれたら止めるからね。」
もう、治療の度に何度も言っていることだった。が、こういうのは、おまじないみたいなものだ、と紺野先生は思っていた。実際に言っている内容よりも、言うだけで安心するというものだ。もっとも、ななの場合は・・
「じゃ、倒すね・・」
ななが頷くのを見てから、スイッチを押す。ゆっくりと治療台は倒れ始める。
「あ、せ、先生、ストップ・・」
「はいはい。」
紺野先生はスイッチを押し、治療台は半端に倒れたところで止まった。半端すぎて、ズルズルと足の方に落ちてしまいそうだ。ななは手で座面を押して体を支え、こっちに注目している紺野先生を見て、えへ、と恥ずかしそうに笑った。
「あ、大丈夫、です、おねがいします。」
「いい?じゃ、いくよ。」
再び治療台が倒れ始めた。
・・よかった・・昔とおんなじだ・・先生、ちゃんと止めてくれる・・だいじょうぶ・・
ななは安心して、その治療台に体を預けていた。
治療台が倒れる途中に一度止めてもらうのは、ななの治療前の儀式みたいなものだ。もちろん、紺野先生を信用していないわけじゃないけれど・・止めて、と言ったときに本当に止めてくれるのを治療前に確認すると、安心できて、削られている途中に止めて欲しいとき、『ごめん、もうちょっとだけ我慢して』と言われても、我慢できる。最後の治療から2年ちょっと経っているので、止めてくれなかったらどうしよう、と少し不安だったが、昔・・いつごろから始めたのかは覚えていない・・と同じで、ななはホッとしたのだった。
治療台は最後まで倒れると、静かに止まった。
「まず、銀歯が取れたところ、見せてもらおうかな・・2本あるよね。どっちが取れちゃった?」
「右上のほう・・」
なながおずおずと答えると、紺野先生は、ん、と短く答えて、トレイの上からミラーを取った。カチャリ。硬い音に、また、ななはビクッとしてしまった。
「まだ、見るだけだから。何かする前にはちゃんと言うから。」
紺野先生は、手に持ったミラーを見せながら、いい?と、ななの目をまっすぐに見て聞いた。ななは、目で頷く。
「ん、じゃあ始めようか。」
そう言って、紺野先生は、ななの頭の上あたりに、移動した。
「ちょっと頭のほう、下げるね。」
上から声が降ってきて、治療台が少し動いた。紺野先生の顔が真上にあって、しかも逆さまで、ななはまた少し、落ち着かない気分になってきた。
「ライト点けるよ。」
・・う、ついに来ちゃった・・
ななは、明るいライトを見つめながら、こくり、と唾を飲み込もうとしたが、すでに口の中がカラカラになっていて、うまくいかない。
「いい?ホントに大丈夫?」
すると、紺野先生は、なぜかまた、ななの肩の横あたりに移動してきて聞いた。ハッ、と先生の顔を見て、ななは、先生がわざわざ移動してきた理由がわかった。
・・あ・・顔がこっち向きだと・・ちょっと安心するかも・・
ななが、こくこく、と頷き返すと、紺野先生はまた頭の上に戻って行った。
「はい、じゃ、あーん。」
ななは、ゆっくりと大きく深呼吸をすると、軽く目を閉じ、口を開けた。ミラーが口の中に入ってくるのが、消毒の匂いと気配で感じられる・・・
ライトを少し調節しながら、紺野先生は、ミラーに映った、ななの右上6番に目を凝らした。大きめのインレーが入っていた穴がぽっかりと開いていて、中は少し茶色くなっている。
・・セメントの変色だけ・・だったりはしないかな、これは・・
ななは、先月取れた、と言っていたが、もっと時間が経っていそうだった。インレーが取れた後、歯は小さく欠けてしまったらしく、そこから少し溶けかけてもいる。
・・原田先生、来ないといいんだけど、ホントに・・
紺野先生は心から願った。この2年のブランクの影響は思っていたより大きかったようだ。もう1本のインレー治療してある左下5番は、インレーと歯の境目が茶色く色付いている。右下の6番は、溝がくっきりと黒くなってしまっていて、端のほうに、昔溝を埋めたシーラントの名残りが小さくくっついている。その他にも、虫歯になっていそうな・・黒ずんだ部分ができている歯は何本かある。全部治療するとすれば・・それなりの長丁場になりそうだった。ひとまず、銀歯が取れたところから片付けることにする。
「ななちゃん、ちょっと、コリコリって、引っ掻くよ?器械じゃなくて、手でやるから。くっついてる前のセメント取るだけだから、痛くないと思うけど、痛かったら言ってね。」
トレイから取リ上げた、スプーンエキスカを見せながら、紺野先生はななに言った。
ななは、じぃぃっ、と、その銀色の器具の、特に先端を見つめた。何に似ているかと言われれば、耳かき。つまり、見るからに痛そうな感じ、ではない。
・・とんがってないし、うーん、大丈夫、かなあ・・
「どう?いけそう?」
紺野先生が聞いた。先生は、なながいい、と言うまで何もしないでいてくれるのだ。
「・・わかんない。」
ときどき、甘えてみたくなる。しかし先生は、優しいんだけれど、甘えさせてはくれなくて、いつもするりとかわして、自分のペースに巻き込んでしまう。
「わかんない?じゃ、大丈夫だよ、大丈夫。いいよね?」
「・・は、はい・・いいです」
「じゃ、あーん・・」
・・ひぃ・・やっぱり怖いよぅ・・なんでいいって言っちゃったんだろ・・
ななは、ぎゅうっ、と目を閉じ、仕方なく口を開けた。頬の内側に、綿だかガーゼだかが詰め込まれる気配がして、
「ちょっと風さんかけるよー」
という声が聞こえた。
「は、はひ」
・・し、しみませんように!
ななが体を固くした直後、しゅこっ、と歯にエアーがかけられ、痛くはなかったのに、びくっ、と体が反応してしまった。
「しみた?大丈夫でしょ?」
紺野先生の声に目を開けると、先生がじぃぃっ、と覗き込んでいるのと目が合った。
「コリコリするよ?」
とりあえず頷き返して、また目を閉じる。
・・なんかドキドキしちゃった・・先生、彼女さんとか、あんな目で見るのかな・・その前に、付き合ってる人いるのかな・・
考えていると、右上の歯から、本当に、コリコリ、カリカリ、という音が響いてきた。かなり大きい音だ。
・・痛くはないけど・・
ふと、頭の上のほうで、コンコン、と、壁か机を叩くような音がした。
紺野先生の手が一瞬止まり・・しかし、すぐに、コリコリ、という音が戻って来た。
・・な、なんだったんだろ・・
と思う間もなく、聞き覚えのある・・でもあんまり聞きたくない・・声が聞こえてきた。
「紺野くん?無視する気?」
・・ひぃぃ・・原田先生だ・・・先生・・無視したらまた怒られちゃうよ・・
ななの心配をよそに、紺野先生はそのままコリコリ、と作業を続け、案の定、足音が治療台のほうに近づいてきて・・
「ちょっと。」
さっきよりも不機嫌そうな原田先生の声が、すぐ近くから聞こえてきた。
・・あぁ・・だから言ったのに・・って、なな、口では何も言ってないんだっけ・・
ドキドキしながら耳を澄ましていると、紺野先生がようやく原田先生に返事をした。返事と言えるのかどうかわからないけれど・・
「気が散るから、いいって言うまで待ってて下さい。」
・・なんか、先生の声もちょっと怖いかも・・まさか、先生も怒ってる?
ななはこわごわ、薄目を開けてみた。そぉっと開けたつもりだったが、紺野先生はすぐに気付いて、聞いてくれた。
「ん?痛かった?」
いつも通りの、紺野先生だ。ななは小さく首を振って答えた。しかし、ホッとしたのも束の間・・
「じゃ、いいけど・・でもね、ななちゃん、ここ、やっぱり少し虫歯にもなってるから、削らないといけないよ。」
紺野先生から恐怖の宣告だった。
・・えええ・・や、やだよぅぅぅ・・
さっきよりもはげしく首を振ってみる。ななも、そんなことで逃れられるとは思っていないが、一応、意思表示はしておこうと思ったのだ。
「はは、ななちゃん、変わらないね。」
紺野先生は少し可笑しそうだった。
・・え、なな、前も同じことしてたわけ?
ちょっと覚えていない。
「あの、一応、嫌だって、伝えなきゃって・・でも、先生が言ったんだよ、嫌なら嫌って言ってねって・・」
言ってから、ななは、しまった、と思った。昔、原田先生に、ななが紺野先生に友達みたいに喋る、と怒られたのだ。が、どこかにスタンバイしているはずの原田先生が怒りで飛び出してきたりはせず、とりあえずななはホッとした。ただし一瞬だけだったが。
「それはそうだね。あ、ちょっと痛いかもしれないけど、すぐだから、我慢できる、よね?」
再び、恐怖の宣告だ。が、紺野先生の目力に負けて、つい、ななは、うん、と頷いてしまった。紺野先生はそれを見ると満足そうに微笑んで、あの恐怖の器械・・ガリガリってする・・タービンの、針のような先がいっぱい入った箱を眺め始めた。
・・ひぃぃ、なんで、うん。って言っちゃったんだろう・・
ななは泣きそうになってしまい、ぎゅっ、と口を閉じて耐えた。
「ホントに大丈夫?」
即座に、紺野先生はななの方に顔を向け、聞いてくれた。先生は横にも目が付いているに違いない。
「ん・・あの・・やっぱり、キョーフ、です」
「キョーフ、ねえ、あは・・ごめん、笑っちゃった、で、それはどうしたらいいの?痛いって言ったからキョーフ?やっぱり麻酔する?」
「注射痛いから嫌・・」
「刺す前に、薬塗るから。」
「あれ、変な味がするから嫌・・」
わけのわからないことを言っている、と、ななは自分でもわかっていた。
ふぅぅっ。と、紺野先生が呆れたように首を振りながらため息をついて「じゃあどうしてほしいんだ」と怒り出す・・
という妄想を浮かべながら、ななは紺野先生の顔を見上げた。が、紺野先生はいつも通りの穏やかな顔で、
「残念、他の味は無いんだよ。」
と言っただけだった。困った様子さえない。ななは、なぜか突然泣きたくなった。一瞬の沈黙が流れ、紺野先生が口を開きかけたとき、後ろで足音がした。
「まだいいって言ってないですよ」
紺野先生が顔をそちらに向けて言った。ななに向けたものとは違って、その声には、微かではあるけれど、たしかに紺野先生のイラ立ちの欠片が混じっている。ななは、泣きたくなった理由を理解した。さっき原田先生が入って来たとき、紺野先生のちょっと怒ったような言葉を聞いてしまったからだ。そして、なながどんなに泣いても困らせようとしても、ななに対しては、紺野先生はあの穏やかな顔も態度も崩すことはないからだった。
・・ななのことなんか、どうでもいいって思ってるからだ・・・
「ななちゃんが、いいって言うかもしれないじゃない?ね?」
原田先生はついに、治療台の横まで来て、ななの顔を見た。
・・原田先生には、今の、ななが思ったこと、絶対、バレてる・・
「どう?ちょっと見せてもらっていい?」
原田先生の目が、わかるわ、と言っているように思えて、ななが、こくっ、と頷くと、紺野先生は初めて、ちょっとびっくりしたような顔をして、ななの顔を見た。
「ホントに、ななちゃん、いいの?」
紺野先生のびっくりした顔に一瞬満足したななも、心配そうな紺野先生の目を見て、もう後悔し始めた。
・・先生、ちゃんとななのこと、心配してくれてる・・どうでもいいと思ってるから優しいんじゃなかったんだ・・
でも、どうにも引けなくて、ななはもう一度、こくっ、と頷いてしまった。紺野先生は、小さく頷くと、またいつもの顔に戻って、ディスプレイの前のあたりを指差しながら言った。
「うーん・・ななちゃんが良いなら。じゃ、そこから見てるから。助けてほしくなったら言って。」
「ちょっと、助けてって何よ。私が悪いことするみたいじゃない。」
「悪いとは言わないけど、怖いから。」
「紺野くんくらいよ、怖いって言うの。」
「誰も先生に向って言わないだけでしょ。」
「失礼ね。」
原田先生と紺野先生は、場所を交替しながら、今度はなぜか笑って会話をしていて、ななはまた、見たくないものを見たような気になった。
原田先生が、手早くマスクを付け、椅子の高さを調整して、手袋をはめて手を組み合わせ、手袋のフィットを確かめている間、ななは紺野先生をじっと見た。紺野先生は腕を組んでシェルフにもたれかかり、ななの方を見て、大丈夫、という風に頷いてくれた。ななも頷き返して、覚悟を決めると、顔を上に向けた。
「じゃあ、見せてもらうわね」
原田先生の手が顎に添えられて、ななは、びくっ!としてしまった。
「大丈夫よ、見るだけだから。」
そう言って、原田先生は、ななが口を開けるのを待ってくれているようだった。一応、原田先生も小児歯科の先生なので、普通の歯医者さんよりは、進め方は優しいのかもしれない。でも・・
・・でも・・ななの口の中見たら・・絶対、原田先生怒るもん・・どうしよう・・
目を閉じて、さっき紺野先生に教わったように、深呼吸してみる。原田先生の手は、実はちょっと良い匂いがする、というのを思い出した。
・・うーん、いいにおーい・・って思っても全然楽になれないよ・・怖いものは怖いよぅ・・でも、がんばれ、なな・・よし・・あ、あーん・・
ななは、思い切って口を開けた。
「もうちょっと大きく開けてね。」
言われて、んあ、と頑張って開けたななの口に、かぽっ、とプラスチックの器具がはめ込まれた。唇を、びよーん、と引っ張って大きく開かせるやつだ。さらに、ライトが調節され、ななの口の中を照らし出した。
・・や、やだっ。これ、やだっ・・恥ずかしいからやだっ!
泣きそうになったななに、原田先生の声が追い討ちをかけた。
「ちょっと、ななちゃん!なんでこんなに、虫歯にしちゃったのよ!」
んくぅぅ・・ぅくっ、ぅくっ・・ななは耐えられなくなり、喉の奥から声を漏らして、しゃくり上げ始めた。口を・・というか唇を大きく開かされたままなので、うまく泣けない。
「いいわ、とにかく、先に写真撮るわ。中村さん、ミラー持って。」
さっき連れて来てくれた看護婦さんが、大きいミラーを、ななの口に入れ、上の歯列が全部映るように角度を調節した。原田先生は、いつの間に用意していたのか、カメラを構えていて、すばやく何度かシャッターを切った。
・・と、撮らないで・・・
ななはぎゅぅぅっ、と目をつぶってみたが、特に痛いことをされているわけでもないので、それで止めてもらえたりするわけでもなく・・ミラーの角度が変えられた。同時に、頭を少し押されて、角度を変えさせられる。
「んー・・風さんかけるわよ」
と原田先生の声がするのと同時に、右下の歯に、バシュッ、とエアーがかけられた。
「ぁはあっ!」
その歯は、何もしなくても、ときどきキリッ、と痛むことがあるくらいなのだ。エアーをかけられて、キィィィン、と痛みが走り、ななはのけぞった。
原田先生は、あらあら、と小さく呟いて、また少しななの顔の角度を変えさせると、シャッターを何度か切って、下の歯も撮影した。
口から大きなミラーが抜かれて、ホッとしたななが口を閉じかけると・・といっても、なぜかまだプラスチックは外してもらえなかったが・・
「ななちゃん、そのまま、あーん」
という原田先生の声が聞こえ、また、先生の左手が顎にそえられた。条件反射で口を開けてしまい、おそるおそる目も開けると、原田先生が探針を口の中に入れようとしているところだった。
・・ひぃ・・右下は、やめて・・・
必死に思ったが、それはななの口の右下の歯の辺りに吸い込まれて行き・・カリカリッ、という音と・・鋭い痛みが伝わって来た。
「んはあぅっ・・」
・・やめてぇぇ!
「んー、そんなに痛むようには見えないんだけれど。レントゲン撮った?紺野くん。」
原田先生の言葉で、ななは、ハッとした。ななとしたことが、恐怖のあまり、紺野先生のことを忘れていた。
・・そ、そうだ、紺野先生に助けてもらえばいいんだ・・
ななは、紺野先生の方を見た。
「いえ、これからです」
と答えながらも、紺野先生は心配そうな目でななの方を見てくれていて、ななは、泣きそうな目で、もうイヤデス、と訴えた。紺野先生は、小さく頷くと、治療台の方に近付いて来た。
「原田先生、もう見たでしょ、替わって下さい。」
その声に、原田先生がななの口からミラーと探針を抜いてくれたので、ななは少し気が楽になって、紺野先生の、ななには決して見せてくれないちょっと厳しい顔を見上げた。唇がびよーん、と開かされたままなのは恥ずかしいけれど・・
「まだ写真撮っただけよ、ちゃんとプログラム用の検診してないもの。」
・・はぅ・・プログラム用の検診・・わすれてた・・
ななは、きゅっ、と体が縮むような気がした。普通の検診よりもじっくり時間をかけ、歯磨きの状態も含めて、隅々までチェックされてしまうのだ。痛いことはあまりされないけれど、
ここ、磨き残しがあるわよ!
とか、
歯茎が腫れてる!
とか、チクチク怒られるのがとても怖い。
「後でやっておきますから」
・・紺野先生にプログラム用の検診されるなら怒られても平気かも・・って、先生が怒るところ、想像デキナイ・・
ななが期待しながら聞いていると、原田先生は
「ダメよ、紺野くん、甘いもの」
と、あっさり却下してしまった。
・・紺野先生・・頑張って・・原田先生と替わって・・
ななは思わず応援していた。が。
「検診が怖い必要ないでしょう?それに、治療の途中なんです、替わって下さい。」
紺野先生の言葉で・・ななは大事なことを思い出した。
・・そうだ、なな、チュイーンってされるとこだったんだ・・やだよぅ・・
それなら、原田先生にでも検診されている方がいいかも・・と、ななは少し思ってしまった。我ながらあまりに現金な気もするけれど、嫌なものは嫌なのだ。
「でも、ななちゃんだって、治療されるよりは、検診の方がいいわよねえ。検診するのが私でも。」
と、途端に、原田先生に言われて、ななはびっくりした。さっきから、ななの心を読んでいるかのようだ。
「そんなもんですか。」
紺野先生は若干不満そうに言い、
「そりゃそうよ、ねえ?」
と原田先生が答えて、ななは2人からの視線を受けて戸惑った。
「え・・ぁ・・」
困って二人の顔を見比べる。
心配そうな紺野先生、と、意外と今のところは優しそうな顔の原田先生。
優しいんだけれど、治療をする紺野先生、と、怖いけれど、検診だけする原田先生。
「だって、治療、ちょっと痛いかもしれないんでしょ?」
原田先生が少し微笑んで聞いた。
・・そうだった!ちょっと痛いかもしれないって、紺野先生言ってた・・
優しいんだけれど、ななに痛い治療をする紺野先生、と、恐いけれど、痛くはない検診をする原田先生。
・・う・・紺野先生、ゴメンナサイ・・なな、やっぱり、痛いの嫌です・・
ななは、2人を見比べていた視線を原田先生の顔の上で一瞬、止めた。
「検診していい、わね?」
ななの視線を受けて、原田先生はすかさず言って微笑んだ。まだ少しだけ迷っていたのに、その言葉につられるように、こくり、と小さくななは頷いた。
ついさっき、紺野先生の心に波風を立てたい、と思ったはずだが、紺野先生、怒ってるかも・・と思うと、ななは紺野先生の方を見ることができなかった。カチャカチャと原田先生が器具を揃える音を聞きながら、ななの目には涙が溢れてきた。一部は目尻から流れて、耳に入る。つめたかった。
「もう泣いちゃったの?まだ、なんにも始まってないよ。」
紺野先生が、ガーゼで涙を拭いてくれた。その声はいつもと同じように優しくて、ななの涙はさらに溢れて、止まらなくなった。それでも紺野先生の目を見られなくて、ななが目を伏せていると、紺野先生の声がした。
「ななちゃん、ちょっと、こっち見てごらん。」
「ほぇ・・ごえんなはい・・」
まだプラスチックの器具をはめられたままなので、うまく喋れない。というか、こんな顔を見られているのは恥ずかしくてたまらない。それより、紺野先生に申し訳ない。原田先生の椅子がキュル、と床を動く音が聞こえて、始まっちゃう、と怖くなる。もういろんなことが頭の中でも心の中でもグルグルして、どうしていいかわからないまま、ななは紺野先生を見上げた。
「ななちゃん、謝らなくていいから・・」
紺野先生が言いかけたところに、
「紺野くん、始めたいんだけど」
と原田先生が入ろうとした。
「ちょっと待ってて。」
紺野先生は、ちらっ、と原田先生を見て言うと、ななの方にまた顔を向けた。
「うーん、ちょっと落ち着かないから、コレ外すね。必要だったら、あとでまた付ければいいよね。」
言いながら、紺野先生がななの唇をびよーんと引っ張っている器具を外し、原田先生は一瞬、何か言いたそうに口を動かしかけたけれど、紺野先生がまた、ななに話し始めたので、おもしろくなさそうに口を閉じた。
「あのね、僕は、ななちゃんが原田先生を選んだから、文句言ってるわけじゃないんだよ?」
・・あ・・紺野先生にも、ななの思ってること、バレてた・・・
ななは思いながら、小さく頷いた。
「別に、原田先生と僕は、ななちゃんのことを取り合ってる敵じゃないから。2人とも、ななちゃんが、綺麗な歯で居られるように、って思ってる。つもり。」
最後に、つもり、と付け足して、ちょっと笑ったのがなんだか可愛くて、ななも、ぎこちなく笑顔を作った。
「原田先生も、こんなに怖いから、そうは見えないと思うけど、ななちゃんの歯が虫歯にならないように、と思って、頑張ってるんだよ。」
・・え・・原田先生が、ななのこと考えてくれてる?
ななは少し意外な気持ちで、原田先生の方を見た。
「今ちょっとくらい怖くても、後で虫歯になって辛い思いをしないようにと思って、ななちゃんのために言ってるの、ただ意地悪で怖いわけじゃないのよ!って、原田先生は思ってると思うよ。」
「ちょっと、怖いってイチイチ言わなくていいの!」
原田先生は紺野先生に怒っている。やっぱり怖い。そう、どんな理由をつけられても、やっぱり怖いのだ。ななはまた、紺野先生を泣きそうな顔で見上げた。
紺野先生は、そんな原田先生をまたまた無視して・・やっぱり仲が悪いように見えるんですケド・・ななに向かってさらに続けた。
「僕は、ななちゃんのためなんだから、ななちゃんが嫌なのも怖いのも全部我慢しなきゃいけない、とは思わない。だから、嫌なら嫌って言ってね、って言ってるわけ。」
・・やっぱり、紺野先生、やさしい・・
ななは、うんうん、と頷いた。
・・紺野先生の治療も、原田先生の検診も嫌です・・って言ったら、先生、今日はこれで終わりって言ってくれるかなあ・・
期待を込めて、さらに紺野先生をじぃぃっ、と見つめる。すると、紺野先生は、かすかに目を細めて、少し悲しそうにも見える顔になった。
「でもね。ここが難しいとこなんだけど、ななちゃんが嫌だって言ったら、なんでも止めてあげられるかって言うと、そうじゃないんだよ。わかるかな。」
「・・わかんない。です。」
もちろん、本当はななも頭ではわかっているけれど、でも、嫌なのだ。
「うーん・・」
紺野先生が考え込むような顔を見せ、なながちょっとだけそれを見て満足していると・・原田先生の声が割り込んできた。
「ちょっと。いつまで待たせるのよ。治療に入るならまだしも、単に私の邪魔してるだけじゃない?」
・・ひぃぃ・・
ななは怖くなって、目をつぶって固くなった。
「こんなに怖がってるから、治療も検診も無理だよ、原田先生・・」
紺野先生の言葉に、原田先生はさらに声を大きくして、紺野先生とななの間に割り込むと、ずずいっ、と、ななの顔のそばに寄ってきた。
「そんなことないわよ、検診は怖くないじゃない?ほら、始められるわよねー?」
「ちょっと、そんなに無理矢理しないで、もっとゆっくり・・」
その言葉が、原田先生にさらに火を点けてしまったようだった。・・それまでも怖かったけれど、もっと・・怖い顔になって、きっ、と紺野先生の方に振り向いた。
「あのね、紺野くん。私、秋の学会シーズンで忙しいの。あなたみたいに暇じゃないのよ!」
ななはその声だけでビクッとしてしまったが、紺野先生は小さくスミマセン、と呟いて、怒るわけでもなく言った。
「そんなお忙しいなら、外来にまで顔出してくれなくていいんですよ。大事なお仕事に戻ってください。」
【 名 前 】:白河 なな
【 年 齢 】:16 歳
【 性 別 】:女性
【 職 業 】:高校生・中学生・小学生
【 先生の希望 】:紺野先生希望です
【 今日はどうされましたか?(複数選択) 】:
あちこちに
痛い歯がある(ときどき)
しみる歯がある
銀歯がとれた