七海は、むぅっ、とむくれたまま、窓の外の海を眺めていた。
「ほら、島が見えてきたわよ」
母親が言い、兄の大輝は父親と連れ立って、デッキに出て行った。
・・ふん。
七海は、そろそろ家族旅行がダサい、と思いはじめた、中学1年生である。家族旅行でも海外旅行ならアリなのだが、この夏休みの旅行先は、なんと、父親の実家のある、日本海の小さな島だ。当然、
「今年の夏は海の外、だからな、海外旅行だ。はっはっは。」
という父のサムい言葉がついている。しかも腹立たしいことには、自分たち兄妹を実家に置いた後、父と母は本当の海外に行くのだ。去年の秋から母親が本格的に始めた、アンティークのアクセサリーショップのための買い付けで、父は荷物持ちというところだ。
「いつも海に行きたいって言ってたでしょう。毎日でも海に行かれるのよ」
という母の言葉に、兄は喜んでいたが、七海は海なんて嫌いだった。
「お前はあの島で生まれたからな、七月の海で七海ってつけたんだ。なつかしいだろう。おじいちゃんも、おじちゃんやおばちゃんも、ほら、従兄の洋くんだって、待ってるぞ」
と父も言うが、実はその生まれたとき以来、行ったこともないので、なつかしいも何もない。従兄といえば、漫画や小説ではカッコイイおにいちゃんがよく登場するが、実際はそんなに甘くないことを七海は知っている。それに、たしか彼はもう大人のはずである。
というわけで、まったく楽しくない旅行先に向かっている最中の七海なのであった。
しかし、島に着き、父の実家に行ってみると、皆に
「まーかわいくなってー」「都会の子はやっぱり別嬪さんだ」
と口々に言われ、現金なことにやや機嫌を直した七海は、親戚中の揃う夕食の場で笑顔を見せていた。
隣は、従兄の洋である。日に焼けた人々に混じって、どういうわけか色白で眼鏡をかけ、少し周囲と違う雰囲気の彼は、急に
「あれ?」
と声を上げた。
「七海ちゃん、ちょっと、いーってしてごらん」
「へ?」
少し間抜けな声を出して洋のほうを向くと、
「へ、じゃなくて、いーってしてごらん、って言ってるのに」
と言いながら、洋は七海の上唇をつまんでめくり上げ、顔を近づけてきた。
七海は、さっき食べたワカメでも歯に着いているのかと、恥ずかしくなったが、洋はじっと見たあと、
「う・・ん」
とだけ言って、少し難しい顔になった。
「どうしたの?」
洋の隣に座っていた母が、二人の様子に気付いて尋ねた。
「あ、いえ、ちょっとね。七海ちゃんの歯に気になるところがあったもんで」
洋が言うと、母は困ったような顔になった。
「あら・・虫歯?」
「ええ、そうみたいですね。」
七海はびっくりした。ワカメが着いているんだと思っていたせいもあるが、これまで、それほど虫歯になったことはないのだ。はっ、と洋の顔を上目遣いで見上げる。
ちらり、と、横目でその七海の視線を受け止めると、洋は
「もう一度。」
と言いながら、七海の唇にまた手を伸ばしてきた。
今度は母が顔を近づけてくる。
唇をめくり上げられたまま、七海はどこを見ていいかわからないのと不安とで、目をきょろきょろと動かした。母のほかにも、こちらになんとなく注目している人々もいるのがわかる。
七海は少し赤くなった。
「えっと・・この歯の間が・・わかりますよね」
洋が、食卓にあった爪楊枝で七海の歯を差しながら母に説明している。
「ちょっと・・やだ・・・前歯じゃない・・」
母が眉をひそめる。
「やだってことはないですけど・・ま、早めに治したほうがいいですね」
洋が七海の唇から手を離したあと、おしぼりで手を拭くのを、七海はなんとなく嫌な気持ちで見ていた。
「じゃあちょっと・・洋くん、お願いできる?この子は夏休み、ほとんどここに居ますから」
突然の母の言葉に、七海はまたびっくりした。なんで?
「ああ、もちろん。」
洋が頷く横で、母が七海に向かって言った。
「じゃ、七海、洋くんにちゃんと治してもらいなさい。洋くん、歯医者さんなのよ。」
「洋先生は、この辺じゃあ、たった一人の歯医者さんだからね、それが従兄だなんて、よかったねー七海ちゃん」
「そうそう。ちゃんと虫歯も見つけてもらえて。」
七海の後ろからも、いつから聞いていたのか、別の親戚たちが調子を合わせ、七海の楽しくない旅行に、さらに楽しそうでない予定が加わった。
翌朝7時半、七海は、父の実家の隣にある歯科医院の治療台に座らされていた。洋がこの島に居ながら色白な理由を七海は悟った。外は早朝とはいえすでに真夏の海辺の陽射しが降り注いでいるというのに、診察室はなぜか薄暗い。
「ごめんなさいね、こんな朝早くから」
母が言う。診察時間が始まる前に・・そして、自分たちが帰ってしまう前に、とりあえず七海の歯を診てもらうことになったのだ。
「いいですよ、どうせ起きてるんだし。かといって、漁に出るってわけにもいかないし。」
洋が、ゴム手袋をはめながら治療台の横にやってきた。昨日の夕食の場では浮いていた感のある眼鏡だったが、この部屋で・・白衣姿の洋には必要な小道具に見えた。
「じゃあ七海ちゃん、始めようか」
そう言った洋の眼鏡がキラリと光った気がした。七海は、少し圧倒されて、こくり、と頷いた。
「よろしくお願いしますでしょ・・」
「よろしく・・おねがいします・・」
母に言われ、もそもそと挨拶する。言い終わらないうちに、うぃーん、と音を立てて、治療台が倒されていく。
七海は、まだ少し自分には大きい治療台の、ヘッドレストに頭を合わせようと、倒れ切ってから、ずりずりと少し這い上がった。
・・ひさしぶりだよぅ。緊張してきた・・
七海は両手を握り締め、ライトを見つめた。
洋はカン、と、そのライトを点灯して位置を調整すると、ミラーを手に取った。横で助手がカルテを構える。
母が軽く頭を下げて少し後ろに下がり、七海はこくん、と唾を飲み込んだ。
「はい、七海ちゃん、あーん」
ミラーを持った右手の指で頬をトントン、と叩きながら、洋が言った。
七海は、上から自分の顔を見下ろしている歯科医のつるりとした顎の下に、1本だけヒゲが生えているのを見ながら、口を開けた。そして、視界の端に入っているミラーが、消毒の臭いと共に口の中に入ってくる・・のを待った。
が、洋は、
「んーと」
だけ言うと、手をどこか・・おそらく膝の上・・に下ろしてしまった。そして口を開いた。
「七海ちゃん、ちゃんと歯医者さん行ってる?」
いきなりの問いに面食らいながら、七海は口を閉じて首を振った。
・・だって、学校で歯医者さん行きなさいって言われないし・・・
思いながら、七海は、今年の歯科検診は風邪で休んだということをぼんやり思い出した。
「やっぱりね・・・じゃあ、まず、しっかり全部診せてもらうからね。」
ため息をつきながら洋が言い、それを聞いた母が、後ろから心配そうに声をかけた。
「あの・・・七海の虫歯・・・ひどいのかしら」
洋は少しだけ顔をそちらに向け、叔母にというより、患者の母親に対するときの調子で説明した。
「いえ、ひどいというのではなくて・・前歯の他にも虫歯がちょこちょこあるようなので。しっかり診たら、小さいのがもっと見つかりそうですよ。今は奥歯の永久歯が生えてきたばかりで、虫歯にもなりやすいんですよ。」
「あら・・。どうもすみません・・。じゃ、おまかせします。」
母は頭を下げた。洋は頷きながら、また七海の方に向き直って言った。
「じゃあ、もう一度、あーん」
そう言って、今度は、ミラーを左手に持ち替え、右手でトレイから探針を取り上げた。
七海はまた、口を開けた。今度は、即座にミラーが口の中に差し込まれる。想像していたとおりの臭いだ。
「右上、7番から・・」
まだ完全には生えきっていないようだが、歯の一部は白濁したり茶色く色づいたりしている。ま、生えきっていなくても虫歯には違いないし、と、洋は最初の歯から虫歯を宣告することにした。
「C1。まだ生えかけなのに、もう、小さい虫歯ができちゃってるよ。」
七海は、叱られた、と、体をきゅっと固くした。母も後ろから、なぜか謝っている。
「すみません・・でも、ちゃんと小さいうちに見つけてもらって、治療してもらえるなんて、良かったわ。よろしくお願いします。」
洋は、少し不満そうな表情を作ったまま頷きながら、内心、安心していた。
研修を終えて、進路を考えていた頃。洋に、田舎に帰って開業したばかりの先輩がアドバイスをくれたのだ。
「お前も実家は田舎にあるんだろ。戻って開業するのがいいよ。東京じゃさあ、サービスが悪いの、痛いの、小さい虫歯も削られたのって煩くて大変だろ。田舎はいいぞ。まだ歯医者が偉いんだ。先生先生って言われるし、痛いのも虫歯作った自分のせいって叱りゃ済むし、小さい虫歯もちゃんと見つけてがっつり治したほうが良い先生だ。やっぱりさあ、歯医者になったからには、削って詰めてなんぼだろ。ああ、仕事してるー、って気になるよ。」
彼のアドバイスに従って、つまらないと思っていた田舎に帰ってきて開業してみたところ、彼の言った通りで、仕事の充実感はかなりのものだった。虫歯を指摘すると、患者は謝る。小さい虫歯を見つけて、治療しましたと言うと名医扱いである。奥歯に銀歯を詰めようが、誰も文句は言ってこない。両親や親戚も鼻が高いようで、居心地もいい。
そんな中、東京から来た小さい従妹の治療をさせられそうになって、少し不安があったのだが、患者の母である叔母は、どうやら、普段と同じ調子でやっても問題ない相手のようだった。洋は、安心して、先を続けることにした。
「次、6番・・これはちょっと進んでるかな・・C2だね。」
インレーは前後貫通で済むか、十字にしないといけないか・・いずれにしろ、大きめのインレーを入れることになるだろう。
「5番・・4番斜線で・・3番も斜線・・・2番・・C2。」
最初に、洋が見つけたところだ。1番との境からかすかに変色が広がっている。よく見ると、側面には小さな穴も開いている。
ミラーで裏側から見ると、その2番はもちろんだが、さらに続く前歯も揃って虫歯に侵されていることがわかる。昨日の晩、両1番の間も怪しいかな、と思ったのだが、やはりそうだ。それぞれの歯の間から黒ずみが広がっている。洋は探針で、1番の間を裏側からカリカリカリ、と引っかいた。
左上1番の方には、引っ掛かりがある。穴も開き始めてしまっているらしい。そのあたりをさらに丁寧につつくと、七海は、声こそ上げなかったが、苦しそうに顔を歪めた。
「ああ、痛むかな?ここはちょっと大きいみたいだからね、1番C1、左行って1番はC2。2番は斜線・・」
ここで洋は、少し大げさにため息をついて、七海に説教をした。
「ちょっと、七海ちゃん、もっと歯は大事にしないとダメだよ。中学生になったばかりで、もう前歯を3本も虫歯にしてしまってるなんて、先が思いやられる。」
「・・えっ・・ま、前歯・・3本って・・昨日の歯のほかにも虫歯が・・」
母が、少しあわてたように前に出てきて、青ざめた顔で尋ねた。
「ええ、残念ながらそうですね。まあ、作ってしまったものは仕方ありませんけどね。」
横を向いた洋は少し冷たく言い、七海の方に再び顔を向けた。七海の目が少し潤んでいるが、洋はかまわず続けた。
「続けるよ、口開けて。」
七海はまた、おとなしく口を開けた。
「どこまで行ったっけ・・はい、3番、斜線、4番・・」
溝が黒く色づいている。あえて治療する必要もないと思わなくもないが、ここではこういう虫歯も治してこそ名医なのだ。
「4番、C1。5番は斜線で、6番もC1。7番は・・半分生えかけだね。」
「じゃあ、そのまま下、左下に行って・・7番は斜線。」
待合室がざわざわし始めた。七海の検診は思ったよりも時間がかかっていて、ふと時計を見ると、診察時間の始まる20分前になっている。夏休みは大忙しなのだ。この近所に住む子供たちがほぼ皆、治療にやってくるのだから。しかし、洋は急ぐことなく、七海の検診に集中した。
「次、6番。これはだいぶん進んでるなあ・・」
茶色くなった溝を、探針でつついて引っかく。穴が開いている部分もあるようだ。
「んぁ、あ」
七海は、鋭い痛みを感じ、思わず顔をしかめて、声を上げた。
「痛いでしょう。しみたりしなかった?」
洋が聞くと、七海が、あっ、という顔になった。たしかに、冷たいジュースがしみることはあった。でも、虫歯だなんて思わなかったし・・七海は、洋の目を見て、かすかに首を振った。
「そう?」
洋は右手の探針を置くと、スリーウェイシリンジを引き出してきて、七海の左下6番、5番との境の、中が黒ずんでいるあたりにエアーを吹きつけた。シュッ、シュッ。意地悪というより、小さく穴が開いているように見えたので、光っている唾液を吹き飛ばしたかったのである。
「ぁ、んはっ・・」
頬側の境目にも。シュッ。
「ぃはっ」
エアーをかけるたびに、七海がビクン、と体を固くして、声を上げる。
「ちゃんとしみるんじゃないか。ダメだろう、放っておいたら。」
洋は再び探針を手にして、5番との境をなぞった。やはり、穴が開いてしまっているようだ。
「んんんっ・・」
七海の顔がまた痛みに歪む。
「これはだいぶん大きいよ。隣の歯もそこから虫歯になっちゃってるようだしね。」
「本当にすみません・・気付かなくて・・」
また後ろから母が頭を下げた。
「えーと、6番はC2。C3にかなり近いけどね。」
母は、壁に貼ってある、虫歯の進行、というポスターに目をやった。
C3 かなり進んだ虫歯です こうなってしまうまえに治療しましょう
と書いてあるのを見て、胸が痛む。
「5番・・C1・・いや、C2かな、4番から・・右下3番まで斜線。4番・・C1。5番は斜線、6番が・・うーん、C2だな。7番は・・まだ斜線。はい、おしまい。」
洋は体を起こし、七海の治療台も起こすと、助手がつけていたカルテを覗き込んだ。
「11本、ですね。」
助手が告げているのを聞いて、七海は少し驚いた。
・・それ・・虫歯の数なの・・?
直後に洋が言った。
「聞こえた?七海ちゃん。虫歯、11本も見つかったからね。がんばって治さないと終わらないよ。」
「じゅう・・いっぽん・・もう、七海、そんなに虫歯作って・・。ホントにすみません。七海、洋くんが歯医者さんでよかったわね、もう、恥ずかしくてそんな子、よその歯医者さんに連れて行けなかったわ。」
母は恐縮している。
「じゃ、これから診察時間が始まるので・・今はこれで。でも、七海ちゃんの治療は、後できっちりやりますから。11本もあるからね。」
洋が立ち上がり、七海と母を診察室から送り出した。
「あ、ありがとうございました。ホント、よろしくお願いします。ほら、七海も。」
「よろしくお願いします」
「七海ちゃん、あとで治療に呼ぶから。あまり遠くに行かないで。家かこの近くに居て。って言ってもまあ、夕方かなあ。」
「・・はい」
二人は、歯科医院を出た。陽射しがまぶしい。
家の中に戻ると、父が待ち構えていた。
「どうだった、七海。綺麗に治してもらったか。」
母親がすかさず文句を言った。
「それがね・・七海、ちゃんと診てもらったら、虫歯だらけなのよ。」
「だらけじゃないもん」
七海は、この島に来る船の中と同じように、ふくれっつらになった。
「虫歯だらけでしょう。11本もあったんだから。」
「11本!?虫歯がか?おい、七海、ちゃんと歯磨いてるのか。」
父親も不機嫌そうな声を出した。
「・・みがいてるもん」
「もう。前歯も3本も虫歯なんですって。女の子なのに。でも、洋くんがきちんと全部治してくれるっていうから・・。」
七海は、鬱陶しくなって、ぷいっと台所に向かった。
「あら、七海ちゃん、なんか飲む?ラムネあるよ。」
洋の母である伯母が、やさしく聞いてくれたので、七海はうれしくなって頷いた。緊張していたのか、そういえば、のども渇いている。しかし、うしろから母の言葉が遮った。
「お義姉さん、七海ね、さっき洋くんに見てもらったんだけど・・虫歯がたくさんあるのよ。だから、お世話になる間、甘いものは食べたり飲んだりしないように、見張ってもらえる?」
「あら、大変ね。でも、ちょっと位なら・・夏休みだしね」
笑いながら、伯母は開けたラムネを七海に差し出しかけた。
「ダメなのよ。ホントに。11本もあったの。」
母が止めると、伯母は
「あら・・それは・・虫歯が?」
と、少しぎょっとしたような顔になり、ラムネをそばの食卓に置いた。
そんなことまで言わなくてもいいじゃない、と、七海は母をにらんだが、母はさらに調子に乗ったのか、続けた。
「そうなの。しかも、女の子なのに、前歯も3本も虫歯なんですって・・もう・・私、情けなくて・・でも、ホント、洋くんが居てくれて、助かったわ。」
「いいえぇ、あの子で役に立てるなら嬉しいわ。でも・・・そんなに大変なんじゃあ、甘いものはダメね・・じゃ、これ、伯母ちゃんが・・」
伯母は開けたラムネを自分でごくごくと飲み干したあと、真剣に言った。
「果物も・・ダメかしら。」
「どうかしら・・でも、甘いわよね・・」
二人は真剣に考えていた。この分では、夏休み中、甘いものなど食べさせてもらえそうにない。七海の夏休みは、さらに楽しくなくなりそうだ。しかし、七海は、歯の治療が「楽しくない」どころではないということを、まだ知らなかった・・・
昼になる少し前、七海の両親は島を出発した。
「頑張って虫歯治してもらうのよ」
という予想通りの言葉を残して。
さて、昼食には、昼休み中の洋も加わった。時々、歯科医院のスタッフ達が一緒に食べることもあるそうだ。
七海の滞在中の食卓の席は、どうやら、洋の隣と決まっているようだった。
朝嗅いで、あまりいい思い出になっていない歯医者の臭いの中で食事をするのは、少し落ち着かない。
あまり箸の進んでいない七海に、
「七海ちゃん、歯、痛いの?」
と、伯母が心配そうに声をかける。洋も、それを聞いてちらっ、と七海を見やったが、七海が首を振ったのを見て、自分の食事に戻った。
「じゃあいいけど・・あまり食べてないようだから。洋、七海ちゃん、虫歯たくさんあるんだって?」
伯母は、息子に話を振った。またその話・・、と、七海はさらにため息をついた。
「さあ。」
洋は、興味がなさそうな声を出した。
「さあってことないでしょう、洋が治すんでしょう」
昼食時の大ニュースにしようと思ってその話題を持ち出した伯母は、息子のノリが悪いので出鼻をくじかれたかっこうとなった。
「そうなると、守秘義務ってのがありますからね」
そう言い残し、洋は小さくごちそうさま、と呟きながら席を立ち、母屋を出て行ってしまった。
伯母は、
「ああ・・洋に聞こうと思ってたこと忘れたわ。七海ちゃん、果物食べていいかどうか聞こうと思っていたのに。」
と、少し不満そうである。
「じゃ、今はとりあえず、食べないでおきましょうね。」
七海に向かって言い、それ以外の人々は、おいしそうにスイカを食べ始めたのだった。
することもないので、午後は縁側で持ってきた学校の宿題ドリルをやっていると、伯母が呼びに来た。
「七海ちゃん・・あら、偉いわね、7月から宿題やるなんて。洋が、そろそろ来てって。」
「はい・・」
・・やっぱりちょっと緊張してきたよ・・
七海は少しうつむいて、縁側からそのまま外に出て、歯科医院へと向かうと、入り口のドアをそおっと押した。
少しひんやりした空気と、朝よりも強い、歯医者さんの臭いが七海の顔を打つ。
入っていいものかどうか戸惑っていると、受付の窓から、朝は居なかったお姉さんが顔を出した。
「七海ちゃん、かしら?待合室でちょっと待っててね」
「はい・・」
七海は、スリッパを履いて、待合室に入って、周囲を見回すが、殺風景な部屋には、特に面白いものは見当たらなかった。
診察室からは、ヒューン、とも、キューン、とも聞こえる音が聞こえてくる。七海は、小学校低学年のころの歯医者での治療を思い出そうとしたが、あまりよく思い出せなかった。削って、詰めたんだったかな・・
受付の向こうでは、受付の渚が、七海のカルテを見ながら、隣でカルテ整理をしている助手の明海に言っていた。
「あんなに可愛らしいのにねえ・・」
「あら、ホント、やっぱり都会の子はタレントさんみたいねえ。でも、虫歯がこんなにあるんじゃ・・。」
二人は顔を見合わせて、頷きあった。
5分ほど経って、診察室から中学生らしき男の子が出てきて、すぐに七海が呼ばれた。
朝の助手、水季が空いている治療台に七海を案内して、エプロンをつけてくれる。軽く頭を下げて、ふと隣から聞こえてくる声が気になって治療台を見ると、高校生くらいだろうか、かなりふっくらした、というか太った女の子が喚きながら歯を削られているようだった。
「ぁがあああ・・はあ・・んぁああ・・」
「まいみちゃーん、動かないでねー」
「ぐぁあ・・ぁああ・・」
「自分で作った虫歯なんだから、頑張って治さないとダメだぞー」
七海は少し冷ややかな目でそれを見ていた。
・・もう高校生ぐらいのはずなのに。はずかし。私、小学校の時だって、あんなに声なんか出さなかったんだから。
歯医者で泣いたという記憶はない、と、思う。
ちょうど、助手が七海の治療台に、新しい器具をセットしに来たので、七海は視線をトレイに移した。ミラー、探針、ピンセット、エキスカベータ・・・何に使うものなのかよくわからないが、ちょっとキラキラして綺麗だ。
さらにしばらく経って、まいみちゃん、は少し涙声で「ありがとうございました」と言って診察室を出て行き、手を洗った洋が、新しい手袋をしながら七海のところへやって来た。
「さてと。どこから行こうかな、七海ちゃん。」
洋は呟くように言って、七海のカルテを眺めた。
「あ、おねがいします・・」
七海は一応頭を下げた。
「ん?ああ、どうも。七海ちゃん、虫歯の治療したことは?」
「ある・・」
「麻酔は?歯茎に注射するやつ。」
七海は少し考えて、首を振った。
「そうか・・えっと、ここはどのくらい居るんだっけ?」
「んーと・・3週間・・くらい。」
「3週間か・・ちょっと急いで治さないとな、まあ、でも今日は最初だし、軽く済みそうなとこで行っとくかなあ・・ちょっと見せてね」
治療台が倒され、七海がまた、自分でずりずりとずり上がって、頭をヘッドレストに載せていると、洋は助手を相手に冗談を言って笑っていた。
「僕もちょっとくたびれてるしね・・まいのうみちゃんとの格闘で。」
周りで、助手が、やだ先生、まいみちゃんでしょ、と笑う。
「ところが、このちっちゃい七海ちゃんの方が、虫歯の数は横綱級なんだな、はい、あーん。」
また助手たちが笑い、七海は顔を少し赤くしながら、しぶしぶ口を開けた。すかさずライトが点灯される。
「うーん・・ここにしようかな、左上の6番。」
言いながら、洋は、右手でエキスカを取ると、七海の左上6番の、茶色から黒に色づいた溝をガリガリガリと引っ掻いた。
虫歯で脆くなった歯質が砕けて飛び散るが、内部で大きく崩壊しているというようなことはなさそうだ。
「うん、ここ行きます。」
「先生、シンマは?」
「あ、いらない。」
こうして、水季がアシストにつき、七海の治療が始まった。
「じゃ、削っていくからね。それほど痛みも出ないはずだから。」
口を開けさせられたまま、七海は目だけで頷いた。
シュー・・・
水季が手にした、何か音を立てるものが左側から口の中に入ってくる。
七海は、ここで初めて、歯の治療をされるんだった、と実感が沸き、ぴくっ、と体を硬くした。
ヒュィイイイイイ・・・
洋が手にしたタービンが音を立てながら、ミラーと共にさらに口の中に突っ込まれた。
・・う・・
顔の周りにいろいろなものが覆いかぶさってくる圧迫感に、七海は軽く恐怖を感じて目を閉じた。
ほどなくして、頬の内側に水しぶきのようなものを感じ、ほぼ同時に、左上の歯から嫌な振動が伝わってくる。
ヒュィイイイ、チュイチュイ、チュィイイイイイ・・
さらに、何かが口の中に入ってきて、シュシュシュ、と音がした。
・・うう・・・お口の中にいろいろ突っ込まれて苦しい・・・もう終わらないかな・・
七海は思ったが、さすがにまだ始まって1分と経っていない。
チュインチュイン、チュチュチュィイイイイイ・・・
タービンはさらに音を上げ、七海の蝕まれた歯質を削っていく。
・・むむ・・こっちもか・・1級窩洞で済むと思ったんだが・・
洋は少し目を細め、
「もう少し大きく開けて。」
七海に声をかけながら、遠心側に少し広がっていた齲蝕の切削を進めていった。
ヒュィイイイ、キュキュキュィイイイイイイ・・・
・・ん・・ん・・
「もっと。」
・・んぐ・・・まだ・・・?
言われた通りに口を開くと、さらに苦しさが増した。
しかも、振動の中に、何か・・冷たいような・・なんだか違う感覚が混じり始めたような気がする。
キュゥゥゥ・・・
シュシュ、シュ、シュポポ・・・
タービンの音が止み、続いて、バキュームが口の中をところどころ吸って、口から抜かれた。
・・ふぅ・・終わった・・・うがいするんだよね。
七海は目を開けたが、何も起きる気配がない。洋を見ると、機械の先をいじっている。
・・?
目をパチパチしていると、水季がまた、シュー、と音をさせながらバキュームを口に近づけてきた。
「あーん」
・・あーん?
疑問に思いながらも、条件反射で口を開けると、バキュームは再び、七海の口に突っ込まれた。
ヒュィイイイイ・・・
さらに、タービンの音がして、七海は、はっ、と右を見た。
洋がタービンとミラーを構えている。
「もうちょっと削らないといけないからね・・大きくあーん」
・・終わってなかったの・・
七海は、再び、目を閉じて口を開けた。
チュイチュイチュイィイイイイイイ・・・
今度は、あの、振動と違う感覚がすぐにやってきた。
七海の顔が少し歪む。
キュィイイイ・・・キュィイイイ・・・・
ようやく、その感覚の正体を七海は察した。
・・い・・・これ・・・痛いんだ・・・
それが痛みだと感じたせいなのか、実際に痛みの原因が強くなってきたのか、七海は我慢できなくなり、ついに声を上げた。
チュイチュイ、チュチュチュィイイイイイ・・・
「ぁ・・ん・・んぁ・・は・・」
「七海ちゃん、痛いかなー、我慢しようねー」
七海の異変に気付いた水季が、すかさず声をかけた。
・・が、がまん・・してるもん・・
チュィイイイイ!
「んは・・ぁはあっ」
ヒュゥゥゥウン・・・
ひときわ大きな痛みが七海を襲った直後、タービンは静かになり、七海の口の中から出て行った。
ズズ・・ズズズズズ・・・シュコォォ・・・・
バキュームも、その後に続き、治療台が起こされた。
「はい、お口ゆすいでね。ほらほら、泣かないの、もう終わったから。七海ちゃん、もう、中学生でしょう。」
「ぅ・・ぅひくっ、ぅひくっ・・」
七海は、不本意なことに、喉の奥からしゃくり上げて泣いていたのだった。
口をゆすぐために、水を口に含むのも一苦労だ。洋が、カルテをつけながら冷たい調子で七海に言う。
「そんな、治療で泣くくらいなら、虫歯作らなければいいんだよ。あとは痛くならないうちに治す。今治したのは、一番軽い虫歯なんだからね。他の虫歯は・・えーと、10本だっけ、もっと進んじゃってるから。」
七海は、びくっ、と振り返り、涙に濡れた目で怯えたように洋を見たが、洋はカルテを書き終えると、七海にはかまわず、治療台を倒し始めた。
「今日はとりあえず、そこの型取って、詰めて終わりにしよう。残業で腹が減った・・」
「もう、先生、やせの大食いですねー。はい、七海ちゃん、あーん。噛んでてね。」
言いながら、水季が印象トレイに乗せた印象材を持ってきて、七海に噛ませる。
・・ぐ・・なにこれ・・でも、他の虫歯はもっと痛いのかな・・
七海は、不安の中で印象材を噛み締めた。
しばらく経って、水季がトレイを外し、入れ替わりに、洋が七海の口を開かせた。
「はい、仮のもの詰めるから。あーん」
削ったところに何かを押し込まれる感覚がして、七海は不快感に声を上げた。
「んが」
「もう、いちいち声を出さない。はい、終わり。口ゆすいでいいよ。ああ、そこであんまり噛まないように。」
少しイラッとしたような洋の声に、七海はびくっと体を固くして、言われるままに口をゆすぎ、治療台から降りると、従兄に頭を下げた。
「ごめんなさい・・あの、ありがとうございました」
言い終わって、どうしていいかわからずに立っていると、
「ああ。何してるの。帰るよ」
と、診察室の入り口に向かいかけている洋に呼ばれ、七海は水季にも頭を下げると、あわてて後を追った。