だめだ、すっかり迷ってしまった。
道は山道の割には広いが、整備されていない。
日はだんだん落ちてくる。
助手席の香緒里も、さっきからずっと無言だ。
「ごめん、遅くなっちゃうな。…怒ってる?」
「ん」
とだけ答えて、香緒里はほおづえを突いて外を見ている。
早くこの道を抜けないと、本格的に喧嘩になりそうだ。
俺はアクセルを少し強めに踏んだ。
タイヤが道のくぼみに取られて、車が少し弾む。
「…停めて」
突然香緒里が、聞き逃しそうなほど小さい声で言った。
あわてて車を停める。
「どうした?」
「…」
「酔ったのか?」
車には強いはずなんだけど、と思いつつ聞く。
「……頭が、痛くて」
「え、大丈夫か?」
「うん…少し休ませて。」
そういって香緒里はシートを倒し、体を窓に向けた。
確かまだお茶が残っているはずだ。
山の上は寒いと思ったから持ってきた熱いお茶。
結局山も夏は暑くて、全然減っていない。
「これでも飲んで寝てなよ」
助手席のドアから香緒里に声をかけた。
香緒里はそれには答えず、のそのそと起きあがり、
お茶を一口含んだ。
とたん、香緒里は「んっ」と呻き、お茶を取り落としてしまった。
スカートに染みが広がっていく。
「おい、大丈夫か?」
見ると、香緒里は左頬を強く押さえている。
もしかして、
「頭じゃなくて、歯が痛いんじゃないの?」
香緒里の動きが止まった。
みるみるうちに涙が溢れてくる。
「なんでそんなつまんない嘘つくのさ」
「……だって、嫌いなんだもん、歯医者」
言い切るとまた顔をしかめてシートに倒れ込む。
「…ちょっと見せてみろよ」
俺のその言葉に、香緒里は意外にも抵抗せず、
力無く顔をあげ、控えめに口を開けた。
車内ライトを付け、のぞき込む。
「何処?」
「こ、この辺…」
香緒里が指した歯の真ん中には、確かに穴が空いていた。
痛がっている割には小さいような気もする。
よく分からない。
ふと思いついて、魔法瓶のお茶を指先にとって、歯に一滴落としてみた。
「あ、あああっ」
香緒里は一瞬身をよがり、荒い息をしながら、こちらを恨めしそうに見た。
「ごめんごめん」
香緒里に口を閉じさせ、左頬をさすってやる。
「見た目小さい虫歯だけど、きっと中で広がっちゃってるよ。
 ずいぶん放っておいたでしょ。」
何気なく言ったのだが、香緒里は真っ赤になってうつむいてしまった。
これは…可愛いかもしれない。
衝動的にキスをした。舌でさっきの虫歯を探す。
このあたりだったかな・・
舌先でつつく。
「んッッ」
とっさに顎を引こうとする香緒里。
「舌で触ったらけっこう大きいじゃない。いつから気付いてたの?」
目に涙をためて、伏し目がちに小さくイヤイヤをする姿がたまらなくて、もう一度キスをした。
今度は虫歯にさわらないようにしないと・・
慎重に舌を進めてあまり奥にいかないようにする。
ん?
「この前歯の裏も、引っかかるよ?」
「嘘よ。痛くないし。」
顔が少しこわばっている。
舌の感触では、奥歯よりも大きい穴のようだったし、
気付いてないなんてありえない。
そういえば・・・
香緒里はこの夏、大好きなカキ氷をあまり食べなかった。
しみるのだろうか?
「見てみよう。もっかい見せて。」
ライトをつけて見てみるものの、暗くなってきていてよく見えない。
ダッシュボードからペンライトを取り出す。
光を当てた瞬間、歯の間から黒ずんでいるのが、透けて見えた。
ふだん見ているときは、きれいな白い歯だと思っていたが、
強い光が当たると、縁が白濁している。
「けっこう大きいよ。」
眉間に皺を寄せてみせる。
香緒里が悲しそうな顔をする。
「隣の歯も…。あぁ、反対側の歯の間も、黒い…かも」
香緒里は今にも泣き出しそうだった。
「他にもあるんじゃないの。口あけて、全部見せて。」
目を見開いて、唇を閉じそうになるのを、指で押さえて開かせる。
「意地悪じゃなくて、心配してるんだよ?」
香緒里は素直にこくり、と頷いて、おそるおそる口を開いた。
左手の親指でぐいっ、と開けて、右手のペンライトを当てながら覗き込む。
さっきよりも光が強い分、奥までよく見える。
笑ったとき、上の右の一番前の奥歯がキラっと光るのは知っていた。
こうしてみて見ると…
「けっこうたくさん、虫歯、あるんだね」
とっさに閉じようとするのを押さえつける。
痛いと言っていた歯は、前から2番目だったが、
その後ろは十字に銀が詰められていて、
そのまた後ろの歯は、、前半分が白く濁り、
前の歯との間に黒い穴が小さく開いていた。
「痛いのは、さっきの歯だけ…じゃないよね」
口を開けられたまま、首を振って抵抗する香緒里。
「またお茶で確かめてみる?」
「やッ」
動かない口で言った瞬間、涙がぽろり、とこぼれる。
これはちょっと意地悪だったか。
でも…
見た感じでは、痛がっている左側だけじゃなく、
右側も似たようなものなのだ。
いや、もっとひどいかもしれない。
前から3番目の奥歯は、銀が左より少し大きく詰められているが、
その前の歯は、銀歯との境が茶色く、やや溶けたようになっているし、
一番奥の歯は、よく見えないが、向こう側がやはり、虫歯のようだった。
一番前の奥歯も、白い詰めものがしてあるようだが、その周りは黒っぽく縁取られ、
歯全体が黒ずんでいる。
「本当に、心配なんだよ。こんなに、虫歯だらけで。痛くないの?」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、なぜか香緒里は赤くなったように見えた。
「痛いなら、言いなよ?」
優しく聞くと、香緒里の目に、すがるような表情が宿った。
「やっぱり痛いんだね。どこ?一番奥?右?」
香緒里は黙って、左の上の歯を指した。
「えっ、上…?」
見にくいので、シートをもっと倒し、下から覗くようにする。
すると…
指差した歯は、下の歯なんかとは比べ物にならない、大きな穴が、ぽっかりと開いていた。
「何だよこれ!」
驚いて、口を開いていた手を離す。
香緒里は、ひっく、ひっく、としゃくり上げながら、
「銀歯が…取れちゃって…でも、歯医者は嫌だから…」
と言う。
「痛くないの?痛いよな、これは」
「最初は痛くなかったの…でも…ここんとこ痛くて…」
「いつから?痛み止め、あったと思うけど、やろうか?」
「先週から…でも、もう痛み止め、効かないの…」
ひっく、ひっく。
可哀相に…
「なんで、こんなになるまで放っておいたのさ。」
「歯医者…嫌い…」
「いや、それはわかるんだけどさ、ひどいよ?あの虫歯。」
「うん…」
「他の歯だって、ほとんど虫歯みたいだし」
「でも…嫌なの。」
こっちが心配しているのに、
嫌としか言わない香緒里に、少し腹が立ってきた。
「子供じゃないんだからさ。」
「わかってるけど…」
「だいたいそんなに虫歯だらけになるなんて、」
また香緒里は赤くなった。
「ちゃんと歯磨いてんのか?」
ますます赤くなっていく。
もしかして…
「虫歯だらけ、が、恥ずかしいのか?」
さらに赤くなって、こくん、と頷く。
「その虫歯だらけの口を、歯医者にも見せたくないってこと?」
「もうっ、虫歯だらけ虫歯だらけって言わないでよ…」
「だって、そうだろ?見たところ、ほとんど全部虫歯だったし」
「…全部見てないくせに。」
少し恥かしそうに、なじる。
「見て欲しいのか?」
「ぅ、ん。」
「じゃあ、もう一回開けて。」
「あーん、って言って。」
不思議な気分だった。
たかが歯を見るのがこんなに、なんというか…
「…何言ってんだ。ま、いいか、じゃ、あーん。」
香緒里が、すんなり口を開ける。
「下は見たんだったな、えーと、でも、何かコメントした方がいいの?虫歯だらけだ、とか。」
香緒里が腹を小突く。
「ちゃんと綺麗にしてあるんだけど、どうして、虫歯がこんなに。」
またしても香緒里は真っ赤になってしまった。
これではまるでHではないか。
「数えてみよう。下は・・3本かな、治してあるの。」
こくり。香緒里が頷く。
「でも、治してないのが、いち、に、さん、3本と、虫歯っぽいのが1本」
やはり、現実を突きつけられると、恥かしいだけでなく、やや怖いようだ。
香緒里の顔が少し固くなった。
「あと、治してある歯も1本、やられてるっぽいな」
えっ、という顔をする。
「ああ、そうだ、確かめてみようか、」
香緒里がイヤイヤをするが、そこはしっかり押さえつける。
右の一番手前の歯を、こつこつ、と、爪で叩いてみる。
「あッ、イッッ」
「やっぱり虫歯になってるんじゃない?これで4本か。」
また、香緒里の顔が歪む。
その奥は…叩くのは難しいな、そうだ、境目に…
香緒里の口から手を離して、トポトポ、とお茶を注ぐ。
湯気が立ち上った。
「はい、もう一回、あーん。」
渋る香緒里に、
「ちゃんと開けないと、調べられないだろう?開けなさい。」
と強く言ってみる。
香緒里は、赤くなって、また素直に口を開けた。
「虫歯だらけなのはわかってるんだから、もうちょっと大きく開けて。」
さらに大きく開かせる。
銀歯と、手前の歯の間あたりに、熱いお茶を垂らしてみる。
「ああああっ」
ぎゅっ、と眉間に皺を寄せて、香緒里がびくん、と跳ねる。
さきほどのように睨むかと思ったが、不安そうな目でこっちを見ている。
「ごめん、痛かったか、でも、ここもけっこう大きい虫歯になってるわけだ。」
だんだん、本当に診察しているような気分になってきた。
「下の歯は、虫歯が5本。早く治さないとね。じゃ、上を見せて。」
少し顎を上げさせて、上の歯を覗き込んだ。左からだ。
やっぱり、ひどいな。
さっき見た、前から3番目の歯は、
大きく穴が開いている、というか、ほとんど歯が残っていない。
前から3番目の歯は、どこも銀歯なのかな?
ちら、と右に目をやると、やはり銀が入っている。
初めて生える大人の奥歯だから、しっかり磨きましょう、と習った気がする。
香緒里は、これを虫歯にしてしまったんだな、と思うとドキドキしてきた。
じっと黙っていたので、香緒里が、不安そうな顔で見ている。
「ああ、ごめん、この歯は、抜かないといけないんじゃないかな」
またも涙がにじんできた。
指で、ちょん、と触りたかったが、さすがに痛いだろう。やめておこう。
その前後の歯は、間の歯がないだけに、見やすかった。
奥の歯は、歯が接していたあたりに茶色く小さい穴が開き、中で穴が広がっているのが
うっすらと透けて黒っぽく見える。
手前の歯は、奥から、少し大きめの穴があいていた。
間の歯がひどいせいで、気にならないが、この2本も、けっこう大きい虫歯だろう。
「この痛い歯の両脇の2本も、ひどい虫歯になってるね。痛い?」
香緒里は首を振るが、この様子では、どの歯が痛いかなんて、わからないかもしれない。
一番手前の歯は…なんとなく溝が茶色い気もするが、セーフかな。
「えーと、今のところ、上は4本中、3本虫歯。」
不安そうに、目で頷く香緒里。
「…ってことは、あわせて8本か。多いよね。」
この、恥かしさと、怯えの間で揺れ動く様子が、快感になってきた。
「じゃ、次行くよ、この歯、犬歯だっけ?前歯との間が虫歯だったよね。」
「はい、イーってして。」
犬歯と前歯の間に光を近づけると、黒いのが透けて見える。
「今度、あーん。」
裏から見てみると、隣の歯は、穴が開いているのだが、
犬歯の方は、やはり、黒く透けているだけだった。
が、虫歯なのは間違いないだろう。
「ちょっと我慢して。」
さっきやったように、爪で、こつこつこつ、と叩いてみる。
香緒里は、ちょっと目を細めたが、声は出さなかった。
「痛くはない?」と聞いてみると、
「そんなに。」と、少し元気に答える。
「でも、虫歯なのは間違いないね。9本だな。」
と、ダメ押しをしておく。
「続けるよ。はい、イー。」
控えめにしか開かない唇を、指でめくり上げる。
少し嫌がる様子を見せたが、
「こうしないとちゃんと見えないから」となだめ、
前歯を前からまとめて見て行く。
中央から2番目の歯は、両隣との境目から、かなり黒ずんているのがわかる。
両方から削って治すのだろうが…
「この歯、両側から虫歯になってるけど、どうやって治すんだろうね」
とつぶやく。
「け、削るんじゃないの?」
「でも、けっこう大きそうだから、歯がなくなっちゃうんじゃないかと思ってさ。」
香緒里は泣きそうな表情で、
「差し歯になるのは、ヤダっ…」と言った。
「差し歯?入れ歯とは違うの?」
「よ、よくわかんないけど…」
「まあ、早く治したほうがいいだろうね。前歯は痛いって言うよ。じゃ、次。イーっ。」
中央の2本の歯は、中が黒ずんでいるだけじゃなく、
上の方に、どちらも穴が開いているのがわかった。
普段、笑うときは、歯の先しか見えないので、気付かなかったんだろう。
「上の歯、ほとんど虫歯じゃない。」
ここまでくると、心配よりも、残酷な気分が勝っていた。
「前歯までこんなに虫歯にして。」
またも赤くなり、悲しそうな顔をする香緒里。
「そんな顔したって、こんなに虫歯にしたのは、香緒里なんだからね」
言い放って、そのまま隣の歯にうつる。
これはなんともなさそうだけど…
「はい、あーん」
口を開けさせて裏から見てみると、歯の付け根あたりに茶色い穴が開き、
そこから黒ずみが広がっていた。
「この歯もやられてるよ。」
ここまでで、虫歯は13本だった。もはや、香緒里はぐったりしていた。
「もう少しだから、全部見ようね。」
口を開かせた。
右の犬歯は意外にも無事だった。
告げると、香緒里は少し喜んだ。
「他の歯ほとんど悪いんだから、こんなとこで喜んだってダメだよ」
釘をさし、次の歯に移る。
手前寄り、かみ合わせの半分ぐらいに銀が入っている。
これが、笑ったときにキラッと光って見えていたんだ、と思うと興奮した。 縁の部分は綺麗だ。
だがよく見ると、銀とは離れた、奥の歯との境目が黒くなっている。 奥の歯も接しているところが黒い。
あまり大きくはなさそうだがこの2本も虫歯だろう。
「ほら、残念。2本続けて虫歯になってる。」
香緒里は短くため息をついた。
「次の歯は…いつ治したの?」
「小学4年のとき」
「それから歯医者には?」
「…行ってない」
じゃあ全部10年越しの虫歯か。
銀を詰めてあるが、縁がグレーになって、今にも取れてしまいそうだ。
「これもきっと中で広がってるよ。」
「たまにしみるの…」
「じゃあ間違いないね。はい、次最後だよ、あーん」
最後の歯も、やっぱり虫歯だった。
かみ合わせの溝が、色は変わらないが太く、深くなっていた。
「まだそんなに大きくないけど、放っておくと中が広がるよ。早く治そうね」
そう香緒里に言ったとき、ふと気づくことがあった。
「香緒里、親知らずは?」
「わからない」
じゃあまだ生えていないんだろう。
香緒里はあごが細いから、きっと抜くことになるだろう。
「じゃあ、まとめ。虫歯は17本。親知らずも合わせて、21本治さないとね。」
香緒里はしゃくり上げるようにして、また泣き出した。
「怖い?」
「違うの、磨いてるけどダメなの…信じて、汚い子だと思わないで、嫌いにならないで…」
「わかったよ」
正直、ちゃんと磨けてるとは思わなかったが、
普段気っ風のいい香緒里の弱点を見た気がして、可愛くて堪らなかった。

一夜明けて、今日は香緒里の10年ぶりの歯医者の日だ。
あれほど痛がっておきながらなお尻込みする香緒里を、
半ば連行するような形で、ようやくドアの前まで引っ張ってきた。
香緒里を見ると、すっかり青ざめてしまっていて、
もはや抵抗する力もなくなって震えている。
恥ずかしいから行きたくないと言っていたが、
それ以上に怖がっているみたいだ。
「いいね、頑張ってちゃんと治そうね」
念を押す。
「…うん」
「ドアは自分で開けなよ」
俺が開けるのは香緒里のためにならないような気がする。
「……うん」
香緒里は意を決したように、勢いよく歯医者のドアを開けた。
中に入ると、歯医者独特の臭いが漂ってきた。
歯医者が苦手ではない俺でも、少し身構えてしまう。
香緒里は気丈に振る舞っているが、緊張のあまり、動きがぎこちない。
緊急の初診だと受付に告げると、問診表が手渡された。
香緒里が順に記入しているのを、横目で眺める。
『ご来院の理由…痛む歯がある』
『治療の仕方について…気になる歯だけ治す』
「…こら、見てるぞ」
「あ」
「香緒里は、こっちの『悪い歯は全て治す』だろ」
「……」
「どうせ先生に見られたら、全部治すまで許してくれないよ」
昨日素人目に見ただけでも、痛そうな歯が10本近くあったのだ。
「でも…」
「でもじゃない。口開けて、あーん。」
明るい室内なので香緒里の歯を一望できる。
昨日はペンライトで少しずつだったから実感が沸かなかったが、
こうしてみると、香緒里の奥歯はぼろぼろの一言だ。
「虫歯になってない奥歯、一本だけなんだよ。」
香緒里は真っ赤になって俯き、問診表を訂正した。
「大野香緒里さーん、2番にお入りください」
問診表を書き終わると、丁度中から呼ばれた。
さっと香緒里が青ざめるのが判った。
「一人で大丈夫?」
「……付いてきて欲しい」
許可を取って一緒に入る。
歯医者は40ぐらいの渋いおっさんだった。
「えーと、左の上が痛むの?」
香緒里が硬く頷く。
「じゃあ椅子倒しますね、はいお口開けて」
俺の握っている左手がきつく握られるのが判った。
香緒里が口を開けると、歯医者は中を覗き込み、「ほお…」と唸った。
「これは…ずいぶん放っておきましたね。他にもたくさん虫歯になっているようだし。
 あなたの歳でこれでは…ちょっと多すぎますね。
 とりあえずレントゲンを撮りましょう」
容赦なく言われて真っ赤になるかと思いきや、香緒里は見て判るぐらい震えている。
今にも泣き出しそうだ。
レントゲンのため一旦ブースの外に出て戻ると、
香緒里は目の端に涙をたたえていた。
「怖い、怖い、どうしよう」
「大丈夫だって、俺がここにいるよ」
レントゲンを見ながら歯医者が戻ってきた。
治療台の横に、レントゲンをセットする。
大きなため息をつきながら、歯医者が椅子に座った。香緒里が固くなるのがわかる。
「えーと、大野さん、いくつ。…19か。」問診表を見ながら、歯医者が言う。
「まあ言わなくてもわかってると思うけど、ずいぶんひどいね。思ってるよりも虫歯は多いよ。」
そう言うと、レントゲンの電気のスイッチを入れた。
香緒里の口の中の様子が、ぱあっと照らされる。
歯がなくなっているところが、あの左上だろう、ということくらいしかわからない。
「はっきり言って、上の歯は、全部、虫歯だね。」
「全部・・・ですか。」
香緒里が、蚊の鳴くような声で言う。
昨日、大丈夫だと思った歯も、ダメだったか。
香緒里の手は細かく震えている。
「下の歯も、奥歯は、ほとんど全部やられてるね。ま、下の前歯しか無事じゃないってことだ。
悪い歯は全部治す、って書いてあるのは偉いけど、こりゃー大変だよ。がんばらないとな。」
歯医者はそう言うと、椅子を倒し始めた。
ふと気付くと、横に、カルテを持った助手の人が座っている。
「まず、全部の歯を見せてもらうよ。」
ライトを操作して、香緒里の口に当てる。
「はい、あー。」
香緒里は観念したように、目を閉じて、口を開けた。
歯医者はカチャカチャ、と硬い音をさせて、ミラーを取り、香緒里の口の中に入れた。
「はい、右上から。」
「7番、C2。6番、インレー、だけど・・・。」
歯医者は、ミラーを左手に持ち替え、ホースの伸びた器具を取って、香緒里の口に入れると、
「ちょっとしみるかなー」
と言いながら、しゅっ、しゅっ、と音をさせた。
「んああああっ」
香緒里が体を固くする。
風だか水を当てたらしい。
「かなり進んでるなあ。2次齲蝕だね。この、詰め物の下で虫歯が進んでるんだよ。治してからかなり経ってるでしょう」
香緒里はかすかに目を開けると、不安そうに頷いた。
「じゃ、続けます。」器械を戻して、歯医者は言った。
「5番、C2、4番・・・」今度は、針のようなものを手にとって、口の中をいじっている。
「あぅッ」香緒里の顔が歪む。
「4番、C2。3番、C1。2番、C2。1番は・・・C1、いや、ちょっと待った」
歯医者は、香緒里の唇をめくり、穴を、針でカリッ、とつついている。
「ぅぅぅ」
「1番、やっぱりC2。左に行って、1番、C2。2番、あー、こりゃひどいなあ、痛くない?」
香緒里は首を振る。歯医者は、疑わしそうな目で見て、
「でも、しみるでしょ?」とさらに聞いた。
香緒里は首を振りかけて、頷いた。さっきのをシュ、をやられると困ると思ったのだろう。
歯医者は、満足げに頷くと、作業に戻った。
「ま、いいや、2番はC3ね。3番、C2。4番、C1。5番…C2。6番、これが痛い歯だね、C4。
7番、C3。6番がこんなになってるから、痛いのはこの歯かもしれないけど。」
歯医者は、またも、ふう、とため息をついて、
「今聞いててわかったと思うけど、Cっていうのは虫歯。全部虫歯だよ。
それと、数字は、進行度。C1くらいで治療すれば、1、2回で済むんだよ。
まあ、普通、C2になると、しみることが多いから、そこで治療にくるもんだけど、
それを、C3になるまで放っておくなんて。若い女の子の口とは思えないよ。
将来が思いやられるね。」
と、言い放った。
香緒里は、目に涙をいっぱいにためている。
たしかに、C1というのはほとんどなくて、C2が多かった気がする。
ものを食べるときに痛くなかったんだろうか…
俺がもっと気をつけていれば、気付いただろうか…
そう思っていると、歯医者の声がまた始まった。
「次。左下いきます。7番。」また、カリッカリッと、つついている。
「C2。6番、○。インレーです。5番、C2。4番…これは初めて、大丈夫だ。4から右3まで斜線。」
これまで、全部虫歯だったのか…
あらためて、香緒里の歯のボロボロぶりに驚く。
不思議と、不快感はなかった。むしろ、この診察で、また昨日のように少しドキドキしていた。
「右、4番、レジン、だけどこれも、2次齲蝕だなあ。5番、C2、6番、インレー、7番、C2、以上。」
カチャリ、と、歯医者はミラーと針を置いた。
「どう。」と助手に尋ねる。
「多すぎて…ちょっと待って下さい」
美人だが、やや冷たい顔の助手は、カルテの文字を数える。
「要治療、19本です。C1が2本、C2が12本、C3が2本にC4が1本、2次齲蝕2本です。」
「年とおんなじだけ、虫歯があるなんて、多すぎるよ。小さい子供ならまだしも。」
歯医者は厳しい顔で言った。
「うーん、この分だと、全部治すのに、まあ半年は通ってもらうことになると思う。
とりあえず、痛いところから治していくつもりだけど、痛くなくなったからやめる、なんてことはしないように。
この分だと、どんどん痛む歯は増えるだろうしね。ちゃんと最後まで通えるね。」
念押しするように、香緒里の顔を見つめる。
ハイ、と、泣き出しそうな声で香緒里が答える。
「一度に、何本か進めていかないと、終わらないから。一番痛むところと、
その奥をなんとかしようと思うけど、今日は時間ある?」
「いえ、今日は」
とっさに香緒里が首を振る。えっ、と思ったが、まあ、今日はショックもあるのだろう。
そう思い、黙っていた。このことが後で、香緒里の悲劇を生むことになろうとは…
「大野さん、あのね…」
歯医者は、呆れたような顔になり、なにか言いたそうだったが、
「ま、ここでお説教しても進まない。とりあえず、治療に入りましょう。」
香緒里の顔が、体が、また固くなった。
別の助手が、器具を並べ始め、歯医者は、レントゲンを見つめた。

左上の歯は、抜かずに残すことになった。香緒里も少しほっとした様子だ。
今日はその歯を治して、他の歯は順に治していくらしい。

今日の分の治療が始まった。
香緒里が泣いていたのを察してか、俺も出て行けとは言われずに済んだ。
神経がすでに死んでいるので麻酔はしないらしい。
おきまりのキュイーンという音とともに、香緒里の口の中にドリルが入れられた、
キュイーン、チィーン、シュイィン。
香緒里の歯が削られていく。
「あっ、ああ、うー」
香緒里は、口端からよだれを垂らしながら、眉間にしわを寄せ、呻いている。
手にも一層の力がこもり、腰から下がうずうずと動いている。
「痛くはないでしょう?がんばって」
小さく香緒里が肯くのを見て、歯医者は更にドリルを進めた。
「はい、今日はもう削らないよ」
見ると、香緒里の小さな歯にあった、大きな汚らしい虫歯はなくなっていて、
代わりに更に大きな綺麗な穴が空いていた。
次は、神経を取ってしまうらしい。
ものすごく小さなねじのような物が、香緒里の歯に力任せに押し込まれていく。
ぐっと押されると、香緒里の足がびくん、と跳ねる。
「少し響きますか?でも、これは麻酔しても変わらないからね、頑張って」
先ほど押し込まれた小さなねじが、今度は力任せに引っ張られる。
「あっ」香緒里が小さく叫ぶ。
それにはお構いなしで、別の小さなねじがまた、
香緒里の、無惨にもぽっかり口を開けた歯に押し込まれては抜かれていく。
香緒里はすっかり怯えきったのか、
ねじを押し込まれるときたまに体に力を入れるだけで、あとはだらりとしている。
つないだ手は妙に熱い。
そうこうしている間に根の治療も終わったらしい。
「薬を詰めましたからね、次見て綺麗だったら、金属をかぶせる準備をしましょう。」
「あ、あの…それって…」
終わったのに安心したのか、香緒里が自主的に聞く。
「いわゆる銀歯ですよ。周りを全部覆ってしまう。神経を抜いた歯は脆いからね」
香緒里は呆然とした表情だ。
歯医者がたたみかけて言う。
「あのね、大野さん。今日は歯磨きしてきた?」
「…はい」
「口を開けて」
香緒里の口の中に、細い棒が差し込まれる。
少しいじって取り出した棒の先には、薄黄色いもやもやした物が付いていた。
「歯垢ですよ、大野さん。たくさん残ってます。
 歯磨きをしたのとできたのは違うんですよ。」
香緒里はまた、今にも泣きそうな顔をしている。
「それにね、前歯なんてそんなに虫歯になるところじゃない。
 特に若い女の子なら気をつけるからね。
 でもあなたは、下の歯は綺麗だが、上は全部虫歯だ。
 恥ずかしいことですよ。」
「……はい」
「全部治すまでにしばらくかかるからね。それまでちゃんと歯磨きして。
 これ以上広げないこと。
 ところでそちらは?」
「……彼氏です」
「仕上げ磨きをやって貰うといいよ。自分だと手加減するでしょう。」
「……」
帰り際、恥ずかしいのか香緒里は、妙に早足になっていた。
「香緒里」
「…」
「怖かった? でももうそこまで痛くなくなっただろ?
 次からも頑張って通える?」
香緒里は返事をせずに、足を止めた。
「あのさ…仕上げ磨き、やってくれない?
 ちゃんと磨いてた、って昨日言ったけど、嘘なの。
 磨かないで寝ちゃったり、適当ですましたりしちゃうの。
 もう、自分が信用できないから…」
真っ赤だ。相当恥ずかしいのだろう、手が震えている。
「…わかった。その代わり、自分でもうまく磨けるように練習しろよ」
「うん」

その日は、まだ少し痛む、と香緒里が言うので、食事はコンビニで買って、
香緒里の家で済ませることにした。
「さっきの聞いてたら、けっこう、しみる、っていうC2ばっかりだったけど」
「ん?」
「食事のときとか、どうしてたのさ。痛くなかったの?」
「ううん、そんなに。」
「今さら隠したってしょうがないぞ。今年、カキ氷ほとんど食べに行かなかったじゃないか」
「…」
香緒里は先にコンビニに入って行ってしまった。
コンビニで、香緒里はレトルトのおかゆ、俺はおにぎりと弁当とペットボトルの茶を買って帰った。
飲み物はいらないかと聞くと、
「…冷たいものは、ホント、駄目なの。飛び上がりそうになっちゃうから」
と、白状した。
家に帰り、軽く食事をすませた。
食べ終わって、寝そうになったが、
「おっと、歯磨き。」
香緒里の歯磨きをしてやらないといけないんだった。
香緒里が歯ブラシを持ってくる。
向かい合わせに座る、など、いろいろ考えたが、結局、ひざの上に香緒里の頭を乗せることにした。
「なんか、変な感じだね」
香緒里が下から見上げる。
俺も妙な気分だ。
「はい、じゃ、あーん。」
人の歯なんて磨いたことがないから、よくわからない。
「とりあえず、下から行くよ。」
一番磨きやすそうだったので、下の左から、磨き始めた。
しゃこしゃこしゃこ。
よく見えないので、ほっぺたを引っ張りながら、歯の外側を磨いていく。
次に歯の裏側、かみ合わせ、と、磨いていく。
「前の歯は、虫歯になってないんだから、しっかり磨かないとな。」
そう言って、唇を押し下げて、丁寧に磨いていく。裏側も。
調子がつかめてきた。
「あのー」
香緒里がなにか言いたそうなので、歯ブラシを抜く。
「つわがたまってきひゃった」
ああ、唾か。
「飲んでやろうか」
と言ってみたが、香緒里は、立って、吐き出してきたようだ。
戻ってきて、素直にまた、膝枕する。
右の奥歯も、丁寧に磨く。
慣れてきたので、そのまま右上の歯にうつる。
少々見にくいものの、なんとかできそうだ。
前歯も、唇をめくって、磨く。
「いたっ」
香緒里が顔をしかめる。そうだった。穴があいているところは、少し痛いかもしれない。
注意して磨き、奥歯に入った。
「一番ひどいんだけど、難しいな、痛かったら言えよ」
そう言って、恐る恐る磨いた。
「あんまりそーっとだと、磨いたことにならないんじゃない」
また唾を出しに行った香緒里が、戻ってきて行った。
「もっかい磨いてよ。ちょっと舌でさわるとざらざらしてるの。特に一番奥の歯。」
「じゃ、思い切って磨くぞ」
歯ブラシを入れ、ほっぺたを引っ張って、外側も磨き、内側も磨いた。
「一番痛かったところは、削ってもらったから、平気だよ、がしがし磨いても」
香緒里がそう言うので、気合を入れてかみ合わせの面に入ったときだった。
「ああっ」
香緒里が叫んだ。
「痛かった?」
「あ、あ、あ」
香緒里は涙目になっている。
「どら」
覗き込んでみると、小さい穴が開いているだけだった、一番奥の歯の前面に、
大きな穴が広がっていた。
「あっ」
中で虫歯が広がり、薄くなっていたところが欠けてしまったのだろう。
「ごめん、ホントごめん!」
「ん、いいよ、元はと言えば、私が虫歯にしたのが悪いんだから」
と香緒里は言ってくれたが、少し元気がない。
「痛む?」
「あ、だいじょうぶ」
そう言って、口をゆすぎに行った。

心配なので、香緒里の家に泊まることにした。
俺も忘れずに歯磨きをして、
手をつないで眠った。
どれくらい眠っただろうか。
しくしく、という香緒里の泣き声で目が覚めた。
「香緒里?」
「歯が、痛いの。」
「どこ?さっき、欠けたとこ?」
「うん。ヒック、ズキズキする・・我慢できないよぉ」
時計を見ると、3時半だ。
とりあえず、薬を飲んだり、アイスノンを当てたりはしてみたようだ。
俺が欠けさせてしまっただけに、気がとがめる。
たしか・・夜やってる救急歯科センターがあったはず・・
「救急の歯医者、やってると思うけど行く?」
香緒里は首を振る。
肩を震わせしゃくり上げる香緒里の枕に、涙の大きな染みができている。
「…そこまで迷惑、かけられないよ。ヒック。私はいいから寝てて。」
そうは言っても、歯を欠けさせたのは俺だ。
心配で眠れるわけがない。
「薬はいつ飲んだの?」
「30分ぐらい前かな、でもわかんない。時間が経つのが遅くて…」
じゃあそろそろ効いてきても良い頃だ。
頭に血が昇ると痛いから、といって香緒里は上体を起こした。
抱きかかえて支えてやる。
歯も一応診ておいた方がいいだろう。
「あーんしてみて、無理ならいいよ。」
俺がそういうと、香緒里は涙に濡れた顔をしかめながら口を大きく開けた。
慌ててスタンドライトを付ける。
左上の一番奥の歯、歯磨きするまでは小さかった虫歯の穴が、大きく開いている。
香緒里に申し訳なくて、動悸がした。
「ん?」
よく見ると、穴の中に白い欠片が見える。
「香緒里、多分、歯の欠片が詰まったままだと思うんだけど、
 取れば楽になるんじゃないかな?」
どうやって取れば良いだろう。爪楊枝でほじくり出すか、でもかなり痛そうだ。
「…うがい、してみる」
しゃくり上げながら香緒里が言った。
「米粒とか、うがいで結構取れるから」
コップに水を汲み、思いついて洗面器も持ってきた。
「はい。ここにはき出せばいいからね」
洗面器を香緒里の太ももの上に置いた。
「……んっ!」
水を口に含むと、香緒里は目をぎゅっと瞑った。目尻から、涙がぽろぽろと落ちる。
しまった、少し冷た過ぎたか。香緒里の歯の半分はC2の虫歯に犯されている。
きっと頭に響くほどしみたのだろう。心の中で香緒里に手を合わせる。
「…どう?」
水をはき出し、香緒里はまた口を開ける。
「んー、だめだ。残ってる。」
やはり爪楊枝しかないようだ。戸棚から一本取ってくる。
「これで取ってみるよ。痛いかもしれないけど、ちょっとの間我慢できるね?」
「うん」
言って香緒里は口を開ける。
閉じてしまわないように、左手の指を口の中に入れ、親指で上の歯を押し上げた。
欠片は、穴の入り口付近にあった。
手前の歯が削られて平べったくなっているから、うまくすれば取れそうだ。
「いくよ」
声をかけると、香緒里は俺の服の端を握って、息を止めた。
爪楊枝を虫歯の穴に入れていく。
「あーっ、ふ、んあーーっ」
やはり相当痛いようだ。香緒里は服を引っ張る手に力をこめ、声を上げて泣き叫んだ。
「もう少し、我慢して…」
「あ、はあっ!!」
香緒里ののどの奥から声にならない声が絞り出されたその時、
欠片は穴からころりと落ちた。
洗面器に欠片を吐き出すと、香緒里は俺の胸に顔を埋め、きつくしがみついてきた。
「痛い、痛いぃー!!」
「もう終わったよ。大丈夫、大丈夫」
慌ててアイスノンを当ててやる。
「ひっく、ひっく…。痛かったよぉー」
頭を抱え込み、撫でてやる。
俺のせいでこんな痛い思いをさせてしまったと思うと、
一昨日虫歯をからかったことさえ、後悔の念でのしかかってくる。
辛いのは香緒里なのに…
香緒里は、ひとしきり泣いたあと、薬が効いたのか強引な治療が効いたのか、
はたまた泣き疲れただけか、しゃくり上げながら寝付いてしまった。
俺はなんだか興奮して眠れなかった。
俺の前ではいつもしっかり者の香緒里が、
小さな歯に出来た虫歯一つで、あんなに弱くなってしまうなんて…。
動悸は一晩中おさまらなかった。

8時頃、香緒里が暗い顔をして起きてきた。
「やっぱり痛いの…ずいぶんましにはなったんだけど…」
「薬は?」
「今飲んだとこ。駄目ぇ、痛いよぅ…」
まだ次の予約までは日があったが、もう、少しも待てない。
痛い痛いと泣く香緒里をなぐさめつつ、昨日の歯医者に来た。
今日は香緒里も恐怖より痛みを取って欲しい気持ちが強いようで、
中の様子をうかがったりしている。
中には誰もいないようだ。
診療開始までまだ1時間近くある。どうしよう、他を当たるか…
「どうしました?」
突然、声をかけられた。振り向くと、香緒里の担当の先生だ。
「おや…大野さん」
若くて虫歯だらけの香緒里は先生にも印象的だったのだろうか。
先生は名前を覚えていた。
「どこか痛むのかい?」
「あい、おくらあ、いらくて」
香緒里は頬をアイスノンで押さえていて口が回っていない。
首をかしげる先生に、俺は叫んだ。
「昨日、歯磨きで虫歯が欠けちゃって、夜中からすごく痛がってるんです。
 薬もあまり効かないみたいで…」
「…入りなさい。とりあえず麻酔を打ってあげよう」
よかった…膝から力が抜けそうになる。
鍵を開けて、中に入れてくれると、そのまま診察室に通された。
「着替えてくるから、ちょっと待ってて。」
奥の部屋に消えた歯医者は、白衣を着て出てきた。
「で、どうしたって?」
「昨日、俺が歯磨きして、一番奥の歯が、欠けちゃって大きい穴があいちゃったんです。」
必死に訴えた。
「ほう、じゃ、見せてごらん。」
椅子を倒し、ライトを当てる。
冷たく光るミラーが香緒里の口に入れられる。
「あー、こりゃいかんな」
すぅっと血の気が引いた。
「俺が!乱暴にやりすぎちゃって!」
叫ぶ俺を軽く制して、歯医者は顔を上げて言った。
「いや、君は悪くないよ。」
「でも・・・」
「どうせ、あの部分は削るわけだし、欠けても特に問題はないんだよ。」
「そうなんですか。」
「この歯が痛み出すのは時間の問題だったんだ。もしかすると痛いのはこっちかもしれない、と
昨日も言っただろう。」
「そういえば・・」
「昨日、隣の歯を治療したので、神経が刺激されて、急に痛みが強くなったかもしれないね。
だから、昨日のうちに、まとめてやっておけばよかったんだが・・・」
香緒里が、しゅん、となった。
「じゃあ、いかん、っていうのは・・」
「ああ、この歯は隣と違って、まだ神経が一応、生きてるんだ。だから、痛みを止めるのに、
麻酔を打つわけ。」
「はい。」
「ただ、今見たところ、神経がかなり充血してしまっているんだ。
こういうときは、麻酔がほとんど効かないんだよ。」
「えっ・・・」
香緒里も、しゃくり上げながら、青ざめている。
「じゃあ・・神経を取っちゃえばいいんじゃないですか?」
俺は必死に抵抗を試みた。
「たしかに、神経は取らないといけないけど、麻酔せずに神経に触るなんて、拷問だよ。」
そうか・・・香緒里を見ると、ほとんど真っ白になってしまっている。
「他には?神経を殺すとか」
「君、鋭いね。神経を殺す薬を入れて、穴に蓋をして殺す、っていう方法もあるんだ。
ただね、それは、きちんと虫歯の部分を取って、きれいにしないとできないよ。
このまま蓋をしたら、歯や神経が腐って、ガスがたまるから、余計に痛むんだ」
「どうすれば・・・」
「とりあえず、できるだけのことはやってみよう。まず、麻酔を打って。強めの痛み止めと、
炎症をおさえる薬をあげるから、それを飲んで、おとなしくしてなさい」
「どのくらい、でおさまるんしょうか」
「2、3日といったところかな」
2、3日。数時間でも耐えがたかっただろうに、数日とは。
「それで治療してもらえるんですか」
「できるようになるよ。ただ、私は明日から1週間ほど出張なんだ。
でも、もう一人の先生に頼んでおくから大丈夫。美人の女医さんだ。
ちょっときついところもあるけど、腕は確かだよ。」
そう言い残して、歯医者は席を立ち、注射器を手に戻ってきた。
「はい、大野さん、あーん」
「あぁ」
「ちくっとするよー、まあ、歯の痛みに比べたらどうってことない。我慢してねー」
注射器を口の中に入れる。
「あ」
香緒里の脚が、ぴん、と伸びる。
注射器を持つ親指が、ゆっくりと押し込まれていった。
「んあああ」
ぎゅっと閉じた香緒里の目から、涙がこぼれる。
「はい、今度外から入れるね」
そういうと、左手で、香緒里の唇をぐいっ、と上方向に押し広げた。
香緒里はされるがままだ。
「もう一度ちくっとするよー」
さらに唇が広げられ、注射器が入っていく。
「あぅぅ」
喉の奥からかすれた声がもれる。
薬が押し込まれるのに合わせる様に、涙がはらはらと出る。
「はい、これでおしまい」
椅子を戻し、注射器にキャップをはめて、歯医者が言った。
香緒里は、かすかな声で、「ありがとうございました」
と言い、頭を下げた。
受付で、薬の説明を受けていると、ドアが開いて、
昨日のカルテを書いていた助手と、もう一人、女の人が入ってきた。
「ああ、萩原先生。」
歯医者は、いいところに来た、とばかりに、女の人に話しかけた。
これが、さっき言っていた女医さんか。
たしかに美人だった。
「こちらの大野さん、明後日、治療に来られるから、お願いしますね。」
歯医者が言うと、
「お願いひまふ」
俺と香緒里も頭を下げた。香緒里は麻酔のせいで、口が回らない。
「昨日の患者さんですよ」
助手が、萩原先生に告げた。
「ん?ああ、はい、お大事に。明後日ね。」
萩原先生は、微笑んでドアを開け、送り出してくれた。

帰り道。
「痛むか?」
まだ涙が止まらない香緒里に、尋ねる。
「やっふぁり、麻酔、効かないみたい・・ひっく、ひっく」
「早くおさまって、治療してもらえるといいな。あの先生、腕は確からしいし」
「でも、あの先生、怖そうだよぅ、ひっく」
気弱になっているんだろう。そんな香緒里の肩を抱きながら、ゆっくり歩いて帰った。

香緒里は、その日は痛い痛いと泣いていたが、
2日たち、ちょうど歯医者に行く日になると、痛みはおさまったようだった。
「今日は一人で行かれるか?」と言うと、
「痛くなくなっちゃった・・・来週でもいいかなあ。」と、渋る香緒里。
「ダメ。今は、痛み止めのおかげだよ。これ以上、先延ばしはダメ。」
とさとし、いやがる香緒里を連れて、歯医者に向かった。
「萩原先生に治療していただく、大野です」
と、受付で名を告げると、雑誌を手に取る間もなく、
「大野香緒里さん」
呼ぶ声がした。美人助手だった。
「彼氏も一緒に来てもらって、と萩原先生がおっしゃってるわ」
許可を求める前に、呼ばれてしまった。
香緒里を後から押すようにして、診察室に入る。
「どう。痛みは軽くなった?」
診療椅子に座るなり、萩原先生が尋ねる。今日は、眼鏡をかけていて、少し厳しい感じがした。
「はい。」
「よかった。じゃあ、治療に入れるわね。」
「はい・・・よろしくおねがいしま、す」
「今日は、まず、この間痛かった、左上7番、一番奥の歯を削って、神経を抜いて様子を見るわね。」
「はい。」
「なるべくまとめて治療するように、院長先生に言われたんだけど、」
カルテを手にして、先生は難しい顔をした。
「んー、よりどりみどり、ってとこね。どこから行くか・・・
それにしても、ひどいわね。こんなの見たことないわ」
ちら、と香緒里を見る。
香緒里はうつむいてしまった。
「えーと、左上の4番は、珍しく軽いから、さっさと終わらせちゃいましょう。
次に左下5番、を削って、神経抜かないといけないかどうか見て・・・」
「え。神経・・抜くかもしれないんですか」
「C2だと、場合によるわね。冷たいものがしみるくらいなら、大丈夫なことが多いけど、
熱いものとか、甘いものがしみるようになってると、けっこう進んでるの」
香緒里の顔が硬直する。左下の歯は、熱いお茶がしみたのだ。
「甘いものとか、しみるの?」
萩原先生は、香緒里の変化を見逃さなかったようだ。
「あ、いえ・・・」
「ま、いいわ。」軽くため息をつくと、レントゲンをかざして見た。「あとは・・」
「えっ、まだ」
香緒里が小さく声を出す。
すると、萩原先生が、急に、冷たい声になった。
「大野さん、あなた、何本虫歯があると思っているの?19本よ。しかも、どれも進行してるの。
そんなに放っておいたのに、簡単に治るわけないでしょう?治す気あるの?」
香緒里が悲しそうな顔になる。
「そんな顔したってダメ。虫歯は、なるもんじゃないの。作るものなのよ。
あなたが虫歯に「してしまった」のよ。自覚してるのかしら。」
香緒里の目に涙があふれてきた。
「前のとき、時間がないとか言って帰って、痛くなって駆け込んできたこと、忘れたの。」
えっ、と思って横を見ると、美人助手が頷いている。
香緒里は涙に声をふるわせながら、
「おねがいします・・・」と言った。
「はい。じゃ、あとは左上の2番。一番ひどい前歯ね。これは痛み出すかもしれないから
早めにやってあげたいんだけど。ちょっと見せてくれる。」
香緒里の顔を自分の方に向けさせ、唇をめくりあげる。
「ずいぶん変色してるわね。これだったら気付いてたでしょう。うーん、これはちょっと厄介だから
もう少し後で集中してやりましょう。」
「あの・・・その歯、どうなるんでしょうか」
気になったので、思わず聞いてしまった。
「どうって?まあ、削って、神経を取ることになるだろうから、根がちゃんとしてれば、
土台を立てて、歯をかぶせることになると思うわ」
「それって、差し歯、ですか。」
香緒里が差し歯はイヤだと言っていたのを思い出した。
「そう、差し歯だけど?」
萩原先生が不思議そうに答える。
「差し歯・・・」
香緒里が青ざめていた。
「こんなにボロボロにしておいて、何言ってるの?ひょっとしたら、差し歯にもできないかもしれないわよ。
根っこまでやられてたら、抜くしかないから、両脇の歯を差し歯にして、くっつけて歯を入れるしかないわね。
これは、レントゲンを見た限りでは、どっちとも言えないんだけれど。」
重苦しい雰囲気だった。
助手が、カチャリ、カチャリ、と、治療の準備を始める。
「ま、とにかく、始めましょう」
椅子がゆっくりと倒され、萩原先生の目がいっそう厳しくなった。
「一番奥からやるつもりだけど、麻酔が効くようになってるかどうか、見せてね。」
口調は優しくもどっている。
左手にミラー、右手に探針を手にして、香緒里の口の中を覗き込む。
「あぅ!」
香緒里が跳ねた。
「まだちょっと充血してるようね。今日は無理だわ。もう少し落ち着かせましょう。
じゃ、下の歯からにしましょうか。左下の5番ね。」
一瞬、ホッとした顔を浮かべた香緒里だったが、
「一応、C2だから、麻酔せずに削っていきます。」
と言われ、目を見開いて怯えているのがわかった。
「我慢できなくなったら、ちゃんと麻酔するから大丈夫よ。」
横から、助手がなぐさめるように言った。
「はい、じゃ、あーん。」
ミラーでしばらく見た後、萩原先生は、先を選んで、器械にはめた。
不安そうに横目で見つめる香緒里。
「ちょっと見にくいから、ワイダーつけてくれる?」
「はい。」
助手は立って、プラスチックの道具を持ってきた。
なんだろう・・・
見ていると、助手は、それを香緒里の唇にはめた。
すると・・・可愛い香緒里の口が、無理やり大きく開かされていた。
目を離せずにいると、香緒里がそれに気付いて、泣き出しそうな顔をした。
「じゃ、削りますよー」
助手が、J字型の器械を持って、香緒里の口に入れた。
ジュボボ・・と音がする。
「バキュームっていうの。唾液を吸い取るのよ」
と、助手が教えてくれた。
チュイーン、と音をさせながら、ドリルが歯に近付いていった。
「痛くなったら、左手上げてね」
香緒里が体を固くした。
キュゥーン、キュゥーン、
音を響かせながら、香緒里の歯をドリルがえぐっていく。
キュィーン、イィィィィィィィン、チュイン、チュイン、
ドリルの音は続く。
「あー、けっこう中で広がってる、頑張って」
キュイーン、イーン、
どのくらい削ったころだろうか。
「あぅ!」
香緒里の悲鳴が上がり、左手が上がった。
「もうちょっとだからねー、ちょっと我慢して。」
香緒里の足先に、ぎゅっ、と力が入った。
が、まだ終わる気配はない。
キュィーン、キュゥーン、
「あー、こっちも広がってる・・」
「あ、はああ、んぁ、ぁぁぁ」
香緒里が泣き出し、脚をばたばたさせ始めた。
「あと少しだから」
キュゥゥゥゥゥゥン。
ドリルが口からようやく離れる。
ワイダーもはずされ、椅子が起こされる。
「口ゆすいでね」
くちゅくちゅ。すこしホッとした顔で、香緒里が口をゆすぐ。
「はい。もう一度倒しますよー」
ふたたびワイダーが付けられる。
助手がバキュームを手に取る。
えっ、終わりじゃなかったのか・・・・
「意外と大きく広がってたから、もう少し削らないと。」
香緒里が怯えた顔をしたが、口は強制的に開けられているので、
逃げることもできない。
キュィィィィン、
ドリルがふたたび、口に入っていった。
シュゥン、シュゥン。
少しずつ、本当にほんの少しずつ香緒里の歯は削られていく。
「あ、う、ぁあ…あっ、んぅっ」
そのたびに香緒里がのどの奥で呻く。
手はチェアをきつく掴み、足は絶えずうごめいている。
「神経に近いから少し痛いと思うけど、神経にはまだ触ってないからね。」
手を止めずに荻原先生は言った。
歯を削られている香緒里は、肯くことも出来ずに、涙を流すばかりだ。
口も強制的に開けられていて、香緒里の自由になるのは足ぐらいのものだ。
その足は椅子を蹴り続ける。
チィッ、チィン、シュゥンン…
「はい、終わり」
無限にも思われた時間が終わり、香緒里の口から再度ワイダーが外された。
口をゆすぐ香緒里に荻原先生が声をかける。
「神経は取らずに済んだわ。神経を保護する薬を入れて、型を取って、
 今度金属の詰め物を入れますからね。じゃあお願いね。」
最後の一言は美人助手に向けた言葉だ。
美人助手はてきぱきと薬とセメントを練り合わせ、荻原先生に手渡した。
椅子を倒し、香緒里に口を開かせる。
ノズルの着いたチューブを香緒里の口に入れ、ボタンを押した。
シューッ、シューッ
どうやら歯を乾かしているらしい。
風もしみるのか、香緒里は声こそあげないものの、またもびくん、と跳ねた。
「動かないで、口も閉じないで下さいね」
助手が言ったが、すでに香緒里は口を半分閉じていた。
「……もう一回開けて、はい、あーん」
助手が軽くため息をつきながら言い、再度香緒里の歯を乾かした。
シューーーッ、シューッ
香緒里は目をぎゅっと閉じて、懸命に我慢している。
「じゃ、型取るわね」
荻原先生はそういって、香緒里の口にセメントの乗った金属のトレイを入れる。
「ちょっとかんで・・しばらくこのままで」
香緒里は、トレイをかんだまま変な顔をしている。
俺がその顔を見つめていると、香緒里はまた泣きそうな顔をしたので、ちょっと視線をはずす。
診察室を見ると、だいぶ近代的な雰囲気である。
小学校のころの歯医者はもっと怖いイメージがあったのだが、最近は少なくとも見かけはよくなった気がする。
・・まぁ、香緒里を見ていると、変わったのは見かけがけのようだが・・。
「トレイはずしますねー」
助手はそういうと、香緒里の口からトレイを抜いた。
ピンク色のゴムのようなものに、確かに歯の型が付いている。
助手はそれを持って、奥の方に引っ込んでいった。
「じゃ、この歯は仮詰めしておくから。口あけて」
荻原先生がそういうと、香緒里は弱々しく口を開けた。
助手はまだ戻っていないので、先生が歯を乾かす。
シュッ、シューッ
ぎゅっと目を閉じて耐える香緒里。
「口閉じちゃダメよ」
先生はそういって、台の上の棒を火で温め、金属の棒で切って香緒里の口の中に持って行く。
「ちょっと我慢してねー」
そして、穴の開いているところにぎゅっと押しつける。
足がびくんと跳ね、目尻から涙がこぼれる。
「はい、今日はこの歯は終わり・・口ゆすいでいいわよ」
先生はそういうと、器具を台に起き一旦マスクをはずした。
香緒里は、ぼんやりとした目で先生を見て、そして口をゆすいだ。
先生が、立ち上がって手洗い場の方に行く。
どうやら先生もだいぶ疲れたようだ。
「・・大丈夫?」
俺が香緒里に聞くと、香緒里は弱々しい声で
「・・ん、大丈夫」と答えた。
そんなことを話しているうちに、助手を連れて荻原先生が戻ってきた。
「さて、じゃ今度は、前神経取ったとこ見るわね。きれいだったら薬入れ替えるだけだから」
そういうと、マスクをつけて器具を手に取る。
香緒里は、何も言われなくとも口を開いた。

前治療した歯に詰めてある詰め物を、ピンセットで引っかけて取る。
「んー・・元々中で炎症起こしてたみたいね・・」
荻原先生はそういうと、この前の治療で使ったネジのようなものを手に取った。
それを見た香緒里の顔が、すこしこわばる。
「ちょーっと痛いかもしれないけど、麻酔しても変わらないから・・」
そういいながら、針を歯の穴にゆっくりと押し込んでいく。
「んぁっ・・」
香緒里は痛そうに顔をしかめたが、荻原先生は黙って奥に針を進めていく。
目が真剣そのものだ。
そして、ゆっくりと針を抜く。
「あぁっ・・」香緒里が声を上げるが、お構いなしで次の針を選ぶ先生。
涙がまたこぼれ出すが、手はだらんと下がっている。その手をぎゅっと握る。
そして、また針を入れては抜いていく。先生の目が、険しさを増していく。
「んっ・・んあぁっ」香緒里の声が、静かな診察室に響いていた。

根の治療が一段落したらしく、荻原先生は器具を台においてゆっくりと息を吐いた。
香緒里は、もうぐったりとしている。
先生は、マスクをはずしてゆっくりと説明を始めた。
「えっとね・・この歯は、根の先で炎症起こしてるから、しばらくこの治療繰り返さないとダメだわ。
長期戦になりそうだけど、頑張ってね」
香緒里は、それを聞いて呆然とした顔をした。あの治療を繰り返すのはヤダ、と顔に書いてある。
「・・しばらくって、どのくらいかかるんですか?」
俺が代わりに先生に聞くと、先生は
「それは、香緒里さんの根の具合次第だから・・最低でも後3回ぐらいかかりそうね。
5回以上やってダメなら、歯を抜く方向で考えるけど・・」
といった。
歯を抜く、という言葉を聞いて、蒼白になる香緒里。
それを見た荻原先生は
「19才で歯を抜かなきゃいけないってのはつらいと思うけど、残せないものは仕方ないのよ」
と小さくため息をついた。
重い沈黙が、診察室を包んだ。

「んーと、後どうする?まだ頑張れる?」
荻原先生は、優しい声で香緒里に聞いた。
「・・・」
だが、香緒里は答えない。
「・・どうなんだよ、香緒里」
俺が香緒里に聞くと、香緒里は首を小さく横に振った。
先生は「そう、分かったわ」と優しく言って、助手に予約表を持ってこさせた。
「そうね、土曜日の・・朝でいいかしら?」
先生が言うと、香緒里はこくりと頷いた。
「分かったわ。ただ、仮詰めがとれたら予約の前でも来てね・・もっとも、痛いから言われないでも来てくれるだろうけど」
先生は冗談めかして言ったが、香緒里は小さく頷くだけだった。
「まぁ、今日はゆっくり休んでね。疲れちゃっただろうから。でも、歯磨きは忘れないこと♪」
荻原先生はキャラに合ってない明るい声で言ったが、香緒里はこくんとうなずいただけでよろよろと立ち上がった。

歯医者の外に出ても、香緒里は魂が抜けたようになったままだ。
「香緒里、よく頑張ったね」
俺の方が恥ずかしくなってしまうような言葉をかけても
「・・・」
返事が返ってこない。
「なんか食べてく?」
いつもならすぐに食いついてくる俺のせりふも
「・・いや、いい」
と冷たく返されてしまった。
結局、その日はそのまま家に帰り、食事を取り、忘れずに仕上げ磨きをして寝た。
でも、香緒里は終始元気がなかった。

次の治療の日。
「そろそろ行こうか?」
香緒里に声をかけると、香緒里は首を横に振った。
「ほら、予約の時間に遅刻するぞ」
手を取ると、香緒里はその手を払った。
「・・ヤダ」
香緒里はそういうと、横になった。
「ヤダじゃないだろ、行かないと」
「・・もう痛いのヤダ」
子供のように、首を横に振る香緒里。
「でも、放っておくとまた痛くなるだろ。それはいやだろ?」
諭すようにいうと、こくんと頷く。
「じゃ、我慢して行かないと」
「・・なったことがないから分からないんだよっ!」
香緒里はそう叫ぶと、クッションを俺に投げつけた。
ショックだった。
香緒里のためを思っていったつもりだったのに、そういわれるとは。
「・・理屈では行かなきゃいけないって分かるけど、でも、でも痛いんだもんっ」
「それは、つらいのは分かるけど・・」
「分かってないよっ!」
また、クッションが飛んでくる。もう、どうでも良くなった。

「・・ならいいよ。キャンセルの電話入れるよ」
受話器を取る。香緒里は、起きあがったがうつむいたままだ。
「・・いいんだな?」
念を押すと、香緒里は力なくうなずいた。
電話をかけると出たのはあのときの助手だった。
「あの、大野ですが、今日は具合が悪いんでキャンセルしたいんですが・・」
「・・少々お待ちください・・大野さん、はい・・あ、先生がお話したいそうですのでかわります」
その言葉のあと、荻原先生のゆっくりとした声が続いた。
「大野さん。痛み止めと炎症止め今日の朝の分までしか出してなかったわよね。あれ切れたら痛みが出ちゃうわ」
「・・先生」
先生の声は全て分かったような声だった。
「あ、彼の方だったのね・・無理に治療はしないから、薬だけでも取りに来てって伝えて。
薬持って帰るだけでいいわ。本人にしか処方できない決まりだから・・ね」
「・・はい、伝えます・・すみません、ご迷惑かけて・・」
「いいわよ、そんなの。仕方ないわよ・・じゃ、待ってるわ」
先生はそういうと、電話を切った。

「・・香緒里。無理に治療はしないから、薬だけ取りにきてって。そのままじゃ痛くなるよ」
「・・ヤダ」
香緒里はうつむいたまま首を振った。
「薬取りに行くだけだって。治療しないって先生もいってくれたし」
「・・でもヤダ」
先生がせっかく言ってくれてるのに、香緒里はそれすらいやがった。
「痛くなっても知らないからな」
そう言って、俺は気晴らしのドライブをしに外へ出た。

走り続けて、もう日がかげり始めていた。
なぜかまた、彼女の家まで戻ってきていた。
先生の言っていたことだと、もうそろそろ痛みが出ているだろう。
心配になって、電話をしてみた。
「・・香緒里?」
声をかけると
「・・ゴメン、ホントにゴメン」
香緒里の声が返ってきた。ちょっと涙声だ。
「・・俺も、出てってゴメン」
「・・寂しかった・・戻ってきてよ・・」
「今戻るよ」
そういうと、俺は香緒里の部屋のドアを開けた。
「ただいま」
俺がそういうと、香緒里は涙で濡れた目をこっちに向けた。
「・・歯、痛くなってない?」
俺が聞くと香緒里は力なく「・・痛い」と答えた。
「・・薬だけ、取りに行こうよ」
俺が言うと、彼女は力なく頷いた。
歯医者につくと、もう看板の明かりは消えていた。
「・・もう閉じちゃったのかな」
俺が言うと、香緒里は心配そうに手をぎゅっと握る。
とりあえずドアを押してみると、鍵はかかってなく、すっと開いた。
「あの・・」
俺と香緒里がおそるおそる中にはいると、
「待ってたわ、大野さん」
荻原先生の声がした。
「あ、あのっ」
「ごめんなさいっ」
俺が挨拶をしようとしたら、香緒里が深々と頭を下げた。
すると先生は笑って「いいのよ、別に」と言って、薬の袋を差し出した。
会計を済ませようとすると、もう助手もみんな帰ってしまったようで、先生が会計を打った。
・・香緒里のために待っていてくれたようだ。申し訳ない。

「ちょっと話があるんだけど、いい?」
会計を済ませて、もう一度謝ってから帰ろうとすると、先生がそう言った。
「あ、はい・・」
香緒里が先生の方に歩いていったので、俺も追いかける。
「じゃ、ここに座ってよ」先生が長いすに腰掛けて、そういう。
先生、香緒里、俺、と、待合室の長いすに座った。
「・・私もね、子供の頃、虫歯だらけで、いっつも痛い痛いって泣いてたの」
先生は遠い目をして語り出した。
「でもね、熱心な歯医者さんに、まあ、なんていうか、救われたんだ」
香緒里は、驚いたような目で先生を見た。俺も、先生にそんな経験があるなんて信じられなかった。
「歯が丈夫な人はさ、歯とか治療の痛さ、知らないのに、治せ治せって、言うでしょ。この彼氏とか。」
そういうと先生は俺を見て、ふっと笑った。香緒里も、つられて笑って、頷く。
「でもね、こんなふうに、親身になって心配してくれる人がそばにいるなんて、幸せなことよ。」
先生は、今度は香緒里に、微笑みかけた。
「ま、この彼氏は心配してくれても、歯は治せないからね。役立たずなんだけど。
そこは私が何とか協力するから。ね。がんばって、治していこう。」
そういって、香緒里の肩をぽんぽんと叩いた。
「・・分かりました」
香緒里は、先生の方を向いてそう言った。
「それじゃ、次の予約月曜に入れておくから」
だが、先生がそういうと、香緒里は不安そうに目を泳がせた・・。

「じゃあ、この間予定より進まなかったし、今日はきっちり治していきますからね」
月曜日。
治療ブースに通された香緒里に、荻原先生はびしっと言い放った。
この間香緒里に優しく話しかけていた時の面影は微塵もない。
虫歯を治す、という使命感に溢れているからだろうか。
俺はなんだか納得してしまったが、香緒里はあからさまに怯えている。
「まず左上を見せてね、はい、あーん。
 …うん、充血も引いてるわ。 今日神経抜いてしまいましょう。」
香緒里の口を覗き込みながら萩原先生が言った。
「あと、上の6番の掃除して、前回削った5番は金属が入るからね。
 どうする?途中で嫌になってもいいように酷い歯からやろうか?」
「…はい」
酷い歯、と聞いて一瞬青ざめた香緒里だが、覚悟を決めたのか自分から口を開けた。
「じゃあ6番ね」
ゴムのような覆いが外され、細く裂いた脱脂綿が香緒里の歯の中から引き抜かれる。
荻原先生が綿をライトにかざした。先の部分が緑ががったクリーム色に染まっている。
「やっぱりまだ膿んでいるみたいねぇ。もう一度掃除するわね。」
例の針が香緒里の歯にねじ込まれていく。
「んんぅ、…はぁ、ああ……」
やはり相当響くのだろう。香緒里の目端からすっと涙が流れる。
「……ちょっと徹底的に洗うわね」
そういうと荻原先生は、今までねじを回すように入れていた針を、
力を込めて激しく出し入れし始めた。
「あ、ああっ! いあぁ!!」
香緒里が叫ぶ。
荻原先生はそれにはかまわず、額に汗をにじませ、針を取り替えながら同じことを繰り返している。
ざっ、がすっ、がりっ。
かすかにそんな音も聞こえてくる。見ている俺も膝が笑ってくるような治療だ。
「……ふう」
荻原先生は、ため息をつくと、額の汗を拭いた。
「もういいわよ。これで上向きになってくれれば良いんだけれど。」
香緒里は肩で息をしている。涙を拭く気力もなくなっている。
助手が気づいて、ハンカチで香緒里の目の横をそっとぬぐってくれた。
香緒里の歯に手際よく薬と脱脂綿を詰め、蓋をすると、
荻原先生は一瞬伸びをして、香緒里に向き直り、微笑んで言った。
「じゃあ一番奥の歯を治療します。良く我慢できたわね。もう大丈夫よ」
香緒里の目がまたじわっと滲む。
優しい言葉をかけられて、痛みに苦しんだことを思い出したのだろう。
「麻酔の注射をしますからね。」
荻原先生は、注射器を2本持ってきた。
香緒里の口を開かせる。
「はい、最初ちくっとします。その後は押される感じがしますよ。」
香緒里の一番奥の歯のすぐ隣に針は差し込まれた。
少し薬液を入れては針をほとんど抜けそうなところまで引っ張り、
方向を変えてまた奥深く差し込む。
香緒里は目をぎゅっと瞑って頑張っている。
一本目の薬液がすっかりなくなったのを確認して、荻原先生は注射器を抜いた。
「はい、いーってして、あ、少しだけ開けてみて」
指示に従った香緒里の唇の左端を、助手が左上に引っ張りあげる。
「ちょっと痛いかもしれませんよ」
言うと同時に2本目の注射器が、香緒里の歯茎に射し入れられた。
「ひ、いぁ、んぅう」
薬液を押し込まれるたびに香緒里は息を漏らした。
「はい、終わり。効くまで少しかかるから、下の金属、入れてしまうわね」
荻原先生は、助手が持ってきた金属の詰め物を香緒里の歯に当てて具合を確かめると、
満足そうに肯き、さっとセメントをつけて詰めてしまった。
さらに指でその歯を、顎ごとぎゅうっと押さえる。
香緒里はびっくりして目を白黒させている。
1,2分たっただろうか。
「よし。そろそろ麻酔もきいたでしょう」
荻原先生はそう言うと、いそいそと歯を削る準備をし始めた。
キュウゥゥゥウン、キュィイ、キュイーィン。
麻酔が良く効いているのだろう。
香緒里は最初こそ緊張で固くなっていたが、
今はこの痛そうな音の中、すっかりリラックスしている。
「ああ、手前がやっぱり酷いわねぇ…」
削りながら荻原先生がつぶやいた。
この歯は元々、手前の崩壊した虫歯と昔接していたであろう部分から出来、
小さな穴が空いて中で広がった虫歯だった。
俺が欠けさせてからは、前半分が大きく口を開けていて、中の黒茶色いのが良く見えた。
見たところ後ろ半分は何もなさそうだったが、
神経を取るというのだから全部削ってしまうのだろう。
そんなことを考えているうちに、すっかり神経の処置まで済んだらしい。
「この歯は次回、土台を入れていけそうね」
見ると、香緒里の歯は手前が歯茎ぎりぎりまで削られ、
後ろに向かって傾斜がつけられていた。
真ん中は神経を取って一層へこんでいるので、斜めに切った竹のようだ。
薬を詰める準備をしながら、荻原先生は香緒里に話しかけている。
「今日、後一本ぐらい治しておこうと思うんだけど、いいかしら。
 ほら、前も言っていた上の4番、一番小さい奥歯ね。一回で治るから。」
「あのぉ・・」
「ん?」
「悪い歯から治して欲しいんです。 もうあんな痛いのやだし…」
「ってことはこの前歯かしら…うーん、院長に相談してからの方が…」
「いえ、そこじゃなくて…」
香緒里の言葉に、荻原先生も俺も首を傾げた。
確か香緒里の歯はC4が1本、C3が2本。
C3で残っているのは前歯だけのはずだが…。
俺が悩んでいる間に、荻原先生が先にひらめいたようだ。
「香緒里ちゃん、もしかして、他にも痛い歯があるの?」
「……はい」
またも香緒里は真っ赤だ。
「今更恥ずかしいことじゃないわ、どこ?」
「…右の上の…」
「そう。ちょっと待ってね。」
そう言うと荻原先生は、左上の奥歯の処置を仕上げると、レントゲンを手にした。
「ああ、このインレーが入っている歯ね。うっかりしてたわ。これは痛いかもね。」
俺もようやく思い至った。
10年前に詰めた銀の周りが汚らしく変色し、香緒里も「しみるの」と言っていた歯。
実際はしみるどころか、すでに痛みだしていたわけか。
『また嘘吐いたな』、という目で軽く香緒里をにらんでやる。
香緒里は慌てて、
「あの、でも、ズキズキするんじゃなくて、なんかジーンと重い感じなんです。」
と言い足す。
「うーん、早く治療してあげたいなあ…でもねぇ」
「でも?」俺と香緒里が同時に聞く。
「左と右、両方治療中だと食べられるものも限られてくるし、
 違和感が強かったりするからお勧めできないのよね…」
「無理なんですか?」
香緒里が勢い込んで聞くと、荻原先生は苦笑した。
隣では美人助手も苦笑している。
「そこまで言うってことは実は結構痛いんでしょう?嘘は駄目よ」
「……は、い…」
俺はちょっと呆れた。まあ、自分から治して欲しいと言ったから、許してやろう。
「じゃあこっちも麻酔するわね。神経に届いてるから。」
さっと麻酔をすませると荻原先生は、ドリルの先を取り替える。
「じゃあインレーを外すわね」
ブウゥゥン…
回転数も違うのか、スイッチを入れると、歯を削るときとは違う音がした。
ドリルが香緒里の口の中に入れられる。
ウィイン!
一度大きな音がしたと思ったら、荻原先生はすぐにドリルを抜いてしまった。
「……取れたわ…触っただけなのに…これは酷いわ」
助手に言って、手鏡を取ってこさせる。
手鏡を香緒里に渡し、探針を口の中に入れる。
「見える?インレーの下、全部虫歯だわ。
 セメントが全然効いてなかったもの。ほら、触っただけで崩れるでしょう?」
香緒里は泣き出しそうになっている。
俺も中を見せて貰った。
大きめのインレーが入っていたところ一面、茶色くなっていて、
針で触ると簡単に、ぐずぐずと崩壊していく。
「さあ、さっさと治してしまいましょう。香緒里ちゃん、泣いてたら削れないわ。
 麻酔は効いているでしょう?」
ひっく、ひっく。
香緒里がしゃくり上げている。
「うぇっく、はずかしいよぉ、こんな、きたない歯ぁ、ひいっく」
「大丈夫よ。それにしても、ずいぶん痛かったでしょう。」
萩原先生が、やさしくなぐさめる。
すると・・
突然、美人助手が立って、診療室の窓を開けた。
「けほっ、すごい臭いだわ。」
そう言うと、マスクを取ってきて、つけた。
「はい。いくら彼女の歯だって、辛いでしょ」
と、俺にもマスクを渡してくれた。
そういえば・・・
何かが腐ったような、歯を磨かなかった翌朝の口臭のような、臭いがする。
これが、あの歯から出てるのか・・?
香緒里は、ますます激しく泣き出した。
「金子さん。あなた。」
萩原先生は、助手を軽くにらみ、
「こうなってしまったのは、前の治療が原因なの。だから、香緒里ちゃんが泣くことないのよ。」
と、香緒里をなぐさめた。
「だから、治していきましょう。ね。」
香緒里がひっく、ひっく、としゃくりあげながら、ハイ、と返事をした。
「じゃ、続けるわよ。はい、あーん。」
まずは、水で洗いながら、バキュームで吸い取り、それから、ドリルで削りに入った。
「ん、あああああああ」
「麻酔効いてるでしょ。だいじょうぶよ。もうちょっと。我慢して。」
香緒里は、泣きながらも治療に耐えている。
3分ほど削っていただろうか。
ドリルの音がやみ、バキュームの、ズズズ、ジュポーっ、という音がして、椅子が起こされた。
「まず、うがいしてくれる。」
先生に言われて、うがいをした香緒里は、青い顔で言った。
「歯が・・歯がない!」
萩原先生は、ちょっと頷くと、口を開いた。
「虫歯に侵されてる部分を全部取ったら、ほとんど残らなかったわ。あとは、さっきの臭いでも
わかるとおり、」
香緒里は、赤くなってうつむく。
「神経のところは、腐ってたわ。一応、よく洗って、これから根の処理をするけど」
また!香緒里が硬くなる。
「ジーンと痛かったってことは、炎症が慢性化してるってことなの。
だから、かなり長くかかるわね 。覚悟してかからないと。」
香緒里は、もう、どうでもいいといった顔で、ぐったりとしてしまった。
「残った神経を取りますね」
萩原先生はそう言うと、ユニットを倒し、例の針を手に取った。
おびえた目で先生を見る香緒里。
先生はにっこりと微笑んで、香緒里に口を開けさせた。
「そんなに痛くないと思うから、大丈夫よ」
そう言って針を歯に入れたとたん、
「あぁっう」
香緒里がびくんと動いた。
萩原先生は針を抜いて
「ゴメン、まだ麻酔が足りなかったみたいね・・もう2本打つわ」
といい、台の上の注射器を手に取った。
「さっきの麻酔が効いてるから、大丈夫よ」
萩原先生はそう言いながら、香緒里の歯茎に針を入れた。
針をぎゅっと押し込まれると香緒里はちょっと顔をしかめたが、それほど痛くないようだ。
「OK、後1本ね」
同じように注射をするが、香緒里は眉間にしわを寄せただけだった。
「痛くなかったでしょ?」
先生がにっこり笑って言うと、香緒里はこくんと頷いた。
数分経った後。
「麻酔が効いたか確かめるから」
先生はそう言うと、香緒里の歯の中に針を入れた。
「んぁあっ」
やはりびくんと動く香緒里。困ったような顔をする先生。
「・・金子さん、あれ持ってきて」
そう言われた助手は、となりの部屋に入って、A4ぐらいの紙を持ってきた。
そこには、歯の断面図のようなものが書かれていた。
「あのね、歯ってのは元々こんな感じなのね。この赤いのが神経ね」
香緒里がこくんとうなずく。
「この神経が根の先から歯茎の方につながって、痛みを感じるようになってる。麻酔も、根の先から神経に入るのよ」
香緒里は、もう一度こくんとうなずく。
「で」
先生は、根のところ以外の神経をボールペンで塗りつぶした。
「さっきの歯は、ここまで神経が死んじゃってるの。でも、根のところは生きてるわ」
「あ、だから痛かったんですね?」
香緒里が合いの手を入れる。
ところが、先生は「ええ」と言いながら困ったような顔をした。
「さっきの歯は、歯の根のところが細くなってて・・死んだ神経があると細くなるんだけどね。
で、麻酔がうまく入っていかないのよ」
しばらく考えていた香緒里の顔が、さっと曇る。
「・・ど、どうするんですか」
「一番楽なのは、生きている神経のところに直接麻酔の注射をする」
なんか、聞いただけで歯が痛くなってきそうな治療である。
「・・他には、ないんですか」
すこし蒼くなった香緒里が、先生に食い下がる。
「神経を殺す薬を詰めてしばらく置く、ってのもあるけど、次の治療までずっとじんじんするし、効かないかもしれないわ」
香緒里が、まだ何か言おうとしたが、言う言葉もなくなったらしくうなだれる。
「注射さえ終われば、楽になるから・・がんばろ。ね」
萩原先生がぽんぽんと肩を叩くと、香緒里は力なく頷いた。
「じゃあ、準備するから」
先生はそう言うと、となりの部屋に入っていった。
先生が、助手を3人ほど連れて出てきた。
無言で、ユニットを倒す。香緒里はおびえた目をしているが、先生は器具のチェックに余念がない。
「えっと・・動くと危ないから、頭押さえさせてね」
先生がそう言うと、助手の一人が香緒里の頭を押さえた。もう一人が、足のところを軽く押さえる。
香緒里の目には、もうすでに涙が浮かんでいる。
「じゃ、やるからね・・痛いけど、動かないでね」
先生はそう言って、香緒里の口を開けさせ、歯の中に注射器を進めた。
「あぁあっ!」
香緒里が悲鳴を上げてびくんと動くが、助手二人がさっと押さえつける。
「危ないから動かないで!」
先生が叫ぶように言う。
「う・・うぁあっ・・」
香緒里は痛そうに声を上げる。先生は、ゆっくりと液を入れていく。
香緒里の目から涙がこぼれ、額には脂汗が浮かんだ。もう一人の助手が、さっとそれを拭く。
「そう、動かないで・・」
「あぁぁっ・・ふぅん・・」
諭すように言いながら、ゆっくりと液を入れていく先生。香緒里の目尻から、また涙の筋がたれる。
「もうちょっと、もうちょっとだから・・最初の方の麻酔が効き始めるから楽になるわ」
「んぁあっ・・」
萩原先生はそう言いながら、なおもゆっくりと薬を入れていく。
香緒里の方も、すこしは楽になったようだ。
「・・これで、終わり」
先生はそう言うと、注射器を台において、汗をぬぐった。
「お疲れ様、香緒里ちゃん」
助手の人たちもそう言いながら、自分の汗をぬぐっている。
香緒里は、ひっくひっくとしゃくり上げながら涙をぬぐった。
「これで麻酔が効いたから、そんなに痛くないと思うから。お口開けて・・」
先生はそう言うと、例の針を手に取った。
香緒里は、まだ泣き続けていたが、ゆっくりと口を開いた。
針を歯の中に入れられると、またぴくんと動く。
「ん、ちょっと我慢してね」
そう言いながら、先生は根の治療を続けた。
「・・はい、今日はここまで・・お疲れ様」
先生はそう言うと、大きくふぅと息を吐いた。
お疲れ様、と言っているが、自分もだいぶ疲れたのだろう。
「この歯も、しばらくは根の治療しないとダメだけど・・こっちは、もう一本の方よりは早く治るはずよ」
先生がそう言うと、香緒里は力なく微笑んだ。
「次の予約、明後日の夜でいい?」
「はい、よろしくお願いします」
香緒里がそう言うと、先生はにっこり笑って香緒里の頭をなでて
「もう一息、頑張りましょ。今日はよく頑張ったわ」
と言った。

「萩原先生、最初怖いと思ったけど、いい先生だわ。」
家に帰ると、香緒里がぽつりといった。
「そうだな。怒るけど、親身になってくれてる感じするもんな」
美人だし、というのはやめておいた。
しかし。
「香緒里。あーん。」
「あーん」
素直に口を開けてみせる。ずいぶんと治療した気がするのだが、
まだ、終わったのは左下の1本きりだ。
そういえば、この歯がきっかけだった。
あのときは、こんなに大変なことになるとは思ってもみなかった。
口の中には、まだたくさんの虫歯が残っている。
歯がなくなってしまっているところも2本もあった。
可哀想に・・・
よく頑張ったな、とキスをしようとする。
香緒里も、目を閉じた。
が、さっき見た、銀歯の下のぐずぐずに腐った歯が、目に焼きついていた。
実はあの時、汚らしいな・・・と、俺は一瞬だが思ったのだった。
臭いもかいでしまったのが、いけなかった。
一瞬唇に触れたが、軽いキスだけで、離れてしまった。
同時に、萩原先生の白い歯が浮かぶ。
きっと、あの先生は虫歯なんかないんだろうな。
香緒里が、少し悲しそうに、こちらを見ていた。

次の予約の日。
今日は、いつもより遅い時間だった。
「今日はきちんと来てくれたわね。」
助手がにっこり笑う。
「今日も、よ。」萩原先生が訂正してくれた。
「さて、今日は。まず、前回削った一番奥の歯に土台を入れるわね。
で、そのあとで、根の治療を2本やるから。頑張りましょ。」
夜のせいか、先生はいつもよりも元気がないように見えた。
「じゃ、土台を入れるわね。神経は取ってあるけど、ちょっと響くかもしれないわ。頑張って。」
そう言って、治療台の歯の模型に立ててあった、金属の柱のようなものを手に取った。
横で、助手がセメントを練って渡す。
「あーん」
金属の端にセメントをつけ、香緒里の口の中に入れる。けっこう、ぐいぐい押し込んでいるようだ。
「あが!んんっ!」
香緒里がうめく。
「あぁぁ」
涙がつつ、っとこぼれた。
「がんばって。もう少し。」
さらにもう一度、ぐぐっと押して、
「はい。終わり。セメントが固まったら、型取るわね」
はい、と香緒里が頷く。
「だいぶ頑張れるようになったじゃない。偉い、偉い。今日はあともう二頑張りだけどね。」
萩原先生は、そう言って笑うと、左手で右肩を揉みながら立ち上がり、
助手に、「金子さん、型取りお願いね」と言って、伸びをした。
他の治療台で治療を受けていた人は、もう終わったらしく、すでに、診察室には
俺と香緒里、萩原先生と助手だけになっていた。
助手が、ピンクのゴムが乗ったプレートを、香緒里の歯に押し付けている。
「んぐ」
「はい、噛んで。このまま動いちゃダメよ?」
こくこく、と香緒里が頷き、俺の方を見ると、情けなさそうな顔をした。
しばらくして、型がはずされると、萩原先生が戻ってきた。
「さーて。準備はいい?」
香緒里が少し緊張するのがわかる。
「まず、このあいだやった、右上から行くわね。もう大分神経は取ったから、
痛くないとは思うんだけど・・・どうしてもダメだったら、麻酔しましょう。」
先生はそう言って、椅子を倒し、例の針を手に取った。
「ちょっと細めのだから。大丈夫よ」
ミラーと針を、香緒里の口に入れる。と・・・
「ん、んぁああっ」
香緒里がびくん、と跳ねた。
「金子さん、押さえて。」
助手が押さえに入るが、
「あぁぁ、ああん」
脚をバタバタさせて、香緒里が泣き叫ぶ。
「動くと危ないわ、彼氏も手伝ってくれる?」
助手に言われ、下から、手と腿のあたりを押さえる。
「あああああ」
下から見ると、壮絶な図だ。
ふぅ、と息を吐いて、先生が離れる。
香緒里の顔は、涙でグシャグシャだ。
先生も、うっすらと汗をかき、別の針を選んでいる。
集中して邪魔になったのか、マスクを外した。
助手が、あら、という顔をする。
「今度は少し入れるだけだから。大丈夫よ。麻酔なしで行きましょう。」
香緒里はもう、目をつぶってぐったりしている。
「はい、あーん。」
そう言ったとき、先生の口の中に、キラッと光るものがあった気がした。
俺は目が釘付けになった。
「んんん。」
香緒里がうめく。
萩原先生は、ミラーに写る歯の内部を少し顎を上げて覗き、下唇を軽く噛みながら、
「頑張って・・もうちょっとだから」
と言って作業を進めていく。
前歯の裏だ!一瞬見えた萩原先生の前歯の裏は、ギラギラと光っていた。
前歯が・・銀歯?動悸がはげしくなる。
すると、横の助手にひじをつつかれた。
思わず、手を離してしまっていたらしい。治療は続いていた。
「んあ!あぅ!」
「我慢してー、もうちょっとだから、動かないで・・」
「あぁぁ」
「はい、よく頑張ったわ。ちょっと休憩しましょ」
ようやく終わったようだ。
先生が席を立ち、助手も後をついていった。
「香緒里、ごめんな、押さえつけたりして」
香緒里は、ひっく、ひっく、としゃくりあげている。
「ううん、いいの。協力してくれて、ホントありがとう。」
気弱になっているのか、やけにおとなしい。
「ねえ、どうしよう、次の歯。大丈夫かな」
「何が」
「抜くかもしれないって・・・」
「この間、ちょっと強くやられたから、大丈夫じゃないのか。」
「怖いよぉ」
そんな会話をしていると、先生たちが戻ってきた。
先生は、またマスクをしている。
俺はちょっとがっかりした。
「じゃあ、次はこの歯をやるわね。」
椅子を倒し、ピンセットを手に、先生が左上を覗き込む。
ゴムの封を外す。
「あ」
先生が小さく叫んだ。
香緒里の顔が、さっと緊張する。
ひどいのだろうか・・・
先生は、穴から綿をつまみ出すと、しばらくそれをじっと眺めている。
ため息をついているようだ。
抜くのか・・!?香緒里の緊張が伝染したように、俺も息苦しくなってきた。
すると、先生は、
「ちょっと炎症が残ってるわね。薬を入れて、もう少し置きましょう。」
とだけ、香緒里に告げた。
「じゃあ、今日は・・」
あの痛い治療がないということに少しホッとしつつ、
しかし、抜くことになるのではないか、という不安混じりに香緒里が尋ねる。
「そうね、薬を入れて閉じたら終わり。あ、心配することはないわ。大丈夫よ。」
助手も、横で「ちょっと置いておく時間が短かったからよ。大丈夫。」
と、フォローしてくれる。
良かった・・・
先生は、手早く、綿を薬に漬けて、香緒里の歯に押し込む。
「んんん」
少しまだ、しみるようだ。
その後、また封をして、今日の治療は、あっさり終わった。
「じゃあ次は・・・また、明後日、金曜日に来てくれる?」
助手が、次の予約を入れてくれた。

「先生、なんだか疲れてるみたいだったな」
香緒里が言う。
「私の治療がひどすぎるせいかな。」
「そんなことはないと思うけど、一生懸命やってくれてるよな。香緒里も頑張らないと。」
香緒里は、しっかりと頷いた。

次の日。香緒里は、元気な顔をしていた。
もっとも、それは痛み止めの薬のおかげなのだが、一時、痛み止めすら効かなくなっていたことを考えると、
大進歩だ。
「せっかくだから、映画でもいこうよ。観たがってたよね。」
香緒里が言うので、夕方、前から観たかった、宇宙戦争ものを観に行くことにした。
戦闘シーンが大迫力らしいのだ。
「男の人って、こういうの好きよね・・子供っぽい。」
と、バカにされながら、久しぶりに香緒里の調子が戻ってきたことが嬉しかった。
映画は、満員だったが、やはり、最後の戦闘シーンはすごかった。
ドカーン。ドォオーン!
やはり、映画は迫力だな、と思って観ていると、隣の香緒里が、ぎゅっ、と手を握ってきた。
こんなのが、怖いのかな。可愛いな・・と思っているうちに、映画が終わった。
それでも、香緒里の手は離れない。
明るくなって香緒里の顔を見ると、涙を流している。・・そんな感動するとこ、あったっけ??
しかし、感動しているにしては様子がおかしい。
「香緒里、どうした?」
「・・・痛いの。」
「え?」
「さっきの音が、歯に響いて・・・前歯がズキズキするの。痛いよぅ・・・」
そう言って、シクシクと泣き出した。
周りの視線が、痛い。
どうしよう・・・もう8時半だ、歯医者は閉まっているだろう。
「痛み止めは?飲んだ?」
「うん、さっき、我慢できなくて、夜の分、飲んだんだけど・・・。」
「効かないか?」
「ちょっとはまし・・かも・・・」
とりあえず、家に帰るが、痛くて泣いているうちに、神経が興奮したのか、
夜中には、しばらくおさまっていた、左上の奥歯まで痛み出したようだ。
「あぁぁっぁぁああん。痛いぃぃ。痛いよぉぉぉ。」
早めに飲んだと言う、夜の分の痛み止めが、今回の最後の薬だったので、
薬もない。冷やしてもみたが、かえってしみる、というので、
隣で肩を抱いててやること以外、どうすることもできなかった。
泣きつかれたのか、ときどき、うとうと、とするものの、
しばらく経つと、また
「痛いよぉ」
と泣き出す。何度繰り返したころだろうか。ようやく、朝になった。
「香緒里、歯医者さん行こう」
「・・・イヤ」
「何でだよ。痛いんだろう」
「うん。」しゃくり上げながら、答える。
「じゃあ、早くなんとかしてもらおうよ」
「だって・・・差し歯・・・あと、奥歯・・・抜かれちゃう・・・怖いよ・・・」
「・・・そんな」
そんなことないよ、と言おうと思ったが、この痛がりようでは、それもあるかもしれない。
「・・痛いよぅ」
渋っていたものの、やはり、痛みには耐えられなかったのだろう、
11時ごろ、ようやく、香緒里も決心がついたらしい。二人で歯医者に向かった。
行ってみると、さすがに夏休みのせいか、子供が多かった。
待合室についても、シクシクと泣いている香緒里。
「お母さん、あのおねえちゃん、泣いてるよ」
「あのおねえちゃんはね、歯が痛いの。健太も、ちゃんと治さないと、おねえちゃんみたいになるわよ」
という親子の会話が聞こえてくる。
真っ赤になって、立ち上がる香緒里。
母親をにらみつけて、あわてて後を追う。
「あら、香緒里ちゃん」
ちょうど、診察室から患者を送り出してきた萩原先生が、香緒里を見つけた。
「ちょっと、どうしたの?痛むの?」
香緒里が、涙を拭きながら、頷く。
「とにかくいらっしゃい。受付で言ってくれればよかったのに。」
そう言って、診察室に入れてくれた。
「金子さん。大野さん先に診るけど、あと平気よね?」
「はい、次の方は初診なので、紺野先生にまわします。午前はそれでOKです」
話はついたらしい。
「で・・・どこが痛むかしら?」
香緒里が、黙って前歯を指差す。
「あぁ、痛み出しちゃったか・・今日は院長先生がいるから、ちょっと聞いてみるわ」
立ち上がりかける萩原先生に、香緒里が
「萩原先生が・・いいです・・・」
と言う。萩原先生は、ちょっと微笑むと、
「大丈夫よ。相談するだけだから。治療は私がやるわ、責任持って。」
と言ってくれた。香緒里がホッ、とため息をつく。
萩原先生は、隣の椅子のところの院長先生と、二言、三言しゃべると、戻ってきた。
「じゃ、始めましょ。ちょっと見せてくれる。」
香緒里の唇をめくったり、口を開けさせたりして、診察すると、
「たぶん、虫歯が進んで、中で膿がたまってるせいで痛むのね。だから、とりあえず、
削って、膿を抜きましょ。それで楽になると思うわ。大丈夫?」
香緒里はおとなしく頷いた。
「じゃあ・・麻酔するわね。前歯の麻酔は痛いけど、歯の痛みよりはましよ。我慢してね」
アングルワイダーをはめられ、歯茎がむき出しになっているところに、
麻酔の針が刺さる。
「んんっ」
香緒里が顔をゆがめる。
「ん、大丈夫よ、頑張って」「楽にしてー」
先生と、助手がかわるがわる励ます。
「はい、じゃ、もう1本。今度は裏からいくわね」
口を開けられ、また麻酔が打たれる。
「んあああー」
「すぐ終わるからねー、はい。いいわ。麻酔が効くまでしばらく待ってね。」
そう言って、萩原先生は、ドリルの先を点検した。
治療台に、たくさんのガーゼと、小さい金属製のお皿のようなものがセットされた。
「もういいかしら」
先生が言い、治療が始まった。
削り始めてすぐ、
キュイーン、キュイーン、というドリルの音に、香緒里の泣き声が混じる。
「あああぁあぁぁん。う、ぅあああああ。」
「ちょっとだから。我慢して。」
隣の椅子の子供も、不安そうな様子でこちらを見ている。
「あ、やぁぁぁぁん」
香緒里がひときわ大きい声で泣き叫んだとき、ドリルの音がやんだ。
「ちょっと痛いと思うけど、すぐ楽になるから。」
ガーゼとお皿を香緒里の口の中に入れ、萩原先生が、歯茎のあたりを押す。
「んあ!」
すると、白っぽい液体が、たらー、と出てきた。
香緒里は、目を白黒させている。
しばらくたって、ガーゼとお皿を取り出す。
「どう?」
「だいぶ楽になりました。」
「じゃ、また、ここも根の治療していくから。ちょっと休憩ね。」
はい、と香緒里が静かに返事をする。

気がつくと、周囲は昼休みに入っているようだ。
治療されていた子供たちはいなくなり、他のスタッフも片づけをして、ほとんど奥に入ってしまった。
「萩原先生、あのう・・」香緒里が、おそるおそる話し出す。
「どうしたの?」
「この、前歯は・・・どうなるんでしょうか」
「そうね、一応、根は大丈夫そうだから、前にも言ったけど、差し歯にできると思うわ」
「そう・・ですか。」
香緒里がうつむく。
「えーと、香緒里ちゃん。差し歯が気になるのはわかるけど、最近は、見た目も綺麗なのができるわ。」
萩原先生が、優しく言う。
「でも・・でも・・」
「でも、他にないし、歯抜けっていうわけにもいかないでしょう?」
「先生みたいな・・綺麗な歯の人には分からないですっ!」
香緒里は泣き出してしまったが、萩原先生も、思いつめたような顔をしていた。
そのとき、端の治療台の上をいじっていた男の人が、こちらへ歩いてきた。今日、初めて見る人だ。
さっきの、コンノ先生とかいう人だろうか。
その人は、通りすがりに、萩原先生の肩をポン、と叩いて、受付の方へ行ってしまった。
萩原先生は、ハッ、とした顔で、その男性の後姿を見ていたが、
「・・・香緒里ちゃん。」
しばらくの沈黙の後、決心したように、静かに口を開いた。
「私の前歯も、虫歯でダメになっちゃったの。だから、香緒里ちゃんの気持ち、わかるつもりよ。」
俺は、驚いて萩原先生の口を見た。そうだ、裏が銀色だったのは・・・
香緒里は、もっと驚いているようだ。
「だから、がんばって、治しましょ?ね?」
「はい。わがまま言って、すみませんでした・・」
受付の方を見ると、さっきの先生が、萩原先生をじっと見つめていた・・・

「じゃあ、神経の治療、していくわね。」
もう何度目かになる根の治療が始まった。
昨日ほとんど寝ていないのと、麻酔が効いたのだろう、
香緒里は今度は泣かずにおとなしく治療されている。
「うん、これで良し。」
荻原先生は満足げにそう言った。
「じゃあ、今日は左奥の土台を入れて、その前の掃除と、右の掃除かな。
 掃除からやっちゃうわね。」
再び香緒里の口を開かせる。
「右は…良いわ。綺麗。次土台に入れるわね。思ったより回復が早いわね。」
香緒里が「よかった」とつぶやく。
「問題の左ね…」
左の歯の仮詰めが外される。綿を引き抜いた荻原先生が途端に眉根をひそめた。
「これは…痛くなかった?」
香緒里に聞く。
「あ、…昨日の夜中からまた急に痛くなって…でも、前歯のせいだと思うんです」
香緒里が怯えながら答える。
この歯は抜くと抜かないの境界線上にある。
何かあれば抜かれるかも…といつも気にしていた。
「香緒里ちゃん、落ち着いて聞いて欲しいんだけど、」
荻原先生がそう切り出す。香緒里の目に、さっき枯れたはずの涙がまた滲んでくる。
「この歯はもう、抜いた方が良いと思うの」
「やあぁぁぁっ!」
香緒里は耳をふさいで泣き出した。
「あぁぁぁあぁんん! 嫌ぁ、抜くのは嫌あぁっ!!」
「香緒里ちゃん…」
子供のように激しくしゃくり上げる香緒里を、荻原先生が抱くようになだめる。
ひとしきり泣くと、少し落ち着いてきたようだ。
「ひいっく、うえぇぇん、嫌、嫌ですぅ」
泣きながら訴える。
「わかったわ。院長に相談してみるから。ちょっと待ってて。
 私が帰ってくるまでに泣きやんでてね。泣かれると手を出せなくなっちゃう。」
荻原先生はそう言い、最後は香緒里の頭をぽんぽんと軽くなで、ブースを出て行った。
院長は二つ隣のブースで入れ歯のお婆さんの治療中だった。
荻原先生がカルテを見せている。
何を話しているのかは判らないが、あまり芳しくない雰囲気だ。
入れ歯の患者さんが興味深げに二人の会話を聞いている。
荻原先生が院長にさっと一礼して、院長のブースをでた。
どうなるのだろう、と思っていると、院長のブースからお婆さんの声がした。
「んなもん、さっさと抜いて、入れ歯にすりゃ楽になんべ」
訛り混じりの大きな声は、香緒里にも聞こえたようだ。
せっかく泣きやみかけていたのに、また肩を震わせ、しゃくり上げだした。
「あら、泣きやんでないじゃない」
荻原先生が戻ってきた。笑顔だ。
「泣きやまないなら抜いちゃおっかな~」
「やっ!」
「嘘よ」
この先生、来るたびにお茶目になるなあ…と俺は場違いなことを考えた。
「あのね、この歯にも前歯と同じように膿が溜まってるの。
 でね、抜くと簡単に治るんだけど、抜いた痕はそのままにしておけないでしょう?
 前歯なら言うまでもないけど、奥歯も抜けたままにしておくと、どんどん歯が動いて、
 物が噛めなくなっちゃうから。」
「…はい」
荻原先生の笑顔と冗談のおかげか、香緒里は落ち着いて聞いている。
「そういうときはね、ブリッジっていうんだけど、前後の歯を削って、
 橋を架けるように3本続きの人工の歯を入れるの。」
荻原先生は、治療台の横にあったイラストを使って説明してくれた。
「インプラントって言って、抜けた歯だけ入れ直す方法もあるんだけれど、保険が効かないの。
 香緒里ちゃん、大学生でしょ? ちょっと払うのは大変かな、と思ったの。」
香緒里と俺は同時に肯く。二人とも苦学生ではないが金持ちでもない、典型的な現代の学生だ。
「そうよね。だから、治すときはブリッジにすると思うんだけど、
 で、今香緒里ちゃんのこの歯の奥の歯がちょうどかぶせる治療をするから、
 ついでに治せば一石二鳥かな、って思ったの。
 でもそれは歯医者の都合よね。ごめんなさい。
 香緒里ちゃんがまだ抜きたくない、っていうなら、
 もうちょっと頑張ってみても良いかもしれないわ。」
「じゃあ…」
「まだ抜かなくていいわ。」
香緒里の顔がぱっと明るくなる。
「そのかわり、このまま治せるって決まったわけでもないし、
 もしどうしても残せない、ってことになったら、力づくでも抜くからね。」
そう言って、荻原先生は治療台を寝かせた。
香緒里が反射的に緊張したのがわかった。
「はい、あーん」
荻原先生の手には、すでにリーマーが握られている。
ぐりぐり、ぐいぐい。
「ああっ! うあぁぁあ、んんぁ!」
体を跳ねさせるようにして香緒里が呻く。
「がんばって。ちゃんとやらないと治らないのよ。
 歯を残せるように、私も頑張るから、香緒里ちゃんにも協力して欲しい。」
荻原先生が手を止めてそう言った。
香緒里はうなずき、治療台の端を手で掴んで、じっと体を硬くした。
それでもやはり痛い物は痛いのだろう。
「ん、くぅう、んんっ」
時折、何とも言えない声がのどの奥から漏れだしている。

根の掃除が終わり、薬を浸した綿、そして蓋が詰められた。
「もしかしてまた膿がでても良いように、蓋に小さな穴を開けてあるの。
 少しぐらいの膿なら大丈夫。
 でももしたくさん膿が出たら、とても痛いし、痛み止めも効かないと思うわ。
 そう言うときは、この蓋、外したら楽になるから自分で外してね。
 そして、ここにすぐに来ること。いいわね。」
香緒里がうなずくのを見て荻原先生はうなずき返した。
「じゃあ、土台を入れて、クラウンの型取りね」
前の詰め物の時も異様に手際が良かったが、今回も早かった。
高さを調節し、歯の周りを削っていく。例の助手に型を取ってもらい、
仮のかぶせ物をして、治療は終わった。
「ありがとうございました」
そう言って治療台を降りようとする香緒里を、荻原先生が押しとどめる。
「ちょっと待って。ごめん。もう一度前歯、診せてね。」
そう言って治療台を再び寝かせる。
さっきの前歯を診るのかと思ったが、唇をつまんでまくり上げ、他の歯を診ている。
香緒里は真っ赤になっている。
歯の先は白く綺麗で、笑っても歯茎が出ないので判らないが、
真ん中の二本は根元に穴があいて茶色くなっている。
さっきの歯の隣の犬歯も、境目のところが黒くなっている。
さっきの歯は、まだ両側が黒く、大きな虫歯が残っているのがわかる。

「あれ、その歯、削ったんじゃないんですか?」
俺がそう聞くと、荻原先生が振り向いて言った。
「さっきは神経に届くように削っただけなの。かぶせるのは最後だから、
 今全部削っちゃうと、半月ぐらい歯抜けになっちゃって可哀想でしょ?
 まあ、最終的には削るから、どうしても一週間弱は歯抜けにはなるんだけど、
 それぐらいの期間なら仮の歯を入れてあげられるからね。」
確かにそうだ。香緒里は歯抜けと聞いて更に赤くなっている。
荻原先生は香緒里の方に向き直って言った。
「ところで、前歯、鏡で見て気になるでしょう。」
「…はい」
「女の子だもんね。他の歯が落ち着いたら、一気になおしましょうね。
 白いので治すから、一日で済むし、見違えるように綺麗になるわよ。
 はい、今度こそ終わり。お疲れ様」
「ありがとうございました。」
「あ、左で固い物とか食べないでね。
 一番奥は全部仮詰めだし、その前の歯は安静にしたいからね。」

もう一度お礼をいい、医院を後にした。
「よかったな。とりあえず抜かずに済んで」 「うん」
「早く前歯、治してもらえるといいな」 「うん」
「とりあえず昼ご飯食べてさ、早く帰って昼寝しようよ。俺もう眠くて」
あくびをしながら言ったら、香緒里にこづかれた。
「それって何か嫌味…」
「嫌味じゃないよ、ただ、その、欲の中で睡眠欲が一番強いっていうじゃん…」
あわててごまかす。香緒里はふっと笑うと言った。
「まあいいわ。私も眠いし。」
二人で揃ってあくびした。

次の日、香緒里は、高校時代の友達と遊びに行ってしまった。
俺は、一人で買い物にでも出かけることにした。
デパートに入り、ふらふらしていると、新しい香水のキャンペーンをやっていた。
「どうぞー。当店で先行発売です。お試しください」
紙に染み込ませた見本をもらった。ふんわりとした、いい匂いだった。
香緒里に似合いそうだ。ボトルもなかなかかわいい。
最近、香緒里も歯の治療を頑張ってるし、ふとプレゼントしてみようかな、と思い立った。
「あの・・これ、プレゼントに・・」
「ありがとうございます。お包みしますので少々お待ちください」
にっこり笑って応対してくれた売り場のお姉さん。上の前歯が1本、やけに白く目立った。
このところ、歯医者通い(自分の治療じゃないが)をしているせいか、人の歯がちょっと気になるのだ。
差し歯かな・・
そう思っていると、別の係りのお姉さんが、
「彼女にですか?喜びますよー」
と言ってくれた。この人は、前歯が4本とも、少し不自然な気がする。ちらりと見えた奥歯は、1本まるごと、銀色に光っていた。
これがクラウンだろうか。案外セクシーだな・・
周りを見回すと、けっこう前歯が差し歯っぽい人が多かった。
香緒里に、大丈夫だって言ってやろう、と思いながら、家に帰った。

家に帰ってしばらくすると、香緒里から電話だ。晩御飯でも食べにいこう、という。
メニューは迷った挙句、パスタなら食べられそうだ、というので、イタリアンに行った。
席につくと、香緒里は、今日会った友達は4人だが、2人が差し歯を入れていた、という話を始めた。
その中の、前歯を全部差し歯にしたという一人が、香緒里の前歯の虫歯を目ざとく見つけ、こう言ったらしい。
「香緒里もさっさと歯医者に行って、差し歯にしてもらいなよ。綺麗になるよ。」
香緒里が、歯医者には通っていること、奥歯の根の治療があるので、
前歯は治療待ちだが、差し歯にするのは1本だと説明すると、
「ええっ、穴開いてるのに、大丈夫なの?その歯医者。
私の前歯は、アイスがしみるだけだったけど、念のため神経取りましょうって言われて、
神経とると歯の色が変わっちゃうからって、差し歯にしてくれたよ。
奥歯もしみるところは、ほとんど神経抜いてもらったけど、
そんなに何回も根の治療なんかせずに、すぐかぶせてくれたし。紹介しようか?」
と言われたそうだ。
香緒里は、少し心配になってしまったらしい。

「じゃあ香緒里、前歯も全部差し歯にしたいわけ?」
「それは嫌・・」
「じゃあ、いいんじゃないの。」
「奥歯も、萩原先生、神経は残せたわ、って言ってくれたけど、取らなくてよかったのかなあ。根の治療もほとんど終わってないし」
「そりゃ、神経は残せるなら残したほうがいいと思うよ。根も、たしかに、時間かかってるけど、丁寧にやってくれてるんじゃないのかな。気になるなら、今度聞いてみなよ」
「うん、そうする」
香緒里は少し安心したようで、ぱくぱくとパスタを平らげた。
そんなにばくばく食べて大丈夫か、と思っていると、案の定、
「ぁ、つっ!」
香緒里は左頬を押さえて、顔をしかめている。
思わず、左で噛んでしまったらしい。
「大丈夫か、左ではあんまり噛むなって言われてただろ」
そう言うと、香緒里は、もごもご、と舌で左上を探り、
「うん、詰め物は取れてないみたい。よかったー」
と、にっこりした。食べ終わると、明日の歯医者の時間にまた香緒里を迎えに行く約束をして、別れた。

次の日。
「じゃあ、今日はどこから始めようか・・」
荻原先生が言いかけたところに、香緒里が
「あの、ちょっと聞きたいことがあるんですけど・・」といった。
「ん、なあに?」
「えっと・・この前歯、差し歯にするのは一本だけで大丈夫なんですか?」
香緒里が聞くと、萩原先生はちょっと顔を曇らせた。
「んー・・削ってみないと分からない、としか言えないわ・・」
先生はそう言うと、カルテを台においた。
「虫歯がね、浅くて小さかったら、削ってプラスチックを入れるだけで治療できるの。
これでも、きちんと詰めたら、普通に見たら分からない程度に出来るわ。
ただ、変色するから何年かに一回詰め替えないといけないけど」
先生にそう言われ、香緒里がこくんとうなずく。
「浅くても広かったら、プラスチックを詰める方法じゃ強さが足りなくなるわ。
だから、神経は残すけど、歯を細く削って、かぶせ物をかぶせることになる」
すこし不安げに香緒里がうなずく。
「で、もし神経にまでいってたら、神経を抜いて、根っこだけ残して歯を全部削って、
そこに金属の土台を差し込んでかぶせ物をかぶせる。これが差し歯ね」
説明を聞いているだけなのに、香緒里は泣きそうな顔をしていた。

「1本は、詰めるだけでいけるわ。後は・・やってみないと分からないわね。
ただ、いずれにせよ、見た目はなかなかきれいに治るわ。心配しないで」
萩原先生がそう言って肩を叩くと、香緒里は不安そうにうなずいた。
「じゃあ、今日は根の治療のあと前歯の治療をしましょうか」
「はい」
香緒里がそう言うと、先生はにっこり微笑み、ユニットを倒した。

「まず土台を入れるわ。はい、あーん・・」
先生が、歯にぎゅっと土台を押し込む。
香緒里はハンカチをぎゅっと握りしめて目尻から涙を流したが、声は出さなかった。
「あれ、香緒里ちゃん、我慢強くなったわね」
萩原先生がほほえみかけると、香緒里もにこっと笑い返した。
「じゃあ、次は・・例の歯の根の治療ね」
先生がそう言うと、香緒里は一瞬びくっとしたが、おとなしく口を開けた。
先生は、蓋を取って、難しい顔をする。
「ん・・今日は、薬を詰め替えるだけにしようか」
先生はそう言うと、綿を歯から抜く。
綿は、しっとりと膿でしめっていた。
「新しいの入れるわね」
先生はそうとだけいって新しい綿を押し込むと、蓋をした。
「ぅ、くう」
「痛む?」
香緒里は、ちょっと迷ってから、首を振った。
「香緒里ちゃん。」
先生は、静かに言った。
「香緒里ちゃんの歯が痛いかどうかは、香緒里ちゃんにしかわからないの。
で、神経のところを治療しているときは、特に、痛いかどうかって重要な情報なのね。
もし、痛いのに、それを気付かずに詰めてしまったりしたら、あとで大変なことになるのよ。」
香緒里は真剣な顔で頷いている。
「だから、痛いかどうか聞いたときは、嘘はつかないで欲しいの。
抜くのがイヤだっていうのは分かってるから、そうなったらちゃんと相談するから。いい?」
ハイ、と小さく香緒里が答える。
すると、背後から、ぷっ、と吹き出す声がした。
振り向いてみると、隣の椅子で、子供の治療を終えたばかりの男の先生が、笑っていた。
この間の先生だ。
それを見た萩原先生は、赤くなって笑いながら、
「なーんて言ってもね、つい、痛くないって言っちゃうものだけどね、ダメよ。」
と、香緒里に念を押した。

「じゃ、次、前歯治しましょうか。」
「ハイ、お願いします」
「ただ、さすがに5本いっぺんにはできないわ。今日は左側をやりましょ。」
そう言って、先生は、香緒里に手鏡を持たせて、唇をめくった。香緒里がちょっと赤くなる。
「まず、この、ちょっと黒くなってる犬歯、ここね、ちょっと口開けてくれるかな、裏も黒くなってるけど。ほら。」
ミラーで、歯の裏側を見せられ、香緒里が泣きそうな顔になった。
裏側は、歯の4分の1くらいまで、かなりクッキリと黒ずんでいた。
「あと、この歯ね。」
次に、前歯の真ん中を指差す。根元に穴があいてしまっている。
やはり裏側を見せられるが、裏は穴の周りが黒くなっていた。
「大丈夫よ、こんなになってても、ちゃんと治るから。じゃ、治すわね。」
先生が、微笑みながら、椅子を倒した。
「ちょっと響くと思うけど、痛いってことはないと思うわ。でも、痛かったら手、上げてね。」
今日は、口を開ける器具は使わないらしい、と思っていると、助手がガーゼを唇の下にぐい、っと挟み込み、
左側の唇だけを大きく開かせた。
ヒュイーン、と音をさせながら、ドリルが香緒里の口の中に入る。
どうやら、裏側から削るらしい。
ウイン、イン、チュイィィィィン、
香緒里は、目をギュッとつぶったまま、おとなしく削られている。
ずいぶんと長く削っていたが、香緒里は、最後に一度呻いただけだった。
「うん、大丈夫だったわね。口ゆすいでいいわ」
先生が満足そうに言い、ガーゼを抜いて、椅子を起こした。
口をゆすいだ香緒里に、
「イーってしてみて」と言ってみる。イヤイヤながら口を開ける香緒里。
が、予想に反して、特に前から見て、穴は開いていなかった。
「黒く見えてたのは、後ろの虫歯が透けていただけなの。だから、前は残ってるわ」
先生が横から説明してくれた。
「じゃ、埋めていくわね。最初の薬だけちょっと熱くなる感じがするかもしれないけど。」
そう言って、助手が治療台に用意した薬を付けたり、風を当てたり、ペーストを埋めたりして、
最後に青い光を当てて、手際よく処置してくれた。
「はい、こっちの歯は終わったわ。」
そう言って、香緒里に手鏡を渡し、椅子を起こす。
香緒里は、おそるおそる口を開いて、鏡を見たが、その顔がパッと明るくなった。
「綺麗に治ったでしょう。」
ミラーで裏も見せてくれたが、そこには、さっきの黒ずみは見当たらなかった。
香緒里は嬉しそうだ。
「さて。次はちょっと痛いかもしれないけど・・・頑張れるわよね」
先生が香緒里を励ますように言う。
香緒里は、大きく頷いた。
「じゃあ、削っていくから。ちょっと我慢してね」
先生がそう言うと、助手がさっきと同じようにガーゼを押し込んだ。
香緒里の顔が、ちょっとこわばる。
チュイィィィィン、と同じように裏から削っていくと、香緒里の眉間にしわが寄っていく。
「ふぁ、あぁあっ・・」
痛そうな声を上げるが、先生は全く気にしていない。
「ふぅぅん・・ぁあっ・・」
ハンカチをぎゅっと握りしめ涙を流す香緒里。
「んぁああっ!」
香緒里がひときわ大きな声を上げると、先生はドリルを止めた。
「・・香緒里ちゃん。虫歯を削っていたら、神経がでちゃったわ」
先生がそう言うと、香緒里はさっと青ざめた。
「じゃ、じゃあ・・」
「神経を抜いて、差し歯にした方が良いわ。神経を抜いた歯は折れやすいし、変色もするし」
香緒里は、がっくりとうなだれた。
「・・いいかしら」
先生が念押しに聞くと、香緒里は力なくこくんとうなずいた
助手が麻酔を持ってきた。
「じゃあ、麻酔するからね」
先生はそう言うと、香緒里の歯茎にすっと針を差し入れる。
「ひぁ・・んんっ・・」
「ん、もう一本打つわね」
「あぁっ・・ん・・」
見慣れてしまった麻酔の光景である。
しばらく経つと、先生はまたドリルで香緒里の歯を削っていく。
香緒里はぎゅっと目を閉じて、痛みに耐えている。
「じゃ、神経取るから」
先生はそう言うと、例の針を手に取った。
香緒里が、びくっと身構えた。
「ちょ、ちょっと待って下さい」
俺は、声を上げた。
先生と助手が、怪訝そうにこっちを見ていた。
「痛い歯なら、神経取るの、わかるんですけど・・特に痛くなかったのに・・」
うまく言えなかった。無駄な抵抗だというのはわかっていた。
香緒里は、だまってうつむいたままだ。
「そうね、ちょっと説明が足りなかったかしら」
先生は、針を置いて、説明してくれた。
「前歯はね、奥歯よりも固い部分が薄いの。だから、神経にすぐに虫歯が達してしまうのね」
「・・なんとなく、わかります」
「で、削るのは、虫歯になっている部分なんだけど、そこを取っていたら、神経が出てしまったのよ」
「でも、痛くなったりとかそういうのが先じゃないんですか」
「痛くなくても、神経が虫歯と接してた、ってことだから、神経に菌が入っている可能性が高いわね」
「可能性ですよね」
と言ったとき、視界に、さっきの男の先生が入った。助けてくれそうな気がして、目で訴えた。
「どうかしましたか」
その人がやってきた。
「ああ、紺野先生」
やはり、紺野先生というらしい。
「上左1番のC2の齲蝕を除去していたら、露髄してしまったんです」
そう言って、萩原先生は、香緒里の歯を見せた。
穴とまわりの黒い部分は削られてなくなっていたが、かわりにそこに大きな穴が開き、
痛々しかった。
「なので、抜髄して、治療するつもりです」
萩原先生が淡々と説明する。
「ん、わかった、で、それは嫌だというのかな?」
「患者さん、香緒里ちゃんは了解してくれたんですが、この、彼氏が嫌だって」
「なるほどね。気持ちはわかる。」
紺野先生は、俺を見て、ちょっと笑ってから、萩原先生に言った。
「炎症がなければ、覆髄してみたら。」
「でも・・」萩原先生が何か言いかけるのを、
「もし、これが萩原君の歯だったら、僕はとりあえず覆髄してみると思う。自分の歯だったらどう?」
と、さえぎった。
「・・・」
「それに、この彼氏がついてるなら、大丈夫じゃないかな。」
「わかりました。やってみます。」

きょとんとしている俺と香緒里に、紺野先生が説明をしてくれた。萩原先生は、
なにやら忙しく薬を準備しているようだ。
「神経に菌が入ってるかもしれない場合、普通、神経を取ってしまうんだ。安全のためにね」
「はい」香緒里も、真剣だ。
「でも、もちろん神経は取らずに残したほうがいいから、神経がきれいで、感染が少なそうな時は、
菌を殺す薬を塗って、そのまましっかり蓋をする、っていう方法がある」
「そのほうが絶対よさそうなのに、何故、そうしないんですか」
さっき、萩原先生が、一度神経を取る、といったのがギモンだったのだ。
「いくつか理由があるんだけどね、まず、神経を取らない上に薬を塗るから、しばらく、痛むんだ、長いと1週間くらい」
「はい」
「だから、我慢できなさそうなら、やらない。あと、やってみて、やっぱりダメだった、ということもある」
「えっ・・」
「特に、しっかり蓋をしてあるから、けっこう痛くなるらしい。で、あの歯医者はダメだ、って、
患者さんが勝手によそに行って、神経を抜かれたりする。残念だけどね」
「はい・・」
「そういうわけなんだ。しばらく痛むけど、我慢できるかな?えーと、香緒里ちゃん。」
「はい、頑張ります。」
「よし。萩原君は、ちょっと怖い以外はいい歯医者だから。安心して。」
紺野先生は、香緒里の肩をポンポン、とたたくと、にっこり笑って、奥へ行ってしまった。

「この様子だと、けっこうジンジン痛いかも知れないわ。頑張れる?」
気が付くと、萩原先生がスタンバイしていた。香緒里がこくっと頷く。
「じゃ、始めましょうか」
椅子が倒される。香緒里が静かに口を開けた・・・
「ちょっとしみるわよ・・」
ガーゼを当てて、水をかける。
「ん!んんん!」
香緒里が眉根にぎゅっとしわを寄せ、うめく。
さらに、風を当てる。
「んあぁぁっぁぁん」
助手が頭を押さえたので、香緒里は足をもぞもぞさせている。痛そうだ・・
「じゃ、薬塗るからね」
小さいヘラのようなもので、薬を取って香緒里の歯に塗る。
香緒里が、びくん!と大きくはねた。
「いひゃああああい」目からは涙が流れている。
「これでよし。じゃ、蓋しちゃうわね」
先生はそう言って、さっきの歯を治した時のように、手際よく、治療を終えた。
「今は、仮の封だから、ちょっと色が白いけど。2週間経ってなんともなかったら、
こっちみたいに、自然な色でやり直すわね。」
たしかに、ちょっと白っぽいが、さっきまでの、穴の開いた歯よりはずっと綺麗だ。
喜んでいるだろうな、と、手鏡を渡された香緒里の顔をのぞきこんでみると、
やや顔をしかめている。
「香緒里、痛いのか?」
「・・うん。」
先生の顔を見ると、
「さっき紺野先生に聞いたと思うけど、2,3日から、1週間くらいは痛むと思うわ。
もし、急にズキズキ痛くなってきたら、言ってね。」
と、説明してくれた。
「じゃ、今日はこれでおしまい。また、明後日来てくれる?残りの前歯と、根の掃除するわ。」
弱々しく、ありがとうございました、と言って、香緒里が椅子を立つ。
診察室をでようとしたところで、紺野先生が出てきた。
「ホント、ありがとうございました。」
頭を下げると、
「うん、それより、彼女のこと。けっこう痛むと思うから、しっかり付いててあげて。」
と言って、送り出してくれた。

帰り道。香緒里は、しくしく泣いている。相当痛いらしい。これがしばらく続くのか・・
可哀想になって、香緒里の肩を抱き寄せた。
家に帰っても、香緒里は泣き続けていた。
「痛いよぉ・・」
痛み止めの薬をもらっていたので、飲ませたが、どうやら、効かないらしかった。
夜中になって、痛みはおさまるどころか、より強くなったらしい。
「あぁぁぁん。もうダメ・・痛いぃ・・痛いよぉ・・」
「大丈夫、2,3日我慢すればいいって言われたじゃないか」
一生懸命励ます。
「もうイヤぁぁぁ。」
「でも、差し歯になるのはイヤなんだろ」
「差し歯でいいよ・・こんなに痛いのやだよぉ」
「そんな、ちょっと頑張ってみようよ」
なだめてみたが、もう香緒里は限界のようだった。
「どんなに痛いか、わからないくせに!だいたい、私は頼んでないのに!」
・・・
よく考えてみると、そうだったかもしれない。
俺が先走って、先生に頼んで、香緒里の歯を残してもらったのだ。
「香緒里、ごめんな。明日、歯医者に行って、神経抜いて、楽にしてもらおう。」
香緒里は、泣き顔のまま、頷いた。

次の日。
朝、一番に見てもらえるように、診察時間の前に、香緒里を連れて歯医者に行った。
受け付けをしていると、紺野先生が、香緒里を見つけて、やってきた。
泣いている香緒里を見て、全てを察したようだ。
「どうした?やっぱり痛かったかな?」
黙って頷くだけで、泣いたままの香緒里の代わりに、答える。
「すみませんでした。昨日、無理言って、わざわざ残してもらったのに」
「いや、構わないよ。後で、この歯は残せたかもしれない、って思うより、
なんというか、言い方が良くないけど、本人も、しょうがなかった、って諦めがつくから。
萩原君は今、治療中だから、ちょっと待ってて。」
治療中?まだ、診察時間は始まってないはずだけど、他にも急患の人がいたのかな。
そう思って、診察室をのぞくと、紺野先生が、治療ユニットの椅子を倒しているところだった。
ふと見ると・・治療椅子に座らされているのは・・・萩原先生だ。
ドクン、ドクン・・
治療台の上には、歯の模型があって、その上に、銀歯がちょこんと乗って輝いている。
あれが、萩原先生の口に入るのか・・
俺は、傍らの香緒里のことも忘れて、二人から目が離せなくなった。
紺野先生に促され、萩原先生が口を開けて、目を閉じる。
模型から銀歯を取って、口の中へ・・・
ごくり、と唾を飲み込んだとき、目の前で、診察室のドアが閉められてしまった。
頭がくらくらした。あの二人が付き合っているのかどうか知らないが、
あんなにエロティックな光景は初めて見た気がする。
俺も、歯医者になっておけばよかった・・と、後悔した。

しばらくして、助手が「大野香緒里さん」と、呼びに来た。
診察室に入ると、萩原先生が、白衣を着て、いつもどおり待っていた。
さっきの光景が頭に浮かんで、まともに見られなかった。
萩原先生の口には、さっきの銀歯が入っているのだ。
すると、それを見透かしたように、萩原先生は、
「さっき、見たわね・・」と、いたずらっぽく笑った。が、すぐにまじめな表情に戻って、
「ま、そんなことより、香緒里ちゃん、痛む?我慢できない?」
と、香緒里に尋ねた。
香緒里が泣きながら頷く。
「そっか、じゃ、神経抜いて、治療するわね。いい?」
また、香緒里が黙って頷いた。涙がさらに溢れ出ていた。
「じゃ、麻酔するわね」
椅子が倒され、香緒里の歯茎に、針がささる。
「んっ・・あ・・」
「ちょっと我慢ね」
「んぁ!ぁぁ・・」
「はい、いいわ。しばらく待ちましょう」
そう言って、先生は、話を始めた。
「ところで、根の治療が終わった後のことなんだけど。
この間痛んだ前歯は、歯自体がやられちゃってるから、差し歯にするしかないんだけど。
こっちの歯は、一応、歯はきちんと残ってるから、残すこともできるわ。どうする?
ただ、神経を抜いてしまうと、どうしてもしばらく経って、歯が変色してしまうけど・・
差し歯が嫌っていうのであれば、それも可能だから。どうするか、考えておいて。」
香緒里は、はい、と返事をして、少し考え込んだ。
「じゃ、始めましょ」
萩原先生が、ドリルを手にした。
助手が、香緒里の歯茎に、ガーゼを押し込み、バキュームを手にする。
キュイィィィィン、という音をさせて、ドリルが香緒里の口の中に消えた。
裏側から削っていくらしい。
香緒里はすぐに、聞くだけで痛そうな声を上げて泣き出した。。
「ふぁぁあんっ・・」
「前歯は痛いのよね、がんばって。すぐ終わるから。」
と言いながらも、先生は手を止める気配はない。
「ぅぅぅ、ぁあっ・・」
香緒里は、スカートのすそをぎゅっと握りしめて、耐えている。
「んぁあっ!あぁっ!」
そのうちに、足がバタバタと動きだしたので、俺は、危ないと思って、押さえに行った。
こんなに痛い思いをするなんて・・
俺は、香緒里をもっと早くに歯医者に連れてこなかったことを後悔した。
「ん、ゃああああ」
ひときわ大きい声を出したとき、ようやく、先生がドリルを離した。
「はい、いいわ。」
口をゆすぐために起き上がった香緒里の口を見ると、
前歯の真ん中が無惨にも大きく削られていた。
そのままコントに出られそうだが、涙でぐしゃぐしゃになった香緒里に、そんなことは言えない。
少し心配になって、先生に聞いた。
「あの、この、歯の間は、治療が終わるまでそのままじゃないですよね?」
「ちゃんと埋めるから、心配しなくていいわよ。ピンクの歯にもできるのよ?」
先生は、笑って言ったが、泣いている香緒里に気付くと、真顔に戻って言った。
「大丈夫。これでいいや、って、そのまま通ってこなくなる人がいるくらい、きれいに作るからね。」
香緒里が、力なく頷く。
「今日は、神経を殺す薬を入れて、封をするわね。ここの根の治療は、次か、その次からになるわ。」
そう言って、手早く薬を詰めて、封をしたあと、
「大きいから、仮歯をつけるわね。あとでちゃんとつけるからね。」
と、型を取り、代わりに、奥から、歯の模型を持ってきた。歯の上に、ちょこんと1本、銀歯が乗っている。
「じゃ、仮歯作ってもらう間に、左の一番奥の銀、入れるわね。それから、前歯と左奥の根の掃除しましょう。」
銀歯は、前半分は根元まであるが、後ろは、薄くなっていた。
さっき見た、先生の銀歯は、歯の形をしていたような気がする。
先生、けっこうひどい虫歯に?削られたとき痛がったのかな?と、一人で興奮してしまった。
そんなことを考えてボーっとしている間に、香緒里の銀歯は、すでにはめられたらしい。
「かちかち当たる感じはする?」
と、高さを調節してもらっていた。
助手がわきにどけて、香緒里の口の中を見せてくれた。
俺が覗き込むと、香緒里が赤くなる。
このあいだまであった、真っ黒い穴はなくなっていて、かわりに、ぴかぴかの銀歯が入っていた。
「うん、綺麗になった。」
というと、萩原先生はにっこり笑って頷いている。
しかし・・
香緒里の口の中には、まだまだ治す歯が残っている。
全部治したら、口の中はギラギラになるのか・・
香緒里には悪いが、少し気持ち悪い気もする。
「じゃ、前歯からね。」
今日もまた、根の掃除が始まった。
前歯の裏の封をはずすと、
「もう神経はだいたい取ってあるから。さっきの麻酔も残ってるし、我慢できると思うわ。」
先生はそう言って、針を手にとって、掃除を始めた。
香緒里は、少し呻き声をあげながらも、
眉間にぎゅっとしわを寄せて、耐えている。
「いいわ、香緒里ちゃん、もうちょっと頑張ってね」
と、2本ほど針を変えて、さらに治療をした後、また薬を詰め、封をして、前歯の治療は終わった。
「もう一回くらい掃除をすれば、きれいになるわ。そうしたら削って、型取りするからね。」
と、先生は言った。ようやく、黒ずんだ前歯を治してもらえるというのに、
香緒里はやはりショックなのか、少しうつむいたままだった。
「じゃあ、左上ね。」
例の歯だ。香緒里が硬くなるのがわかった。

香緒里が口を開ける。
仮の蓋をはずし、綿を抜くと、綿はやや緑がかった黄色い膿で濡れていた。
先生は、「ん・・」と、少し難しい顔になった。
「香緒里ちゃん、この歯、まだ痛む?」
香緒里は一瞬動揺して、目を泳がせたが、先生に見つめられ、
「・・少し。」
と、小さな声で言った。
「どのくらい?痛み止めは必要?」
「・・飲んでます」
「そう。」
重苦しい沈黙が流れた。
耐え切れずに、俺は口を開いた。
「抜かないとダメなんでしょうか」
その言葉に、香緒里がびくっとして、不安そうに先生の口を見つめる。
「うーん、実のところ、かなり難しい状態なのよね、やっぱりまた膿んでるみたいだから・・・」
香緒里の目にまた涙が溜まってくる。
「でも、香緒里ちゃんは、抜きたくないのよね?」
香緒里が頷く。
「ここは、いつ取れたの?」
「高2のときです・・」
「じゃあ、2年くらい放っておいたわけね」
ふう、と、ため息をつきながら、先生が考え込むような表情になる。
やっぱり、ダメなんだろうか・・
「ま、奥のつめものも入れたばっかりだし、もうちょっと頑張ってみるわね・・・」
先生にしては歯切れの悪い言葉だった。
「はい、じゃ、口開けて。やるからには香緒里ちゃんも頑張ってね」
いつもの先生に戻り、治療が始まった。
ぐいぐい、と先生が針を押し込んでいく。
「ああっ! んぁ!」
香緒里が呻く。
「やっぱり、これだけ痛むとなると・・もうちょっと我慢してねー」
先生は手を休めずに言った。
「んんんん!んくぅ、うううう」
香緒里の呻き声も続いていた。
2,3分はそうしていただろうか。
ようやく先生は体を起こすと、
「今日はこれでいいわ。薬をちょっと強くしてみるから、今晩はしみるかもしれないけど。我慢してね。」
と言って綿に薬をつけて、香緒里の歯に押し込み、蓋をかぶせた。
香緒里は、綿が押し込まれたとき、大きく顔を歪めた。しみるのだろう。
蓋をしてもらっても、少し顔をしかめたままだ。
「あとは・・前歯の仮歯よね。そのままじゃ帰れないわ」
そういえば、そうだった。
助手が、奥からトレイを持ってきた。
「はい、じゃ、いーってして。」
軽く香緒里が口を開けたところを、助手が唇をめくり上げる。
無残にも前歯の真ん中に大きな穴を開けられたまま、歯茎が見えるまで唇をめくられている香緒里は、
俺と目が合って、泣きそうな顔になった。
見ないで・・と、目で訴えているようだ。
気持ちはわかったが、なぜか目が離せず、そのまま見ていると、
香緒里は観念したように目を閉じた。目じりからつーっと涙がこぼれる。
「じゃ、少し乾かすわね」
先生がシュッ、シュー、と風を当てると、香緒里の体がびくん、と跳ねた。
「まだ神経が残ってるからね・・もうちょっと我慢してね」
かまわず、先生は風を当て、香緒里は喉の奥から呻き声を上げた。
「んんんっ、んんーっ」
「いいわ。じゃ、つけるわね」
先生が言うと、助手が、透明な入れ物を差し出した。中に、小さい白いものが入っている。
先生は、ピンセットでそれをつまみ、ちょん、とセメントのようなものをつけると、
香緒里の穴の開いた前歯に押し付けた。
「んん」
またも香緒里は痛そうに呻いたが、先生はそのまま押さえつけている。
「噛んでてね、って言えないのよ、前は。」
不思議そうに見ている俺に、先生は笑いかけた。なるほど。
「はい、いいわ」
しばらくたって、先生が手を離し、香緒里の歯を見た俺は少し驚いた。うまくできてる。
色も思っていたより自然だった。
助手が手鏡を香緒里に渡す。
鏡に向かっていー、っとした香緒里は、ホッとしたような顔になった。
「案外綺麗でしょう。でも、忘れないでね。仮の歯だから、強く噛んだりしちゃダメよ。」
先生が念を押し、椅子を起こした。
「じゃあ、次は3日後ね。もちろん、痛くなったらいつでもすぐ来てね。痛み止めもまた出しておくけど」
「はい、ありがとうございました」
その日は、薬をもらって、香緒里の家に帰った。

先生の言ったとおり、その日と翌日は、左上の奥歯に詰めた薬と、新しく治療を始めた前歯がしみるらしく、
香緒里は薬を飲んで辛そうにしていた。
次の日、ようやく少し元気になったと思ったが、夕方になって、また、左頬を押さえて泣き始めた。
「痛いよぉ」
「まだ痛むの?」
「うん・・違うの、その前の歯みたい・・・」
「見せて」
と言うと、香緒里はおとなしく口を開けて上を向いた。
ペンライトを手に、のぞきこむ。
「ちょっと見にくいな、こうしよう」
香緒里の頭をひざの上に乗せる。
光を当てると、一番奥に入った大きな銀歯が、ギラリと光った。
その手前、ほとんど歯のないところには、やけに白いゴムのような封がされている。
「根の治療してるところの、前?」
香緒里が口を開けたまま、目で頷く。
その歯は、後ろから、かなり大きな穴が開いている。
今治療中の歯が酷いので、気にしていなかったのだろうが、この歯も、たしかにかなり痛そうだ。
何度も歯医者に行った気がするが、ざっと見てみると、まだほとんど治療は済んでいなかった。
「うん、これは痛いかもね、どうする、香緒里。歯医者さん、まだ開いてると思うけど」
体を起こした香緒里は、
「・・行く」
と、小さな声で言った。よほど痛むのだろう。
以前のように、歯医者に行くのを嫌がるということがなくなったのはいいが、
痛くて行かずにはいられないという状況になっているのだ。
左上が痛くなって治療に通い始めてから、その奥、右上の古い銀歯、左の前歯、今日の歯と、
新しく痛み始めたのはこれで4本目だ。

香緒里を連れて、歯医者に向かった。
受付をのぞくと、助手があれっという顔をした。
「今日だっけ?あ、痛むのかな?」
香緒里が、泣いたまま頷く。
「今萩原先生終わったところだから、ちょうどいいわ」
直接、診察室に通される。
空いた椅子に座ると、手を洗い終わった萩原先生がやってきた。
「痛いの?」
心配そうに、香緒里の泣き顔を覗き込む。
「あの、治療してるとこじゃなくて、その前が痛むらしいんです」
思わず横から口を出してしまった。
「あ、新しく痛み出したのね、ちょっと見せて」
先生はやや厳しい顔になって、椅子を倒した。
「んー、ここね。もうちょっと大丈夫かと思ったんだけど・・ちょっと治療中の歯が多くなっちゃうけど、
しょうがないわ、ここも治療に入りましょう」
横では、すでに助手が器具を用意し始めていた。
「とりあえず、麻酔するわね」
香緒里はおとなしく口を開け、目を閉じた。
針が刺さるとき、少し顔をしかめたが、以前のように声を上げることも、涙を流すこともなかった。
「じゃあ、麻酔が効くまでの間に、えーと、右上の土台入れたところ。歯茎が落ち着いてきてるから、型取りましょう。」
助手が用意したゴムの型を、上下に噛まされる香緒里。
「上下なんですか?」
「ここに入れるのは、クラウンって言って、歯がないところに歯の形の銀歯をかぶせるから、
下の歯がどうなってるかもわからないと、作れないのよ」
たしかにそこは、歯は根だけになり、今は金属の棒のようなものが立っているだけの、無惨な姿だ。
「治療中の歯が多いと、ダメなんですか?」
俺は、さらに、さっき気になったことを聞いた。
「ダメって言うことはないけれど、治療が大変だから。特に、香緒里ちゃんの歯は、今、
この左上と、前歯2本、全部が根の治療中でしょう。
根の治療は、治療としては大掛かりだから。それを何本も、となるとね。」
「普通はやらないんですか」
「まあ、あんまり、そんな状態にならないってこともあるけど、
もし根の治療が多くなっても、1,2本、少しずつ進めることが多いわ。
でも、香緒里ちゃんの場合、ゆっくりしているうちに、他の歯が痛み出したりすると困るから」
横で聞いている香緒里が怯えた表情をした。
まだ、他に痛み出すかもしれないのか・・
「でも、次で、右上は治るから、左右両方治療中っていう状態はひとまず、終わるわ。」
本当にひとまず、でしかなかったことを後で知ることになるのだが・・
そうしているうちに、型取りが終わった。変な味がするのか、香緒里は口をゆすいだが、
麻酔のせいで、左側から水がダラダラとこぼれる。
「麻酔も効いてきたみたいね、じゃ、始めましょう。途中で痛くなったらまた麻酔するから。言ってね」
先生がそう言って、その日の治療が始まった・・

チュィーン。ドリルが音を立てて、香緒里の口の中に入っていく。
シュイン、シュイン、シュイィィィィン、
すぐに、診察室に、香緒里の歯を削る音だけが響き始めた。
診察時間の終わり近くになって駆け込んだので、他の患者さんはもう終わって帰ってしまい、
ここには、香緒里と俺の他は、萩原先生と美人助手しかいないのだった。
キュィィィィン、キュィィィィィィン。
ときどき、ジュボボ、という、バキュームの音が混じる。
キュィイイイイイイイン
さすがに大きかっただけあって、ずいぶん長いな。
そう思っていると、香緒里が声を上げ始めた。
「ん、んぁあああ、ああっ」
「もうちょっと頑張って・・」
助手が横から励ます。
シュィィン、キュィィィィン・・
「ぅぅうううっ、んぁ!」
シュィィィィイン、シュィィィィィィィィィィン
「あぅっ」
香緒里の足が動き始めた。
「あー、やっぱりこっちも広がってる、か・・」
先生はそう言うと、ドリルを止めた。
シュゥゥゥン。
「金子さん、麻酔、もう1本追加してくれる」
助手が、麻酔を取りに行った。
「とりあえず、うがいして」
先生が、椅子を起こす。香緒里が水を口の端からこぼしながらうがいをし終わると、
先生が手鏡を手渡した。
「あのね。口開けてみてくれる。」
ミラーで、手鏡に歯をうつしながら説明してくれた。
「後ろ半分に大きな穴が開いてたんだけど、削ってみたら、中で、前の方にも穴が広がってたわ」
歯には、全体に大きく茶色い穴が、口を開けていた。
これは・・・ひどい。見るからに痛そうだ。
香緒里を見ると、鏡を凝視したまま、涙ぐんでいる。
「だから、もうちょっと削るわね。もう1本、麻酔打つから。」
ふたたび椅子が倒され、麻酔が打たれた。
「んっ・・あぁ・・うぅぅ」
香緒里は、今度は顔をしかめ、声を上げた。
「麻酔が効くまでちょっと待ってね」
器具を整理しながら萩原先生が香緒里に声をかけた。
香緒里は返事をせず、ただ萩原先生の顔を見つめている。
「…どうかした?」
それに気づいて、萩原先生が香緒里に聞いた。
「あの…さっき、他の歯が痛み出す、って…」
「ああ、あのね、今から削る歯も、院長が見たときはC2だったの。
 でも削ってみたら中で大きく広がってたでしょう?
 虫歯って、表面より中の方が広がってることが多いから、
 見た目より進んでることが多いのね。
 そうすると歯磨きしても届かないし、磨くと痛いから、って、
 更におろそかになっちゃうし…。
 他の歯も、ここに最初に来たときよりは進んじゃってると思うわ。
 早く直したいんだけどさっきも言ったように大がかりになっちゃうからね。」
「……あの、…」
香緒里が何か言いかけてやめた。荻原先生は見逃さない。
「もしかしてまだどこか痛むの?」
「……右の、下が時々…」
「あら、えーと、一番奥?」
「…はい」
荻原先生はカルテの表紙の裏からレントゲンを取り出し、光にかざして見た。
「うーん、確かにちょっとぎりぎりだなあ。」
「治せますか?」
「そりゃ治せるけど…時々痛いのよね?」
「…はい」
こりゃ、時々じゃないかもしれないな…と横で聞いて思ってしまう。
香緒里は酷く痛くならないと、痛いって事をちゃんと伝えない、ということが、
最近わかってきた。
「根の治療って、香緒里ちゃんの体が元気じゃないとできないの。あんまり何本もやると、
 体が疲れちゃって、せっかく根の掃除をしても腫れちゃったりするのね。
 香緒里ちゃんはここのところずっと根の治療だから、無理すると良くないのよ。
 とはいえねえ…歯が痛いとスタミナのつくものも食べられないだろうし、
 睡眠不足になって、体力なくなる一方なのよね……。
 もうちょっと早く来てくれたら……。」
萩原先生が愚痴を言うなんて、よほど困っているんだろう。
前にも同じフレーズを聴いたような気がするが、
それは医者として患者を叱っていただけで、今みたいに困ってる風ではなかった。
「…ごめんなさい」
香緒里にもそれがわかったのか、涙ぐみながらつぶやいた。
「いいのよ。起こってしまったことは仕方ないし、もっと酷い人もたまにいるのよ」
荻原先生があわてて言う。
「そういうときはどうするんですか?」
気になって口を挟んでみた。
「んー、まあ、そういう人はほとんどがお年を召した方だから、
 無理せず抜いてしまって入れ歯にすることが多いわね。
 頑張っても残せない、っていうのもあるけど。」
やっぱり香緒里みたいな、若くて歯がボロボロの人はいないみたいだ。
「左上を抜けば治療がスムーズになるけど、嫌なのよね?」
荻原先生が香緒里に聞く。
「…はい。」
「じゃあ、薬多めに出すから、右はもうちょっと頑張れるかな?
 まだ神経まで行ってないかもしれないけど削ってみないとわからないし、
 削ってしまってもし神経まで行ってたら、ちょっと大変になっちゃうからね。
 さあ、もう麻酔も効いたと思うし、削っていくわね。」
そういうと、荻原先生は再びタービンを手に取った。
先をちょっとチェックして、別の少し大きいものに取り替えている。
「じゃあ、ちょっと長くなるけど、麻酔は十分なはずだから。痛くないわ。アーン。」
先生は、暗示をかけるように香緒里に言って、削り始めた。
キュィィィィン、キュィィィィィィン、
キュィイイイイイイイン、ウィン、ウィン、ウィイイイイン、
たしかに長い。あれだけの大きい虫歯を削り取るのだから、当然か。
「んー、んぅぅ、ぅぅぅ」
香緒里が、うめき声を上げた。
「ちょっと響くだろうけど、痛くないはずよ、我慢してね」
先生が、真剣な顔のまま、声をかける。
シュィィン、キュィィィィン・・
「金子さん」
とだけ先生が言うと、助手は心得たように、別の、いつも空気を当てるときに使っている器具を取り、
香緒里の口に入れた。どうも水をかけて洗っている?らしい。
キュィィィィン、キュィイイン、シュッ、ジュボボボボボ、キュィィィン、キュィィィイン・・・
香緒里は、大きく開けた口の中にミラー、タービン、バキューム、さらに水をかけるための管を突っ込まれ、
あられもない姿で目をぎゅっとつぶって、耐えている。
「んぁああ、ぁぁああ」
喉の奥から、呻き声も洩れている。やはり痛いのだろうか、目尻から涙もにじんでいた。
「香緒里ちゃん、もうちょっと口開けて」
口を開けていた助手の片手がはずされたせいか、口を閉じかけてしまうらしい。
キュィィィィン、キュィィィン、シュゥゥゥゥ。ジュボボボボッ、ボボ。
それからさらに削る作業は続き、数分たって、ようやく、タービンの音がやんだ。
先生も助手も、ふぅ、とため息をついている。
香緒里の顔も、涙で濡れていた。
「はい、いいわ。」
椅子が起こされ、水をこぼしながら、なんとかうがいをする香緒里。
「今日は、ここは薬を塗って閉じるだけにするわね。」
ふたたび椅子が倒され、香緒里は口を開けた。
先生が、ミラーでたんねんにチェックしている。
唇が大きく横に引かれ、香緒里の口の左上がむき出しになった。
一番奥に大きな銀歯。その前の歯は、2本続けて、なくなっている。
今日の歯も、大きく削られてしまったようだ。
「うーん」
先生が、困ったような声を出した。
「やっぱり、この前の歯にも虫歯が続いてるわ。もともと、かみ合わせのところの小さい虫歯だから
最後まで置いておこうと思ったんだけど、今日のところに歯が入るまでには治さないといけないわね。」
「大きいんですか」
思わず、聞いてしまった。
「それほどでもないわ。外から見えなかったくらいだから。まだ、痛み出すことはないわよ」
それを聞いて、ホッとした。
「じゃ、とりあえず閉じるわね」
先生は、手早く薬を詰め、封をした。
「休憩したら、前歯・・2番目の方と、左上、根の治療しましょう。一番前は、もう少し置いて。今のところ、そのくらいよね」
先生は、カルテを見ながら確認した。椅子を起こしながら、先生が治療方針を説明してくれる。
「今日の歯はね、また、しばらく、根の治療をして、クラウンをかぶせることになるわ。2番目の前歯は、
今日きれいになってれば、次、削って型を取っていけるから」
香緒里は、黙って、頷いた。
助手が、神経の治療の器具をトレイに並べていく。
先生は、カルテに書きながら、ページをめくって、いろいろ眺めている。
まだ1ヶ月も通っていないはずだが、すでに、いろいろ書き込まれている。
「香緒里ちゃん、さっきの、痛いって言ったところ、正直に言って、どのくらい痛むの?」
唐突に先生が聞いた。香緒里を見ると、こっちをちらっと伺うような顔をしてから、答えた。
「なんとなく、痛いんです。」
「時々じゃないのね」
「・・・はい。」
やっぱり。少し呆れて、ため息をついてしまったらしい。香緒里が、あわてて続ける。
「でも、泣くほど強くいつも痛むわけじゃなくて」
「でも、時々痛みが強くなるのね」
先生もわかっているらしい。
「・・・はい・・」
「他はどう?」
香緒里がびくっとする。・・・他にもあるらしい。
「右上の、一番前はどう?」
「そこは大丈夫です」
少しホッとしたように、香緒里が答える。
「右下は?」
「時々・・・」
「うーん、ちょっと、見せてもらえる?」
「・・はい」
椅子が倒され、香緒里の口の中が、ライトで照らし出された。

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