・・・痛い。
「ごめん、遅くなっちゃうな。…怒ってる?」
運転席の裕斗が、心配そうに聞く。
怒ってはいない。ただ、歯が、痛かった。
他の事を考えよう、と思って外を見ていたが、
あたりはだんだん暗くなってきて、景色が見えない。
山道のせいか、車はよく揺れる。
山を降りるときに、痛み止め、飲んだはずなんだけど・・
数ヶ月前から痛み出した、左上の奥歯は、最近では、痛み止めを飲んでも
すぐに効き目が切れてしまう。
せっかく裕斗とドライブに来たのに、もっと楽しまなきゃ。
そう思った瞬間、車が大きくはねた。
ガタン、という振動が歯に伝わり、強い痛みが香緒里を襲った。
このまま揺れが続いたら、耐えられそうになかった。
「…停めて」
「どうした?酔ったのか?」
車を停め、心配そうにのぞきこむ裕斗に、
「……頭が、痛くて」
とごまかした。
ちょっと休めば大丈夫。今までもそうだったもん。
裕斗に、歯が痛いなんて、恥ずかしくて言いたくなかった。
虫歯がたくさんあることがばれて、汚い子だと思われたら困る。
さっきの振動の痛みが、まだ左の上あごで響いている。
ズン、ズン、ズン・・
口をきくのも億劫になり、シートを倒して、横になった。
裕斗が、心配そうに、
「これでも飲んで寝てなよ」
と、熱いお茶を差し出してくれた。
お茶なんて飲む気分ではなかったが、はねつけるのも悪いし、
冷たくないから、大丈夫よね・・
そう思って、慎重に、一口飲んだ、そのとき。
ズキーン。
左下、冬に小さい穴が開いているのを見つけた歯に、ガツンとしみた。
「んっ」
思わず、お茶を落とし、左頬を押さえる。
「頭じゃなくて、歯が痛いんじゃないの?」
どうしよう、ばれた・・嫌われる・・
香緒里は、頭が真っ白になった。
なぜか、涙が溢れてくる。
「…ちょっと見せてみろよ」
有無を言わせない裕斗の口調に、口を小さく開けた。
裕斗が、ルームライトをつけながら、口の中をのぞきこむ。
「どこ?」
さっきのしみた歯は、もう痛みがおさまっていたが、
痛む上の歯は・・・あの、ぐちゃぐちゃになった汚い歯は、見せるわけにはいかなかった。
「こ、この辺・・」
左下の歯を指差すと、裕斗は、真剣な顔で、じっと見ている。
そんなに、じっくり見ないで・・
恥ずかしさと痛みで、頭がおかしくなりそうだった。
もうやめて・・
すると突然、裕斗が、熱いお茶を、左下の歯に落とした。
「あ、あああっ」
痛みが、頭に突き抜け、思わず睨み付ける。
「ごめんごめん」
裕斗が、左頬をさすってくれながらも、
「見た目小さい虫歯だけど、きっと中で広がっちゃってるよ。
 ずいぶん放っておいたでしょ。」
と言った。
香緒里は、真っ赤になった。裕斗の顔をまともに見られず、うつむく。
すると、下から覗きこむようにして、裕斗が唇を合わせてきた。
いつもより強引に、舌が奥まで入ってくる・・・と思ったら、
左下の歯を、舌先でつつかれた。
「んッッ」
痛みはそれほどでもなかったが、舌で触られては、けっこう大きな虫歯なのが、バレてしまう。
とっさに顎を引いて避けたが、遅かった。
「舌で触ったらけっこう大きいじゃない。いつから気付いてたの?」
いちばん痛いところをなじられ、香緒里は、首を振るしかなかった。
なぐさめてくれるつもりなのか、裕斗はまたキスをしてくれたが・・
すぐに離れると、
「この前歯の裏も、引っかかるよ?」
と、言った。
絶望的な気分になりながらも、必死に抵抗する。
「嘘よ。痛くないし。」
しかし、裕斗は不審そうな目で見ているだけだ。
お願い。そんな目で見ないで。
「見てみよう。もっかい見せて。」
裕斗のまっすぐな目に見据えられて、香緒里は抵抗できず、
唇を小さく開け、裕斗の方を向いた。
でも、前からは、そんなに見えないはずよね・・・それに、暗いし・・・
自分に言い聞かせて落ち着こうとしていると、
裕斗はどこから取り出したのか、ペンライトを手に持っている。
カッ、と明るい光が自分の口に向けられ、
その光が、歯医者の椅子に座ったときのことを思い出させた。
香緒里は、目を細め、体を固くした。
「けっこう大きいよ。」
前からでも・・見えちゃうんだ・・
「隣の歯も…。あぁ、反対側の歯の間も、黒い…かも」
どうしよう、虫歯、広がっちゃってるんだ・・・
香緒里は、怖くなってきた。
「他にもあるんじゃないの。口あけて、全部見せて。」
裕斗に言われ、とっさに口を閉じかけるが、裕斗の指に押さえられた。
「意地悪じゃなくて、心配してるんだよ?」
本当に心配してくれているような裕斗の視線に、香緒里は観念した。
控えめに、口を開けたが、ぐいっと大きく開かされてしまった。
ペンライトの熱で、奥まで見られているのがわかる。
やっぱり、恥ずかしいよぉ・・
もうやめて、と言おうと思った瞬間、裕斗の声がした。
「けっこうたくさん、虫歯、あるんだね」
もうダメ・・・嫌われた・・・恥ずかしい・・・
とっさに逃げようとしたが、押さえつけられた。
さらに、左側だけじゃなく、右側もじっくり見ているようだ。
右は・・たしか奥が虫歯だった・・でも、向こう側だから見えないはずよね・・・
それでも、裕斗は、難しい顔をして、一生懸命見ている。
もう・・・恥ずかしい・・・
虫歯だらけの口の中を、裕斗にじっくり見られている、と改めて思うと、
香緒里は少し、下半身がもぞもぞしてきた。
何だろう、これは・・・
「痛いのは、さっきの歯だけ…じゃないよね。」
嘘つき、となじられているような気分だった。
「またお茶で確かめてみる?」
さっきの痛みがよみがえってきて、とっさに、
「やッ」
と抵抗する。涙がこぼれた。
「本当に、心配なんだよ。こんなに、虫歯だらけで。痛くないの?」
虫歯だらけ。
裕斗に言われ、びくん、と反応する。
「痛いなら、言いなよ?」
心配そうな、裕斗の口調。
ふと、あの、汚い歯も、見てほしいような気がした。
「やっぱり痛いんだね。どこ?一番奥?右?」
思い切って、左上を指差した。
シートが倒され、裕斗が、下から覗く。
されるがまま、という状況に、少しドキドキした。
が・・・
「何だよこれ!」
裕斗が叫んだ。
・・やっぱり、見せなければ良かった!
何か言い訳しなきゃ、と思いながら、後悔で、涙があふれてきた。
「銀歯が…取れちゃって…でも、歯医者は嫌だから…」
「痛いよな、これは」
裕斗が、心配そうに言う。
汚いとは、思ってないの?もしかして、心配してくれてる?
泣いたせいで、頭に血が昇って、痛みはさっきよりも増していた。
頭がうまく回らない。
もしかして、裕斗なら、隠さなくても、大丈夫かな・・・優しいもん・・見せちゃおうかな・・
そう思ったとき。
「なんで、こんなになるまで放っておいたのさ。」
残酷な一言が降って来た。
そんなこと言ったって・・・
「嫌なの。」
わかってよ・・香緒里は、ますます泣きたくなった。
「だいたいそんなに虫歯だらけになるなんて、」
虫歯だらけ。
さっきも言われたが、その恥ずかしさに、香緒里はぼぅっとなった。
気が付くと、裕斗の前で、大きく口を開いていた・・・

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