まただわ・・
ドクン、ドクン、と、脈に合わせるように、前歯が痛み出す。
志穂は、足がきちんと合わさっているか気にしつつも、思わず、
右のにぎりこぶしで、鼻の下を、ぐっと抑えた。
こうしても、痛みが軽くなるわけではないとわかっていながら。
志穂は、国内線の客室乗務員だ。
先々週あたりから、テイクオフとランディングの時に、時々、前歯が痛むようになっていた。
気圧のせいだろうか。
上空で勤務しているときと、地上に帰ってからはなんともないし、不規則な勤務のために、
歯科診療室に行かれないので、なんとなく忘れてしまっている。
会社の施設なのに、診療室は、志穂たちがほとんど訪れない本社ビルにあり、
しかも、診療時間は、一般の職員しか通えないような時間のみなのだ。
少し気にしつつも、今日も、離陸前の点検を済ませ、
乗務員用のジャンプシートに座り、離陸して間もなくのことだった。
痛い・・・早く水平飛行にならないかしら・・・
思わず、少し顔をしかめながら、志穂は痛みが消えることを願った。
いつもなら、向かいの客席に座る乗客に愛想笑いをしているところなのだが。
向かいの乗客が今日は女性で、志穂のほうをちらっと見ただけで、特に興味もなさそうにしているのが
今日はありがたかった。
ポーン。
ベルトの着用サインが消え、ようやく、痛みもトク、トク、くらいにおさまってきた。
「失礼します」
会釈して立ち上がり、業務に向かう。空の上の乗務員は忙しい。
時間の短い国内線なら、なおさらだ。
しばらくして、痛みもなくなり、志穂は、笑顔でドリンクをサービスし、
いつもどおりの業務をこなした。
今日は空いているから、少し楽ね。
そんな会話を交わしつつも、また片付け、点検を終えると、すぐに着陸態勢だった。
「失礼致します」
会釈して、ジャンプシートに戻る。今日の向かいの乗客は、一人だった。
いつものくせで、志穂は観察する。
この人、何してるのかしら。服は高そうだわ。
乗客は、やはり、興味がなさそうな顔で機内誌をめくっている。
だいぶん降りてきたわ、今回は大丈夫かしら、と思ったとき。
ズキン、ズキン、ズキン。
また、前歯が痛み始めた。思わず、
「んっ」
と声を出してしまい、咳払いの振りをしてごまかす。
またも痛む歯のあたりを押さえながら、
必死に制服の縫い目を数えたりして、気を紛らわそうと思うが、
痛みは軽くなってはくれなかった。
ゴトン。
着地の衝撃が、歯に響いた。頭に突き抜けるような痛みだった。
思わず目をつぶって、痛みに耐える。
こんなことは初めてだ。明日と明後日はオフだし、今から歯医者に行こう。
志穂は思ったが、時計を見ると、夜の8時を過ぎていた。
絶望的な気分になったが、また、地上につけば、痛みが消える、と思い出し、
少し落ち着くことにした。
ゴトゴトと、飛行機は空港内を走っている。
「あなた」
脈打つような痛みは消えたものの、さっきの衝撃の名残が重く残っている中で、
志穂は向かいの乗客に話しかけられた。
「はい?」
失念していた、営業用の笑顔で返す。
「歯が痛いんじゃないの?」
思わぬところを突かれ、言葉を返せずにいる志穂に、乗客が続けた。
「私、XXビルで歯科クリニックをしています。これからオフィスに戻って、
10時くらいまで用事をしているから、つらいなら、連絡下さい」
そう言って、ハンドバッグから、名刺を取り出し、志穂に手渡した。
歯科医 白石 久美 という名前と、クリニックの住所が書かれていた。
志穂の歯は、大口を開けても白い歯が並ぶ、綺麗な歯だった。
が、実際は、客室乗務員の試験のために、奥歯にあった、少なくはない銀歯を、
すべて白いつめものに変えていたのだった。
歯学部の学生だった当時の彼氏の、
「歯には金属のほうがいいんだって。君の歯の治療はしっかりされているし、変えるべきじゃないよ」
という忠告を振り切って、志穂は夢を選んだ。
が、白くする治療は、安くはなかったので、志穂は、あちこちの歯科医を回って、
破格に安く、白いプラスチックで治してくれるところを探したのだった。
その後、白い歯のおかげで(と志穂は思っていた)あこがれの客室乗務員にも合格した。
前歯は、その歯科で虫歯が見つかり、裏から大きく削られて、レジンで埋められたものだ。
乗務後のデブリーフィングも無事に済み、着替え終わる頃には、歯の痛みはすっかり消えていた。
手帳にはさんだ久美の名刺を見たとき、一瞬、迷ったが、
「んー、今日は遅いし、いいかな・・」
歯医者には行かずに、帰ろう、と思った。
「お疲れ様です」
部屋を出ようとしたとき、チーフパーサーの智子に声をかけられた。
「町田さん」
「はい」
「具合でも悪いの?今ね、今日の行きのフライトのお客様が、
向かいのアテンダントが気分が悪そうだった、って
知らせてきて下さったのだけれど。そのアテンダント、あなたなのよ。
具合が悪いなら、次の乗務は休んで、検診に行ってもらうわ」
智子の鋭い目で見つめられ、志穂は困った。
実は、客室乗務員は、乗務が減れば収入が減ってしまう。どこも悪くないのに、検診に行かされるのも面倒だ。
歯の痛みなら、たいしたことにはならないだろう。そう思って、志穂は、
「ちょっと、歯が痛くて・・」
と答えた。
「歯?じゃあすぐに歯医者に行きなさい、明日はオフね?」
「はい、でも、テイクオフとランディングの時だけなんです、きっと・・」
「だめよ。何もないのに痛むわけないでしょう。それに、お客様のお向かいにいる時じゃないの。
事故も起こりやすいときなのに、そのときに歯が痛くて使えませんじゃ困るわ。
いいわ、私の妹がXXビルで歯医者をやってるの。まだいると思うわ。一緒に行きましょう」
・・・XXビル。
結局、志穂は、智子に引っ張られるようにして、久美のクリニックを訪れることになったのだった。
「久美、久しぶりね」
「あ、お姉さん。実は私、今日、さっきのフライト乗ってたのよ。福岡で学会があって。」
「声かけてくれればよかったのに」
「だって、私、普通席だったもの」
楽しそうに会話する姉妹の横で、志穂は、落ち着かない気分だった。
「あ、こんにちは。さっきの。」
久美の方で気が付き、志穂に声をかけた。
「はい。」
「あら、顔見知り?この子が、歯が痛いっていうので連れて来たの。見てくれる?」
「さっき、私の向かいだったの。痛むの?いいわよ。どうぞ。」
久美は、歯痛に苦しむ志穂を見たことはおくびにも出さず、診察室に二人を案内した。
「治療することになったら、お姉さん、手伝ってね」
えっ。
智子は帰るとばかり思っていた志穂は、驚いた。
「大丈夫よ、うちの父も歯科医でね、昔はよく手伝ったんだから」
と智子は言ったが、そういう問題ではない。
正直なところ、他人に口の中を見られるというのは、屈辱的な気がするものだ。
それが、大口を開けているところを観察されるというのだから・・
しかも、チーフというのは、一番弱みを知られたくない相手だ。
志穂が立ち止まっていると、
「どうぞ。ここよ。」
久美が手招きする。仕方ない。観念して、志穂は椅子に座り、言われるがままにリップをぬぐい、
エプロンをかけられた。
「で、どこが痛むのかしら。」
久美が、顔をのぞきこむようにして聞いてくる。
「あの、前歯、です。でも、ふだんは痛くなくて」
左側に立つ智子がプレッシャーだ・・
つい、言い訳口調になってしまった。
「じゃあ、見ましょう。お椅子、倒しますね」
ウィーン、という音とともに、椅子が倒され、ライトがつけられる。
「はい、あーん」
久美が、かちゃり、と、ミラーを取り、口を開けるよう促す。
仕方なく、口を開ける志穂。ミラーが差し込まれる。
なぜか智子も覗き込んでくる。
ちょっと、見ないで・・
志穂は思ったが、何も言うことはできない。
「あぁ」
久美がため息をつくのと、
「あらまあ」
智子が声を出すのは同時だった。
何、なんなの!!
いたたまれなさとその声に対する不安で、志穂は泣きそうな気分になった。
「お姉さん、静かにしてね」
久美がたしなめ、志穂に手鏡を渡した。
志穂は、そこにうつる自分の前歯の裏側を見て、あっ、と声をあげそうになった。
不自然に白い部分と、その周囲の茶色い溝。さらに黒い影が、歯の裏全体、そして両隣の歯にも広がっている。
志穂の目にも、虫歯、それもかなり大きい虫歯であることは明らかだった。
「この歯、ね。レジン、ってプラスチックで治療してあるんだけど」
久美が、探針で白い部分を示す。
「そのまわりに虫歯ができて広がっちゃってるの。幸いというか不幸というか、表からはほとんどわからないから
かなり大きいのに、気が付かなかったんだと思うわ」
志穂の口を閉じさせ、上唇をめくると、さらに久美は続けた。
「注意して見れば、隣の歯、ここね、端の色が変わっているのに気が付いたはずだけど、ま、そんなに暇じゃないわね」
かすかに責めるような、詳しい説明を聞き、志穂は、思わず左に立つ智子を上目遣いで見上げた。
怒ったような、ほら見なさい、というような顔をしている。
志穂は、昔、歯医者についてきた母を思い出した。
そうだ、母はこんな顔をして治療台の横に立ち、帰る道すがら、志穂は叱られたのだ。
「もう。あんなに虫歯にして。女の子なのに、みっともないったら」
そのことを思い出し、志穂は嫌な気分になった。
「この歯は、早く治療しないといけないと思いますけど」
久美の声に、志穂は我に返り、右を見た。
椅子を起こしながら、久美が続けた。
「どうですか、今日、少し遅いですけど治療して大丈夫ですか、私は明日休みなので。」
時計はちょうど10時だった。
志穂は、お願いします、と言うしかなかったが、気になっていたことを聞いた。
「あの・・どういう治療になるんでしょう」
「真ん中の歯は、時々とはいえ、かなり痛むようですから、おそらく神経まで虫歯が進んでいると思います。
なので、神経を取って、きれいにして、歯を削って、新しい歯をかぶせることになります」
見られていないと思っていたが、フライト中、志穂が痛がっているところはきちんと見ていたのだ。
「かぶせる、というと・・」
「一般には、差し歯、って言われてますね」
差し歯・・・まだ25歳前なのに・・・志穂は、それだけは嫌だった。昔の彼が、
「差し歯にしたら根が負けてしまって、結局、何十年か経ったら抜くことになる」
と言っていた。別れても、そんなことは心に残っているのだった。
「でも、外側はなんともないですよね。残せないんですか」
悲痛な顔になった志穂を見て、久美はむしろ微笑むようにして言った。
「神経を取ってしまうと、歯はつやがなくなったり、色が変わってしまったりしますので、
あなたのお仕事では、それは困ると思いますよ。なんといっても、一番目立つ歯でしょう。」
仕事か歯か。その選択なら、数年前、もうしたじゃない。志穂は、覚悟を決めた。
「・・・お願いします。」
「ちょっと長い治療になるけど、頑張ってね」
志穂の、つらい夜が始まった。
「一応、ひどいのは右上の1番・・真ん中の歯だけだと思うんですけど、念のため、ちょっと調べますね。」
久美が、ミラーを手にして、志穂のほうを向く。何をされるのか、という不安が顔に出たのだろう。
「大丈夫、軽く叩くだけですから。はい、少しお口開けてください。」
優しく言われ、志穂はおとなしく口を開けた。
「ちょっと響いたらごめんなさいね・・・いきますね・・」
ミラーの柄で、コンコン、と右上の2番を叩かれた瞬間、隣の痛む歯に響き、志穂は思わず声を上げた。
「んが!」
「この歯も痛みますか?」
「いえ、あの・・隣の歯に響いて。」
「ああ、コンタクトがきつそう・・歯の隙間が詰まってますから、伝わったかもしれません。叩いた歯は大丈夫ですか?」
「はい。」
「じゃ、次、反対側いきます」
またあの痛みが来るのかと、志穂はしぶしぶ口を開けた。
「いきます・・」
コンコン。コンコン。痛みはなかった。少しホッとする。
「大丈夫ですか?」
「はい。」
「では、今日はこの真ん中の歯だけ治療しましょう。虫歯になっているところを削って、最初の神経の処置までします。」
「最初の、というと・・」
「神経の処置は、何度かかかります。そうですね、最低でも3、4回は通っていただくことになると思います。」
「そうですか・・あの、仕事が不規則なんですけれども・・」
「姉を見てるから、わかってますよ。治療はお仕事に合わせます。場所柄、CAの患者さんも多いので。じゃ、始めましょうか。麻酔打ちますね。はい、軽くお口開けて・・」
冷たいのか優しいのかわかりにくい久美の様子に少し不安をおぼえつつも、志穂は目を閉じ、口を開けた。
少し冷たい指が、上唇をめくるのを感じる。
「少しチクっとしますよ」
そう言われて覚悟したものの、やはり針が刺された瞬間は少しビクっとする。その後、ゆっくりと薬が注入され・・・じわーんとした痛みが歯茎に広がっていく。
あらっ、この先生、タバコ吸うんだわ・・・唇を押さえる指から、セッケンの匂いに混じって、ほんのかすかにタバコの匂いがした。
「内側にも打ちますから、大きく開けて・・そう・・」
カチャカチャ、という金属が触れる音の後、今度はいきなり針が刺された。
「んんっ」
歯の裏側は、歯茎が固いためか、少し痛みが強い。
「んんんんっ」
「もう少しですから・・がんばって・・・もう少し・・」
かなり長い注射のあと、ようやく針が抜かれ、志穂はほうっ、と息を吐いた。
「一度うがいしてください」
椅子が起こされ、治療台の横のボタンを押し、水を口に含むと・・すでに麻酔が効きはじめているのか、上唇がうまく閉じず、口から水が漏れてしまった。あわてて持っていたタオルであごを押さえる。
「じゃ、倒しますね。」
倒されていく椅子に頭を預けながら、目の前の時計を見た。10時15分・・・まだ、治療はこれからだった。
「では、削っていきます。痛かったら、左手上げてくださいね。じゃ、お姉さん、ヘルプお願い」
上唇の下に綿のようなものを突っ込まれ、口を開けると、智子が、左側に何か管を持って立った。
ヒュィィイイイイン・・
ドリルの音が聞こえてきて、志穂は目を閉じた。すぐに歯に振動が伝わってきた。よかった・・麻酔が効いてるみたい・・・
ビュイィィイイン、ビュィイイイイイン、
ズズズ、ズズズズズ・・
かなり激しく削られているようだったが、かすかな振動以外感じなかった。
「痛くないですか・・」
久美が削りながら尋ねるので、志穂は目で頷いた。
ビュイィィイイイ、ビュイィィィイイイ・・ヒュゥゥゥ。
結局ほとんど痛みを感じることなく、削る作業は終わった。
治療台が起こされ、志穂は口をゆすいだ。歯のかけらが流れていく。舌で前歯をさぐると、裏側がごっそりなくなっている。歯の両側もかなり削られたようだ。
「かなり中は崩壊してました・・なので、痛みはあまりなかったと思いますが」
久美が淡々と告げる。
「はい、大丈夫でした」
「神経の処置はちょっと痛むと思います。頑張って下さいね。」
再び椅子が倒される・・・時計は10時半になろうとしていた。
その後の治療は思っていたたよりもはるかに辛かった。神経を取るというリーマが歯髄に差し込まれると・・・まさに脳天に響くような痛みが志穂を襲った。
「いはぁっ!」
「痛いですねー、動かないで下さいねー、危ないですからー」
久美はあっさり言いつつ、手を休めず、ふたたびリーマを志穂の前歯の歯髄に挿入し、出し入れする・・・
「んがぁ!いがが!いはあ!」
抑えようと思っても声が出てしまう。
「動かないでくださーい」
ついに、智子にあごと頭を押さえつけられてしまった。そんなことも気にならないほど痛い。顔が割れそうだった。
「んー、ずいぶん炎症起こしてますね・・・もう少し早くに来ていればもう少し楽でしたよ・・」
「いはぁ・・ああああ」
あまりの痛みに、脂汗と涙がにじんできたが、久美は治療をやめてはくれなかった。
「とりあえず今日はこれで。また次回様子を見ましょう。」
その声を聞いて、ようやくホッとしたが、次に穴に詰められた薬が、これまた同じくらい染みた。
「えっと・・次回のお仕事はいつ?」
痛みでぼーっとしているところに急に尋ねられ、
「えっと・・あの・・・」
と答えられずにいると、
「3日後よ」
智子が横から答えた。
「じゃあね、2日後もう一度来てください。それまでにお仕事用に仮の歯を作っておきますから。今日はセメントとプラスチックで一応形にしますけど・・ちょっとなじみにくいと思います。見た目も少しあれですし。」
「はい・・」
実は明日の晩、大事な・・合コンで知り合った相手との初デートがあるのに・・・
成形してもらった前歯は、思ったよりはマシで、志穂はすこしホッとした。
「ありがとうございました・・では・・二日後、よろしく御願いします。」
「はい、お疲れ様。良く休んでくださいね。」
志穂がクリニックを出たのは、11時を過ぎた頃だった。
翌日。治療したばかりの前歯は、昼間の明かりの中で見ると、やはりひどく不自然で、なによりももともとの歯よりも厚ぼったく、しゃべりにくかった。志穂は迷ったが、やはり、デートに出かけた。
会うなり、その日のデート相手・・坂口は、
「あれ、前歯どうかした?」
と聞いてきた。
「え?あっ、ええ、ちょっとぶつけちゃって・・・欠けてしまって治してもらってるの。」
なんとなく、虫歯がひどくて、言い難く、志穂は嘘をついた。
「え・・そりゃショックでしょう。志穂ちゃん、奥まで綺麗な歯なのに。オレ、歯の綺麗な女性って好きだな。」
「ありがとう・・でも、仕方ないし・・」
「ああ、ごめんごめん、そんなつもりじゃなかったんだ・・」
結局、しゃべりにくいうえ、少し痛みも出てきたので、その日は早めに家に戻った。
その後、入れてもらった仕事用の仮歯は、調子がよかった。そして、根の治療・・相変わらず涙が出るほど辛かったが・・・に3回ほど通い、コアを立ててもらって、本物の仮歯(というのも変だが)が入った。
接客業というのは辛いもので、やはり、変な客というものがいる。本物の仮歯が入った翌日、いつものように、着陸のためにジャンプシートに座ると、向かいの乗客が声をかけてきた。
「前歯、治療中なんですか?」
「えっ?」
とにかく、笑顔で聞き返す。
「それ・・仮歯ですよね。差し歯になる前の。」
なぜそんなことを言うのだ。というより、なぜわかったんだろう・・うまくできてるのに・・・志穂は引きつりながらも、笑顔を崩さずに答えた。
「あ・・はい・・」
「原因は虫歯ですか。」
「えっ・・あの、いえ、ちょっと・・」
話しかけてきた乗客の両隣の席の乗客が、ちらちらと自分の口元を見ているのが痛いほどわかった。
「まあ、そうです、ひどい虫歯にしてしまって、とは言いにくいですよね。辛いでしょう。早く綺麗な差し歯が入るといいですね。」
志穂はいたたまれなくなって黙って目を伏せ、その客もそれきり、何も言わなくなった。
その本物の差し歯は、色あわせを2回してもらって、入念に選んだ。裏も付け根以外は銀色ではない、保険外のものだ。その点、久美は女性だけあって、真剣に相談に乗ってくれた。両隣の歯も、レジンで綺麗に治療済みだ。明日になれば、綺麗な前歯が戻ってくる。そう思って、その日最後のフライトに乗務しているときのことだった。
ギャレーでいつもどおり、上の棚に余ったジュースのパックを仕舞っていると・・
「あっ」
手がすべり、重いジュースの箱が志穂の口元を直撃した。痛みと同時に、口の中に異物感があった。仮歯がぽろり、と取れてしまったのだ。
「大丈夫?」
そう言った先輩CAが、志穂の口元を見て、
「あらやだ・・差し歯が取れちゃった?」
と言う。別のCAも横から、
「とりあえず、差し込んでみたら。乗務中くらいはもつんじゃないかしら」
とアドバイスした。客室乗務員には、かなり差し歯持ちが多いのだ。不規則な生活で歯が悪くなり、しかし見た目を重視しなければいけないので、どうしても、前歯が虫歯になったらすぐ差し歯に、ということになってしまう。
結局、アドバイスどおりに仮歯をはめ、舌でなんとか押さえながら、その日の仕事を終えた。予約は明日だが、なんとかしてもらえるかも。もしかしたら、もう差し歯は出来ていて、今日はめてもらえるかもしれない。志穂は久美のクリニックに電話を入れ、状況を説明した。
「それは・・すぐ来て下さい。」
久美の言葉に、きっと差し歯がもう出来ているんだわ、と思い、志穂はクリニックに向かった。
クリニックに着くと、衛生士に付き添われ、まずレントゲンを撮らされた。その後、すぐに治療台に案内される。
しばらく座っていると、レントゲンが治療台横にセットされ、久美がやってきた。
レントゲンを眺め、難しい顔をしている。
「えっと・・痛みはないですか」
「あ・・少し痛いです」
「そうですか・・あの、非常に残念なのですが」
久美が話し出した言葉は、あまりにショッキングで、志穂は気が遠くなりそうだった。
「歯の根が折れてしまったので・・・この歯は抜かなければいけません。」
前歯を・・抜く?
「コア・・歯の土台にしていたものですが・・これがてこのようになって、不幸にも歯の根が負けてしまったんです。ほら、少しぐらぐらしているでしょう」
そう言って、久美は、志穂の前歯のコアを持ち、動かしてみせた。たしかに動く。
「抜いたら・・どうなるんですか」
「ブリッジと言って、つながった差し歯のようなものを作って、両隣の歯にかぶせます。」
「両隣の歯も差し歯に?」
「そうです。見た目は普通の差し歯と変わりませんよ。」
「同じように・・作っていただけるんでしょうか」
「そうですね、ただ・・どうしても不自然に力がかかるので、私は連結したブリッジの場合は、裏が金属のものがいいと思っています。裏も白いと、もちろん中は金属でも、表面が割れたりしやすいので。」
「そう・・ですか」
「それともう一つ・・隣の歯も、レントゲンで見ると歯の根に亀裂が入っています。この歯だけならいいのですが、隣の歯を支えるとなると無理がかかってしまうので・・」
「ど、どうなるんでしょうか」
「前歯2本を抜歯して・・・4本連結の差し歯を入れるのがベストだと思います。」
「そんな・・・」
結局、志穂は、久美の意見通り、前歯2本を抜歯し、4本連結のブリッジになった差し歯を入れた。あんなに痛い思いをして抜髄した前歯は結局抜くこととなり、さらに土台歯の1本、もともと虫歯だったほうは、コアを立てるために新たに抜髄治療を受けた。前回と同じくらい・・いや、神経が生きていただけに、前回よりも辛い抜髄であった。
差し歯は、裏が金属・・真っ黒のものである。座っている乗客に、立ちながらサービスするだけに、おそらく、前歯の裏は見えているだろう。一番辛かったのは、夏休みの乗務での出来事だった。小学生くらいの男の子が、
「お姉さん。前歯の裏、虫歯になってる!真っ黒だよ!大丈夫?痛くない?」
と心配そうに聞いてきたことであった。とっさに、隣の母親が、
「あのお姉さんは、もう、前歯が虫歯になっちゃって、頑張って治した後なの。そんなこと言っちゃいけません!」
と子供をなだめたのがまた辛かった。その場はなんとか笑顔を見せたものの、その後、ギャレーに駆け込み、口を手で覆って泣いた。
その後、就職試験のために無理やり白い詰め物に変えた歯・・久美によればかなり杜撰な治療らしいが・・があちこち取れたり痛み出したりし、志穂は、その後1年ほど、勤務の帰りに久美のクリニックに立ち寄らない日はないほどであった。職業柄、少し無理をしてでも白い詰め物や金歯を選んだため、口の中が銀歯でギラギラにはならなかったが、レントゲン写真でほとんどの歯が真っ白く写る、人工的な口腔内になったのだった。