滝川晴香の治療は、順調に進んでいた。
「理解ある上司」チーフの奥田が、必要とあれば毎日でも、晴香が歯の治療に行くのを許可したためである。
が、治療が進むにつれ、刺激が少なくなってくるのも事実である。
そろそろ、塩原を治療に行かせたいな・・・
奥田は、塩原なつきがデスクに来るたび、考えていた。

そんなある日、チャンスが訪れた。
奥田の下には、正社員である晴香となつきの他、派遣社員が3名ほどいる。
その派遣会社から、「派遣している社員の歯科検診を手配して欲しい」という要請があったのだ。
「せっかくだから一緒に行けばいいじゃないか」
という奥田の言葉に、なつきは、案外あっさりとそれを承知した。
クリニックには、「塩原なつきは正社員なので自分あてに検診結果を知らせて欲しい、また、必要であれば治療もして欲しい」
と、依頼した。

さて、歯科検診の日。
なつきは、派遣社員3人と、歯科クリニックに行った。ビル内にあるとは知っていたが、行くのは初めてだ。
案外、明るくて綺麗である。
「歯科検診の方ですね。治療室にお入りになってお待ち下さい」
4人まとめて、治療室に通され、隅の長いすで順番を待つ。

「どなたが最初でしょうか?」
カルテを持って素子がやってきた。
「あなたたち先にどうぞ・・私はおまけですから」
なつきは派遣の3人を促した。
「じゃあ、私から・・」端に座っていた派遣の真紀が立ち上がった。
なつきは、真紀が治療ユニットに座るのをじっと見つめながら、自分の口の中のことを考えていた・・・

2年前の初夏のある日曜。なつきは、付き合い始めたばかりの哲郎と、緑の公園に出かけた。
「何かやってるよ、行ってみようよ」
中央の広場でイベントが開かれているのを見たなつきは、哲郎の手を引っ張って連れて行った。
『歯の衛生週間・歯の健康チェック』
「おもしろくなさそうじゃん」
「うん・・期待はずれだったね」
がっかりしている二人に、呼び込みの衛生士が声をかける。
「せっかくですから、歯科検診していかれませんか?大人の虫歯って多いんですよ。歯周病なんかも怖いですしね。」
「じゃ、じゃあやってみようか」
白衣好きを公言している哲郎が、やはり衛生士の白衣にクラッときたらしい。相当乗り気になった。
「うーん、まあ・・最近、歯医者も行ってないし」
特に歯に不安もないなつきも、軽く応じた。
「じゃあ彼氏からどうぞ」
丸いすに座ると、向かいに中年の歯科医が現れたので、哲郎は思わず立ち上がりそうになったが、
「はい、あーん」
後ろから衛生士にあごを持ち上げられると、目じりを下げて口を開けた。
「ふむ、ま、健康ですね。ただ、タバコはね、歯肉によくないからやめたほうがいいね」
あっさりと終わってしまった。
「じゃあ、次」
「お願いします」
「何か気になることはない?」
「特にありません」
中年歯科医は、相手が若い女性なせいか会話をはさんだが、そっけない対応にやや嫌そうな顔をした。
「では、口を開けて」
「あー」
なつきの口の中をのぞいた歯科医は、急に目を光らせた。
哲郎の時には、手に持っただけで使わなかったミラーをなつきの口腔内に挿入し、たんねんに調べ始めた。
「君ねえ、おそらく気付いてないだろうけど・・虫歯だらけだよ」
えっ?
一瞬、何を言われたのかわからないなつき。これまで、虫歯になったことがなかったのだ。
「いや、小さいけどね、ずいぶんたくさん虫歯をためこんでるねえ、若いお嬢さんなんだからもうちょっと綺麗にしないと」
なつきは真っ赤になった。そんな・・・後ろで哲郎が聞いているのに・・・
「ま、ざっとみて10本くらいは虫歯があるから。早いうちに歯医者に行くように。」
歯科医は興味なさそうに言い、なつきは衛生士に立つように促された。
口の中に、消毒液のにおいが強く残っていた。
その後、なんとなく哲郎とは気まずい時間を過ごした。
なつきは、それ以来、自分の口の中にコンプレックスを抱いたまま、歯医者にも行きそびれていたのだった。あれから2年・・・

「では、次・・塩原さん」
気が付くと自分の番だった。3人とも、ほとんど問題なく、早く済んだようだ。
3人は治療室の入り口に立っている。
「あなたたち、先に帰っていいわよ・・帰りがおそくなっちゃうでしょう」
派遣社員は決まった時間働くことになっているので、こういう仕事を抜ける時間があると帰社にひびく。
「いいんですか?」
「いいわよ、もちろん」
「ではお先に戻ります」
彼女たちに自分の歯の状態を知られるのは嫌だった。派遣の3人が戻って行ったのにホッとして、なつきは暗い気持ちで治療ユニットに座った。

「お願いします」
「気になるところはありますか?」
「あの、実は・・歯医者にはずっと行ってなくて・・虫歯・・たくさんあると思うんですけど・・」
「痛んだりは?」
「最近しみるようになってきた歯があります」
「治療が怖いとかそういうことは?」
「それはたぶんないです・・ただきっかけがないのと・・虫歯が多くて汚いのが恥ずかしくて」
「それは大丈夫ですよ。じゃ、見つかった虫歯は治療しますか」
「お願いします・・」
そうして、なつきの診察は始まった。

「では、口を開けて下さい」
椅子が倒され、ライトが点けられた。なつきは目を閉じて、口を開けた。
おお・・・
歯科医は目を見開いた。極端にひどい虫歯はないのだが、それなりに進行していて、小さい穴が開いていたり、歯の間が黒ずんでいたり、溝が茶色く深くなっていたり・・・たしかに「汚い」口腔内だった。
ざっと見た限り、少なくとも奥歯に健全歯はないようだった。処置歯もない。
つまり、奥歯は全部、未処置の虫歯であった。
「じゃあ、左上から。7番、C2。6番、C2。5番、C2。4番、んー、C1。1番、C2。右に行って1番、C2。2番・・C2。4番、C2。5番から7番まで同じくC2。」
歯科医ももはや1本ずつ伝えるのが面倒で、まとめて伝えてしまった。
「右の下に行って・・7番から4番、C2。左も同じく、4番から7番、C2。前歯は大丈夫です」

「塩原さん」
「はい・・」
「虫歯がね、19本もありました」
「・・すみません」
「謝ることはないですけどね。見たところ、治療してある歯もないようですが・・・もしかして、歯科で治療を受けたこと、ないですか?」
「はい、子供の歯を抜いてもらったことしかなくて・・・」
「じゃ、今日は小さいところから治していきましょう。大丈夫、痛くないですよ」
「はい・・よろしくお願いします」
「レントゲン撮ってもらって、少しお待ち下さい。」

素子に案内され、レントゲンを撮ったあと、治療台に戻ったなつきは、さっき、怖くない、と言ったものの、不安でドキドキしてきた。
小学校の頃から、周囲のだれもが、歯医者に行くのを嫌がっていたし、
最近、歯医者に通っているという同じ部署の晴香も、いつも歯医者に行く前は暗い顔をしていて、帰って来ると痛そうに顔をしかめて、頬に手を当てている。
・・ああ、なんで歯科検診行くって言っちゃったんだろう・・・
2年前に虫歯がたくさんあると言われてから、行かなくちゃ、とは思っていたから、つい、歯科検診行きます、と答えてしまったが、
いざ治療するとなると、やっぱり・・・
隣の治療台では、自分より少し上くらいだろうか、男性が治療を受けていた。
キュィィイイイイン、キュィイイイイイン
という耳障りな音がする。
そして、そこに、ときどき、
「ぅっ・・ぁ・・・」
という、押し殺したような声が混じるのだった。
さらにその声に合わせて、膝がときどき、ビクッ!と曲げられるのがわかる。
・・・男の人でもあんなに・・・やっぱり怖いかも・・・
なつきは、落ち着かなくなってきた。衛生士の素子に声をかける。
「あの・・」
「はい?」
「私、3時から会議があるのをすっかり忘れていて・・戻らないと」
時計は3時5分を示していた。
「そうですか・・では、先生に聞いてみてから・・あ、塩原さん!」
なつきは、返事も聞かずに、治療台から降りると、スリッパを履いて、診察室を出た。ドアのガラスに映った自分の姿を見て、慌ててエプロンを外し、受付のカウンターに置いて、靴を履き替えて逃げるように歯科クリニックを出た。

ふう。
エレベータに乗っても、まだドキドキしていた。
なるべくさりげなく、自分の席に戻ったつもりだが、奥田に見つかった。
「塩原さん。」
手招きされたので、仕方なく奥田のデスクに向かう。
「歯科検診はどうだった?治療は無し?」
「あ・・は、はい・・」
なつきは少しおどおどしながら嘘をついた。
「そうか?」
奥田は、不審そうな目をなつきに向けた。
異常がないはずがない。前歯に明らかに虫歯があるのだ。しかも、頼んだ検診結果がないじゃないか。
「・・は・・い・・」
普段とは違う、消え入りそうな声でなつきは答えた。
しかし、そこで電話がかかってきてしまい、奥田は仕事に戻った。なつきも自分の席に戻る。
その後、別の部署に行って、奥田が4時半ごろ自分の席に戻ると、今日の治療を終えた晴香が、奥田のところへやってきた。
「チーフ、今日の治療報告と・・これ、預かってきました。塩原さんの歯科検診の結果だそうです。会議が終わったら治療に来てとか・・そうでなければ、治療の日時を決めて連絡が欲しいとおっしゃってました。」
と、封筒を二つ、奥田に手渡した。
「ん、わかった。」

その会話は、なつきの耳にも聞こえていた。検診結果が、チーフに知らされるなんて知らなかった!
どうしよう・・・
さっき、嘘をついたことがバレたという焦りと、虫歯が19本もあることを知られるという恥ずかしさと、治療に行かされるという恐怖感、いろんな感情がグルグルと頭の中をめぐり、なつきは軽くめまいを感じた。

歯科クリニックからの書類は、すべて家でじっくり一人で楽しむことにしている奥田だが、なつきの検診結果は何か連絡があるようなので、その場で開いた。

患者氏名:塩原なつき 年齢 26歳
主訴:歯科検診。要治療箇所はすべて治療希望。
患者の口腔状況:未処置の虫歯多数。要治療歯は19本。

19本!?
見間違いかと思ったが、歯式の書き込みなどを見て数えてみても、間違いなく19本であるようだ。
予想以上の収穫に、奥田は興奮し、ごまかすために深いため息をついた。

治療に対するご協力のお願い
患者は、未処置の虫歯が多数あります。歯科治療が未経験とのことで、多少の恐怖があるかもしれませんので、少しずつ治療を進めたいと考えています。今まで通りのご理解とご協力をお願いいたします。

ほう、歯の治療をしたことがないのか・・
奥田は、書類を手にすると、なつきを呼んで、会議室へ入った。
なつきの顔は強張っている。
「塩原さん。歯医者の先生から手紙をもらったけれど。」
「・・はい。」
「ずいぶんたくさん虫歯があるようじゃないか。」
なつきは、見る間に真っ赤になった。
「虫歯は、治さないと治らないんだよ。治療が遅れると治療もものすごく痛いらしい。」
なつきが、びくっと身体を固くしたのに、さらにたたみかける。
「滝川さんも今、歯の治療に通っているが・・彼女の虫歯はどれも酷いらしくてね、治療の後、いつも辛そうだろう。もっと早くに治していれば、と悔やんでいるよ」
うつむいていたなつきが、不安そうな上目遣いで奥田を見上げる。めったに見せない表情だ。
「うちの妻もね、20代の頃にいろいろあって歯の治療がおろそかになってしまってね、そのせいで今、もう歯をかなり失ってしまったよ。まだ30代なのに。」
なつきが息を呑んだ。
「まだそれほどひどくはないんだろう?痛い歯はあるの?」
なつきは首を振りながら、消えそうな声で答えた。
「いえ・・最近少ししみる歯があるんですけど・・・」
「ああ、それはよくないな。そのうち痛み出すよ。痛むようになると治療も大変だそうだ。どこかな?」
「ここの・・右の上が・・・」
なんとなく、流れでなつきは口を開けて、上を向いて見せた。
口を開けているなら、見ない手はない。奥田は、冷静を装って、なつきの口の中を覗き込んだ。素早く全体に目を走らせる。
うーん・・・これは・・・いい感じに汚いな。
右上の、おそらく6番だろう、溝の中心に小さく茶色い穴が開いている。
こういうのはけっこう、中で広がってるんだよな・・・
そう思いながらも、奥田は言った。
「まだそれほど大きくなさそうだし、やっぱり、早めに治療しないと。今から治療してもらえるか聞いてみよう。」
「はい・・・」
嫌だとは言えず、会議室の電話に手を伸ばす奥田を、なつきは不安そうな目で見つめていた。
「はい。では、5時ですね。はい。よろしくお願い致します。」
時計を見ると、4時45分だ。5時・・もうすぐじゃない。
なつきは、うなだれて、会議室を出ると、自分の机からタオルと小さな持ち手つきポーチを持って、そのままさっき逃げ出した歯科クリニックへ向かったのだった。