萩原佳奈子、29歳。
都内の歯科医院で働く、歯科医である。
卒業後、臨床一筋でやってきたので、キャリアは5年目ながら、
生来の手先の器用さもあって、今では院長にもその腕を認められていた。
ただ、佳奈子は、少々厳しいことでも有名だった。
「どうしてもっと早く来ないの。こんなになるまで放っておいて!」
「ちゃんと歯は磨いてるの。もっと大事にしないとダメ。」
患者に、つい、小言を言ってしまうのだった。
しかし、これには理由があった・・・
元々、佳奈子はあまり歯が丈夫なほうではない。
子供のころは、よく歯が痛くて泣いていたものだ。
小学校に上がり、引っ越した近所の歯科医院は、当時には珍しく、
予防歯科に熱心な医師で、乳歯が虫歯だらけの佳奈子を
根気強く指導し、おかげで、永久歯になった佳奈子の口の中は、
見違えるように綺麗になった。
惜しいのは、幼稚園のときに、生えてすぐに虫歯にしてしまった6歳臼歯だが、
この歯も、上の2本は、アマルガム充填から2次齲蝕を起こし、
銀のインレーが入れられているものの、
下2本は上手にレジンが詰められており、
歯科検診でも、ほぼ、健全歯と判定されるほどであった。
永久歯は、生えて数年は、虫歯にかかる危険が高いが、
それを乗り切れば、虫歯の危険はぐっと低くなる。
3ヶ月に1度通っていた予防歯科も、中学を卒業するころには、半年で1度の検診だけになった。
周囲の友人たちには、佳奈子は歯が綺麗、と褒められるようになっていた。
いつしか、佳奈子は、自分の歯が丈夫でないと言うことを忘れていた。
身についた丁寧な歯磨きだけは続いていたが、
部活や勉強が忙しく、つい、歯科からの検診のおしらせハガキを見逃してしまった。
高3の夏休みも終わろうとする頃。
朝、歯を磨いていた佳奈子は、左上の前歯の間が、少し白濁していることに気が付いた。
「やだ・・・虫歯?」
そういえば、奥歯は虫歯にならないように、と丁寧に磨いていたが、
前歯は虫歯になりにくいような気がして、少し手を抜いていたかもしれない・・・
ミラーで見ようかと思ったが、急がないと夏期講習に間に合わない。
佳奈子は医学部を目指していた。夏休みは重要なのだ。
そうして、前歯のことは、忙しい日々にまぎれていった。
時は経ち、大学入試を1週間後に控えた、冬の日のことだった。
家を出て、口から深呼吸をした、そのとき。
「前歯が、しみ・・る・・?」
気になって、何度も歯につめたい風を当ててみる。
最初、少し痛いような気がしたが、そのうち、気のせいか、と思えてきた。
夏休みに、白濁を見つけたことなど、忘れていた。
入試が近づいて、ナーバスになっているのだろう。なにより、歯医者に行くような暇はないのだ。
そうしてまた、前歯の虫歯は、ひっそりと佳奈子の意識下に潜ったのだった。
佳奈子は大学生になった。医学部は落ちてしまったが、歯学部には見事合格し、
歯医者を目指して勉強することになった。
念願の一人暮らしも始め、昼間は授業、バイト、夜は飲み会、と、充実した日々を送っていた。
しかし、歯にとっては過酷な日々だった。
栄養はどうしても偏りがちになるし、お昼をお菓子で済ませることもあった。
昔からは考えられないことだったが、夜、飲み会で酔ってしまい、家に帰って歯も磨かずに
寝てしまうこともあった。
そんな初夏のある日。いつものように、友人たちと飲みに出かけ、
「暑いときはこれに限る」とばかりに、冷たいビールに口をつけた瞬間だった。
「っ!!」
佳奈子の前歯に激痛が走った。思わずグラスを取り落とす。
「どうしたの?」
心配して見つめる友人たちに、
「あはは、手がすべっちゃった」
と笑ってごまかしてみせた。歯学部の友人に、歯が痛いとは、言えなかった。
その夜、早めに帰宅した佳奈子は、鏡の前で、おそるおそる口を開いた。
いーっ、とやってみる。
左上前歯、1番と2番の間に、かすかに茶色い点が見えた。
歯がぴっちりと綺麗に並んで生えている佳奈子の歯では、間の様子はそれ以上見えない。
そこから周囲に向かって、ややうっすら黒い?ような気がしたが、
洗面所のやや薄暗い光の下では、鏡から遠ざかってみると、きれいな歯に見えた。
少しホッとしながら、裏側もチェックしてみることにする。
予防歯科でもらったミラーは、実家に置いて来てしまった。
仕方なく、ポーチから手鏡を持ってきて、歯の裏に当ててみた。
歯の裏側を、鏡にうつしてみると・・・
歯の間が、真っ黒になっていた。黒ずみは、両方の歯の中心近くまで広がっている。
動悸が激しくなるのを感じた。
「そんな・・・」
前から見ると、ほとんどなんともないのだ。
もう一度、鏡にうつす。間違いであってほしいと願ったが、やはり、黒かった。
爪でこすってみても、取れない。そのうえ、爪に少し、ひっかかりを感じた。
顔を近づけ、目をこらすと、1番の方には、小さな穴も開いている。
間違いなく、虫歯だった。
「どうしよう・・」
母親の、差し歯が目に浮かぶ。歯はやけに白いが、歯ぐきがやや黒ずんでいて、
佳奈子はそれを見るたびに、「差し歯にだけはなりたくない」と思っていたのだった。
それなのに・・・
佳奈子の目から、涙がこぼれた。
前から見たら、なんともないのだから、案外大したことはないのかもしれない。
早く歯医者に行って、治してもらおう。
そう思うものの、もし、差し歯になってしまったら、と思うと、怖くて決心がつかなかった。
その夜、歯医者に行く夢を見た。
「差し歯にするしかないですね。」と言われたうえ、気が付くと、乳歯の頃のような、
虫歯だらけの口に戻っていた。予防歯科の歯医者が、悲しそうな顔で見ている。
目が覚めて、佳奈子は、泣いていた。
結局、歯医者には、行かなかった。怖かったのだ。
バイトや授業で忙しい、と言い訳をしながら。
飲み会は少し減らし、 今さら遅いとわかっていながら、歯磨きも念入りにやった。
相変わらず、冷たいものがあたると激痛が走ったが、
うまく、右側を通して流し込む術もおぼえ、夏が過ぎていった。
秋になるころ、佳奈子の2番目の前歯は、光の当たり方によっては、黒ずみが表からも見えるようになっていた。
鏡を見ては、ため息をつく日々だった。疲れてくると、たまに痛むような気もした。
ある日、前期の試験の打ち上げがあった。
クラスの面々だけでなく、授業で教授のアシスタントをしていた、紺野という若い歯科医も参加していた。
紺野は、しゃべり方も穏やかで、小児歯科を目指している、と言っていた。
クラスメイトの間では、やや物足りない、少し年上すぎる、という意見が多かったが、
佳奈子は、少し紺野を意識して、女のクラスメイトたちと、彼の近くに座った。
実際に飲み会で話してみると、紺野は意外とおもしろく、佳奈子はますます彼が気になっていた。
そのとき。向かいに座っていた由美子が、突然、
「佳奈子。いーってしてみて?」
と言い出した。
「前歯、黒くなってる気がして。虫歯じゃないの?前歯は早く治したほうがいいよ。」
佳奈子は思わずびくっとして、
「何よ。変なこと言わないでよ」
と言ってしまった。紺野の前でそんなことを言われたのが、たまらなかった。
「別に、そんなつもりじゃなかったんだけど。ごめんごめん」
由美子は屈託なく笑い、別の話題にさっさと移っていった。
動悸が激しくなっていた。
飲み会の帰り、気を利かせたクラスメイトたちは、佳奈子と紺野を残し、カラオケに行ってしまった。
「一緒に行きましょうか?暗いし。」
紺野は、佳奈子と一緒に歩き出した。
教授のうわさや、高校のことなど、当たり障りのない話をして、歩いていった。
「ところで。」
大学の門のそばの街灯の下で、紺野は立ち止まった。
「さっきのことだけど。」
佳奈子は、なに?という顔をしてみせた。
「前歯、早く治したほうがいいよ。けっこう進んでると思う。」
すうっと血の気が引いた。気付かれていた。よく考えると、紺野は歯科医だ。気付かないわけはなかった。
「見せてごらん」
逃げそうになる佳奈子の手首をつかむ。
「放っておくほど、虫歯は悪くなるんだから。」
諭されるように言われ、佳奈子は体の力を抜いた。おとなしく、少し上を向く。
紺野の指が、佳奈子の唇をめくった。
「あぁ。痛むんじゃない?これは。」
佳奈子が首を振る。「しみる、くらいです」
「・・・そう。もうちょっとちゃんと診たいんだけど、今、いいかな?
研究室のところに、ちゃんとユニットもある。僕はほとんど飲んでないし、診るだけだから大丈夫だよ」
予想外の展開に、佳奈子は体を固くした。
「歯医者が怖いかもしれないけど、僕も怖いかな。平気でしょ?」
紺野は優しく言って、微笑みかける。
さすが小児歯科を目指すだけあって、話の持って行き方がうまかった。これでは、頷かざるを得ない。
「じゃ、行こうか」
こんなふうに、二人きりになろうとは。
建物をカードキーで開けて入っていく紺野に着いて行きながら、紺野に歯を見られて恥かしい気持ちと、
ようやく治療ができるという安心感と、差し歯への恐怖感に、少し混乱していた。
「ここだよ。どうぞ。」
紺野に招き入れられた部屋の真ん中には、歯科医の椅子が置かれていた。
「口、ゆすいでいいですか」
さすがに、飲み会の後の口の中をそのまま見せるのはイヤだった。
「あぁ、そこに座って、ユニットのを使って。コップは・・はい、これ。」
使い捨てのコップを渡された。
佳奈子は靴を脱いで、ユニットに上がり、口を丁寧にゆすいだ。
「じゃ、いいかな?」
滅菌器から器具を取り出した紺野が、横に座る。
「はい。お願いします。」
佳奈子が答えると、紺野はちょっと微笑んで、椅子のスイッチを押した。
うぃーーーん。
椅子が倒されていく。
「じゃ、ちょっと見せてね。とりあえず、あーん」
ミラーを手にした紺野に促され、佳奈子は口を開く。
「うん、だいたい綺麗だね。小さい虫歯が1,2本あるけど、大丈夫。綺麗な歯だよ。」
ほめられて、佳奈子は少し力を抜いた。
「じゃ、前歯見るよ。」
ミラーが前歯の内側に当てられた瞬間、紺野の顔が少し険しくなった。
「うーん。これは思ったより進んでるね。前から見るよりも、裏はかなりひどいよ。」
佳奈子の顔が歪む。
台の上の探針に手を伸ばしかけた紺野が、佳奈子の表情に気付いた。
「まだ、怖いのかな?」
佳奈子は、思い切って言ってみた。
「歯医者が怖いんじゃないんです。予防歯科に通ってて、慣れてるから。ただ・・」
「ああ、歯は綺麗だったものね。ただ、どうしたの?」
「差し歯・・差し歯になるのが怖くて」
佳奈子はすがるような目で、紺野を見た。
ふう、ため息をつき、紺野はミラーを置いた。
椅子も起こされ、佳奈子は紺野と向かい合う形になった。
「えっと・・萩原・・・佳奈子ちゃん、だっけ。」
「はい。」
「はっきり言うね。」
「ハイ。」
緊張した雰囲気に、佳奈子の声が震える。
「残念だけど、この前歯は、差し歯になるのは避けられないと思う。」
佳奈子は、頭を殴られたような気がした。
心のどこかで覚悟はしていたが、現実を突きつけられると、やはり、辛かった。
「あと2ヶ月早ければ、差し歯にせずに治せたかもしれないけど」
2ヶ月。やっぱり、あの、激痛が走ったときに歯医者に行っていればよかったのだ。
後悔で、涙がじわっとあふれてきた。
「ただね。差し歯って、たぶん、お母さんか何かのを想像してると思うんだけど、
あの、ふちが黒くなってて、変に白い、あれ。」
こくり、と佳奈子が頷く。
「最近のは、もっと見た目も自然なのがちゃんと作れるんだよ。
だから、そんなに怖がらなくてもいい。」
心をほぐすように、紺野が続ける。
「ほら、僕もここ、差し歯なんだけど」
右上1番を指差し、にっ、と笑う。
それは、周りの歯と見分けがつかなかった。
「えっ・・わからなかった・・虫歯ですか?」
「僕は、スキーでぶつかって折れちゃったんだけどね。かっこ悪いだろ?」
微笑む紺野に、佳奈子もつられて笑った。
「でも、虫歯も、根っこさえちゃんと残ってれば、
差し歯はかっこ悪くないのができるから。大丈夫。ね?」
佳奈子は頷いた。
差し歯になるのは、まだやっぱりショックだったが、あの差し歯にはならないのだ、
と思うと、少し気が楽になった。
「じゃあ、ちゃんと治療できるね?」
はい、と答えたものの、こちらでは、いい歯医者がどこかわからない。
「あの・・大学病院でも診てもらえるんですか?」
と聞いた。
「ああ、もちろん。学生はほとんど無料で治療できるよ。
教授には紹介が必要だけど、僕でかまわなければ、僕が診るよ。」
好意とは別に、さっきからの様子に、紺野に診てもらえれば、安心できる気がした。
「お願いします。」
佳奈子がそう言うと、
「じゃあ、さっそく、明日の朝、病院の方に来て。」
と、紺野が指示する。
しかし、明日は友達と遊びに行く約束だった。
「大学は休みでしょ?それに、1番の歯、そろそろ痛み出すと思うから、早いほうがいいよ。
前歯の痛みは辛いらしいし、痛みが出たら、根の状態も急に悪くなるしね。」
痛いくらいなら、ま、我慢すればいいわ。
差し歯への恐怖が薄れた佳奈子は、根の話は耳に入らなかった。
結局、地元から友達が出てくる、と言って、治療はその次の日に延ばしてもらった。
紺野は、心配だったのか、
「痛くなったら連絡して。」
と、携帯と、構内の内線電話の番号をくれた。
次の日。このところ、気にかかっていた前歯のこともやや進展し、試験も終わって、
佳奈子は、ひさしぶりに、晴れ晴れとした気分で遊んでいた。
夜、シャワーを浴びていると、トクン、トクン、と、脈にあわせて、
1番の前歯に、少し不快感が出てきた。
「ん・・・まあ、痛いわけじゃないし。」
と、そのまま眠りについた。
・・・ドクン、ドクン、ドクン、ズキン!ズキン!
佳奈子は、歯の痛みで目が覚めた。時計を見ると、5時だった。
叫び出したくなるような痛みではなかったが、頭が痛くなってくる。
「はあ。紺野先生、怒るかなあ」
早いほうがいい、と言っていた、紺野の顔を思い浮かべた。
「あ、そうだ、電話!」
さすがに早すぎると思い、6時まで待ってから、紺野に電話をかける。
「はい。」
「あの・・萩原ですけど。起こしちゃいましたか?」
「ああ、佳奈子ちゃんね。もう起きてるよ。どうしたの?痛み出した?」
「・・・はい。」ほらみろ、と言われるかと思ったが、
「大丈夫?我慢できる?治療は8時からだけど、7時半から開いているから、早めにおいで。」
優しく言われただけだった。
7時半に行ってみると、紺野はすでに待っていた。
マスク姿を見るのは初めてだ。少し怖い感じに思える。
言われるままに、レントゲンを撮りに行き、戻って、ユニットに座る。椅子が倒された。
「はい、見せてごらん」
おとなしく口を開ける。
「あー、これは痛いね。でも、ちょっと我慢してくれる。」
と言うと、指で、1番をとんとん、と叩いた。
「っうぅぅ」
歯だけでなく、目の奥まで痛みが走り抜けた。
「もっかい」
次に、2番を叩いた。
今度は、歯の中がぼわん、と痛んだだけだった。
「どうかな。」
佳奈子が痛みかたを伝えると、今野は、難しい顔になった。
「うーん。とりあえず、こっちの1番からやろう。削って、ちょっと根の状態を確認するね。」
目で頷く。
根の状態?佳奈子は、なにか大事なことだったような気がして、
一生懸命考えていた。
先日の夜とは違って、今日は、衛生士や助手もたくさんいる。
助手が、麻酔のシリンジを、紺野に手渡した。
「はい。ちくっとするけど、我慢して。」
しばらくして、麻酔が効くのを待って、治療が始まった。
「見にくいから、視野確保して。リトラクター。」
「はい。」
佳奈子の唇に、プラスチックの器具がはめられた。口が大きく開けられ、歯茎がむき出しになる。
「!」
恥かしい、と思って、紺野の顔をとっさに見たが、
紺野は、真剣な顔で、タービンにチップを装着し、佳奈子の目を見て、大丈夫だよ、というふうに微笑むと、
チュイーン
と音をさせて、佳奈子の歯を削りにかかった。
キュイーン、キュィーン。
まずは、1番と2番の間から。次に、裏側へ。進むにつれ、紺野の顔が険しくなる。
「んー、思ったよりも中に進んじゃってるなあ。痛いけど、我慢してね・・」
佳奈子の脚がもぞもぞしているのに気付いてか、紺野は釘をさすように言った。
「ああぁぁぁん、あああぁ、あぁぁ!」
佳奈子が泣き出した。
「ん、もうやめるから」
すぐに、タービンの音が消えた。
「よく頑張ったね。」
紺野はなぐさめながら、泣きじゃくっている佳奈子の口から、リトラクターをはずした。
透明な唾液が、つーっ、と糸を引く。
「とりあえず、口ゆすいで。」
椅子を起こす。
思ったよりも、削る時間は短かったな・・・
舌で確かめてみると、意外と穴も小さいようだ。佳奈子はホッとした。
口をゆすいで、姿勢を戻すと、紺野が、マスクを顎にはずし、佳奈子の方を見ていた。
「1番の、治療なんだけどね。」
少し、厳しい顔で話し始める。
「思っていたより、深くまで進んでるんだよ。2番の方が、前も黒くなっていて気になっただろうけど、
1番は、虫歯が中に向かって進んでいたんだね。こっちの方が、ひどい虫歯だよ。」
どうやら、深刻な話だ。佳奈子は体を固くして、頷く。
「で、今、ちょっと削ってみたんだけれど、中が大きくやられてる。おそらく、根っこまで。」
根っこ。佳奈子は突然思い出した。
“根っこさえちゃんと残ってれば、差し歯にできる。”と、紺野が言っていたのだった。
じゃあ、根っこがない場合は・・?
「だから、1番は抜かなきゃならないよ。」
歯を抜かないといけない。しかも、前歯を。自分が虫歯にしてしまったせいで。
歯医者に行かずに、放っておいたせいで。
頭がくらくらした。
「あの・・じゃあ、差し歯は・・」
「そう。差し歯にはできないんだ。」
「入れ歯・・・?」佳奈子は、涙声になっていた。
「大丈夫。入れ歯にはならないよ。ブリッジって言って、両端の歯にかぶせ物をして、
その歯で支えるように、つないで歯を入れる。」
父親の奥歯にあった、3連の銀歯を思い出した。
「見た目は・・?」
「それは、普通の差し歯とおんなじだよ。心配いらない。」
佳奈子は、黙ってしまった。
「まだ18歳だし、歯を抜かないといけないのは、つらいだろうけど・・・」
紺野が静かに言う。
「抜かなきゃいけなくなったのは、しょうがないんだ。きっちり治すから。佳奈子ちゃんも頑張ろう。」
佳奈子は、こくり、と頷いた。
「何か、聞きたいことはない?」
「抜いた後・・歯抜けにはならないですよね?」
「ああ、そりゃ、気になるよね。」紺野は笑った。
「大丈夫、仮の歯を作ってはめるから。案外、よくできてるよ。ぱっと見わからないくらい。」
「両端の歯って、右の1番と、左の2番ですか。右の1番は、なんともないんですけど・・」
紺野の顔から、微笑が消えた。
「うん、それはしょうがないんだ。なんともない歯を削るのは悲しいだろうけど、
ブリッジの端の歯には、真ん中の歯の分も力がかかるから、負担がかかる。
右の1番はしっかりしてるから、その点、大丈夫。」
一瞬、佳奈子の顔に浮かんだ不安をさえぎるように、紺野が続ける。
「問題は、左の2番なんだけどね。
差し歯になるはずだったから、削ってかぶせるのに抵抗が少ないだろうけど、
もともと、2番もかなり虫歯が進行してるからね。自分だけならいいけれど、
たぶん、隣の歯を支えるのは、負担が大きいと思う。」
「だけど、根はあるんですよね」
佳奈子は、自分の頭に浮かんだ考えが、間違っていますように、と祈った。
「うん、ある。でも、隣の歯を支えるほどの力はないんだよ。」
「・・・」
「2番はブリッジの端にはなれない。だから、ブリッジの支えは、右の1番と、左の3番にしようと思ってる。」
「それじゃあ、2番は・・・」
どくん、どくん、どくん、どくん、
佳奈子の心臓は、激しく打っていた。
「・・・残念だけど、抜くことになるね。」
鼓動は強く感じられるのに、頭からは血の気が引いていく感じだった。
歯を2本も抜くなんて。
さらに、そのために、虫歯じゃない歯を2本も削らないといけない。
どうしてすぐに、歯医者に行かなかったんだろう。
「大丈夫?」
紺野がハンカチを差し出し、顔を覗き込む。
佳奈子の頬には、涙が流れていた。
「落ち着いたら、歯を抜くよ。・・もちろん、次回でもいいけれど。」
呆然としたまま、佳奈子が頷く。
「その後は、仮の歯を入れて、しばらく抜いたところを落ち着かせる。で、口の中の型を取って、
両端の歯を削って、そこの型を取って、ブリッジを作って、終わり。ただ、前歯だから、
最終的にはめる前に、一度、色あわせとかしようね。大丈夫。ちゃんと、綺麗になるから。」
紺野が、ゆっくりと説明する。
佳奈子は、黙って頷いていたが、目をつぶって深呼吸すると、ぱちっと目を開け、
「よろしくお願いします。」
と頭を下げた。
その後、佳奈子の左上1番2番は抜歯され、右上1番から左上3番の、4連ブリッジとなった。
紺野が言ったように、前からの見た目は、他の歯とほとんど見分けがつかないくらいだったが、
歯の裏は・・・
佳奈子は、大学時代、舌が裏側の金属に当たるたびに、あのときの後悔を、思い出していた。
あれから10年。最近、どうも、右下の6番が、痛いような気がする・・・
「肩こりかな。そろそろ、30だし」
佳奈子は、なぜか、あのときの後悔を忘れ始めていた・・・
佳奈子2へ続く