5月だと言うのに、真夏のような日差しが照りつけていた。
「もう。何で休みの日に、こんなとこに行かなきゃならないのよ」
オフィス街を歩きながら、金子夏美は腹を立てていた。
夏美は衛生士である。
今日は、医院は休みなのだが、院長が歯科検診に行くので、夏美はその付き添いだった。
夏美は、3人いる衛生士の中でも、一番の美人である。
院長が、夏美を指名したくなるのも無理はない。
しかし、夏美にとってはいい迷惑であった。
だいたい、歯科検診そのものには、衛生士の仕事などないのだ。
やることといえば、希望者への歯磨き指導と、歯についての相談受付。
しかし、社会人にもなって、歯磨き指導を希望する人などいないし、
相談も、歯槽膿漏のオヤジが、夏美としゃべりたくて来るくらいなものだ。

「はあ。やっぱり暇だってば。」
相談受付に座って、夏美はため息をついた。すでに3時間ほど座っていたが、
子供の虫歯が気になるという男性と、差し歯の変色を直したいと言う女性が来たくらいだ。
こんなことなら、萩原先生と遊ぶ用事でも作って、断るんだった。
そんなことを考えていると、
「あの、歯科相談って、ここでしょうか。」という声がした。
えっ、と顔を上げると、意外にも、若い男性が立っていた。しかも、顔は夏美の好みだ。
「歯医者の先生に、相談して来るように言われたんです。ちょっと、虫歯が多くて・・・」
男性は、そう言って、歯科診断表を差し出した。夏美は嬉しくなったが、カルテを見てガックリした。
処置歯4本。インレーの脱離放置2本。未処置の虫歯7本。
なんなの、この口腔状態は。意識が低すぎるわ。顔がいくら良くても、こういうのは・・
しかし、仕事だ。夏美は、質問を始めた。
「最後に歯科を受診したのは?」「間食は?」「歯磨きは?」
聞けば聞くほど、ため息が出るような答えばかりだった。
夏美は、軽蔑を表に出さないように努力して、歯医者にきちんと通うように、と指導した。

その夜、夏美は吉村という男のことを考えていた。顔はよかったなあ。性格も、悪くなさそうだ。ただ、歯がね・・・
そう思いながら、夏美は、ハッとした。何を考えているのだ、私は。
夏美は、ぷるぷる、と首を振って、あの男を頭から追い払うと、眠りに付いた。
しばらくたったある土曜日。
夏美の医院に、あの男、吉村はやってきた。
治療のあと、夏美が歯磨き指導をすることになった。
「金子さん、お仕事は何時までですか?食事でも行きませんか」
と、誘ってきた。その日は断ったが、
その後、通ってくるたびに、吉村はしつこく夏美を誘った。
ちゃんと歯医者に通ってきているし・・歯以外は好みなのよね・・
そう自分に言い訳しながら、結局、夏美は、吉村と付き合うことになったのだった。

夏が過ぎ、秋も半ばに近づくころ。
夏美は、左下の親知らずが生えてきているのに気付いた。
もともと、顎もしっかりしているので、他の3本は、しっかりと生えていたが、
左下の1本だけが、出てくるのが遅かったのだ。
少し、痛いような気がする。
念のため、歯科医の萩原佳奈子に見てもらうことにした。
佳奈子とは、夏に喧嘩をしたのだが、紺野のとりなしもあり、まあ、元の関係に戻っているといえた。
「先生。ちょっと診て欲しいんですけど。親知らずが生えてきたみたいで・・」
「痛むの?」
「んー、ちょっと。」
「なるほど、気になったらすぐ診てもらうってわけね。」
「ええ。」
少し誇らしげに、夏美が答える。
「もう・・・ま、いいわ。じゃ、レントゲン先に撮って、そこに座っててちょうだい。」
椅子に座って待っていると、佳奈子が、レントゲンを手にやってきた。
少し、首をかしげている。
「左下よね。曲がったりはしてないみたいよ。」
そう言って、佳奈子は術者用の椅子に座った。
「でも、気になることがあるの。ちょっといろいろ見せてね。」
夏美が口を開けると、佳奈子は、ミラーを手に、親知らずを観察した後、
口の中全体を、ざっとチェックした。
「はい、いいわ。ところで金子さん、何か、生活で変わったことでもあった?」
椅子を起こし、佳奈子が尋ねる。
「いえ、別に・・・何か?」
不思議そうに、夏美が聞き返すと、佳奈子は、抑えた声で冷たく言い放った。
「親不知もなんだけどね・・・けっこうあちこち、虫歯になってるわよ。」
えっ・・・夏美は、耳を疑った。
なぜ…夏美はショックで回らない頭で理由を考えた。
もともと、少々無茶をしても虫歯にはならない体質だ。
甘い物も好きだし、実は歯磨きにだってそんなに時間をかける方ではない。
でもそれで今までは大丈夫だったのに…
佳奈子が続けて言う。
「変だわ、今まで虫歯になったことはないんでしょう? こんなにたくさん…
 …あなた、まさか、」
そう言われた瞬間、今度は異様なほど頭が回った。
佳奈子の口から次に発せられるであろう言葉が耳鳴りのように頭の中に響く。
『だらだらと間食してるんでしょう』
『お酒を飲んだらついそのまま寝てしまうんでしょう』
『そもそも一日に歯は何回磨くの? 寝る前にさっと磨いて終わりかしら?』
全部やっていることである。指摘されたらどうすればいい…?
だが、実際に佳奈子が言った言葉は、思いがけないものだった。
「…まさか、吐くダイエットなんてしてないでしょうね」
そう言う顔は真剣そのものだ。というより、半分泣きそうになっている。友達の顔だ。
「してない、してないです」
慌てて否定しながら、夏美は思い出していた。
夏の終わり、ついこの間、虫歯の佳奈子に自分が何を言ったか。
佳奈子がどんな顔をしていたか。
あのときの自分を殴ってやりたくなった。
「ならいいけど・・」
佳奈子は、心配そうだ。
「何か強いストレスがかかってるとか・・ドライマウスではない?」
「いえ、大丈夫です。」
「最近飲んでる薬、ある?」
「ないです・・・」
「じゃあ、どうしたのかしら・・」
たぶん、自分の不摂生だ、と、夏美は思っていた。
これまで、歯が丈夫だと自信を持って、いいかげんにしてきたツケが回ってきたのだ。
虫歯になるのが、こんなにショックだとは。
しばらく、夏美は、治療ユニットの上で、呆然としていた。
「・・大丈夫?」
黙り込んでいる夏美の顔を、佳奈子がのぞきこんだ。
「他のスタッフも帰ったし、ちゃんとチェックしたいんだけれど、いい?」
夏美が、歯を自慢にしていることは、医院内でも有名であった。
その夏美が虫歯になってしまったことを、他のスタッフに知られるのは嫌だろう、という佳奈子の配慮だった。
「すみません、・・・お願いします」
虫歯の状況を知るのは怖かったが、覚悟を決めた。
「じゃ、椅子倒すわね。」
うぃーーーん。
この椅子が倒れていく音でさえ、患者には怖いかもしれない、ということを知った。
「はい、お口開けて・・」
ライトが当てられる。自分の口の中が暴かれると思うと、たまらなくなって、目を閉じた。
「もっと楽にして。じゃ、見せてね。」
右上から、佳奈子が丹念に見ていく。時折、カルテにメモをしたり、
探針でカリカリ、と引っかいているのがわかる。恐る恐る目を開けてみると、
佳奈子が眉根を寄せ、厳しい顔をしていた。
「はい、いいわ。」佳奈子が体を起こし、椅子も起こしてくれた。
ずいぶんと長い時間に感じられた。緊張で、口の中がカラカラだった。
コップの水でうがいをしてみる。冷たい感じのするコップだ・・・よく考えると、初めての経験なのだった。
「えっとね・・」話し出す佳奈子の顔を、じっと見た。
「治さなきゃいけない虫歯が、9本あるの。でも、ほとんどC1だから、大丈夫よ。すぐ終わるわ。」
「9本も・・ですか」
「ふふ、私は10本あるのよ。ま、私と比べてほしくない、か。」
佳奈子は笑ってみせた。緊張をほぐそうとしてくれているのはわかったが、何も言えなかった。
「で、どうする?今日、もう治しちゃう?痛いってことはないけど。」
頭の中がグルグルして、考えられなかった。
「そうか、初めてだもんね。じゃ、1本だけ治そう。ちょっと安心できると思うわ。」
こくり、と頷いた。
「じゃあ、前歯の裏からいくわね。右の1番の裏。」
前歯まで虫歯にしてしまったんだ・・夏美の目に、涙が盛り上がった。
治療が始まった。エプロンをつけられ、椅子が倒される。
佳奈子が、タービンの先にチップをつけている。
その様子を心配そうに見つめる夏美に気付くと、佳奈子は微笑んだ。
「痛くはないわ。歯はね。」
そう、痛いのは心だ。普段の、自分の無神経さを反省した。
「はい、あーん。痛くないはずだけど、痛かったら、左手上げてねー」
ヒュイーン、という音をさせながら、タービンが近付いてきた。ぎゅ、っと目をつぶって耐えた。
ブゥン、ガガガガ、ブゥン、という振動が、歯から伝わってきた。
自分の歯が、なくなっているのだ、という気持ちに、涙が溢れ出た。
「はい、いいわ。口ゆすいで。」
くちゅくちゅ、とやって吐き出すと、歯のかけらのようなものが、流れていった。歯が・・
舌で触ると、予想以上に大きい穴が開いている。
またも涙が出てくる。
「ほら、泣かない。舌で触ると、大きく感じるのよ。実際はたいしたことないから。ほら。」
なぜわかったのか、佳奈子が、手鏡を差し出してくれる。ミラーで映してみると、たしかに、それほどの穴でもない。
「じゃ、詰めていくから。」
手早く、薬をつけられ、風を当てられ、別の薬、風、レジン・・・最後に、光を当てられて、
もう一度タービンで磨かれて、治療は終わった。
「舌に引っかかるとか、気になることはない?」
舌と鏡で確認して、こくり、と頷く。どこが治されているのか、全くわからなかった。
「こんな感じで治していくんだけど、平気?」
「はい。もう大丈夫です。ありがとう・・ございました。先生に診てもらって、よかったです」
夏美が言うと、佳奈子は、少し照れた。

「あ、そうだ、親知らずなんだけど」
「はい。」
「見たところ、一番虫歯が酷いから、抜いたほうがいいかな、と思うんだけれど」
「・・はい。」
「実は私、抜歯って得意じゃないの。特に、虫歯になってるとね。で、紺野先生に頼んでもいいかしら」
嫌だとは言えなかった・・が、夏に、佳奈子にきついことを言って、紺野にたしなめられた事を思い出すと、
この口の中を見られるのは、耐えられなかった。
「大丈夫よ。紺野先生、患者さんにはやさしいから」
・・・夏の、佳奈子を叱った様子では、そうは見えなかったが。
「じゃあ、明後日の夜にお願いしておくわ。次の治療は明後日にしましょ」
「どうもありがとうございました。」
「はい、お疲れ様。」
夏美の、初めての治療が終わった・・
次の治療の日。紺野がやってきた。
佳奈子に、「虫歯の親知らずを抜いてほしい」とだけ頼まれてきた紺野は、
治療台に、夏美が座っているのを見て驚いた。
「ん?患者さんって、金子君?」
紺野の顔をまともに見られず、うつむいたまま頷く夏美。
紺野が、傍らの佳奈子の顔を見つめる。
「そうなの。で、口の中見ても、何も言わないで。」
と、佳奈子が答える。
「なんだそれは・・ま、いいや、じゃ、見せて。」
紺野に促され、夏美が口を開ける。
「えっ・・」
今見たものが信じられない、といったふうにまばたきをして、ふたたび覗き込む紺野。
「これはまた・・どうかしたの?」
と、佳奈子に尋ねる。
「それが、わからないのよ。体は大丈夫そうなんだけど」
それを聞いた紺野は、何かひらめいたようだった。
夏美に向き直ると、
「ま、治すしかないな。それに、こんな虫歯だらけだと、彼氏に、虫歯をうつしてしまうよ。」
と言った。
それを聞いて、夏美が、あっ!という顔をした。
「虫歯って・・大人でも、うつるんですか??」
「うん、特に、付き合ってるなら、ちゃんと気をつけないと、うつると言われてるね。」
考え込む夏美。
「思い当たる節があったかな。」
「はい。彼氏が・・虫歯の多い人で。」
「うん、たぶん、それだろうね。さすがに、虫歯の彼氏がいるだろう、とも聞けなくて、
ああ言ったんだけど。」
紺野が笑う横で、佳奈子が少し暗い顔になっていた。
「私は、好きな人に・・虫歯をうつしてしまったりするのね・・」

「ま、とにかく、始めよう。萩原君、使って悪いんだけど、シンマと麻酔、用意して。」
そう言うと、紺野は、夏美のレントゲンと歯を見比べ、抜き方を考えていた・・

「ところで、金子君、この親しらずは痛みがあるの?」
「よくわかんないんです。歯茎の腫れのせいでうずうずしてるのかな、って気もするし
歯が痛いような気もするし・・・」
「そうか・・いや、あと3本の親しらずはきちんと生えてるから。
この左下を抜いたら、あとのも抜かなきゃならないし、勿体無いなと思ってね」
「・・・そうです、よね」
「レントゲン見ると、けっこう辛そうなんだけど、なにせ全部萌出してないから
判断しにくいところがあってね。虫歯になってるのは間違いないんだけど。
もうちょっと生えるのを待って、できそうなら治療する、っていう選択はない?主治医の萩原先生。」
すると、横に立っていた佳奈子が答える。
「もちろん、他の3本のこともあるから残したほうがいいかな、て思ったんですけど、
その8番はけっこうやられてそうだったから、痛む前に抜いてしまいたかったんです。
8番のせいで、その手前の7番の治療もやりにくいですし。」
夏美は、二人の歯科医を不安そうに見比べている。
紺野の意見に従うと、歯をぬかなくても(少なくともとりあえずは)いいが、痛くなるかもしれないらしい。
佳奈子の意見に従うと、早めに治してもらえるが、痛くない歯も抜かなければならない・・・
「どうする、決めるのは金子さんよ。どっちが正解ってこともないわ」
佳奈子に答えをせまられ、夏美は、ふと目の合った、紺野の意見に従うことにした。
こうして、夏美の、「C3に近いC2」の8番は、しばらく様子見という大義を与えられ、
放って置かれることとなったのである。
さすがに何もしないのは気になる、という佳奈子の提案で、乳歯に使用するサホライドを塗ってみることになった。いわゆる「進行止め」と言われる、歯が黒くなる薬である。
「俺も、実はもう何年も使ったことないんだけど」
と、小児歯科医である紺野が告白したので、夏美は少し躊躇したが、
「本格的に治療できないなら、塗った方がまし、気休めではなくて、一応効く」
と言われたので、塗ってもらうことにした。
歯を乾かしたり拭いたり、夏美はけっこう長い間口を開けさせられていた。2人の歯科医は夏美の上で会話をしている。
「どうして最近使わないんですか?虫歯が減ったから?」
「たしかに、小児の虫歯は減ってきてるけれど、まあ、子供が小さくても治療するようになったからだろうね」
「なるほどねー、少子化ですしね。たしかに昔は乳歯だからとかまだ小さいからとか・・けっこう進行止め塗ってる、って言う子は多かったですよ、私の子供の頃ね。」
「前歯ずらーっと付け根が黒かったりね。」
「・・そ、それ、私です・・・付け根だけじゃなくって、間も・・写真見ると怖いんですよね、はは・・」
佳奈子が言ったので、夏美は、幼稚園のカバンを斜めがけにした子供時代の佳奈子が、黒い前歯を見せて笑っている図を想像した。
・・ああ、いたいた、そういう子居たわ。
思い出しながら見上げると、ちょうど夏用の薄いマスクをした佳奈子の口の中が見えた。子供の頃黒い前歯を見せていたという佳奈子は、大人になった今、前歯の裏が4本黒い。
・・それにしても萩原先生、治療痕増えたなあ・・
夏休み前までは、佳奈子の上の歯は前歯以外は6番にインレーが2本あっただけなのだ。前歯以外は綺麗な歯だったと言っていい。夏休みの直前に2次齲蝕が見つかり、紺野の治療を受けていたのだ。最初の方の治療は夏美が補助をしていたのだが、途中から頼まれなくなったので、もうてっきりあれで治療は終わったのかと思っていたが、その後もかなり大掛かりに治したようだ。今見える上顎の奥歯はギラギラではないか。右は6番がクラウンで、7番も大きなインレーがはめられている。左の5番・・気付かなかったがどうやら前装冠を入れたらしい。下から見上げるとクラウンだ。7番もアンレーのような大きな銀歯が入っているし・・6番はまだ仮封に見える。まだ?根治でもしているのであろうか。もう秋。少し長すぎるようにも思う。
夏美の視線に気付いたのか、佳奈子は急にきゅっと口を閉じた。
・・あんなギラギラにはなりたくないわ。虫歯にはしてしまったけど、これからはちゃんと真面目に歯の手入れしようっと。
治療が終わり、口を濯ぎながら、夏美は心に誓っていた。

夏美のスケジュール帳とカレンダーに、
「歯医者」
という文字が加わるようになった。もちろん夏美の職場は歯科医院なので毎日歯医者には通っていることになるのだが、自分の虫歯の治療、という意味である。
勤務時間が終わってからの治療になるのだが、同僚と飲みに行ったり、習い事をしたり、デートをしたり、案外忙しい夏美の治療は、週に1回ということになった。全部で9本の要治療の虫歯が見つかり、最初の診察で1本が治療され、二日後の診察で一番ひどい虫歯になっている親不知は生えてくるまで様子を見ることになり、残りは7本。だいたいがC1だから、1回に1本ずつ治せばいいわ、と言われたので、つまり、これから約2ヶ月、毎週、虫歯の治療を受けることになるわけだ。スケジュール帳に「歯医者」と書き込む、友達と電話中、遊びに行く予定を立てるために目をやったカレンダーに「歯医者」の文字を見つける、夏美はそれだけでひどく気分が落ち込むのを感じた。

さて、「歯医者」の日。朝、いつも通り出勤するその足も、仕事の後に治療が待っていると思うだけで、なんだか重い。夏美はわざわざ治療のためだけに歯科医院にやってくる患者たちは偉い、と感心した。それも、痛い治療を受けている患者はなおさらである。後でタカヒロを褒めてあげよう・・おそらく夏美が虫歯になったのは彼、吉村タカヒロのせいだとはいえ、治療に通ってくるのは偉い、と夏美は思った。5月に会社の歯科検診でインレーの脱離放置2本と未処置の虫歯7本を指摘されていたタカヒロは、6月になって、この夏美の勤務する歯科医院にやってきたときには、さらにクラウンが1本脱離しており、詳しい検診で2次カリエスや新しい虫歯が3本見つかり、治療すべき虫歯は13本にもなっていたのであった。1回で治るような軽い虫歯はなく、さらに清掃が不十分なせいで歯周病もあると診断されたため、まだまだ完治は遠いようで、ときどき治療の痛みにうめきながらも通院中である。
「金子さん、ちょっと手伝って欲しいことがあるの、ちょっと残ってくれる?」
診察時間終了後、夏美は佳奈子に声をかけられた。綺麗な歯を自慢にしていた夏美の治療は院長以外には内緒なのである。助手や衛生士、歯科医師が帰り、医院には佳奈子と夏美だけになった。
「じゃあ、始めましょうか。」
「お、お願いします。」
ふふっ、と佳奈子が笑った。
「緊張してるわね?」
「あ・・はい・・あの・・」
「どうしたの?何でも言っていいわよ、その緊張に免じて許してあげる」
佳奈子は思ったより優しい。
「患者さん・・治療に来るの・・大変なんだなって。・・偉いなって・・思いました。」
佳奈子は頷きながら優しく微笑んだ
「気付いてくれてよかったわ、しかも、私たちと違って、知らない人・・怖そうな歯医者さんとか衛生士のお姉さんがいるところに行かなくちゃいけないのよ。・・って、これは紺野先生の受け売りだけどね。」
うつむいた夏美の背中を、佳奈子はポンポンと叩いた。
「ま、金子さんが治療怖いのは分かったけど、それを免除してあげることはできないわよ、ほら、座って。」
佳奈子に言われ、
「怖いんじゃないんですよ・・気が重いっていうか・・気が進まないだけで・・」
ぶつぶつと言い訳しながら、夏美は治療台に上がった。実際、怖いのとは違うのだ。この間1本治療してもらったが、あっさりと済んだので、怖いものではなかった。
「はいはい。今日は・・どこ治そうかしらね・・ちょっと見せてね、あーん」
治療台を起こしたままで、佳奈子は夏美に口を開けさせた。
「あー」
夏美は素直に口を開けた。その口の中をのぞきこんだ佳奈子は、ちょっと怖い目になり、手を伸ばしてライトを点灯すると、トレイからミラーを取って夏美の口に入れた。
「金子さん。」
ミラーをあちこちに当てながら、少し冷たい声で佳奈子が聞いた。
「あい・・」
夏美は口を開けたまま返事をした。
「ちゃんと、食後には歯、磨いてる?」
夏美はドキっとした。先週、佳奈子のギラギラになった口の中を見て、これからは真面目に歯の手入れをしようと心に誓った夏美だが、一度身に付いてしまった悪い習慣と言うのはなかなか直せないもので、実は昨日の夜は、飲んで家に帰り、眠かったのでそのまま寝てしまったのである。実はその2日前の晩も・・。ミラーが抜かれ、佳奈子に顔を覗き込まれたので、夏美は言い訳をした。
「あ、あの・・お昼、磨こうと思ったんですけど、午後の診察時間が迫ってて・・ちょっと口を濯いだだけで・・」
佳奈子はため息をついた。
「お昼だけならいいのよ・・・でもね、ちょっと、もう一回、口開けてくれる?」
静かだが、有無を言わせぬ調子で迫られ、夏美は仕方なく口を開いた。佳奈子はその口に探針を入れ、夏美の上の奥歯を引っ掻いて再び出した。夏美の顔の前に探針を見せる。その先には、歯垢と・・緑色の小さい四角いものが付いていた。
「金子さん、今日のお昼に食べたのは何?」
「・・サンドイッチです。」
「これ、ネギでしょう。サンドイッチにネギなんて入ってないわよね?」
夏美はうつむき気味に小さく頷いた。佳奈子はさらに続けた。
「金子さん、朝ごはんも食べないわよね。じゃあこれ、昨日のでしょう?寝る前に食べたものが歯に残ってるって、どういうことなの?」
おそらく、昨日の夜に食べたラーメンのだ。夏美はさらにうつむいて、口を開いた。
「す・・すみません」
「謝らなくっていいのよ。でも、寝る前はきちんと歯を磨いて。彼氏が虫歯が多くってもなんでも、きちんと金子さんが歯を磨いてれば、こんなにあちこち虫歯にはならなかったはずよ。」
夏美は唇をかんだ。
・・やっぱり、萩原先生は厳しい・・・
「すみません・・ちょっと、歯磨いてきます」
夏美は逃げるように治療台を降り、控え室に駆け込むと、歯を・・ざっと・・磨いた。さすがに治療の前に歯を磨かないってのは非常識だったわ。

診察室に戻ると、佳奈子がカルテを手に考え込んでいた。夏美の顔を見ると、軽く微笑んで言った。
「はい、おかえりなさい。で、どこから治そうかしらね・・・」
夏美は治療台に座り、自分でエプロンを付けながら、少し考えて、おそるおそる言った。
「あの・・前歯からやってもらえますか。目立つようになると嫌なんです。」
夏美の上顎の前歯は、左上2番から右上1番までの3本が虫歯に侵されていた。そのうちの1本、右上の1番は、すでに先週治療済みである。
「うーん、そんなにすぐに目立つようにはならないと思うけれど・・金子さんがそう言うなら、そうしましょうか。」
・・前歯・・困ったわねえ・・
佳奈子は考えた。実は前歯の中では、右上1番は一番軽い虫歯であった。最初の治療で怖がらせてはいけないと、簡単に済みそうなところを選んだのだ。今日もまだ夏美は少し不安そうなので、できれば今日も軽く済むところ・・右下6番の頬側の溝の小さい虫歯あたりを治療したかった。残る前歯、左上の1番と2番は、レジンで治療できるレベルではあるが、口の中の虫歯の中では大きいほうだ。おそらく、痛みが出るだろう。もう少し治療に慣れてからにしたいと思っていたのだが、治して欲しいと言われたら、断るのもちょっとおかしいし・・。
「じゃ、ちょっと見せてね・・」
言いながら、佳奈子は治療台を倒した。

ウィーン。
その振動が夏美の不安をかきたてた。
・・大丈夫、怖くなかったじゃない・・・
必死に先週の治療を思い出す。
「はい、お口開けて・・・」
夏美は、目を開けたままで口を軽く開けた。
佳奈子がライトを操作し、ミラーを夏美の前歯の裏にあて・・真剣に見つめている。

・・どっちにしようかしら。
佳奈子は夏美の左上の前歯2本を見比べていた。なるべく軽く済みそうなのは・・
2番の虫歯は1番との隣接面からはじまっているのだが、歯の付け根の方に向かっており、痛みが強いかもしれない。一方、左上1番はというと、右上1番と左上2番両方の隣接面から黒ずみが広がっている。特に2番からの方は少し深そうだ。
一瞬悩んだ後、佳奈子は1番を治療することにした。
「じゃあ、今日は左上の1番、治療しましょう。」
夏美は、口にミラーを入れられたまま、目で頷いた。
「あ・・前歯は痛みが出やすいから、麻酔、しておく?」
佳奈子が言った言葉に、夏美は怪訝そうな顔をした。
「でも・・前回大丈夫でしたから。要らないと思います。」
前回は小さかったからよ、という言葉を飲み込み、佳奈子は優しく言った。
「じゃあ、そのまま行くから・・痛みが出たら言ってちょうだいね。」
「はい。」
夏美は素直に頷き、人生で2本目の虫歯治療が始まった。
「はい、軽くお口開けて・・」
夏美は軽く目を伏せて、言われたとおりに軽く口を開けた。
佳奈子が左手で夏美の上唇を少しめくり、そこに綿をつめて視野を確保した。
・・変な顔になってるんだろうな・・・
夏美は、仕事中に見る同じ状態の患者の顔を想像した。
「じゃ、行くわね」
ミラーが前歯の裏側に当てられ、ヒュィイイイ、というタービンの音が近付いてきた。
夏美はなんとなく、目を閉じた。
チュィイイイイイイ・・・
佳奈子は、まず、右上1番との隣接面の齲蝕にタービンの先を当てた。
チュィンチュインチュイン・・
・・・あまり広がってませんように・・
チュィイチュィイイイ・・・
・・でも・・右よりは大きく食われてるわね・・・
少し目を細め、佳奈子は虫歯に侵された夏美の前歯をさらに削り取っていった。
プゥィイイイ・・ガガガガ・・・プィイイ・・
夏美は、自分の歯から骨を伝わって頭の中に聞こえてくる音を、身を削られるような気分で聞いていた。
・・ああ・・また・・私の歯が・・・
ガガガガガ・・・・
・・まだ終わらないのかしら・・・
チュインチュインチュイン・・
キュィイイイイ・・・・
ヒュゥウウウウウ。
ようやく、タービンの音が止まった。前回よりもずいぶん長かった気がする。夏美は、ほぅっ、と息を吐き、起こされるのを待った。
しかし、治療台が起こされるどころか、まだ夏美の口にはミラーが挿入されたままだ。
佳奈子はそのミラーをじっと見つめ、タービンを置いた右手でスリーウェイシリンジを取った。
「ちょっとエアかけるわね」
と言って、佳奈子は前からシュシュッ、とエアをかける。
佳奈子の表情から何かを読み取ろうと、夏美は佳奈子の顔をじっと見つめていたが・・何も変化はなかった。その代わりに、夏美は前歯に微かな痛みを感じた気がした。
・・ん?今のは・・何?
夏美がその感覚を確かめようと少し考えている間に、佳奈子は手首を返し、ミラーの表面にエアーを噴いて見やすくした後・・削ったばかりの夏美の前歯の裏にエアをかけた。
シュッ、シューッ。
「ん、ん!」
夏美は、思わず声を上げた。同時に、ビクン、と体がつっぱる。
・・い、いた・・・痛かった・・・よね?
しかし一瞬だったのでよくわからない。怯えたような目になって、夏美は佳奈子を見上げた。
その目に気付いた佳奈子が口を開く。
「ちょっと沁みたかしら・・大丈夫?」
大丈夫?と聞かれて、頷く他になんと答えればいいのだろう。
夏美が目で頷くと、佳奈子は微かに微笑んで、続けた。
「そう、良かった。じゃ、前からも少し削るわね」
・・え?え?
と夏美が思っているうちに、佳奈子の右手でタービンが音を立て始めた。
左手の人差し指で夏美の上唇をガードしつつ、タービンの先を歯に当てる。
キュぃイ・・・
・・前からも、って・・それじゃ・・穴が開いちゃ・・・
キュキュキュィイイイイイ・・・
心配している夏美を、今度は・・鋭くはっきりした痛みが襲った。
「んん、んんんっ!」
体に力が入り、ここまで、不安な色を浮かべつつも無表情だった顔が苦痛に歪んだ。
・・いたい!いたい!いたいよ先生!
・・・ああ、ついに痛みが出ちゃったのね・・でも、ここでは止められないわ・・・
「あー、金子さん、もうちょっと、もうちょっとで止めるから頑張って・・」
励ましつつ、さらに齲蝕した前歯にタービンの先を食い込ませる。
キュィイイイイ・・
「んぁあ、はあああ・・・」
チュイチュイチュイイイイ
「んぁああ・・」
チュイ・・
「ぃはぁ・・」
ヒュゥゥゥ。
ようやくタービンの音が止んだ。夏美は、体から力を抜き・・
「は・・ぁは・・ぁはん・・」
口をまだ半開きにしたまま、目を閉じて、喉の奥から声を出してしゃくり上げ始めた。
「齲蝕が、思ったよりも広がっていてね・・長く削らないといけなかったの。痛かった・・わよね?」
佳奈子の声に、夏美はうっすら目を開けて、こくこくと頷いた。あふれ出る涙を、佳奈子がガーゼで拭ってくれる。
普段、痛がる患者を冷ややかな目で見ているのに、自分は痛みで涙まで流してしまった。居たたまれない気分だった。
・・虫歯の治療って・・こんなに痛いんだ・・・
前歯がどのくらい削られたかということよりも、今は痛みが辛かった。
「じゃあ・・」
佳奈子が口を開いた。続く言葉に、夏美は一瞬泣き止んだほどショックを受けた。
「麻酔、しましょうか。」
・・ど、どうして・・?終わりじゃないの・・・?
夏美の表情を読んだ佳奈子が口を開いた。
「まだ取りきれてないから、もう少し削らないと。」
・・ま・・まだ・・
ショックはさらに続いた。
「それにね、もう一方・・2番からやられてる方からも削らないといけないのよ。見た感じ、こっちの方が、少し大きいはずよ。」
麻酔のシリンジを取りに佳奈子が席を立った後、夏美は、ぼんやりと口を開け、削られて不恰好に隙間の空いた前歯を晒したまま放心していた。
・・ああ・・もう・・歯の治療なんて・・・イヤ・・・
しかし、治すべき歯はこれからまだ7本もあるのだ。
夏美は、この先の治療を思って、また涙を流していた。

「あら、また泣いてるの?そんなに痛かった・・?・・ムリにでも、最初から麻酔してあげればよかったわね。」
佳奈子が、申し訳無さそうに言う。
「じゃ、打つわよ。麻酔、したことは?」
たしか、乳歯を抜くときにしたことがあると思う。夏美は頷いた。
「表面麻酔は・・・した方がいいかしらね。」
綿球に取ったゼリー状の麻酔が、夏美の歯茎に塗りこまれた。甘いような匂いが口に広がった。
「じゃあ、ちょっとチクッとするわよ・・楽にしてね」
夏美は、近付いてくるシリンジを見て、少し怖くなって目を閉じた。チクッという刺激と、熱がそこから広がるような感触があった。
「裏からも行くわ、口開けて」
夏美は言われるままに口を開けた。チクッ、じわー。針が抜かれ、少し漏れた薬は苦かった。
「じゃあちょっと、口ゆすいでてね」
「はい」
佳奈子はカルテを記入している。夏美は自分で起き上がり、口をゆすいだ。うまく閉じられない口から、水がこぼれる。
・・本当にこんなふうにこぼれちゃうのね・・
夏美はふと気になって、舌で削られた左上1番を探った。
!!
かなり大きく開いているような気がする。舌で触ると実際より大きいって・・先週言われたけど・・・
夏美は見回して、トレイに置かれている手鏡を取った。
カルテを書いている佳奈子が、ちら、と視線を上げて夏美の動きを目で追った。
・・あぁ・・
夏美は、ため息を漏らした。舌で触って感じていたよりは小さかったが、隙間は確実にそこにあった。そして、少し茶色く変色した齲蝕部分が微かに残っているのも見えた。これまでは表に白い歯が被っていたので気付かなかっただけだ。鏡に映る顔は自分の見慣れた顔なのに、前歯だけがいつもと違い・・・そしてそれは見えないように治してもらえるとしても、自分の真っ白い無傷の前歯はもう戻ってくることはないのだと、夏美はまた頬を濡らしていた。
「そろそろ、いいかしら?」
手鏡を手に、茫然と涙を流す夏美に、佳奈子が遠慮がちに声をかけた。
「あ・・はい、すみません」
夏美は手鏡をトレイに戻し、手で涙を拭くと、再び横になってヘッドレストに頭を合わせた。
「じゃ、行くわね・・・」
ヒュィイイイイイイ・・・
再び、タービンの音が診察室に響き始めた。
ヴィン、ヴィン、ヴィン・・・
前歯から振動が伝わってくる。
ビクッ。ビクッ。
夏美はときどき体を固くした。
「痛いかしら・・麻酔したでしょう・・大丈夫よ・・・」
・・麻酔したって・・効かないじゃない!!
振動の核に、たしかに鋭い痛みがある。
いや、たしかに、大きな痛みは消えた気がする。しかし、鋭い痛みは消えていない。むしろ、それが強く感じられるようになった気さえする。
チュインチュイン・・・
「・・んっ!・・・んんっ!」
「ちょっと神経に近いところ削ってるからね・・頑張って・・・」
「・・ぁんっ!!」
ヒュゥゥウ。
ようやくタービンの音が止んだ。ホゥゥ、と、夏美は大きく息を吐いた。沈み込む体に、ようやく、背中をずっと突っ張らせていたことに気付く。
「・・はい、こっちはいいわ。」
・・ああ、まだ終わりじゃなかったんだっけ・・
しかも、残っている方は、より大きいと言われているところのだ。
・・ちょっと・・ムリ・・・
とても堪えられるとは思えない。
「あの・・せんせい・・・」
タービンのバーを選定している佳奈子に、ためらいがちに声をかけた。
「なあに?・・あ、お口ゆすぎたい?いいわよ。」
佳奈子が少し首をかしげるように振り向いた。
「いえ・・あの・・・ムリです・・」
「何が?治療台起こさなくても、ゆすげるわよね。」
「ち、違うんです・・もう・・今日は・・・これ以上は」
夏美は小さく首を振りながら、涙を流した。
「あら・・困ったわね・・」
困らないだろう。もう1箇所は別の日にやってくれればいいのだ。夏美は逃げられないのだし。
「逃げたり・・しませんから」
懇願する様子がおかしかったのか、佳奈子がふっと笑ったような気がした。あるいは夏美の被害妄想かもしれない。
「たしかにかなり痛そうだったし・・そうしてあげたいとは思うんだけどね・・それは難しいわ。」
今度は佳奈子が首を振った。
・・なんで?先生、いじめてるの?私が夏休みにひどいこと言ったから?
夏美は恐怖と後悔で震えそうだった。
「別々の齲蝕ならいいんだけれど・・削ってみたら、後ろで、両方の齲蝕がつながっちゃってるの・・」
佳奈子が悲しそうに言った。
「一つの虫歯の途中まで削って、できたところまで埋めますってわけには行かないのよ。」
佳奈子が体はトレイの方に向け、首だけひねって夏美に語りかけているせいか、肩越しに見下ろされているような気分になってきた。
「だから残念だけど・・我慢して治療受けてちょうだい。」
夏美は、まさに絶望に、目を閉じた。
たかが、身体のほんの小さな一部分が虫に食われたというだけで、こんなに自分が振り回されるなんて。
夏美は、虫歯の恐ろしさをようやく実感し始めていた・・・

「お口、ゆすがなくて良い?」
佳奈子の声に目を開ける。
いいです、と言いかけたが、ふと、少しでも時間稼ぎをしたくて、首を振って夏美は起き上がった。
コップを取って水を口に含み・・
「んぃ!は!」
口を閉じ、水が上の前歯に当たった瞬間、激痛が走る。
思わず口を開けてしまい、口に含んだ水が、ダバ、と夏美のエプロンにこぼれた。
そのまま水の一部はエプロンの上を滑り降り、夏美のジーンズを濡らす。
「あらあら・・沁みた?」
佳奈子が立って、タオルを取ってきてくれたが、すでにほとんどの水分はジーンズが吸った後だ。
よりによって、水は腿の間を通り、そこからチェアに広がって、ジーンズのお尻から背中を濡らした。
「うーん、冷たいでしょ・・タオル、お尻に敷いてみる?」
佳奈子はいろいろ気遣って拭いたりしてくれたのだが、夏美はその変な部分に感じる冷たさで、歯の痛みにも増して情けなさが募ってきて、本格的に泣き出してしまった。
「ぅ、ふぇぇえええ・・・」
佳奈子が困ったように首を振って言った。
「んー・・もう今日は治療は無理かしらね・・でも、その歯、そのままってわけにはいかないわよね・・仮封用じゃ不自然だし・・すぐに取ることになるけど、埋めておきましょ。」
そうして、夏美は前歯をレジンで埋めてもらい、なんとかその日の治療が終了した。しかし、きちんと治したわけではないので、次の治療の予定を早く入れなければならない。2日後に治療の予定を入れ、夏美はようやく、つらい患者の立場から解放されたのだった。