桜野高校の昼休み。
2年B組の大野香緒里は、廊下で、担任の真鍋先生に声をかけられた。
「大野さん。」
「はい。」
「大野さん、このあいだの歯科検診の日、お休みだったわよね。」
「ええ・・風邪を引いてしまって」
「今日、歯科検診をお休みした人のために、もう一度、歯科の先生が来て下さってるの。
今から保健室に行ってもらえる?」
香緒里の顔が、一瞬強張った。
「大丈夫よ、一人じゃないから。けっこうたくさんいるみたいよ。
私が養護の先生に怒られちゃうから、ちゃんと行ってね。」
「はい・・・」
香緒里は、重い足取りで保健室に向かった。

歯医者の嫌いな香緒里が最後に歯医者に行ったのは、小学校4年生のときだった。
その後も、年に一度の忌まわしい歯科検診で、虫歯は見つかっていたが、
「歯科受診のおすすめ」を親に渡さないという方法をおぼえ、そのまま放置していた。
しかし、高校に入ってからは、歯科検診の日に休めばいいんだ!と思いつき、
去年と今年の歯科検診をパスしていた。今年もうまくいったと思ったのに・・・・
なんで検診をもう一度やるなんてことになったのだろう。しかも抜き打ちで!

「失礼します」
保健室に入ると、すでに10人ほどの生徒がいて、皆、暗い顔をしていた。
養護教諭の牧野が、香緒里を見つけてやってきた。
牧野は、オールドミスと陰口を叩かれる、怖い中年の女性だった。
「はい、クラスと名前。」
「2年B組の大野香緒里です」
「大野さんね・・・」
健康診断簿の中から、香緒里のものを抜き出した牧野が言った。
「大野さん、去年も歯科検診、休んでるわよね。見られたくないものでもあるのかしらね。」
「いえ、風邪を・・」
「ま、いいのよ、どうせわかることなんだから。中学から送られてきているあなたの健康診断書に、
未処置の虫歯があるって書いてあるのよね。どうせ治してないんでしょ」
香緒里が無言なのを見て、牧野はさらに得意そうに続けた。
「歯科検診の日は、いつもより、欠席者がちょっと多いのよ。で、ピンと来たわけ。
今年から追加検診を、いきなりやることにしたの。正解だったわ。
今のところ、5人終わったけど、欠席した生徒の方が、口腔状態がひどいのよね。
あなたもその口でしょう。」
香緒里は、うつむくしかなかった。
「うまく逃れたって思ってただろうけど、私の目だって節穴じゃないのよ。
でも、あなたたちの健康のためにやってることだから、ね?
まあ、うちの学校は、生徒の自主性を重んじる、って主義だから、結果を家に送ったりはしないわ。
それでどうなっても、あなたの責任だから。でも、自分の歯の状態は知っておいてもらいたいの。」
そこで、次の生徒が入ってきたので、お説教は終わりになった。
歯医者に行かされるわけじゃないなら、いいかな・・と、楽天的な香緒里は思い始めた。
みんな、歯科検診逃れなのね。そう思って周りを見ると、皆、バツの悪そうな顔をしている。
香緒里よりもふたり前に並んでいるのは、去年同じクラスだった、麻衣だ。いつも威張っていて、嫌いだったのだが、
今は泣きそうな顔をして、おとなしい。ちょっと、いい気味だ。
その前にいるのは、同じクラスの雅子。文芸部で、おとなしく、真面目な子、くらいにしか思っていなかったが、
彼女も、歯医者が嫌いなのかな・・・ほとんどしゃべらないし、笑わないので、どんな歯をしていたかなんておぼえていないが。
そのとき、
「やっぱり、嫌ぁっ」
という悲鳴が聞こえた。歯科医の前の椅子に座るのをいやがっているようだ。助手らしき女性に、腕をつかまれている。
「なんにもしないから。診るだけだから。」
よっぽど嫌なのかしら、と、声を上げている生徒をみると、一学年上の、中野香織だった。
香織は、顔がかわいく、成績も優秀、スポーツも得意、と、下級生の憧れの的だった。
香緒里も、名前が似ているので、少し気になっていたのだが。
まわりも、自分のことを忘れ、アイドルの運命を、やや興味津々で見守っている。
牧野と助手に腕をつかまれ、椅子に座らされると、助手が、後ろから、容赦なく香織の口を開けさせた。
「ほーぅ。」
歯医者が、感心したように言った。
「こりゃひどい・・かわいい顔してても、歯がこれじゃねえ」
香織はすでに、硬直してしまっている。香織を見つめる生徒たちの視線に、少し残酷な光が混じった。
「じゃ、左上から・・7番C3、6番さんかく、5番C3、4番C2、3番斜線、2番C2、1番C2、右行って1番C1,2,3、4斜線、5番C3、6番さんかく、7番C2」
それはさすがにひどいわ。虫歯だらけじゃない。と、香緒里は思っていた。数年後、虫歯を放置した自分が同じような状況になることは、想像もしていない。
「下行って、8番C2、7番C3、6番C3、5番C2、4番まる。3番まる。2番から左下4番まで斜線。5番C2、6番C3で7番まる。8番C2、以上です」
香織は泣き出してしまったが、歯医者はそれにかまわず、言った。
「ボロボロだね。特に、詰め物が取れたのを放置したり、治療の途中でやめるのは良くないな。これだと、30前に入れ歯だよ。
気付いてないかもしれないが、虫歯やら膿やらで、口もかなり臭いよ。かわいい顔が台無しだ。」
涙を拭きながら出て行く香織を、皆が哀れみの目で見送った。
「はい、次。」
そうだ。自分も検診があるのだ。そして、他の生徒に聞こえているのだ。ということに、気が付いた。そっちの方がやだな・・・
「ねえ、あなたも、歯科検診、わざと休んだの?」
前に並んでいる生徒に聞かれた。どうやら、3年生だ。
「・・はい。」
「そうなんだ。別に、歯科検診なんて、たいしたことじゃないじゃん。私は法事があって休んだけどさ、そんなに嫌なものなの?」
「歯医者に行かされるのが、嫌で」
「へえ。私、生え変わるときに奥歯抜きに行ったくらいだから、わからないや。
ま、怖いもの知らずの香織も、あんなに放っとくくらいだから、嫌なとこなんだろうね」
彼女は、興味深そうに言った。たしかに、歯も丈夫そうだ。
「中野さん、かわいそうでした・・」
「ん?でも、香織の口が臭いのは、クラスでは有名だよ。
最近、彼氏に振られたらしくて、本人は理由がわからないとか悩んでるけど、私らに言わせれば、
口が臭いせいだと思うなあ。ちょっとキスとか無理だよね。内緒話もけっこうキツいもん。
前歯も黒くなってるし、治せばいいのに。」
彼女は、他人の不幸は蜜の味、というように、少しおもしろそうに言った。
「そこ、静かに。」
牧野に注意されたので、2人で顔を見合わせて、口をつぐんだ。

雅子の番になった。後ろがさわがしくてよく聞き取れなかったが、どうやら、前歯がかなり虫歯らしい。
「女の子なんだから、ちゃんと治さないと。」と歯医者に言われている。
「そういう、女の子だからとかいうの、良くないと思います」雅子が抵抗するが、牧野に、
「女の子だからとか関係なく、そんな前歯、さっさと治しなさい!見た目が汚らしいのよ!」
と、怒られ、おもしろくなさそうに、保健室を出て行く。
前歯が虫歯になったら、さすがに治すわよ、みっともないもん、と、思う、高校2年生の香緒里であった。
次は麻衣だ。
「おねがい、します」
礼儀正しい麻衣に、歯科医は満足そうだ。
「はい、じゃ、口開けてー。もっと大きく開けてもらえるかな」
すかさず、助手がうしろから口を開かせる。
「まあ、それほどでもないけどね、この、6歳臼歯の銀歯、3つも取れちゃってるけど、いつ取れたの」
「中学2年のときと・・・去年です」
「中学のはこっちかな。ずいぶん放っておいたね。歯が欠けて、なくなっちゃってるよ。」
「歯・・抜かれちゃうんでしょうか」
「この、古いのは抜くことになるかもしれないね。」
麻衣が、体を硬くするのが後ろからでもわかった。
「ま、とにかく、歯医者に行かないと治らないから。ちゃんと行くんだよ。」
「ありがとうございました・・」
抜くなんて、大変そうだけど、あんまり虫歯なくて、正直、つまらない、と香緒里は思った。

次は、歯の丈夫そうな3年生の番だ。早く終わりそうだ・・・その次が・・・香緒里は、緊張してきた。
たしか、中3の歯科検診では、奥歯が5本くらい虫歯だと言われた気がする、と、頭の中で考える。
特に痛いところは、ない。舌で、歯を触って確認していく。
ああ、左上の銀歯が、このあいだ、キャラメルを食べていて、取れてしまったのだった。でもこれは虫歯って言わないかな。
あと、前歯の間が一箇所、ひっかかるような気がするけど、気のせいかも。
と、都合よく考えていると、前の3年生が歯科医に注意されているのが聞こえてきた。
「まあ、歯の丈夫な人は、歯磨きも雑になるからね。どうしても多いんだよ。若くても。
歯周病っていうと、歯槽膿漏のことだからね。ちゃんとケアするように。」
彼女は、うなだれている。
この人、歯槽膿漏だったんだわ。思わず、冷たい目で見てしまったようで、
帰り際、目が合った彼女は、視線を伏せて、逃げるようにして、帰って行った。

「はい、次。」
いよいよ香緒里の番だ。
覚悟を決めて、口を開ける。
「んー、たいしたことなさそうだけど・・・ああ、でも、ちょこちょこ虫歯を溜め込んでるね。」
歯科医の言葉に、鼓動が速くなる。
「じゃ、左上から行きます。7番、C1。6番、C3。5番、C1。4番3番斜線、2番C2。1番から右の4番まで斜線、5番C1、6番まる、7番斜線。」
ときどき、カリカリカリ、と、探針で引っかかれるたびに、びくっとする。
「下行って、7番斜線、6番まる、5番C1、4番まる、3番から左の4番まで斜線、5番C1、6番まる、7番斜線、です」
口を閉じると、ミラーの消毒液の匂いが口の中に広がった。
「まず、つめものが取れたら、すぐに歯医者に行くこと。放っておくと、虫歯が大きくなるし、
大きい虫歯になると、そこから虫歯が口の中に広がっていきやすくなるからね。」
つめなおしてもらうだけで済むなら、行くわよ、と、香緒里は思っていた。
「ひどいのはないんだけどね、歯の間に小さい虫歯が多いね。
ちゃんと歯が磨けてないんじゃないの?」
そう言って、歯科医は笑った。香緒里は、カッと赤くなった。こういうことを言われるから、行きたくないのだ。
「こんなに虫歯があったら、恥ずかしいよ。彼氏にも嫌われるよ」
「彼氏なんて、いません。」
「そりゃよかった。彼氏ができて恥ずかしい思いをする前に、早く治すんだね。きっと長くかかるからね。」
このセクハラおやじめ、と、香緒里は、椅子から立った。
彼氏に、歯なんか見せるわけないでしょ。
女子校育ちで、まだ彼氏のいない香緒里は、そんなことを思いながら、保健室を出た。

1ヵ月後。「歯科受診のおすすめ」の紙が配られた。
未処置 7本
と、くっきり書かれているのを見たときは、一瞬胸が痛んだが、
帰り道、駅のゴミ箱に、丸めて捨ててしまい、香緒里は、歯のことを心の中から、消し去った。

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