9月も中旬になり、大学の長い夏休みが終わる日が近づいてきた。
香緒里の歯の治療も、香緒里がなれてきたこともあるのか、
少しずつだが着実に進み、右上の奥から2番目と、左上の一番奥は、
クラウンが入り、完治していた。
前歯の根も綺麗になり、差し歯の土台立てまで済んでいる。
次回の治療で完全に治るらしい。
だが、他の歯が着々と治っていく一方、例の左上の奥歯の治りは悪かった。
何度根を掃除してもらっても、次に行ったときには中が膿んでいる。
「中がうずく」と言っては薬で抑える日が続いていた。
「香緒里さ…その歯、そろそろ限界じゃないか?」
「…」
「薬が切れたときの痛みも前より酷そうだし」
「…そんなことないよ。第一、抜かなきゃならないなら、荻原先生がそう言うはずよ」
「それはそうなんだけど…」
なんだか釈然としなかったが、我慢しているのも歯を抜くのも香緒里だから、
俺は強く出られなかった。
次の日の夜は台風だった。
風が酷くならないうちに香緒里の家に向かう。
ドアを開けた香緒里の顔を見て、驚いた。
「それ……。左、凄い腫れてない? どうしたの?」
「さっき急に痛くなって…でも薬飲んだから大丈夫だよ」
そう香緒里は言って俺を部屋に入れたが、どう考えても大丈夫な腫れ方ではない。
案の定、しばらくすると、
「駄目…痛い、痛い、助けてぇ」
と泣き出した。
確かこういうときは仮の詰め物をはずせ、って言われてたっけ。
「外そうか?」
「でも…薬が抜けちゃう……痛っ!ああぁん…!」
「そんな、薬なんて言ってる場合じゃないだろ!もう、外すよ!」
俺が強く出ると、香緒里は反論しなかった。
荻原先生に言われたように、爪楊枝で引っかけると、蓋は簡単に取れた。
蓋に絡まってきた綿も一緒に引っこ抜く。
「ひぁっ!」
その瞬間、香緒里が悲鳴を上げる。
歯の奥から、膿がとろ~っと流れ出てきた。
でも、それは少しだけで、左頬の腫れは全くひかない。
「痛ぁい、うぅっ、ひっく」
「全然良くならないの?」
「う…ん、歯は…わかんない…頭がいたいよぉ」
時計を見ると、今日の診療が終わったところだった。
ここからだと半時間程かかるが、今電話すれば間に合うかもしれない。
「香緒里、歯医者行くよね?電話して聞いてみるから。」
香緒里は返事の代わりに、左頬を押さえながら支度を始めた。
電話に出たのは紺野先生だった。
香緒里の状態を伝える。
『それは良くないな…今のうちに来た方がいい。
台風の進みは遅いらしいよ。夜中来て、抜けるのは明日の昼だって。』
電話の向こうで紺野先生が言った。
明日の午後までなんて、待てる訳がない。
「すぐ行きます」
『ああ、急がなくていいよ。今日はもう一仕事あるからね。じゃあ待ってるよ』
お礼を言って電話を切る。
すぐに歯医者に向かった。
さっきから香緒里は押し黙ったままで、左頬をさすっている。
「痛い…よな?」
当たり前のことを聞いてしまった。香緒里はこくんと肯き、
蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「……抜かれちゃうよね」
「それは…萩原先生に聞かないと…」
答えながら、もうこの歯を残すのは無理だろうな、と思った。
「こんなになるなんて、思ってなかったの。
どんなに放っておいたって、削れば絶対治ると思ってたの。抜くなんて…」
のどをつまらせながら香緒里が言う。
その後は言葉にならず、俺も何も言えなかった。
歯医者に着いた。
『もう一仕事』の言葉通り、治療室の蛍光灯も点いたままだ。
ドアを開けると、出てきたのは萩原先生だった。
「香緒里ちゃん、その顔…」
「今日の夕方から腫れてるらしくて、仮詰めは外したんですけど…」
香緒里はしゃべるのもおっくうそうなので、代わりに俺が答える。
「レントゲン撮るわね。ちょっと待ってね。今金子さんやってるから」
金子さん?と思っていると、治療ブースから例の美人助手が、
口を拭きながら出てきた。
「終わりました。レントゲンですね。」
そう言って、レントゲン室の方に香緒里を連れて行く。
荻原先生は香緒里の治療ブースのセッティングを始めた。
レントゲンを撮って香緒里が戻ってきた。
「現像が終わるまで、さっと見せてね」
萩原先生にそう言われて、香緒里はおとなしく口を開いた。
「…やっぱり膿んでるわね」
そう言って萩原先生は眉をひそめた。
前後の歯が金属で覆われ、ちゃんと治っているだけに、
こうやってみると真ん中の歯がいかにも痛々しい。
抜いたらどうするって言ってたっけ。確か前後の歯と繋ぐのだったか。
そこに助手がレントゲンを持って戻ってきて、シャーカステンに掛けた。
それを見た荻原先生の目が、大きく瞬かれ、そして静かに伏せられた。
「…ごめんなさい、香緒里ちゃん。やっぱりこの歯は残せないわ。」
聞いた香緒里の目に、再び涙が浮かぶ。
「もっと早くレントゲンを撮るべきだった。私のミスだわ。
どうしたって残せない歯だったのよ。本当にごめんなさい。
無駄に痛い思いをさせたわ。」
「ふ、うぅっ、ひっく、」
香緒里が声を立てて泣き始めた。
「とりあえず、抜きましょう、抜くと膿も抜けるから」
そう言って荻原先生が促すが、香緒里は泣くだけで、口を開けない。
「香緒里ちゃん…」
「いやっ、やぁあっ!」
口を開けようと掛けた先生の手も払いのけてしまう。
「香緒里ちゃん…もうこの歯は抜くしかないのよ。
お願い。 泣いてもいいから、とりあえず抜かせて。」
暴れる香緒里を、助手と俺とで押さえる。
手足を押さえられて流石に諦めたのか、香緒里は泣きながら正面を向いた。
「口を開けて、香緒里ちゃん、おねがい、開けて」
そう言われて、渋々香緒里は口を小さく開けた。
そこに荻原先生が素早く指を入れ、大きく開く。そして、
「ごめんね」
そう一言つぶやいて、プラスチックの器具をさっと入れた。
その器具で香緒里はの口は、大きく開かれた状態で固定された。
香緒里には悪いが少し格好悪い。
「ごめんね。でも抵抗されると時間がかかっちゃってかえって大変だから」
萩原先生が、ミラーを手に、香緒里の口の中をのぞきこむ。
「うーん・・大分腫れてるから・・切開したほうが良いかもしれないわ」
香緒里がびくっとなる。
「ちょっと待ってね。」
そう言うと、荻原先生は、奥に戻り、紺野先生を連れて戻ってきた。
二人で香緒里の口をのぞき込む。
「切開した方がいいでしょうか?」
「そうだね…ほとんど根しか残ってなかったから、一部歯肉がかぶっちゃってるよね。
抜髄なら気にならないところだけどね。
膿瘍も大きいし、切開した方が後がスムーズだよ。」
「やはりそうですか…」
「僕がやるよ。抜歯は好きじゃないんだろう?」
「ええ…、お願いします。」
紺野先生が椅子に座った。初めての先生だからだろう。
香緒里はあからさまに怯えている。
「大丈夫よ、紺野先生は小児歯科のお医者様だから。優しいわよ。」
そう言って荻原先生は香緒里に微笑みかける。