「大野さーん。大野香緒里ちゃーん」
衛生士に呼ばれて、小学4年生の香緒里は、待合室の椅子を降り、診察室に向かった。
小学校の歯科検診で虫歯を指摘され、治療勧告をもらったという、典型的な受診動機である。
そして、香緒里にとっては、3年ぶりの歯医者であった。

香緒里は、乳歯の頃から虫歯が多く、小学校に入るころには、奥歯は全部銀歯になり、
口を開けると、子供とは思えないほどにギラギラしていた。さらに、上の前歯も虫歯になり、黒い薬が塗られていた。
小学校1年生の夏、奥歯のアマルガムが取れ、歯医者に行ったところ、
生えたばかりの6歳臼歯下2本の虫歯が発見され、そこもアマルガムで充填された。
母親の詩織は、歯が丈夫な性質で、以前から香緒里の虫歯については気になっていたが、
永久歯まで虫歯になってしまったことにショックを受け、虫歯予防にやっきになった。
おやつは禁止し、夜は詩織が歯の仕上げ磨きをした。
その甲斐あって、上の6歳臼歯と、新しく生えてきた前歯の永久歯は、なんとか新しく虫歯にせずに済んでいた。
しかし、3年生になり、さすがに面倒になったこともあり、詩織は、仕上げ磨きをやめた。
ちょうどそのころ、香緒里が幼稚園のときから習っているバレエ教室が移転し、
少し離れたところにある教室に電車で通うことになった。幼なじみの百合子が一緒だった。
百合子は、お小遣いをもらって、バレエ教室の行き帰りに、お菓子を買って食べ、スポーツドリンクを飲んでいた。
香緒里は、家ではおやつを禁止されていたが、そこは小学生の子供である。おやつを食べたくないわけがない。
一緒になって、お菓子を食べ、スポーツドリンクを飲むようになっていた・・・

4年生になって、6月の歯科検診。
「はい、次。」
香緒里の番だ。最近、歯医者に行かずに済んでいるので、少し余裕があった。
さほどドキドキせずに、素直に口を開けた香緒里だったが・・・
「右上、6番、C2。」
いきなり、虫歯を指摘され、香緒里はびくっとする。
この間、虫歯について教えられたところで、C2は「少し進んだ虫歯」と習った。
最近、お菓子を食べているからだ・・夜の歯磨きも、適当にすませることも多かった・・
どうしよう、お母さんに怒られる・・
香緒里は、自分の心臓の音が聞こえてくるような気がした。
反対側の6番も、虫歯になっていた。
歯科医はため息をついた。このくらいの年頃になると、
塾に通ったり、歯磨きが雑になったりする児童が増え、虫歯も増えてくるのだ。
この子は見たところ、乳歯の奥歯は全部虫歯にしてしまったようだし、
ここらで、釘をさしておかないとな・・・と思って、口を開いた。
「この奥の、大人の歯、全部虫歯にしてしまったね?これから、また一番前の奥歯も生え変わるけど、
ちゃんと歯磨きしないとダメだぞ。また、子供の歯みたいに、全部銀歯になるよ。」
香緒里は、泣きそうになっている。歯科医は、さらに続けた。
「ほら、歯磨きがうまくできてないじゃないか。」
香緒里に手鏡を持たせ、口を開けさせると、探針で奥歯の内側を引っかき、
歯垢を取ってみせる。
香緒里は、真っ赤になった。クラスメイトの見ている前で、そんなことをしなくてもいいのに・・
「ちゃんと、歯医者さんに行くように。」
歯科医は、最後にそう言って、香緒里を送り出した。
香緒里は、うつむいたまま、部屋を出ようとした。
後ろに並んでいる男子から、
「ちゃんと歯磨けよ!きたねえな!」
と声がかかる。香緒里は泣き出し、走って部屋を飛び出すと、教室に戻った。

その後、親友の智子が、その男子を怒ってくれたらしい。
歯のことでいじめられることはなかったが、香緒里の気分は重かった。
そしてついに、3週間後、歯科検診の結果のお知らせは配られた。
上の左右の6番の位置に、C2の文字が書かれている。
お母さんに怒られる・・・
そう思い、香緒里は、お知らせをそっと、お道具箱の下に隠した。

しばらくして、香緒里の下の左右の一番前の奥歯(D)が生え変わり、
夏休みには、上の右の同じ歯も抜けた。
銀歯が減ったことがうれしくて、香緒里は一生懸命磨いていたが、
バレエ教室の帰りのお菓子と飲み物の習慣は続いていた。

夏休みが終わり、秋が来て運動会も終わるころ。
香緒里は、突然、母に言われた。
「香緒里ちゃん、何かお母さんに隠してることない?」
「え?ないよ」
歯科検診の結果だけでなく、買い食いを含め、実はいくつか隠し事があった香緒里は、
とりあえず、とぼけてみせた。
「そう?今日、スーパーで、智子ちゃんのお母さんに会ってね。
香緒里ちゃん、虫歯が多くて大変みたいですね、って言われたのよ。」
香緒里は凍りついた。
「歯科検診の結果は?もらったんでしょ?どうしたの?」
「・・学校に・・置いてきちゃった・・」
「じゃあ、明日持って帰ってくること。予約入れておくからね。いい?」
香緒里は、頷くしかなかった。
智子がお母さんにしゃべったんだ・・ということもショックだった。
男子からかばってくれる振りして・・

次の日、香緒里は、机の中から、お知らせを取り出した。角が少し折れ、よれっとしている。
その紙を見た詩織は、
「また大人の歯が虫歯になってるじゃないの!もう生えてこないのよ!」
と、香緒里を叱りつけた。香緒里は泣きながら、母に手をひかれて、歯医者に行った。
以前通っていたところは、腕はいいと評判だったが、
いつも混んでいるので、近所にできたばかりの、新しい歯医者に向かった。
「もう4年生だから、一人で入れるわね」
と言われ、診察室には香緒里一人で向かった。
「じゃ、倒すからね。まずは見るだけだからねー」
歯科医は、やさしそうな若い医者だった。
「上の6番・・ね・・」
歯科医は、ひとりごとのようにつぶやくと、
「じゃ、あーん」
と、香緒里の口を覗き込んだ。
「香緒里ちゃん、お口が小さくて見にくいなあ。もうちょっと、がんばって開けてくれるかなー」
香緒里は、精いっぱい口を開けていたのだが、見にくいらしく、
歯科医は唇を引っ張ったり、顔の位置を変えたりして、覗き込んでいた。
「大人の歯なんだけどね、立派な虫歯になっちゃってるねー。だめだよ、ちゃんと歯磨きしないと。」
同じ言葉を何度言われたか。
もう、わかってるから言わないで。と、香緒里はいたたまれない気持ちになっていた。

「他の歯も見るね」
そう言って、歯科医は、ミラーで順々に歯を診ていった。
右上の、新しい4番のところに来たとき、歯科医の目が光った。
「香緒里ちゃん、これはいつ生えたの?」
「夏休みくらい、です」
「そっか」
歯科医は、探針を手にすると、犬歯との境をカリ、カリ、とつついている。
「小さいけどねー、ここも虫歯になってるね」
生えたばっかりなのに!香緒里の目に涙がにじんできた。
歯科医は、それにかまわず、下の歯の検査にうつった。
「ん?」
ふたたび探針を手に、右下の4番の咬合面をひっかく。
「香緒里ちゃん、こっちもだよ」
歯科医が冷たい声に変わった気がした。
左下の4番は無事だったが、治療するべき歯は全部で4本だった。
「香緒里ちゃんのお母さん呼んで来て下さい」
助手に言いつける。
詩織が、心配そうな顔をしてやってきた。
「香緒里ちゃんの歯ですが」
歯科医は、すぐに切り出した。
「治療しないといけない虫歯が、4本あります。」
「4本ですか?2本ではなくて・・」
詩織は、香緒里にまだ虫歯になる歯が残っていただろうか、と考えていた。
「ええ、4本です。新しく生え変わったところが2本、すでに虫歯になっていました」
詩織は絶句した。
「まあ、生えたばかりの歯は弱いので、虫歯になりやすいんです。
特に、香緒里ちゃんみたいな、虫歯だらけの口の中に生えてくると、ひとたまりもない。
未処置の虫歯があればなおさら危険です。
・・・もっと早くに奥を治していればよかったかもしれませんが」
詩織は、ため息をつき、香緒里の方をにらんだ。
「で・・また・・銀歯になるんでしょうか」
詩織が心配そうに聞いた。女の子だし、さすがに口の中がギラギラだと可哀想だと思ったのだ。
「そうですね、奥は進んでいるので、削って型を取って、銀歯を詰めることになります。
下は・・まだ小さいんです」
そう言って、歯科医は香緒里の口を開けさせると、
「ここです、ほら、黒くなっているでしょう」
と、下の4番を指し示した。たしかに、溝の真ん中がやや深く茶色い。
「これは、白いプラスチックのようなもので治ります。
上は、歯の間なので、削ってみないことには、ちょっとなんとも言えないですね。」
詩織は、
「よろしくお願いします」
と、頭を下げるしかなかった。

詩織が待合室に戻ると、治療が始まった。
助手が、カチャカチャと器具をセットしていく。
「じゃあ、とりあえず、今日は、左上の奥歯から治していこうね。一番虫歯が大きいからね。」
香緒里が、不安そうに頷く。
どうやって治すんだったっけ・・・削って、詰められるんだけど・・・痛かったっけ・・・
香緒里は、一生懸命記憶をたどっていた。
嫌な記憶は頭が勝手に消し去っているのか、あまりよく思い出せない。
「じゃ、倒すよ」
歯科医は、もう一度香緒里の歯を診察すると、
タービンの先を選び始めた。左側では、助手がすでにバキュームを持って待ちかまえている。
・・・長い。
香緒里は、つま先をもぞもぞさせたり、手の爪を見たりして、気を紛らわそうとしたが、無駄だった。
寝かされた状態が、不安を増大させる。
「はい、始めるよ」
ようやく歯科医がタービンを手に香緒里に向き直る。
「痛くなったら、左手上げてね」
実行されることは少ない、一応の決まり文句を告げ、歯科医はタービンのスイッチを入れた。
キュイィィィィィィン
香緒里は、思わず目を閉じた。
チュイン、チュイン、ギュイーン
歯が削られている音が頭に響く。
始めは削られている振動だけだったが、徐々に、別の感覚が香緒里を襲う。
・・・痛・・・い・・・?
ぼんやりしていたその感覚は、徐々にはっきりしたものになってきた。
痛い・・いたい・・イタイ!
香緒里の顔が歪んできたのに気付いた歯科医は、
「痛いかなー、もうちょっと我慢できるかなー」
と言いながらも、手は止めず、削り続ける。
キィン、キュィン、キュィンキュィン
香緒里の固く閉じた目尻から、涙がにじみはじめた。
「んぁ、あ、あー」
声にならない声が、喉の奥から漏れてくる。
「頑張って、もうちょっと、口開けてー」
「ダメだよー、口閉じないでー」
助手からも声がかかる。
「んぁぁぁぁぁ」
香緒里が大きい声を上げたとき、タービンの音がやんだ。
キュゥゥゥゥゥ
「一度うがいして」
椅子が起こされる。
香緒里は、ヒック、ヒック、しゃくり上げている。
「もうちょっとだからね、頑張ろうね」
助手が、腰を落とし、香緒里の顔を覗き込み、首をかしげて諭す。
香緒里は、しゃくり上げながらも、頷く。
歯科医は、タービンの先を取り替えながら、「見にくいんだよなあ」とつぶやいていた。
「じゃ、もう一回削るよ」
椅子が倒された。
チュイィィィッィィン
先ほどよりも高い音をたてて、タービンが、香緒里の歯に食い込んだ。
「んあぁぁ、んー、んー」
今度は、削り初めから香緒里の泣き声が上がる。足もバタバタ動き始めていた。
「動かない!」
歯科医が突然、歯を削りながら叱り飛ばした。
香緒里はびくっとして、足の動きを止めたが、痛みは耐えがたいのだろう、泣き声は続いていた。
「んー、んー、ぅぅぅぅ」
チュイーン、チュイーン、チュイーン・・
歯科医は難しい顔をしたまま、虫歯に侵された香緒里の歯を削り続ける。
「もうちょっと、頑張って。」
助手が必死に慰める。
「あああん、あぁぁんぁあああ」
ようやくタービンが止まった。
香緒里の顔は、涙でグシャグシャになっていた。
歯科医も、疲れ切ったという顔をしている。
「うがいして。じゃ、型取って、仮封しといて。」
と、助手に言い残すと、椅子を立って、手を洗いに行ってしまった。
本来の仕事ではないのだが、助手は、香緒里の歯の型を取ったあと、
手馴れた風で、香緒里の歯に仮封をした。
香緒里が立ち、診察室を出て行こうとすると、
「じゃ、次は1週間後。今度は今日ほど痛くないからね。」
と、やさしい顔に戻った歯科医が言った。
「・・・はい。」
小さい声で答えた香緒里は、少し礼をすると、診察室を出て行った。
帰り道。
「もう、行きたくない」
ようやく泣き止んだ香緒里が、詩織に言った。
「何言ってるの」
「だって、痛かった・・・」
香緒里は、治療を思い出したように、また泣き出した。
「あなたが虫歯になんかするから悪いのよ。しょうがないじゃないの。我慢しなさい。
隠して放っておいたのも自分でしょう?みっともないからもう、泣き止みなさい」
歯の痛みの経験のない詩織は、冷たく言い放つと、さっさと歩き出した。
1週間後、香緒里は再び、詩織に連れられて、歯医者に行った。
それほど待たされることなく、診察室に呼ばれる。
エプロンを付けられ、まわりを見回していると、助手が、インレーの乗った石膏模型を持ってきた。
不安そうにそれを見る香緒里に笑いかける。
「ちょっとはめてみようね」
そう言って、椅子を倒す。
「はい、あーん」
ピンセットで仮封をはずし、エアーをかける。
「ちょっとしみるかな」
シュ、シュッ。香緒里は少し、びくっとしたが、助手は、それにはかまわず、
ピンセットでインレーをつまむと、香緒里の口の中に入れ、奥歯の穴にセットした。
「噛んでみてくれる?」
かち、かち、と慎重にかみ合わせると、ポロリ、とインレーが外れてしまった。
助手は、一瞬、あら、という顔をしたが、
「そんなに勢いよくやったらダメよ。あとでちゃんとつけるからね。」
と言って、香緒里の口の中からインレーを拾い、模型に置き直すと、
また別の仕事に戻っていった。
「こんにちは、香緒里ちゃん。」
歯科医が、やさしそうな笑顔でやってきた。
しかし、香緒里は、先週怒鳴られたことを思い出し、顔を強張らせた。
「今日はそんなに痛くないよ。銀歯をつけて、右下の、小さいほう治しちゃうからね。」
不安で硬くなったまま、頷く。
「じゃ、あーん。」
香緒里が口を開けると、横から、助手がセメントを差し出した。
歯科医は、インレーにセメントをつけ、香緒里の歯に、ぎゅぅっと押し込んだ。
「はい、噛んで。」
ゆっくりと噛むと、酸っぱいような、変な味がした。
歯科医は、香緒里の口をもう一度開けさせ、インレーがはまっていることを確認すると、
「じゃ、しばらく噛んでてね」
と言い残し、また席を立って、隣の台の治療に向かった。
隣では、大学生くらいのお姉さんが不安そうな顔をして、ハンカチを握り締めていた。
歯科医が話しかけると、お姉さんは、ハンカチで口をおさえながら、しゃべっている。
歯科医は、治療台の上に置かれた歯のようなものをつまみ上げ、ながめた後、
ハンカチをどけさせると、お姉さんの唇をめくった。
そこには・・あるべき前歯が2本なく、歯茎から小さく、金属の棒が見えていた。
香緒里は、びっくりしてしまい、目が離せなくなった。
じっと見ている香緒里に気付いたお姉さんは、泣きそうな顔になった。
香緒里は、あわてて顔を伏せた。心臓の鼓動が、速くなっていた。
5分ほどたって、歯科医が戻ってきた。
「はい、もう一回見せてね」
香緒里の椅子を倒し、口を開けさせる。
「うん、いいね、ちょっとはみ出たセメント取っちゃうね」
そう言って、タービンの先を変えると、香緒里の口に近づけていった。
香緒里は、一瞬身構えたが、少し振動が伝わった程度で、終わった。
口をゆすぎ、椅子がまた倒されると、
「こっちは、すぐ終わっちゃうからね」
と、すでにタービンを手にして、歯科医が待ち構えていた。
「はい、あーん。」
目を閉じ、手を握り締めて構える。
キュイィィィィン。
ウィンウィンウィン、キュィイイイイイン。
歯科医の言うとおり、削る時間はさほど長くなかった。
口をゆすぎ、型を取るのかな、と思っていたが、少し風を当てたあと、
薬のようなものが詰められ、ぎゅっと押された感じがした。
ふと横を見ると、助手が、銃のような形のものを手に持っている。
何をされるんだろう!と、固くなった香緒里に、
「大丈夫。光を当てるだけだからね」
と、歯科医は優しく言い、その銃のようなものの先を香緒里の歯に押し当てた。
「はい、終わり。」
しばらくして、あっさり告げられ、香緒里は少し、拍子抜けした。
「じゃあ、次は、明後日来てくれるかな。上の歯を治そう。」
香緒里は、元気よく頷き、診察室を後にした。
次の治療の日、前回、あっさり治療が終わった香緒里は、あまり怖がらずに、
一人で歯医者へ向かった。
待合室では、スーツを着た若い男が、頬に手を当てて、涙ぐんでいた。
大人の男の人でも、泣くんだわ、と、香緒里は思った。
すぐ、男は診察室に呼ばれたが、しばらくして、ヒュィィィィン、というドリルの音とともに、
「んぁ!ああ!あぅううう!」
という、男性の叫び声が聞こえてきた。
香緒里は、逃げ出したくなった。もぞもぞしていると、
「香緒里ちゃん、どうぞー」
と、いつもの助手が呼びに来た。
おそるおそる診察室に入ると、さっきの男は、なんと、助手に足を押さえられていた。
香緒里の視線に気付いたいつもの助手が、香緒里の視界をさえぎるように立ち、椅子に座らせてくれた。
エプロンを付けられ、
「ちょっと待っててね」と言われたので、隣の泣き声を気にしないように、
香緒里は、エプロンのシミを数えて、待った。
しばらくたって、悲鳴はやみ、歯科医が手を拭きながらやってきた。
「えっと、今日は、上の歯だったね。手前からやっちゃうか。」
カルテを見ながら、歯科医が言う。
香緒里は、何も言えず、黙って頷いた。
「じゃあ、はじめよう。」
椅子が倒され、いつものように治療が始まった。
キュイーン、キュイーン
犬歯との間から、歯が削られていく。
「あー、意外と大きいなぁ」
歯科医の声が聞こえ、香緒里はドキッとした。
痛みはさほど感じられなかったが、ずいぶんと長い間、削られていた。
「はい、うがいして」
くちゅくちゅ、とやって、舌で歯をさわってみると、歯の前側が大きく削られていた。
香緒里は、ここに銀が入るとどうなるか、ということまでは想像できなかった。
「じゃ、型取って、埋めて。」
いつもどおり、助手に指示を出すと、歯科医は立って、隣の治療に行ってしまった。
さきほどの男性はすでに帰り、前回見た、お姉さんが座っていた。
型取りのゴムを噛んでいる間、ふと隣を見ると、お姉さんは、前歯を削られているようだった。
「頑張って。もう少しだからねー、我慢するよー」
「ぅぅぅ、んー、んー」
唇に器具を付けられ、前歯のない口を不恰好に開けさせられ、呻いているその姿は、
香緒里の恐怖心を煽った。
あんなふうになったらどうしよう・・・
香緒里は、今の歯が治ったら、歯医者には来ないようにしよう、と思ったのだった。
型取りが終わり、仮封をしてもらって、帰るときにまた隣を見ると、
お姉さんは、手鏡を手に自分の前歯を見せてもらいながら、泣きそうな顔になっているところだった・・
次の治療は、1週間後だった。
いつもどおり、ほとんど待たずに、診察室に呼ばれる。
治療台には、すでに、ぴかぴかの銀インレーが準備されていた。
「はい、こんにちは。今日は、銀歯つけたら、最後の虫歯、治すからね」
歯科医がにこやかに言う。
前回と同じように、セメントで、銀歯を装着してもらい、上の6番の治療に入った。
チュイーン
しばらく削ったところで、歯科医がタービンを止めた。
「見にくいよ。リトラクターかけて。」
別の助手が、引っ掛けるところのついた金属の器具を持ってきて、香緒里の口を、ぐいっと開かせた。
恥ずかしい!香緒里は、前回の、あの光景を思い出していた・・・
歯科医はそれにかまわず、治療を再開した。
チューィィィィィィー、チュイン、チュイン、
見やすくなったためか、歯科医は、調子よく、香緒里の歯を削っていた。
チュイー、ィンインイン、
「んぁ!ぁあああ」
前回と前々回、小さい虫歯を治療していたので、忘れていた痛みが、再び香緒里を襲った。
「ああああ、ゃあああ」
足をばたつかせて抵抗するも、口は、助手の手とリトラクターで押さえられていて、抵抗は無力だった。
「もうちょっとだから、我慢して。」
タービンの音がやんだと思ったが、どうやら、先を取り替えるだけらしかった。
口を開けられたまま、寝かされている香緒里は、ふと、隣の治療台を見た。
そこには、クラスの男子が座っていた。
彼は、香緒里だということに気が付くと、一瞬はその無残な姿に驚いたものの、ニヤッと笑った。
どうしよう・・見られた・・変な顔になってるのに・・・
香緒里は、真っ赤になった。
「さ、もうひとがんばりだぞ」
そんなことは知らず、先を取り替え終わった歯科医が、再び、歯を削り始めた。
ギュイーン、ンギュギュギュイーン、
「ぅうううう!ぅうう!んああああ!」
「よーし、いいよ、口ゆすいで」
ようやく、リトラクターがはずされる。
香緒里は、しゃくり上げながら、口をゆすいだ。
隣の男子は、まだニヤニヤしながら見ている。
「じゃ、また、型取って、埋めて。」
いつもどおりの処置をしてもらい、家に帰った。

家に帰ると、詩織が、
「今日はどうだった?」
と聞いた。
「次で終わりだって。」
と答えた瞬間、詩織の顔色が変わった。
「ちょっと。香緒里ちゃん。イー、ってしてみて」
唐突な指示に、戸惑いながらも、イー、とやると、詩織が大きなため息をついた。
「そんなところを、銀歯にしてしまって。」
えっ、と思った香緒里は、洗面所に走った。
鏡の前で、さっきと同じように、イーッ、と言ってみる。
と、上の一番前の奥歯に入った銀歯が、キラリと光った。
香緒里はぎょっとした。
「あいうえお。こんにちは。」
ためしに、しゃべってみたが、口が開くたびに、銀歯はギラギラと光った。
子供の歯のときでも、こんなに目立つのはなかったのに・・・
香緒里は、ショックを抱えたまま、自分の部屋に戻り、しくしくと泣いた。

1週間後、また、歯医者に行った。
4番の銀歯は、学校でも、初日には目をそらす友達や、「銀歯にしたの」という子などがいたが、
もう慣れた。
「最後だね、じゃあ、銀歯はめよう」
いつもどおりに、セメントで銀歯をつけ、高さを調節してもらう。
やった、終わった、と香緒里は思ったが、歯科医は、
「香緒里ちゃん、歯石がいっぱいついてるから、お姉さんにとってもらってね。
ドリルで削ったりはしないから、大丈夫だよ。そうしたら、終わりだ。」
と、告げた。
助手が、歯科医の席に座った。
削らないと聞いて、香緒里は、安心して口を開けたが・・・
カリ、カリ、カリ。
「ぁが!」
「歯石がついてるからねー、ちょっと痛いけど、我慢してね」
ガリ、ガリ。カリッ、ガッ。
「んああ!」
それは、歯を削るのとは違う、痛みだった。
ずいぶん長い時間がかかって、ようやく歯石取りも終わり、口をゆすぐと・・
「血!」
吐き出した水は、赤く染まっていた。
「かなりついてたから、ちょっと血が出たわ。」
助手は、涼しい顔をしていた。

治療の痛さ、歯石取り、リトラクター、前歯のない女子大生、痛がる若い男性・・・・
今回の歯医者通いは、香緒里の歯医者嫌いを決定的にした。
香緒里はもう絶対に歯医者になんか来ない、と、心に誓ったのであった。
そして、その決意どおり、10年間、香緒里は歯医者に行かなかった。
今回治療された歯の下で、取りきれず残っていた虫歯が、確実に進行しているとも知らずに・・・

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