香緒里は、自分の部屋の机の前に座って、大きくため息をついた。
目の前には、少し大きめの鏡が立てかけてある。
香緒里は、さっきから、鏡に自分の歯を映しては、ため息をついているのだった。
・・・やっぱり、黒くなってきてる・・・
それは、半年前に治療した、前歯だった。
香緒里は、もともと歯が弱かったのだが、歯医者が嫌いで、
小学校4年生以来、ずっと虫歯や銀歯が取れたのを放置していた。
が、夏休みのある日、彼氏の裕斗とドライブに行った帰り、歯が痛くて我慢できなくなり、
裕斗に虫歯を見つけられ、無理やり歯医者に連れて行かれたのだった。
なんと、下の前歯以外、ほとんど全ての歯が虫歯になっており、
治療の途中でも、あちこち痛み出す有様だった。
そんなわけで、途中で治療をやめるわけにもいかず、また、
裕斗が熱心に付いて来てくれたおかげで、酷い状態だった香緒里の口の中は、
半年に及ぶ治療で、なんとか完治した。
しかし、その結果、口の中は、ギラギラになった。どの歯も、かなり虫歯が進んでいたため、
ほとんどの歯が、型を取ってインレーかクラウンをかぶせる治療が必要だったのだ。
学生である香緒里に、白い詰め物を選ぶほどの余裕はなく、すべて、金属での治療になった。
翌日、香緒里は、授業のあと、裕斗と2人でスーパーに行き、裕斗の家に向かった。
すべて金属で治療したと言っても、20本以上の軽くは無い虫歯を治療するには、それなりの金額がかかったうえ、香緒里は歯の痛みでバイトどころではなかったし、裕斗も付き添いで忙しく、かなりバイトをセーブしなければいけなかった。そこで、2人は親に「英会話学校に行く」と嘘をついて借金をしたのだが、嘘がばれて・・と言っても香緒里の歯のことは言わず、「旅行に行った」ことにした・・返さなければならなくなり、このところずっと「お家デート」だった。
二人で夕食を食べ、テレビを観ながら、香緒里が切り出した。
「ゴメンね、ホントに・・私の治療のせいで・・お金かかっちゃって・・」
すでに、香緒里の口癖のようになっている。
「だから、気にするなって」
いつものように裕斗も返す。
「それなのに・・こんなこと言うのアレなんだけど・・」
香緒里の言葉に、裕斗はドキリとした。
・・まさか、別れたいとか?
それは困る、と裕斗は思った。
「な、なに?言えよ。」
動揺を見せないように裕斗は聞き返した。
「また・・歯医者・・行きたいの」
香緒里はうつむきながら言った。裕斗は今度は高鳴る鼓動を抑えるのに苦労した。実は裕斗は、香緒里の虫歯と治療がきっかけで、女性の歯に異様に興奮するようになってしまった。というより、それ以外では何も感じないのだ。白い健康な歯ではダメで、銀歯でないとダメだ。虫歯や治療なら最高。
「ど、どうした・・どこか痛い・・のか?」
「それは大丈夫・・なんだけど・・前歯・・神経抜いたところ・・・黒くなってきちゃって」
香緒里はうつむいた。
「どこ・・だっけ」
裕斗は香緒里には歯で興奮するとは伝えていない。なるべく平静を装って聞くと、香緒里が裕斗の方を向いて、控えめにいーっ、としてみせた。
「ここ・・」
言いながら、右上の2番を指差す。
「よく見えないよ・・ちょっと、いい。」
裕斗は耐えられず、左手で香緒里の唇をめくりあげた。恥ずかしさに逃げそうになる香緒里の頭を右手で後ろから押さえる。
「ああ。たしかにこれは・・目立つね」
右上の2番は虫歯が進行していて、神経を抜かなければならなかったのだが、幸いかどうか、歯は大きく残っていたので、隣のように差し歯にはせず、そのまま詰めて終わりにしたのだった。いつか変色するよ、と言われていたのだが、根元のほうから半分くらいまで、黒くなってしまっている。
ついでに、隣の差し歯3本・・右上1番から左上2番・・もじっくり観察する。裕斗はごくり、と喉を鳴らしそうになって、左手を離す。
「そうだな、秋からは就職活動も始めないといけないし。それは治した方がいいかもしれないな・・ちょっと、目立つ。でも、いいのか?差し歯は嫌なんじゃなかったのか?」
心配そうに言って、興奮をごまかす。
「差し歯は・・嫌だけど・・でも・・仕方ないなって・・」
辛そうに言う香緒里に、裕斗はたまらなくなり、その唇に自分の唇を重ねた。
香緒里は泣きそうになった。あんなに迷惑をかけたし、あんなに汚い口の中を見られてしまったし、香緒里は裕斗に捨てられると覚悟していたのだが、裕斗は治療には全て付き添ってくれて、心配もしてくれた。こんなにギラギラになった香緒里のことも、嫌いにならずにいてくれる。
「ん・・・・」
「あぁ・・・ぁふ・・・はぁ・・・」
ときどき、少し離した唇の間から吐息を漏らし、香緒里はまた唇を重ね合わせる。幸せだった。
しかし、香緒里は目を閉じているので、自分がうっとりと息を吐くたびに、裕斗がんッ、と顔をしかめているのには気付かなかった。
・・うっ・・く、くせぇ・・・・最近また・・・ひどくなってないか・・?
香緒里の銀歯は最高だ。周囲を見回しても、最近は皆健康そうな白い歯ばかりで、香緒里を超える彼女は見つかりそうにない。手放すつもりはまったくなかった。が、香緒里の口臭、これだけは裕斗も少し辛かった。昔、歯の治療を始める前から少し臭うことがあった。治療を始めてから少し強くなり、裕斗は虫歯のせいか、と納得したのだが、それは完治しても良くはならず・・・金属に臭いが染み付いたような嫌な臭いが加わったような気さえしていた。最近はさらに、生臭いような・・・
香緒里の前歯の後ろに舌を這わせた裕斗は、ザラリとした感触をおぼえた。
あ、と良い考えを思い付いた裕斗は、ゆっくりと離れ、彼女の名前を呼んだ。
「香緒里。」
「ん?」
少しとろんとした目のまま、香緒里が少し微笑む。
「また・・歯磨きサボってるだろ。歯がザラザラするよ。」
香緒里が、はっ、と泣きそうな表情に変わった。図星だったようだ。それを見て、残酷な感情がわきあがり、裕斗はさらに続けた。
「それに香緒里・・・こんなこと言いたくないけど・・・香緒里の口・・・臭いよ。」
ガバッ、と、香緒里は両手で自分の口を覆った。ゴメンナサイ、と小さく呟きながら、目からポロポロと涙を零す。
・・どうしよう・・そんな・・今度こそ嫌われちゃう・・・
小さくイヤイヤをしている香緒里の目を見ながら、なるべく優しく、裕斗は言った。
「そんなんじゃ、また、虫歯だらけになっちゃうよ?」
香緒里の痛いところを突いた。香緒里が虫歯をそんなに作ったのは、もとの歯が弱いせいもあるが、甘いものが大好きな上に歯磨きをよくサボっていたことが大きいらしい。治療後も、もちろん甘いものを食べることは止めていない。むしろ、しみる歯がなくなった分、よく太らないものだと感心するほど食べている。それで歯磨きがまたサボり気味とあっては・・
「そんなの、嫌だろう?」
今度は、香緒里は何度も大きく頷いた。
「やっぱり、俺が仕上げ磨き、しないとな。」
香緒里はハッ、と息を呑み、黙ったまましばらく裕斗の顔を見つめていたが、やがて辛そうに頷いた。
「じゃ、歯ブラシ持ってきて。」
裕斗が言うと、香緒里は立って、歯ブラシと水を入れたコップを持ってきた。
「久しぶりだね・・じゃ、ここに頭載せて。」
ソファの肘掛の上に香緒里の頭を載せ、自分はソファの横に椅子を持ってきて座る。
一番最初は膝の上でやっていたのだが、歯で興奮するようになってしまってから編み出したスタイルだ。
昔買った、小さいデスク用スポットライトも準備する。
「あーん・・」
裕斗は、香緒里に開口を促した。
香緒里が少し辛そうに、ゆっくりと口を開ける。
治療が終わりにさしかかる頃から、ギラギラのの口が恥ずかしいのか、香緒里は裕斗に口を開けて見せてくれなくなったのだ。仕上げ磨きもなくなってしまった。
・・ドクン、ドクン・・・
速くなる鼓動を深呼吸で抑えながら、裕斗は香緒里の口の中を覗き込んだ。そして、半年前までの思い出に浸りながら、1本1本丁寧に見ながら磨いていった。
まず、左上6番は、インレーの脱離を2年ほど放置していたのだが、根っこまで酷いことになっていて、
根管治療を何度やってもよくならず、必死の抵抗もむなしく、結局、抜歯することになった。
両脇の7番と5番も大きな虫歯になっていたため、抜髄して、今はブリッジで、3連続のクラウンが入っている。
ギラギラと光る歯が3本並んでいるのは壮観だ。
目立つ4番は、比較的軽い虫歯だったが、咬合面に大きく広がっていたため、インレーが入れられた。
隣の3番は、裏側から大きく削られたものの、奥歯ほど力もかからないため、レジン充填ですんだ。
2番は、両側の歯の間から虫歯が進行していて、痛みも酷かったので、抜髄して、差し歯になった。
一番安い、裏が金属で、表がプラスチックのものだ。
1番2本は、歯の間、根元に近いところに穴が開くほどの虫歯ができており、
痛みはなかったのだが、神経に達していたために抜髄された。差し歯は嫌だと香緒里は抵抗したが、
欠損が大きく、ここも差し歯にするしかなかった。
3本連続で前歯の裏が黒っぽい金属で覆われているのはいい眺めだ。
右の2番は、歯の裏側の付け根あたりから虫歯になっており、やはり神経に達していたため、
抜髄された。歯は原型をとどめていたため、かぶせずに詰めただけなのだが、
抜髄した歯の宿命で、つやがなくなり、早くも根元あたりから黒く変色してきている。
裏も同じように変色しているようだ。香緒里はさっき差し歯にしてもいいと言ったほど、変色が気になるらしい。
3番は、小さなレジン充填だけですんだ。
4番は、もともと、小学生の時の治療で歯の前半分に銀のインレーが入っていたが、
新しく5番との間からも虫歯になっており、前後を貫通した、大きなインレーが新たに入れられた。
5番は、4番との間の虫歯だったが、レジンで治療するにはやや大きく、
力のかかる奥歯だからということで、やはり、前半分のインレーが入った。
6番は、昔のインレーの下から2次齲蝕が進み、中が腐っていたため、歯がなくなるほど削られ、クラウンが入れられた。
7番は、咬合面が虫歯になっていて、あまり大きくはないが、前後左右に貫通した、十字型のやはりインレーが入っていた。
左下の7番は、前半分が中で大きく広がった虫歯になっていて、途中で痛み出し、
抜髄することになり、クラウンが入った。
6番は、小学生のときにインレーになり、2次齲蝕はなかったものの、後ろの7番との隣接面から
新たな虫歯が見つかったため、十字に溝を埋めていただけだったインレーは、前後を貫通した
大きいものに変わった。
5番は、咬合面に小さな穴が開いていただけだったが、中で大きく広がっており、抜髄は免れたものの、
インレーが入った。
4番は、はじめ健全歯に見えたが、やはり5番との隣接面が少し虫歯になっており、レジンで治療された。
下の前歯も、健全だと思われたが、歯石を取ってみると、両方の2番の裏側が小さく虫歯になっていて、
レジンで治療。
右下の4番は、レジンで咬合面を治療されていたが、その下で2次齲蝕が進行していて、
やはり途中で痛み出し、抜髄、頬側の面だけを残した、4/5冠とも呼ばれる大きなインレーを嵌められた。
5番は、6番との隣接面から虫歯になっていて、やはり、インレーが入った。
6番は唯一、今回、治療を免れた奥歯だったが、ここにはもとから少し大きめのインレーが入っていた。
7番は、後ろ半分から虫歯が進行していて、治療がしにくいことから、咬合面から削ることとなり、
大きなインレーが入った。
歯ブラシを抜くと、香緒里は口を閉じそうになったので、裕斗はそれを止めた。
「ちょっと待って」
歯ブラシに、血がついていたのだ。
・・どこだろう・・・
まず上唇をめくり、前歯のあたりを調べる。
普段、香緒里は歯の先しか見えないので気付かなかったが、前歯の差し歯の根元は、すでに少し黒ずんできている・・・
自分でも気にしている差し歯の根元を見られている・・耐えられなくなった香緒里は、手を口元に持って来た。
「ダメだよ・・」
裕斗は左手で香緒里の手を戻しながら、右手でさらに唇を引っ張って調べる。
「あ・・」
左上、4番と5番の間に少し血が見えた。
よく見ると、ブリッジのところは歯茎が赤く腫れている。
歯ブラシをもう一度そのあたりに当ててみると、新しい血が付いた。
「香緒里、ここ、歯茎が腫れて血が出てるよ。もっとちゃんと磨かないと。はい、おしまい。これからも時々やったほうがいいね。」
そう言って、香緒里に歯ブラシを返し、裕斗はトイレに行った。
次の日、香緒里は歯医者に予約を入れた。急患ではないので、予約は1週間後の朝になった。
「一人で行かれる?」
と聞いたときの返事があいまいだったので、裕斗は香緒里に付いて、歯医者に行った。ドアの前で、香緒里は一瞬立ち止まった。あの治療の日々の記憶がよみがえって来たらしい。
泣きそうな顔で、裕斗を見上げる。
「やっぱり・・私・・あの・・痛いところもないし・・・」
帰りそうになる香緒里に、裕斗は言った。
「あの黒い前歯のままで、いいの?」
それを聞いた香緒里は、意を決したように、ドアを開けた。歯医者の臭いが漂っている。香緒里と裕斗は、それぞれ別の理由で、目を閉じて、ゆっくりと息を吐いた。
予約してあったのと、朝一番の患者なのとで、受付に診察券と保険証を出して問診票を書いているとすぐ、
「大野香緒里さん」
と呼ばれた。香緒里は目に見えて緊張している。
「一人で行かれる?」
うん、と答えられても困るが、一応裕斗は聞いてみた。
「ダメ。」
香緒里は即答して、首を振った。
「じゃあ、行こうか。」
裕斗は、香緒里の背中を押すようにして、診察室に入った。診察室の入り口でも、香緒里が足を止めそうになるのを、後ろから押しこむ。
「香緒里ちゃん、こんにちは。」
萩原先生だ。
先生に笑顔を向けられ、香緒里も少し気持ちがほぐれたらしい。
「こんにちは・・よろしくお願いします。」
と、さっきまでよりも明るい声を出している。
「付き添い、ご苦労さま。」
と裕斗にも声をかけてくれる。
・・前より、少し痩せた・・でもなんだか、綺麗になった気がする。もともとけっこう美人だったけど。
「お願いします」と頭を下げ、裕斗は、歯医者なのに前歯を虫歯で差し歯にしている、萩原先生の口元をじっと見つめた。
「どうぞ座って。実は、香緒里ちゃんに連絡しようと思ってたのよ。治療が終わって、ちょうど半年たつから、検診に来て、って。先に来てくれてよかったわ。」
「でも、半年でそんな、虫歯とかできるんですか」
裕斗は期待も込めて、質問した。
「ふふ、これだから、歯の丈夫な人は嫌いよ。」
萩原先生は笑いながら答えてくれた。
「できるわね。逆に、半年なら小さいうちに虫歯を治せる、っていう言い方もできるんだけど。」
裕斗は頷いた。同時に、少しがっかりもした。痛さに泣くような治療は見られない、ってことか・・・・
「じゃ、早速診ましょう。えーと・・ああ、気になることがあるんだっけ・・前歯・・右上ね・・・」
問診票を見ながら、先生はカルテと見比べ、言った。
「ちょっと見せてもらうわね」
先生が左手を伸ばし、香緒里の唇をめくった。香緒里の顔にサッと緊張の色が走るのがわかる。
「ああ、もう変色してきちゃったのね・・どうする?えーと、差し歯は嫌なんだったかしら。」
よく覚えてるな、と、裕斗は感心した。もっとも、そういう人は多いのかもしれない。
「・・嫌ですけど・・でも・・就職活動もあるし・・他の歯はもう差し歯だし、揃ったほうがいいかなと思って」
香緒里は一生懸命答えていた。
「ああ、揃える、ね・・ならそうね、差し歯の方がいいかしらね。どうしても嫌っていうなら、中に薬を詰めて白くするっていう方法もあったんだけど・・隣より白くなってしまうこともあるわね。」
先生はもう一度香緒里の唇をめくった。少し・・ほんの少しだけ眉を上げたのが裕斗には見えた。
「ちょっとごめんね」
先生は右手も伸ばし、びろーん、と香緒里の上唇をめくり上げた。香緒里は泣きそうになっている。
「うーん・・、ちょっと。」
先生が、少し不満そうな声を上げた。
「香緒里ちゃん、きちんと教えられた通りに、歯磨きしてるかしら?」
手を離した先生が言った。してないわよね、と言いたげな口調だ。
香緒里はもちろん、何も言えずにうつむいた。しかも、今朝は寝坊をして、口をゆすいだだけで出てきてしまったのだ。
「歯垢もかなり残っているようだし、歯茎の状態も良くないわ。今回の抜髄後の変色は仕方の無いことだけれど、それよりも前に気にすることがあると思うわよ。ま、とりあえず・・差し歯にする準備から入りましょうか。まずはレントゲン撮って、根の状態を確認して・・そうね、検診のためにパントモも。」
相変わらず、厳しいことも言う先生だ。診察室に入るときよりもさらに落ち込んだ様子でレントゲン室に向かう香緒里の後姿を見ながら、裕斗は、また新しい虫歯も見つかりますように、と心の中で願った。