滝川晴香、23歳。OL2年生である。
1年ほど前から、左下の奥歯のあたりに、時々、少し重い、痛みのようなものを感じていた。
「なんだろう・・虫歯?」
これまで、歯科検診で指摘された虫歯はすぐに治療に行っていたため、
歯の痛みというものを経験したことがなかったのだ。
鏡の前で、アーン、とチェックしてみる。
痛みを感じるあたり、前から3番目の歯は、普通の銀歯に見えた。
「なんだ、治してある歯じゃない。なんともない、か。」
とはいえ、晴香は、虫歯が痛くなるまで放っておいたことがない、というだけで、
虫歯がないわけではなく、むしろ、多いほうかもしれなかった。
左上。7番は、高2の歯科検診でC1と診断され、溝に沿ってレジン充填。
6番は、小3のときにアマルガム治療をしたが中2で取れてしまい、銀のインレー。
5番は、中3のときにインレー。2番と3番は高2のときに、歯の間からレジン。
右上の4番と5番は高1のときにレジンとインレー。
6番は、ここもアマルガムが取れ、高3でインレー。
右下は、7番がレジン、6番5番がインレー、左下も、5番6番インレー、7番レジン。
小学校から高校まで、女子校育ちで、
真面目だった晴香は、歯科検診のたびに治療に行っていたが、
歯科医院で定期健診をするほど、関心が高いわけではなく、
大学に入って、歯科検診がなくなってからは、すっかり足が遠のいていた。
そんなある日。
高校時代の友人たちと、食事に出かけた晴香は、デザートのパンケーキを楽しんでいた。
ガリッ。
いやな音と感触があった。
急に口をつぐんだ晴香に、「どうしたのよ」と、声がかかる。
「銀歯が・・取れちゃったかも」
答えながら、必死に舌で歯を探る。
「いいよ、出しなよ」
友人の言葉に、硬いものを紙の上に吐き出して見てみると、やはり、銀歯だった。意外とごろりと大きい。
「どこだろう・・」
下の銀歯は、無事のようだった。
上は・・どこに銀歯があったっけ?
実は、どこがどう治療されているのか、よく知らないのだった。
「見せてみなよ」
隣の裕子にうながされ、素直に口をあけ、上を向く。
「あー、ここよ、左の前から3つめ。」
言われて舌で触ると、たしかに大きな穴が開いていた。
「私もさ、去年くらいかな、銀歯取れちゃって、歯医者に行ったら他もあちこち治されて大変だったよー。半年くらい通っちゃった。」
裕子が言うと、
「そうそう。私も今年の冬、急に銀歯がぼろぼろ取れだして。3本くらい。そのまま持ってったら、つけてくれたけどね。」
美佳もうなづく。
「えー、ちょっと、脅かさないでよ」
晴香は文句を言ったが、そのままつけてくれるなら別にいいか、と、取れた銀歯を大事にティッシュに包んで、バッグにしまった。
次の朝、出社すると、会社のビルの中にある歯科クリニックに、早速電話を入れた。
実は、取れた後、冷たいものを飲むと、しみるのだ。
「銀歯が取れちゃったんです」
というと、9時半に診療が始まったら、すぐに来ていいという。
晴香の会社では、勤務時間内でも、ビル内の診療所は行ってもいいことになっていた。
「すぐ戻ると思いますけど」
チーフに許可をもらい、銀歯を持って、出かけた。
実は来るのは初めてだったが、意外と明るくて綺麗なところだ。よかった。晴香はホッとした。
受付で問診表に記入する。
「滝川さん、銀歯が取れた、んですよね。他に気になるところはありますか?」
受付の女性が尋ねる。
「そういえば・・なんともないと思うんですけど、左下も少し痛いような時があります」
晴香の言葉を聞いて、受付の素子は、
「左下に痛みあり」
と、カルテに書き込んだ。素子はさらに続けた。
「今回は、気になるところだけ治しますか?それとも、他に悪いところが見つかれば、全て治しますか?」
「せっかくだから、全部治してください」
晴香は、即座に答えた。
すいていたせいもあり、晴香は、すぐに治療室に呼ばれた。
治療椅子に座ると、素子とは別の女性衛生士が後ろからエプロンをかけてくれる。
「取れた銀歯はお持ちですか?」
晴香がティッシュの包みを見せると、衛生士が銀のトレーを差し出した。
銀歯をその上に乗せる。カラン、と、思ったよりも軽い音がした。
「こんにちは。どうしました?インレーが取れた、ね、はい。」
カルテに目を通しながら、歯科医があらわれた。
勝手に中年の医師を想像していたが、そこにいたのは、30前後の、若い青年だった。
「よろしくお願いします」
晴香が言うと、歯科医は、軽く微笑んで頷き、トレーの上の銀歯を手に取った。
「そのままつけてもらえるんですか?」
晴香は、聞いてみた。
「それは、なんとも言えません。治療しなおすこともあります。痛みますか?」
「取れてから、冷たいものがちょっと。」
「んー、なるほど。左下はどうですか?」
「そこは、たまに痛いような気がするんですけど、見てもなんともないんです」
歯科医は笑ったが、晴香は、だんだん緊張してきた。
「ま、ちょっと見ましょう。」
椅子がウィーン、と倒される。
ライトのスイッチがカン、と入れられ、晴香はまぶしさに目を細めた。
「はい、あーん。」
ミラーが近づいてきた。
左上の頬と歯の間に、ミラーが差し込まれる。
「あぁ、これは」
歯科医の声がする。
なんだろう。晴香の緊張は、ますます高くなってきた。
「銀歯の下で虫歯が進行して、取れちゃったんですね。治療しないとダメですね。・・ちょっと空気かけます。」
歯科医が、長いホースのついた器具を手に取り、晴香の口の中に入れた。
シュッ。
「あがっ!」
空気がかかった瞬間、ズキーン。と痛みが走り、晴香はビクン、とはねた。
「かなり進んでいるようですね。神経を取らないといけないんじゃないかな。」
歯科医は、さきほどの笑顔とは打って変わって、淡々と言った。
晴香は、特に歯医者が苦手なわけではなかったが、
神経を取る。というのはどういうことか想像がつかず、やや怖くなっていた。
なにより、空気をかけられた歯に、ジーン、とした痛みが残っていた。
「下も見ましょう」
ライトの向きを少し変え、ミラーが今度は、下の歯のまわりを探っている。
「ここは、しみたりしないですか?」
晴香は、かすかに首を振った。そういう、強い痛みはなかった、と、思う。
「ここもひょっとすると、下で虫歯が進んでいるかもしれない。ほら、ちょっと、黒く透けているでしょう」
歯科医は、晴香に手鏡を渡してくれた。
ミラーで指されたあたりを見ると、たしかに、歯はグレーに変色していた。
晴香が歯をじっと見つめていると、歯科医は、またもエアガンを手にしていた。
先が歯に近づけられ・・
シュッ。
「んぁああ!」
さっきよりも強い痛みが晴香を襲った。
「こちらのほうが酷いかもしれないですね」
ドキ、ドキ、ドキ。晴香の鼓動は速くなっていた。
ミラーを置くと、歯科医は、カルテを手にし、問診表を眺めた。
「うん、悪いところは全部治す、か。じゃあ、一度、レントゲンを取りましょう。」
椅子を起こすと、歯科医は、ふたたび、軽く微笑んだ。
「こちらへどうぞ」
席を立った晴香は、衛生士に奥の小部屋に連れて行かれた。
「痛みますか?」
無意識に手を左頬に当てていたらしい。
左上の歯の痛みはおさまったが、下は、まだ痛みが残っている。
「手はひざの上に置いて下さい。動かないでくださいね」
ドアが閉められ、音がしてしばらくたって、ドアが開けられた。
「いいですよ。戻って少しお待ち下さい」
治療椅子に戻ると、すぐに歯科医がやってきた。
「痛みますか?」
どうしても、手を頬に当ててしまうようだ。
「あ、はい、少し・・」
「ところで、上と下、どちらが痛みますか?」
「下、です。」
「下、か。穴が開いたままというわけにはいかないので、今日は上の治療から始めるつもりなんだけれど、
下もやったほうがいいかな・・時間は大丈夫?」
晴香があまりに固くなっているせいか、歯科医は、ややカジュアルな口調になった。
今日は特に、急ぎの仕事もなかったはずだ。でも、そんなに長くかかるのだろうか・・・
「どのくらい、かかるんですか?」
「今日は、虫歯になっているところを取って、薬を詰めるだけだから、1時間くらいかな。まあ、見てみないとわからないけど」
「大丈夫です。」
答えたものの、今日は、というところが気になった。不安を見透かしたかのように、
「滝川さんは、仕事は忙しい?通える?少し回数がかかると思うんだけど。」
と、歯科医が言った。
「回数、ですか?」
晴香の知っている治療は、削って、型を取って、次に銀歯をはめる、というくらいだった。
「おそらく神経を取ることになるから、根の中を綺麗にするまで、3,4回はかかるし、
そのあとかぶせるまで、2回くらいかかるね。」
そんなに!晴香のショックに追い討ちをかけるように、歯科医は続けた。
「それに、レントゲンを見てみないとわからないけど、他にもあるかもしれないし。
20歳過ぎるとね、子供のころ治療した虫歯が進む、っていうことも多いから。」
そういえば、裕子も美佳も、銀歯が取れた、って言ってたっけ・・・
でも他には、しみるところもないし・・大丈夫よね・・・
晴香は、必死に不安に抵抗していた。
「できました」
衛生士が、歯科医にレントゲンを手渡す。
晴香は、びくっとして、右を見た。
歯科医が受け取って、レントゲンをセットしている。
ところどころに白いものがうつっている以外、全部灰色に見え、晴香にはよくわからなかった。が・・・
「うーん、これはけっこう掘り返さないといけないね」
歯科医がやや難しい顔で言った。
「ここが今痛むところ、左下の6番。詰め物の下が、黒くなってるでしょう」
ペンで指されたところは、たしかに、灰色が濃くなっている。
「この黒いのは虫歯です。で、これが後ろにつながっちゃってるの、わかる?
他にも・・・左上の取れたところの前の詰め物の下と・・・前もだね、あとは右、上の同じところの詰め物の下と・・」
次々に指摘されるところにはどこも、たしかに、はっきりと虫歯が写っていた。
晴香は、頭がくらくらしてきた。
左の2本の他に、5本も治す歯が見つかったのだ。
「取れちゃったところは、やっぱり神経まで行ってしまってるね、左下も。」
左下の痛みが、強くなった気がした。
「新しい虫歯はたぶんないと思うけれど。」
歯科医が付け加えたが、あまり救いにはならなかった。
「じゃあ、左の上、取れちゃったところから治すので、麻酔しましょう。麻酔が効いてくるまでの間で、詳しく見ようか」
気が付くと、右のトレイに、衛生士が細い注射器をならべていた。
「倒しますねー」
晴香の緊張をよそに、歯科医は椅子を倒し始め、衛生士もスッ、と左側に立ち、配置に付いた。
ああ、こんな感じだったわ・・
寝かされた状態から、のぞきこむ歯科医と衛生士を見上げると、晴香は観念した。
「口あけて。もうちょっと大きく。」
歯科医の目が厳しくなる。
ミラーが口に差し込まれ、人工的なにおいのする綿が、歯茎に押し当てられた。
「ちょっとちくっとしますから。」
ピンセットを注射器に持ち替えた歯科医に言われ、目でうなずくと、晴香はそのまま目を閉じた。
が、針が近づいてくる気配はうっすらと感じる。
ぷすり。
「あう!」
覚悟していたよりもはっきりした痛みに、晴香は思わずうめいた。
「動かないでくださいねー」
衛生士からあごをつかまれる。
じんわりと歯茎が膨れていく感覚。
針が抜かれ、ホッとしたのもつかの間、少し違う場所に
ぷすり。
しばらくして、また別の場所に、ぷすり。
いったい、何回刺されるの??そんなにひどい虫歯なの??抜くとは言われなかったわよね。
観念したはずだが、またも晴香の緊張は高まってきた。
5ヶ所ほど刺され、ようやく解放された。
「削っているうちに痛みが出るようなら、また追加しますから」
安心させるつもりで、歯科医は言ったのだが、晴香の不安は増した。
歯科医は、患者は痛みを怖がっている、と思っているが、実際、若い女性の場合は、
それ以上に、歯を抜かれたり、大きく削られてしまうことのほうが怖いのだった。
「麻酔が効いてくるまで、ちょっと詳しく見せてもらうからね」
椅子を起こしてもらえると思った晴香は、歯科医が、右手の注射器を、先が尖った針に持ちかえるのを見た。
口にミラーを入れられたままの晴香は、目で頷くしかなかった。
左側の衛生士が、胸ポケットからペンを取り出し、スタンバイする。
「じゃあ左上7番から。レ充。6番、インレー脱離のC3。5番、インレーの下2次カリ。4、はOK.。3、レ充。2がなあ・・
レ充だけど2次カリ。そのまま右に行って、4番、レ充。5番、インレー。6番が、インレー、の2次カリ。あ、新しい虫歯もあるね、
7番、C1。」
なんだかわからない言葉が繰り返されて不安が高まっている中、新しい虫歯もある、という言葉に、晴香はショックを受けた。
歯科医の声は、さらに続く。
「右下に行って、7番レ充、6番インレー、あ、これはちょっと大きいな、5番インレーの2次カリ、4番も行っちゃってるかもしれない、
左行って、5番インレー、6番インレーの2次カリ、7番レ充で前からC2、かな。はい、おつかれさん」
衛生士は、書き終えたカルテを歯科医に渡すと、立って、治療の準備をしに行ってしまった。
カルテを眺めながら、歯科医が晴香に言った。
「長いこと、歯医者に行ってないでしょう。けっこう治すところがあるよ、えーと、9本。がんばろうね。」
歯科医の口調は優しかったが、晴香は、もう泣きそうだった。
最後に歯医者に行ったのは、いつだっけ??5年前だわ。
そういえば、大学に入ってからは、歯科検診もなかった・・・
ちゃんと定期健診とか行っておけばよかった!
後悔したが、後の祭りだ。
「じゃ、治療していきます。先は長いからね。痛かったら左手上げて」
ハッと気が付くと、歯科医は、ミラーとタービンを手にしていた。
衛生士も左側に戻り、バキュームを手にしている。
「あーん」
晴香は静かに口を開け、目を閉じた。
口の中で、ヒュウイィィィィィィン、という音がして、すぐに、チュイン、チュイン、チュイィィィィン、という甲高い音にかわった。
あ、痛くない・・・!
固くなっていた晴香は、少しだけ、体の力を抜いた。
チュイィィィイン、チュィィィィィン、
タービンの先が、晴香の薄く残った歯を削り取っていく。
もともと、大きなインレーが入っていたため、側面は、割れそうなほど薄かった。
キュイーーーン、キュィィィィィィン、キュィィィィィィィィィィィン・・・
音が少し低くなり、歯の内部、虫歯が進行している部分に進んだ。
思ったよりも深いな・・・後でもう一回麻酔入れないとダメだろうな、これは
歯科医は眉間に皺を寄せ、さらに削り進む。
キュィィィィン、キュィィィィィィイイイイイイイ
痛みがないことに安心した晴香だったが、思っていたよりも長く続くことに、不安を感じ始めた。
ぎゅっ、と、手を組み合わせる。
キュィィィイン、キュィィィィ・・・
キュィィィィ、ヒュゥゥゥゥゥウ・・
ようやく、タービンがやんだ。
長かったわ・・
「じゃ、口ゆすいでください」
椅子が起こされ、くちゅくちゅ、とゆすいで吐き出すと、ボールに、歯の欠片が散った。
晴香の心が痛み、舌で削られた歯を触る。
えっ!!
さっきまで、少し尖って舌に触れた歯は、高さが半分くらいになっていた。
「まだ大丈夫ですか」
声をかけられ、
「えっ?」
と晴香が聞き返すと、歯科医は、タービンの先を付け替えながら言った。
「まだ、痛みはないですか?」
「あ、はい、大丈夫です」
「では、もう少し削ります。思ったよりもずいぶんと進行していましたから」
まだ削るの!と思ったが、歯医者に行かなかった自分を責められている気がして、
晴香は、倒されていく椅子に頭を預けるしかなかった。
「じゃ、痛くなったら伝えてくださいね」
再び、タービンが、うなりを上げた。
キュイィィィィィイイイイイイ、キュイィィィイイン・・・
タービンは、晴香の侵された歯の中をえぐっていく。
キュキュキュィィィィイイイイイン・・・
ィ・・イ・・イ・・晴香は、頭に響く振動の中に、かすかな違和感を感じはじめた。
キュィン、キュィイイン・・
ィ、イ、イ・・その感覚は、どんどん大きくなってくる。
キュィィイン、キュギュギュイイイイイイ
あ、あッ、イタ・・・いたいッ!
「ぁうっ」
急激に大きくなる痛みに耐え切れず、晴香はうめいた。
しかし、歯科医は手を緩めない。
「もう少し、もう少し頑張って」
ギュィィィィィイイ
痛いィィィッ!!
ギュィィィィィイイイイ!
「ぁ、ぁ、んぁああああっ」
ついに晴香が耐え切れずに声を上げたとき、タービンの音がやんだ。
「じゃあ、麻酔を追加しましょう」
「・・はい」
ようやく痛みから解放されたと思ったが、まだ続くのか・・・
しかし、それ以上に、晴香は、そんなにひどい虫歯を作ってしまったことに対する自責の念で打ちひしがれていた。
銀歯の下なんだから、しょうがないじゃない、と、自分を慰めてみたが、
他の銀歯の下の虫歯が発見されたことから言って、やはり、検診を受けなかった自分が悪いのだ。
「はい、あーん」
さきほどとは、少し違う形の注射器が用意され、麻酔が注入された。
2回目のためか、針を刺す痛みは感じなかったが、液が注入される、圧迫されるような痛みがあった。
晴香は、手をにぎりしめて、それに耐えた。
実はその少し前、歯科の受付には、晴香のチーフから電話がかかってきていた。
「4階のD企画のものですが・・そちらに、うちの滝川が伺ってますか?」
「はい、いらっしゃってますが、今治療中です」
「そうですか。すぐ戻ると言っていたのですが、もう1時間くらい経つので」
「そうですね、少し治療が長引いています、もう少しかかると思います」
「親知らずか何かでしょうか?いえ、麻酔とかあるでしょ、その後の業務を考えないといけないんで」
「いえ、虫歯の治療です」
「ほう・・ひどいんですか?」
「私はわかりませんが、少し長いですね」
そのとき、晴香の上げた声が、チーフの耳に届いた。
『ぁ、ぁ、んぁああああっ』
その痛そうな声に、チーフは、胸が高鳴るのを感じた。
そう、チーフは、女性の歯、特に虫歯の治療に興奮するタイプの、歯フェチだった。
晴香については、特に歯が弱そうでもないので、何も注目していなかったが、
これは、チャンスかもしれない・・・
「他にもありそうですか、あの、長くかかるんでしょうかね」
「詳しいことはわかりませんが、1本ではないようです」
「では、診断書みたいなものを書いてもらうことはできますか」
「書式などはどういったもので・・・」
「いえ、簡単でいいのです、どこが悪いとか、治療計画とか、今日はこの治療でこのくらいかかったとか
一応、書いてもらえますか。どうせ読んでもわからないですが、最近、労務管理が厳しくてね。
あまりしょっちゅう抜けて、サボりだと思われたら可哀相でしょう」
「ああ、そういうことですか。わかりました。あとで、先生に頼んでおきます」
「よろしくお願いします」
受話器を置き、チーフは、思わぬ楽しみができたことに感謝していた。
「では続けましょう。先ほどよりは痛みは軽いはずですから。」
歯科医が、ふたたびタービンを手に取った。
晴香は、おとなしく、口を開け、目を閉じた・・・
ヒュィィィィイイイ・・キュイ、キュイ、キュィィィィイン
より深く、晴香の虫歯が削られていく。
ああ、よかった、痛くない・・
晴香がホッとしたのも束の間、また、少しずつ、あの痛みがやってきた。
さっきのように、叫びだす程ではなかったが、かなり、痛い。
晴香は目を閉じたまま、顔をしかめる。
キュイィィン、キュィィィイン、キュィィィイイン
「もう少し、我慢して下さいねー」
衛生士は、声をかけながらも、動かないように晴香の顎をしっかり押さえつける。
キュィイ、キュィイ、キュィイイイン
痛みはより強くなり、晴香のぎゅっと閉じた目に、かすかに涙がにじんできた。
キュィィ、キュィィイ、
キュィィン、キュィィイー
ィィィイイイイイイイインンン
「はい、終わりです」
ようやく、タービンの音がやんだとき、晴香の目からは涙が流れていた。
「よく頑張りましたね」
椅子がおこされ、鼻をすすりながら、うがいをする。
さっきよりもたくさんの、黒ずんだ歯のかけらが流れていく。
「じゃあ、薬を詰めて蓋をしますから」
歯科医に促され、再び椅子に背をあずけた。
「歯はほとんど削ってしまいましたから、こちらではあまりものを噛まないように、ほら」
歯科医が、手鏡を渡してくれ、ミラーで削った歯を見せてくれる。
晴香は、見たくはなかったが、おそるおそる、手鏡を動かすと・・・
!!歯が!歯がない!
歯の後側と舌側のの壁のほんの一部を残して、歯は削り取られ、中にはぽっかりと大きな穴が開いていた。
「大丈夫、きちんとかぶせればまた噛めるようになりますから」
やや的外れな慰めをかけて、歯科医は次の作業に移った。
手際よく、薬のついた綿をつめ、仮封材で少し大きめに封をする。
晴香の口の中に、薬の匂いが広がった。
「どうしますか、下の歯は。どうしても痛みが強いようなら、処置しますけど・・」
そういいながら、歯科医は、時計を見た。すでに、11時になろうとしていた。
「今日は・・大丈夫です・・」
「では、痛み止めを出しておくので、我慢できなくなったら飲んで下さい。上も少し痛むかもしれません」
椅子を起こしながら、歯科医が言う。
「はい・・ありがとうございました・・」
まだ残る治療の痛みと、精神的なショックで、晴香は力なく答え、治療台を後にした。
「先生、滝川さんのチーフの方からお電話があって、治療内容を書いて欲しいと」
晴香の去った治療室では、素子が歯科医に、チーフの電話を伝えていた。
「そうか、たしかにちょっと長かったからね。今後のこともあるし、ちょっと詳しく書こうか」
真面目な歯科医は、全体の状況、今日の治療内容、これからも治療が必要であること、治療に対する理解を頼むこと、
などを図入りで丁寧に書いて、素子に手渡した。
「滝川さん、受付へどうぞ」
待合室で呆然と座っていると、名前を呼ばれた。
「今日の治療は終わりです。次は2日後に来てください。9時半でいいですか?」
「あの・・あまりにしょっちゅう仕事を抜けるわけには・・」
「では、職場に戻って、相談なさってから、またご連絡いただけますか?」
「はい、わかりました」
今日のように長い時間抜けるとなると、仕事人間のチーフは了解しないだろう。
今日の治療で疲れ切って、あんな治療はしばらくこりごり、と思っていた晴香は、そのことを期待していた。
「それから、こちら、上司の方にお渡し下さい。治療の証明です」
封筒を受け取った晴香は、治療費かなにかの書類かしら、と、なんの疑いもなく、それを受け取り、オフィスへ戻った。
「遅くなりました、これ、上司に渡すようにと」
戻った晴香は、パーティションの向こうのチーフに挨拶に行き、封筒を手渡した。
晴香の体と吐く息から漂う、強い歯科治療の匂いに興奮しながらも、
興味がなさそうに、チーフは封筒を受け取った。
「親知らずか何かなの?」
「いえ、あの、銀歯が取れてしまって」
「へえ、それにしては遅かったね」
「銀歯の下で虫歯が進んでいたそうで・・」
彼は、女性が「虫歯」と言うだけでも、少し胸が騒ぐのだった。
「ひどいの?」
「少し進んでいるそうで・・神経を取らなければいけないと」
「大変そうだね、もう一回行かないといけないのかな?」
「いえ、もっとかかるそうです・・あと、実は他にもあちこち虫歯があって・・」
あちこちだと!若い女性の口から、虫歯の申告を受ける興奮に、小躍りしたいくらいだったが、
あまり仕事を抜けられては迷惑だ、という上司の顔を保って答える。
「そうなの」
つまらなそうに封筒から紙を取り出すチーフに、晴香がおそるおそる尋ねた。
「あの・・それで、次回、2日後に来るように言われたんですけど、そんなに頻繁には無理ですよね」
「ああ、いや、必要なら行った方がいいな、歯は大事だ、で、今日は何本くらい治したの?」
「1本・・です」
「え、たったの?」
「そうですっ」
自分が疑われている、と感じた負けず嫌いの晴香は、チーフの前で口を開けて見せた。
開けろ、と言ったらセクハラだが、向こうが見ろというなら問題ない。
チーフも、晴香の口を覗き込む。
より強い、消毒薬の匂いと・・進行した虫歯特有の、かすかな異臭が漂った。それだけでもう、倒れそうだ。
さらに、想像していたより多くのインレーにも感動をおぼえつつ、
「どこだ」
と聞く。
「ここでふ」
晴香が指さした箇所は、たしかに、歯はほとんどなく、異様に白い仮封材が目立っていた。
こりゃクラウンだな・・まだ若いのにな・・・
「まあ、いい。じゃあ、2日後、歯医者に行っていい」
晴香は、チーフが反対するだろうという当てが外れたが、チーフの了解が得られたことにはホッとして、
席に戻り、歯科に、次回の予約を入れた。
歯科医からの紙を開いたチーフは、そこに歯列まで描いてあるのを見て、興奮を抑え切れなかった。
さらに「要治療歯:9本」の文字。後でじっくり読もう、と、紙をたたむと、封筒に戻し、自分のブリーフケースに入れた。
その夜。晴香は、左の歯の痛みに悩まされていた。上の歯が疼く。が、下の歯も痛むような気がする。
夕飯もろくに食べられず、もらった痛み止め、カロナールを飲んだが、あまり効果がなさそうだ。
治療しない方がよかったんじゃないかしら・・・それまでは痛くなかったんだから・・・
朝の後悔はどこへ行ったのか、晴香は、もう歯医者に行くのはやめようかと、うっすらと考えていた。
一方、チーフは、単身赴任中のマンションに戻ると、ブリーフケースから大事そうに晴香の歯科医からの封筒を取り出した。
テーブルの上を片付け、紙を取り出す。書類は、3枚に渡っていた。
1枚目。
患者氏名:滝川晴香 年齢 23歳
主訴:左上6番のインレー脱離によって来院。左下6番にも、しばしば痛み有とのこと。要治療箇所はすべて治療希望。
患者の口腔状況:臼歯に多くの処置歯が見られるが、清潔は保たれている。歯肉等は問題なし。2次カリエス多発。詳細は下記。
ここまで読んで、チーフは、ほうっ、と大きく息をついた。
実にいいねえ。しかも、これは創作ではなく、現実に、自分のそばにいる若い女性のものなのだ。
実際、今日の午後は、晴香の髪に染み付いた歯科の残り香を嗅ぐ機会もあり、頬を押さえてやや顔をゆがめる姿も見ることができた。
こりゃ、他の女性も送り込むかな・・
と、特に気になっている、前歯の間に小さな未処置の虫歯を抱えている塩原なつきのことを思い浮かべていた。
まあ、いい。とりあえず今は滝川がいる。
チーフは、さらに読み進めた。
歯式図のスタンプが押してあり、そこに小さい字でC1、CRなどと書き込まれ、横に文字で説明が付いていた。ご丁寧にも、要治療、は赤色で書かれている。
右上 7番:C1小さい虫歯、要治療 6番:インレー(銀歯)の下で虫歯が進行、要治療 5番:インレー治療済 4番:レジン(プラスチック)治療済
左上 7番:レジン治療済 6番:インレー脱離で内部は重症の虫歯、要治療 5番:インレーの下が虫歯、要治療 3番:レジン治療済 2番:レジン治療の中で虫歯が進行、要治療
右下 7番:レジン治療済 6番:インレー治療済 5番:インレーの下が虫歯、要治療 4番:5番との境から虫歯が進行、要治療
左下 7番:レジン治療済だが6番との境から虫歯が進行、C2、要治療、6番:インレーの下が虫歯、要治療、5番:インレー治療済
現時点での要治療歯:9本
1枚目はここまでだった。流しに行って、水を1杯飲む。
滝川がこんなに掘り出し物だったとは。
満足げにため息をついて、さらに読み進めることにする。
2枚目、3枚目はどうなっているかな・・・
2枚目。
本日の治療内容
ざっと眺めると、痛みが、とか、麻酔、とか、事細かに書いてある。
一気に読んでしまうのが惜しいような内容だ。
3枚目を先に見てみよう。
3枚目。
治療に対するご理解のお願い
患者は、同年代女性と比較して、やや虫歯が多く、虫歯になりやすい歯質だと考えられます。
また、今回の要治療歯のうち、6本は、2次カリエスと呼ばれる、すでに治療した歯の内部で進むタイプの虫歯であり、
通常の虫歯よりも、深く進行していることが多いものです。この場合、神経も虫歯に侵されている場合が多く、歯を削り、
神経の入っていた根の部分を綺麗に清掃し、穴を埋めて、かぶせる、という治療が必要で、通常よりも長く、回数も多くかかります。
このことから、本患者の治療には、長期間を要し、また、多くの通院回数を必要とすることをご理解下さい。
また、治療を途中で中断するようなことのないよう、ご指導下さい。
歯科医師 後藤
もちろん、理解してますよ。指導もよろこんでやりましょう。
チーフは、満足げに頷いた。
さて、いよいよ2枚目だ・・・
本日の治療内容
左上6番の治療。インレー脱離の原因は内部での虫歯の進行。感染歯質を削り、薬を詰める治療を行いました。目視でも、かなり進行していることが推測され、痛みが予測されたので、麻酔薬を注射し、歯を削りました。推測以上に虫歯は大きく進行しており、削っている途中で患者が強い痛みを訴えたため、麻酔を追加。
読み進めるチーフの耳に、電話越しに聞いた、晴香の泣き声がよみがえってきた。
目を閉じて状況を思い浮かべる。押さえつけられ、歯を削られる晴香。顔は痛みに歪み、やがて、耐え切れなくなって声を上げる。
『ぁ、ぁ、んぁああああっ』
・・・ふぅぅっ。チーフは静かに息を吐くと、治療した歯の図を眺めた。削り取った部分が、斜線で塗られている。
ほとんど歯冠部は残っていない。おそらく、晴香はその歯を見て、ショックを受けただろう。
さらに読み進めた。
さらに虫歯を完全に除去し、歯髄(根)の鎮静化と消毒のため、薬を詰めて蓋をしてあります。痛みが出ることがありますので、ご理解下さい。
治療に要した時間:約1時間20分(検診20分、齲蝕治療1時間)
今後の予定
次回以降、歯髄内部の清掃を数回にわたって行う必要があります。適宜、他の虫歯の治療も平行して進めて行く予定です。特に、左下6番に痛みを訴えていますので、至急の治療が必要かと考えます。
チーフの興奮は、ほぼ絶頂に達していた。
それにしても、真面目な歯医者なんだろうな・・
チーフは、歯医者の性格に感謝した。
その夜は、1枚目の歯式図と歯の状況を眺めながら、満足して眠りに付いた。
2日後。
チーフは朝から、治療報告が楽しみでたまらなかった。
晴香は、痛む歯を押さえながら、出社した。上の治療した歯の痛みは薄らいでいたが、下の歯の痛みが、少しずつひどくなっていたのだ。歯医者に行くのはやめようかと思っていたが、これでは、行かざるを得なかった。
しかし、前回の治療を思い出すとやはり気は進まず、9時25分になっても、なんとなくデスクでだらだらしていた。
すると、チーフがやってきて、声をかけた。
「滝川さん、歯医者に行かないのか」
「あ、はい、そろそろ行かないと」
「痛むのか」
「ええ、少し・・」
「無理しなくていいぞ。それから、仕事は気にしなくていいから、必要ならいつでも行っていい。近いしな。これを先生に渡してくれ」
意外なチーフの優しさに驚きつつ、晴香は、チーフから封筒を受け取った。
歯科クリニックに着くと、晴香は、受付に名前を告げ、チーフからの封筒を手渡した。
「上司から、先生に渡すようにと」
「はい、では、しばらくお待ち下さい」
素子は、歯科医に、晴香の到着を告げ、封筒を手渡した。
歯科医は、中身を取り出し、目を通した。
後藤先生
滝川の治療の件、了解致しました。歯の痛み等ありますと、業務に差し支えますので、今後しばらく、歯の治療を最優先で進めるべきではないかと判断致しました。先生が必要だと判断される時に治療を進めていただけますようお願いいたします。治療が長時間に及ぶ場合でも、治療報告をいただければ問題ありません。また、治療やその後の痛みについての情報は、詳細に書いていただければ、その後の配慮にも有用ですので、よろしくお願いいたします。
と書かれていた。
理解のある上司だな・・
しばしば、仕事が多忙だといって、治療途中で来なくなる患者を見てきた歯科医は感心した。
「じゃ、治療始めましょう」
「滝川さーん、治療室にお入り下さい」
晴香は、重い足取りで、治療室に向かった。
「どうですか、痛みますか」
治療室に入ってきたとき、頬を押さえていた晴香に、歯科医が尋ねた。
「上の歯は、夜は痛みましたが、もう大丈夫です」
「上は大丈夫、ね・・」
目を逸らした晴香に、歯科医はたたみかけるように聞いた。
「じゃあ、下の歯が痛む?」
「・・はい。だんだん、痛みが強くなるような感じで」
「まあ、レントゲンで見る限り、上の歯より、進んでいるようですから。じゃあ今日は、上の歯は、薬を取り替えるだけにして、下の歯をなんとかしましょう。」
晴香は、前回の治療の痛みと、ほとんど削り取られた歯を思い出して、怖くなった。
あれよりも酷いっていうの?どうなっちゃうのかしら・・・
「では最初に、麻酔をします。おととい、かなり痛かったようですから、ちょっと違った麻酔をします。それにもともと、下の歯は麻酔が効きにくいので」
歯科医の言葉もあまり耳に入らず、晴香は、たまらなくなって尋ねた。
「あの・・抜かなければいけないというようなことは・・」
「今のところ、抜くつもりではないし、そうならないように、努力はします。ただ、100%抜かないという保証もできません」
真面目な歯科医は、誠実に対応した。
そのうちに、トレイに麻酔の用意がされた。おとといと違う、青い注射器だ。
「では、始めましょう」
椅子が倒され、ライトのスイッチが入れられた。
晴香はぎゅっとハンカチを握り、目を閉じた。
昨日と同じように、歯ぐきに綿が押し付けられ、しばらくして、歯の生え際近くから、ぐぐっと注射針が刺された。
そして、ゆっくりと薬が注入される感覚・・・昨日とは違い、1ヶ所で注射は終わった。
「じゃ、麻酔が効くまでの間、上の薬を換えましょう」
そのまま、歯科医は注射器をピンセットに持ち替え、ライトの角度を調整すると、晴香の口をのぞきこんだ。
ピンセットの先で、ぐいっ、と仮封をはがし、詰めてある綿も取り去る。
「うん、綺麗だね。膿も出ていないし、これなら、次は神経を抜いて、埋めていけますよ」
そう言うと、新しい薬をつめ、再び、封をした。
何を言われたかよく理解できなかったが、悪くはないようだ。晴香はかすかに安心し、ぎゅっと握り締めていたハンカチをたたみ直した。
「では、ちょっと下の銀歯を見ましょう」
再びライトの角度を調整し、ピンセットを手にした歯科医が言った。
歯科医の手にあるのがタービンではないので、晴香は、何の不安も抱かず、口を開けたが、
ぐぐっ、と痛む歯に力が加えられ、体がびくん、と緊張し、
「っぁああ!」
と、声が出てしまった。
「しっかりくっついていますから、削りますね。はじめは銀歯をはずすだけなので、痛くはないと思いますから」
外れないなら、なんともないんじゃないのかしら・・と、一瞬、晴香は思ったが、先日からの痛みから言って、なんともないわけはなかった。
歯科医がタービンを手に取るのを見て、晴香は、目を閉じた。
口の中で、ビュイーーン、と音がして、下の歯に、振動が感じられる。
ビュィン、ビュイン、ビュィイン
しばらく削られた後、タービンの代わりに、ピンセットが歯に触れ、インレーが外された。
同時に、歯科医の声がした。
「ああ、これは酷いな。痛かったでしょう」
歯科医に手鏡を渡され、仕方なく見る。
と、そこには、真ん中にぽっかりあいた大きな黒い穴。外側に残された歯も、内側はすべて黒く、晴香が見ても虫歯に侵されているとわかる。
「この部分を見ても」
と、歯科医がピンセットの先で、歯の壁の部分を指しながら言った。
「わかると思うけど、全部虫歯になっているので、削ります。中もね。歯ぐきから上の部分の歯はおそらく、全部。ただ、ほとんどやられているので、痛みはほとんどないと思いますから」
晴香は、絶望的な気分になり、手鏡を返すと、目を閉じた。
歯科医は、タービンの先を取り換えると、真っ黒な歯の治療に取り掛かった。
キュイィィン、キュィィィイン、キュィィィイイン
キュ、キュイィィン、キュィィイン、キュィィィイ
虫歯に侵された歯は、容赦なく、削り取られていく。
歯科医が言ったことは嘘ではなく、痛みはまったく感じなかったが、歯がどんどんなくなっていく感覚に、思わず、涙がにじんだ。
ああ、最初に痛いと思ったときに来ていれば・・・
キュイィィン、キュィィィイン、キュィィィイイ・・・
タービンは、休むことなく、黒い歯をえぐり取っていく。
キュィィ、キュィィ、キュィィィィィイイ
キュィィ、キュィィ、キュィィィィィイイ
キュィィ、キュィィ、キュィィィィィイイ
キュィィ、キュィィ、キュィィィィィイイ
どのくらい削り続けただろうか。歯冠部は全て削り取られ、ようやく根の入り口が見え始めたが、虫歯は、終わりを見せなかった。
これは、根もやられているな・・・抜くしかない・・・
キュィィィイイイン、ヒュゥゥゥ・・
どうやって伝えるか、歯科医は頭を悩ませながら、タービンを止めた。
「口ゆすいで下さい」
と言って、椅子を起こす。
くちゅくちゅ、ぺっ、くちゅくちゅ、ぺっ・・・
1度では口の中に飛び散った歯の欠片が取り切れず、晴香は、3回口をゆすいだ。
わかってはいたが、舌で、歯の場所を確認し、歯がなくなっていることに、ショックを受けた。
「えーと」
歯科医に手鏡を渡され、口を開けるよう促された。
「歯の上の部分は全て取ったので、根っこの入り口がが見えています、ここ」
探針で指されたそれは、先ほど見た歯のように、黒かった。
晴香が、ハッと息を呑む。まさか・・・
「おそらく、この根っこも、虫歯にやられています」
「えっ、じゃあ、あの、えーと、この歯は・・」
「一応、薬を入れて、様子を見てみますが、覚悟はして下さい」
思わず、涙がにじんだ。
「抜いたら・・どうなるんでしょうか・・入れ歯ですか」
「いえ、両脇の歯が丈夫なので、普通の銀歯のように治ります」
何を言われても、今は耳に入らなかった。
「じゃあ、薬を詰めますから」
椅子が倒され、呆然としたまま、薬を詰めて封をしてもらい、重い足取りで封筒を受け取ると、
晴香はオフィスに戻った。
「戻りました。これ、今日の報告です」
晴香は、戻ると、チーフのところに挨拶に行き、封筒を手渡した。
封筒を拝みたいような気分だったが、さりげなく受け取る。歯科の匂いが、鼻腔をくすぐる。
「お、早かったな・・・どうした。元気ないな。痛むのか?」
悲痛な顔をしている晴香に、気遣うように声をかける。
「歯を・・抜かないといけないかもしれないと言われて・・一応様子を見るそうなんですが・・覚悟はしておくようにと・・・」
晴香は、ショックを隠しきれない様子だった。
「なぜ?」
「虫歯が酷くて、根っこまでやられて、ボロボロになっているからって」
「それはおかしいな、そんなに痛かったようには見えないが」
ここは、味方のように慰める方がいい。
「いえ、少しは痛かったんです・・1年くらい・・それを放って置いたから・・」
晴香の声は、消え入りそうになって、目にはかすかに涙も浮かべている。
「それはまあ・・仕方がないのかな・・そんなに目立つところじゃないだろう?奥歯?」
かすかな期待を持ってたずねると、晴香は、あっさり、口を開けた。
「ここ・・です」
左下の6番だった。歯冠部はすべて削り取られ、歯肉とほぼ同じ高さに、仮封がされている。
思わず、ごくり、と唾を飲み込みそうになるのを抑え、目を凝らす。
抜歯となると・・ブリッジか・・?
その後ろの7番は、前から小さい穴が開いている。この歯も治療が必要だろうし、前の5番もインレーが入っている。
ま、3連ブリッジにするのが妥当だろうな。滝川の収入なら、おそらく、保険内の・・・ギラギラした・・・
悲しそうな顔を作って軽く頭を振り、妄想を頭から振り払うと、やさしく晴香に伝えた。
「気分がすぐれないなら、帰ってもいいぞ。次は歯医者はいつだ」
「明日、です・・」
「それはまた急ぐね」
「申し訳ありません・・・下の歯の様子を見てもらいに・・」
「いや、かまわないよ、歯は大事だからね、いいよ」
その言葉を聞いて、晴香がいっそう悲しそうな顔になるのを見届け、机の上の書類に目を落とすと、
晴香は、一礼して去っていった。
その夜。チーフはまた、胸ポケットに大事にしまった歯科からの封筒を取り出すと、震える手で紙を開いた。
滝川晴香 治療状況報告
現状:左上6番の齲蝕部位を除去、歯髄治療中
本日の治療内容
左上6番の歯髄の消毒 引き続き、歯髄の鎮静化と消毒のため、薬を詰めなおしました。痛みはほぼおさまり、経過は良好。
左下6番の治療。
オフィスで見た、歯冠部のなくなった晴香の左下6番がフラッシュバックし、チーフは、興奮を鎮めるため、深呼吸をした。
晴香は、結局、昼休み中に、早退してしまった。よほどショックだったのだろう。
まだ23歳だ。歯を抜くのは、つらいだろう。それも、虫歯でだ。
心配して、様子を聞きに来た、なつきとの会話も忘れられない。
「滝川さん、どうしたんですか」
なつきの前歯の、ときどき見え隠れする虫歯は、以前よりもかすかに、しかし確実に大きくなっている。本人はまだ気づいていないかもしれないが・・裏側はきっと、もっと大きいはずだ。
「朝から歯医者に行って、ちょっと痛みが強いので早退したそうだ」
「歯医者ですか。私も・・・もうずっと行ってないですけど。」
「行かなくていいのか。検診とか」
「うちの会社、歯科の検診ないですもん。強制じゃないなら、痛くならないと行かないですよ、歯医者なんて。」
「そういうもんか」
「行かなきゃとは思ってるんですけどね・・ちょっと、しみる歯があるし」
「ああ、それなら、早く行った方がいいぞ」
「あのクリニック、優しいんでしょうか」
「ああ、優しいらしいぞ、綺麗らしいし」
なつきは、考えるようにして、机に戻っていった。
同じ部署の女性同士なのに、晴香となつきは、あまりそういう話をしないらしい。3つ上のなつきを、晴香が避けているようだった。
それはさておき。チーフは、晴香の治療報告に戻った。
左下6番の痛みが強いとの訴えがあり、治療を行いました。麻酔後、インレーを除去したところ、左上の歯よりも虫歯が深く進行しており、歯冠部(歯肉より上のいわゆる歯の部分)は全て削り取りました。しかしながら、歯髄(根の内部)のみならず、根の歯質部分にまで虫歯は及んでおり、抜歯の必要があると判断しました。本人に伝えると動揺が激しいと思われましたので、様子を見るが、痛みがおさまらないようなら抜歯をする、という形で伝えてあります。
治療に要した時間:30分
なるほど。たしかに、晴香も、様子を見る、という言葉にすがっているようだったが、抜歯は決まっているのか・・
今後の治療
次回、左下6番の残根除去。次回以降、根の先の膿の除去。同時に、左下7番の治療も開始。C2ですが、6番の治療でブリッジ(歯を喪失した場合に、両隣の歯のかぶせ物と連結して入れる義歯)にする必要があり、クラウン(かぶせもの)の治療にします。5番も、治療の必要はない歯ですが、ブリッジ作製のため、同様にクラウンの治療を開始する予定。左上C6の根管治療(根の治療)も進める予定です。引き続き、ご理解をよろしくお願いいたします。
目をつぶり、昼間は頭から追い払った、左下に3連ブリッジ、の図を想像する。滝川が・・口を開けると・・左下の奥にギラリと輝く3連ブリッジ。可哀相に、上ならばまだ目立たなかっただろうが・・・いや、しかし、5番というのは、上の歯でも、意外と見える歯なのだ。滝川は口が大きい方だからな・・
左上も、あの様子ではクラウンだな、他はどうだったか・・昨日の治療報告を取り出し、ながめる。5番もインレーの2次カリエスか・・・クラウンの期待は持てそうだ。
明日の、打ちひしがれる晴香の様子を浮かべながら、チーフは眠りについた。