こたつでうとうとしていた香緒里は、首に風を感じて起きた。
ワンルームの下宿の、玄関に続くドアが半分開いていたらしい。
ふと時計を見るともう日付が変わっていた。
大学の課題が途中だが、急ぐものではないし、そろそろ寝よう。
こたつの上から冷めたココアの入ったマグカップを取り上げ、台所に向かう。
「またやっちゃった…」
マグカップを洗いながら、ため息をつく。
香緒里は虫歯になりやすい。でも甘いものは大好きだ。
勉強するのにエネルギーがいる、とかなんとか言って、
ここのところ甘いココアばかり飲んでいる。
こたつで勉強するものだから、ついそのまま寝てしまうのだ。
歯に悪い、ってことは解ってるんだけどね…と香緒里はひとりごちる。
小4の時に決定的に歯医者嫌いになってから、一度も歯医者に行っていない。
高3の検診の時にはとうとう、未処置が10本もあると怒られたが、
それでもどうしても足が向かなかった。
銀歯が取れたところは時々ちくちくと痛んで香緒里をどきっとさせたが、
薬を飲まなくても我慢できたし、次の日にはたいてい治っていた。
そのたび、「まだ大丈夫」と胸をなで下ろすのだった。
「歯磨き…しなきゃ」
またため息をつき、香緒里はやかんを火に掛けた。
痛む歯こそないが、しみる歯は多い。
夏はまだそんなにしみる歯も多くなく、かき氷だって食べれたが、
最近では右も左も前歯も奥歯も、昔治したところさえしみるような気がする。
この寒い時期、とてもじゃないけど冷たい水道水で歯磨きなんて出来ない。
やかんのお湯を水で割り、丁度いい水温にする。
歯磨き粉をたっぷりつけて、歯を磨いていった。
「んうぅ!」
うっかり左上の、銀歯が取れた歯に当ててしまって、香緒里は思わず声を上げる。
歯はずきん、ずきん、としばらく痛んでいたが、やがてすっと引いていった。
この歯は歯ブラシで触ると痛いのよね…でも普段は大丈夫、まだ大丈夫…
心を落ち着かせ、その歯に舌で歯磨き粉をなすりつける。
こうすれば、消毒されて虫歯の進行が止まるような気がするのだ。
全体をさっと磨いて、さっき作ったぬるま湯でうがいをした。
ずきん。
「…え?」
香緒里は左頬を押さえた。
いままでこの歯が痛くなったことはあったけれど、
たまにちくちくと痛いか、歯ブラシや食べ物があたったときに痛むだけで、
なにもないのにずきずき痛いことは今まで無かった。
香緒里は顔をしかめ左頬をさすりながらもう一度うがいして、
歯ブラシを片づけ、ベッドに入って布団をかぶった。
歯はまだずきずきと痛い。
「大丈夫…また寝れば治るわ」
いままでそうやって治してきたのだ。
ところが、香緒里の祈りとは裏腹に、歯は痛みを増すようだった。
ずきん、ずきん、ずきん。
規則的な痛みですっかり目が冴えてしまって、
香緒里は仕方なくベッドから起きあがった。
下宿するときに母親に持たされた救急箱を押入から出して、薬を探す。
『歯痛・生理痛に』と書かれた薬を、規定の量飲んで、こたつに入る。
「これで治らなかったら歯医者、行かないとな…」
声に出してみる。こうやって口にすれば、行く勇気も出るかもしれない。
まだ痛む頬を押さえながら、救急箱を閉めようとした香緒里の目に、
あるものが目に入った。
歯医者でつかう、長い棒のついた小さい丸いミラー。
母親が香緒里の虫歯予防に躍起になっていたときに、買ったものだ。
母親に対する怒りと恥ずかしさで、香緒里はかっとなった。
こんなもの、捨ててやる!
そう思ってミラーを救急箱から抜き出した瞬間、
ずきん!とひときわ大きい痛みの波が香緒里を襲った。
「あぁっ!」
小さく叫びながら、香緒里の頭にある好奇心が沸いた。
こんなに痛いなんて、いったい、どうなっているんだろう…
思えば、痛みで頭がどうかしていたのかもしれない。
でも香緒里は、化粧に使っているスタンドミラーを出し、
その前で口を開けた。
普段香緒里は、歯磨きの時に鏡を見ない。
銀歯、特に右上の前の銀歯を見たくないからだ。
口を開けると、下の歯に銀歯が2本見えた。
それを見た瞬間、肝が据わってしまった。
(こうなったら全部見てやるわ…でも左上は最後ね)
香緒里はミラーを口の中に入れた。
右奥から見ていく。
一番後ろの歯のかみ合わせは、大丈夫そうだ。
だが、ミラーを当ててみると、歯の裏側に、茶色い穴があいていた。
ミラーが無いと全く見えないが、結構大きい。
確かにこの歯は、しみるような気がする。
高2の時には何も言われなかったが、そう言えば高3の時に、
「小さい虫歯だけれど、磨きにくいところだから治さないと進む」と言われたっけ。
一年でここまで進むなんて…香緒里はどきどきした。
その前の歯は大丈夫そうだ。
かみ合わせのところに銀がぴったり入っている。
その前の歯は、後側の歯との間のところが、うすく茶色くなっている。
この歯は高2の時に言われたけど、今も進んでないから、
きっと放っておいても大丈夫ね、と香緒里は思う。
その前の歯は、白い詰め物の端が黒くなっているような気がした。
でもこの歯はもう治してあるから大丈夫よね、と自分を納得させる。
次は左下だ。
一番奥の歯は、今度は裏側は大丈夫だったが、前側が黒っぽい。
穴になってないから大丈夫、とごまかす。
その前の歯は、十字にくっきり銀が入っている。
舌で触ってもひっかかりが無い。
その次の歯を見て、香緒里はびっくりした。
かみ合わせのところに穴が空いている。
これだけなら別にびっくりしないが、その穴は中で広がっていて、
ミラーをいろんな角度で当ててみたが、底が見えない。
中で広がっちゃってるんだ…痛くなったらどうしよう…
一瞬背中にふっと恐怖を感じたが、香緒里は深呼吸をして立ち直った。
今痛くないんだもの、歯磨きすれば大丈夫よ、と心に言い聞かせる。
その前の歯はなんともなかった。香緒里はほっと安心する。
とはいえ、大きな虫歯になった歯も、虫歯っぽい歯もたくさんある。
「今度は上の歯ね…」
声に出し、早くもくじけそうな心を奮い立たせる。
左上の歯に到達するまで、やめるわけにいかない。
右上の一番奥は、かみ合わせの溝が茶色くなっていた。
これはやっぱり虫歯だろうな…と香緒里は悲しくなった。
この辺もしみるのだ。この歯だろうか。
前の歯に移る。最後に治した歯だ。
銀が詰めてあるが、縁のところが半分ぐらい黒くなっている。
爪で触ってみると、ちくん、と痛みが走り、香緒里は慌てて爪を離した。
じゃあこの歯がしみるの?治したのに…情けなくて香緒里は泣きそうになった。
早く残りを見てしまって終わりたい、そう思い、香緒里はペースを上げた。
幸い、右の残りの奥歯は何ともなさそうだったが、
一番前の、前の歯との境目半分ぐらいを覆う銀歯をミラーで見たときは、
恥ずかしくてなんとも言えない気分になった。
「あとは、左上ね」
香緒里は座り直し、再び口を開けてミラーを入れた。
ミラーで痛む歯を見た香緒里は、思わず息をのんだ。
他の歯を見ていたときにはましになっていた痛みがぶり返す。
ずきん、ずきん。
その痛みに合わせて、香緒里の胸もどきん、どきん、と鳴った。
歯には茶色く大きな穴があいていて、穴の表面はぐちゃぐちゃとしていた。
歯のかみ合わせの部分は銀を入れるときに削ってしまったのか、
歯の高さは両隣より明らかに低い。
両隣の歯も虫歯になっていた。
後ろの歯は、痛い歯との間が茶色くなっていて、
よく見えないが穴も空いているような感じだったし、
前の歯の奥側はえぐれて、大きな穴になっていた。
さすがに香緒里も、これはやばい、と思った。
「歯医者、行かなきゃ…」
言いながら涙が出てくる。怖い。この歯、こんなに悪かったっけ…
今までのことを思い出す。
キャラメルを食べて取れたんだ、今日まではそんなに痛くなかったけど、
この歯治したとき、どんなだったっけ…
小4の時の治療を思い出してみる。
痛くって、暴れたら怒られたっけ、麻酔なしでいっぱい削られちゃったんだよね、
そう、痛かった。とても痛かった。
思い出したら、歯医者に行かなくちゃ、という気持ちが急激に冷めてしまった。
薬で治るなら行かなくていいわ。
そう思い、香緒里はさっきと同じ量の薬を水で流し込んだ。
「…!」
うっかり冷たい水で飲んでしまい、前歯にキーンとしみた。
そうだ、前歯…香緒里は思い出し、再びミラーを手に取った。
左側の裏が歯で触っても解る大きな虫歯になっている。
改めてミラーで見てみると、犬歯との境目から大きく内側に穴が空いていた。
穴の縁の外側も黒くなっている。
香緒里はため息をついた。
他の歯をざっと裏から見たが、他の歯は何ともなさそうだった。
ほっと息をつき、ミラーを置く。
そう言えば、前歯の虫歯は前から見えたっけ?
祐斗に、虫歯がばれたら嫌だもん。
初めて出来た、白い歯がまぶしい彼氏。
虫歯が原因で彼氏に振られたという、高校の先輩を思い出しながら唇をめくってみる。
裏はかなり大きな虫歯だが、前から見るとそうでもなく、
縁が黒っぽくなっているだけだ。これなら気づかれないだろう。
そう思いつつ視線を中央に移した香緒里は、驚いて声を上げた。
「う、そぉ…」
左右の前歯の真ん中、根元のところが両側に向かって、
茶色い穴になっている。
そう言えばこの歯もしみていた。視覚過敏とやらだと思っていたのに。
「こんなの…誰にも見せられないよ」
真ん中の根元に開いた穴は、他のどの虫歯より間抜けな感じがする。
もし見えたらどうしよう。撮ったプリクラに写ってたりしないかしら…。
そう思い、香緒里はあわてて、鏡の前でいろんな表情を作ってみたが、
虫歯は見えなかった。
大丈夫。わざわざ唇をめくらない限り、絶対見えないわ。
安心すると鏡をこれ以上見ている気力が無くなり、香緒里はベッドに倒れ込んだ。
あの前歯は、歯医者にも見せられないわ。絶対歯医者なんか行かない。
そう思っているうちに、薬が効いてきて、香緒里は眠りにつくことが出来た。
次の日は歯が痛くならなかった。その次の日も。
あれはなにかの間違いだったんだわ。今全然平気だもん。
香緒里はそう心の中でつぶやき、あの歯をミラーで見たときの衝撃と後悔、
そして一瞬歯医者に行こうと思った事さえも心の底にしまい込んだ。
ミラーも昔、歯科検診の紙を駅に捨てたように、コンビニのゴミ箱に捨ててしまった。
もう歯なんて見ないわ。そして歯医者にだって絶対行かない。
香緒里の決意は固かった。
左上がどうしようもなく痛くなって、祐斗に虫歯がばれるまでその誓いを守ったのだ。