「あ・・明日は外来出る日だっけ・・じゃあもう一仕事しておくか」
紺野はふと思い出し、論文の新しい章に取り掛かった。紺野は小児歯科の医局で大学院生をしている。もともと臨床志向だったので、特に博士号はいらないから大学院はいいや、と思っていたのだが、4年ほど前、妻が研究に生きると言い出して別れたときに、つい腹いせで研究を始めてしまい、なんとなく始めた以上は止められない性格で今に至っている。学位論文をまとめるためにここ1年ほど、バイト以外の臨床の仕事は休んでいたのだが、最近、そろそろ論文も形になってきたことと、若干事情ができたこともあって週3回のペースで外来を復活させたのだった。
ピルルルル・・・
机の上に置いた学内院内用PHSが鳴ったのはそのときだ。紺野は手を伸ばした。
「はい、紺野です」
「あ、あの・・私、口腔外科の・・生田のぞみです」
「ああ、こんにちは。この間はありがとう。」
生田のぞみは、紺野の部活の後輩で、学生時代は実習の面倒も見て、別れた妻理沙子の弟で、紺野が今付き合っている佳奈子の同級生でもある・・狭い世界だ・・平木と付き合っている口腔外科の看護婦だ。半月ほど前、佳奈子の頑固な根管治療で平木が手術をしたときに手伝ってくれたのだ。
「いえ・・あの、実は・・」
「うん?何?」
と返事をしながらも、紺野はなんとなく見当が付いていた。実は今日の昼休み、平木と昼食を食べたからである。

「紺野先生、また外来出てるんだって?」
「ん。まあ、半分だけどね」
「もしかしてついにアレか?」
平木が妙に嬉しそうに突っ込んでくる。紺野は適当に流した。
「いや。別に。そろそろ院も終わるし。あんまり遠ざかると勘も悪くなるし。」
すると平木は、
「隠さなくていいぜ。」
とだけ言った後で、まあどうでもいいといった風に急に真剣な顔になって、話題を変えた。
「ところで・・先生、大人でも診てくれるの?」
「バイトのときは診ないこともないけど。ここでは診ないね。・・・お前を診るのは嫌だぞ?」
平木は、苦笑しながら首を振った。
「俺じゃないよ・・のぞみ・・覚えてる?あいつ診てやって欲しいんだ。」
「ん。でも、それこそお前が診ればいい話で。」
「ダメなんだ、あいつ・・実は歯科恐怖症で。でも、紺野先生になら診てもらえるかなって。」
「ふむ・・歯科恐怖症ねえ・・ん・・」
のぞみが歯科恐怖症というのはたしかに少し驚いたが、それ以上に、紺野は少し考えこむような顔になった。たしかに、街で開業している小児歯科には、ときどき歯科恐怖症の大人がやってくるらしい。子供を相手にするところだから、歯科医が優しいだろうとか、そういう理由である。
「平木、生田さんに頼まれた?」
「いや・・この間、紺野先生に診てもらおうかなあとは言ってたけど・・その後は何も。」
「そうか、じゃあ、ダメ。」
「・・なんでだよぅ。」
平木は口をとがらせた。紺野はため息をついて説明を始めた。
「小児歯科は、たとえば乳歯とか生え変わりとか、そういうところに詳しいって意味であって、別に優しい歯医者ってわけじゃないだろ。」
そう言われればそうか、という顔で頷く平木に、紺野はさらに続けた。
「たしかに子供を座らせるってとこでは忍耐強いかも・・。でも、子供はとにかく嫌がってるのをなだめるわけだけど・・歯科恐怖症の大人は、治さなきゃいけないってわかってるけど怖いんだから。そこは全然違う。まして、別の大人がムリに連れて行くもんじゃないって、俺は思うけどね。それに、お前が居るんだし。」
平木はうつむいた。
「そう思うんだけど・・ダメらしいんだ。去年全麻で治療したときは俺が治したんだけど、起きてるときはミラーも入れさせてもらえないし。治せ、わかってる、わかってない、って喧嘩になって終わり。」
んふふ、と紺野はつい笑ってしまい、平木に睨まれたので慌てて弁解する。
「いや、それが辛いのは知ってる、お前の姉さんも、ついに一度も俺の前で口を開けてくれなかったんだよ・・・でも、その弟が逆の立場に立たされるってのはちょっと可笑しいなと・・」
顔を見合わせて苦笑いし、二人はお茶を飲み干した。

「実は・・紺野先生に私の歯を治してもらえないかと思って・・」
電話の向こうに居るのぞみは、思った通りの言葉を口にした。
「平木が何か言った?」
「一馬くん・・いえ、平木先生には何も。できれば内緒に・・していただきたくて・・」
・・そういうわけにもいかんだろ。
紺野は少し話をしないといけないな、と思った後で、自分のお節介に少し呆れた。
「今どこに居るの?病院?」
「実は研究棟・・紺野先生のお部屋の前です」
・・なんだって?
紺野は立ち上がって、ドアを開けた。
誰も居ないじゃないか。
が、廊下に顔を出して見回すと、隣の部屋の前に、のぞみが立っていた。そういえば、隣の部屋に自分の名札がかかっているんだった。
「こっち。空き部屋があったんで、勝手に移ったんだ。」
紺野は手招きした。文献が散乱している部屋の真ん中のテーブルを少し片付け、のぞみに椅子をすすめた。
「個室なんてすごいですね・・」
のぞみが見回している。
「いや、物置だった部屋を空けて、机入れて勝手に使ってるだけ。書き物には静かでいいけど、寂しいからね。論文終わったら戻るよ。コーヒーもない。で?歯を治して欲しいって、なんで?」
いきなり話題に入ると、のぞみの顔が曇った。机の上で爪をいじりながら、ぼそぼそと答える。
「あの・・実は私・・・歯医者さん・・歯治してもらうの怖いんです・・・コーゲーのオペに付くのは全然平気なんですけど・・・自分が治療台に乗って・・治してもらうのはダメで。変ですよね。」
すでに辛そうな顔になったので、紺野は少し話を反らしてみた。単純に気になったというのもあるが・・
「歯医者さん怖いって、平木はどうなの?」
「一馬くんは・・私にとっては歯医者さんじゃないからいいんです・・でも彼に歯を治されることになったら怖い・・」
「今まではどうしてたの?」
紺野は、平木には断ったものの、のぞみの面倒をみることになるかもな、と思いながら、聞いた。
「仕事始めるまでは・・気をつけていたせいもあって・・永久歯になってから、虫歯、なかったんです。でも、この仕事になってから、生活が不規則だったり間食が増えたりして・・虫歯ができてしまって・・去年、ついに少し痛み出してしまったので、唯一、私が歯を見せられる・・治療は怖いんですけど・・口外の先生に相談して、全麻で治療してもらいました。治療は一馬くんにしてもらったんです。どうしても自分にやらせてくれって言うから・・」
・・単純に治療が怖いだけで、彼氏に見られたくないとかでは無いわけだ・・
そして、自分にやらせてくれと言った平木の気持ちを思うと、少し可哀想になった。
「で、今、治して欲しいって言うのは?」
「去年は大きいものだけ・・ときどき痛かったりしたところ・・それだけ治してもらったんです。でも、最近また、ちょっと沁みるようになってきたところがあって。治さなくちゃって・・今度は普通に治してもらえるようになろうって。」
それは良いことなんですけども・・なんで・・
「なんで俺なの?いや、嫌だとか面倒だとかいうんじゃなくて。」
「この間の・・萩原さんの治療のときの先生を見たからです。紺野先生、もともと小児でも子供の扱いが上手いって評判じゃないですか。」
「いや、上手いってのとは違うと思うけど」
まあ実際、よく言われることではあった。子供フェロモンを出しているとかなんとか・・
「でも私、それはこう、たらしこむって言うんですか、なんか子供をだますのが上手いんだろうって思ってたんです・・あの・・悪い意味じゃないんです・・ごめんなさい・・」
のぞみは正直なタイプらしい。だますのが上手い、に、どんな良い意味があるのかと聞きたい気持ちをこらえて、紺野はただ相槌を打って先を促した。
「でも・・この間の先生を見て・・そんなのじゃなくて、ちゃんと納得させてるんだなって。だから。」
「でも、生田さん、自分で治さないとっていうところは納得してるんでしょ?でも怖いわけでしょ。そこは俺のどうこうできる分野じゃないと思うけど。笑気とか頼んで普通にやってもらえばいいじゃない。」
言ってみて、のぞみの表情を窺う。少し考えるような表情になったが、泣き出しそうではない。それほど追い詰められているわけではなさそうだ、と踏んで、紺野は切り出した。
「って言っても、治して欲しいって来る人を断るつもりもないんで、診ることはかまわないんだけれど。一つ条件付けていい?」
一瞬明るくなったのぞみの表情が不安そうなものに変わる。
「な・・なんでしょう・・」
「平木と一緒に来ること。内緒はダメ。」
のぞみがうつむく。
「そもそも、なんで内緒なの。他の人に治してもらったって知ったら傷つくだろうなって、わかってるからでしょ?だったら!」
自分が思ったより熱くなっていることに戸惑いながらも、紺野は問い詰めた。のぞみが黙って頷くのを見て、自分を落ち着かせるために軽くため息をつき、言葉を継ぐ。
「ま、だから。平木と一緒においで。様子を見て、大丈夫そうなら、あいつに代わってもらうつもりだけど・・。」
「・・はい・・・」
のぞみは不安そうだ。
「いや、どっちかっていうと、あいつは怖いほう・・っていうか無神経?な歯医者だってのはわかってるから。最初に診てもらうにはハードルが高すぎなのはわかる。」
笑いながら言う紺野の言葉に、のぞみもようやく笑顔を見せた。
「じゃあ・・一馬くんと相談して、また来ます。あの・・これ、カルテのコピーと・・紹介状です。置いていきます。よろしくお願いします。」
のぞみは、頭を下げて帰って行った。
「紹介状があるのか・・」
見ると、口腔外科の女性講師からだ。
・・うへ、断らなくて良かった・・っていうか、あいつになら見せられるって矛盾してない?
女性講師は、怖さは学内で一番と評判なのだった。
とりあえず、封を開けてみる。

紹介状
小児歯科学講座 紺野 淳先生
って書くのもおかしいわ、久しぶりね、紺野君。
新しい彼女ができたと聞いて安心しました。でも、また歯医者ですって?懲りないわね。

・・紹介状になってないだろ。手紙じゃないか。
紺野は心の中で悪態をついた。実は学生のとき、実習のアシスタントだった彼女としばらく付き合っていたことがあるのだった。もっとも自分でも、いつも身近な女性で済ませすぎだなとも思うのだが、向こうから付き合ってくれと迫られるとなんとなく断れないのだ。自分から行動を起こしたのは・・といっても平木にはわかりにくいとバカにされたが・・佳奈子が初めてだ。
・・しかしいったい、どこからそんな情報仕入れてきたんだか。
呆れつつも、先を読み進める。

さて、その評判の子供たらしの腕を見込んで、頼みたい患者が居ます。
うちのナースなのだけれど、歯科恐怖症なのです。どうやら原因は次の通り。
4歳の頃、病気でしばらく入院。手入れ不足と糖分の摂取でほとんどの歯が虫歯に。
半年後、歯が痛み出し、治療開始。病気が完治していなかったために、麻酔できず、激痛に耐えて治療。
3ヶ月の治療で半分も完了せず、歯科医が匙を投げて、全て抜歯。
まあそんなところです。詳しいことが知りたかったら本人に聞いて。
去年、歯が痛いというので、少し診て、全麻でC2後半のものだけ治療しました。
私にはミラーを入れさせてくれるけれど、他の人はダメみたいよ。
ちゃんと一般歯科で治療できるようになりたいと本人が言うので、よろしくお願いしますね。
池谷百合子
P.S. 私も最近、沁みる歯があるの。

・・・
あまりの役に立たなさに、紺野はため息をつき、腹も立ってきたので、その手紙をそばにあったシュレッダーに突っ込んだ。
ズゴゴゴゴゴ・・
音を立てて器械が紙を飲み込む様子を眺めながら、「私も最近、沁みる歯があるの。」という最後の文章が彼女の声で耳に聞こえてくるような気がして、知るかよ、と、首を振った。
気を取り直して、カルテをめくる。

患者氏名 生田のぞみ  28歳

カルテの表書きにある歯式図によれば・・
左上:7番インレー、6番C2
右上:7番C2、6番インレー、2番C1
左下:7番インレー、5番C1
右下:7番C2、6番インレー
といったところである。

・・ってことは、要治療歯は5本か・・・ま、詳しく見てどうなってるかわからないけどな・・
紺野は、佳奈子がとりあえず一段落したと思ったら、今度は歯科恐怖症のナースか・・と軽くため息をつきながら、治療方法について考えを巡らせた。

さて、1週間後の病院の一般外来診察時間が終わった後。
病院ではなく、研究棟に作ってある個室の治療室・・というよりも、会議室になぜか治療ユニットが置いてある状態に近い・・に、平木に伴われて、のぞみがやってきた。
いつものてきぱきしたのぞみと違い、少しオドオドしている。
平木も珍しく静かで、
「こんにちは。」
紺野が声をかけると、ようやく口を開いたほどだ。
「あ、ああ。こんにちは・・あの、今日はよろしく・・」
「オマケのお前が緊張してどうする。その辺、どこか適当に座っておいて。」
紺野は笑いながら、部屋の隅のパイプ椅子を指差した。
「生田さんは・・どうする、どこでもいいよ。」
「あ・・よ、よろしくお願いします・・あの、どこでもって・・」
のぞみに言われ、紺野は両手を広げ、片方で治療台、片方でディスカッションテーブルを指した。
「座れるところで構わないよ。床が落ち着くっていうなら床でも。一応、綺麗だと思うけど。」
のぞみは、治療台に足を向けたが、途中で止まってしまい、少しばつが悪そうな顔をしながら、ディスカッションテーブルの椅子に座った。
「ここ座ってもいい?」
紺野はのぞみの向かいの椅子を引きながら聞いた。
「はい・・お願いします・・」
向き合って座った後、机に少し身を乗り出すようにすると、のぞみはそのぶん、少し逃げるように身を引いた。
・・なかなか重症だな・・・
「大丈夫?」
「・・はい・・あ、いえ・・ちょっとダメ・・かもしれません・・・」
見ると、のぞみの額には脂汗が浮かんでいる。
「ん、わかった、ちょっと待って」
紺野は立って、白衣を脱いだ。どうせ今日は治療するつもりもないのだ。こういうこともあるかと、いつもの短衣ではなく、脱ぎやすい上に羽織るタイプを着てきた。白衣を部屋の隅のハンガーにかけて、テーブルに戻る。
「あ・・ちょっとマシです・・・」
聞く前に、のぞみが言った。正直だ。
「なんだか、白衣似合わないって言われたみたいな気分だけどね。」
「いえ、そんなことないです、紺野先生はベストハクイストに選ばれてもいいくらいですよ」
「なにそれ、そこまで言ってくれなくていい・・」
のぞみは急に元気になった。笑いながら会話を交わす。
・・まさか、白衣がダメなだけか??
「で、沁みる歯があるって?」
軽く言ってみると、のぞみは口に手を当てて、顔を強張らせると、また身を引いてしまった。
・・さすがに白衣がダメってことはないか・・
「沁みるといえば、池谷先生も歯医者なのに、沁みる歯があるの治してないらしいよ。」
なんとか話をそらせようとしたが、若干危険な橋を渡っているような・・・
「・・あ・・紺野先生、昔、池谷先生とお付き合いしてたって、ホントですか?」
のぞみの気を紛らわせるのには役に立ったが、見事に嵌ってしまったようだ。思わず吹き出して、部屋の隅の平木の様子を横目で窺うと、少し怖い顔をしている。
・・・なんでお前がそんな顔するんだよ・・
「誰に聞いたの?」
「池谷先生です。昔は可愛かったのよーって。もしいじめられたときのために、弱点教えてあげるって言われました。」
力なく笑いながら、紺野は言った。
「そんなもの無いから。お姉さんが弱点とか言ったでしょ、どうせ。」
「よくわかりましたね!でも、一馬くんみたいですね、お姉さんが弱点って。綺麗なお姉さん居るんですよ、一馬くん。」
・・おや?
平木の姉と紺野の関係については知らないようだ。それを話していないとは、あのおしゃべりな平木にしては珍しい。
「ん、知ってる・・同級生だから。綺麗かどうかは忘れたけど。」
つい余計なことまで口走ってしまったが、のぞみは変には思わなかったようだ。
・・治療しろって!
なんとなく平木の方を見ると睨まれたので、話を戻すことにする。
「ところで・・本題に戻っていいかな?」
とたんにまた、のぞみの顔が少し緊張した。
「ガリガリ治療しなくても怖い?見られるだけでも嫌?」
のぞみは辛そうに頷いた。
「じゃあ・・自分で見るのは?」
「うーん・・ちょっと・・怖い・・ような気がします・・・どうかな・・わかりません・・・」
少し考え込んで、のぞみはぽつぽつと答えた。
「そうか・・じゃあ、他の人が診てもらってるのを見るのは?仕事じゃなくて。」
「それは・・どうだろぅ・・わからないです・・・見たことない・・から・・・」
「じゃあ・・今日はそれから行こうかな。」
「・・はい?」
不隠な空気を感じた平木は、椅子から腰を浮かしかけた。
紺野は、少し嬉しそうにも見える表情で、元・義弟に言った。
「そういうことだから・・平木先生、治療台にどうぞ。」
「げ・・オマケって言ったくせに。」
平木はあからさまに嫌そうな表情を浮かべ、しかしながら治療台には上った。紺野はまた白衣を上から羽織って、治療台に近付いた。自分が座るのでなければ平気なのか、のぞみは紺野の白衣にもお構いなしで、治療台にもスタスタと近付く。
「そんな嫌そうな顔しない、彼女の役に立てるなんて幸せなんだろ。」
手袋をはめながら紺野が言った。
「そりゃそうさ」
倒されていく治療台の上から、平木はのぞみを見ながら答えたが、のぞみはちょうど治療台のライトを見ていて、平木の言葉は耳に入っていないようであった。
「で・・は・・」
紺野がライトを操作し、右手にミラーを構えた。
「ちょ、ちょっと待った・・その嬉しそうな顔やめろよ。」
平木が細かく首を振りながら、紺野の右手首をつかむ。
「いや、こういう顔だから。」
「そんなはずねえ。」
押し問答に、のぞみがクスリと笑った。
・・そうだ、のぞみのために診てもらうんだった。
平木は思い出し、ゆっくり一度深呼吸をすると、
「じゃ・・お願いします。」
と言って、覚悟を決めた。

紺野も応じるかのように真面目そうな顔になって軽く頷くと、まずは問診から始めた。
「最後に歯科を受診したのは?」
「ん・・2年ちょっと前、かな・・。」
「2年か・・ところで、もし虫歯が見つかったらどうする?治す?」
聞かれて、平木は横目でのぞみを見た。
・・そこも見せた方がいいかなあ・・
のぞみは不安そうな顔になってこっちを見ていた。
「どうしよ・・軽く治りそうだったら・・お願いします」
「軽く治りそうってなんだ」
紺野は軽く笑って言ったあと、
「じゃあ・・口開けて。」
と平木を促した。
平木は黙って口を開けた。
キラキラ、ギラリ。
予想外のまぶしさに、紺野は目を瞬いた。
両親や姉・妹の様子から考えて、歯があまり丈夫でないことは想像がついたが、大臼歯がすべてインレー・・あるいはアンレー・・で埋まっているのを見ると、ちょっと、座らせて悪かったかなという気さえする。
・・でも、本人が自分からやってるんだし。
紺野は、気持ちを仕事モードに切り替え、1本ずつ見ていくことにした。

顎の骨はしっかりしているらしく、上下左右とも8番まできちんと生えそろっている。もっとも、きちんと虫歯にもなったようで、8番4本とも治療済みでもある。
「右上、はち・・」
と言い掛けて、誰もカルテをつける人間も居ないとふと気付いて、紺野は黙り込んだ。
・・8番はインレーか。新しそうだな。7番がアンレー、再治療でもしたかな?
心の中で思いながら見ていくと、平木が紺野を見ながら、右腕をぽんぽんと叩いた。
「あん?」
ミラーを抜くと、平木が文句を言った。
「黙っていられると怖いから、何か言ってクレ。」
「ん・・しょうがないな、じゃあ、口開けて。」
平木は再び、にぎやかな奥歯を光らせた。
紺野はミラーを再び構えると、軽く笑いながら口を開く。
「何か言えって言われてもなあ、何にしようか・・そうそう、生田さん、秘密だけどね、衛生士学校の寮が敷地内に有ったときに・・」
平木は起き上がりかけた。
「アホ。誰が俺のそんな話しろって言ったんだよ。」
「誰もお前の話だなんて言ってないだろ?」
一瞬、平木は黙ったあと、怒ったように言い返してきた。
「それはどうでもいいんだよ。普通の検診みたいに、言ってくれって言ってんの。」
「でも、言っても、意味ないだろ?俺、独り言の癖とかないから。」
「ホンッと怖いんだよ。お願いします。」
平木は手を合わせて頼んだ。
「怖い怖いってお前が言うなよ。何のためにそこに居るん・・」
「あ。」
と、二人は同時にのぞみを見たが、のぞみはクックック、と笑いを堪えていた。二人の視線に気付くと、
「あ、すみません・・でも、仲良しなんですね、お二人。」
と笑顔のまま言った。
「いや、そうでもないけど。」「まあね。」
という二人の声が重なった。
「ああ、一馬くんの片思いなんですね。」
のぞみに言われて、平木は少しむくれて紺野の顔を見た。
「ま、とにかく。始めようか。開けて、ほら。」
紺野が、左手の指先で軽く平木の頬を叩いた。
「ちゃんと言えよな」
「それはどうかな」
言いながらも、平木が口を開けたあと、紺野はミラーを入れると、
「じゃ、右上から。」
と声を出し始めた。
「8番○・・7番○、6番○・・5番斜線・・4ば・・ちょっとごめん」
3番との隣接面から、黒ずみが広がっているのだ。紺野はミラーを左手に持ちかえて、右手でスリーウェイシリンジを取り、左手で唇を少し上に引き上げると、頬側から3番・4番の間にエアーをかけて、光っている唾液を飛ばした。歯間に穴が開き始めているのがあらわになる。紺野はちょっと眉間にしわを寄せて、シリンジを戻した手で探針を取り、カリカリ、と歯間をなぞった。
「んんっ」
何度目かの探針の先が虫歯の穴に入り、びぃぃん、とした痛みが平木にうめき声を上げさせた。横で見ているのぞみの表情が少し固くなる。
「4番C2、3番もC2かな・・2番から左上2番まで○・・・」
前歯は4本、メタルボンドが入っていた。裏側の4分の3くらいまで金属が覗いている。たしか学生時代はときどき変色したレジンを見せていて、紺野が彼の姉と結婚したころ、1番2本が保険内の前装冠になったような気がするが、そこからいつごろ換装したのかは記憶にない。しょっちゅう顔を合わせていた・・紺野の結婚生活がうまく行っていた頃ではないことは確かだ。
「3番4番斜線、5番・・」
溝が色づいているのが気になり、そのまま手に持っていた探針でなぞってみたが、単なる着色だったようだ。
「斜線、6番7番8番・・○。」
ふと顔を上げると、のぞみが少し緊張で青ざめていた。
「大丈夫?生田さん。」
紺野が声をかけると、平木ものぞみに心配そうな顔を向けた。
「だ・・大丈夫です」
少し声も上擦っている。
「ま、続き行こう」
というわけで、下の歯の診察に移った。
「左下・・8番○、7番○、6番○で・・」
相変わらず、大臼歯にはインレーやアンレーが咲き乱れている。
「5番・・斜線、4番から右下4番まで斜線、5番が・・C1かな。」
歯の後ろ半分が茶色く溶けかけている。
「6番・・ん?」
紺野は再び探針を取った。咬合面の溝を太くインレーが埋めているのだが、その周囲が侵されて穴が開いているのが見て取れる。
・・もしかして、インレー外れるんじゃないか?
そう思い、穴に探針を入れて少し揺すってみた。
「んぁは!」
平木は派手に顔を歪めて声を上げたが、インレーは外れそうにない。しかしあまりに声が大きかったので、紺野はとっさにのぞみの方をうかがった。
のぞみは、両手を口に当て、辛そうな顔だ。
「ここ、インレーの横からやられてるけど、けっこう行ってるみたいだぞ、痛み出す前に早く歯医者行けよ。7番8番は○。」
紺野は残りをさっさと終わらせると、治療台を起こし、のぞみに聞いた。
「どう、生田さん。ちょっと怖かった?治療まで見るのは無理かな?」
平木も、右頬を指先でさすりながらのぞみの方を心配そうに見る。
のぞみは黙ったままだ。緊張のせいか、怒ったような顔で、平木を見ている。
「・・のぞみ?」
平木が声をかけると、のぞみは口を開いた。
「・・あるんじゃない・・」
「なに?」
「一馬くんだって・・虫歯・・あるんじゃない」
のぞみは口を尖らせて言った。
「そんなの知ってただろ、インレーだって見えるだろうし、俺は歯が丈夫じゃないって言ってるし」
平木も言い返している。
「そうじゃなくって、治してない虫歯の話よ。」
のぞみの声が高くなった。
・・何だ?こんなとこでケンカか?
紺野は二人を見比べながらも、ここは口をはさまず黙って見ていることにした。腕を組んで、術者用の椅子の低い背もたれに体を預ける。
平木はむすっと不満そうだ。
「そりゃ・・できちゃったんだからしょうがないだろ・・」
「自分だって治してない虫歯があるくせに、人にだけ治せって・・」
のぞみはどうやら、平木に虫歯が・・未処置の虫歯があったことを怒っているらしかった。予想外の展開だ。怖がっているかと思ったのに。実際、途中までは怖がっていたはずなのだが、なかなか難しいものだ。
「俺はちゃんと見つかったらすぐに治すから!だからお前も治せって。」
「治してないじゃない!そんな、虫歯が有る人になんて治して欲しくない!」
・・まあまあ、二人とも。
紺野は、そろそろ止めに入ろうかな、と組んでいた腕をほどきかけた。と、そのとき。
「紺野先生は?」
「はい?何?」
のぞみに突然話を振られ、何のことかわからず、紺野は思わず聞き返した。
「先生は?虫歯ありますか?」
「あ?ああ、虫歯ね、無い・・と、思うけどね・・」
とりあえず今までの人生で、虫歯になったことはなかった。根拠なく自分には無縁だと思っていたので、無い、と口走ってしまったが・・・。一応、律儀な性格の紺野は記憶の糸を手繰った。
・・最後いつ歯医者に見せたっけな・・ああ、診察室じゃないけど。
この間の週末、初めて佳奈子に歯を磨いてもらったんだった。佳奈子は、必要以上に丁寧にやっていたので、虫歯でもあれば見つけただろうし、何か言ったはずだ。
「ん、やっぱり、無いはずだけ・・ど・・?」
答えた紺野は、のぞみの睨むような視線に気が付いた。平木を見ると、困ったような、申し訳なさそうな表情を返してくる。そんな二人をしばらく見比べた後、紺野は苦笑いしながら、立ち上がり、白衣を脱いだ。平木に、交代しろ、とジェスチャーで示す。平木は立ち上がりながら、ごめん、と顔の前で手を合わせた。
・・なんで俺は、こんなとこで治療台に上る羽目に?
と思わなくもないが、ともかく、紺野は治療台に座った。のぞみはというと、少し困惑したような表情に変わっている。
「俺に虫歯が無いってわかっても、おとなしく治療受けろ・・なんて言わないから。」
察して声をかけてやると、のぞみは、少し安心したような顔になって頷いた。
「あと、先に言っておくと、ここ、高校生のときに折れちゃって、治してある。」
と、右上1番を指差す。のぞみはまた、黙って頷いた。
「じゃあ・・見せてもらおうかな、っと。」
横から、平木の声がした。さっき、申し訳なさそうな顔をしていたくせに、治療台を倒すスイッチを押して、妙に嬉しそうに見える。
「その嬉しそうな顔やめろ。」
と紺野が言うと、平木は怪訝そうに言葉を返した。
「いや、普通だけど?」
そう言っておきながら、倒れきった治療台の上の紺野に向かって、
「・・こわい?」
と、また嬉しそうな顔で聞いてくる。紺野は少し呆れて、小さく首を振った。
「別に。というか、俺はお前を喜ばせるためにやってるんじゃないんだから・・」
「うーん、たしかに。じゃ・・」
カン、とライトを点け、真面目な顔になると、平木はミラーを手に取った。
「じゃ、口開けて・・あー・・」
素直に口を開けた紺野の口の中を覗き込む。
・・・おぉ。
平木は、目を見張った。
専門が歯内療法・・抜髄や根管治療・・であるうえに、大学病院で働いているので、平木が普段目にするのは、「ひどい」虫歯ばかりである。原因が2次齲蝕か放置か、などの違いはあるものの、そこまで進行した虫歯が1本だけできるというわけもなく、毎日診ている患者たちは、健全歯の数を数えるほうが早いくらいだ。
そんな平木は、紺野の虫歯が1本もない口の中に、思わず見とれた。ミラーや探針で良く診る必要もなさそうだ。それだけに、折れたという前歯の裏半分に見える金属が、実に惜しい。
「はー・・綺麗だなぁ・・・」
ぼんやりと呟いてしまい、紺野に
「何言ってんだ、気持ち悪いな・・」
と不審そうな目で見られたので、あわててのぞみを呼んで、ごまかした。
「もっかい開けて・・ほら、見てみろ。」
「ホント・・綺麗な歯ですねー。歯医者さんって感じです。」
のぞみの言葉に、平木は口を尖らせる。
「俺だって歯医者なのに。ほら、萩原さんだって、歯医者だろ。」
「それはそうだけど・・こう、虫歯が有る人に治してもらうってのは納得行かないのよね。萩原さんは治療してあるからいいけど・・一馬くんはダメ。」
完全に立場が悪い平木に、紺野が治療台から起き上がりながら言った。
「って、お前、近所の歯医者に見てもらってたんじゃないのか?」
「うーん、爺さんだったからさあ、2年前に店たたんじゃったんだよね、だ・・か・・ら・・」
のぞみから冷たい視線が飛んできて、思わず声が小さくなる。助けを求めるように、上目遣いで紺野の顔をうかがったが、逆に治療勧告を出されてしまった。
「ホントにそれは治せよ。痛くなっても知らんぞ。」
「でも、紺野先生、治してくれないんでしょ?」
その言葉がおかしかったのか、紺野が笑う。
「治して欲しいのか?小児の診察室で、皆の視線に耐えられるなら診ないでもないけど・・佳奈子はまあ、ちょっと怖いことを抜きにすれば、贔屓目じゃなく、腕はいい歯医者だと思うよ。あそこの院長でもいいし。」
「そっか・・んー・・」
はっきり返事をせずに口ごもっていると、
「見つかったらすぐ治すって言ってたの誰よ。ホント、虫歯があるのに、人には偉そうに治療するなんて・・」
すっかり調子を取り戻したのぞみに言われ、平木は必死に反撃をこころみた。
「そこは、あれだよ・・ほら、人の痛みがわかるってやつ?虫歯になったことない歯医者なんて、そこから行くと半人前・・」
と言ったところで、虫歯になったことない歯医者、紺野と目が合ってしまった。
「あ・・ごめん・・なさい。全然そんなこと思ってません。」
つい、怒られてもいないのにあわてて否定する。
実際、平木は、紺野のことは、半人前だとは思っていない。自分があんなに綺麗な歯でいながら、虫歯がある患者を見下すことなく丁寧に治療できるなんてすごい、というのが本音である。
「一馬くん、紺野先生のこと好きだよね・・」
あわてている平木を見て、のぞみがおかしそうに笑う。
「え?そうなの?・・残念ながら、応えてあげられないな。」
「そんなんじゃねぇよ」
紺野の言葉に、平木はまた口を尖らせた。
たしかに、平木は紺野が、変な意味ではなく好きなのであった。姉と紺野が別れたとき・・どうも姉のわがままで別れたようにしか見えないのだが、紺野が変わらず接してくれるかどうか、平木はそこが一番心配だったくらいだ。紺野は、まったく気にしていないのか、少なくとも、気にしているようには見せないので、平木は今でも安心して、弟のようになついているのだった。
「話が大分ずれた気がするけど・・じゃ、次は?」
いつの間にか、治療台から降りていた紺野が口を開く。
のぞみが、笑顔をきゅっとひきつらせて、考えこむような表情になった。今日はいいんじゃない?と言いそうになった平木は、紺野が黙ってのぞみを見ているので、それにならうことにした。

「す・・座って・・みます」
しばらく経って、のぞみが意外な言葉を口にしたので、平木は少し驚いた。
「そう?じゃ、どうぞ。」
紺野も意外なほどあっさりと受け流して、しかし、治療台の近くの術者用チェアに座っている平木に、ディスカッションテーブルの椅子に移れ、と指差し、自分はそのテーブルの端に軽くもたれて腕を組んだ。
のぞみは、歯科医二人が遠いところに居ることに安心したのか、横向きに・・足を床につけたままで、一応、治療台に腰掛けることに成功した。
「おぉ」
平木の驚きの声に、のぞみは少し微笑んだ。
「倒すボタン、どこにあるか知ってる?」
紺野が腕を組んだままで言った。
「・・はい。」
のぞみは、指差して見せた。紺野は頷きながら指示を出した。
「じゃあ・・次は、そのボタンを押してみるか、治療台に足まで載せてみるか、そこで口を開けてみるか。どれか、できそうなことやってごらん。」
のぞみは、こくり、と頷いて、少し考えた後・・片足を治療台に載せた。平木は両手を握り締め、じいっと見守った。
もう片方の足を持ち上げかけ・・たところで、のぞみは辛そうに首を振って、足を床に戻した。片足だけ載せた状態で、紺野のほうを泣きそうな目で見る。
「そっちの足も下ろしていいよ・・他はどう?ダメ?」
紺野が、褒めるわけでも、なぐさめるでもなく、淡々と聞くのが少し意外な感じだ。平木はもう少し、励ましておだてて先に進むのかと思っていたのだが。
のぞみは言われたとおりに足を下ろし、深呼吸をしてから、
「あ・・」
と言った。何か言うのか?と平木が注目していると、横で紺野が
「もう少し大きく」
と言ったので、ああ、口を開けていたのか、と気がついた。
言われるままに、のぞみが少し口を大きく開ける。しかし、歯医者で口を開けるという大きさではない。せいぜい、あーびっくりした、というレベルにしか開いていない。
「うん、もうちょっと」
言われて、もう少し開けたのぞみは、すでに眉間に皺を寄せて、少し辛そうだ。全然足りないぞ、と思った瞬間、のぞみはぶるぶるっ、と震えて、口を閉じてしまった。眉間に皺をよせた表情で少し俯いたまま、肩で息をしている。
ありゃダメだ、行ってやらないと、と、平木は立ち上がりかけ、紺野に押さえられた。のぞみが、平木の椅子の音に、びくっ!と怯えて固まっているのがわかった。
・・そうか、俺が行ったらダメなのか。
「もう降りて、こっち来いよ。」
平木は、のぞみに、なるべく普通に声をかけ、のぞみは、黙って頷いて治療台から降りて来た。
「はい、深呼吸深呼吸。」
平木が椅子をすすめながら、なるべく軽い調子で言い、椅子に座ったのぞみは、ふぅぅぅ、と息を吐いた。
「うん、いいね。」
紺野も向かいの椅子に座りながら、二人を見て微笑んだ。
「でも・・結局、なんにも・・」
のぞみがうつむく。
「治療台にも座ったんだし。1回目にしてはいいと思うよ。」
紺野の言葉に、平木は口を挟んだ。
「でもさあ・・・そんな悠長なことでいいのかなあ・・痛み出したらと思うと・・・」
「大人の虫歯はそんなに速く進まないよ、大丈夫。」
紺野が答え、さらに続けた。
「それに・・開業医なら、こんなことに時間使ってたら破産だけど、幸い、ここは大学病院だし。治療になかなか入れなくって、点数が稼げなくても、俺たちには全然関係ない。親切な歯医者の振りして給料泥棒ってやつだな。」
「ぷっ・・」
のぞみも思わずふき出した。
「ま、でも、そのうち治療には入りたいから・・宿題を出そうかな。」
紺野が立って、トレイの上からミラーを取ってくると、のぞみに差し出した。
「自分で、これ使って、検診してきて。この紙も渡すから、どこが治してあるとか、虫歯っぽいとか、書いて来て。出来上がったら、次の診察に入ろう。いい?できそう?」
歯式図の書かれた紙ももらい、のぞみはこくり、と頷いた。
「やってみます・・」
平木が、のぞみの方を見ながら、がんばれよ、と思っていると、
「で、こっちの患者さんはどう?ちゃんと歯医者行くか?」
と、いきなり紺野から声がかかった。
「こっちの患者さんって・・オレのこと?」
「他に誰が居るんだ?」
紺野は、笑顔ながらも、平木の方をじっ、と見つめた。
「ん・・行くよ。」
平木は目を反らしながら答えた。
「いつ。当てはあるのか?」
紺野も、若干お節介が過ぎるな、と自分で思いながら、なんとなく聞かずには居られない雰囲気・・平木は放っておいたらたぶん歯医者に行かないだろうという確信・・があって、問い詰めた。
「オレだって・・歯医者の知り合いはたくさん居るし!」
「そりゃ居るだろうけど。それならそれで、誰でもいいから、早く治してもらえよ。痛み出す前に。」
まあ、弟でもないし、あまり言うのも失礼か、と、紺野は少し遠慮して、引くことにした。のぞみが少し心配そうに、平木を見つめていた。

さて、週末。「いまどき週休2日じゃないなんてかわいそうなオレ」が平木の口癖であるように、土曜日は昼までが診察時間である。
仕事を終えた平木と、遅番に入っているのぞみは、病院の近くで待ち合わせ、連れ立ってランチに出かけた。ランチと言うよりも昼飯と言ったほうがしっくりくる、釜めし屋であるが・・
「で、一馬くん、歯医者は?」
「何?オレ歯医者だけど。」
「ごまかさないの。紺野先生に、歯医者行けって言われてたでしょ?予約とか、取ったの?」
この間の診察室での怯えた様子からは考えられないような、いつも通りののぞみである。歯医者行けって、自分はどうなんだ・・と言いたいところだが、先日、のぞみは自分から診察を受けに行ったわけで、そこは突っ込めないのが痛い。
「お前こそ、宿題やったのかよ。」
「そんな、私のことばっかり聞くなんて、怪しい。何もしてないでしょ。」
「うるさいな、どこ行くか考えてるとこだよ」
平木は、ぷいっと横を向いた。
「そんなにたくさん候補があるわけ。選んであげようか?言ってみてよ。」
実のところ、子供の頃からずっと同じところで診てもらっていたので、そこがなくなった今、どうしていいかわからないのであった。のぞみのように、歯医者が怖いわけではないが・・2年間放っておいたという、あまり褒められた状況ではないので、下手な知り合いを選んで恥ずかしい思いもしたくないし、かといって、まったく見ず知らずのところに行くという賭けに出るのも不安がある・・その点から言うと、たしかに紺野の言うとおり、佳奈子に診てもらうのが手っ取り早いとは思うが、連絡するきっかけが・・
言葉に詰まって、新しく入れてもらった熱いお茶を、流し込む。
ん、んんっ!
先日指摘された、右下6番の虫歯に、熱いお茶が沁みた。思わず顔をしかめる。
「・・ちょっと、歯に沁みたとか?」
のぞみが、すかさず突っ込んでくる。
「熱かっただけですー。まったく・・。」
「心配してあげてるんでしょ」
結局、そんな会話ばかりで昼を終え、のぞみは出勤していった。

さて、驚いたことに、その次の日に、のぞみは紺野からの「宿題」をなんとかやり終えたらしい。次の診察を水曜日に決めたから来てね、という電話がかかってきた。ああ、行くよ、と返事をして電話を切った平木だったが・・
・・うーん。
のぞみの「宿題」が終わるのはもっと後だろうと踏んでいた平木は、思っていたよりもはるかに早い2度目の診察に、やや戸惑っていた。というより、困っていた。
・・2回目の診察より前には、俺も歯医者に行こうとは思ってたんだけどなあ。今度の水曜じゃちょっと・・紺野先生に、何か言われるかなあ。
そこまで考えたところで、平木は自分でも、なんでそんな、宿題を忘れた小学生みたいなこと考えてるんだ?と少し腹が立ってきた。
土曜日の昼以来、冷たいものや熱いものがときどき沁みる歯をかかえながら、平木はそれでもなんとなく、歯医者に行くための積極的な行動を起こせず、そのまま、水曜日になった。
平木は、仕事を終えてから、歯式図を握り締めているのぞみと一緒に、なんとなく自分の足取りも重く、紺野の待つ診察室に向かう。
のぞみが、扉をノックすると、「どうぞー」という、妙にのんびりした紺野の声が中から返って来て、のぞみは深呼吸をしてから、ドアノブに手をかけた。平木も思わず、ごくり、と唾を飲み込む。
・・歯医者に付き添うだけなのに、こんなに緊張するなんて。やっぱり、自分に虫歯があるって弱みのせいかな。
考えながら、のぞみの後ろに少し隠れるようにして、診察室に入った。
「こんにちは。いや、こんばんはかな?」
読んでいた紙の束から顔を上げて、紺野が微笑む。
「こ、こんばんは、また、よろしくお願いします」
のぞみが少し緊張した声で頭を下げる後ろで、平木は紺野と目だけ合わせて挨拶しながら、舌の先に、久しぶりに前歯の裏の金属の味を強く感じていた。
・・・もう慣れたと思ったんだけどな・・

平木の前歯に初めて差し歯が入ったのは、大学を卒業する頃のことであった。
半月後の国家試験のために勉強中、うたた寝をしていた平木は、転んで前歯をぶつける夢を見て目が覚めた。
「うぅぅっ・・いて・・」
顔をしかめて、唇の上から前歯を押さえる。
・・あれ?でも・・転んだのは夢だよな・・でも・・うっ・・痛・・
ズキン、ズキン、と響くような歯の痛みは夢ではないと気付くのに時間はかからなかった。
・・な、なんとかしてくれ・・
虫歯が多いとはいえ、いつも早めに治療を済ませていた平木にとって、この年になって初めての歯痛だった。口を押さえながら、よろよろと部屋を出る。
「ね、ねえちゃん・・歯が・・」
治療台も無い家に居る歯医者ほど役に立たないものもないが、一応、歯医者である姉の部屋のドアを叩いてみる・・・。
返事がない。
そこへ、母親が上がってきた。
「お姉ちゃんなら、居ないわよ。紺野さんとこに泊まるとかなんとかで・・・」
そうだ。姉は最近、大学で同期だった紺野と付き合い始めて、浮かれているんだった。
平木は、ため息をついた。
「で、一馬、どうしたの、歯が何?取れたの?」
「いたい・・」
口元に手を当てたまま、少し涙目になって訴えると、母親には笑われてしまった。
「やだもう、もうすぐ歯医者さんになろうって人が、歯が痛い、って涙目になって・・」
「笑い事じゃないって・・」
痛みで、怒る気力もない。
「あら、そうよね、ごめんごめん。」
言いながらも、まだ母は笑っている。さらに隣の部屋から、3つ年下の妹、真由子が妙に目を輝かせて顔を出した。
「何笑ってるの?なんか面白いことあった?」
「お兄ちゃんがね、歯が痛いんですって。前歯。もうすぐ歯医者さんになるって言うのに。」
案の定、真由子も笑い出し、平木はため息をついた。この家のオンナどもは。
「それより、お兄ちゃん、まだ自分の前歯だったんだ?すごいね。」
「あら、そういえばそうよね、ホント、すごいわね。」
全員歯の丈夫でないこの家では、平木は歯が良い方に入るらしかった。真由子も、たしか高校生あたりから徐々に前歯に差し歯が入っていたはずだ。
「ぅぅう・・」
再び強い痛みが襲ってきて、思わずうめいた平木に、真由子が笑いながらも優しい言葉をかけた。
「爺ちゃん先生に連絡したげるよ。まだ起きてるはずだから。」
真由子は、自分は歯が弱いくせに、平木一家が診てもらっている近所の歯科で高校生のときから、歯科助手のアルバイトをしている。院長夫妻にも、孫のように可愛がられ、近所の人の中には、本当に孫娘だと思っている人もいたほどだ。
さて、そんなわけで駆け込んだ歯医者で、歯科医にも同じように
「もうすぐ歯医者になろうってのに・・」
と笑われた挙句、国家試験のちょうど前日くらいに、平木の上の両1番には差し歯が入った。実はけっこうデリケートな平木は、昨年末から続く卒業試験に国家試験という緊張で、歯ぎしりや食いしばりを繰り返し、昔のレジンの治療痕に隙間が空いたりした結果、虫歯が進行してしまったようであった。舌の先に感じる金属の味に慣れず、舌を2番の後ろあたりに置く変な癖がついてしまった。
その後、今から3年ほど前に、2番も差し歯にすることになり、すべてメタルボンドにしたのだが、歯ぎしりをするからと、歯科医に、裏面の金属が大きいタイプにされてしまったので、舌のやり場がなくなってしまい、仕方なく、そのままにしている間に、いつの間にか金属の感触にも味にも慣れた・・
はずだったのが、今、また、金属の味がする・・・
と、ぼんやりと考えていると、
「で?お前は歯医者行ったのか?」
不意に紺野に声をかけられ、平木は取り繕う間もなかった。
「は?」
と言いながら、よほど嫌そうな顔をしていたらしい。
「分かりやすいな、お前は。外科医とかにならなくてよかったな。」
紺野は笑って言うと、しかし、平木を責めるでもなく、いつの間にかディスカッションテーブルについているのぞみの向かいの椅子に座った。平木は置いてけぼりをくったような格好になり、のぞみの横に座って怖がらせてもいけないので、そばにあった術者用の椅子を足で引き寄せて座ると、前歯の裏を舐めながら、のぞみの第2回目の診察を見守ることにしたのだった。子供を扱わせたら病院一という紺野の腕にも興味がある・・・と言っても、のぞみは子供ではないが。

「じゃ、それ見せてもらおうかな?」
紺野は、のぞみがしっかりと手に持っている歯式図を差した。のぞみはおずおずと、両手で歯式図をテーブルの上に置き、ずずず、と紺野のほうに押しやった。かなり緊張しているようだ。
「見ていい?」
「ぁ、はぃ・・」
「ありがとう」
紺野がにっこりと笑うと、のぞみもつられたのか、少し表情を緩める。紺野は、平木をちらりと見てから、さらに聞いた。
「平木にも見せていい?」
「ぁ・・あの・・は、はい」
のぞみは少しうつむきながら答え、それを聞いた平木が、じゃあ見に行こう、と腰を浮かしかけると、紺野は小さく手で制した。
「嫌なら嫌って言ったほうがいいよ。嫌なら、しないから。」
「あ・・じゃあ・・イヤです・・」
のぞみの言葉を聞いて、立ち上がりかけていた平木はカクン、とこけそうになる。
・・「じゃあ」イヤって。
しかし、小児歯科医と患者の会話は、ひそかに傷付いている平木にはおかまいなく進んでいった。
「ん、じゃあ見せない。」
「ありがとう・・ございます」
「そこはお礼を言う必要はないよ。ただ、嫌とか無理とか待ってとか、それはきちんと言って欲しいな。」
「はぁ・・」
「言ってくれないと、わからないから。わかった?」
「はい。」
のぞみは、真剣そのものだ。平木も、思わず両手を握り締め、のぞみと一緒に頷いていた。
「本当にわかった?じゃあ、何も言わなかったら、どんなに嫌そうに見えても、止めないからね?」
「ぅ・・はい。」
「その代わり、言ってくれたら、ちゃんとやめる。そこは約束する。」
「はい。」
「じゃ、ユニットに座ってもらおうかな。」
・・え。早いだろ。
平木が息を呑んで見つめる中、のぞみは、絞り出すように言った。
「は・・ぃぇ、あの・・ちょっと・・む・・無理です。」
「ん・・そう言うなら、それはもうちょっと後にしようか。」
紺野は軽く微笑んで頷き、手元の歯式図を手に取った。
平木は、のぞみと共に、ホッ、と安堵のため息をついていた。

・・な、なんだ?これは。
安心する二人とは裏腹に、紺野は、歯式図を手に心の中で困惑していた。
下の歯には、ちょこちょこと書き込みがされているのだが、上の歯は、ほとんどが黒く塗りつぶされ、
全部虫歯
と殴り書きするように書かれているだけなのであった。
・・やれやれ。
なんとなく、予想はつく。咬合面の裂溝の着色を・・それでなくても上の歯は、普通に鏡などで見ていると、影が見えることが多い・・それらを全部虫歯だと思って、子供の頃の出来事を思い出して、怖くなってしまったのだろう。中には無事な歯もあるはずだ。
・・次はどうするかな。全部虫歯というわけじゃないってわかれば、少し冷静になれると思うけれど・・・
とりあえず、自分で「虫歯」と診断しているものの中で、健全歯があるとわかればいいのだ。下の小臼歯・・のぞみ自身の「診断」では、左右の5番と右の4番が虫歯・・くらいの診断は、ミラー無しでも、自分の前で口を開けてくれさえすればできると思うのだが、それはまだ少し難しいかもしれない。
・・やっぱり、こいつかな。せっかく居るんだし。
紺野は、手元の歯式図を覗き込もうとするかのようにこちらを見ている平木を見ながら考えた。たしか、いくつか溝が着色している健全歯があったはずだ。
「えっと・・生田さん。」
「あ・・はい。」
歯式図を見ながらしばし考え込んでいた紺野に声をかけられ、のぞみはまた緊張した。
「平木、ここに呼んでいい?」
二人が向かい合っているテーブルの、横の面を指差す。
「あの・・それは・・えっと・・」
のぞみは少し考えている。
「あ、平木は歯医者だと思わなくっていいよ。歯医者として呼ぶんじゃないんだ。虫歯があるのに治療に行かない患者さんだ。」
紺野がふふん、と笑いながらこちらを見たので、平木は少しムッとした。言い返せないのがまた悔しいが、
「・・そういうことなら。いいです。」
と、のぞみが言ったのも、なんとも恥ずかしい。
「というわけだから、ちょっと来てくれ。あ、トレイの上のミラーと探針持ってきて。」
・・げ。また見られるのか・・しかも虫歯あるってのに・・今度はのぞみにも見られるのかよ・・あああ、早く歯医者行っときゃよかった・・・
歯科医とは思えないような後悔をしながら、平木は、言われた通りにミラーと探針を持って、二人の待つディスカッションテーブルに足取りも重く近付いた。
「本当に嫌そうな顔してるな」
紺野が、突っ立ったままの平木を見上げて可笑しそうな声を出す。
「ま、座れって。大丈夫だよ、今日は痛いことしないから・・・たぶん。」
言われた通りに椅子を引いて座ろうとしていた平木は、最後の言葉を聞いて、「え」と、再び立ち上がりそうになった。
「どうした、痛いのは怖いか?」
笑う紺野を軽く睨み、平木は悪態をつきながら腰を下ろす。
「そんなんじゃないけど・・まったく、根性の悪いおっさんだぜ」
「ちょ、ちょっと、一馬くん!」
のぞみは、あわてて平木をたしなめた。自分の見ている限り、医者ほどではないとはいえ、歯医者の世界も一応、序列にはうるさいはずだ。二人は先輩と後輩のはずなのに・・
「ん?どうかしたの?」
しかし、当の紺野に逆に心配そうに聞かれてしまい、平木にも怪訝そうな顔を向けられ、のぞみは「いえ・・なんでもないです」と黙ることにした。
「なんでもないならいいけど・・なんだっけ、そうそう、痛いのが怖いとか、具体的に何かあるなら、ちゃんと言って。言ってくれれば出来る限りなんとかするし。」
紺野は、何事もなかったかのように、のぞみの目を見て話を続けた。のぞみも応えるように真剣に頷く。
「ああ、お前もだぞ。怖いなら怖いって、予約取るときにでも言えばいいんだよ。」
突然左を向き、紺野は平木にも同じことを言った。
「だからそんなんじゃないっていうのに・・」
平木は、もごもごと不満を漏らしたが、何が嫌かな・・と、心の中で考える。
「ああ、俺、スプーンエキスカが苦手なんだよね。もぞもぞもぞ、って来るじゃん・・って、言ってもわかんないか・・」
「ん?それは治療してくれる先生に言えよ。痛いのは?」
「別に怖くないけどさ・・好きなわけねえだろ」
「だったら早く治療に行くんだな、って、呼んだのはそんなことじゃなくて。ちょっと口開けて見せて。」
平木は、ちょっと両脇の二人を見比べた後、手に持っていたミラーと探針を紺野に渡すと、覚悟を決めたように、がばっ、と口を開けた。どこを見ていいかわからず、視線を天井に向けたり、あちこち落ち着かない。
「ん、ありがとう。えっとね、生田さん。」
しばらく二人の会話を少し可笑しいなと思いながら聞いていたのぞみは、突然、会話の相手が自分に戻ってきたので、ふと我に返った。
「あ、はい。」
「この下の歯・・奥歯ね、どこが虫歯かわかるかな。あ、ここの銀のインレーが入ってるところはもちろん虫歯なんだけれど・・」
のぞみに説明している紺野が、探針を持つ右手を近づけてきたので、痛む・・いや、時々しみるだけだ・・歯を突かれそうな気がして、平木はびくっ、と身構えた。紺野はそれを見て少し苦笑すると、探針の上下を持ち替え、針の付いていない方の柄で、平木の右下6番を指した。銀歯の周りに穴が開いている。
「んん・・痛そう・・ですね」
のぞみが少し顔をしかめながら言った。
・・そんなに見るなって・・
平木はたまらず、軽く目を閉じた。
「さあ、それは本人に聞かないとわからないけど。ここ以外で、どれが虫歯だと思う?」
「えっと・・その前と・・」
のぞみは、平木の口を覗き込んだ。
「うーん・・ぜ、ぜんぶ・・虫歯に見えます・・」
「え、えんぅ?」
平木は、口を開けたまま、しかし驚いて叫んだ。
・・全部、虫歯?・・いやいや、落ち着け自分・・・この間、そんなことは言われなかったじゃないか・・
「そんなに大きい声を出すなって。」
紺野にたしなめられる。問いただそうと思ったが、二人がそのまま口の中を覗いているので、平木は口を閉じるに閉じられず、不安を抱えたまま、あんぐりと口の中を見せたままにするしかなかった。
そして二人の会話は勝手に進んで行った。
「どうしてそう思うの?全部、虫歯だって。」
「・・色がついてるから・・歯の溝も・・・」
ふふ、と鼻で笑うと、紺野は再び、右手の探針の上下を返した。
「痛いとこはつつかないから、安心しろ。」
と平木に声をかけてから、左手で平木の顎をつかんだ。
「いい?ここの溝、たしかに茶色いんだけれど・・」
のぞみに言いながら、針の先で左下5番を指す。そして、カリカリ、と溝を先で引っ掻いた。
見ながら、のぞみは顔をしかめる。
「大丈夫、これは痛くないんだ。で、あとは、ほら・・」
言われてのぞみは今引っかかれた部分に目を凝らした。
・・あれ?
「着色は取れた。って、なんだかテレビショッピングやってるみたいな気分だが・・」
「まさか歯磨き、してないの・・?」
のぞみが、ふと平木を不審そうな目で見た。
紺野の手も外れたので、あわてて反論する。
「ばか、してるよ、してる。普通にしてますって!」
ははははっ、と声を上げて紺野が笑っている。平木が目で訴えると、助け舟も出してくれた。
「ん、まあ、さすがにそれはしてると思うよ。歯茎なんかもそんなに悪くないし。」
「じゃあ・・あれは?汚れてたんじゃないんですか?」
のぞみは、紺野にも詰め寄った。
・・他人の歯には厳しいな。ま、だからこそ自分の虫歯が嫌なのかもしれないけどな。
「いや、あれはたぶん、ヤニだと思うけど。煙草吸うだろ、平木。」
「紺野先生だって吸ってたじゃん」
平木の妙につっかかってくるような答えに、半分戸惑いながら紺野は答えた。
「俺?やめた。」
「なんで。」
「なんでって、別に。・・まあ、佳奈子にやめろって言われた・・んで・・」
今度は、のぞみと平木が、ふふふっ、と吹き出した。
「意外と、弱い・・というか、素直?なんですね。」
「ってか何赤くなってんだよ。なんか、やらしいこと思い出したのか?」
この二人は思っていたよりも攻撃的だぞ、と紺野は思った。
「・・赤くなんてなってませんー。と に か く。さっきのあれは虫歯じゃなくって、なんていうのかな、溝が着色してるだけで、実はあの下の奥歯で虫歯なのは、銀のとこと、その前、2本だけだったんだよ。」
紺野は、なんとか調子を取り戻し、のぞみに言った。
「あ、そうなんですか・・じゃ・・あ・・」
のぞみは少し考え込む表情を見せた。
「自分では虫歯だと思った歯も、健全歯かもしれないね。」
歯式図の紙をひらひらさせながら、紺野はのぞみに頷いてみせる。
それを聞いて、のぞみはホッとしたような表情を見せた直後、落ち着かなげに視線を左右に泳がせた。先日、自分で「検診」してからの、ほとんどが虫歯だという恐怖からは解放されるかもしれないが、それを確かめるためには、この歯科医に診てもらわないといけないのだった。池谷先生には、紹介状を書く代わりに、もう自分は診ないと言われてしまったし・・・。
「どうする?そのつもりで、もう一度自分で検診してみる?それとも・・」
「お、お願いします」
「え?」
つい、思い切って頭を下げてしまったのぞみは、平木が大きな目で驚いたように自分を見ているのに気付き、小学校で学級委員に勢いで立候補してしまったときと同じように、激しく後悔した・・・

のぞみは、膝の上に置いた両手をぎゅうっっと組み合わせて、呼吸を整えていた。
「そうか、お願いされた以上は、見せてもらわないわけには行かないね。」
紺野が、そう言いながら笑顔でのぞみの失言に応えてから10分ほど経っている。
「やさしそうな振りして、鬼だろ・・」
平木が呟くのにもかまわず、紺野は、最初のうち、のぞみを静かに見守っていた。
2,3分して、沈黙が重くなり始めたころ、
「また今度にする?」
苛立った風でもなく、さりげない声で紺野が聞き、平木は、うんうん、と心の中で頷いたが、のぞみは、小さく首を振った。
「いえ、もうちょっと待って下さい・・」
「はいはい。」
紺野は軽く微笑んでそれに応える・・
そんな感じのことがもう2度も繰り返されているのだ。
平木の方が落ち着かない気分になってきた。右下の歯が痛み出しそうだ。
「ホントに・・すみません・・」
のぞみはしきりに謝っている。
・・いや、そんなに謝らなくていいって。そんなことで怒るような奴じゃないから。
平木は心の中で思いながら、のぞみを見守っていた。
と、突然。
「こんなこと言ったらいけないんだけど。」
紺野がぽつりと言った。平木ものぞみも、紺野の方を見る。
「生田さんが見せてくれても、くれなくても、実はどうでもいいんだよね。俺には関係ないから。」
・・え、えぇぇぇ!何言い出すんだこいつ。
平木は目を丸くした。これまで自分が騙されていただけで、実はすごく嫌な奴で、だから姉も別れたくなったのかもしれない。のぞみを見ると、泣きそうな顔で俯いてしまっている。
なんてこと言うんだよ、と抗議しようと、平木は紺野の方に体を向けた。。