怜子は、重い足取りで、校門を出て、近くの三波歯科へ向かっていた。
もちろん、行きたくはないが・・行かないとお小遣いなし、と母親に宣告されたので、行かざるを得ないというところであった。
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怜子は、幼稚園のころから、年に1度は歯医者通いをしており、毎年だいたい2本ずつ、ちょこちょこと治療を受けていた。
が、痛い思いもしていないので、治療済みの歯こそ多いものの、特に歯医者が嫌いと言うこともなく、特に疑問も抱かずに、毎年夏休み、数週間歯医者に通うのが恒例であった。
しかし、中学2年のとき、怜子の家は引っ越しをした。新しい家の近所の歯医者は予防歯科に熱心なところで、いつもどおり夏休みに治療勧告を持って治療に行った怜子は「今どきこんなに虫歯がある子なんていない」と笑われてしまったのである。たしかに、他の、小さい頃から通っている同年代の患者のほとんどが永久歯になってからは虫歯ゼロ、あってもレジンで治療された小さな虫歯が1,2本というのに比べれば、怜子のインレー4本、レジン7本という状態はまさに桁違いに多いと言えなくもなかったが、怜子はひどくショックを受けた。
私って、恥ずかしいくらい虫歯があるんだ・・・
その年は、右下の4番にできた小さな虫歯と両1番の間の虫歯をレジンで新しく治したほかに、小学校4年生のときに治した左上1番と2番の間のレジンが変色して少し周囲が2次齲蝕になっていたのを治療した。
「一度虫歯になって治すと、またそこから虫歯が広がっちゃうんだよね、で、どんどん悪くなる。最初に小学生なんかで虫歯にしちゃうから、中学生でもう2回目の治療しないとならないじゃない。あと何回持つか。」
一度治した虫歯がまた虫歯になったりするなんて知らなかったせいもあるが、あまりに冷たい歯医者の説教に泣きそうになった。
その後の1年は、予防歯科のプログラムをそれなりに頑張ってみたが・・すでに虫歯が口の中に住み着いてしまっている状態の怜子には、あまり効果はあらわれなかったらしい。翌年、また、左下の4番の新しい虫歯をレジン治療、そして小学校5年生で治した右上1番と2番の間のレジンを1年前と同じように治療しなければならなかった。治療が終わるという日、実は右下の奥歯に少し冷たいものがしみる、と伝えると、6番のインレーの下で虫歯が広がっているのが見つかった。
キュィイイイ・・キュィイイイイイイイイイイイ・・・・
「ぁぁ・・ぃはぁああぃぃぃ」
怜子は、初めて歯の治療で痛みを経験した。家に帰ると母親が、「今日で終わったんでしょ?」と言ったのをいいことに、仮封のままで歯医者に通うのを辞めてしまったのだった。
それはときどき食べかすが詰まって痛んだが、自然に左側だけで噛むようになり、しばらく経つとほとんど意識に上ることはなくなった。
高校に入学して、最初の歯科検診。数本の新しいC1の虫歯と、当然のことながら治療途中の右下6番を指摘されたが、友人に「治療の紙捨てればいいじゃん」とそそのかされ、
目からウロコ!
と怜子は感心し、その通りにした。
秋の始めごろ、左下の6番のインレーが取れてしまい、右下の6番も穴が開いた状態なので、瞬間接着剤でもう一度つけた。そのために鏡を覗いていた怜子は、ふと見える前歯がツギハギ状態なことにもショックを受け、前歯を見せずに笑う方法などを練習した。左下6番のインレーは、その後、お正月のお餅で取れてしまい、しかも噛み砕いてしまったので、怜子は左右の下6番が使えないという不便な状態になったのだった。
さて、高校生活2年目。毎年のように歯科検診はやってくる。
「はい、右上から。7番C2、6番○、5番・・○、4番C2、3番斜線、2番○、1番○。左上行って1番。うーん、C2。2番から5番斜線、6番○、7番C2。左下行って・・8番が生えかけてるね、7番斜線。6番、C3。5番○、4番・・○、3番から右下4番まで斜線、5番C2、6番、ちょっと、これ治療途中だったんじゃないの?」
歯科医が口からミラーを抜いて尋ねる。
怜子は、首を傾げて見せた。
「まあいいや。右下6番C3。7番C2。以上です。」
ありがとうございました、と言って立とうとした怜子を、歯科医が止めた。
「ちょっと待って。」
「・・はい。」
何を言われるんだろう、と不安げに怜子は止まった。何か怒られるに決まっている。
「治療が必要な歯がね、8本もあるよ。」
「はい・・すみません。」
は、8本も・・・どうしよう・・
さすがにショックだった。歯科医はさらに続けた。
「去年、治療に行くように言われたはずだけど、行ってないね?」
「・・・はい」
「ダメだよ。1年でだいぶ進んじゃったよ。去年行っとけば軽く済んだのに。とにかく、放っておいても治らないんだからね。今年は絶対に行くこと。でないと、歯を抜くことになるよ。二十歳前に入れ歯なんて嫌だろう。」
「・・・はい・・」
「詰め物が取れたのも、放って置いたらダメ。」
「・・はい、すみません・・」
怜子は今年も無視するつもりだったので、適当に相槌を打っておいた。それにしても、苗字が安田でよかった。部屋の中には、おとなしい湯川さんと渡辺さんしかいないのだ。汚いとか皆に言いふらされる心配はない。
しかし、今年も無視するつもりだったのに、さすがに去年も無視したというのがまずかったらしい。ある日怜子が家に帰ると、母親が怖い顔をして待っていた。
「怜子、あなたお母さんに隠してることあるでしょ」
「そんな、いっぱいありすぎてどれがバレたかわかんないよ・・」
笑ってごまかそうとした怜子に、母親は宣告した。
「明日、歯医者さん予約したから。学校の近所の三波歯科、6時よ。ちゃんと行きなさい。」
げっ。なんでバレたんだろう・・
どうやら、1年の時に勧告を無視した生徒には、2年生から治療勧告を保護者宛に送ることになっているらしい。
「ちょっと、明日は部活あるんだけど!」
せめてもの抵抗を試みたがムダだった。
「マネージャーなんか練習に居なくたっていいでしょ。行きなさいよ。治るまでお小遣いあげませんから。」
母親に伝家の宝刀を持ち出され、歯医者に行かざるを得ない状態になってしまったのだった。
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はあ・・着いちゃった。ゆっくり歩いたつもりだったが、5分ほどで着いてしまい、怜子は深呼吸してからドアを開けた。
ああ、このニオイ・・・
受付に、保険証を出して、治療勧告書も出し、待合室を覗くと、ほぼ満員だ。
あ・・熊谷さんだ・・・
怜子は、部活の引退した先輩、達也を見つけた。歯がキレイな印象があったが、もしかして、熊谷さんも紙もらったとか?
久しぶりの歯の治療に、なんとなく心細くて同士を見つけたかった怜子は、達也に声をかけた。
「熊谷さんも、紙もらったんですか?」
達也は、ん?と顔を上げると、つまらなそうに答えた。
「いや、俺はもらってないけど。」
「ですよね・・熊谷さん健康そうですもん。うらやましいですぅ。」
「健康そう、って歯に関係ないだろ。安田は紙、もらったの?」
「もらっちゃいましたぁ・・そうなんですよね、健康は健康なんですけど、歯は別・・・はぁ。」
自分の口の中を思って、怜子はため息をついた。そのため息の中に、達也は口臭を感じた。口に出して言ったことは無いが、綾子もときどき、同じような臭いをさせている。この怜子の様子だと、歯で苦労していそうだ。とすると、虫歯が多い口の臭いなのかもしれない。
「で、部活サボりかよ。」
「すみません・・実は去年の紙を隠してた、ってのが親にバレて。無理やり予約入れられちゃって・・・」
「いや、俺はもう部活関係ないからいいし。た、たくさんあるの?」
達也は意外にも心配そうな声で聞いてくれた。
「それは恥ずかしいから言えませんよっ。前歯も治したあとがツギハギみたいになってるし・・」
もう、ホントに・・とさらに訴えようとした怜子は、ふと達也の肩にもたれかかる女の子に気付いた。たしか、達也と同じクラスで保健委員をしている人だったような。なんだ、彼女連れか。ちょっと気安くしゃべりすぎたかな、と、怜子は黙った。
彼女は、綾子と言い、歯が痛いらしい。怜子も雑誌を手に取り、呼ばれるまでの不安を紛らわせた。
「安田怜子さーん」
予約した時間よりも大分遅れて、怜子はようやく診察室に呼ばれた。
衛生士が、治療台に座った怜子にエプロンをつけてくれる。制服のポケットからハンカチを出し、たたみながら不安げに周囲を見回した。
治療台は、前の歯医者よりも色も綺麗でおしゃれな感じだが・・・トレーに載っている器具は何一つ違わない。
怜子は、ビクビクしながら治療台で歯科医の登場を待った。
「こんにちは。担当する若林留美です。」
微笑みながらあらわれたのは、若い女医であった。
よかった・・女の先生だ・・・しかも可愛い・・・
怜子は、根拠無く、少しホッとしていた。女の先生=優しい、というイメージがあったせいかもしれない。
「えーと、どうしたのかしら?あ、歯科検診で治すところが見つかったのね。」
そう言った留美は、マスクをつけながら怜子の治療勧告を眺めると、急にその顔を険しくした。
「あら・・ずいぶん・・・」
怜子は、髪をゴムでまとめなおしていたので、留美の表情の変化を見逃した。
「とりあえず、全部見せてもらいましょう」
横にカルテとペンを構えた美香がやってくる。
治療台が倒されて行き、倒れきるとライトが点灯された。
「はい、お口あけて・・・」
留美は、おそるおそる開けた怜子の口の中を覗き込むと、マスクの中で小さくため息をついた。
こんな下の歯で、どこで噛んでるのかしら・・・虫歯が多いだけじゃなくて・・ダツリも治療途中みたいなのもあるわ・・・意識が低いわね、ちょっと脅してでも、気合入れて治さないと。
そう思った留美は、左手にミラー、右手に探針を持った。
「右上から行きます」
7番は、後ろ半分が茶褐色に変わり、磨きにくい遠心面は真っ黒になって中心に穴さえ開いていた。穴に探針をくいっと突っ込むと、内部がグズッと崩れる感覚があった。
「ぅ、んぁっ」
確かな鋭い痛みに、怜子は身体を硬くして声を上げた。
「7番はギリギリC2ね・・」
6番は大きくは無いがインレー、5番はレジンで治療されている。
「6番○、5番○・・」
4番は5番との間に、小さいが穴が開いているのが見える。留美はミラーで唇をぐいっと開き、探針を穴に入れた。
「あぐぅっ」
見かけよりも穴は深いようだ。
「4番もC2・・」
3番は一見健全歯だが、歯間が白く色づいている。
「3番はCO・・・」
前歯4本は、すでに何度もレジン治療を施されているらしい。
これはちょっとどうにかしてあげたいけどね・・
留美は、自分の10年ほど前に似た前歯を見ながら思った。
それぞれの歯に2,3ヶ所ずつレジンが入り、好き勝手に変色してしまっている。
でも、今は虫歯の治療が先よね。
2番は無事だが、1番はレジンの周囲が黒ずんでいる。おそらく2次齲蝕が起きているだろう。
「2番○、1番は・・後でレントゲン撮りましょ、とりあえずC1。」
左の1番は、裏側の歯の付け根あたりに小さい穴が開いている。
「左行って、1番、C2。2番が○・・いえ、COもあるわね、3番もCO・・」
4番と5番は無事なようだった。
「4番5番は斜線。」
6番は右と同じくインレー。
「6番が○」
7番はこちらは咬合面からやられていて、溝の黒い色は探針でカリカリ、と引っかいても取れず、小さな穴も開いている。
「7番、C2。」
留美はほんの少し治療台を起こし、親指で怜子の口を少し大きく開かせると、下の歯のチェックに移った。
「左下行きます」
左下の歯列の後ろには、8番が半分顔を覗かせており、傾いた歯が7番の遠心面と接している部分にはべっとりと歯垢がたまっている。留美は眉をひそめ、探針で歯垢を掻き取ると、トレイの上のガーゼでぬぐった。3度歯垢を掻き取ってようやく顔を出した歯面は艶を失い、やはりすでに齲蝕に侵され始めていた。
「8番半埋伏・・これはたぶん抜いた方がいいわね、7番がやられちゃってるわ、C1。」
6番は、最初に口を開けたときから目立っている、大きな虫歯だ。インレーが脱離したのを放置したのだろう。
「6番はC3。」
5番と4番はレジンで治療済みだ。
「5番○、4番○。でもね、だいぶん磨り減っちゃってるから、そろそろやり直した方がいいわね、そのうち隙間から虫歯になるわよ・・今回の治療ではいいけれど。でも一応書いておいて。」
下の前歯は、なんとか無事なようだった。4番はやや5番との間が白くなりかけている。
「3番から右下3番まで斜線。4番は○、あ、やっぱりCOね。」
右の6番は左よりもひどかった。おそらく治療途中だったのだろう。隣の5番と7番には、6番の虫歯の穴から連続した茶色い穴が開いてしまっている。
「5番C2、6番C3、7番C2。以上です。レントゲンの準備お願いね。」
留美は治療台を起こし、美香からカルテを受け取ると、治療が必要な虫歯の数を数えた。
C1が2本・・C2が6本・・それにC3が2本、ってことは・・全部で10本。この様子では去年、治療勧告を無視してるわね。
要治療:10本
とカルテに書き入れて、ため息をつく。
この時期が案外分かれ目なのよね・・たくさん虫歯を作って、その後の再治療の無限ループに引きずり込まれるかどうかの・・・
ペンを胸ポケットにしまい、遠い目をして、自分の頬に手を当てる。と、
「先生、お願いします」
美香に声をかけられ、留美はハッと我に返って、レントゲン装置のスイッチを押しに椅子を立った。
撮影が済んで、レントゲン室から出てきた怜子は、不安そうな表情をしているが、留美の目から見てもかなり可愛い。
去年のうちに治療に来てればね・・・でも、もう手遅れね、可哀想だけど、この先は歯医者とは縁が切れない人生よ。
留美は、怜子が再び治療台に座るのを眺めながら、そんなことを考えていた。
デジタルレントゲンのプリントアウトを待ちながら、治療計画を考える。
特に他に痛むところがないなら、最優先は当然下の6番でしょ、そのあと・・C2も多いけれど、前歯は綺麗にしてあげたいところだわ・・・
出来上がった写真を持って、治療台に戻り、写真をセットする。
「そうね・・右上の1番・・前歯ね・・思っていたよりも進んでるわ。」
留美は、カルテに記入されたC1、をC2、に書き換えてから、怜子のほうを見た。
怜子は、あちこち突き回されながらじっくり検診され、学校よりもたくさんの虫歯が見つかったような気がしてドキドキしていたが、
カルテに「要治療:10本」と書いてあるのを見て、気が遠くなりそうだった。10本・・
「す、すみません・・虫歯が多くて・・」
留美と目が合った怜子は、思わず謝ってしまった。
「多いのは謝るところじゃないわよ。でも、自分で作っちゃった虫歯を治してないのは悪いことよ。」
怜子は、うつむくしかなかった。
「どこか痛むところとか、気になるところはある?」
「いえ・・特に・・・」
「前歯は気にならない?」
「ぁ・・・」
見られた・・
もちろん留美は歯科医なのだから、見られたのは当たり前なのだが、怜子はトイレの最中にドアを開けられたような恥ずかしさを感じ、何も言えずに黙ってしまった。
「・・まあいいわ、治すところがね、少なくとも10本はあるから、早速治していきましょう。一番ひどいところ・・右下から行くわ。痛くなるけど、覚悟してね」
留美の言葉に、怜子が、びくっと上目遣いで留美を見る。
「もちろん麻酔はするけれど。」
言い終わるか終わらないかのうちに、治療台が倒され、倒れきるとほぼ同時に、留美が注射器を手に、怜子に口を開けるよう促したのだった。
「はい、あーん。ちょっとチクっとしますよ・・・」
怜子はぎゅっと目をつぶり、口を開けた。
チクッ。
一瞬びっくりしたが、思ったほど痛いわけではない。じんわりと歯茎が腫れてくるような感覚である。
その後何ヶ所かに針を刺され、怜子は右頬が腫れ上がったような感じを抱えつつも、おとなしく口を開けていた。
けっこう、大丈夫かも・・・
歯の治療の痛みを本当には知らない怜子は、気楽に構えていたのだった。
「じゃあ、削っていきますね。痛くて我慢できなくなったら、左手上げて。あーん・・・」
怜子は素直に口を開けた。目はどうしたらいいのだろう、と思いつつ、ゆっくりと閉じた。
スコココココ・・
左側でバキュームの音がする。
ヒュィイイイイイ・・
その後、右側からタービンの音が近づいてきて、やがて歯を削る音に変わった。
キュィイイイ、キュィイイイイイイイイ、キュィキュィキュィイイイイ・・・
さて、と・・・
レントゲンで見たところでは、3本の根のうち、少なくとも1本は抜髄だけでなく、根管治療も必要なようだった。根の先に少し膿が溜まった袋が見えた。
留美は考えながら歯冠部の齲蝕を削り取り、下へも拡大していく。
チュィイイイ、チュィイイイイイイ・・・
スココ、ジュボボボボ・・・
まだ終わらないのかな・・・・・
怜子はあまりに削る作業が長いので、薄目を開けて様子を伺ってみたが、見えるのは頭上のライトと、自分の顔の上にかぶさるようにして作業をしている二人の顔だけである。
キュィイイヒュゥゥゥウウウゥゥ・・
ようやくタービンの音がやんだ。
ズズズ・・ズズズズズ・・
バキュームが口の中を動いて、唾液を吸い取る。
これってけっこう恥ずかしいよね・・・私のツバ吸ってる音でしょ・・・
ホッとした怜子は苦笑しかけたが、バキュームは口の中から出て行かず、治療台も起こされる気配がない。
横目で留美を見ると、タービンの先を選んで取り替えていた。
まだ削られるの・・・
こちらに向き直った留美に、不安そうな表情を見られたらしい。
「まだ痛みはない?」
留美に聞かれて、怜子はかすかに首を振って答えた。
それって、痛くなるってこと・・・?
大きくなった不安に、留美の言葉が追い討ちをかけた。
「削るのはこれからが本番よ。頑張ってね。」
えええっ!
と思う間もなく、さっきよりも先が尖った気がするタービンが、口の中に入れられ、高い音を立て始めたのだった。
チュィイイイイ・・チュィイイイイイ・・・
大丈夫よ・・痛くない・・・昔痛かったのは、麻酔してなかったから・・・今日は麻酔したんだもん、痛くない・・・
怜子は一生懸命思い込もうとした。
というのは、かすかに、振動の中に痛みが混じっているような気がしたからである。
チュィィ、チュィィィイ、チュイチュイチュィイィィィイイイ
い・・いた・・痛く・・ない・・・はず・・・
ハンカチを握る手に力が入って行った。
チュィイ、チュィイイイ・・・
い・・いた・・・いたい・・・ダメ、やっぱりイタイィィィィ・・・・
「ぁ・・ぁあ・・」
確実に強くなる痛みに、怜子はついに耐えかねて声を出した。
「痛いかなー、お口は閉じないでねー」
美香に、顎をしっかりとつかまれる。
「ぁ、ぁあああ・・・」
もうやめて・・イタイ・・・痛・・・カエリタイ・・・いや・・・
心の叫びが聞こえたのか、留美の口から厳しい言葉が出た。
「だめよー安田さん、虫歯作っちゃったの自分でしょう、頑張って治さないと」
「ぃ、ぃぃはああああ」
「放っておいたから治療も痛いのよ」
痛い・・・こんなに痛いって知ってたら来なかった!!もうイヤ・・・
「ぁはぁあああんっ・・」
ギュィィィイイイイ!!
「ぁがぁああぃぃ」
怜子は、自分は比較的我慢強いと思っていたのだが、それでも声を上げてしまうほどの痛みだった。
ヒュゥゥゥウウ・・・
それからしばらくして、ようやくタービンの音がやんだ。
ああ・・終わった・・・
怜子はぐったりと身体を治療台に預けたまま、治療台とともに起こされた。
「はい、お口ゆすいで」
言われるままに口をゆすぎ、ハンカチで口元を押えながらもとの位置に戻ってふと見ると、美香がトレイの上にカチャカチャといろいろなものを並べていた。
な、なんで・・もう削り終わったじゃない・・
怜子が顔を歪めながら見ていると、美香が最後にコトリ、と置いたものは・・・麻酔の注射器。
たしかに痛かったけど・・でも痛いのはもう終わりでしょ?型取るだけじゃないの・・・?
留美が口を開いた。
「もう1本麻酔しておきましょうか。」
ハッ、と留美のほうを見る。
「あの・・まだ削るんですか・・・」
怜子の目を柔らかく受け止めた留美は、ゆっくり首を振った。
「いいえ、削るのはもう終わりよ。・・・でも、治療はまだ終わりじゃないわ。」
そう言うなり、再び治療台がウィーン、と倒されていく。怜子は、一瞬腹筋に力を入れかけたが、そのまま治療台とともに倒れて行った。
「はい、あーん。」
同時に、左から美香の手が怜子の顎を押して、口を開かせる。
チクリ。
麻酔が効いているせいか、刺さったという感触しかない。が、怜子はそれよりもどんな「治療」をされるのか不安で、頭がおかしくなりそうだった。
チクリ。
また、何ヶ所か刺された後、麻酔は終わった。カチャリ。という、麻酔をトレイに戻す音の後、一瞬静かになった。留美が何かの点検をしているようだ。
「んぁ・・あ・・・」
という、別の治療台の呻き声が聞こえてきた。
あ、たぶん熊谷さんの彼女の声だ・・・
一生懸命ほかの事に意識を向けようと、声の主のことを考える。歯が痛いってどのくらいひどい虫歯なんだろう・・・
考え始めたとき、留美がこちらに向いた。
「これから、歯の根っこを綺麗にしますね。普通は「神経を抜く」って言われてるわね。虫歯が神経まで進んじゃってるから、それを綺麗に取ります。」
そう言って、留美は指先につまんだ、待ち針のようなものを怜子の口に近づけてきた。
そ、それ、歯の中に入れるの・・?
と怜子は思ったが、おそるおそる口を開けた。怖いので目をつぶる。
あ・・何か・・入ってく・・
「あ、はぁあんっ!」
顎を貫くような痛みに、怜子は思わず叫んだ。
「危ないから動かないでね!」
左から美香が声をかけつつ、顎を押さえる。
コリコリ、コリコリ・・・
「ぃ、いやあぁぁ」
やめて!!なんでこんなに痛いの!虫歯は痛くなかったのに、治療の方が痛いなんておかしいよ!!
「イヤじゃないでしょ、こうなるまで放っておいたのはあなたなんだから。ここでちゃんと綺麗にしておかないと、後で歯抜くことになるわよ」
コリコリコリ、コリコリ・・・
留美が静かな口調で、脅しのような言葉をかけてくる。
「ぃいいいはぁあああ」
歯抜く方が、まだましに決まってる!こんなに痛くないもん!
針のようなものは一度抜かれた感触があったが、すぐにまた入ってきた。
コリコリ・・・
「んがぁああはぁああ」
怜子は、喉が嗄れるほどの声で叫んでいた。写真を撮るときは右斜めから、とか、いろいろ可愛く見えるように日々心を砕いている怜子だが、今は顔をゆがめて、歯の治療の痛みから逃れようと必死の形相だ。身体も動いてしまったらしく、
「我慢してねー、動いたら危ないよー」
と、美香が怜子を押さえつける。
「あ・・がはぁ・・あぁ・・・はっ・・んは・・」
慣れてきたのか、治療の山が過ぎたのか、痛みは少し軽くなったが、比較の問題でしかなかった。
その後、いろいろ出し入れされたり、薬のようなものを入れられたりして、最後に温いもので封をされて、治療台が起こされた。
「はいオシマイ。次もこの歯の根っこ綺麗にしましょ。まだ2本残ってるから。」
「え・・2本って?」
怜子が、怯えを含んだ声で聞き返す。
「この歯はね、根っこが3本あるの。」
留美が、レントゲンを指しながら説明する。
「で、今日はこの前の根っこ1本治療したから、あと2本ね。今日よりは簡単に済むと思うから。止めたりせずに、ちゃんと来なきゃダメよ。」
「・・はい。」
「だいたい、この歯だって、昔の治療のときにちゃんと最後までやってれば、銀歯詰めるだけで済んでたんだから。」
「・・すみません」
怜子は半べそ状態でうつむいた。治療の途中だったって、バレてる・・
「謝る必要ないわ、辛い思いするのあなただし。ちゃんと来るのよ。」
「どうも・・ありがとうございました。」
怜子は、頭を下げて治療台を立った。
すると、怜子はすぐ後ろに達也がいたことに気付いた。
ちょっと・・熊谷さんも居たの・・まさか見られたり・・声出してたの聞かれてたり??
一瞬思ったが、達也は自分の彼女の治療を心配そうに見ているだけだ。
私のことなんて気にしてない・・よね。
カルテに書かれた「要治療:10本」を見られていたら、ちょっと恥ずかしいな、と思ったが、怜子はそのまま診察室を出た。
振り返ると、達也は綾子を真剣に見つめている。
私も、誰か付いて来てくれたら平気かな・・・
怜子は、治療のあまりの痛さに、真剣に通うのを辞めようと思っていたのだった。
会計時。
「次は・・3日後の同じ時間でいいですか?」
「あ、はい。」
もう来ない、と思っていた怜子は、適当に頷いた。もちろん、診察室の中では、達也がそれを聞いていたのだが・・・
3日後の放課後。達也は、部活の集団の中に、怜子の姿を見つけた。
あれ、あいつ、今日は歯医者じゃあ・・?
と思い出した達也は、
歯医者、サボるつもりだな・・
と気付いた。それはちょっと惜しい。通い続けていてくれれば、綾子の治療とかぶって、見る機会もありそうなのに。
幸い、今日は綾子は塾に行ってしまった。なんとかして、怜子を歯医者に連れて行けたらいいな、と思った達也は、部活が終わるのを待った。
部活後、なぜか運良く一人で片づけをしていた怜子に、声をかける。
「あれ、安田、一人なの」
「皆、塾があるって先に帰っちゃって。」
「ああ、手伝ってやるよ」
「そんな・・すみません、助かります。」
用具倉庫に二人で備品を運び込み、
「あれ?ところで、最近オレ、安田とどっかで会わなかったっけ?」
達也はとぼけて聞いた。
「あ、会いました。歯医者さんの待合室です。」
よかった、覚えてないんだ・・
怜子は、少し安心した。
「そうか、綾子に着いて行ったときね。どう、長くかかりそう?」
「ええ・・まあ、何度かは行かないと・・」
それは聞かないで・・と、怜子は思ったが、達也はさらに続けた。
「そっか、何度か、か。綾子はなんだか、虫歯がいっぱいあるとかで、何度も行かないといけないんだって。でも、痛かったからもう行きたくないとか言ってる。次はサボるって。」
「え、彼女さんもですか!」
怜子は、思わず反応してしまった。
「おいおい、彼女さん『も』、って何だよ」
達也が笑うと、怜子もつられて笑ってしまった。
「あれ、安田・・前歯が虫歯なんだ?」
怜子の笑顔が一瞬凍りつき、すぐに前歯を隠すように唇を噛んだ。
「・・・あ、ご、ごめんな」
半分わざと言ったのだが、達也はすまなそうな顔をして謝った。
たしかに、ツギハギだな・・
少しの間見えた怜子の前歯を脳裏に焼き付ける。
「い・・いえ・・・」
前歯を出さないようにしてしゃべっているのがわかる。
「でも、前歯は大事だからね。手遅れになる前に治してもらわないと。綾子のはちょっと手遅れだったみたいで、この間、なんだっけな、神経を抜く?っていう治療されて、泣き叫んで暴れて大変だったよ。」
怜子が息を呑むのがわかった。
実は嘘で、前回は神経を殺す薬を入れただけで終わってしまったのだが。泣き叫んでいた怜子を見ての想像だ。
「しかも、その後は差し歯にしないといけないって言われて、また大泣き。まあ、高校生で差し歯はちょっと泣くよなあ。ま、だから、安田はちゃんと早めに治せよ。」
達也は言った。ま、差し歯にもならないんだけど。
怜子がどんどんうなだれていく。
差し歯・・それは考えてなかった・・・イヤ・・・痛いから行きたくないけど・・でも前歯が・・・
「私・・でも・・もう・・前歯は何度か治してて・・・」
怜子は、ふと、しゃべり出した。
「え、そうなの?もしかして悪いこと言った?」
「いえ・・大丈夫です・・・でも、もう何度か治してるから・・次は差し歯になっちゃうかも・・・」
怜子は不安で涙がにじんできた。
どうしよう・・歯医者行こうかな・・前歯治してもらわなきゃ・・・でもこの間の奥歯の治療は・・嫌・・・
「どんな?・・ま、見てもわからないけど・・・」
一応言ってみると、怜子は、少し顔を上げて、いーっ、と唇を開いた。視線は下を向いたままだ。
「あ・・これ、治してある跡なんだ・・・これは綺麗にしてもらった方がいいんじゃないかな?正直に言うけど、ちょっと気になるよ。汚く見えるって言うかさ。ちょっとマイナスだよ。」
怜子が、小さく頷く。
もう少し押せば、行くだろうな・・
達也は、次の手を考えた。
「もしかして、怖い?付いて行こうか?俺が居ても仕方ないけど。」
怜子の目が、軽く動揺する。
「あの・・ホントは・・今日が予約の日で・・・」
迷ってる?
考えた達也の鼻に、先日、待合室で嗅いだのと同じ臭いが届いた。
よし。この線で押そう。
「どこ治してるの?痛い?」
「ここ・・です・・この間の治療が・・すごく痛くて・・もう・・」
怜子は、口を開けて、右下を指差した。
真っ白い仮封が痛々しい。
達也はとっさに目を走らせた。
うわ、ひでぇ・・予想以上だ・・綾子よりも要治療が多いだけじゃなくて、虫歯ももっとひどいな・・・
真っ白い仮封の前後にもそこそこの穴が開いているし、反対側の6番はぽっかりと茶色く穴が開いていた。
達也は興奮してきてしまった。これは・・・治療も見たい!
治療に連れて行くべく、演技にかかった。
「そうか・・大変だったん・・んっ」
達也は急に横を向いて、顔をしかめて鼻の下に握りこぶしをあてる。
怜子は、達也の異変に不安そうな顔になった。
「安田・・あの、言いにくいんだけど・・いや・・いいや」
達也は、口ごもってみせた。半分は演技だが、開けた口から吐き出される息をこれだけの至近距離で嗅ぐと、その臭いは想像以上のものだった。
綾子どころじゃないな・・
「な、なんですか・・言って下さい。虫歯が多くて汚い、ですか?」
直接吐きかけられる口臭。
「ん・・いや、その、安田の・・口・・・臭うんだけど・・・・」
「におう・・?」
一瞬遅れて、怜子がガバッ、と手で口を覆う。
「ご・・ごめんなさい・・」
「いや、いいよ。っていうか変なこと言ってごめん」
怜子はかすかに首を振って、口に手を当てたまま聞いた。
「いいです・・そんなこと言ってくれる人居ないし・・あの・・・すごく・・臭いますか?」
前歯が汚いとか、口が臭いとか、ちょっと憧れてもいた先輩に、もう最大級に恥ずかしいことを言われて怜子はショックで一瞬倒れそうだった。が、達也が嫌悪感を持っているというよりは優しく接してくれているようなので、少し甘えるような気分が芽生えてきた。
「ん、かなり・・・いや、大丈夫、普通の距離でしゃべってたりする分には気にならないと思うよ。彼氏とかなら気付くだろうけど。」
フォローも大事、と、達也は冗談も混ぜて言った。怜子が2ヶ月前に付き合っていた彼氏を振ったのは部活内で有名な話だ。
「もう、言わないで下さいよ」
と、怜子も笑った。すかさず、
「でも、新しい彼氏作るならヤバいよ。ちょっとチューはできないな・・虫歯も治したほうがいいって。」
と付け足す。とたんに、怜子の顔が曇った。
「やっぱり・・虫歯のせいです・・よね・・でも、このあいだの治療、ホントに痛くて。痛くなかった歯なのに、治療が痛いなんてもう・・」
思い出すだけで涙がにじみそうだ。
「でも、痛くなってからの治療はもっと痛いらしいぞ、麻酔も効きにくくなるらしいし。今日予約の日なんだったら行ったほうがいいよ。付いて行こうか?って、痛いのは誰が居ても同じだから意味ないか。」
達也はとりあえず、押してみた。怖い歯医者に叱られながら治療されて、たぶん不安だったはず・・・
怜子も、誰かが付いてきてくれたら平気かも、と思ったことを思い出していた。
「ホントに付いて来てくれますか・・もう20分くらい遅れてるんですけど・・・行っても大丈夫・・ですか」
「すみませんって今電話して行けばいいよ。この時間だったら、たぶん今日の最後の予約だよ」
達也が妙に詳しいことには不審を抱かず、怜子は逆に心強く思って、携帯を取り出した。
その頃、三波歯科では、留美が怜子を待っていた。
来ないんじゃないかって気はしてたんだけどね・・・
そう思いながらも、カルテを眺める。
右下6番の抜髄して・・・たくさんあるから他も治しに入ったほうがいいかしら・・前歯とか・・・
考えながら、いつもの癖で、左手の人差し指で唇の上から前歯をトントンと叩いていた。
それとも、このまま前後を治してしまうか・・うーん・・ま、この子が来ればの話よね・・っん!?
突然、急に指に当たる感触が軽くなり、同時に、舌の上にポロリ、と何かが転がった。
「んっ!」
あわてて舌の先で前歯をなぞると、あるべき場所に歯が無い。
取れちゃった・・・!!
口をつぐんだまま、控え室に駆け込み、口の中のものを出す。
つまみ出されたのは、前歯が2本つながったものだ。
ついついそのまま鼻に持っていって臭いを嗅いでしまう。
「ん・・・もう臭いわ、入れたばっかりなのに。」
実は留美は差し歯の換装治療中で、先週末、連結した仮歯を入れたところであった。
本歯は昨日、色合わせをしたところなので、しばらくはこの仮歯で過ごさなければならないのだが・・・
「このままはめられるかしら・・」
鏡に向かって、いーっ、と口を開けると、前歯のあるはずの位置に、当然だが黒くぽっかりと空間が開いていて、留美は少しぎょっとした。
しかし気を取り直して、右手で仮歯をつまみ、前歯に当ててみる。
「でもちょっと難しいわね・・やっぱりちゃんと付けてもらった方がいいわよね、もうあの子も来ないみたいだし。」
仮歯をティッシュにくるみ、マスクを着けながら控え室のドアを開けようとした瞬間、外からドアが開いた。
「あ、若林先生。あの最後の予約の患者さん、今から来るそうです。忘れてたって。ホント、有り得ないですよね。でも、可愛いことに、走りながら電話かけてきましたよ」
美香が、おかしそうに報告した。
ああ、タイミング悪いわ・・・
「とのくらいて着くって?」
やはり息が漏れる。怪訝な顔をしながら美香が答えた。
「あの高校からですから・・5分くらいじゃないでしょうか・・・あの、先生、もしかして、TEK取れちゃいました?」
美香にも気付かれたようだ。
「わかる?しゃえりから、やっふぁり変よね・・」
「変っていうか、ちょっと聞きづらいかもですね・・私がヘルプできるところはしますけど・・」
やはり診察があるなら、見た目はマスクで隠せるとはいえ、付けないわけにはいかないだろう。
「へんへいたち、ろっちお治療中よね・・」
診察室のほうを指差すと、美香が治療台のほうの様子をうかがってから答えた。
「ですね・・まさに佳境って感じですかね」
たしかに、チュィイイイイイン、というタービン音がダブルで高らかに鳴り響いている。
「じうんれつけるしかないか・・・」
軽くため息をついて、留美はマスクを外すと、仮歯もポケットから取り出して鏡に向かう。
美香も一緒にじっと鏡を覗き込んでいる。そのとき、チリーン、とドアが開く音がした。
「あ、来ちゃった。じゃ、先生、頑張って。終わったら出て来て下さいね。」
パタン、と美香が控え室のドアを閉め、留美は鏡に一生懸命顔を近づけた。
・・自分で、しかも立ったまま入れるとなると難しいわね・・・
右手が安定しないので、右腕を左手で支えてみるが、今度は自分の唇を押し広げる手がほしくなる。
あー、じれったい。入りにくいわ・・
10年前にレジン治療だらけだった前歯4本を保険の差し歯にして、6年前にメタルボンドに入れ替え、今回が2度目の換装になる留美の歯茎は、30歳にしてすでに、かなり痩せてきてしまっている。今回の換装も、歯茎が退縮して、メタルボンドの根元のメタルマージンが黒く見えるようになってきたのを治すためだった。
んっ・・と。なんとか入ったわ・・
少し安定が悪い気がするが、これで食事をするわけではないのでいいだろう。後でちゃんと付けてもらおう。
にっ、と鏡の前で不自然でないかたしかめ、ふう、と深呼吸すると、留美は治療中の前歯の仮歯が取れてしまった女性の顔から、治療に向かう歯科医師の顔になり、控室を出て、診察室に入った。
怜子は、達也に付いて行くからと言われてその気になって走って三波歯科にやってきたのだが、待合室でキュイーン、という音を聞いていると、3日前の治療の痛みの記憶が蘇ってきて、呼ばれて診察室に入るときには、思わず足がすくんだ。
「や、やっぱり・・帰りたいです」
「ここまで来て何言ってるんだって」
達也に文字通り背中を押されて、怜子は診察室へ入った。
「こちらへどうぞ」
衛生士の美香が治療台の横で待っている。
「あら、達也くん。今日は別の女の子の付き添い?この間の彼女に告げ口しちゃおうかなぁ」
と、ふふっと笑う。
「部活の後輩だったんです。俺の顔見て、今日、歯医者の予約だったって思い出したみたいで。さ、治療台まで座ったから、もう良いかな。帰ろうかな俺。」
微妙に話をずらしつつ、帰りかけるそぶりを見せる。
「えっ」と、怜子が泣きそうな顔で達也の顔を見た。
「いいじゃない、どうせなら和歌ちゃんと一緒に帰れば。彼女だって、治療に付いててもらったほうが嬉しいわよねぇ?」
美香が怜子に同意を求め、怜子も
「いえ、彼女じゃないんですけども・・でも、はい、居てくださったほうが心強いです。」
と言って、達也は「しぶしぶ引き止められた」ような形で治療に付き添うことになった。
しばらくして、マスクを着けながら留美がやってきた。
「お、遅くなってすみませんでした」
と、怜子が頭を下げる。なんとなく、達也も一緒に頭を下げておいた。
留美は達也をちら、と横目で見たが、興味はなさそうだ。
「ま、来ないかもって思ってたから、遅れたくらい別にいいわ」
と、さっそく怜子に向かい、治療について説明を始めた。
怒られると思っていた怜子は、やや拍子抜けした。
「前回言った通り・・右下の歯の根の治療をしましょうね。前回のところの続きと、残り2本の根の治療と。」
「・・はい」
とたんに、ズーン、と右下が痛くなった気がして、消え入りそうな声で怜子は返事をした。
「まず麻酔しますね」
治療台の背もたれが倒され、怜子はその、ウィーン、というかすかな振動の気持ち悪さに、また逃げ出したくなった。
「あーん」
横目で見ると、留美の手に注射器が光っている。
仕方なく、ぎゅっと目を閉じて、口を開ける。
チクリ。じわー。
なんとなく記憶していたよりも、痛みは少なくて、怜子は少しほっとした。
もしかして、治療も、考えてるより痛くないのかも・・・?
頑張ってプラス方向に考えながら、なんとなく器具を確認しようと首を右に傾けかけた怜子の口に、乳白色のプラスチックの何かが近づいてきた。
「麻酔が効いてくるまでの間、ちょっと見せてね、あーん」
えっ?何を?そもそも、それ何?
と聞こうと開きかけた怜子の口に、くにっ、とプラスチックのそれが装着された。
一瞬のことで、何がどうなったのかわからないが、口が閉じられなくなったことだけは分かる。しかも、おそらく、かなりみっともない顔になって・・・
一方、まだ治療が始まらないだろうと、美香が持ってきてくれた回転椅子の上で若干所在無げに座っていた達也は、いきなりの好展開に椅子から落ちそうになった。前回、怜子の口にはめたいと思っていたアングルワイダーだ。
うん、かなりいいな・・・
留美が体をずらして、トレイの上のものをあれこれ見ているので、達也から怜子の口が丸見えになった。
前歯はツギハギ・・・少なくとも4本は、これ以上治療する余地がないのではないかというほどにレジンがあちこちから入っている。
右上の1番は、さらに周囲が黒ずんでいる部分もあるし・・・しかも、奥歯、右上の4番と5番の間に穴が開いているのも見える。
「ここ、黒くなってるでしょう?」
留美が怜子に手鏡を渡し、探針で右上1番を指した。
鏡を見た怜子は、自分があまりにもひどい顔にされていることにショックを受けた。しかも、この汚い前歯をこんなにむき出しにして・・
思わず目を閉じかけたが、留美に指されているので見ないわけにもいかない。
「は、はひ・・」
「ここ、また虫歯になってるのね。で、これを削るとなると・・このくらい削らないといけないんだけど」
探針で黒ずみの周囲をなぞって見せる。
「そうすると・・・」
それは別のレジンの治療痕にかぶってしまうのだった。
「自分の歯がほとんどなくなってしまうのね。で・・」
まさか・・・
怜子は息を呑んだ。そのとき。
くしゅん。
留美がくしゃみをした・・・・
「ごめんなはい・・あっ・・」
謝った留美は、直後、ひどく慌てた様子でマスクの上から口に左手を当てた。
実はくしゃみをした瞬間、留美のマスクから何かが落ち、達也の足元に転がっていた。
「ん?」
達也は、何だろう?と、白いそれを拾い上げた。
・・歯!?
白いそれは、前歯が2本つながったもの以外の何物でもなかった。
ど、どうしよ・・・ってかこれ、この先生の?
おそるおそる留美のほうを見ると、マスクの上から口を押さえてオロオロしている留美と目が合った。
留美は、右手の探針をトレイにおくと、達也をにらむように見ながら、手を差し出してきた。
達也は黙って、その手に拾った歯をのせる。
前回、怜子にあんなに厳しく言っていた留美の前歯がニセモノだということに、達也は異様に興奮した。
・・このあと、どうするんだろう・・・
怜子は頭の後ろで何が起きたのかわからず、キョロキョロし始めた。
「あお・・へんへぇ・・」
アングルワイダーをはめられた口で、怜子が呼んだ。
「ん?あ、らいじょううよ。ごめんなはいね。」
留美が右手の歯を胸ポケットに仕舞いながら答えたが、明らかに発音がおかしい。
マスク・・取ってくれないかなマジで。達也は留美のマスクに覆われた口元を凝視していた。
「えっそ・・そう、この歯ね、じうんの歯がほとんろなくなってひまうから・・・」
前歯がなくなると、こんなにもしゃべれなくなっちゃうものなんだ、と達也は妙に感心した。
留美の異変に怪訝そうな顔をしている怜子に気付いて、留美が言い訳をした。
「あ・・聞きそりにくいかひら?ごめんなはい、今、舌噛んだったから・・」
「いへ・・」
前歯のトラブルを怜子に隠そうとしている留美に、達也はさらにごくり、と唾を飲み込んだ。
「もひかひたら、かうせる治療をひたほうがいいかもひれないわ。きれいにもなるひ。また相談ひましょ」
それだけ言うと、留美は、怜子の右下6番の根の治療に取り掛かった。
「はひ、あーん・・」
達也は、留美の前歯がまだ気になっていたが、ひとまず、怜子の治療を楽しむことにした。
なるべく、痛みに悶えてくれるといいな・・・
祈るような気持ちで、仮封をはずすピンセットの先を見つめていた。案外、よく見えるものだ。前後の歯も、見て分かるほどの茶色い穴が開いてしまっている。
うーん、汚ねぇな・・
若干潔癖症を自認する達也は、女の子は清潔じゃないと、と思っていたのだが、歯は虫歯で汚いほうが興奮すると気付いた。歯を磨いていない、というのはもちろん論外だが、そうでなければ、口が臭いのも虫歯を予感させてドキドキする。
仮封が外されると、全体的に低くなった歯に穴が開いているのがあらわになった。
そこで、留美が達也と治療台の間に入るように移動してしまい、達也からはそれ以上、口の中は見えなくなった。
ちっ・・
達也はがっかりしながらも、じりじりと椅子ごと移動した。口の中ははっきり見えないながらも、怜子の全身と顔が見渡せる位置だ。
「はい、ちょっとこれ噛んでてね」
美香が、左の奥歯に何かを噛ませた。舌を押さえつけるカバーのようなものも付いている。
これは何?いったい、私の口の中、どんな風になってるの??
口元の自由を完全に奪われて不安なまま、怜子はその後の痛みにも怯えていた。
「じゃ、頑張ってね。この間のところからいくからね・・」
美香が留美の代わりにあれこれ声をかけている。ということは、美香は留美の歯の事情を知ってるんだ・・
達也は二人を見比べた。
「行くわよ」
美香が怜子の肩をポンポンと叩き、留美が手にしたファイルを怜子の歯に差し込んだ・・・
「ぁ・・ぁは・・・・」
コリコリコリ。
あ・・痛い・・やっぱり痛い・・・
鋭い痛みではないが、ギリギリ・・と食い込んでくるような痛みである。
「はぁあああ・・・」
怜子は、声を上げながら治療台の椅子の横をぎゅぅぅうっ、とつかんで必死に痛みに耐えている。達也はますます興奮が高まるのを感じていた。治療の痛みに耐える怜子。でも原因を作ってしまったのは自分なので仕方なく・・・しかも、その後には、たぶん綾子がはめているのと同じ、歯の全体が銀色の、大きな銀歯がはめこまれるのだ。下の歯にあれがあったら目立つだろうな・・・ひたすら今の痛みに耐えている怜子はそんなところまで考える余裕がないだろうが・・達也は、これ以上ないほど顔を歪めて声を上げている怜子をじっと眺めていた。
「ぁああ、はぁあっ」
「動かないでねー、力抜いてくれるかなー」
「はん、はぁああっ」
痛みはさらに、順調に強くなっているようだ。
「ああ、動いちゃダメよ・・」
ついに、美香が怜子の頭を押さえた。
ま、まだ終わらないの・・・
怜子は絶望的な気分になった。前の治療を途中でやめたから・・だからわざと痛くされてるの?
「ぁがあああっ」
ひときわ強い痛みが怜子を襲った。思わず体を反らせる。
「ん・・らいらい、いいわ・・」
留美が体を起こす。
なんだ、もう終わり?ちょっとがっかりしながら達也は息をついた。見ているのも疲れるのだ。興奮しすぎのせいもあるが・・
「じゃ、あと2本ね。もう少し簡単だと思うけれど・・」
美香が言う横で、留美はたくさんのリーマの入った箱を眺めている。
ああ、まだ続くのか・・。
同じ言葉を聞いて、ホッとした達也と、落ち込んだ怜子。怜子は、おそるおそる言葉を発した。
「ごえんあはい・・」
「何?どうしたの?」
美香が怜子の口からバイトブロックとアングルワイダーを外した。
「ごめんなさい・・もう、治療途中でやめませんから、反省してますから・・だから・・痛くしないでください・・おねがいします・・」
最後は涙声になっている。治療台に横たわったまま、怜子は涙をハンカチで拭った。
留美がふと顔を上げて言った。
「やら・・わらしが、わらといらくしれると、思っれるの?違うわよ、まあ、あならのはじふんのせいらけろ、ろうしても虫歯になっひゃう人れも、イライのは同じよ。これは仕方ないの。我慢してちょうらい。」
そのしゃべり方を聞いて、達也は留美の前歯を見たくてたまらなくなった。以前に見た、いづみの前歯を外した姿を思い出して、留美に重ねる。この後、あの取れてしまった前歯をつけるだろうから・・なんとか見たい・・・・
「はぁああああ・・」
目をつぶりながら達也が妄想している間に、怜子の治療が再開されていた。
相変わらず、痛そうな声を上げながら、両手でハンカチを握り締めている。
ぎゅっとつぶった目尻から、涙が流れている。
「んはあ・・・いらぁ・・」
歯医者さんで治療が痛くて泣いちゃうなんて・・高校生なのに・・恥ずかしい・・
しかし、さっき泣き出してしまったせいで、涙が止まらなくなってしまったのだ。
「あ・・んはっ・・は・・」
「一つ終わったわよ、もう一つね」
「んがぁ・・ああ・・はぁ、ああ・・」
怜子は、身をよじるようにして痛みに耐えていた。食い入るように見ていると、後ろから和歌子に声を掛けられた。
「達也、あんた何やってんの」
「えっ?」
思わぬところから声を掛けられ、達也はびくっ!としてしまった。興奮していたせいもあるが・・・
どうやら、他の治療台では治療が終わったらしい。
「いや、歯の治療って、痛そうだなと思って・・」
「そりゃ痛いわよ・・」
自分も半年前、放置していた虫歯が痛み出し、その他にもあちこち虫歯が見つかって、相当大掛かりな治療を受ける羽目になった和歌子が、思い出すように顔をしかめた。その結果、和歌子の奥歯はかなりの歯が治療済みになった。銀がかぶせてある歯も3本もある。
歯医者で働いてる人って、虫歯なんてありません、みたいな顔してるけど、案外そうでもないのかもな・・・
達也は、留美を見やりながら思った。
どうしても虫歯になっちゃう人でも治療は痛いって、自分のことだったりして・・
今度は和歌子の銀歯の多い口の中を思い浮かべながら、留美と重ね合わせる。
「ああ、そんな話じゃないわよ、なんでここに居るのよ、ってことよ」
痛かった治療を思い出していた和歌子は、ふと我に返って言った。
「え?ああ、後輩がさ、歯医者行くの忘れてたとかなんとかでしゃべってるうちに成り行きで・・」
姉弟は、治療台の上でまだ痛みに悶えている怜子のほうを見た。
「ふーん・・まだ若いのに、大変ね」
「で、せっかく来たなら一緒に帰ればって。美香さんが。」
達也は、なんとなく治療を見ていたかったとは言いにくく、フォローした。
「そう。でも、もうちょっと遅くなるかもしれないわよ、わか・・」
和歌子はそこで達也を手招きして受付のほうに移動した。怜子の治療にも未練があるが、達也は仕方なく付いていった。
声を落として、和歌子は続けた。同時に、カルテキャビネットからカルテを取り出す。
「若林先生・・あの女の先生の治療補助に入ると思うから。しゃべってるの聞いてると、TeK取れちゃったみたい。」
「てっく??」
やっぱり、治療するんだ・・達也は、和歌子の手にしている「若林留美」というカルテをさりげなくちらちら盗み見しながら聞いた。表紙にある、歯の様子を書いた図には、多くの書き込みがある。やっぱり、けっこう歯が悪いんだな、あの先生。
「あ、治療中で歯が無いようなときにはめておく、仮の歯よ。」
歯が・・無い。達也は再び、留美の前歯が無いところを想像した。
「ま、そうなったら、先に帰ってていいわ」
和歌子は、片付けに戻ってしまった。
達也も怜子の治療台に戻ると、怜子は仮封か何かをされているところで、それでもまだ顔をしかめて声を上げていた。
「あ・・いはっ・・んはぁああ」
「ん・・、いいわ」
ようやく、怜子は治療が終わった。治療台を起こしてもらいながら、ハンカチで涙を拭う。
口をゆすいで、なんとか留美に頭を下げた。
「そうね・・1時間くらいは食事しないれ。鎮痛薬も、らしておくわ。」
「ありがとうございました・・・」
怜子は、治療台から降りると、うつむいて、頬に手をあてて診察室を後にした。
達也も、留美の様子が気になりながらも怜子の後を追った。
「熊谷さん、ありがとうございました・・」
「いや、何も役に立ってないけど」
「あの・・できたらまた・・付いて来て欲しいんですけど・・じゃないと来る勇気がなくて・・」
それは願ったり叶ったりだが、達也は一応困ったような様子にしておいた。
「ん・・そうしてあげたいけど、塾とか・・ま、予定が無ければもちろん、付き合うよ」
「はい・・」
また怜子はうつむいた。達也は、気になる診察室の中の様子を、受付のカウンター越しにのぞいていた。
吉野と留美が何か言葉を交わし、留美が・・治療台に上がった。治療台が倒されていく。そして、どうやら留美の口にアングルワイダーを吉野がはめ込んだようだった。
見たい!!
ちょうど、怜子が会計に呼ばれたので、達也は同時に立って、診察室へ入った。留美の治療台の横に付いている和歌子に近づき、
「俺、やっぱり先帰る」
と言いながら・・目は治療台に横たわる留美を見た。目をぎゅっとつぶっているのが残念だが、むき出しにされた口元には、前歯2本分のスペースに細い金属の棒がにょっきりと出ているだけだった。よく見ると・・そうそうじっくり見るわけにもいかないのだが・・・その両脇の歯も、差し歯のようだ。歯茎が黒ずんでいる。さらに、奥のほうには、上にも下にも、クラウンがあるようだ・・。
ああ、この人、歯医者なのに、こんなに歯が悪いなんて・・・
達也は膝がガクガクしそうになったので、そのまま回れ右をして、診察室を出た。
なぜか達也が診察室に入っていったので、不思議そうな顔をしている怜子に、
「あれ、うちの姉ちゃん」
と説明して、二人で歯科を出た。
「あの、次・・来週の水曜日なんですけど・・・」
怜子が恐る恐る切り出した。
「ん・・悪い、水曜日は塾なんだ」
達也は残念に思いつつも、さっき見た留美の口を思い浮かべながら、怜子と別れたのだった。
怜子が痛がる様子も、アングルワイダーをはめられたところも、さらには留美までも・・・いろいろ見られて満足だった。
さて、水曜日の放課後。怜子は帰る準備をしていた。
歯医者に行かなければいけないのだが、どうにも気分が乗らないのでダラダラしてしまう。
と、そのとき、廊下から声を掛けられた。
「安田・・さん、だよね?」
・・あ、熊谷さんの・・名前なんだっけ・・・
「あ、はい・・」
「私、今日、歯医者に行かなくちゃいけないんだけど・・達也・・のお姉さんが、安田さんもちゃんと来るようにって言ってたらしくて・・何言ってんだかわからなくなって来ちゃった・・ま、とにかく、達也が、安田さんと一緒に歯医者に行けって言ってたの。だから迎えに来たんだけど、用意できてる?」
「あ、もうすぐです、すみません」
怜子はあわてて準備をして、綾子のところへ急いだ。
二人は、少しダラダラと校門を出て、歯科へ向かって歩いた。
綾子が先に口を開いた。
「いきなり、ごめんね。でも、ちょっと一人だと心細いって言うか」
「いえ、私もよかったです・・ちょっとサボろうかとか・・行く勇気がなくて・・・」
二人は一瞬、足を止めて顔を見合わせ、気まずそうに微笑んだ。
「治療・・痛いの?」
再び歩き出しながら、綾子が少し探るように聞いた。
「痛いです・・別に痛くなかった歯なのに・・・でも治療はありえないくらい痛くて、もう・・先生も怖いし。」
最後の方は少し泣き声混じりだ。
「そっか・・大変・・だよね・・私も痛い治療なんだ・・・先生は怖くないけど・・・でも案外厳しいかな・・」
そう言いながらも、綾子は、しゃべるときにちらちら見える怜子の前歯に注目していた。
・・前歯・・きたないね・・・ま、私も前歯虫歯だけど・・それもちょっと酷い虫歯だけど・・・見た目はこんなのじゃないもん。
そう思って、かすかな優越感に浸った。
「治療・・もしかして、前歯?」
・・でも、前歯を虫歯にしてしまった・・いや、前歯が「不幸にして」虫歯になってしまったショックを共有できるかも
と思って、綾子は聞いた。
しかし、前歯は怜子には禁句だった。急に顔をこわばらせ、
「ち、違いますっ。奥歯ですっ。」
と、口をあまり動かさないようにしているのが綾子にもわかった。
・・あちゃー、ちょっとまずいこと言っちゃったか・・と、綾子は思い、
「あは・・ごめん・・私、前歯の治療してるんだけど、ありえないくらい痛いから同じかと思っちゃった・・でも、奥歯も痛いよね、神経の治療とか。」
と、フォローを入れた。
・・んっ・・この人・・口、臭っ・・・
今度は、怜子が綾子のことを冷たい目で見る番だった。自分もこのあいだ、達也に臭いと言われたことを思い出す。
・・・なによ、女の子に口が臭いなんて失礼なこと言って、自分の彼女だって・・・
そう思いかけた怜子は、そこでハッとした。
・・・まさか・・私、もっと臭いとか・・?自分では全然感じないのに!やだ・・・
「うん、そうそう、奥歯の神経抜いたときは、こんなんなら治さなければよかったって思ったなあ、私も。おっきい銀歯になっちゃったし・・・大丈夫?もうすぐ着くけど・・」
急に黙り込んだ怜子を心配して、声をかけてきた綾子の口元に、ギラリと銀歯が光るのが見えた。
・・・これが、もしかして、神経抜いた後の銀歯?こんなになっちゃうわけ?こんなのが下の歯にあったら・・・
怜子はさらに心配の種が増え、もうパニックになりそうだった。今からでも逃げ出そうと思ったが、目の前は三波歯科のガラス戸で、中から衛生士が手を振っているのが見えた・・・
二人は、打ち合わせしたわけでもないのに、同時に大きく、ため息とも深呼吸ともつかない息をついて気を静め、実際よりも重く感じられるガラス戸を開けると、歯科に足を踏み入れたのだった。
キィィン、という音と、特有の匂いが二人を包む。夜、ベッドに入ると耳に甦ってきて、思わず顔をしかめたくなる音。髪の毛や服の奥深くまで染み付いて、ふとしたはずみでふっと漂っては気分を落ち込ませる匂い。二人は急に口をつぐむと、黙って、待合室の椅子に並んで腰を下ろした。
今日はさらに、診察室の中から、子供が泣き叫ぶ声が聞こえてくる。
「ん、ふぎゃぁああああ」
ずいぶんと小さい子供の声だ。二人の顔はますますこわばった。耐え切れず、気を紛らわせようと、とりあえず怜子が口を開いた。
「わ、私、これまでそんなに歯の治療で痛い思いとかしたことなくて」
「歯、丈夫なんだ?」
「いえ・・虫歯が小さいうちに治してたっていうか。毎年治療はしてました・・でも3年くらいサボってて・・そしたら、こんなに痛いなんて、もう・・でも、自分のせいでしょって言われたらその通りだし・・」
怜子は苦しそうに目を伏せた。
「そっか・・私はけっこう治して・・痛い思いもしてるけど・・奥歯ばっかりだったな・・まさか前歯が・・虫歯になっちゃうなんて・・しかもホンッッとに痛いし・・・」
綾子も黙ってうつむいた。
さて、しばらくして、その泣いていた子供と思われる母娘が診察室から出てきた。
3歳になるかならないかくらいの、かわいらしい女の子だ。まだしゃくりあげている。
「ひっ、ひっ、ひっく・・もうやだ・・・」
「やだじゃないでしょう。痛くても我慢しないとね。再来週に大事なオーディションがあるんだから。虫歯は絶対NGって、事務所の先生もおっしゃってたでしょう。まだいっぱい治すところがあるんだから、明日もよ。」
母親が諭すように話しかけている。
お、おーでぃしょん・・そんなことこんな小さい子に言っても・・・っていうか、大変だね・・
綾子が少し嫌な気分になって見ていると、怜子が、ソファに放り出された雑誌の背表紙を小さく指差した。真っ白いブラウスを着て、最近産休から復帰したばかりの女優の横で笑顔を見せているのは、たしかに目の前の女の子だ。皮肉にも「お子さんの真珠のような歯を虫歯から守るハミガキ」の広告である。怜子と綾子は、顔を見合わせて思わず苦笑した。
そのとき、診察室の扉が開いてカルテを手にした和歌子があらわれ、二人は、自分が呼ばれるのかとハッと息を呑んだ。
「では次、お母さんお入りくださーい」
「あ、は、はい」
母親は少し上ずった声で返事して慌てたように立ち上がり、「いい子にしてるのよ」と女の子に言い残すと、そそくさと診察室に入っていった。
親娘で歯医者通いかあ・・私は経験ないなあ・・・お母さんも虫歯になってみれば、あんなに歯医者行けって簡単に言わないと思うなあ。
怜子が、生まれてこのかた虫歯になったことがないのが自慢の自分の母親のことを思い浮かべていると、和歌子が戻る直前、
「もうすぐ綾子ちゃん呼ぶからね、ちょっと急患が入っちゃってて。もう少し待ってて。」
と微笑んで声を掛けて行った。
「は、は・・ぃ・・」
綾子はなんとか返事をしたが、最後は隣の怜子にもよく聞こえないような消え入りそうな声で、怜子もつられてドキドキしてきた。
私はもともとはそんなに歯医者さん苦手じゃなかったんだけどなあ・・
怜子は、正面に座った女の子を見やる。
こんなに小さいときには歯医者さんに来たこともないし・・小学校の頃は治療も痛くなかったし・・
「あの・・綾子さん、初めての歯医者さん、いつでした?」
気を紛らわすために、怜子は綾子に話しかけることにした。
「わたし?えーとね、幼稚園に入るちょっと前かな。」
思い詰めたような顔をしていた綾子も、少しホッとしたように話に応じた。
「公園で遊んでて、滑り台から落ちて前歯がグラグラになっちゃって・・」
「いたっ・・痛そうですね」
「ううん、そこはあんまり痛くなかったんだけど、奥歯に虫歯がたくさんあるって、幼稚園前なのにって怒られちゃって、そっちの治療は痛かったな・・」
そこで、二人ともこれからの治療の痛みを想像して、黙り込んでしまった。
と、そこでちょうど、再び診察室のドアが開いた。
二人はハッとドアを見つめた。そこからあらわれたのは、ハンカチを口元に当てた古文教師の澤田いづみであった。
「あ・・先生・・」
いづみは怜子のクラスの担任なので、怜子はつい声を掛けてしまった。いづみは声を掛けられて、少しぎょっとしたように立ち止まり、怜子と目が合うと、すこしばつの悪そうな顔をした。
「あ、やすださん・・どうしたの・・あ、このあいだ歯科検診のお知らせ配ったわね」
「先生こそ・・どうかしたんですか?歯、綺麗なのに。そういえば、先生達も歯科検診あるんですか?」
「ちょっとね、親知らずが・・・」
本当は様子を見るために仮止めしていた差し歯が取れそうになってしまったのであわてて駆け込んできたのだが、歯が綺麗と言われた手前、なんとなく差し歯だとは言い出しにくくて嘘をついた。
「歯科検診・・先生達はないわ・・あった方がいいかもしれないわね・・・」
ずっと歯医者から遠ざかっていた結果、驚くほど長期間の歯医者通いを余儀なくされたいづみは、つぶやくように言った。
「そんな、無いほうがいいですよ、歯科検診なんて・・・」
怜子が文句を言ったとき、カルテを持った衛生士の美香が診察室のドアから出てきた。
「神田さん、神田綾子さんどうぞ」
綾子が隣でびくっ!と立ち上がった。
右手と右足を同時に出しそうな緊張ぶりで診察室に向かう綾子の背中に
「頑張ってください・・」
と声を掛け、怜子は自分も次に呼ばれる・・と固くなっていた。一人になっちゃった・・このまま帰っちゃおうかな・・・
落ち着かずキョロキョロして、会計をしているいづみの背中を見つめていると、聞くとはなしに会話が聞こえてきた。
「澤田さん、次回、今入れてる前歯を本止めしますので、来週・・」
えっ?それってどういうこと?
先生の歯・・まさか、サシバ・・・?
さっき、親知らずが、とか言ってたのに、ホントは差し歯の治療だったんだ・・・
怜子は思ったが、あんなに綺麗な歯になるなら、うらやましいな、と思った。自分の歯は・・ツギハギだらけで汚い。
・・あんなふうに・・綺麗に・・・
思っていると、
「・・さん。安田怜子さん。」
と、自分の名前が呼ばれていることに気付いた。前歯を綺麗にするよりも前に、虫歯の治療が怜子を待っていた。怜子は、がっくりと肩を落とすと、助手の後について診察室へ入っていった。
診察室に入ると、待合室よりもさらに歯医者の匂いが強くなった。キィイイイン、という音も圧迫感を感じさせる。
入ってすぐの治療台では、さきほどの母親が顔をしかめて歯を削られている・・その隣では、綾子が、あの唇を押し広げる器具をつけられて、ひぃぃ、と声にならない声を上げながら、怜子と同じ、「神経を抜く」治療を受けていた。
・・う・・痛そう・・見なければ良かった・・・
怜子もつられて顔をしかめながら、治療台に座り、助手にエプロンをつけてもらうと、すぐに留美がやってきた。
「こんにちは。」
「こんにちは・・よろしく・・おねがいします。」
怜子は消え入りそうな声で挨拶を返し、頭を下げた。
「今日は、この間からの右下の歯の様子を見せてもらって・・そのあと、隣の歯の治療に入りましょう。」
怜子は、強張った顔で頷いた。嫌がっているのが伝わったのか、留美はさらに続けた。
「治さないといけない虫歯が、他に9本もあるんだから、頑張って治していかないとダメよ。隣の歯は・・そうね、神経を残せるかどうかは、削ってみないとわからないわ。」
そして、治療台はゆっくりと倒れていった。