藤井理緒の家は、藤井歯科、という歯科医院である。理緒は、この春休みが終われば高校2年になる、16歳であった。

朝食の後、ちょうど歯磨きを終え、口を濯いでいるところへ、兄の亮が入ってきた。亮は理緒と10歳ほど年が離れていて、すでに2年前、歯学部を卒業して、今は藤井歯科で働いている。亮も理緒の横で歯を磨き始めた。
口を濯いで、いつものようにそのまま洗面所を出そうになり、理緒はあっ、と思い出すと、棚からデンタルフロスを取り、ぴーっ、と引き出し、適当な長さで切って指に巻きつけた。
一応、藤井家では、朝と夜は歯磨きの後にフロッシングもすることになっているのだ。理緒はこのところ、ずいぶんとサボリ気味で、月に1、2回すればいい方だが・・・今日は亮がいるので、サボるわけにもいかない。
特にやりたくないわけじゃないのよ・・・なんとなーくメンドクサクなっちゃうだけで・・・理緒は心の中でそう言い訳しながら、左下の奥歯の間から、フロッシングを始めた。一応、長年の経験があるので、スムースではある、が・・・
や、やばー・・けっこう歯垢たまってる・・・
引き出すたびに、ややねっとりとした黄色いモヤモヤが糸に絡み付いているのを、さりげなく指でたぐって巧みに亮の視線から隠しながら、理緒は下の歯のフロッシングを終えた。たまっていた歯垢をすべて指で隠したので、左手の親指が少しネトネトしている。後で手洗わなくちゃ・・・
亮が気にも留めずに歯を磨き終え、口を濯いでいるのを横目で見ながら、理緒は上の歯のフロッシングを・・まず右上の一番奥・・
あれっ、ちょっとかたいな・・・引っかかっていたのか、少し抵抗を感じてフロスをえいっ、と引き出すと、亮が突然言った。
「理緒・・フロスが毛羽立ってる。」
「え?」
いわれて見ると、今出した部分は、ほぐれたフロスの半分くらいの繊維が切れている。
「そこ・・虫歯になってるんじゃないか?」
「やだなー、ちょっと引っ張ったから切れただけだよー」
「虫歯みたいに引っかかりがないとフロスは切れたりしないんだよ。見せてみろ」
すばやく左手を頭の後ろに回され、右手でくいっ、と顎を持ち上げられ、理緒はとっさに口を開いてしまった。
「んー、もうちょっとこっち向いて」
灯りのほうへ顔を向けられる。
「今どこやった?一番奥か?」
口を開けられたまま、理緒はこくこくと頷く。
「やっぱり虫歯になってるなあ、これは・・」
ゲッ。永久歯になってからは、左下の6番1本しか虫歯にしてないのに・・・
「他にもありそうだぞ・・理緒・・」
亮は、他の歯も眺めながら言う。
ええーっ。たしかにちょっとこのところ歯のお手入れがちょっと手抜きダケド・・でもちょっとなのに・・・
「今からさっと診よう。診察時間まで1時間くらいあるから」
亮が理緒の顎から手を離しながら言った。
「えっ・・今・・・」
と言いかけたものの、断る理由は思いつかなかった。
「じゃ、残りのフロスしたら来いよ。俺は先行ってるから」
亮が行った後、理緒はフロスを続けた。たしかに・・他にもいくつもフロスが引っかかって・・毛羽立つところがあった。
フロスサボってたからだ・・・理緒は歯がぴっちり生えてるから歯の間が虫歯になりやすいって・・お父さんに言われてたのに・・・
今さらそんなことを思い出し、理緒は暗い気持ちで、ねばつくフロスを捨て、手を洗うと、
スリッパを引きずって、普段は下りることのない、診察室へ通じる階段を降りて行った。

診察室では、衛生士の美晴が器具の準備をしていたが、理緒を見ると、治療台へ案内した。
「おはよう、理緒ちゃん。こちらへどうぞ」
「あ、いいよ、適当にやるから。準備続けてて。必要だったら呼ぶから。」
亮が言い、理緒の治療台の横に座った。
「さくっといくよ」
と言うなり、治療台を倒し、ライトのスイッチを入れる。
「あ、ちょ、ちょ・・・ち、治療もする?」
いきなり倒される治療台に慌てながら、理緒は聞いた。
「簡単に治りそうなら、ちゃっとやっちゃうつもりだけど?かまわないだろ?ほら、あーん。」
理緒は何も言えず、ただ頷くと、亮の手のミラーに促され、おとなしく口を開いた。
「んー?この前いつ診たんだっけ・・?」
そう言って、亮はトレイの上のカルテを手に取った。その声に混じった不機嫌そうな色に、理緒は不安を覚える。
理緒の父は、学校の歯科検診を信用していないので、毎年1~2回、自宅で理緒の歯科検診をしっかりやるのだった。
「去年の春休み、か・・」
と、眉間に皺を寄せながら言う亮に、理緒はいたたまれず聞いた。
「虫歯・・ひどいの?」
亮は、もう一度理緒に口を開けさせながら言った。
「いや、ひどいってほどでも・・一年にしては進んでる気もするけど・・それよりも、ちょっと多いかな、と思って。」
ミラーが、歯に当たってカチカチと音を立て、口の中のあちこちに当てられるのがわかる。
「ま、見ただけじゃわからないから、レントゲン撮って来ようか。」
理緒はレントゲン室に向かいながら、鼓動が速まるのを感じていた。
そんなにたくさん、虫歯・・作っちゃったの・・・?

再び治療台に座ると、理緒は、6番を治療したとき、父親が、
「理緒・・ダメじゃないか、せっかくの大人の歯を・・虫歯になんかしちゃあ・・・」
と何度も言いながら治療していたのを思い出した。治療はそれほど痛くなかったが、その父親の責めるようながっかりしたような言葉に、涙が出て仕方がなかった。
そのとき、ちょうど階段を下りる足音がして、父親が診察室に入ってきた。
「理緒、いなくなったと思ったらここに居たのか。・・ん?虫歯なのか?」
父親は、亮が手にしているレントゲンを目ざとく見つけると、手を出してそれを受け取り、天井の蛍光灯にかざした。
見る見るうちに、その表情が険しくなった。
「うーん・・え?」
そんなに、ひどいの・・?
父親は、泣きそうな顔の理緒を見ると、軽く睨みつけてからふっと笑い、
「あんなに言ったのに、フロス、さぼってたな・・ま、亮にじっくり治してもらえよ」
と言うと、レントゲンを亮に渡して、さっさと受付のほうへ去ってしまった。
理緒が父親の後姿を目で追っていると、亮が眺めているレントゲンを、更衣室から出てきたベテラン衛生士の和子が覗いて言った。
「あらー、上顎、歯の間が全部虫歯じゃないですか・・今日来られる患者さんですか?」
・・全部!?
理緒はその言葉に凍りついた。両手をぎゅぅぅ、っと握り締める。
「え、理緒ちゃん・・?あら、ごめんなさい、でも、その・・」
和子が動揺している。
「いいですよ、理緒が虫歯を作ったのは事実なんだから・・・さて。」
亮は、和子をなだめながら、理緒の横に座った。
理緒は、震える声で聞いた。
「あの・・ホ、ホントに・・?私の・・上の歯・・・」
「そう、大きくはないけど、上の歯の間は、全部、虫歯ができてる。」
「その、歯の間が、ってことは・・」
「つまり、上の歯は全部、虫歯にしちゃった、ってことだね。」
亮にはっきりと宣告され、ショックで頭がふらふらした・・が、さらに大変なことに気が付いた。
「全部・・全部って、まさか・・・まさか、前歯も?」
「そういうことだね。」
理緒は、口の中がからからに渇いていくのを感じていた。上の歯が・・全部虫歯。前歯も全部虫歯。
「あと、下も、やっぱり歯の間が・・3ヵ所、かな」
亮がそう付け加えた言葉は、もはや理緒にとってはどうでもよかった。
「早く始めたほうがいいけど・・歯の間は時間がかかるから、今は無理だね。昼休みから始めようか。」
「お昼・・」
「じゃあ、そういうことで。頑張れよ。20本虫歯治さなきゃなんないんだから。」
虫歯が20本。
理緒は、ふらふらしながら治療台から立ち上がると、よろよろと、自宅への階段を上って行った。

落ち込んでベッドの上で寝転がっているうちに、午前の診察が終わった。時間が押すと嫌だから、と、昼休みに入ってすぐに治療が行われることになった。
理緒が診察室へ降りて行くと、亮がレントゲンを見ながら待っていた。和子が補助に付くようだ。
「お願い・・します」
そういえば、亮に治療してもらうのは初めてだ。
「今は・・1ヵ所にしとこうか。軽めのところから・・どこにしよう、よりどりみどり・・とは言わないかな」
理緒は、あまり真剣に見えない兄の姿から、小さい頃、兄が年の差の割には優しくなかった、ということを思い出して逃げたくなった。
「よし、下のここ、左下4番・5番の間にしよう。一番小さいし。」
亮はそう言うと、早速、治療台を倒した。
「はい、あーん」
亮の左手が顎に添えられ、口を開かされたと思うと、ミラーが口に挿入され、朝は気にならなかったが、消毒薬が口の中で強く匂った。ミラーは患部の周囲を一周した後、抜かれた。
「痛みもないはずだから。ささっと行くよ」
和子が理緒の左横に付き・・亮はタービンの先端を選び・・ミラーで理緒の唇をぐいっと横に引っ張ると、ピンセットで頬側にロールガーゼを詰め・・準備が完了した。
「じゃあ行くよ」
理緒は目で頷いた。やがて右のほうから、タービンがやって来て口の中に入ると、ヒュィイイイ、と音を立て始めた。左側に立つ和子も、バキュームを挿入し、スリーウェイシリンジを持ってスタンバイしている。
理緒は、歯を削られるのは・・ほぼ10年ぶりだ。目を開けたまま治療を受けながら、歯の治療って、こんなにたくさん口の中に入れられるものだったっけ・・・と考えていた。
ドリルも思ってたより太い・・・口の中が器械で一杯になってる感じ・・・お兄ちゃんも和子さんも、こんなに覗き込んでくるし・・・
痛みはなかったが、記憶にあるよりも大きな音がする。
ヒュィイイイイイイ、ヒュィイイイイ、チュイ、チュイ、チュイイイイイ
しかも、なかなか終わってくれない。
歯間部の虫歯は、歯の間に隠れているだけに、咬合面の虫歯よりも、健康な歯質も含めて大きく削らねばならず、当然、削る時間は長引くのだった。
「こら、ちゃんと口開けてろ。痛くないだろ」
疲れて口が無意識に閉じてきてしまったようだ。亮に叱られ、ハッとして口を開ける。
2度ほど叱られた後、ようやく、
「はい、終わり。口濯いで。」
と、タービンから解放された。治療台が起こされ、理緒は口を濯いだ。
たくさんの歯の欠片が吐き出され、流れていく・・・理緒は舌で、削られたあたりを探った。
大きい!こんなに大きく削られちゃったの!?一番小さいって言ってたところでこんなに・・・
理緒は再び、この先治療する、より大きい虫歯のことを考えて絶望的な気分になった。
「じゃ、詰めていくから」
詰めるのは、それぞれの歯に、レジンを詰め、光をあて、最後に形を整えて・・と、若干時間はかかったが、ぼんやりしているうちに済んだ。
「はい、ここはおしまい。」
「ありがとうございました・・」
時計を見ると、それでも40分くらい経っていた。理緒が、やっと終わった、と小さくため息をつくと、亮は、
「これで、あと・・15ヵ所だな」
と、残酷なことを言った。
こんなことがあと15回も!と理緒は思ったが、それでもそれは甘い考えだった。
「あと10ヶ所くらいはたぶん、今と同じような、同じくらいの治療だ」
「ほかの・・5ヶ所・・は?」
理緒は恐る恐る聞いた。左下の6番は、型を取って銀歯を詰めた。そんな感じかな・・・
「3,4ヶ所は、もうちょっと大きく削って、インレー・・銀歯、かな」
3,4本、銀歯が増えちゃう・・と思ったが、歯の間なので、もしかすると、本数はその倍になるかもしれないのだった。7,8本銀歯が増える・・・それじゃギラギラじゃない!理緒は頭を振って、その絵を頭から追い払った。
「で、あと1、2ヶ所は、状態によっては神経を抜いたりしないといけないかもな」
それは理緒には経験したことのない治療だった。
「でも、別に痛い虫歯、ないもん」
理緒は抵抗を試みたが、亮に単に鼻で笑われて終わってしまった。
「じゃあ・・今日の夜も2つくらい治すか・・それでも、新学期には間に合わないか・・」
亮が独り言のように言って指折り数えるのを見て、さらに落ち込む。
「明後日・・休診日だからな、じーっくり治せるな、朝から晩まで」
まさか自分が、朝から晩まで歯の治療を受けるような羽目になるとは、昨日まで、いや、今朝まで思いもよらなかった。
「ま、早く見つかってよかったじゃないか・・上の歯が全部虫歯なんて、十分手遅れみたいなもんだけどな・・」
慰めているのか、イジメているのかわからないような亮の言葉にも反論できず、
理緒は部屋に戻ると、また、悶々としながら、夜の治療を待つことになったのだった。

夕方、キッチンから母親が呼ぶ声がした。
「理緒ちゃーん、お兄ちゃんがそろそろ来なさいって。」
音楽を聴いても、漫画を読んでもいまいち頭に入ってこないので、寝転がっていた理緒は、のっそりと起き上がって、髪と服を手で直した。
理緒は活発なほうだったが、虫歯がたくさん見つかっただけで、まるで病人のような気分になってきたから不思議である。もっとも、世間の人々は、虫歯を抱えながら普通に過ごしているのだが。
パタン、パタン、とゆっくりと階段を降りて行くと、すでに患者さんは父親が前歯を治療しているOL風の女性のみであった。差し歯が入る日らしい。
うわー、前歯の治療って、あんなひどい顔になるんだ・・・
と思った理緒だったが、自分も前歯にも虫歯があるとすぐに思い出し、深くため息をついた。
「おね・・がいします」
亮に、と言うよりも和子にそう言って、理緒は治療台に体を預けた。
「えーと、今度は・・というかその前に、一応、どこがどう虫歯なのか知りたいか?」
と、亮が聞いてきた。
そんなの・・見たくない・・よけい落ち込むだけだし・・・でも、ちゃんと現実を直視すべきなの?
と迷っていると、和子が
「そうですね、その方がいいと思います」
と口を出し、理緒に大きく頷いて見せた。同時に、ユニットについている、TVモニタを引き寄せ、電源を入れた。
去年新しく入った、モニタシステムだ。
「じゃ、はい、口開けて」
亮は、立てたままの椅子の背中側に回り込み、背後から理緒の口を開かせた。
「右の・・上から行くとね」
唇の端を斜め上に引っ張り上げ、ハンドカメラを挿入する。
目の前のモニタに、理緒の口腔内が映し出された。
「一番後ろ・・7番と6番の間。」
目で見ても、歯の間に小さく、茶色い点があるのがわかる。
「ここは・・削ってみないとわからないけど、ちょっと進んでるね。次の6番と5番の間はもうちょっとひどい。」
歯の間から黒っぽく、透けたように変色しているのがはっきりとわかる。
「レントゲンで見ても、中でけっこう大きくなってる、その次もちょっと進んだ感じで・・・次からはまあ、軽い虫歯がずっと。」
そう言って見せられる、「軽い」虫歯は、ほとんどわからなかったり、歯のふちが白濁したりしているだけであった。
「前歯はね、もうちょっとわかりやすいかな」
前歯4本の間は、裏側から見ると、接点の中心に茶色い点があり、そこから白濁のような微妙な変色が、同心円状に広がっていた。
ホントに・・前歯が虫歯だ・・・
さっき見た、前歯の治療の様子を思い出し、理緒が眉根を寄せる。
「まあなんとか、オモテに響かずに治せるとは思うけどな」
ちょっと厳しいけど、というようなニュアンスを匂わせた亮の言葉に、理緒の顔は歪んだ。
オネガイ・・・
すがるような目で、亮を見上げる。
そ知らぬふりで、亮はさらに続けた。
「あとはずっと軽いんだけど・・・一番奥、これが今回で一番大きいな」
フロスが切れかかって、今回の大量の虫歯発見のきっかけになったところだ。
歯の間には茶色く穴が開きかけ、さらに、両方の歯に透ける黒ずみがつながっている。
うわ、ホントに虫に食われた感じ・・汚い・・・
理緒は思わず目を背けた。
「で、下の歯は・・」
6番の、唯一の銀歯は、咬合面に裂溝を覆うように、やや後ろよりにはめられている。大きくはないが、目立つ。
「6番と5番の間。ここもちょっと進んでるかな」
5番よりもやや6番が高くなっており、間が小さく茶色い虫歯になっているのが見える。
「もしかすると、この前からの虫歯と近くなりすぎてたら、この6番の銀歯も外して入れなおさないといけないかもしれない。悪くはなってないんだけどね。」
この銀歯が大きくなるの・・理緒はぼんやりと想像した。
「で、4番と5番の間は昼間治しただろ、で、あと反対側の、5番と6番の間。ここは軽いね。」
昼間治した部分が、まったく目立たないことに、理緒はホッとしていた。
「あ、けっこう時間食っちゃった、今はこの右下の5番と6番の間だけ治して終わりにするか」
そして椅子が倒され、2ヶ所目の治療が始まった。
朝と同じように、タービンが小気味良く、理緒の歯の間に食い込んでいく。
チュィイイイイ、チュイ、チュイ、チュイイイイイ、ヒュィイイイイ、チュイ、チュイ、チュイイイイイ
ただ、朝よりも1本分奥の治療であるため、理緒はさらに大きく口を開けねばならなかった。
痛みはないが、削られている時間が長いのと、大口を開けているのとで、喉の奥から時々、うめき声が漏れてしまった。
「んぁ・・んぁぐ・・」
え・・まだ・・まだ終わらないの??
4番5番の間よりも、接触面も大きいせいもあり、切削は朝の倍以上の時間がかかった。
ヒュゥゥゥウウ・・
ようやくタービンの音がやんだとき、理緒は目を伏せて、大きくため息を吐いた。
口をゆすぐと、またもカケラが大量に流れて行き・・スピットンの壁に残った。
私の・・歯が・・
舌で削られた部分を無意識にさぐり、削られた部分の大きさに、またため息が出た。
理緒は、充填されている間、じっと目を閉じたままであった。

「明日は・・俺ちょっと午後から大学だからなあ」
治療を終え、亮が言った。
もしかして、治療、なし?まだ始まったばかりだというのに、理緒はやや期待した。しかし、
「では、私、朝早く参りますから、朝でも?」
和子がすばやく口を出し、朝の6時半から、また軽いところを1ヶ所治療することになった。
歯の治療のために・・苦手な早起き・・・
「で、明後日、ちょっと頑張っていこう・・和子さん、休診日だけどお願い出来る?」
「ええ、もちろん」
いったい、何時間治療されるんだろう・・・理緒は暗い顔で、治療台を立った。
残り、あと14ヶ所。

治療2日目。春休みなのに、朝6時に目覚ましが鳴り、理緒はぼんやりした頭で、今日、何かあったっけ?と考え・・
歯の治療だ。
と思い当たって目が覚めた。はあ・・・
だらだらと着替え、歯も磨くが、昨日やったから、今日はいいかな、と、フロスはさぼる。
6時半きっちりに診察室へ下りて行くと、すでに亮も和子も待っていた。
「今日は・・ここにしよう、右上3番と4番の間。」
治すところはいくらでもあるのだ。理緒は、治すところはどこでも関係ない、といったように頷いた。
早朝の静かな診察室で、ウィーン、という治療台が倒される音が大きく響く。
カチャリ。亮がトレイからミラーを取る音で、治療が始まった。
「あーん」
スコココココ・・・ヒュィイイイイイイイ、チュィイイ・・・
3回目だが、今回は前に近い部分で、振動が顔に響いてきて、違和感が大きい。
唇を上に引っ張られているのも不愉快だった。
ひどい顔になってるんだろうな・・
長く削られるのは既に慣れてきていたが、4番を削り終えたタービンが3番の歯質を削り始めると、
理緒は、振動だけではない何かを感じた。それが痛みだと感じるまでには少々間があったが、
「ぃ・・ぃあ・・・」
という声が思わず出た。
「痛みますか・・すぐ終わりますから我慢してくださーい」
理緒の異変に気付いた和子が、すかさず言う。
実際、その後すぐにタービンは鳴り止み、切削は終わった。が、じーん、という感覚が歯に残っている。
椅子を起こされる間、理緒は思わず唇の上から、3番を押さえた。
「前に近いからちょっと感じただろうけど、そんなに痛くないだろ、まだ小さいやつだし」
口を濯いでいる理緒に亮が言ったが、小さいと言われる割に舌で感じる穴の大きさはかなりのものだった。・・それに絶対痛かった・・
もう一度治療台に体を預け、充填されるときも・・
「んぃっ」
薬や、ぐいぐい詰められるレジンがぴぃぃん、と染みた。
痛い!絶対痛いから!
7時半前、ようやく治療は終わり、理緒は、かすかではあるが初めての治療の痛みに戸惑い、唇の上から3番をさすりながら、家に戻っていった。
あと13ヶ所。

さて、休診日。いつも亮は休診日の前日に医局に行くと、朝まで帰って来ないので、理緒は治療が流れるかと少し期待していたのだが、昨日は日付が変わる前にあっさり戻ってきてしまい、藤井歯科の診察室は、休診日の今日もいつもと同じく、9時に患者の治療が始まった。今日最初の、そして唯一の患者は理緒。
母親には、今朝、「お兄ちゃんに感謝しなさいよ。虫歯が小さいうちに見つけてくれて。治療も集中してやってくれて。せっかくの休みの日まで。」と言われたが、理緒にとってはありがた迷惑もいいところである。家が歯医者じゃなかったら、逃げられるのに・・・
とはいえ、明らかに虫歯がたくさんある自分に分が悪いし、家出するほどでもないし、だいたい、歯の治療が嫌で逃げたというのはあまりにカッコ悪い。そんなわけで、仕方なく治療台に座ったのだった。少なくとも、一部は治して欲しいところもあった。
「さてと、どこから始めるか」
気のせいか若干楽しそうなのが癪に障る。が、昨日の夜から気になっていたところを告げた。
「あの、前歯が・・」

それは昨日の夜。早朝の治療で治した、3番と4番の間がどうなっているか気になって、理緒は洗面所で、鏡に顔を近づけて、いーっ、としてみた。上唇もめくり、じっくり観察する。特に色が変だとかいうこともない。実のところ、どこから詰め物かわからないくらいであった。ふーん、ま、いい仕事してるじゃん。ホッとした理緒の目に、その隣、2番と3番の歯の間のかすかな茶色い点が見えた。
えっ、やだ・・
昨日、モニタで見せられた歯の裏は、たしかに変色が起きていたけど、オモテから見れば綺麗だと思ってたのに・・・
いろいろ顔の角度を変えてみると、茶色い点だけでなく、周囲の変色もなんとなく、見えるような気がした。理緒の鼓動が速くなる。2番と3番の間だけでなくその隣も・・
やだ、やだ、やだっ・・・
自分の、ぴっちり並んだ綺麗な前歯を理緒はひそかに自慢に思っていた。中学生になったころから、同級生たちが銀色の醜い矯正装置を競うようにつけ始めたのを、残酷な気持ちで眺めていたのだった。
「理緒は歯並びも良くていいなあ」「さすが歯医者さんの子」と言われて、「そんな、普通だよー」と返すたびに優越感に浸っていたのに・・・
まあ、こんなにじっくり見られることなんてないしね。そう思うことにした理緒に、友達のさやかから電話がかかってきた。
「理緒、明日、映画行かない?」
思わず、行く行く、と言いそうになったが、明日は一日中、歯の治療の日だった。
「あー、明日はちょっと、家に居なきゃいけないんだよね・・。」
「あ、もしかして、虫歯の治療とか?」
さらっと聞いてきたさやかの言葉に、理緒は思わず聞き返した。
「治療?治療って?私の?」
「うん、だって、理緒の前歯、虫歯っぽいなと思ってたから」
理緒は、電話を落としそうになった。速くなる鼓動を抑えて、平静を装って聞いた。
「えー。前歯?どこ?」
「なんか、いくつか。まさかねー、理緒、歯医者さんの娘だし、光の加減かな、って思ってたんだけど、佳奈と美貴子もそう言ってたからさ。ちょっと、理緒の前歯、虫歯っぽくない!?って。」
う・・そ・・でしょ・・
さやかは歯が弱いほうだし、佳奈も歯並びが悪くて中学の時からずーっと矯正装置をギラギラ付けてるし、美貴子も銀歯が多い。そんな彼女達に自分が虫歯だなんて陰口を叩かれていたなんて、理緒は我慢できなかった。
「やだ、違うよー、仕事の手伝いさせられんの。」
「え?でも、理緒ん家、明日は休みでしょ?」
そうだ、さやかは、藤井歯科の患者だった。ちょこちょこ通っているので、木曜日が休診日だと知っているのだ。
「えっ、あ、あ、うん、休みだから、掃除とかね。」
とっさに、床のワックス掛けしなきゃ、と言っていた母の言葉を思い出して、ごまかす。
「ふーん。そうなの。」
納得したようなしていないようなさやかの口振りに、理緒は嘘をついた。
「最近、ほら、コーヒーにハマッてるから、ちょっと歯にステインがついてるって、お兄ちゃんに言われたんだ。だから、歯のホワイトニングもしてもらうけど。」
「ああ、ステインかあ。でも、ホワイトニングって、やると高いんだよね。いいなあ、やっぱり歯医者の娘。」
全然良くないけどね・・理緒は心でつぶやきながらも、さやかが納得したようだったので、ホッとして電話を切った。

「そうだな、後にして変色が進んじゃっても困るし。一応、オンナノコだからな。」
亮が頷き、休診日の朝の治療は、前歯、昨日の隣の右上2番と3番の間から始めることになった。
「前歯はちょっと響くかもしれないけど・・ま、最初は麻酔なしで行こうか」
昨日の痛みを思い出したが、まあ、あのくらいなら我慢できる。
こく、と理緒は頷いた。
上唇の下に、ロールガーゼがぐいっ、と詰め込まれた。一昨日見た、前歯の治療中の女性の姿が脳裏に浮かぶ。あんな顔してるなんて、やだぁ・・・
しかし、亮はそれをしばらく見て、不満そうにロールガーゼを取り出した。
「もうちょっと視野が欲しいかな」
すると和子が立って、戸棚を開け閉めして戻ってきた。
「これでいいですか、こっちにしますか」
「んー、こっちかな」
頭上で交わされる会話に、なんだろうと思っていた理緒の唇に、
「ちょっと失礼します」
と、ワセリンが塗られた。何!?と思っていると、ぐいっ、とプラスチックのリトラクターがはめられる。
ええーっ。自分が歯茎を剥き出しにした、恥ずかしい顔になっていることがわかった。
「やらっ」
と抗議の声を上げるが、
「何がヤダだよ、これで外出ろってんじゃないだろ」
と相手にもしてもらえず、そのまま治療が始められた。
「はい、最初裏から削ってくから、あーん」
ヒュゥイイイイイイ、ヴィー、ヴィー、チュイン、チュイン、チュイン・・・
昨日よりもさらに、振動が顔に感じられて気持ち悪い。
今日は痛くないかな・・緊張して歯に神経を集中していると・・たしかに、痛みのような感覚がかすかにあった。
気にしないでいれば痛くない・・そう思って、目を開けてみることにした。すると顔の下の方から、飛沫が飛んで来るのが見え、汚いような気がして思わず目をつぶった。
タービンは、3番を削り終え、2番の切削に入った。さらに顔の前から振動・・・さらに、今度はすぐに痛みがやって来た。
「ぃ・・ぃはぁ・・」
「もうすぐですからね・・もうちょっと我慢してくださいね・・」
和子にはげまされたが、痛みはどんどんはっきりと形を取り、鋭くなってきた。
「ぁ、は、ぃはぃ!いはぁっ!」
思わず叫び声を上げる。
「あとちょっとだから、我慢してろ」
と亮に言われ、必死に声を抑える。
「ん・・ぁ・・・ぁ・・」
ヒュゥゥゥゥウ。
実際、すぐに終わったが、握り締めた手の平は汗ばんでいた。
クチュクチュ。いつものように、流れていく歯のカケラに心が痛んだ。さらに、鼻の下を親指の腹でなぞると、歯のカケラがいくつか指に触れた。はああ・・
ショックに浸る間もなく、再び椅子が倒され、表面の処理、レジン、と治療が進められていく。
「んんっ」
歯にレジンが詰め込まれる違和感と、ビィン、とした痛みで思わず声が出る。光照射の終わりを告げる、ピーッ、という高周波音も、微かに響くような気がした。
「一丁あがり、じゃ、次いくか」
息つく暇もなく、亮がさらに隣、右上2番と1番の間の治療を決めた。
「次は・・いや、真ん中の方が痛いかな、次はそうでもないな・・麻酔はいらんな」
ぶつぶつ言う亮を、理緒はリトラクターをはめられたまま、不安そうに見上げた。
「じゃ、はい、あーん」
ミラーとタービンが近付いてきた。5度目の光景だ。理緒はぎゅっと目をつぶり、口を開けた。
ヒュィイイイイイイイ・・・チュイィイイイイイイ、プィン、プィン、プィン・・・
乳歯の時は虫歯が多くて銀歯だらけだったらしい理緒だが、物心ついてからは1回しか歯を削られた経験がなかったのに、一昨日からもう、5度目である。しかも、これからあと、少なくとも11回・・・10年以上守ってきた歯が、たった1年で取り返しのつかないことになってしまった・・・1年前に戻りたい・・・そしたら、ちゃんとフロスも朝晩する・・・でも戻らない・・・考えると泣きそうになってきて、鼻の奥がツンと痛く・・イ・・・イタ・・
「ぃはぁっ!ぃいい」
痛みの中心は、鼻の奥から、前歯に瞬間移動した。さっきよりも、痛い。
「んぁあああ、ぃはぁいぃ」
体中に力が入る。
「少し我慢して・・」
和子がなだめるが、痛みは減らない。
「ぁああんっ、いはぁっ」
さっきの感傷など吹き飛んだ。今はただ、治療が痛かった。
「うっさいって。我慢しろ、もうちょっとだから。」
亮が、少しイラついたような声で言って、さらに削り進める。
「んぁああ、んぁああ、いはぁああっ」
ひときわ強くなった痛みに、閉じた目から涙がにじんだ。足にも力が入る。
「ちょっとは我慢しろって!」
「ぁあああっ」

ヒュゥウウウウウ・・
足をバタバタさせて暴れ出す寸前、ようやくタービンが止まった。
すでに理緒の顔は涙で濡れている。
「えっ、えっ、えぐっ」
思わずしゃくり上げてしまう。
「こんなんで泣くなんて、幼稚園児かお前は・・」
「泣いてないもん」
歯の治療で泣いちゃうなんて・・・恥ずかしさが先に立つ。
でも痛かった・・口をゆすぎ、つい歯の間に穿たれた穴に舌を入れる。すでに習慣のようになっていた。
再び治療台に体を預け、レジンを詰めてもらう。
『ちょっと、理緒の前歯、虫歯っぽくない!?って。』
と言ったさやかの、少し弾んだ声を思い出し、理緒は、充填剤の痛みをぐっと我慢した。

「あと1時間やったら、まあ昼休みかな」
時計を見ると、10時45分過ぎである。2時間近くかかってるんだ・・でもまだ午前中も終わってない・・何時間やるつもりなんだろ。
理緒は、カルテに書き込んでいる亮の横顔を見ながら思った。
「今度は、真ん中を・・じゃ、最初から麻酔するか。さっきのでも、ギャーギャーうるさかったからな」
「今度の方が・・ひどいの?」
おそるおそる尋ねる。
「歯が薄いから響きやすいな。実際少し大きそうだけど・・まあ神経までは行ってない。」
和子が麻酔を準備し終わったので、治療が再開された。
「麻酔もちょっと痛いけど、我慢しろよ」
心の準備をする暇もなく、亮は理緒の上唇をめくり、歯茎に針を刺した。
「うっ!!」
思っていたより痛く、さらに、薬液が注入される鈍い痛み・・
「ん・・んぐ・・」
針が抜かれ、ホッとしたのもつかの間、
「次は裏から行くぞ」
と口を開かされ、上あごに針を刺される。
「ぁが・・ぁ・・ぁあが・・」
なんとも言えない不快感に、思わず声が出てしまう。
「だから静かにしろって」
亮は言いながら、理緒の上の歯を押さえてさらに口を開かせ、もう1本、裏側から追加した。
上あごが膨れ上がってしまったような感覚がある。
「効いて来るまでちょっと待・・・ってる間に、他やるか?あと11ヶ所もあるわけだし」
そう言われたが、理緒はさっき泣き喚いたことで思いのほか疲れていた。ううん、と首を振る。
「ま、嫌ならいいけど。」
亮はあっさり引き下がって、カルテの虫歯を数え始めた。
「今日、あといくつ行けるかなあ、午前中はたぶんこの真ん中で終わりだろ、午後、あと前歯の2ヶ所やって・・せっかくまとまった時間だから、そろそろ進んだところも手付けないとな、下行こうか。で、春休みは・・あと何日?」
聞かれて、理緒は思い出した。明後日から学校だ!
「金曜日・・明日まで。」
「明日まで!?じゃ、絶対間に合わんな、ま、いいけど。学校が始まったら、まあ、夜だけしか治せないからちょっとペースが落ちるな。」
そうこう言っているうちに、
「ま、そろそろ効いて来ただろ。やるぞ」
また、屈辱的なリトラクターをはめられ、治療が始まった。
ヒュィイイイイイ・・・
麻酔が効いているせいか、さっきからよりも、不快感はずっと少ない。しぶきが顔にかかるのは気になったが、痛みがないのは楽だ。
チュイン、チュイン、チュチュチュィィィィイイイ・・・
タービンは高らかに音を立てて、歯を削りこんでいく。
まだ終わらないの・・・?
痛みがないのでおとなしく口を開けていたが、理緒は削る時間の長さに不安になり始めた。
意外と大きいぞ・・・神経までは行ってないはずだが・・・
亮も、レントゲンを頭に浮かべて削り進めながら、やや手が疲れてきた。
ヒュゥゥウウ・・
「一度口ゆすいで」
亮は削るのを止めた。
理緒は、ようやくタービンが止まって、ようやくホッとした。
またゆすいだ後で歯の間に舌を入れ、その大きさにまたショックを受けつつ、
でも・・舌で感じるほうが実際より大きい、のよね・・・そう思って自分を慰める。
「じゃ、もうちょっと削るから」
えっ・・まだ!?
すでに、二本の歯の間は完全に離れていた。が、歯の裏側にまだ虫歯が残っているのだ。
理緒は、鼓動を抑えながら、黙って目をつぶり、口を開けた。
ヒュィイイイイイ・・・
タービンが歯の裏側から虫歯を削って行く。
「ぁ・・ぁあ・・・」
タービンの先が歯髄に近くなり、理緒はまた、痛みを感じ始めた。
なんで・・麻酔したのに・・痛いわけ!?
「んぁ・・ぁあああっ、ぁあっ」
チュイィイイイイイ
「あっ、・・ぃぁあっ」
チュ、チュィイイイイイ・・・ヒュゥウウウウ。
ようやく、本当に切削が終わった。理緒の目にはまた涙がにじんでいる。
クチュクチュ・・ィタタッ・・・
水が、削ったところに染みた。さらに、麻酔のせいか、水が口からこぼれる。
口をゆすぎ終わった理緒に、亮が手鏡を渡した。
「ここ・・思ったより虫歯が大きかったんで」
理緒は、鏡に映る自慢の・・いや、一昨日まで自慢だった・・前歯が歯の間から4分の1くらい削られてなくなっている様子に、手が震えるほどショックを受けた。
「同じようにレジンで埋めるけど、その部分は弱くなるってことだから気を付けろよ。硬いもの噛んだりするなよ。」
理緒は呆然としたまま、上の空で頷き、充填されている間もさっきの歯の間がぽっかり開いた前歯が頭から離れなかった。
「さて、午前中はここまでにするか」
欠損が大きかったので、それぞれ2度に分けて4回光照射をして、ようやく、治療が終わった。
和子が、まだショックを引き摺っている様子の理緒に、手鏡を渡す。
おそるおそる唇を開いた理緒は・・そこに、元通りの前歯を見つけて、ようやくホッとした顔になった。

その日の午後。理緒はまず、左上の1・2番、2・3番の治療を受けた。朝と同じように、麻酔はせずに治療したため、
理緒はまた泣いてしまった。前歯を全部虫歯にした挙句、治療が痛くて泣いてしまうなんて。
プライドの高い理緒には、耐え難い屈辱だった。
「次は・・どこにするかな。下にしようかな、この、5番と6番の間。」
手鏡を持たされ、口を開けると、左下6番の後ろ半分に、10年前にはめられた銀歯が黒く存在を主張していた。これまでは、唯一の虫歯だったところだ。すでに10年前の輝きはなく、黒ずんでいる。
「虫歯は5番との間からだけど・・・たぶん、この銀歯も外して、一つの大きい銀歯にすることになるだろうな」
「この・・あえの歯は?」
「5番もたぶんインレーだな、でも、どっちも神経は取らなくていいと思うから。ま、6番は見てみないとわからないけど。」
理緒にとっては、神経云々よりも、いま、6番の後ろ半分だけに入っている銀歯が2本分に増えることの方が問題だった。
目立つだろうな・・・でも。美貴子の銀歯だらけの口に比べたら。理緒はそう思って気分を慰めた。
「じゃ、始めるよ」
今日、6ヶ所目の治療が始まった。
「あーん」
チュイン、チュチュチュィィィィイイイ・・・
先に、5番から削り始める。
レントゲンで見たところでは、隣接面の中心あたりから齲蝕だったな・・そう思いながら、表面の健全な歯質にバーの先端を食い込ませる。さすがに健全な歯質は硬く、悲鳴を上げて抵抗したが・・タービンの前にはひとたまりもなく、やがて、すぐに手ごたえが軽くなった。
チュチュ、チュチュチュィィィィイイイ・・・チュィィィィイイイ・・・
これはけっこう広がってるかな・・・そのまま、内部の虫歯を覆っている咬合面を削り取るようにタービンを進めていく。
「ん・・ぁ・・・あ・・・」
理緒の顎に力が入り始めた。痛みが出てきたらしい。
「理緒ちゃーん、頑張ってねー」
「ぁ・・・ぁあぅ・・・」
中を開けてみると、虫歯は6番との隣接面から、歯の中心付近まで広がっていた。
次に、虫歯の内側から外へ向けて削っていく。
痛みからは解放されて、理緒はおとなしくなり、顎の緊張も取れたが、今度は、なかなか終わらないタービンの音に、時々目を開けて不安そうにきょろきょろした。
なんで・・まだ?まだ削るの?そんなに削られたら、歯がなくなっちゃう・・もうやめて・・やめて・・
そんな理緒の願いもむなしく、茶色く侵された虫歯の部分はなかなか終わらず、
結局、5番は、後ろ半分がほぼ無い状態まで削り込まれた。
ヒュゥウウ・・
ようやくタービンが止まった。理緒はホッとした表情を浮かべるが・・治療台が起こされないどころか、和子もバキュームやスリーウェイシリンジを抜いてくれない。不安げな目で兄を見ると、タービンの先を付け替えていた。
えっ・・まだ・・?
亮は、バーを交換し終わると、理緒には何も言わず、再び、タービンを理緒の口腔内に突っ込み、回転させた。
ビュゥウウウウウ
虫歯の底にあたる部分を、綺麗に除去していく。当然・・・
「ぁ・・ぁはっ、ぁはっ、ぁはぁああっ・・・」
再び強い痛みが襲ってきた。前歯のときとは違う、顎に食い込むような痛みだ。
「こら、口閉じるな!ちょっと我慢しろ!」
「ぁ・・ぁぁああああがぁあああ」
亮は、理緒を叱り飛ばしながら、慎重に削っていた。できれば抜髄やら根治はしたくない・・・
理緒や歯のため、ではなく、面倒だからであるが・・・
仕事ならきちんとやるが、歯の清掃を手抜きして馬鹿みたいに虫歯を作った妹のためにあの面倒な作業をするのは割に合わない。
「んぁはああっ、はっ・・」
「虫歯作ったのは自分だろ、少しは我慢できないのかっ」
「んんっ、んはっ・・」
亮に痛いところを突かれ、理緒は痛みと後悔で一気に涙を溢れさせながら、耐えた。
ヒュゥゥゥウウウ・・・・
今度こそ、ようやく切削が終わった。
クチュクチュ・・・
口をゆすぎ、歯が後ろ半分なくなっていることに気付いた。
ちょっと進んでるって・・やっぱりこんなに削られちゃった・・・ちょっとフロスさぼってただけなのに・・・
またもや涙が出てくる。

「ほら、もう1本行くぞ」
まだ5番だけだったのだ。時計を見ると、すでに4時を回っていた。
ああ、一日中歯の治療・・・
麻酔して欲しい、と言うつもりだったのに、そのことを思い出したのは、椅子が倒され、口の中がすでに器具でいっぱいになってからであった。そして・・・
6番は、5番との隣接面からの虫歯が、5番と同じように中で広がっており、もともと入れてあるインレーの周囲まで回り込んでいた。
当然、インレーは外され、理緒はまた、
「ぃだぁああああ、あはっ、はぁっ、はぁああっ」
と泣き声を上げながら、齲蝕部分をじっくりと削られた。
「じゃあ、型取りましょうね」
まず、シリンジで温かい印象材を歯にかけられたあと・・・印象トレーを噛まされる。
「ま、今日はこれで終わりにするか・・ここの銀歯は、うまく行けば明後日出来上がってるかなあ」
5番は、後ろ半分を・・側面も・・歯肉辺縁まで覆うインレーが、6番は上部をすべて覆うアンレーが入るはずだ。
型取りが終わり、白い仮封をしてもらってから、和子が手鏡を差し出したが、断った。
明日の金曜日は、また昼休みと夕方に治療することに決め、長い、痛い、辛い1日が終わった。
「あ、左で噛むなよ」
後ろからの亮の声を聞きながら、自宅への階段を駆け上がった理緒は、洗面所に行くと、鏡の前で口を開けた。
不自然に白い仮封が、左下の奥歯で存在を主張している。
唇を左下に引っ張り、鏡に顔を近付け、やや顎を上げて・・大きく削られていることに・・5番は歯の側面が後ろ半分喪われていることに、理緒はまた涙をにじませた。
涙を拭き、リビングに行くと、父親が、
「どうなった。見せてみろ」
と言って、理緒に近付いてきた。口を開けさせられ、上を向かされる。
親指を口の中に突っ込まれ、ぐいっ、と唇を左下に下げられた。休日にだけタバコを吸う、父親の手は臭かった。
「ふ・・む・・・ずいぶん派手に虫歯にしたな」
それだけ言って、父親はまた、読んでいた新聞のところに戻って行った。

翌日、金曜日。昼休みに3番と4番の間、夕方に4番・5番の間から2本と5・6番の間から5番の軽い虫歯をレジンで治療した。
「これで、まあ・・軽い虫歯は全部済んだかな」
つまり、11ヶ所治療したということだった。本数で言うと、13本。
・・13本!?
理緒は、親不知は生えていないので、歯は全部で28本だ。左下6番も入れると半分が処置歯になってしまったのだ・・・ショックで、理緒は春休み最後の夜を眠れずに過ごした。

土曜日。新学期が始まった。
始業式と連絡事項だけで終わったその日の放課後。今年は隣のクラスになったさやかが、わざわざやって来て、
「ね、ね、ホワイトニングどうだった?」
と聞いてきた。
「えっ・・あ、ああ、自分ではあんまりよくわかんないんだけど」
とあいまいに答えると、集まってきた佳奈と美貴子に、
「え、ホワイトニングしたの?見せてー」
と言われ、仕方なく、いーっ、としてみせる。一応、虫歯は治したんだもの。変色はもうないはず。
「あー、綺麗になった!」
「理緒、歯医者の娘なのに、まさか前歯虫歯にしちゃった!?って、話題になってたんだよー」
「そっか、ステインかぁ・・そうだよね、そんな大事なとこ虫歯にするわけないもんね、私だって奥歯はギンギンだけど、前歯は大事にしてるもん」
「私もー」
口々に言われ、他の皆が前歯は健全歯だということに、心の中で激しくショックを受けながらも、
「やだ、まさかー」
と笑って、理緒は、その話の輪から抜けて、帰宅した。皆は駅前に新しくできた店のアイスパフェを食べに行くらしい。今日は、一昨日型を取った、左下の銀歯が入るかもしれないのだ。銀歯が増えるのは嫌だったが、かなり大きく削られた仮封の状態で過ごすのも落ち着かない。まして、アイスを食べに行く気にはならないのだった。

そんなわけで、理緒は、さやか、佳奈、美貴子が、アイスを食べながら、
「でも、理緒、少なくとも奥歯治してるよ!?前は下に銀歯あったよね、あそこが白かったもん」
「あれかなあ、白い詰め物とかに治すのかなあ。」
「いいなあ、歯医者は。高いんでしょ、それ。」
笑ったときに見えた、理緒の左下の白い仮封を話題にしているとは、知る由もなかった。
さらに、さやかが、パフェにのっていたキャラメルパイを食べて、
「あぁっ!銀歯取れたぁっ!」
と騒いでいたことも・・・

夕方。土曜日の診察時間は、平日よりやや短く、4時までだ。
理緒が部屋でダラダラしていると、母親が呼びに来た。
「理緒ちゃん、お兄ちゃんがそろそろ降りてきてって。銀歯できてるんですって。」
治療は嫌だが、仮封からは解放されたかった。理緒は、素直に診察室に下りた。
亮は、最後の患者の治療を終えたところらしく、手を洗っていた。父親はまだ、入り口に近いところで治療を・・・えっ!?
父親が治療している患者は、さやかだった。
銀歯が取れたさやかは、その歯が痛み出したので、駆け込んで来て、なんとか診察時間に間に合ったのだった。
見つかりませんように・・・理緒は、そぉっと、一番奥の治療台に座った。さやかがそのまま帰れば、気付かれないはず。
そこへ、和子が、理緒の新しい銀歯を装着した模型を持って来た。
「はい、今日はこの間削ったところに新しい銀歯をはめるわね・・理緒ちゃん。」
ちょっと!
理緒は、とっさに、さやかの治療台の様子を伺った。タイミング悪く、タービンは稼動していなかった。
絶対聞こえた・・・理緒は顔がこわばるのを感じた。しかしそれだけではなかった。
「あとは・・右奥の治療に入りましょうって。どこかしら、ちょっと痛いかもしれないけれど・・大丈夫、一昨日の前歯ほどじゃないわ。」
和子は、ペラペラと、理緒が虫歯があること、さらに、前歯の治療をしたことをバラしてしまった。
通常なら、別にかまわないのだが、今日は、診察室にさやか・・理緒が虫歯の治療中であることを知られたくない相手がいるのだ。
サ、イ、ア、ク・・
理緒は、頭から血の気が引いていった。
もちろん、さやかは、その言葉を聞いていた。この藤井歯科で、リオちゃん、と呼ばれ、診察時間が終わってから治療を受けるなんて、理緒以外にいない。さやかは特に理緒にライバル心があるわけでもないが、単なる野次馬根性というか、人の不幸は深刻じゃなければ楽しいというか・・白い歯が綺麗だった理緒が虫歯になった、ということを面白がっていた。
へぇ・・理緒ったら。聞こえちゃった。左下の奥歯、白くするんじゃなくて、銀歯新しくするんだ・・もしかして、虫歯が大きくなっちゃったのかな?・・他にもいくつか虫歯があるっぽいし。しかも、やっぱり前歯虫歯だったんじゃん!一昨日も、手伝いじゃなくて治療されてたんだ!隠してるなんてやっぱりカッコ悪いと思ってるのかなあ。あとで佳奈と美貴子にもメールしよっと。
理緒は、さやかと顔を合わせたくなくて、亮に、小さく
「トイレ」
とだけ言うと、自宅への階段を上っていった。

理緒は、一応本当にトイレに行き、手を洗いながら、治療の前に鏡の前でもう一度、口を開けてみた。不自然に白い仮封は、意外と大きい。ここが銀になったら・・・と想像する。でも、そんなに大きい口を開けなければ平気かな。うん、見えない見えない。そのとき、下の医院で、チリーン、とドアが開いて、さやかが出て行ったような音がしたので、理緒は再び、診察室へ降りていった。
案の定、診察室では父親が治療を終えて手を洗っており、理緒はホッとして、亮の待つ治療台に座った。
「トイレぐらい先に行っとけよ」
「だって、思ったより呼ばれるの早かったんだもん」
亮は、理緒がさやかを見て逃げたとは思っていないらしい。オトコって、そういうとこ鈍感よね・・・理緒は思った。
「じゃ、まず・・左下はめるか」
理緒の新しい銀歯がセットされた模型を取り上げ、眺めながら亮が言った。白い模型の上に載った銀歯は、ギラギラと良く光ったが、それほど大きいようには見えず、理緒はちょっと安心しながら、倒される椅子の背に体をあずけた。
「はい、あーん」
先の細いピンセットと探針を使って、仮封が外される。
「んんんっ」
少しもぞもぞするような不快感に、理緒は思わず声を上げた。
「うっさいな、別に痛いことしてないだろ」
微妙に機嫌が悪そうだ。理緒はあわてて、こくこく、と頷く。
亮がスリーウェイシリンジを取ると、すかさず横から和子がバキュームを入れる。スココココオ・・・
シュッ、シュッ、というエアーの後に、水が掛けられた。
「っ※★!」
どちらの歯かわからないが、その水がビィイイイン、と染みた。しかし声を上げたら怒られる、と思い、必死に声を抑える。
再びエアーが掛けられた後、亮がインレーを理緒の歯に入れた。
「特に問題はないか?」
一瞬、インレーの冷たさをキーンと感じた気がしたが、一、二度軽く噛み合わせ、理緒はふるふる、と首を振った。
「じゃ、はめるぞ」
インレーを取り出し、セメントをつけ、まず5番から・・・
亮は、インレーを理緒の歯に載せ、人差し指でギュッと押さえた。
「あが」
思ったより強い力で押され、声を出してしまった。ビクッ、として亮を見上げたが、何も聞こえなかったかのように、亮はまた6番のアンレーを手に取っていた。
セメントをつけ、6番に載せ・・た瞬間、痛みが走った。さらにぐぐっとアンレーを押し込まれ、痛みはギリギリと下顎全体に響いた。
「ん、ぁがあひっ」
思わず叫ぶ理緒を冷めた目で見ながら、亮が静かに言った。
「痛いか?かなり大きかったからな・・一応ギリギリのところで神経残してあるけど、もし痛みがひどくなるようなら抜髄しないと。」
実は6番は、大きく削っているうちに、ほんの少し露髄してしまったのだが、見たところ綺麗なピンク色だったし、覆髄して様子を見ることにしたのであった。
「しばらくしっかり噛んでてくださいね」
和子が、ガーゼを噛ませてくれる。
うっ・・・痛いんだけど・・・
理緒は顔をしかめながら、じわーっと力を入れる。大丈夫・・ゆっくり噛めば・・・たぶん・・・うっ・・・んー・・・大丈夫・・
なんとか痛みをこらえながら、ガーゼを噛み締めた。
しばらくして、亮がガーゼを外しに来た。
「じゃ、調整するから軽く噛んで」
咬合紙が差し込まれ、理緒は、おそるおそる、噛む。
「それじゃダメだよ、カチカチ、って噛んで」
意を決して、やや勢いをつけて、カチッ、と噛む・・・
「いっ!」
ジィィィイン、と、痛みが広がる。
「ほら、カチカチ。」
言われて、カチカチと噛み合わせたが、その度に、6番が響く。
「つっ!」
「ああ、ちょっと当たってるな、ちょっと削ろう」
ヒュィィイイ・・・
何度か調整して、ようやく当たらなくなった。
「痛いのは・・そうだな、2,3日したら、どっちかわかるな、痛みが軽くなって行くか、酷くなっていくか。」
軽くなるといいけど・・・ちょっと強く噛み締めると痛みが走ることに不安を覚えながら、理緒は亮の言葉に上の空で頷いていた。
「あ、意外と時間食ったな・・ま、今日はもうちょっと時間があるから、右奥行くか」
理緒の口を開かせ、ミラーで眺めながら、亮が言う。
「そうだな、一番軽そうな4番で。ここは後ろのほうにインレー入れればいいから」
あ・・1本ずつ治すんだ・・・削る量多いからその方がいいかな・・・口を開けたまま考えていると、
スココココ・・・
いきなり、左からバキュームが突っ込まれた。さらに右からタービンも突っ込まれ、前触れなしに治療が始まった。
ヒュィイイイイ
あまりにたくさん治したので、もう、削られるのが悲しいとか、そういう感覚は麻痺してきた。単にボーっと口を開けて、治療が終わるのをただ待つだけである。口の中が器具でいっぱいで、やや息苦しいが・・・
はぁぁ、あと、10秒くらいで終わらないかな・・・いぃち、にぃ、さん・・・・・きゅぅう、じゅう・・・
10秒たったが、削り終わるどころか、痛みが強くなってきた。
「ん・・・んぁがぁぁ」
チュインチュイン、チュィイイイ・・・・
「んっ、んっ、んぁああっ」
も、もうダメ・・・我慢できない・・・と思ったとき、
ヒュゥウウウウ・・・
と、タービンが止まった。
「さ、ゆすいで」
クチュクチュ・・・・
型を取り、薬を付けられ、仮封をされて、今日の治療は終わった。
自宅への階段を上がり・・・銀歯が気になっていたので・・・洗面所に入って、鏡の前で、あーっ、と口を開けた。
えっ、やだ・・。
左下に入れられた銀歯は、さきほど模型の上に置かれていたときとは比べ物にならないほどの存在感を放っていた。
口を小さめに開けても真っ黒い何かが見えるし・・少し大きく開けると、ギラリと光る。いーっ、とやって見ても、外側に大きく銀がはみ出しているので、目立つのだ。
がぁぁぁん。
しかし、「金艮バすごイデカイんですケド(T^T)」と、さやかにメールするわけにもいかない・・・
今日治したとこは・・ここもけっこう大きく削られてる?でも大丈夫かな・・・
理緒は、30分経って食事ができるようになるまで、1人部屋で落ち込んでいたのだった。

さて、夕飯。
「お兄ちゃんに言われたから、やわらかいもの作ったわよ」
と、理緒の前には豆腐に茶碗蒸し、おかゆ、野菜の煮物が並んでいた。なんかお婆さんみたい・・・
しかも、他の家族には理緒の好物、アスパラベーコンもあった。
「そんなーずるいよー」
「別に食べてもいいわよ」
「でも右では噛むなよ」
「やったー!」
早速一切れつまんで・・・おっと、右はダメなんだっけ、パクッ。
左で歯ごたえのあるアスパラを噛んだ瞬間・・・
「いだっ!」
理緒は箸を取り落とし、両手で左頬をおさえた。今日銀歯を入れたばかりの6番にビィイイン、と響いたのである。
「もう、騒がしい子ねえ」
「どうした」
「覆髄したんですけど」
「ああ、そうか」
いつまでも痛みが引かない左頬を押さえながら、理緒は涙目になっていた。

翌日、日曜になっても、左下の痛みは引かず、さらに強くなっているような気さえするほどだ。
夕方になっても頬を押さえたままの理緒を見て、父親と亮は、抜髄だな、と診断を下したのだった。
亮が階段のところで呼んだ。
「理緒、ちょっと来い。神経抜くから」
「ええっ、それって痛いんじゃ・・」
「今でも十分痛いんだろ、昨日より痛いなら抜かないとダメだ」
「そ、そうだけど・・」
結局、この痛みが軽くなるなら、と、理緒は亮について、診察室へと降りて行った。
「お兄ちゃん1人?」
「お袋呼んでくるか?」
母親は、今は老眼だと言って引退したが、元は衛生士であった。
「・・それもイヤかな」
というわけで、2人きりで理緒の左下6番の根管治療が始められることになった。
「麻酔するぞ」
いきなり治療台が倒され、歯列の内側に2回、ミラーで唇を思い切り開かれ、頬側に2回ほど針を刺された。
麻酔が完全に効くのを待たずに、6番のアンレーが外される。
ヒュィイイイイイイ、ヒュイン、ヒュイン、ヒュィイイイイン・・・
タービンの振動が伝わって、顎全体に鈍い痛みが広がる。
ああ・・これで・・6日連続で・・この治療台の上で口開けてるんだ・・・
胸の上で組んだ両手を、ぎゅっと握り締める。と、1週間前の日曜、左手の小指と薬指の爪にネイルアートしたラインストーンに右手が触れた。まだ取れてないんだ・・・
他は全部1週間前と・・同じなのに・・私の口の中だけ・・歯だけ・・・こんなことになっちゃうなんて・・・
涙がぽろり、と零れ落ち、ほぼ同時に、6番のアンレーも、理緒の歯から外された。
「じゃ、口ゆすいで」
その間に、タービンとは別のハンドピースを手に取り、亮は何かセットしている。
ふたたび理緒が治療台に体をあずけ、椅子が倒されると、
小さい液晶モニタも取り出し・・理緒の口に引っ掛けたバキュームにクリップを挟み・・
「じゃあ、当然ちょっと痛いけど、我慢しろよ、動いたら危ないからな」
理緒は、亮にしっかりと顎を押さえつけられ、気が遠くなるほど痛い、根管治療を受けたのであった。
藤井歯科で去年導入した新しい治療台についている、自動式の根管治療ユニット。
「あ、ぁだああああ」
理緒が泣き叫ぼうが、手加減されることなく、ファイルが根管の先端まで挿入され、また戻り・・・
ゴシゴシ、ゴリゴリと理緒の根管は順調に拡大されていった。当然、理緒の泣き声も・・・
「ぁああ、ぁはあ、あああっはあぁああ」

「こんなとこかな」
しばらく経って、ようやく根管形成が終わった。薬液に浸した綿を詰められ、仮封がされる。
「右も左も仮封だから、気を付けろよ」
「ん・・」
涙を長袖Tシャツの袖でぬぐい、よろよろと治療台から降り・・かけて、理緒はふと尋ねた。
「ここ・・どうなるの」
「ん?ああ、神経抜くと弱くなるから・・特に奥は強い力がかかるからな、土台を立てて、歯を被せる。」
「ふーん・・・」
「ま、さっきまで入ってたのもほとんど被ってたし、まあ似たようなものだ」
「そっか・・」
治療でボーっとした頭でよく理解できず、納得してしまったが・・・
5日後、左下6番に立てられた銀のコアに、理緒は衝撃を隠せなかった。歯はほとんどなく、歯茎から金属の棒が飛び出しているような状態だ。
「な、何これ!」
「土台だよ。これに歯を被せる。」
「じゃ・・左上もこうなるの?」
2日前から、左上の6番の治療も始めていたが・・内部で大きく広がっていて、根管治療を始めたところであった。
「まあ同じだな」
銀歯になることよりも・・歯がほとんどなく、金属の棒がまるで墓標のように歯茎から立っているその図に、理緒はショックを受けたのだった。まあ、歯が亡くなっちゃった、みたいなものなんだけど・・・

3週間後。理緒はようやくすべての歯の治療が終わった。
これでようやく治療から解放される・・・とホッとしたが、口の中を見ると、理緒はひどく落ち込むのだった。絶対誰にも見せられない・・
まず、右上。7番は前半分を大きく覆うインレー。6番はクラウン、5番は前後を貫通した大きなインレー。4番も後ろ半分を全て覆うようなインレーで、普通ににっこり笑っただけで、横から見えてしまうのだった。一応、そこからほとんどの歯の間はレジンで・・なかなか上手に治療され、健全歯と見分けがつかないほどだったが・・左上も6番と7番は連続してクラウンが装着されていた。
右下はなんとかレジンで白いままだが・・・左下は5番の後ろ半分に大きなインレー、6番にはクラウンが入っている。

治療を終えた翌日、佳奈が理緒の教室にやって来た。
「写真、プリントアウトしてきたよー。はい、理緒の分。」
それは、春休みに入ってすぐ、皆でディズニーシーに行ったときの写真だった。
理緒はどの写真でも、にっこりと満面の笑顔を見せていた。今、こんな顔したら・・・銀歯が見えちゃう・・・もう、こんな風には笑えない・・・落ち込みながら、最後の写真を見ると、そこには、上を向いて大口を開けて笑っている理緒。・・ああ、絶対無理。
暗い気持ちで写真を眺めていると、肩の後ろから、弥生が写真を覗き込んでいた。
「あー、いいなー、シー行ったんだ。しかも泊まりじゃん?」
「ん・・佳奈のお父さんがチケット持ってて、うちのパパがホテルの券くれて・・」
「へー、やっぱりいいなあ。・・あれっ?」
弥生が写真を手に取り、突然、驚きの声を上げる。
「これ、いつ?歯、白いじゃん。理緒・・今、もっと銀歯多いよね?」
き、気付かれてた・・・理緒は思わず、弥生の手からから奪い返すように写真を取り、封筒にしまった。

家に帰り、鏡の前で写真と同じアングルで口を開けてみると・・・銀歯が燦然と輝いているのがわかった。絶対人には見えないようにしよう・・
と、そこで理緒は、突然、10日後に、歯科検診があるということを思い出したのだった・・・

歯科検診の日。去年までは、なんとも思った事が無かったが・・・
理緒の学校では、歯科検診は大きな会議室を使い、歯科医が2名で行われる。
今年の歯科医は、若い男性と女医であった。理緒のクラス、2年B組が入っていくと、短いほうの列、男性歯科医の前に並ばされた。
はー、憂鬱。
虫歯が見つかったらどうしよう、という、他のクラスメイトたちの不安とは違うが、
人の前で大口を開けなければいけない、ということを考えただけで気が滅入る。
しかも、検診してる先生だけじゃなくて、記録の保健委員からも絶対見えてるし・・・
理緒は、列の先頭を見ながら、お腹が痛くならないかなー、などと、小学生のようなことを考えていたのだった。
「じゃ、保健委員交代してくださいね、えっと・・次の担当は2年A組の保健委員さんね。」
養護教師が言い、記録係をしていた1年生が2年A組の保健委員と交代した。理緒の前の歯科医のところは・・・さやか!?
理緒は本当に逃げ出そうと思ったが、さやかは記録に一生懸命で、口の中を見る余裕はなさそうだ、と考えることにした。
担当の歯科医は、あまりやる気がないらしく、わりとスムーズに列が進んでいき、理緒の番になった。
「38番、藤井理緒です。よろしくお願いします。」
「はい。あれ、もしかして、藤井亮の妹さんかな?俺、同期なんだよ。」
やだ・・・さらっと済ませて欲しかったのに。
「あ・・そうです・・・」
もそもそと返事をする。
「じゃ、ま、心配ないかな。」
歯科医は、健康診断票を覗き込み、昨年の検診でも特に問題が無いのをちらっと確認して、言った。
「はい、あーん、右う・・」
始めに見る右上奥を見た瞬間、ギラリと光る銀歯の列が目に入った。全て銀歯だ。しかも、クラウンまである。
「ん・・あれ?」
歯科医は、見間違いかと、理緒の口を開けさせたまま、去年の検診結果をもう一度覗き込んだ。
手持ち無沙汰なさやかは、当然、見るともなしに・・理緒の口の中を見た。
理緒、どうしちゃったの?マジでギラギラじゃん!右上の奥歯は全部大きな銀歯・・さやかにもまだない、全体が銀歯になった歯もある・・左上の奥は・・奥二本だけだが、両方とも、全体が銀で覆われた大きな銀歯である。
「これ・・全部、一年でこんなになっちゃったわけ?」
歯科医が、ミラーを抜いて理緒に尋ねる。
「・・はい。」
理緒は不機嫌そうな声で答えながら、いいから早く終わらせてよ!治してない虫歯はないでしょ!と思って、歯科医を睨む。
その理緒の目を見てムッとしたのか、歯科医はさらに続けた。
「うーん、こりゃひどいなあ・・一気にこんなに虫歯にするなんて。」
後ろに並ぶ他の生徒が少し、ざわざわ、としたような気がして、理緒は気が気でない。しかし、まだ終わらなかった。
「でも、藤井も、若い女の子なんだから、もっと気にしてあげたらいいのに。こんなに銀歯だらけになったら、ショックでしょ?可哀相だよな・・それとも、そんなにひどい虫歯作ったのかなあ?」
うるさい、早くしろデブ。理緒は口をつぐんで、さらに歯科医を睨んだ。
明らかに、後ろの生徒はこの会話に反応している。ひそひそ話す声が聞こえる。
「え・・理緒、銀歯だらけなの??」
「そりゃヤバイっしょ・・」
「私だったらそんなの生きていけないかもー、アハハ」
「しっ、聞こえるって。」
十分聞こえていた理緒は、恥ずかしさで頭がくらくらした。

「あのー、先生のおっしゃることが聞こえないので静かにしてもらえますか」
もう1人の歯科医のところで記録していた保健委員が声を上げた。
それをきっかけに、理緒の検診が再開された。
「ま、いいけどね。じゃ、行きます。右上、7番○、6番○、5番○、4番○、3番から左上5番まで・・・あれ、ちょっと待って」
小さいレジンは見つからなかった!と思った瞬間、歯科医は手を止めた。横に置いてある、高輝度LEDのペンライトを付けると、理緒の歯をじっくり照らす。さっきまでのやる気のなさが嘘のようである。
「もしかして、この辺の歯も、虫歯になって、レジンで治療してあるのかなあ?」
理緒はその問いかけを無視した。すると、歯科医は、ペンライトを置き、トレイに一応並べてある、最近の歯科検診ではめったに使わない探針を取ると、前歯の間付近を、裏側から、カリカリ、カリカリ、と引っかき始めた。
「あー、やっぱりそうだね・・藤井はレジンの色合わせが上手いんだよね・・さすがだね・・ああ、こっちもだね・・もしかして、ほとんど全部の歯、虫歯にしちゃったのかなあ?」
さっき、3番から・・と言われたので、そこに横に一直線を引きかけていたさやかは、どうしていいかわからず、とりあえず消しゴムで横線を消した。
その様子を視界の端に見た理緒は、口を開けたまま、顔を真っ赤にした。
そんな理緒と、薄笑いを浮かべたような歯科医を見たさやかは、さすがに我慢できなくなり、
「あの・・先に進んでもらえますか。治療が必要な虫歯じゃないなら、別にどっちでもいいんじゃないですか」
と言ってしまった。歯科医はムッとして、今度はさやかを睨んだが、養護教諭にも、
「そうですね・・あともう1学年ありますので」
と言われ、仕方なく、先に進めた。
「じゃあどっちでもいいなら、上の歯、左上の7番まで全部○。」
さやかは、何コイツ!?と歯科医を見たが、歯科医が手元をじっと見ているので、仕方なく、言われたとおり、上の歯に全部○をつけた。
それを見て、歯科医は満足そうに、理緒の口腔内に視線を戻した。
「次、左下、7番斜線、6番○、5番○・・また目立つところをこんな大きい銀歯にしちゃったんだねえ。次、4番から・・右下7番まで斜線です。以上。」
ようやく屈辱的な検診が終わり、理緒は黙って椅子を立つと、逃げるように会議室を出た。
何アイツ。理緒は腹を立てながらも、他の生徒達の前で、銀歯だらけなどと言われたことがショックで、教室に戻る前に、トイレに入った瞬間、涙が溢れ出た。ああ、なんで・・・なんでこんなに虫歯にしちゃったんだろう。これからはフロスも絶対サボらない・・・

放課後。さやかが理緒のところにやって来た。
「今日、私、治療の日なんだ。このまま行くとちょっと早いんだけどね・・一緒に帰ってもいい?」
「あ、うん。私の部屋で待ってればいいよ。」
さやかも、あの検診の場に居合わせてしまい、最初は、隠しごとを見つけてやる、という気分だったのだが、予想以上の理緒の歯の状態に、実際、どうしていいか戸惑っていた。見なかったことにするべき?どうしたらいいの?ちょっと考えつつも、治療を口実に歩み寄ってみたのだった。
理緒は、検診の途中で、さやかに助けられたような感じで、でも隠していた銀歯を知られた・・しかもたぶん、バッチリ見られた・・ことが少し気になっていた。今日のことはどうしよ・・会話に出たら言っちゃおうかな・・・
2人はとりあえず、当たり障りのない、次にどこへ遊びに行くか、担任がどうだ、という話をしながら、藤井歯科に到着した。
受付に、さやかの時間が来たら、上に声をかけてくれるよう頼んで、二人は理緒の部屋でくつろいだ。
「何飲む?」
「うーん・・でも、治療前だからやめとく。」
「あ、そうよね・・」
「ちょっとユウウツだなー、今、根っこの治療ってのしてて・・痛くって泣きそう」
「あー、あれはホンット痛いよね・・・」
理緒が、しまった、という顔になり、2人は顔を見合わせて、一瞬黙った。つい歯の話題になってしまった。ええい。さやかは思い切って、理緒に尋ねた。
「理緒も・・根っこの治療、したの?」
理緒は、ちょっと迷ってから言った。
「うん・・・・だって、検診で見えたでしょ?銀が被せてある歯。」
言っちゃった。
「ん・・でも遠くからだし、そんなに見えてない・・かな・・・たくさんしたの?」
「根っこの治療して被せてる銀歯・・クラウンって言うんだけど・・あれは・・4本かな」
さっきのカミングアウトで、少し気が楽になった理緒は、思い切って話した。
「えっ。私でもこれで1本目だよ。根っこの治療したら、あの全部銀歯になっちゃうの?」
「奥だったら、弱いからそうなるって。もちろん白いのも選べるけど・・さやか、銀歯は?詰めてあるのも入れて。」
「え・・昔治したのもあるからよくわかんないけど・・6本かなあ。今度ので7本かな?」
歯が弱いと思っていたさやかよりも、私の方が銀歯多くなっちゃったの?しかも、私のは半分はクラウン・・・
「そっか・・私の方が多いんだ・・・銀歯だらけとか言われちゃうわけだよね」
理緒は、自嘲気味に笑って見せると、さやかが突然、思い出したように言った。
「あー、あのデブ!横で聞いてても、あいつむかついた!なんなのよ、ねえ。意味わかんない。『じゃあ、上の歯全部○。』とか言って。全部虫歯って、そんなわけないじゃんねぇ。ホント、おとなげない・・って・・」
勢いで言ってしまってから、さやかは、理緒の顔がふっと曇ったのに気付いた。
「あるよ・・」
「え・・理緒?」
「ホントなの・・私、上の歯・・全部・・・全部・・・虫歯にしちゃったの」
「え、全部って、どういうこと?たしかに右の奥は全部銀歯だったけど・・・」
「全部は全部よ。上の歯全部。奥歯も前歯も・・全部。銀歯以外のところは、ち、小さいけど、歯の間から・・全部虫歯になってて・・・」
理緒は、涙声になりながら、話した。
「な、なんで?理緒、歯、丈夫だったじゃん」
フォローのしようがなく、さやかは聞いた。
「ぴっちり生えてるから、歯の間が危ないって言われてたのに・・フロス、サボってたの・・そしたら・・・ほんのちょっとサボっただけなのに・・うっ・・全部・・ううっ・・む、虫歯って・・・前歯まで・・」
悲しさと悔しさがまた甦ってきて、理緒はついに泣き出した。
さやかは、理緒がいきなり泣き出してしまい、オロオロして、
「大丈夫だよ・・前歯・・きれいに治ってるよ。見てもわかんないって。ミヤビみたいに色変わったりしてないんだし。大丈夫。」
と、前歯が3本変色してしまっているクラスメイトの名前を出して、なぐさめた。
「ありがと・・最初、嘘ついてごめんね・・恥ずかしくて・・言えなかった」
「いいよ別に。」
「あ・・でも・・このこと皆に・・黙っててね、やっぱり恥ずかしいから」
そのとき、ちょうどさやかが治療に呼ばれ、理緒は、
「ガンバレー」
と、さやかを送り出した。
はあ、言っちゃった。でも、ちょっとすっきりしたかも。
銀歯が見えることは気になりつつも、少し気が軽くなった理緒は、その夜、さやかが、ついつい黙っていられず、佳奈と美貴子に、
「りお、マジで上の歯全部虫歯らしい。信じられナィ!奥歯も上はギザ銀だったゼぃ。」
とメールを送っているとは知らなかった。

さて、その後、理緒はしっかりと、歯も念入りに磨き、朝晩のフロスを欠かさずやっていた。ああ、でもなんで、あんなに虫歯ができちゃう前に気付かなかったんだろう・・全部虫歯・・・銀歯が見えるたびに、理緒は心が痛んだ。
しかしそんなに気を遣っていた理緒だったが、秋が始まる頃、前歯に違和感を感じた。少し前から、一瞬ちりっとすることがあったが、ある日、冷たい風が、ビィン、と前歯に響いたのだ。
「いっつぅ・・・」
なんで?理緒は信じられなかったが、知覚過敏とかいうやつかなー、と、家に帰り、診療時間が終わる頃、亮に相談した。
「ねえ・・なんか前歯がしみる気がするんだけど。」
「は?また虫歯か?」
「そんな・・最近は、ばっちりなのに」
「まあいいか、座れ」
治療台に座り、ウィーン、と椅子が倒されると、半年ほど前の毎日が甦ってきて、胸が苦しくなった。
「じゃ、見るぞ、前歯か?」
カン、と点灯された、ライトがまぶしい。
亮はまず、唇をめくり、前歯をじっくりと見た。
「ん・・これか?」
いつの間に手にしたのか、スリーウェイシリンジで、エアーをシュッ、と吹き付けた。
「んいぁっ!」
さっき感じたのと同じ痛みが、前歯を突き抜けた。
「じゃ、あーん」
ミラーが差し込まれる。亮の顔が険しくなった。右上の1番の裏側、充填されたレジンの端から、虫歯になっていた。しかも、治療から半年とは思えないほど大きく、小さな穴も開いているようだ。
「理緒。おっきい虫歯できちゃってるよ。」
「えっ・・」
ミラーを入れられたまま、理緒は驚きの声を上げた。あんなに気を付けてるのに・・
「これ、響くか?」
亮は、ミラーの柄で、右上1番をコツコツ、と叩いた。
「んぁっ!」
じぃいん・・と、痛みが歯の中に響く感じだった。
「硬いもの噛んだりするなって言ったろ。ちょっと変形して隙間が開いちゃったんじゃないかな、そこから虫歯に・・・ちょっと中で広がってるかもしれないな、レントゲン撮ろう。」
「ど、どうなっちゃうの・・」
「見てみないとわからん。」
「また根っこの治療とか・・」
「ああ、場合によってはな。」
半年も経たないうちに、また虫歯ができたなんてショックだった。硬いものも噛んだりしてないと思うけど・・ちょっと自信ない・・・
レントゲン室の中で、理緒は考え込んでいた。
実は、歯科検診が原因であった。さやかに横から抗議された際、歯科医は思わぬところからの言葉に驚いて、ちょうどそのときに探針を当てていた、右上1番のレジンと歯質の境を、深く引っかいてしまったのだった。きっかけさえあれば、虫歯が入り込んで進行するのはたやすいことだった。
一度帰りかけた衛生士の美晴が、
「先生、治療されますか?」
と、戻ってきた。私服の上から、エプロンだけ着けてスタンバイする。
しばらくすると、X線写真が出来上がってきた。
「うーん、やっぱり進んじゃってるな、レジンの周囲から・・・これは行ってるな・・・」
治療ユニットのシャーカステンにセットされたパントモを見て、美晴は、
歯医者の娘なのに・・
と、哀れむような目で理緒を見やった。美晴の実家も歯科医院で、美晴は24歳になった今も全て真っ白な健全歯を保っていた。それに引き換え、理緒のパントモには・・根治済のクラウンが4本。さらに、右上の奥はすべてくっきりと白く、金属が詰められていることを主張していた。
「あと・・ちょっと見せて」
急に治療台が倒れはじめ、理緒はあわてた。なんとか頭を落ち着けると、美晴が理緒の口元にライトの焦点を合わせる。
口を開けかけたところへ、亮がミラーを突っ込み、そのまま唇を右上にぐいっと開く。
「ああ、やっぱり」
何?なんなの?理緒の目が不安で宙を泳いだ。
「7番・・一番奥の歯の後ろ側からね、穴が開いてる。この間・・春の大工事のときにも、ちょっと茶色くはなりかけてたんだが。」
また新しい虫歯・・・理緒は、ふうっ、と息をついた。
「ま、とりあえず、前から行くか・・少し深いから、麻酔する。」
美晴が、すぐに麻酔のセットを準備した。
亮が理緒の上唇をめくり、ロールガーゼを押し込む。
ガーゼはじゅうぅっ・・と唾液を吸い取り、くたっとしてしまった。亮は軽く舌打ちして、ロールガーゼをもう1本押し込んだ。
乾いた粘膜にガーゼが擦れて、痛い。
すぐに麻酔の針が近づいてきて、理緒は思わず目を閉じた。
ちくっ、という刺激に続いて、圧迫されるような鈍い痛み。
「ううう・・」
喉の奥からつい、うめき声が漏れる。
「裏からもいくぞ」
「あが」
美晴が、理緒の首の後ろと額に手を当て、軽く、半ば強引に口を開かせる。理緒のギラギラ光る上顎が、美晴の目に入った。
うわー、ひど・・
美晴が眉をひそめて見ているのも知らず、理緒は、眉根をぎゅっと寄せて麻酔注射の痛みに耐えていたのであった。

「じゃ、さっさとやろう」
麻酔の後、口をすすぐとすぐ、治療台が倒され、美晴もポジションに付いた。
「たぶん神経まで届いてるんで・・痛くなると思うけど、ま、我慢しろよ」
理緒は泣きそうな顔になったが、タービンとミラーが近づいてくるのを見て、目を閉じ、口を開けた。
ヒュィイイイイイ・・
タービンの高い音と振動が口の中から響いてきて、理緒に数ヶ月前の治療を思い出させた。
そうだ・・ここ・・前の治療のときもけっこう痛かったんだ・・・
左右の1番の間からの齲蝕は、除去しにくい形で広がり、全て取り去った時には、理緒の1番は、真ん中から4分の1ほどが無くなってしまっていたのであった。前歯の真ん中が開いてしまったあのイメージがよみがえり、あれよりも削られちゃうってこと!?と、理緒は恐れながら口を開けていた。
チュィン、チュィン、チュィイイイイ
タービンの先は、充填というより歯の形を形成しているレジンを削り取り、次に理緒の歯に新たにできた齲蝕部分に食い込んで行く。
あらー、けっこう進んでる・・露髄は間違いないわね。問題は色ね。
美晴が冷ややかに見ていると、
「ぁ・・ぁあ・・・」
理緒の口から声が漏れ始めた。
膝がもぞもぞと擦り合わされ、ソックスを履いた爪先にはぎゅうっ、と力が入っている。
「あ・・ぁう・・ぁうう・・ぁあああ」
「理緒ちゃーん、痛いけど我慢してねー」
冷たい視線を投げかけながらも、美晴は声をかけた。
「んぁあああ、ぁあああっ」
「もう少しだからねー」
嘘ではない。齲蝕部分の歯質の除去はもう少しで終わるはずであった。
「ぁ、ぁ、ぁがああっ」
理緒の声がひときわ高くなったとき、窩洞の奥に赤黒く変色しかけた歯髄が顔をのぞかせた。
・・ああ、この色じゃ、抜髄だわ・・・もう差し歯かしら、高校生なのにカワイソウね。
美晴は、少し残酷な気分になっていた。
ヒュウウウウゥゥゥ・・
亮がタービンを止めた。
ふぅっ、と体の力を抜く理緒に、治療台を起こしながら、亮が宣告した。
「理緒、これは抜髄しないとダメだ」
「ん・・」
「相当痛いけど我慢しろよ」
えっ・・もしかして、あの、根っこの治療のこと?あの痛いやつ?
急に気付いた理緒は、抵抗をこころみた。
すでに、抜髄、と聞いた美晴が、器具を用意し始めている。
「で・・でも・・痛くなかったし・・・」
「ダメだ。もう歯髄が変色してしまってるから。抜かないと。」
変色、と聞いて、理緒の頭に浮かんだのは、クラスメイトのミヤビの変色した前歯だった。さらに、「根っこの治療」をした奥歯の後に立てられた、銀色の土台・・・
「ちょ、ちょっとまって・・バツズイ、の後はどうなるの?」
理緒の声が少し動揺している。
私が高校生の頃は、もう虫歯の治療の流れとか、知ってたけどな・・抜髄のあとの基本は、コア立ててかぶせる、よ。
リーマの番号を揃えながら、美晴は心の中で答えていた。
「奥歯のときにもうやっただろ。同じだよ。まあ前なら残すことも無いわけじゃないが・・もう十分欠損大きいし、変色するし脆くなるし。普通、コアを立てて、かぶせる。」
「かぶせる・・・?」
泣きそうな顔で聞き返す理緒に、亮がさらりと言った。
「ま、俗に言う差し歯ってやつかな」
ああ、亮先生、言っちゃったよ・・それは・・・
案の定、理緒は、その言葉を聞くと、ばっ、と両手で口を覆い、
「イ・・イヤ・・・それだけはイヤ・・・」
と繰り返しながら首を横に振り続けた。目には涙がいっぱいに溜まっている。
「イヤって言っても仕方ないだろ。」
「でも・・私まだ高校生なのに・・オネガイ・・なんとかして・・」
理緒は涙を流して訴えた。
「でも、虫歯が歯髄まで行っちゃってるんだから、それは無理だって」
「うっ、うっ・・・」
美晴は、泣きじゃくる理緒に近付いた。実は、このようなことはしょっちゅうあるので、美晴としても対応は手馴れたものであった。普段は亮もうまくやるのだが、妹相手では調子が狂うらしい。
美晴は理緒の肩を抱いて、優しそうに語りかけた。
「理緒ちゃん、差し歯が辛いのはわかるけど、ここでちゃんと抜髄しないと、後でもっともっと大変なことになるのよ。何ヶ月も根の中を掃除しないといけなくなるの。今なら、今日だけか・・多くてもあと1、2回痛いのを我慢すれば済むから。ね?虫歯にしちゃったものはもう戻らないんだから。早く治すこと考えなきゃ。」
「うっ・・えっ、えっ」
理緒は、泣きじゃくりながらもこくこくと頷いた。
「来月、修学旅行もあるんでしょ?さっさと治して綺麗な歯で行こうよ」
「おっと、修学旅行?いつだよそれ。」
亮が慌てたように聞く。
「うっ・・ら、来月のはじめ・・あと2週間・・」
「2週間か・・・」
ギリギリの線だな、と亮は考えた。
「じゃ、とにかく始めないとな」
理緒も観念して、倒されていく治療台に体を預けた。

「まず裏から穴開けるからねー」
美晴が横から言って、バキュームを持ってスタンバイする。
ヒュィイイイイイ・・・
タービンが、理緒の右上1番の裏側に食い込んで行く。
チュィイ、チュィイイイ・・・
最初に麻酔したとはいえ、抜髄のための開口を形成するための切削である。当然、タービンは深く削りこみ・・・
「ぁあ・・ぁあああ・・」
理緒の口からは、すぐに声が漏れ出して来た。
「痛いねぇ、でも動かないでねー」
美晴が、言いながら左手で理緒の顎をがっちりとホールドした。
「ああ・・んぁ・・んぁあ、んぁあ、んぁあああ」
叫びに近い声を上げながら、理緒は体中を突っ張らせて痛みに耐えていた。顔が鼻の下から割れそうなくらいに痛い。
い、い、痛いっ・・麻酔したのに!
差し歯になるとかそういうショックよりも、とにかく治療が痛かった。
「もう少し、もう少し我慢しようねー」
美晴が言う言葉もほとんど耳には入らなかった。
「ぁががあああっ」
こんな痛みがあったのか、と思うほどの痛みがどんどん強くなり、も、もうダメ・・と思った瞬間、
ヒュルゥゥゥゥ・・・
と、タービンが止まった。
しかしながら理緒は、この後にさらなる痛みがあるとは、知る由も無かった。

起こされない治療台にぐったりと体を預けたまま、指で涙を拭っていると、
「じゃ、これから抜きますからね・・前歯は根管1本だけだから。すぐだからねー」
美晴が言って、素早くアングルワイダーをセットすると、すっ、と理緒の頭の両脇を押さえた。
な、何??
不安に目をきょろきょろさせた理緒の視界に、亮が手にした針金が目に入った。
ト、トゲトゲついてる・・ちょっと、それ、まさか・・
「痛いけど、すぐ済むから」
亮はなんでもないように言い、手にしたクレンザーを、理緒の右上1番に形成した開口部から根管に挿入し・・
「はぁっぁはあああああっ」
クリ、クリ、クリ・・・と回転させ・・
「んぁああ、ぁあああっあっあっ」
抜き取った。
「ぁがあああっ」
理緒は、神経がまさに引き千切られる痛みに、何も考えずに声を上げ、足をばたつかせた。ようやくクレンザーが抜かれた・・しかし。
「あれ、うまく釣れなかった。もう一回。」
クレンザーをながめ、コットンで拭った亮の口から出た言葉は残酷であった。
恐怖に目を見開き、小刻みに首を振っていた理緒だが、あっさり、美晴に押さえつけられてしまった。
「あ、ぁああ、ぁあああ」
口に近付いてくるクレンザーを見ながら、すでに声が出てしまった。
「んがぁあああああっ」
亮は、慎重に、1回目よりも多くクレンザーを回転させている。
「んはぁあ、ひ、ひ、ひぃいいいいっ」
長引く苦痛に、叫び続ける理緒の声は嗄れてきてしまった。
ようやくクレンザーが抜き取られ、亮はクレンザーに絡み付いている、血まみれの白い筋のようなものを見て頷いた。
「よし、今度は成功」
理緒はようやく、体の力を抜いて、肩で荒い息をしていた。

「じゃ、根管の長さ測りますから」
まだ終わってなかった・・・
長さを測った後も、さらに何度も何度も細い針金・・リーマやファイル・・・が挿入され、抜かれ・・・
最初のクレンザーよりも痛みは少なかったが、それでもかなりの痛みであった。
「けっこう太いな・・じゃ、70番。」
「はい」
二人の暗号のような会話を目をつぶって聞きながら、理緒は何度目かの声を上げていた。
「ぁ・・んぁああああっ」
「よし、いいかな」
その後は何か薬を入れられ、バキュームされ、何かを何度も抜き差しされ、また何かを入れられ・・て終わった。
「よし、終わり。」
治療台を起こされても、理緒は疲れ果てて、すぐには立ち上がれなかった。
のろのろと椅子から降りる。
「理緒ちゃん・・大丈夫?」
美晴に声を掛けられ、
「あ・・遅くまで・・有難うございました」
と、なんとか挨拶した。時計を見ると、1時間も経っていなかったが、理緒にとっては長い時間だった。
「次・・3,4日後になんともなければ詰めていくから。で、型取って土台立てて型取って・・最後の歯入れるから。それまでも仮歯入れるから平気だぞ」
亮に言われ、
そうだ、私、差し歯になっちゃうんだった・・・
と思い出し、急にまた涙がこぼれてきた。
「理緒ちゃん、頑張ったね。痛かったね・・」
と、美晴が見当違いの声をかけてきて、理緒は悔しさに涙を拭った。

結局、その次の治療では根充ができず、さらに、前歯だからと色合わせをじっくりやろうとして少しずつ治療が後ろにずれこんだ結果、
理緒は、金属コアまで立てた後、仮の歯を入れた状態で、4泊5日の修学旅行に旅立つこととなった。

修学旅行は、四国であった。3日目は、昼ごろ船に乗り、瀬戸内海をクルージングして、4日目の午後に戻ってくることになっていた。
港へ行くため、理緒たちは、宿の前に集まって、がやがやと騒いでいた。
風がちょっと寒いわ・・・
そう思った理緒は、修学旅行のしおりを何気なく口にくわえ、カーディガンを羽織った。そのとき。
急に強い風が吹きつけ、しおりは風に飛ばされた。同時に、理緒の口から、ポロリと何かが落ちた。
あっ!
とっさに、左手で口元を押さえる。仮歯がない!落ちた仮歯は、コロコロと転がって・・・ちょうど通りかかったスクーターがその上を通って走り去っていった。
慌てて駆け寄るが、歯は、踏み潰されて砕けてしまっていた。
どうしよう・・・
口に手を当てたまま青ざめている理緒に気付いて、さやかがやって来た。
「理緒・・どうしたの?」
「うん・・あの・・」
さやかにも、他の誰にも、まだ差し歯になったことを言っていなかった。
「歯・・歯が取れちゃって・・・治療中なんだけど・・・」
「どこ」
さやかにうながされ、理緒はそっと口に当てたままの左手を開いた。
「え・・ちょ・・」
前歯が1本なく、歯茎から金属がのぞいているだけの状態は、かなりショッキングな光景だったらしい。さやかは絶句した。
「ま、待ってて・・あ、アッキーに言ってくるね」
「あ・・う、うん」
さやかは、アッキーと呼んでいる、担任の三田亜希子のところに走って行った。
亜希子とさやかは、こちらを見ながら話し、亜希子が困ったような顔をしているのが見えた。
亜希子に手招きされ、理緒は近付いていった。
「藤井さん、ちょっと見せて」
理緒は、仕方なく小さく口を開けた。
「あら・・仮歯かしら?」
「は、はい・・・」
「そう、大変ね・・なんとかしたいわよね?もしあれだったら、クルージング行かれなくてもかまわない?」
「はい・・」
こんな歯で、船に乗っても楽しめるとは思えなかった。
「ちょっと待ってて。教頭先生と相談してくるわ。ここに残って、近くの歯医者さん行ってみましょ。お父様のお知り合いとかいるかしら?一応宿でも聞いてくるわね」
亜希子は宿の方に歩いていき、理緒は、携帯を取り出して、家に電話をかけた。
数分後、亜希子は教頭と二人で戻ってきた。
「どこがどうしたって?」
理緒は、こんな歯を教頭先生に見せるのは嫌だったが、しぶしぶ口を開いた。
「あー。差し歯かね。まだ高2なのに。ま、仕方ないな。」
理緒は、ぎゅっと口を閉じ、うつむいた。
「じゃあ、三田先生、よろしくお願いしますよ。夜また連絡を入れますから。」
こうして、亜希子と理緒は、理緒の前歯のために、クルージングに行かずに残ることになった。
「すみません、先生・・・」
「いいわよ、私は去年も行ったしね・・それに実はあんまり好きじゃないのよ、船。」
それで、いつも明るい亜希子が、なんとなくこの旅行中元気がないのかな・・と、理緒は思った。

さきほど父親に電話をかけ、幸い、父の後輩が、ここから車で10分ほどのところで開業しているとのことであった。かつて、藤井歯科でも働いていたことがあるという。が、理緒は覚えていなかった。腕はまあそこそこ、とのことである。
宿の人に車を出してもらい、亜希子と理緒は、その、みなと歯科医院へと向かった。

水曜の午後・木・日は休診と書かれていたが、宿から電話しておいたので、みなと歯科の歯科医師、鎌谷は医院のドアのところで待っていた。
「お休みのところ申し訳ありません。お世話になります」
亜希子が頭を下げ、理緒もそれにならった。
「いやー、藤井先輩のお嬢さんのためと言われれば。理緒ちゃん、覚えてない?10年前・・・理緒ちゃんが小学校に入るくらいまで居たんだけどなあ。ま、藤井歯科はいろんな人が働いてるからな。」
「すみません・・」
そして、3人は医院の中へ入っていった。まだ新しいようだ。
「じゃ、私はこちらで・・」
亜希子は待合室で立ち止まり、理緒は、鎌谷と共に、診察室へと入って行った。

治療台に座ると、鎌谷が立ったまま聞いた。
「どうぞ。衛生士は帰っちゃったんだけど。で、どうしたのかな?どこか痛む?」
「あの・・仮歯が・・取れてしまって」
「なんだ、仮歯か・・別に放っておいても平気なのに。どこ?」
「ここ・・です」
おそるおそる、上を向いて、いーっ、と口を開けてみせる。
「あ、前歯か・・それはたしかに困るね」
鎌谷は、手を伸ばすと、控えめに開けている理緒の上唇をめくり、じっと見た。それまでの人懐っこい笑顔が消えた。
「ふむ・・・理緒ちゃん、いくつだっけ」
「高・・2、です」
「そうか・・それは事故じゃないよね。」
「・・・はい。」
「じゃ、どうしたの?」
「え?」
「何が原因でそうなったかって聞いてるの」
「む・・むしば・・です・・・」
消え入りそうな声で、理緒は答えた。居たたまれない気分になる。
「虫歯ねえ・・まだ高校生なのに、差し歯!」
鎌谷がため息をつきながら言う。
理緒はもう帰りたいと思ったが、とにかく今は歯を入れてもらわなければならない。おとなしく理緒はうつむいた。
「まあ、作っちゃったものは仕方ない。」
そういうと、鎌谷は、治療台のそばを離れて、何かを準備しに行った。
そして、戻ってくると、治療台を倒した。
「よろしくお願いします」
「じゃ、あーん」
印象材トレーが前歯に当てられた。口を開けたままの状態で、ホールドされている。
そのまま鎌谷は、理緒の口の中を覗き込みながら言った。
「また奥歯もずいぶんと・・にぎやかだね」
理緒は目をしずかに閉じた。
その後は、鎌谷も必要以外はほぼ黙って作業をし、20分もしないうちに、理緒の前歯には仮の歯が入れられていた。
案外悪くない。
「仮の歯だからね。噛んだりくわえたりしてはダメ。自分の歯と違って、使い物になんかならないんだよ。飾りだと思って。これはホンモノの差し歯が入っても同じだから。」
厳しい言葉に、理緒はショックを受けた。使い物になんかならない。
「はい・・あ、ありがとうございました・・・」
頭を下げて、理緒は診察室を出て、待合室に戻った。

待合室のソファでは、亜希子がサイドテーブルに頬杖をついて、暗い顔をしながら雑誌をめくっていた。
「あの・・先生・・終わりました・・お待たせしました」
亜希子は、理緒の声にはっと顔を上げると、立ち上がって言った。
「そう・・じゃ、今度、藤井さん、ちょっと待ってて・・・長くかかるかもしれないけれど」
「え?」
「私・・実はね、ずっと歯が痛くって・・ちょっと診てもらってくるわ」
そう言うと、左頬に手を当てたまま、診察室へと消えていった。
突然取り残された理緒は、仕方なく椅子に座って、雑誌を読み始めた。
やがて、ヒュィイイイイイ、というタービンの音や、ぁああー、という亜希子の泣き声、我慢して!と叱責する鎌谷の声などが聞こえ始めたが、雑誌を1冊読み終わっても、その音は止む気配がなかった。
髪がいくぶん乱れた姿で、さっきと同じように左手を頬に当てたまま診察室から亜希子が出てきたのは、日も傾きかけた頃であった。
その後、鎌谷は車で宿まで送り届けてくれた。
「ありがとうございました・・」
「では、また明日。ちゃんと来て下さい。」
そう言って去っていく鎌谷に、えっ?と思って亜希子を見ると、
「明日も、朝から治療に行かないといけないの・・・」
亜希子は、そう言って、左手を頬に当てて、大きなため息をついた。

翌朝。理緒と向かい合って食堂で朝食を取った亜希子は、食事が終わると、理緒に言った。
「藤井さん・・私が歯が痛くて治療してもらったって、誰にも言わないでくれる?おねがい。」
痛みで寝不足だったのか治療の疲れか、目元がどんよりとくすんでいる亜希子に頼まれ、理緒は頷いた。
昔の理緒なら冷たい目で見たであろうが、歯の治療の痛みや辛さを突然、おそらく同級生以上に味わっている理緒は、他人事とは思えなかったのだった。
食事が終わると、亜希子はタクシーでみなと歯科に向かった。
理緒は、ぶらぶらと港を散歩したり、部屋でテレビを見たりして過ごした。
先生は、休診日の歯医者で朝から治療かあ・・・何されてるんだろ・・・
自分の春の経験を思い出し、理緒は亜希子に同情した。
昼の2時過ぎ、ようやく亜希子は、鎌谷の車で宿に戻ってきた。
亜希子は疲れ切って、よれよれの姿である。
「では。帰ったら絶対に治療に通うように。先輩にも頼んでおきますから。じゃ、理緒ちゃん、お父さんによろしく。この先生の歯もお父さんに頼んであるから。ああ、亮くんにもね。歯ちゃんと大事にしてるかって言っといて。じゃ。」
鎌谷は、あわただしく言い残すと、走り去っていった。
その後、クルージングから戻った同級生と合流し、翌日、理緒は帰路についたのであった。

自宅に戻ると、ちょうど、診察時間が終わったところだった。
「理緒、歯出来てるけど、入れてみるか?」
亮に呼ばれ、理緒は診察室へ降りた。
「念のため、レントゲン撮っとくか?向こうでは入れただけだろ?」
カルテの整理をしていた父親が横から言い、理緒は、何のため?と思いながら、レントゲン室に入った。
「ん・・大丈夫みたいだな。そんな、しおりを口にくわえるなんて。根が折れたら抜歯なんだからな。」
それを聞いて、理緒はぞっとした。
よかった・・・折れてなくて・・・
そして同時に、鎌谷の言った、「使い物になんかならないんだよ」という言葉が思い出され、
私の前歯・・もうただの飾りなんだ・・・
と、気持ちが沈んでいくのを感じていたのだった。
治療台のトレイに置かれた模型の上には・・・理緒の口に入る差し歯が載せられていた。
裏側が銀色に光っていて、理緒をさらに落ち込ませた。
前歯だけは、保険内のものではなく、「これから10年誕生日プレゼントは無し」と言って、父親がメタルボンドを選ばせてくれたのだが、
裏側は半分以上が金属なのであった。
治療台に座ると、アングルワイダーが装着され、仮歯が外され、手鏡を渡された。
そこに映る自分の口元を正視できず、理緒は思わず鏡を伏せた。
しかし、模型の上に載っていた差し歯をはめると、鏡を見るように促された。
おそるおそる鏡を覗き込むと、恐れていたよりもはるかに自然な見た目であった。
「これでいいならつけるぞ」
「ん・・・」
差し歯は一度外され、ペーストを入れてから、再び、理緒の口の中へ装着された。
ああ・・これが今日から私の前歯になるんだ・・・
細かい調整などが終わった後、理緒は、見た目にはとりあえずホッとしたものの、他の歯よりも厚いように感じられる歯と、ひんやりするような、ぬるっとするような、舌に触れる金属の感触に、落ち着かなさを感じていたのだった。
「さて。もう1本治すとこがあったはずだが・・ま、明日にでもやるか。」
亮が言い、その日の治療は終了した。
「そうだ。鎌谷先生が、お父さんによろしくって。あと、お兄ちゃんにも・・なんだっけ、歯大事にしてるかって言ってた。」
父親は、ふーん、と言っただけだったが、亮は嫌そうな顔をした。
「か・・鎌谷。嫌な奴だったろ」
「まあね、でも絶対、歯医者って嫌な奴多いよ。ねえ、歯、大事にしてるかってどういうことー」
「歯は大事にしろよってことだろ」
「歯医者さんにそれって変じゃない?そうだ、お兄ちゃんって、虫歯あんの。」
「別に・・あってもいいだろ」
不機嫌そうに、自宅へ上がっていく亮を見て、理緒は、あの様子は絶対虫歯があるはず、いつかこっそり、お兄ちゃんのカルテ探してやる、と心に誓ったのだった。

翌日の土曜日。診察時間の後で、理緒は、右上7番の後ろにできた、新しい虫歯の治療を受けた。
上顎の7番の後ろ側は治療がしにくく・・・結局、前半分に入れたインレーを外し、新しく大きなアンレーを入れた。ぱっと見たところでは、上顎の大臼歯はすべてフルクラウンになったかのようであった。
その後、理緒は歯がそれ以上悪くならないように気を遣い、そのままの状態を保った。変化が起きるのは、5年後、テレビ局に入社し、アナウンサーとしてテレビに出るようになってからであった。