留美は、つい30分前まで自分が患者を治療していた治療台に横たわり、大きく口を開いて、同僚の吉野から根管治療を受けていた。
その目は静かに閉じられ、手は細身のジーンズを穿いた下腹部の上で軽く組み合わされている。
歯科医の白衣のままで治療を受けるのはどうにも屈辱的な気がして、治療の前に着替えたのだ。
すでに診察時間は終わり、片付けも済んで静かな診察室には、スココココ・・というバキュームの音だけが響き、ときどき、
「んっ」
という留美の小さな呻き声が上がる。
・・・今日も長いわ・・そろそろ、顎が疲れてきちゃったんだけど・・・
そう思ったとき、少し大きな痛みを感じて、思わず声を上げ、体をビクンと反らした。
「んぁあっ!」
「うーん、まだ痛いか・・ちょっと休憩しよ、俺も疲れたわ」
吉野は体を起こして治療台のスイッチを押し、自分で肩を揉みながら首を回した。
根管治療は、される方もぐったりだが、する方もひどく疲れるのだ。留美も、一日に3人もやると、腕が上がらなくなる。
「しかし、しつこいなあ・・いつからだっけ?」
吉野が、カルテを取り上げて確認する。
「もうすぐ1ヶ月か・・週に2回だろ・・うーん・・」
・・もう、1ヶ月も?
長引く治療に少しイライラしていた留美は、大きくため息をついて、聞いた。
「まだ終わらないの?」
意外にも吉野はその言葉に腹を立てた様子もなく、むしろ少し申し訳無さそうに言った。
「膿を取り除いても、すぐにまた膿があふれてくる感じで・・ま、長くかかりそうだな、一番後ろだから、なんとかうまく収めたいとは思ってるし・・・」
少し言葉を濁す様子に、留美はハッとした。根治では、最悪の場合は抜歯もありうる、ということを忘れていた。もちろん、歯科医としての知識は頭の中にあるのだが、患者として治療を受ける側になると実感が無いというか、考えたくないというか・・
今治療してもらっているのは右上の7番、親不知の無い留美の場合、一番後ろの歯だ。抜歯ということになれば、ブリッジにも出来ない。インプラントか義歯か・・延長ブリッジというのもあるが、これは5番と6番を、7番との緩やかな心中に巻き込むようなもので、あまりやりたくない・・・まだ30なのに・・・
留美は考えすぎて、吐き気がしてきた。やっとの思いで声を絞り出す。
「どのくらい・・その・・」
「なんだ?」
「どのくらい・・ヤバいのかな・・ダメっていうか・・その・・」
いつも強気な留美の神妙な様子に、一度は笑いかけた吉野も真面目な顔に戻って言った。
「今のところ、まだ見当がつかないな、見た感じ、ここ、根治2回目だろ、今はまだ、前の後始末みたいな感じで、きっちり患部を叩けてないからな。」
「そう・・なの?」
「ま、とりあえず頑張ってみるって感じかな、さ、薬詰めて今日は上がるぞ」
ひどく薬臭いものをぐいぐいと詰め込まれた後、ようやくその日の治療が終わった。
吉野の車で家まで送ってもらう。
「どうもありがとう・・二人とも。」
「いえいえ。しっかり休んでくださいね。おやすみなさい。」
「おやすみなさい」
吉野と、最近結婚したばかりの衛生士の和歌子の夫婦に別れを告げ、留美はエントランスの階段を小走りに駆け上がった。
「ん・・」
走る振動が治療中の歯に鈍く響き、留美は少し顔をしかめて、右手を頬に当てながら、エレベータに乗り、自分の部屋へと帰った。

「っいたた・・」
服を着替え、簡単にメイク落としシートで顔を拭きながら、ソファにぱふっ、と腰を下ろすと、また、その振動が歯に響いた。
「たしかに・・いつもより酷い気がするわ」
留美は、浮かない顔で頬に手を当てたまま考え込んだ。
抜髄やら根治はすっかり慣れっこになっている。
・・・しかし情けないわ、ホント、歯医者だってのに・・でも、歯医者で、気になったらすぐ診てもらえるからこそ、これくらいで済んでるってこともあるかもしれないのよね。
今回の治療を受けている歯も、昼休みに食事をしていると歯が浮くような感覚があって、すぐにレントゲンを撮ってもらって、問題が見つかったのだ。OLでもしていたら、痛み出したり、腫れたりするまで放置されていただろう。そう思うとぞっとする。
先月、数年間歯科治療を逃げていたらしい女子高生を診察して、この子はこの先、歯医者とは縁が切れない人生ね、と思ったことをぼんやりと思い出す。
・・歯医者とは縁が切れない人生って、私のことだわ。なんたって、生まれた家も歯医者なんだから。
留美は、ソファの背もたれに頭を預けて、苦笑いした。今も仕事で毎日歯医者に通っているわけだが、患者としても毎年のように歯医者のお世話になっているのだった。
・・でも、患者として歯医者に縁があるのは、最初からじゃないのよね・・いつからだっけ・・・

そう、留美の家は歯医者であった。しかし、少し普通と変わっていた。歯科医なのは祖父と母で、2代目になるはずだった父親は、手先が不器用だからと歯科医になるのを拒否してビール会社のサラリーマンになり、代わりに、見合いで留美の母親である歯科医と結婚したのだった。
子供の頃・・少なくとも小学校に入るくらいまでは、歯医者の椅子に座った記憶は無い。自宅で母親に歯を磨いてもらったり、チェックしてもらったり、グラグラになった乳歯を抜いてもらったりしていた。初めて治療台に上ったのは、小学校1年生の夏休みだったが、それもフッ素の塗布のためで、治療は受けなかった。2年生のときも3年生のときも、歯科検診で歯が綺麗とほめられたくらいだ。

留美の歯に最初の危機が訪れたのは、その直後、3年生の夏休みに入る前のことだった。留美が小学校に入った頃から少しずつぎくしゃくしていた両親が離婚し、母親が家を出てしまったのだ。その結果、まず、3年生になっても続いていた、週に1回の丁寧な母親の仕上げ磨きが無くなってしまった。生え揃っても治らなかったら一度矯正の先生に診てもらおうね、と母親が言っていたように、当時の留美の歯は少し重なって生えている部分もあって、丁寧な歯磨きは重要だったにもかかわらず・・さらに、子供ながらに強いストレスを感じたのか、唾液の出が悪くなったらしい。以前は、朝起きると必ず「ヨダレの跡がついてる」と笑われていた留美だが、それが無くなった。そんな一見些細な変化も、留美の歯に穴を開けるには十分だった。数ヵ月後、いくつかの歯に虫歯が出来・・・母親ほどには留美の歯に気を配っていなかった祖父の目をすり抜けて、次の年の歯科検診まで、少しずつ、成長を続けた。
そんなわけで、留美は、4年生の歯科検診で、生まれて初めて虫歯を指摘された。
「若林さん、ね、虫歯が何本かありますから、ちゃんと歯医者さんに行って治療を受けてくださいね。」
えっ・・むし・・ば・・?
留美は一瞬びっくりしたが、
この先生、変なこと言うのね。うちは歯医者だし、私、虫歯なんてないのに。
と思って、おかしかった。留美にとって、当時、虫歯はそれくらい遠い存在だった。
その夜、夕飯を食べながら、留美はその歯科検診での出来事を笑いながら話した。しかし、当然、一緒に笑ってくれると思った祖父も祖母もそれを聞いて急に顔色を変え、祖父は立ち上がって留美の手をつかんだ。
「留美、ちょっと歯を磨いて、診察室に来なさい」
そうして、4年生の歯科検診の夜に、留美の患者としての日々は始まったのであった。

留美が歯を磨いて診察室に入ると、祖父が白衣を着て待っていた。祖父の白衣姿を見るのは久しぶりだった。祖父はもう5年ほど前に現役からは退いていて、今は経営や歯科医師会の仕事だけをしていた。このことも留美の歯にとっては不幸だったと言えるだろう。
まだ、自分に虫歯があるとはあまり実感できなかった留美は、軽い気持ちで言われるままに治療台に座った。
ヴィィイイイン、と音を立てて、治療台が倒されていき、留美はその軽い振動を楽しんだ。
・・けっこうこの感じ、好き。
祖父は、カン、と乾いた音を立ててライトを点け、留美の口を照らすように調整すると、どんな虫歯も見逃すまい、と、左手にミラー、右手に探針を持った。
「留美、お口開けてごらん」
妙にくぐもった声にはっと祖父の顔を見上げると、いつの間にか祖父はマスクをしていた。マスクの上の眼鏡の奥の目がかつて見たことのないほど光って見え、留美は急に怖くなってきた。留美は、おずおずと口を開いた。
「もう少し大きく」
祖父はそう言って、留美の顔を挟んで少し向きを調節すると、右下から丁寧に・・丁寧に探針で引っかかりを確認しながら検診を始めた。昔から、検診というのはそうしてやってきたのだ。祖父の顔は急に険しくなった。
最初の右下6番は、咬合面の溝が黒く色づいているうえに、頬側に小さい白濁があり、探針でつつくと、たしかに引掛かりが感じられた。その前の乳臼歯Eも溝が黒く色づいている。その前のDはなんともないようだが、もうすぐ生えかわるかもしれない。下顎の前歯は3番まで生えてるか・・まあ問題ないとして・・左下のDとEの間が妙に黒ずんでいるのが見える。さらに、Eは溝も黒くなっており、探針で引っ掻くと、溝の中心に小さく穴が開いた。さらにその穴に探針の先を入れて引っかかりを確かめる。
「ぁあっ」
急に生じた鋭い痛みに、留美は思わず驚いて声を上げた。
「痛いのか?」
祖父の声が怒りを含んでいるように聞こえ、痛いと言ってはいけない気がして、留美はとっさに首を細かく振った。
・・でも、何、今の・・まさか・・ホントに虫歯?違うよね、ぐりぐりされてるから痛いだけだよね・・痛くないって言えば、虫歯じゃないよね・・
必死に思い込もうとする留美のかすかな望みの糸は、祖父の次の言葉でぷつりと切られた。
「まあ、痛くなくても、ここは虫歯だな」
留美は、急に口の中がカラカラに乾いてくるのを感じていた。どうして・・どうして・・
しかし祖父は、そんな留美の様子にはかまわず、そのまま検診を続けた。久しぶりの仕事に、それもたった一人の可愛い孫の歯を守るための仕事に、やる気が沸きあがって来ていた。
左下6番・・ここもだ・・Eとの境目も黒ずんでいるし・・溝も・・ああ、このひっつくような感じ、これは間違いなく虫歯なんだよ、カリカリ・・カリリッ、ああ、ほら、中の象牙質が脆くなってるから、穴が開きかけてる・・・こういう小さい虫歯も、小さいうちに見つけてきっちり治療しておかないとな。
次は上の歯だ。少し留美の顔を上に向けさせ、そのまま左上から・・6番・・む・・磨けてないじゃないか・・
探針で、歯の頬側から後ろにかけて溜まった歯垢を掻き取る。
「留美、見なさい、歯磨きができてないよ、歯垢が溜まってる、こんなだから虫歯になるんだよ」
祖父に見せられた探針の先には、たしかにべっとりと黄色いものがついていた。
は、はずかしい・・おじいちゃんにこんな・・
留美は口をかすかに閉じかけたが、
「もっとちゃんとお口開いて」
と祖父に言われ、びくっとして頑張って口を開いた。
「女の子なんだから、ちゃんと綺麗に磨かないと」
何度か歯垢を掻き取りながら、祖父がぶつぶつ言っているのを聞き、留美は急に母親のことを思い出した。
『留美ちゃんは女の子だからね・・綺麗な歯でいないと・・』
そう言って仕上げ磨きをしてくれていたのだ。
お、おかあさん・・・おかあさんが居ないと・・歯磨きしてくれないと・・
留美は悲しくなって、鼻の奥がツンと痛くなった。と、ほぼ同時に鋭い痛みが左上の歯に走った。歯垢に隠れた下には、虫歯がしっかりと巣食っていた。
「んぃっ」
留美は顔を歪めた。ぎゅっとつぶった目に涙が滲む。
「い、いぁ・・」
祖父が、咬合面にある別の引っ掛かりに探針を食い込ませていたのだった。
うーん、こっちからもやられてるか・・祖父は、どういう窩洞を形成するか、あれこれ考えていた。そうだ、自分はこの作業が好きだった・・と思い出しつつ。
その前のEも後ろ側・・6番との境から黒ずみが・・次はすでに4番に生えかわってる・・咬合面も・・まだ問題ない・・犬歯はまだ乳歯か・・2番がちょっと歪んで・・4分の1近く1番の後ろに入ってしまってるのか・・重なっている部分は磨きにく・・ああ、やっぱり・・
「まただよ、留美。」
しばらく、歯を突かれたりしなかったので、虫歯のショックはあったものの徐々に落ち着いてきていた留美は、祖父の言葉に再びビクッ、とした。
祖父は上唇を少しめくり、1番と2番の重なりの間の歯垢を掻き取る。
「ほら、ここにも溜まってるじゃないか・・大事な前歯が虫歯になんかなったらどうするんだ」
目の前にまた歯垢のかたまりを見せられ、留美は目をそらした。
そ、それは困る・・こまる・・
クラスの友達の一人は、前歯に小さく妙に白い部分があって、虫歯になっちゃったの、でも、先生が白いセメントを詰めてくれたの、銀歯にならなくて本当によかった、と言っていたのだ。本人は納得しているようだったが、銀歯じゃなくても、あんなに目立つのはこまる。
ふん、と鼻から溜息をついて、祖父は今度は歯列の裏側の重なりの部分の歯垢を掻き取り始めた。
「本当に、前歯がむし・・ば・・」
になったらどうするんだ、と言いかけた祖父は、1番の裏側で、探針にまたも「長年の経験からピンと来る」引っ掛かりを感じた。
ミラーに写してじっくり見ると・・白濁した部分の中心にポツリと小さな茶色い点があるのを見つけた。
カリカリ・・カ・・ん、やっぱり引っ掛かるな、この点に・・白濁部分はやはり少し柔らかいし・・カリカリ・・
留美は、再び祖父が難しい顔で覗き込みながら、探針でカリカリと引っ掻いていることに恐怖に近い不安を覚えていた。
なんで・・なんでずっとそこばっかり・・・早く次の歯に行って・・おねがい・・・
しかし、祖父のマスクの下から聞こえて来た言葉は、その恐怖を現実のものにした。
「留美、残念だが・・・ここにも虫歯があるようだ。」
「ふぁっ」
留美は、喉の奥でおかしな声を鳴らしたかと思うと、口を開けられたままの状態で泣き出した。
「い・・いやぁあああ・・いやらぁあああ、やらぁあああ・・・」
「泣いても仕方ない、治さないと」
「あああ・・やらぁあああ・・・」
「大丈夫だ、裏側だから、見えない、大丈夫だよ、留美」
「あ・・あ・・ひっく、いっく、いっく・・」
裏側で見えないと聞いて、なんとか落ち着いて泣き止んだ留美は、涙に濡れた目で、すがるように祖父の顔を見た。
「大丈夫、おじいちゃんがちゃんと治してあげるから」
祖父は、ますます使命感に燃えた。
「じゃ、続けよう」
留美は、ぐしょぐしょに濡れた顔で口を開けたまま頷いた。
右上・・1番・・と2番・・こっちは犬歯も生えて・・2番はまた少し引っ込んでるな・・左右とも4分の1ずつくらい隠れて・・ああ、また歯垢が・・
祖父が、自分に見せはしないものの、またも歯垢を掻き取っているのがわかった留美は、
今度は・・虫歯になってませんように・・・今晩から頑張って磨きますから・・虫歯になってませんように・・・
と祈った。しかし、また探針がカリカリと文字通り探るように動き始め・・しかも、今度は裏側ではなく、上唇を少しめくり上げられた状態で祖父が表から険しい目で見つめていることに、留美の心臓は再び激しく鼓動を打ち始めた。
カリカリ・・カリ・・んむ、やっぱり引っ掛かるような・・どこだ・・どこだ・・・
祖父も、少しの虫歯も見逃すまいと必死に歯の表面を引っ掻く。
結局、くまなく探ったが、虫歯にはなっていなかったようだ。
「こっち側は大丈夫みたいだよ、留美」
安心した祖父は留美に伝え、留美もホッとして軽く微笑んだ。
さて、次・・4番は・・咬合面・・カリカリ・・うむ、大丈夫なようだ・・E・・ここは大丈夫・・か・・最後は6番・・歯垢はないようだが・・む、ここも・・咬合面の溝が黒くなってるな・・カリカリ、カ、カリ・・・ああ、虫歯だな・・
祖父は、溜息をついて、留美の口からミラーと探針を抜いた。力をこめて探針を操ったので、手も疲れてしまった。
やはりカルテが必要か・・・
新しい用紙を取ってきて、ボードにはさみ、治療台に戻った。不安そうにきょろきょろしている留美の治療台を起こしてやる。
名前、生年月日、などを書いた後、さきほど診た留美の歯の状態を書き入れていく。
右下・・6番・・咬合面と頬側・・C1、E・・咬合面がC、D・・要注意、3、2、1、左下1、2、3は何もなし・・D・・遠心面がC、E・・近心面と咬合面・・C、ちょっと大きかったな、早めに治療しよう、6番、近心面と咬合面・・C2か・・
左上が・・6番は頬側から遠心面、咬合面も・・C2、Eは遠心面がC、4、乳犬歯と2番は問題ない・・が・・1番・・・C1。
祖父はそこで再び大きく溜息をついた。まだ10歳なのに・・前歯が虫歯に・・・
さて、右上、1、2、3、4、Eと問題なし・・6番・・咬合面がC1・・と。さて、何本か・・・
ふと顔を上げると、留美が泣きそうな顔でこちらを見ているのと目が合った。
「留美・・虫歯・・いっぱいあったの?」
「ん・・そうだな・・ええと・・・」
6番は4本ともやられて・・2本がC1で2本がC2・・そのほかに、1番が1本、乳歯にも・・虫歯は4本か・・
祖父があちこち指して数えているのを見て、留美の目には再び涙が盛り上がってきた。
いっぱい・・あるみたい・・・
「9本あるね。ちょっと多いな。」
「お、おとな・・の・・歯も虫歯?」
おとなの歯は大事にしましょう、と歯科検診の前に衛生士の指導があった留美は、気になって聞いた。
そうじゃありませんように、おとなの歯になったらちゃんともっと頑張って・・お母さんがしてくれたくらい歯磨きする・・・
「そうだね・・奥歯のオトナの歯にも4本虫歯があるよ。前歯の虫歯もおとなの歯だね。」
祖父は淡々と告げた。留美は再び泣き始めた。
「い、いやぁああ・・・おとなの歯が虫歯なんていやぁああああ・・・」
「泣いたって仕方ないんだよ、留美。虫歯は治らないんだよ。早い方がいい、今日から治療しよう。」
そうして、留美の初めての歯科治療が始まった・・・

・・・うーん。
留美は、ソファで目を覚ました。
んー、口の中がネバネバするし、歯もざらざらす・・・はっ、やばっ。
すでに外は明るくなりかけている。見回すと、ヨーグルトのカップに・・コラーゲン飲料のビン、そして痛み止めの薬のシートがテーブルに載っていた。
そうだ、痛み止め飲もうと思って・・何も食べてないとマズイと思ってヨーグルト食べて・・薬飲むのに、最近お肌も気になるしってコラーゲン飲料飲んで・・・そのまま寝ちゃった。
ふと気になって手にとって見ると、カップにもビンにも、「砂糖・ぶどう糖液糖」としっかり書かれている。ノンシュガーではないのだ。
・・もう・・何やってるんだか・・歯医者なのに・・お肌とか気にする前に・・
留美は立ち上がって、頭をくしゃくしゃにしながら洗面所に向かった。電動歯ブラシに水をつけ、鏡に向かって歯を磨く。口を開くと、奥歯に入った銀クラウンがちらちらと見える。
ああ・・最初はあの日だったのよね・・・
と、さっき見た夢のことを思い返し、溜息をつきながら、歯磨きを終える。
ぺっ、と口の中のものを吐き出すと、黄色味がかったどろりとした唾液が、シンクの壁をつたった。
ああ、歯垢たっぷりって感じだわ・・もう、ホント、なんで歯も磨かずに寝るなんてバカなこと・・・しかも治療中だってのに・・・
留美は、普通の歯ブラシを手に取ると、電動歯ブラシで磨かなかった、治療中の右上の歯のあたりをやさしく磨いた。
お願い・・治りますように・・・
そして、口をゆすぐと、棚からフロスを取り出した。
適当に切って、結んで輪にし、鏡に向かって丁寧にフロッシングしていく。
今度は、銀クラウンがギラギラと光るのを嫌でも見なければならない。
ああ・・落ち込む・・・白いのに入れ換えたいわ・・でも、無駄にいじるのは避けたいのよね・・温存っていうか・・・
まだ30なのだ。下手にいじって歯の・・すでに死んでいる根だけとはいっても、有るのと無いのとでは全然違うのだ・・寿命を縮めるようなことはしたくなかった。
おとなの歯が虫歯なんていやぁあああ、と泣いていた夢の中の10歳の自分を思い出す。
でも、妙にリアルな夢だったわ。よっぽどあの日のことはショックだったんだわ・・・それにしても、あの日の治療は痛かった・・・
フロッシングを終えて口をゆすぎながら、留美は再びあの日のことを思い出していた。

「じゃあ、治療を始めるよ、留美。」
「い、痛い?」
やや慣れない手つきでエプロンの紐を結んでくれている祖父に、留美はおそるおそる聞いた。
虫歯の治療は痛いから嫌、と皆が騒いでいるのを他人事として聞いていた留美だが、いざ自分が治療されるとなると、ひどく心配だった。今までで一番痛かったのは、2年前の冬にかかった中耳炎。泣くと痛みが増すと気付いて、泣かずにいたら、耳鼻科の先生に、痛いのに泣かなくってエライ、とほめてもらったのが少し誇らしかったのを覚えている。
「そりゃあ痛いかもしれないが、我慢するんだぞ。」
「ひっ」
留美が怯えて息を呑むと同時に、ヴィィィィィン、と治療台が倒されていく。さっきは好き、と思ったその音と振動が、今は苦手なジェットコースターの登りのように感じられる。この音が止まったら、治療が始まってしまうのだ。
「お、おじいちゃん・・」
「ん?」
トレイに向かってタービンの先を選んでいた祖父は、首だけ振り返って、倒れた治療台の上の留美を見下ろした。さっきよりもさらに、怖く見える。留美は声を絞り出した。
「お・・おトイレ・・いきたい・・・」
逃げられるとは思っていなかったが、少しでも先延ばしにしたかったのだ。
「・・仕方ないな、早く行きなさい」
治療台が再び起こされる。治療台から下りると自宅に通じるドアに向かおうとした留美の背中に、祖父が声を掛けた。
「待合室の方のお手洗いに行きなさい。近いから。」
留美は黙ってその言葉に従い、待合室の方へと足を向けた。診察室からもれ出る明かりを頼りに、暗い待合室をそろりそろりと進み、トイレのドアを開け、スリッパを履いて電気のスイッチを入れる。去年改装したばかりで、綺麗なトイレは入って正面に、手を洗うシンクと大きな鏡がついている。留美はその鏡に映る自分を見て、さらにふさいだ気分になった。少し大きすぎる水色の、茶色い染みがあちこちについているエプロンをして、泣きそうな顔の自分。留美は思わず、手を首の後ろに回して、エプロンを外した。少し落ち着いて、右側のトイレで用を済ませ、出てきた留美は、気になって、少し背伸びをして鏡に顔を近づけ、あーん、と口を開けてみた。えっと・・痛かったのは・・・思い出しながら、左下の歯に目を凝らす。
「あっ・・」
そこにはたしかに、黒くなった溝の真ん中に小さい穴が開いていた。
・・むしば・・だ・・
ドクン、ドクン、と鼓動が強くなったのが感じられる。隣の歯との間も黒いし・・その奥の歯も溝が黒っぽい・・右は・・右も・・おとなのは、ってどれだろう・・・でもどれも黒っぽくなってる・・・!!
留美は、耐えられなくなって、口を閉じて鏡から離れた。見なかったことにしたくても、外に出れば治療されるのだ。しかし留美は、治療が怖いのか、虫歯になってしまったことが怖いのかわからなくなった。
「留美、早く戻ってきなさい・・」
診察室から、祖父の呼ぶ声が聞こえた。留美は、さっき外したエプロンを手に取り、いつのまにか滲んでいた涙を拭くと、黙ってトイレを出て、足を引きずるように診察室に戻った。

「なんだ、取っちゃったのか」
責めるふうでもなく、かといって優しくもない声で言い、祖父は留美が手にしているエプロンを取ると、治療台に座った留美に再びエプロンをつけた。そのまま治療台を倒す。
ヴィィイイイン。
・・やっぱり怖いよぅ!
しかし留美はもう、これ以上先延ばしにできる理由もないことに気付いて、あきらめて目を閉じた。するとさっき見た虫歯が浮かんできてしまい、怖くなってまた目を開ける。こちらを見ている祖父の眼鏡に、エプロンが青く映りこんでいるのが見えた。
「今度こそ始めるよ。左下の奥歯からやろう。少し大きいからね。」
留美は、なんとか微かに頷いた。
「はい、あーん、大きくな」
言われて、留美は精一杯大きく口を開けた。なんとなく目は閉じてしまう。祖父はその口にミラーを差し込んでそのままぐいっと横方向に開き、今から治そうとしている左下のEにシリンジでシュッ、シュッ、とエアーをかけて唾液を飛ばした。
口の中に何かが入れられ、いきなり空気をかけられた留美はびくっ、として、
・・これが治療?
と目を開けてキョロキョロと不安そうに見回したが、祖父は真剣に歯を見つめているだけだ。留美は再び目を閉じた。
・・溝から・・近心隣接面も削って・・・アマルガム。
祖父は満足そうに頷くと、留美の口の右側にバキュームを引っ掛けた。
びくっ。
口の中でコー、コー、と音を立てるものが入れられ、留美は再び驚いた。
・・なんか・・口にいっぱい入れられて・・
そして、ヒュィイイイイイ、という音が右のほうから近付いて来た次の瞬間、振動とキィィイイ、という音が下顎から伝わってきた。
留美はキュっ、と体を固くした。
・・これが、虫歯の治療なんだ・・・痛くないけど・・音が怖い・・それに・・くるし・・
どちらかというと口が小さめの留美は、口の中にいろいろ突っ込まれて口の中がいっぱいになっていた。
「留美、あー、もっと大きく。閉じないで」
祖父に言われ、頑張って口を開ける。
キュィイイイ、キュィイイイイ、チュインチュインチュイン・・・・

チュンチュンチュン・・・
夢の途中で、留美はベッドで目を覚ました。
右頬がなんとなく熱っぽく、ふと手をやると少し腫れているような気がする。
・・!
ベッドから飛び起きて、洗面所に向かう。
・・う・・そ・・
鏡を見ると、右の頬骨の下あたりがうっすらと赤くなり、確実に、大きくはないが腫れている。
・・まあ、仕事中はマスクすれば隠れる・・わよね・・・
痛みが無いのが幸いだ。留美はいつも通りの朝を過ごし、少し念入りにメークをして赤みを隠し、家を出た。
エレベータに乗り込むと、走ってくる足音がしたので、開ボタンを押して待っていると、2軒隣のサラリーマン、神田が乗り込んできた。
あっ。よりによって・・・
「ありがとうございます」
と言いながら、左隣に立った神田から顔を背けるように、留美は少し顔を右に伏せて、挨拶した。
「お、おはようございます・・」
すると、神田は少しその顔を覗き込むようにして、言った。
「おや、どうされたんですか?若林先生。虫歯ですか?また。」
「いえ、あのぅ、あ、おゃ・・」
「まさか、親不知だなんて言わないでくださいよ。素人じゃあるまいし、毎日歯医者に行ってる人の親不知がいきなりそんなになるわけ、ないでしょう。抜歯するにしても休みの前を選ぶだろうし。」
「・・・」
「必要に迫られて治療、ってことにでもならない限りね。痛むんですか。」
「・・おかげさまで・・いえ、その、もう神経は・・」
どうしてうちは7階なんだろう・・・早く着いて・・・留美は祈るような気持ちだったが、こういう日に限って、エレベータは無駄に4階にも停まり・・しかも誰も乗り込んでこなかった。
「ああ、じゃあ再発して根治ですか。そりゃ大変ですね。・・あ、失礼、忘れ物をしました」
神田は手を伸ばして3階のボタンを押すと、3階で下りていった。
「うまく行くといいですけどねぇ。じゃ、頑張って下さい」
という言葉を残して。
残された留美は、ほぅっ、とため息をつくと天井を見上げた。鏡張りの天井に映る右頬は、たしかに腫れている。
ああ、ホント、運が悪いわ。よりによってあの人に見つかるなんて・・・

神田とは、出勤時間が近いらしく、引っ越してきた頃から、朝のエレベータが2、3日に一度くらい一緒になった。しがない営業マンです、と言う神田は、営業らしく人懐っこく、短い時間でもこちらの顔を見ながらにこやかに話しかけてきた。留美も気分良く応じていたのだが、半年ほど前であろうか。
「若林さん、いえ、先生・・歯医者さんだったんですね」
いつも通りの挨拶のあと、いつもとは若干違う笑顔で、突然神田が言い出した。
「えっ?」
「僕ね、歯科の治療台を売ってるんですよ。昨日、先生がお勤めの三波歯科にパンフレットをお届けしたんです。で、お見かけしました。」
先日までとは、まったく違う口調であった。
「あ、声掛けてくださればよかったのに。それに、そんな、あらたまらなくても」
恐縮する留美に神田は言葉をつないだ。
「それでなんですね・・いえね、帰りにたまにご一緒するときはいつも歯科の匂いがするので、」
ああ、あの匂い、染み付いちゃうんですよね、と言おうとしたが、神田の次の言葉に、留美は口をきゅっとつぐんだ。
「てっきり、よく歯医者に通ってらっしゃるのかと思ってたんですよ。ちらっと見た感じ、歯、相当お悪いようですし。まさか、歯医者さんがそんなに歯を悪くするなんて思いませんからね。」
留美はおそらく、泣きそうな顔をしていただろう。エレベータの階数表示を見つめて、早く着きますようにと願う留美に、神田は追い討ちをかけたのだった。
「昨日はもちろん声をおかけしようと思ったんですけど、少し暗い顔で、治療台に座られるところでしたから・・ご自分が。」
「あ、あのとき、でしたか・・」
留美が、何か言わなければ、と、ようやく絞り出した声は、かすれていた。3階・・2階・・・早く・・1階!
エレベータがクゥゥッ、と止まる重力にかぶせるように、神田がさらに言葉を継いだ。
「今のは仮歯ですよね、新しい差し歯、綺麗に入るといいですね。前のはマージンが目立ってきてましたから。」
ようやくドアが開き、神田は
「では、お大事に。」
と言って出て行ったのだった。
それ以来、ときどき会う神田は、会うたびに、留美の歯の話をするのだった。

クゥゥッ。エレベータが止まり、ドアが開いた。
誰にも会いたくなかったのに、今度は掃除のおばさんがエントランスホールを掃除している。
「おはようございます!」
「お、はようございます・・」
「あら・・ほっ・・ぺ・・」
とおばさんが言いかけるのを聞こえなかったかのように無視して、留美はそのままホールを突っ切って外へ出た。
外へ出ると、よく晴れて太陽がまぶしい。バッグから大き目のサングラスを出してかける。これなら少しは頬も目立たないだろう・・留美は少しうつむき気味で、職場へ向かった。

職場に着くと、やはり全員の注目を浴びてしまった。
「ありゃー。静かにやったつもりだったけどな、痛いか?」
一応、今のところ担当医である吉野が顔を覗き込んでくる。
「痛くは無いの・・やっぱり目立つかな・・」
「マスクすればダイジョブじゃないかな」
「そう願いたいわ」
留美は、並んでいる中で一番面積の大きいタイプのマスクを取り、鏡の前でつけてみた。腫れていることを知っている自分にはわかるが、普通に見る分にはわからないだろう。留美はホッとして、いつも通り、仕事を始めた。
渡された真新しいカルテと問診表によれば、留美の最初の患者は、昨日の夜から歯が痛くて眠れない、と駆け込んできた27歳のOLらしい。こういう急患のために、三波歯科では、歯科医のうち一人は朝一番の予約を入れずに空けておく。その番に当たると、急患が来ない日は朝、少しのんびり出来るのだが、まあそういうラッキーはあまり起きない。そして、急患というのはたいてい少し面倒な治療を必要とするのだった。白衣を着てマスクをし、歯医者モードに入っている留美は、よくもまあ、こんなに毎日歯が痛くなる人がいるものね、と他人事のように感心しながら、患者を迎えた。右頬をハンカチで押さえて、暗い表情だ。寝不足なのか、少し腫れぼったい目をしている。
「よろしく、お願いします」
「担当させていただく、若林留美です。どうぞ。」
治療台に座るよう促して、留美はすばやく患者を観察した。別に、女性としての意地悪で観察しているのではなく、治療方針などを決めるために必要なのである。
まあ、服も綺麗だし、几帳面そうよね・・不潔で虫歯だらけとか、お金が無くて治療に来られませんでした、ということではなさそうだわ・・
「えーと、福原さん、歯が痛むということですが・・どうされました?」
患者が座ったのを見て、訊く。患者・・福原朋美は、右頬に当てていたハンカチを外して、留美の方を向いた。
あ・・
見覚えがあった。朋美の顔にではない。右の頬骨の下辺りがうっすらと赤くなり、腫れている、その状態に。
「右上の歯が、昨日の・・夕飯を食べている頃から痛み出して・・」
あまり歯の見えない話し方をするが、少しだけ見えた歯の先の透明感から言って、左上2番は前装冠ね、と留美は観察した。それほど歯が丈夫なわけではないようだ。2番が単独で差し歯の場合、ほぼ間違いなく原因は虫歯である。矮小歯を整形する場合でも、最近は普通レジンを使う。
「それは、昨日が初めて?」
「そういえば、何度か少し、ちょっと浮くような感じがしたりしたこともあります、でも、その時は疲れてるのかなって」
右頬の赤みを見つめている留美の目が冷たかったのか、朋美は言い訳するように付け加えた。
「で、でも、見ても虫歯ではなさそうなんです・・なので・・ついそのままに・・」
真面目なのだろう。留美は先に進むことにした。
「別に怒ってないですよ、進んで来たいところでもないでしょう。まずちょっと見せてもらいますね」
なるべく優しい声で言って、衛生士の美香に目で合図すると、美香が朋美にエプロンをつけた。朋美は落ち着かない様子で握り締めたハンカチを見つめながら、きゅっと口を閉じている。治療台が倒れはじめると、朋美は天井を見上げ、まばたきを繰り返す。
留美は、右手にミラーを持つと、その手でライトを点灯し、位置を合わせた。目を細めた朋美の顎に左手を添え、
「では、お口開けて・・あー」
と開口を促す。朋美は目を閉じて、ゆっくりと口を開けた。
留美はこの、初めて誰かの口の中を見る瞬間が割と好きだ。少しワクワクするというと不謹慎だが、小学校のとき、4月の新学期に、担任の先生誰だろう、と考えて待ち構えていて、ガラリ、と教室の扉が開いた瞬間のあの感じに似ている。
留美は初めて見る朋美の口腔内を一瞬だけ見回して、歯の付け根などには歯垢が溜まっているが全体的には綺麗に磨かれている歯と左上2番の裏の金属、奥歯に散らばる大小のギラギラした治療痕を確認すると、
ん・・だいたい想像通りね・・
と、満足して、痛むという右上に視線を移した。4番は健全歯、5番はどうやら本人は気付いていないだろうが虫歯になっている。そろそろ冷たいものが沁みそうだが、痛むほどではなさそうだ。そうなると、フルクラウンになっている6番か、やや大き目に歯の後ろを覆うインレーが嵌められている7番。
留美はミラーを左手に持ち替え、右手に探針を手にした。あまり几帳面な歯科医の仕事ではなさそうで、7番を探ると、インレーと歯の間に段差がある。歯はその境から少し白濁して侵され始めているが・・
「福原さん、どの歯が痛むかはわかりますか?」
留美が訊くと、朋美は目を開け、かすかに首を振った。
「少し響くかもしれませんけど、我慢して下さいね」
その言葉を聞いて不安そうな表情になった朋美にかまわず、留美は探針の上下を持ち替えると、柄でコツコツ、と7番を叩いた。朋美が少し眉をひそめる。痛むのか。次に6番。・・コツ、コ・・
「んはぁっ」
朋美は激しく顔を歪め、痛みに悶えた。
やっぱり二次齲蝕か、と留美は診断した。この年代のきちんとしていそうな女性が歯が痛いと言って来れば、ストレスから来る気のせいか二次齲蝕、たまに急性の歯周病、といったところだ。
留美は、ミラーと探針を抜いて、治療台を起こした。
「おそらく、昔治療した歯のかぶせ物の下が虫歯になっています。根っこがどうなっているか見たいので、レントゲンを撮らせて下さい。」
叩かれた痛みが残っているのか、右頬に手を当てた朋美が頷く。
問診表の、「問題のあるところはすべて治す」に印がついていることを確認すると、留美は美香にパントモとデンタル両方の準備を頼んだ。美香に連れられて朋美がレントゲン室に消えると、留美はカルテに書き込みをしながら、自分と同じように右頬が腫れている患者を診るなんてね、と少しおかしかった。問診表の字も綺麗だ。最後に歯科を受診したのは(4)年前、などと記入されているのを眺める。「歯は比較的丈夫なほうだと思う」に丸がついているのが少し不思議である。朋美の口腔内はさっき一瞬見ただけだが、「比較的虫歯になりやすいほうだと思う」あるいは頑張っても「どちらでもない」だと思うが・・もちろん、テストではないのでどう答えてもいいのだが。
美香が呼びに来たので、レントゲン装置のスイッチを押しに行き、朋美と共に治療台に戻って、レントゲンを待った。
「今日、お仕事はお休みされましたか?」
「あ、半休を取りました・・でも、顔が腫れてしまってるから一日お休みしようかと・・あのぅ、これ、明日までに治るでしょうか」
「そうね・・場合によるとしか・・原因が無くなれば引くはずだけれど、軽くても2,3日は続くでしょうね」
言った後でハッとする。しまった。明日の休診日に免許の更新に行くつもりだったのに・・こんな顔では・・5年間、腫れた顔の写真の免許証で過ごすことになってしまう・・しかし明日を逃すと、誕生日を過ぎてしまう・・「うっかり失効」なるものが認められることは知っているが、几帳面な留美の中では「うっかり」と言われるのはかなり抵抗がある・・・
朋美は、急に黙り込んだ留美の様子に、自分はもっと日数がかかる、と言われているのかと心配になった。
そこへ、美香が出来上がったレントゲンを持ってきた。

パントモによれば、痛む原因と思われる右上6番と前歯の他に、抜髄済みの歯が2本。インレーは大小合わせて8本ある。やはり、「歯が比較的丈夫なほう」だとは思えないのだが、朋美は自分の歯の治療状態をよく知らないのだろうか・・・
そう思いながらデンタルに視線を移した留美は、6番が原因であることを確信した。きっちり先まで根充できておらず、根尖病巣も黒っぽく見える。
7番もやはりインレーの下が黒っぽいが、歯髄には達していないようだ。
朋美がこちらをじっと見ているのに気付いて、留美は写真を指しながら説明した。
「痛みの原因はこの、奥から2番目、銀がかぶせてある治療済みの歯ですね。」
「えっと・・その歯は・・けっこう治療に時間がかかって、たぶんなんですけど、神経を取ったはずなんです。それでも痛むって、どういうことでしょうか」
一応、どういう治療をされているのかは把握しているらしい。しかし、時間がかかったというと、単純な抜髄ではなく根治だったのだろうか。後で聞くことにして、留美は説明した。
「神経を取るというのは、歯の中の神経を取るわけですけれど、歯の周りには神経はあるんです。なので、少し取りきれずに残っていた虫歯が進行した場合や膿が溜まってしまった場合には、痛みを感じます」
「はぁ・・」
「神経を取ると、その後にゴムのようなものを詰めて封をするんですが・・この白く映ってる部分ね、この歯は根の先の方が上手く詰まっていなくて少し隙間があって・・そこから膿んで、ここ、黒っぽく見える膿の袋ができてます。簡単に言うと膿で骨が溶けているから、黒く見えるのね」
骨が溶けてる、と聞いて、朋美はひっ、と怯えた顔になった。
「ど、どうやって治すんでしょうか・・」
「そうね、もう一度削って、根を綺麗に掃除しなおして、詰めて、って感じかしら」
「あの・・ちゃんと、治り・・ますよね。」
おそるおそる、と言った感じで聞いた朋美に、留美は教科書どおりの答えを返した。
「うまく行かないこともあるわね、その時は・・歯を抜くことも有ります。」
「よくあるんですか、あの・・」
「そうね、前のときは長くかかった?」
「はい、けっこう・・なかなか綺麗にならないって言われて、何ヶ月か・・ダメなら抜くって、そのときも聞きました」
だとすると根治だったのだろう。
「2度目となると格段に難しくって、成功率は4割から6割って言う・・わ・・ね・・・」
教科書どおりに答えてから、留美は自分の歯の状態に思い当たってハッとした。2度目になると・・成功率はほぼ半分・・・
自分の右上7番も、根管治療が2度目なのである。
留美は、必死に自分の歯のことは頭から追いやって、目の前の患者に集中しようとした。
「あと・・後できちんと見せていただきますが、その歯のほかに、写真を見る限り、治療が必要な虫歯が・・そうですね、奥歯に2本・・前歯に1本・・頑張って治していきましょうね。」
と説明し、朋美の治療に入ったのだった。

さて、昼休み。朝一番目から根治をした留美は、疲れてしまった。三波歯科の昼休みは比較的長い。留美は少し昼寝をすることにした。起きてから昼食を食べれば、目も覚める。一番奥の治療台を途中まで倒して、留美は横になった。治療台は、普段緊張した状態でしか座らないのであまり気付かれていないが、実はかなり快適に作られている椅子なのだ。留美はすぐに眠りに落ちた・・・

・・やく降りて来なさい、今日は前歯の治療をするから」
食卓から立ち上がりながら祖父が言う。小学4年生の留美の毎日に、夕食後の歯の治療が組み込まれるようになって3日目だ。生まれて初めての虫歯治療の日、中耳炎をはるかに上回る痛みに泣き叫びながらの治療が終わって脱力していた留美に、祖父は治療は毎日続く、と宣告したのだった。祖父は、当時すでに時代遅れになりつつあったアマルガムで留美の治療を施したので、治療後1時間ほどものが食べられない。そこで、少し留美たちの夕食は早まり、その後で治療をすることになった。父親は毎晩仕事で遅くなるので、関係ない・・・もしかすると、まだ留美の虫歯についても知らないかもしれなかった。
「あら、前歯?留美ちゃん、虫歯たくさんあるって聞いたけど、前歯まで虫歯なの?おばあちゃんは前歯が虫歯になったことはないわね。女の子なのに、大変、もうお片付けはいいから、早く歯磨きして治してもらいなさい」
祖母に言われ、留美は逃げるようにその場を去った。虫歯にしたことを責められていると感じたし、自分でも、前歯が虫歯なんて大変だ、とわかっていただけに、辛かった。しかも、おとなのは・・歯を磨きながら、留美は少し泣いた。
歯ブラシをしまうと、手鏡を取り出し、上の前歯の裏に当てて、正面の鏡に映してみた。こうすると、上の歯がよく見えると、発見したのだ。前歯の裏には、たしかに茶色い点・・しみ・・のようなものがある。周りは真っ白になっている。白い歯、は真っ白とは違うのね、と留美はなんとなく思った。
診察室に下りていくと、祖父はすっかり準備を整えて待っていた。
「よろしくおねがいします」
と言って治療台に座ると、エプロンがつけられる。留美はこのエプロンも嫌いだった。ブルーは好きな色だが、このエプロンはなんだか変な色だ。茶色い染みが付いているのも嫌だ。
ヴィィイイイン。
3日前まで好きだった、動く椅子も大嫌いだ。この、脚の裏、ソックスから出た部分が吸い付くようなこの椅子の表面も嫌だ。治療台の動きが止まると、留美は自分でずりずりと上がって、ヘッドレストに頭を合わせた。
「今日は、前歯を治療するからね。痛いよ。動くと危ないから、お口開ける器械つけようね。あーん」
なに?と確かめる間も無く、祖父は留美の右の奥歯に何かを噛ませ、ギリギリ、と留美の口を開かせた。
・・お口が・・閉じられない!
しかも、痛いよ、と言った祖父の言葉が頭の中で響く。
混乱しているうちに、治療は始まった。
ヒュィイイイイイイイイ・・チュイ、チュイ、チュィイイイイ
口の中でタービンが音を立て始める。前歯から伝わってくる振動は、奥歯のときと違い、即座に痛みに変わった。
「ぃ・・いああぃいい・・」
「動いたらダメだ!すぐ終わるから。」
チュィイイイ、チュィイ・・
「ぃだぁあああああ」
「我慢しなさい!」
キュィイイイイ、キュウゥゥゥ。
すぐ終わる、と言ったとおり、たしかに、削る時間はそれほど長くはなかった。
「動いちゃダメだって言っただろう・・」
祖父はぶつぶつ言いながら、留美の口から開口器をはずし、治療台を起こした。隣の2番が少し後ろに入って重なっている状態で、1番の裏側を削ったのだが、留美が動いたので、2番の端が少しタービンに当たってしまった・・というよりは、2番の端も少し削ってしまった。まあ、エナメル質が少し削れたくらいだろう・・
口をゆすぎ終わった留美が、また背中を治療台に預けたのを見て、治療台を再び倒し、祖父は、今削ったばかりの窩洞に、アマルガムペーストをくいくいと詰め込んだ。10歳の留美の前歯の裏に、鈍く黒っぽく光る小さな丸ができた。
「見るか?」
治療トレイに置かれた大小2枚の手鏡で・・こわごわ前歯の裏を映してみる。
・・あっ・・・
そこには、思ったよりも・・さっき見た茶色の点よりも大きな、「ぎんば」ができていた。裏だから見えないけれど・・・
おとなのは、の、前歯が、ぎんば・・・ずっと・・・大人になるまで・・
留美は、いーっ、と前から見たり、手鏡で裏を見たり、を繰り返していた。
何度目かに、突然、その裏の小さな銀歯は消えて、ホッとした次の瞬間、黒ずみが広がり始め、また突然、今度は裏面全面が銀色に変わり、はっ、とすると、鏡に映る自分の顔は大人になっていた。びくっ、とした途端、誰かの呼ぶ声がする・・・

「若林先生、そろそろ起きないと・・」
目を覚ますと、実家ではなく、勤務先の治療台の上に居た。隣にいるのは、祖父ではなく、衛生士の和歌子だ。
「お昼食べる時間、なくなっちゃいますよ?」
白い歯を見せて笑っている。和歌子のこの前歯は、自前の歯だ。神経も生きていて、裏に金属もない。去年、これまで溜め込んでいたらしい虫歯をかなり苦労しながら治した和歌子は、前歯もたしか虫歯にしていたが、あっさりとレジンで治療が済んだはずだ。これまでなんとも思ったことはなかったが、留美は、あんな夢の後のせいか、和歌子の自前の前歯が、猛烈にねたましくなってしまった。
不機嫌そうな顔になっていたのだろう、和歌子に
「どうかしましたか?・・もしかして、治療中の歯、痛みますか?先生呼びます?」
と心配され、留美はあわてて、
「ううん、そんなことないわ、大丈夫。」
と、作り物の、素人の目には和歌子より綺麗に見えるであろう白い歯を見せて笑顔を作り、治療台を降りて控え室に向かった。
控え室に入って正面の鏡に顔を近付け、いーっ、と前歯を映す。さらに両手の中指で上唇を持ち上げ、歯茎まで露出させてみる。中切歯2本は、半年ほど前に換装したばかりのメタルボンド。歯肉の退縮で生え際のメタルマージンが黒く目立つようになってきてしまい、入れ替えるときに、表側はカラーレス処理されたものを選んだ。裏側も半分くらいまで白いものにしたかったのだが、噛み合わせなどの関係で、裏のほぼ全面に金属が見えているタイプだ。側切歯は6年前に変えたメタルボンドで、歯は問題ないが、やや歯茎の黒ずみが気になる。そして、こうしてじっくり見ると、右側の犬歯に入っている保険内の硬質レジン前装冠の変色が目立つ。
・・なんでこれも一緒に変えなかったのかしらね。
と一瞬頭をよぎったが、院長の三波に
「根はちゃんとしてるみたいだから、今はあまりいじらない方がいいんじゃないか?」
と言われたことを思い出す。おそらく、ブリッジの支台歯として使うときのために、という意味だろう。左側の犬歯はまだ生活歯だ。もっとも、裏側にレジンではなくインレーが入っているが・・。

留美は、ほうっ、っとため息をつくと、奥の、小さいキッチンのついた休憩スペースに向かった。席に着き、少し冷めかけたお弁当の蓋を開けると、アルバイトの助手の真衣がお茶を入れてくれた。
「若林先生、どうぞ」
さっきの和歌子のように、真衣も白い歯を見せて笑った。しかし、真衣の前歯の1本は差し歯だと知っているせいか、和歌子のを見たときほどには気持ちは騒がなかった。
「ありがとう」
笑顔で返しておく。と、そこに吉野がやってきて、同じテーブルに着いた。
「なあ、そろそろ歯科検診の日と当番決めようぜ」
「あ・・来週あたりからやろうって言ってたっけ。適当に決めてよ。」
「そんなこと言うと、全部やらせるぞ」
留美は、吉野ならやりかねない、と苦笑いして、カレンダーを取り出した吉野に付き合うことにした。
去年、和歌子が歯痛で勤務中に泣き出すという事件があってから、院長の三波が、働いている全員に歯科検診を受けさせたのだった。今年も同じ時期にやろうと相談していたのである。
「今年は・・去年ほどじゃないと思うけどなあ。去年一度治療してるわけだし。新しいのは・・バイトの3人だけだろ?」
「そう願いたいわ」
去年検診をしたのは、衛生士が3人、フルタイムの助手が2人、アルバイトの助手が全部で5人と受付1人、の11人だったが・・・結果は思っていたよりも悲惨なもので、そこから約3ヶ月ほどの間、吉野と留美、三波の3人は、診察時間終了後、職員のための時間外治療に精を出す羽目になったのだった。真衣の前歯も、そのときに虫歯が進行しているのが見つかって、差し歯になったものである。
「じゃ、後で職員のカルテまとめておいて・・・」
「そうね、あと、ミーティングで皆に連絡しておかなくっちゃね」
「・・ところで、自分たちも?」
だいたいの予定を決めてから、吉野が発した言葉に、二人は顔を見合わせて、意味ありげに笑いあった。
二人とも、歯医者でありながら、歯が良いとは言い難い。
「私は治療中だから、いいわよ」
「・・だよな、俺もこの間治してもらったばっかだし」
「他のとこはちゃんと診てないわよ、ま、いいけど。それより、歯磨きしないと、ほら。」
留美が吉野を促して席を立ち、午後の診察のための準備に入った。

その日の診察時間が終わってから、留美はカルテキャビネットから、職員全員分のカルテを取り出し、ざっとチェックしてみることにした。
新しいバイトの助手3人のカルテは後で作るとして・・・あ、熊谷さんの姓を変えないと。
和歌子のカルテの名前を、吉野、に変えるついでに、ぱらぱらとめくってみる。
最初の検診では、未処置の虫歯が7本見つかっている。もともと、インレーが4本とレジン充填が2本あったようだが、治療後、インレーは6本に増え、さらにフルクラウンが3本もできている。レジン充填は4本だ。
・・けっこう見た目よりも、虫歯、多いのね。
昼間に感じたあの感情・・天然歯のままの和歌子の前歯に対する嫉妬・・が残っているのか、留美は少し意地悪な気分になるのを感じた。
次に、ふと目に付いた真衣のカルテに目を通す。
真衣は、1年のときから歯科助手のアルバイトをしていて、現在大学3年生である。高校の頃にも地元で助手のバイトをしていたとかで、なかなかのベテランだ。しかし、助手の腕の割に、自分の歯に対してあまり関心が高いわけではないようで、検診で見つかった虫歯の数は、かなり多いほうであった。検診のときに治療済みだったのは、6番が4本と、左下の7番の、合わせて5本のインレー、と、まあそれほど悪くはなかったのだが、検診では、他の3本の7番のC2が見つかってインレーが入り・・さらに左上1番がC1でレジン治療、そして右上1番のC3が前装冠になった。歯の色が悪いのを気にして、大学に入学する直前に前歯全体に審美歯科でラミネートベニアをしたらしく、見た目は綺麗だったのだが、逆にそのために虫歯の発見が遅れた、というところである。まだ大学生なのに!と、治療中に泣かれたことを思い出す。

「えーっと、次、は真衣ちゃんね、最後だわ。」
留美は、助手の名前を呼んだ。同僚の吉野と二人で手分けして、一日に二人ずつ、三日間に渡って、スタッフの歯科検診をして、今日が最後だ。全部で11人なので、じゃんけんをして、吉野が今日は一人で終わってカルテの整理をして治療の計画を組み始め、留美が真衣を見たら全員終了という計画だ。
実のところ、スタッフたちの歯の状態に、留美は自分の歯を棚に上げて、少しがっかりしていた。が、真衣は歯科助手のベテランでもあるし、問題なく終わるだろう・・
「よろしくお願いします。」