理緒は、自分の治療が終わってしばらくたった休日、父親と一緒に、診察室の掃除をしていた。
父親は、受付の机に座って、理緒のカルテをいろいろと眺めている。
「それ・・私の?見せて。」
「見てもわからんだろう・・見て反省するのか?」
上顎の歯間をすべて虫歯にしてしまったため、ずいぶんな量の書き込みがあるカルテであった。
後ろに挟み込まれたレントゲンも、真っ白く写った部分が多く、根まで白く詰められた歯も痛々しい。今はさらに、前歯も1本、白くなっているはずであった。
「ちゃんと場所に戻しておけよ。場所はわかるだろ。終わったら鍵閉めて。さっさと上がって来いよ。夕飯だから。」
と言い残して、父親は自宅へ上がっていった。
「はあ・・改めて見ると虫歯だらけ・・上の歯が全部虫歯なんて・・・我ながら、ちょっと引くね」
ぱふっ、と厚みのあるカルテを閉じて、理緒はため息をついた。
そうだ、戻さなくっちゃ。
すぐ横にある、カルテのキャビネットを開け、ふ、のフォルダを探し、名前を繰って行った。
ふかわ・・・ふくだ・・・ふじい・・・あった、ふじい。
と、理緒の目に、藤井亮、というカルテが目に入った。
あ、お兄ちゃんのだ。
先日、機会があったら見てやろう、と思っていたのだ。
見ちゃおうっと・・・
理緒は、亮のカルテを取り出した。理緒ほどではないが、案外量がある。
ひょっとして、けっこうたくさん虫歯あるとか?
理緒は、亮は父親と同じで歯が丈夫、虫歯があったとしても1,2本だろうと思っていたのである。
主治医・・鎌谷隆・・・って、あの四国の?
10年前くらいまでここで働いていたというから、ちょうど亮が今の理緒と同じくらいのときまで居たことになる。
じゃ、お兄ちゃん、あの鎌谷先生に治してもらってたんだ・・
嫌な奴、と亮が言っていたのを思い出して、にやっとする。
表紙にある、歯式図は、見方がよくわからないが、ほとんどの奥歯に何か書き込みがされている。
これ、全部治したってこと?・・・なんだ、お兄ちゃんも、歯、悪いんじゃない。
ぱらぱら、とめくろうとすると、最後にある、「治療完了」と書かれ、写真が貼り付けられたページが開いた。
その写真を見た理緒は、あっ、と声を上げそうになった。
う、うわ・・ひっどい。なにこれ。私の上の歯より、銀歯多いじゃない?
おそらく下の歯の写真だが、奥歯はすべて、8本とも銀歯になっていた。間違いなく、理緒の上顎よりもひどい。
上の歯は??そうだ、レントゲンレントゲン・・・
後ろに作ってあるポケットから、さっきみた自分のと同じ、パントモを探し出す。
あちゃー・・・やっちゃったよ。ああ、歯医者の息子なのに。ってか、歯医者なのに。
そこには、上も下も、すべての奥歯に大きな詰め物が白く、くっきりと写っていたのであった。
・・でも、お兄ちゃん、こんなギラギラじゃないよね?
亮の歯を見たことはないが、これほど多くの銀歯があれば、さすがに気付くはずである。
首をかしげていると、当の亮がいきなりあらわれた。
「早く来いよ」
と言った亮は、理緒がカルテを広げているのを見咎めた。
「何見てんだよ。カルテは個人情報だから一般人は見ちゃいけないの。今、いろいろうるさいんだから・・」
取り上げて、キャビネットに仕舞おうとした亮は、それが自分のものであることに気付いたのだった。
・・・見られた?
内心の動揺を隠しつつ、亮は、さっさとカルテを仕舞って、キャビネットに鍵をかけた。
「ねえ、聞くけどさ、お兄ちゃん、銀歯あるよね?」
探るように聞く理緒に、亮はさらりと、
「あるよ」
と答えた。
「え、たくさんある?どこにあるの?見せてよー」
あまりにしつこく理緒が言うので、
「そんなの見てどうすんだよ・・ここ。見にくいけど」
と、少し上を向いて、唇を開き、右上7番のインレーを見せた。
理緒は素早く、全ての歯に目を走らせたが、亮の口の中には、ねたましいほど真っ白な歯が綺麗に並んでいて、銀歯は今指差したところだけのようだった。
「ふーん・・綺麗だね。おっかしいなあ。さっき見たお兄ちゃんのカルテ、銀歯だらけだったのに。」
「俺の?俺のカルテはウチには無いよ。さっきのは大学で治したやつだから。」
「なんだ・・同姓同名ってオチかー。つまんないの。ま、そうだよね、歯医者さんがあんなに虫歯だらけなわけないよね」
「さすがにそれは偏見だけどな・・」
理緒の後ろから階段を上りながら、亮は、10年ほど前のこの診察室での辛い日々を思い出していたのだった・・・
ガコッ、カラーン・・・・
「何やってんだよ・・お前最近調子悪いな。」
亮は、中学2年になったばかりであった。陸上部で、ハイジャンプをやっている。しかし春休みあたりから、1m70も跳べずにいた。
「なんか腰が痛くて・・」
亮は、腰を曲げてよたよたと歩いてみせ、笑いを取った。
が・・実際、痛いのは歯であった。普段はなんともないのだが、踏み切るときに、歯をぐっと噛み締めると、奥歯に痛みが走るのだ。
おかげで力が抜けてしまい、うまく飛べない。強く噛みすぎるせいだ、と最初は思っていたが、今は自分でもわかっている。虫歯のせいだ。歯科検診でも、要治療の歯がある、と言われた。放っておいたらそのうち痛み出すよ、とも。しかし、亮は夏休み前に配られた、治療のおすすめ、をこっそり捨てた。
亮の家は歯科医院で、小学校の頃までは父親が検診や歯磨きなどを厳しく管理していたが、中学校に入ると、突然何も言わなくなった。
小学校卒業まで、虫歯にもならずに来たので、亮は母親には似ず歯が丈夫だ、と安心したのかもしれない。
母親は歯が悪く、衛生士をしていて手入れが完璧であるにもかかわらず、しょっちゅう治療を受けていたのである。母親に似れば歯は弱いだろう。実際、亮の10歳年下の妹、理緒は、3歳の頃、父親が数ヶ月留学して目を離したすきに、奥歯を全部と上の前歯を虫歯にしてしまった。幼稚園に入る前に、すでに奥歯を銀歯にした理緒を、亮は「ぎんこ」と呼んでからかった。
しかし、中学に入り、陸上部に入ると、亮の口内環境は一変した。練習の間中、スポーツドリンクを飲みまくり、部活が終わって下校途中に間食、夜はしばしば疲れて歯も磨かずに寝てしまう・・・そのうえ、管理の目が届かなくなったとあっては、虫歯ができるのは当然だった。
「そろそろ、やばいかな・・・」
秋になって、スポーツドリンクが歯にしみるようになり、亮は少し怖くなってきた。噛み締めて痛むのは右下だけだったのだが、しみる歯はあちこちにある。
「どうなっちゃうんだろ・・痛くなったりすんのかな・・」
自宅は下が歯科医院で、亮はよく、痛そうに顔をしかめて頬をおさえてやってくる患者の姿を目にしていたのである。制服姿の女子高生や、スーツ姿のサラリーマンや真面目そうなOL風の女性、中年男性など、誰もが、この世の終わりのような顔をしていて、かっこ悪、と、亮は部屋の窓から見て笑っていたのに・・同じ顔をすることになってしまうのか??
3年生になる頃、それは亮にも理解できるようになった。
「つっ、いてて・・・」
右頬をおさえ、ふと鏡に映った自分の顔は、歯科に駆け込んでくる患者たちと同じ顔であった。
「どうしよう、俺・・・」
しかし、歯が痛いなんて、恥ずかしくて誰かに言えたものではなかった。
痛みはまあ、なんとか、我慢・・できるかも。
虫歯が見つかると嫌なので、歯科検診の日は、頭が痛いとか理由をつけて学校を休んだ。
しかしタイミング悪く、その年の歯科検診の当番は、藤井歯科で働いている、鎌谷であった。
鎌谷は、亮が歯科検診を休んだこと・・そして、検診票の去年の欄に、要治療・5本と記入されているのを見て、
亮くん、虫歯があって、検診逃げたな・・
と確信したのであった。
次の土曜日。
亮は、強く、そして多くなる歯の痛みに苦しんでいた。ズキズキと頭まで痛い。
部活はもう、辞めてしまった。走ると着地の衝撃が歯に響く。
「やばい・・もう限界かも・・・治してもらおう」
歯の痛みは、亮の想像を超えていた。あいにく、今日は父親は出張で留守だが、鎌谷にでもいい。ついに観念して、診察室への階段を下りていこうとしたとき、ちょうど、診察を終えた鎌谷が、上がってくるところだった。たまに食事をして行くのだ。
「あ、亮くん、このあいだ歯科検診サボ・・」
と言いかけ、頬に手を当てている亮の様子に気付く。
「もしかして、痛いのか?」
亮は、こくり、と頷いた。
鎌谷は、亮をなかば引きずるようにして、診察室へ戻ってきた。
「そこ、座れ。」
その勢いに、帰ろうとしていた衛生士たちも驚いた。
「私、残った方がよければ残りますけど・・」
衛生士の中で一番若手の真菜が申し出た。
「ああ、頼むよ。」
真菜があわてて、エプロンを着ける。
「さて、亮くん。どこが痛い?」
「・・・奥歯。」
「それじゃ広すぎるなあ。」
「・・右下が一番・・・」
「一番?1本じゃないのか?」
「あの・・あちこち・・・・」
亮は、消え入りそうな声で答えた。亮くん、と、いつも可愛がってくれる真菜が付いているのも恥ずかしかった。
「とにかく、見せてみろ」
治療台がゆっくりと倒れていく。ウィーン・・という 音と振動が、静かな診察室に響く。
前にここに座ったのは・・・そうだ、6年生で乳歯を抜いてもらったときだ。
歯科医になったばかりの鎌谷に、「抜くのがもったいないくらい綺麗な歯だ」と言われたんだった・・・「明日治療に来る入れ歯の婆さんにあげたら喜ばれそうだ」と、冗談を言って大笑いしたのを、突然思い出した。
カンッ、と乾いた音がして、ライトが点灯された。
「口開けて・・・」
ミラーを手にした鎌谷が促す。亮は観念して、口を開けた。
「お、おい・・・」
鎌谷はさすがに驚いた。ミラーを構えていたが、ミラーを使う必要はなく、ぱっと見ただけで、奥歯は全部虫歯に侵されていることがわかった。
「お前、何やってるんだよ・・・」
予想外の言葉に、カルテを構えていた真菜も、亮の口の中へ視線をやった。
「えぇっ?」
「亮くん、わかってるか?奥歯、全部虫歯になってるぞ。どこで噛んでるんだ?」
ぜ、全部・・・亮は、手が震え出すのを感じた。
実は亮は、怖くて、鏡は見ていないのだった。
さすがに全部とは思わなかった・・・・どうしよう・・・・・
今さらながら、取り返しの付かないことをしてしまった、と気付いた。
「震えてる場合じゃないだろ。3年前まで、綺麗な歯だったのに・・・」
ミラーが挿入されないので、亮は口を閉じかけた。
「閉じていいって言ってない!」
鎌谷が怒鳴り、右手で亮の下あごをつかんだ。亮はびくっとした。鎌谷はかまわず、そのまま右手を動かし、亮の口腔内をいろいろな方向から眺めていた。
「ふ・・ん・・・甘いものの飲み過ぎだな。かっこつけて、スポーツドリンクとか飲んでたんだろ。」
かっこつけてたわけじゃない・・・誰でも飲むよ・・・亮は心の中で反論した。顎をつかまれたままなので、何も言えなかったのだ。
「お前は歯医者の息子だろ?甘いものが歯に悪いってことくらい知ってるだろ?歯医者の息子じゃなくたって知ってるよな。飲んでも、飲んだ後で口をゆすぐくらいのことができないのか?お前はバカか?」
鎌谷は、つかんだ顎をゆさぶった。
「い、いは、いははっ・・」
指が食い込むだけでなく、痛む歯に響いて、思わず声を上げた。
「か、鎌谷先生・・亮くんがかわいそうです」
真菜に言われたのがいっそうみじめだった。
さすがに少し興奮しすぎたと思ったのか、鎌谷はつかんでいた手を離し、ふっ、とため息をついて、治療台を起こすと、向き合って話し出した。
「痛み止めだけして、院長が戻ってきてからと思ったが、こんなにひどいんじゃ、放っておけん。治すぞ。いいか?」
いいか?も何も、亮は早く痛む歯をどうにかして欲しかった。早くしてくれよ・・。
「お・・おねがいします」
「そこまで行ったら、治すのも相当痛いからな。覚悟しろよ。」
「えっ」
亮の顔が強張ったのを見て、鎌谷はたたみかけるように続けた。
「虫歯は、痛くなってからだと、治すのはもっと痛いんだよ。知らなかったか?」
も、もっと・・そう思った瞬間、
「・・つっ」
突然痛みが強くなり、亮は思わず頬を押さえて、鎌谷を見上げた。
情けない顔・・してるんだろうな・・・亮は思った。
「で、でも、麻酔とか・・・」
「もちろんするけど。それでも痛いんだよ。どうしてそんなになるまで放って置いたんだ。予約もせずに、診てくれって言えばいいだけだろ?自分の家から降りてくるだけでいいだろ?」
鎌谷の説教は続いた。
もう・・わかったから・・早く治してくれ・・・
亮は、ズキズキ痛む頬を押さえながら、顔をしかめた。
「まあ、さっきは自分で降りてきたみたいだが・・・ちょっと遅すぎたってことだな。」
そこまで言ってから、鎌谷は治療台を倒した。
やっと・・やっと治してもらえる・・・亮は、倒れていく治療台に体を預けながら、ほぅっ、と息をついた。
「ほら、口開けて・・一番痛むのは・・右下だったな?」
亮は、鎌谷のほうを横目で見ながら、頷いた。
口腔内に挿入されたミラーが、歯に当たってカチカチ音を立てる。
「ん・・まあそうだろうな、ここから行くか。シンマ用意して。」
鎌谷は真剣な顔になり、ミラーを左手に持ち変えると、ミラーの背で頬を開いてスペースを作り、ロールガーゼをぐいっ、と押し込んだ。
「一応、チクっとするぞ・・この後の治療に比べたら、蚊が刺したくらいなもんだけどな」
そう言いながら、歯茎に針を打ち込んだ。
ビクッ。
歯の痛みで、痛覚は麻痺するどころか敏感になっているらしく、亮はそのチクリ、という針の刺激にも反応してしまった。
鎌谷が、そんな亮をからかうように言った。
「もしかして、痛いの弱いのか?」
シリンジが押し込まれると同時に、顎が膨れていくような感覚があり、その圧迫感に思わず声が出てしまった。
「うー・・・」
「こんなので反応するくらいだったら、治療中、痛くて気絶するぞ。男だからまさか、泣くわけにもいかんしなあ、恥ずかしくて。」
ようやく針が抜かれる。
「口ゆすいで。麻酔が効くまでの間にレントゲン撮るぞ」
治療台が起こされ、水を口に含む・・・と、麻酔のせいで、右側から水がダラダラとこぼれた。
「あっ・・・亮くん、はい。」
気付いた真菜がハンドタオルを差し出してくれる。恥ずかしくて、真菜の顔をまともに見られない。うつむいたまま軽く頭を下げ、上目遣いでちらっと窺うと、真菜は、大丈夫よ、というふうに微笑んだ。そんな顔されると余計に恥ずかしい・・・亮は、口を押さえてなんとか口をゆすぐと、また水をこぼしながら吐き出した。
治療台から降りると、レントゲン室に入る。
「大丈夫、レントゲンは痛くないからね。ちゃんと、じっとしててね」
と真菜に声をかけられ、亮は顔がカッと熱くなった。痛いのを怖がっていると思われているなんて!
亮が治療台に戻り、真菜に後ろからエプロンをつけられていると、鎌谷は突然言った。
「俺は別に、お前のこといじめてるわけじゃないんだからな。正直に言ってるだけだ。」
その言葉の真意がわからず、亮は黙っていた。
「というわけで、正直ついでに言うと。」
何か悪いことを言われるのか・・・亮がおそるおそる鎌谷を見る。
「お前、そんなんじゃすぐ入れ歯になるぞ。」
・・・なんだ、脅しか。
そう思った亮の心を見透かしたように、鎌谷は続けた。
「脅しじゃないぞ。その痛いところ、歯髄・・神経ってやつだな、そこはおそらく抜かないといけない。抜いたら歯は死ぬんだよ。で、死んだ歯はびっくりするぐらい弱くなる。いくつまで生きるつもりか知らんが、少なくともその歯はもって二、三十年てとこだ。絶対だ。」
亮はムカッとしたが、説教はさらに続いた。
「が、それがわかってても、俺は今、その歯の神経は抜かなきゃならない。とりあえず、その虫歯が原因で菌が体中に回って死ぬ、とか、そういうひどいことにならないようにだ。歯を治すのが仕事なのに、その歯を殺さなきゃいけないんだぞ。かわいそうだろ俺。その俺からすると、お前は虫歯が痛くて泣いてるかわいそうな男の子、じゃなくて、歯を殺す原因を作った敵、ってとこだ。敵がいずれ入れ歯になろうと知ったこっちゃない。というわけで、痛がってるお前を助けるためじゃなくて、歯のかたき討ちをするために治療するからな。言っとくが痛いぞ。情けとして、麻酔は打ってやったんだから、ま、頑張れよ。」
そこまで言い終えると、鎌谷は椅子を倒した。
歯のかたき討ちとか言って、こいつ、ちょっと頭おかしいんじゃないの?
と亮は思ったが、同時に、これからどれほどの痛みに襲われることになるのか、と不安で動悸が激しくなるのを感じていた。しかも自分は、されるがままなのだ、と気付き、今日、治療してもらおうとしたことを後悔していた・・・
治療台が完全に倒れると、真菜が、亮のエプロンを少し引き上げ、服をカバーした。そして、自分も椅子に座り、スタンバイした。
亮は、両脇を完全にブロックされたような気分になった。
「じゃあ、口開けて。痛いのは仕方ない。我慢しろ。どうしようもなく痛くなったら、左手上げろ。いいな?」
右手にタービン、左手にミラーを構えた鎌谷が言った。
恐る恐る口を開けると、右からは鎌谷が、左からは真菜が、それぞれ両手に器具を持って自分の顔の上にかぶさってくるのが見えた。
亮は怖くなって、思わずぎゅっと目をつぶり・・その直後、タービンがうなりを上げ始めた。
ヒュィイイイイイイ
亮にとっては聞きなれた音のはずだったが、自分の口の中から聞こえてくるのは初めてだった。
予想していたより大きく聞こえるその音が恐怖を感じさせる。
チュィイ、チュイ、チュイ、チュィイイイイイ
タービンの先が、亮の崩壊しかけた右下7番の咬合面に当てられると、さらに別の周波数の音が体に伝わってくる。
あ・・こんなに・・口の中にいろんなものを突っ込まれるなんて・・く、くるし・・
「ああ、亮くん、お口閉じないでー。おっきく開けててねー。まだ痛くないからねー。」
口が閉じかけてしまったらしく、真菜から声をかけられる。亮は少し目を開け、横目で真菜の様子を伺ってみたが、真菜は仕事に集中しているようだった。少しホッとして、天井を見上げる。
ジュボボ、ジュボボボ・・
というバキューム音が、自分の唾液を吸い込んでいるのだと気付き、少し恥ずかしい。
キュィン、キュィイイイイイイン、キュィイイイイイイイイイン
なんだ、脅されたけど、振動だけで、そんなに痛くないな・・・でも、どのくらい続くんだろ・・顎が・・疲れる・・・
しかし、タービンの音はいっこうに止む気配が無かった。
ヒュゥウウウ、チュインチュインチュイン、ヒュゥイイ、ヒュィイイ、ヒュィイイイイ、ヒュィイイイイイイ・・・・・
キュィイイン、キュィイイイ・・・・
と、天井を見ている亮の目が、少し細められた。
ちょ、ちょっと痛い・・かもしれない・・・
キュィイイイン、キュインキュイイイイイン、チュイチュイイイイイン・・・
「んんっ」
亮の目が急にぎゅっ、と閉じられ、喉の奥からうめき声が漏れた。
「どうかしたか?まだまだ先は長いぞ」
鎌谷が声をかけながら、さらにタービンを奥へと進めていく。
ギュィイイイ、ギュィイイイイイイ・・・・
あ・・い・・いたいイタイいたいイタイ・・・
亮は、足を突っ張って、痛みに耐え・・ようとしていた。
「ああぁ、あぁ、ぁあぁ、ぁぁぁぁぁ」
が、どうしても、喉の奥から、声が漏れてしまう。
チュインチュインチュインチュイィィィッィィィィイイイイイ
「ぁ、ぁはぁ・・ぁ、ぁあああ」
「痛いねー、亮くん、もうちょっと頑張れるかなー、お口がんばってちゃんと開けてようねー」
「おいおい、中学3年にもなって言われる言葉じゃないぞ、ほら、口閉じるな」
「ぁはぁああっ、ぁ、ぁあ」
真菜と鎌谷に言われている屈辱的な言葉は耳には入ったが、今はとにかく、それよりもただ、痛かった。
い、いつになったら終わるんだ・・・・
チュイッィイイッィイイイイイイイイ
突然亮は、左手を上げればいいんだ!と思い出し、左手の肘から曲げようとしたが・・できなかった。
真菜の膝が、亮の左の前腕を押さえつけていたのである。
キュインチュインチュインチュイン・・・
「あ、ぁがぁああ、ぁああ、ぁあ、んぁああああっ」
ヒュウウゥゥゥゥ・・・・
シュポポポポ・・
亮がほとんど悲鳴に近い声を上げたとき、ようやく、タービンの音がやんだ。
はぁ、はぁ・・・
亮は、肩で荒い息をしていた。
「女子高生でもあんなに泣き叫ばんぞ・・とにかく、口ゆすげ」
その言葉を聞いて、真菜が、ふふっ、と鼻で笑った。
突然、亮は恥ずかしさがこみ上げてきて、鼻をすすった。
水を口に含もうとして、またこぼしそうになり、あわてて口をおさえる。
ゆすいで水を吐き出すと、歯のかけらがたくさん流れていくのが見えた。
3度ゆすいで、治療台に戻る。
「どうだ、初めての経験は。」
鎌谷にからかうように聞かれ、亮はむっと黙り込んで、息を吐いた。
「痛かったか?って聞くまでもないが、これで終わりじゃないぞ。このあと、もっとイターイ治療がある。」
亮は、本当にぎょっとして、鎌谷の顔を見た。
「残念ながら、ホントだ。でも、今は歯の痛みは引いたろ。」
そういえば・・・ズキズキと痛んでいた歯の痛みは、消えていた。
「は・・はい」
「じゃ、つかの間の休息をやろう。5分休憩。このあとはさっきより痛いからな。」
そう言って、鎌谷は椅子を立った。
「木下さん、抜髄の用意しといて。麻抜かな。・・ああ、念のために、拘束ベルトも用意しといて。」
真菜に言い残して、鎌谷は診察室を出て行った。
バツズイ・・マバツ・・・こうそく・・ベルト?まさか、拘束?
暗号のような指示に、不安がさらに掻き立てられる。
その様子を見た真菜が、器具をトレイに並べながら、
「亮くん、大丈夫、拘束ベルトは冗談よ。」
と、笑った。
「拘束ネットならあるけどね・・子供用よ、小さい子。亮くんには無理よ。」
「な、なんだ。」
亮は、ホッとした。が、真菜がさっき・・亮の左手をしっかりとブロックしていたことを思い出し、戸棚を開けて何かを探している様子の真菜の後姿を、不安な思いで見つめていた。
しばらくたって、鎌谷が戻ってきた。と、その後ろから声がした。
「亮、あなた、何やってんの・・。歯医者の上に住んでるのに、虫歯が痛くなって駆け込むなんて。もう、恥ずかしいけど、鎌谷先生に、しっかり治してもらいなさいよ。」
・・・母親だった。
告げ口しやがって・・・と一瞬腹が立ったが、でも、報告するのはまあ、当然だと、亮も思い直す。
「二人とも、ごめんなさいね、帰るの遅くなっちゃって。木下さん、大丈夫?帰りたかったら、私、かわるけれど・・」
母は、恐縮している。が、母親が治療補助に付く、それは最悪だ・・そう思って、真菜のほうを見る。
真菜は、鎌谷を一瞬見た後、
「いえ、大丈夫です。」
と答える。鎌谷が小さく首を振っていたのだった。
鎌谷が、亮の横にやってきて、座って腕を組むと、小声で言った。
「さすがに、全部虫歯だとは、言ってないからな。こんな口の中見て、びっくりして倒れられちゃ困る。ま、いずれわかるけどな。」
すると、後ろでも、真菜と母親が何か小声で話しているのがかすかに聞こえた。
二人は奥の小部屋に入って行き、しばらくして真菜がなにか手に持って出てきた。
幅の広い・・ベルト!?
さらに、母親が何かカチャカチャいうものを持っている。
「おっと、本当にあったんだ、そんなの・・」
鎌谷が、驚いたように言った。
「センセ、やっぱり冗談だったんですか?探しちゃいましたよ。」
「うちは古いからね。あるのよ。」
大人たちは、青ざめて見ている亮そっちのけで、楽しそうに話し始めた。
「へえ、ホントに使ってたんですか?大人用ですよね?」
「やっぱり、動くと危ないってときはね・・。若い男の人の患者さんに使うことが一番多かったのよ。男の人って、ダメねーと思ったわ。」
「ですよねー。痛みには男の方が全然弱いって感じで。」
真菜が、ふふっ、と笑いながら、亮をちらりと一瞥したような気がして、亮は今度はカッと顔が赤くなるのを感じた。が、話は勝手にさらに続いた。
「でも、若い男の人、力は強いから。動かれたら、本当に危ないもの。同期で、患者さんが暴れて、歯を折られちゃった子がいたわ。」
「うわ、こわーい・・・じゃ、これ、一応置いておきます。」
「そ、そっちは・・開口器ですか?」
「そう。」
「ワイダーは使うけど、こんな恐ろしげなのは・・」
「あれは、唇開いて、視野確保だけでしょう。きちんと口を開かせるときは、これじゃないと役に立たないのよ。」
「今はそれはバイトブロック使いますかね。」
「昔はこれ、ホントに使ってたんですか?」
「そうよ。実は私もはめられたことあるわ。夜、痛み出して緊急で抜髄してもらったときにねえ、補助がいなくて。」
「へえ、SMもののアダルトビデオみたいですね」
「せ、先生、それはちょっと・・」
「それは知らないけど、補助に付く側も、楽よ。」
「そうですね・・・じゃ・・一応滅菌かけておきましょうかこれ」
「そうだな」
鎌谷が言ったように、亮はよく似たものを、友達の家でこっそり見たAVで見たことがあった。
口を無理やり開ける、金属の開口器・・・絶対にイヤだ!!亮は恐怖で逃げ出したくなった。
「そろそろ・・おっと、10分も経った。」
「じゃあ・・すみません、よろしくお願いしますね。人数も少ないし、必要だったらベルトも開口器も、ホントに使ってね。うちの子になんてことを!って怒ったりしないから気にしないで。もちろん、呼んでくれてもいいわ。亮、頑張りなさいよ。痛いけど。」
そう言って、母親は戻っていった。
「さて・・と、長い休憩だったな。ん?どうした?顔色が悪いぞ。」
鎌谷は、青ざめている亮に向き直って言った。
「ああ・・開口器にびびったか?大丈夫だ、おとなしくしてれば使わない。でもちょっとでも動いたら使う。お母さんから許可も出たしな。」
ご、拷問だ・・・ああ、なんでうちは歯医者なんだろう・・・
多くの歯医者の子供が小さい頃に思うことを、亮は中学3年になって、初めて、しかし心の底から思っていたのであった。
治療台を倒しながら、鎌谷が独り言のようにつぶやく。
「うーん、麻酔・・まだ効いてるかな・・・」
はっ、と鎌谷のほうを見た亮の顔をじっと見てから、
「ちょっとたしかめよう。口開けて。」
と言い渡した。亮は不安そうな表情で口を開けた。何されるんだ・・でも、動いたら・・動いたら・・と、内心ビクビクしているのだ。
鎌谷は、スリーウェイシリンジを取り、亮の右下7番に、シュッ、とエアーとかけた。
「んがっ!」
顎を貫くような痛みに、亮は思わず声を出し、体はビクン、とはねた。
はっ!しまった!と、亮は口を開けたままで横目で鎌谷を見た。
「うーん、足した方がいいな。シンマ用意して・・もう一回、麻酔打つからな。なんだ?そんな目で見て。なんか言いたいことがあるのか?」
怪訝そうな顔で聞く鎌谷に、シリンジを渡しながら真菜が言った。
「先生が、さっき、動いたら拘束ベルトと開口器使うって。」
「ああ。忘れてたよ。」
なんだ、脅しだったのか・・・ほっとした亮に、
「使うか?」
と、鎌谷はあえて聞いた。亮は、ぷるぷると首を横に振った。
「まあ、今のはいい。見逃してやろう。治療始めてから動いたら、今度はホントに使う。口開けて。」
亮が口を開くと、鎌谷は歯列の外側と、内側から、麻酔の注射を打ち込んだ。
さっきの麻酔が残っているせいか、針の痛みはほとんど感じずにすんだ。
亮は、ホッと息をついた。が、起こされる気配がない。ふと見ると、鎌谷は何か針のようなものを点検していた。
「あ、あの・・」
おそるおそる声をかける。
「なんだ?」
「口・・ゆすいでいいですか」
「あ?ああ、すまん。」
予想外の言葉が返ってきて、治療台が起こされる。口をゆすいで、戻ると、すぐにまた倒された。
「じゃあ、いよいよ始めるかな。痛いぞ。」
鎌谷が、どう見ても楽しそうに言い、亮の方へ向いた。真菜もスタンバイする。
「歯の、根っこの中身を抜いていくから。口開けて。」
亮は、深呼吸してから、覚悟して口を開けた。動いちゃダメなんだ・・・
「まあ、そんなに緊張するなよ。」
さんざん脅かしておいて、鎌谷は言った。
「じゃ、クレンザーから。」
「はい」
鎌谷が指示を出し、真菜が何かを手渡す。
針のように見えるそれが、口の中に入れられるのを見て、亮は目を閉じた。
「よし、動くなよ」
その声を聞いて、亮は体を硬くした・・・次の瞬間、歯に何か打ち込まれたかのような痛みが走り、
「んがぁあっ!」
亮は思わず、思い切り顎を引くように動いてしまった。
「あぶないって!」
鎌谷の出した声で、亮は我に返った。
う・・動いちゃった・・・
しかし、痛みは、拘束される恐怖で我慢できないほどに強かったのだ。
「シンマ・・効きが悪いな・・・もう1本打とうか。」
最初、ビクッとするほどに痛かった麻酔だが、亮は、麻酔を打って済むことなら、いくらでも打ってくれ、という気になってきて、黙って口を開けた。
「よし、素直になってきたな・・・」
もはや、顔の右半分が倍くらいに膨れ上がったような感覚である。
「3本打ったあとじゃ、もう口はゆすげんだろ・・木下さん、バキュームおねがい。」
「はい。」
そして、鎌谷は亮のくちびるをつまんで開かせ、スリーウェイシリンジから水を出し、真菜がそれをジュポオ・・・と、バキュームで吸い取った。
「さてと・・3本も打ったからな。少しは効くだろ。っていうか我慢しろよ。」
今度は、真菜が、がっちりと亮のあごを押さえた。
「動くなよ・・」
さっきと同じ針が見え・・亮は目をつぶり・・・
「ん、んぁぁぁああ」
「よし、ちょっと進歩だ。そのまま・・」
「亮くん、頑張って。」
コリ・・・
クレンザーを、少し回転させた瞬間、
「ぁぁががぁあああああっ」
亮の口から吠えるような声が絞り出され、ひざがびくん!と曲げられた。
「亮くーん、動いたらあぶないよー」
「脅しで言ってるんじゃないんだぞ・・」
そう言って、体を起こした鎌谷は、ため息をついて、真菜に言った。
「本当に・・使うか。」
「そう・・ですね。他に補助いませんしね。」
真菜は、隣の治療台に置いた、拘束ベルトを取りに行った。
はっ、と息を呑む亮に、鎌谷が言った。
「ベルト、つけるぞ。」
亮は、かすかに首を振ったが、今度は真菜が言った。
「亮くん、あぶないから、つけさせてね。昼間だったら、他の人たちに押えてもらうんだけど、今、二人だから・・からだって、動いちゃうからねー。大丈夫、恥ずかしくないよー。人に押えられるより、恥ずかしくないでしょー。」
言いながら、真菜はてきぱきと、ベルトをかけていく。上腕部、膝下、膝上、腰骨の位置に、それぞれベルトをかける。
亮は、泣きそうな顔で首を起こして、ベルトをかけられていく体を見ている。
「亮くん、きつくない?大丈夫?」
亮はだまって頷く。
「あれみたいだな、ガリバー。しかし、手馴れてるね木下さん。」
「衛生士学校で、一応実習やるんです。あの、開口器は・・・」
亮が、その言葉を聞いた瞬間、激しく首を振った。
「体が動かなくなっても、口閉じたら危ないからな。仕方ない、つけよう。」
そう言った鎌谷を、亮が哀願するような目で見た。
「そんな目するなよ、ホントにSMものになっちまう。」
滅菌器から、真菜が開口器を取り出してきた。
「よし、口開けて・・ほら、進まないだろうが。」
鎌谷に言われ、亮は首を振りながらも、かすかに口を開けた。その前歯に突起をひっかけ・・口の横に出たつまみで、開口させる。
よりによって、一番恐ろしい形の、ホワイトヘッド型である。
「痛くないか?」
適度に開いたところで、鎌谷が声をかける。
亮は、力なく首を振った。
「よし、じゃあもう一回。」
再び、クレンザーを手にした鎌谷は、亮の7番の窩洞の中に・・・
「んぁ、ぁあんんんぁああああ」
コリ・・・
「んはぁあ!」
コリコリコリ・・・
「あは、あは、ぁあああああっ!」
亮が声を上げるたびに、拘束ベルトが、ビン!ビン!と張って、音を立てる。
唯一動く首が動きそうになるが、真菜が両腕でがっちりとホールドしていた。
「亮くーん、イタイねー、頑張ってー。あー、泣かないでー」
亮の目が、うるんでいたのである。
「おいおい、泣くのはいくらなんでも・・」
そう言いながらクレンザーを歯から抜き出した鎌谷が、その先を見ながら言った。
「ダメだなあ・・それに、ちょっと痛がりすぎるな。」
少し考えた鎌谷は、亮のほうを向き直って言った。
「もう一瞬だけ我慢しろ。そのあと楽になるから。」
涙目の亮が、口をあんぐり開けられたまま、見上げる。
「歯髄が腐っちゃっててな、麻酔が下からうまく入って行かないんだよ。だから、麻酔を歯髄に打つから。」
亮の顔が苦しそうにゆがむ。
「いや、歯髄に針刺すのは、今やったのと同じことだから。大丈夫だ。」
「頑張ろうねー。」
「木下さん、ちょっと、奥さん呼んできて。一瞬だけって言って。」
「はい。」
真菜が自宅に上がり、母親を連れてきた。
母親は、さすがに、開口器で口を開かされ、拘束ベルトで治療台に拘束された息子を見て、一瞬ぎょっとしたような顔をしたが、すぐに状況を飲み込んだ。
「どこ押えます?」
「えーと、足の先お願いします。」
「はい。」
「じゃ、私が頭を。」
亮は、母親と顔を合わせることができず、目をぎゅっと閉じている。
亮の開いた口の中の上顎を、下のほうから見た母親は、
ちょっと、亮・・その奥歯、ほとんど全部カリエスじゃないの・・・
と、息子に腹を立てるとともに、自分の歯の弱さのせいだと、かわいそうにも思っていた。
「じゃあ亮くん、注射打つからな。動くなよ。」
そして、針を、亮の7番の中に突き立てた。
「うぁあああっ!」
全身に力が入る。
「そうだ・・動くなよ・・」
「亮くーん、頑張ってー」
「亮、頑張って。」
「あぁああっ!」
「もう少し・・」
「んぁああっあっ」
「もう少しだよー。」
「ぁああ・・・」
「あとちょっと・・」
「ぁあ・・あはぁ・・・」
麻酔が効き始めてきたらしく、亮の体からゆっくり力が抜けていく。
「よし、と。」
「頑張ったねー、えらいよー。」
これで・・痛くないなら・・・この口の道具・・外してもらえるかな・・・・
亮は期待したが、鎌谷は、母親に礼を言ったあと、ふたたびクレンザーを手に取り、
「じゃ、今度こそ。そんなに痛くないはずだからな。」
と、抜髄を再開していたのだった。
コリコリ・・コリ・・・
「ん・・んぁ・・・」
コリコリコリ・・・
「ぁふぁあ・・」
「頑張ってー、まだ痛いかなー・・?」
痛みというより、不快感で、少し声が出てしまう。
抜髄は、その後、30分ほどかかって、ようやく終了した。
「よし、起きていいぞ・・って、無理だな、外さないと。」
鎌谷が笑いながら、真菜と拘束ベルトを外して、治療台を起こした。
「あお・・こ、こえお・・」
ついたままの開口器を指差す。
「ああ、そうだよ。」
ようやく口が閉じられるようになり、亮は、顎の関節を掌で揉んだ。
「さてと。ま、今日のところは、痛みが出てて、神経が興奮してたからな、大変だったんだが」
「・・はい。」
「他にも、似たり寄ったりのが・・ちょっと口開けて。」
鎌谷がミラーを亮の口腔内に挿入する。
「ふん、5、6本ってとこだ。いつ痛み出すかもわからん。痛み出す前に、なんとかしような。」
亮は、半泣きのような顔で、頷いた。
「で、それほどじゃなくても、治さなきゃいけない歯は、他の奥歯全部だ。全部だぞ。」
ぜんぶ・・・
亮はうなだれた。
「とにかく、明後日から、診察終わった後。毎日治すから。いつ終わるか知らんが。」
「よろひく・・おねがいひまふ・・・」
鎌谷と真菜に頭を下げる。
「痛み止め出しとくから。痛くなったら飲んで。院長は明日帰ってくるんだろ?」
「はい・・たぶん。」
「じゃ、俺が電話して説明するけど。怒られるか無視か知らんが。いいな?」
「はい・・ふみまへん・・・」
後片付けを手伝い、二人を送り出して戸締りをし、亮は、自分の部屋に戻ると、治療の疲れから、倒れこむように眠りに落ちて行った。
夜中、亮はズキズキする歯の痛みで目が覚めた。よろよろと起き上がり、机の上に置いた薬の袋から、痛み止めを一錠取る。ふと見ると、水の入ったコップが横に置かれていた。その水で薬を流し込む。水はおそらく、母親が置いていったのだろう。治療台に縛り付けられ、口を無理やり開かされた姿を母親に見られたことを思い出し、気が遠くなりそうだった。
「ああ・・・全然効かねぇ」
右頬を両手で押さえてベッドの上をのたうち回り、しばらくたってから、思い切って痛み止めをもう一錠飲んでみた。倍の薬と、疲れがあったにもかかわらず、ようやく亮が眠りについたのは、外が明るくなる頃であった。
翌日、日曜。亮は、部屋の外で鳴っている電話の音で目が覚めた。
「んん・・・」
ズキズキする痛みはなかったが、ずーん、と重く痛い感じと・・頭痛がした。さらに、飲みすぎた薬のせいか、やや頭がボーっとする。
亮はベッドの上に起き上がって、右頬をさすりながら昨日の夜のことを思い返していた。
夢だったりは・・・しないか。
机の上の薬の袋を見て、現実を再確認する。
すると、突然ドアが開いて、父親が顔を出した。
「どうだ?調子は。治療は夢の中の出来事じゃないぞ。」
亮は、一気に目が覚めた。そうだ・・あいつが電話するって言ってた・・
が、父親の顔を見ても、表情から何を考えているのかわからなかった。
ものすごく怒ってたらどうしよう・・・
鼓動が速くなり、そのせいか、右下の歯が疼きはじめた。
「ぅううっ」
顔をしかめ、右手で頬を押さえ、とっさに父親の顔を見上げる。
「痛いらしいな。昨日いじったとこか?別のとこか?」
「わ・・わかんない・・」
自分でも、答える声が上ずっているのがわかった。さらに、自分の方に身をかがめてきた父親に驚いて、思わず後ずさりしてしまった。
「何をそんなにびびってるんだ。歯医者の息子のクセに歯科恐怖症か?」
父親は笑った。馬鹿にして笑っているように亮には思えた。
ぜったい、怒ってる・・・
伸びてきた父の両手に顔を包まれ、びくっとしたのは、その手の冷たさのせいだけではなかった。
「まあ、ちょっとやりすぎたかもしれない、とは鎌谷君も言ってたけどな。ほら、口開けろ。」
おそるおそる口を開けた亮の、下の犬歯に親指をひっかけて、父親は口を大きく開かせた。
「あ・・ぁが」
「あー。これはちょっと。さすがにひどいぞお前。こりゃ、あいつが怒るのも無理ないな」
亮は左頬から手が外されたので、殴られる、と思って体を硬くした。
が、その手は額に当てられ、後ろに顔を倒された。
「上は。」
ふたたび両手の親指が上の犬歯にかけられる。
「ぁががっ」
「うーん・・・」
真剣に口の中を覗き込んでいる父の厳しい目と、無言が怖かった。
ぱっと両手が外され、ようやく口を閉じることができた亮は、じっと見ている父親の目に耐えられず、
「・・ご、ごめんなさい」
と、なんとか声を出した。
「何にごめんなさいだ」
亮は答えられず、だまってうつむいた。
「ま、あえて言うなら、歯に、こんな目に遭わせてごめんなさいだな。」
昨日の鎌谷に引き続き、歯医者の変な面を見てしまったようで、亮は少し面食らった。
「痛いか?」
亮は頷いた。
「じゃ、ちょっと診てやるから着替えて下まで降りて来い」
そう言って父親は部屋を出て行った。
あわてて着替えて居間に降りると、母親が、
「大丈夫?お父さんは下よ」
と心配そうに聞いてきた。亮は、ん、と生返事をして、さらに診察室に降りた。
人気の無い診察室で、父親は亮のカルテとパントモをじっと見ていた。
亮のほうをちらりと見ると、
「そういえば、俺にも謝って欲しいんだった」
と父親がぼそっと言った。亮は、胸の奥がちりっと痛んだ。
「お前のせいで、俺は・・・鎌谷にめちゃくちゃ怒られた」
困ったような顔をした父親の顔を見て、亮は思わず、ぷっ、と噴き出した。
「笑い事じゃないぞ。俺はくたびれて帰ってきたらいきなりあいつから電話で、何やってるんですか!知らないなんてそれでも親ですか!とかもう、すごい剣幕で、つい、すみませんでした、って謝っちゃったよ。参ったホント。」
笑いながらそう言った父親だったが、ふっと真顔に返って続けた。
「俺はまあ、怒ってない。中学にもなったら、いろいろわかるだろうし、まあどんなになっても自分の責任だろうと思って目を離したんだが。実際見てみると、残念というか。悪かったというか。鎌谷の言う通り、俺のせいかもしれない。となると、謝るのはお前じゃなくて俺か。・・・それも納得いかんな。」
しかし、父親は、亮の頭にポン、と手を載せると、
「ごめんな。」
と言った。
亮は、その手の重みで、昨日の夜から張り詰めていた緊張が一気に緩んだのか、目に涙がじわっと溢れて来た。
「おいおい、いくら痛くても、男が虫歯で泣くのはちょっとなあ。子供じゃないんだから。昨日も抜髄が痛くて泣いたらしいじゃないか。しかも女の子の前で。ま、とりあえず座れ。」
亮は真っ赤になって、むくれながら治療台に座った。右下の痛みは強くなっていて、なんとかして欲しかったのだ。
「今、痛むのはたぶん、7番・・昨日いじったところじゃなくて、その前だな。」
父親がパントモを見ながら言った。
「治療は鎌谷にまかせようと思ってるけど・・とりあえず応急処置だけするか。ま、ガス抜きだな、痛みは楽になるはずだ。」
亮は、昨日の経験から言って、鎌谷よりも父親に治療して欲しいような気がしたが・・。
「じゃ、いくか」
治療台を倒した父親は、ミラーで亮の右下6番を少しじっくり見た後、いきなりタービンに手を伸ばしかけた。
「ちょ、ちょっと待って」
亮は、慌てて制止した。
「なんだ?」
「麻酔、とか・・・」
「・・して欲しいか?やっぱり。」
父親が怪訝そうに訊ねるので、亮は激しく頷いた。
「じゃ、するか。」
父親は立ち上がって、キャビネットの鍵を取り、鍵を開け、麻酔薬を用意した。
「どうせ痛い歯なら、あんまり要らないんじゃないかと思うんだよ」
「い・・要る・・絶対要るから・・お願いします」
「でも、もともと痛いんだろ?なんでだ?」
「振動が響いて、もっと痛かった」
「そんなもんか?いや、普段の患者さんにはするんだが。じゃ、ちょっと口開けて・・」
父親は、てきぱきとスペースを確保し、針を刺した。
・・あれ、あんまり痛くない・・・?
亮が思っていると、突然痛みが襲ってきた。
「ん、ぁあっ」
「あ、やっぱりこうすると痛いか・・・悪いな。」
再び、痛みは弱まった。
・・・まさかとは思うが・・・・
注射器を始末している父親に、恐る恐る亮は聞いた。
「なんか・・試してる?」
「それほどじゃないけどな。こう、自分で、手はわりと器用なほうだし、几帳面で気も短くないから、歯医者としてそれほど腕は悪くないと思うんだが・・自分は生まれてこのかた、虫歯になったこともないんで、どうも痛みが理解できないというか、皆、大げさなんじゃないかといつも疑問で。」
「か、母さんの歯は?」
「あの人はあれでけっこう、我慢強いからね。何はどのくらい痛いとか、この治療は麻酔がないと気絶しそうだ、とか、いろいろ教えてもらった。」
実験台かよ・・
近所では、藤井先生は痛くない、という評判なのだ。まさか、こんな裏があったなんて・・・
亮は、今日もまた、逃げ出したくなってきた。
「そろそろ効いたかな。暴れるなよ。形成するんじゃなくて穿孔だけだから、すぐ終わるけど」
亮は、父親の手にしているタービンの先が、昨日よりも尖っていることに怯えながら、促されるままに口を開け、そっと目を閉じた。
ヒュィイイイイイ・・・
口の中から聞こえるその音に、昨日の恐怖がよみがえってきて、亮は体を硬くした。
「もっと顎の力抜け。息吐いて。よし、それでいい。」
キュィイイイイイ、キュィイイイイイイイイイイイ
タービンが、歯に食い込んで行くのがわかった。
昨日よりも崩壊の度合いが少ない亮の歯は、タービンに高い音を立てて抵抗するが、ひとたまりもなく削り取られていく。
キュキュキュィイイイイイイ
「ぁ、ぁは・・ぁあは・・」
「ほら、力入れるな。麻酔したんだから痛くないだろ」
「い、いは、いはぁああい・・」
亮は、昨日歯を削られたときよりもはるかに強く鋭い痛みを感じていた。
チュイ、チュイ、チュィイイイイイイ
「んぁはああっ、ぃはぁああああ」
「動くなって。あぶないから。」
父親に顎を押さえつけられ、亮は両手を握りしめて耐えた。
キュィィイイイイイイ
「んがはぁああああぁっ!」
ヒュゥゥゥ・・
痛みが頂点に達したとき、ようやくタービンが止まった。たしかに、時間は短かったが・・・
亮は、治療台にぐったりともたれて、肩で荒い息をしていた。
「よし、終わり。口ゆすいでいいぞ」
のろのろと口を開けて水を口に含み、ゆすぐ・・・あれ?
手で口を押えなくても、水は口からこぼれない。
まさか・・・
2回ゆすいでから、カルテをつけている父親を見て聞いた。
「麻酔・・ホントに打ってくれた?」
「ん?」
父親が、少し笑っているように見える。
「昨日よりもだいぶ痛かったんだけど・・・」
「そうか」
「それに、しびれてないし・・・」
父親は、ニヤッと笑うと、書いていたカルテを亮に見せた。
髄室まで穿孔し減圧
・浸潤麻酔 なし ・チャンバーオープン ・貼薬(2根・水カル) ・仮封
「やっぱり・・・」
亮は、ため息と共に、背もたれに倒れこんだ。
「気分じゃなくて、ホントに効くのか・・」
父親は、一人で納得している。
「じゃあ、さっきの何。」
「心配するな、生食、要するに塩水だ。問題ない。」
「問題ないって・・・」
「あと、薬だけ入れるから。これはホントだ。後の抜髄は鎌谷にまかせるから。」
・・ひょっとして、今日は、この実験をやりたかっただけなんじゃ・・・
ぐったりしながら、亮はまた口を開け、処置が終わるのを待った。
「よし、終わり」
亮が、不審そうな目で自分を見ているのに気付いた父親は、
「ま、でも、痛みは引いただろ」
と笑った。
そう言われてみれば、たしかにそうだけど・・・
怖いが、明日から鎌谷の治療を受けよう、と思った亮であった。
月曜日。亮は、憂鬱な気分で校門を出た。
家に帰って、歯科の診察時間が終わったら、歯の治療が待っている。
はぁ・・・
昨日の、父親の処置も「実験」のせいでそこそこ痛かったが、
土曜日の鎌谷の治療は、さらに痛いことをされた上に、死ぬほど恥ずかしかった・・・。
今日は一体何をされるか・・・
週末の処置で、とりあえずズキズキする歯痛からは解放されたので、逃げたいところだが、もちろん不可能だ。
小学生のころは、歯医者に行きたくないと言う女子をからかったが、今となってはその気持ちがよくわかる。
鎌谷がお腹が痛くなって、今日はやめておこうとか言わないかなあ・・・
と、まるでテスト前に火事を願う子供のようなことを考えながらダラダラと歩いていたが、家に着いてしまった。
外から見えるようになっている待合室は、満員だ。
今日は疲れたからやめておこうとか・・
相変わらずなことを考えながら、亮は歯科の入り口を過ぎて角を曲がり、自宅の玄関へと回った。
あ、やべ、鍵忘れたし・・・
仕方なく、歯科の入り口から入ることにする。
ドアを開けると、いきなり声をかけられた。
「あれ、藤井くんも歯医者通い?」
小学生のときに一番からかった瞳だ。中学受験してどこかの女子校に通っているはずの瞳は、最近珍しいセーラー服姿である。
「いや、ここ、ウチだから。鍵忘れて家に入れないから回ってきただけ。」
「あー、そうだった。ボケかましちゃったぁ。」
昔より可愛くなったかな、と思っていた亮だが、アハハ、と笑う瞳の下顎の奥歯に、ずらりと並ぶ銀歯を見て、少しギョッとした。
「歯科検診の紙もらったかなんか?」
「ううん、矯正通ってたんだけど、それで虫歯だらけにしちゃって・・矯正どころじゃなくなって、装置外されて、虫歯治しまくってる状態。」
「何もまたこんなとこまで来なくても。引っ越したんだろ?」
中学に通うのにも楽だからと、駅前のマンションに引っ越したとウワサで聞いていた。
「矯正歯科で紹介されたとこも行ったんだけど、先生が怖くて。藤井くんオボエテナイだろうけど、私、小学校の頃、歯医者行くのが嫌で藤井くんにバカにされたくらいだからさ。で、またここにお世話になってるの。痛くないって評判だし。藤井くんのお父さんじゃなくて、若い方の・・鎌谷先生に見てもらってるんだけど、すっごく優しいし・・」
・・・すっごく優しい??
あの二重人格め・・と亮は思い、
「そう?じゃ、俺行くから。」
と、脱いだ靴を取って、診察室の方へ向かった。
「あ、じゃあね。歯は大事にしなよー。心配ないだろうけど。」
瞳の言葉が胸に痛かった。
そのまま診察室を抜けようとしたとき、ちょうど鎌谷と鉢合わせした。
「ん?治療が待ち切れないのか?家出くらいするかと思ったのに偉いな。でもちょっと早過ぎだ。終わったらちゃんと呼ぶから、心配するな。」
どこがすっごく優しいだよ・・・
亮は手にしていた靴で殴ろうかと思ってしまった。
「よろしくお願いします」
ぐっとこらえて大人しくすることにして、奥の自宅部分に通じるドアを開ける。
「涙拭くハンカチ忘れるなよ、いや、バスタオルくらい要るかもな・・」
聞こえない振りをして、亮は後ろ手にドアを閉めた。
自分の部屋に戻り、着替えて時計を見ると、5時だ。月曜の診察時間が終わるまで1時間ほどある。
そういえば、歯が痛くない状態ってのも久しぶりだ・・・と思ったが、直後、この後の治療を考えると憂鬱になった。
今日は・・何されるんだろ・・
土曜日、最後に何か言われたかもしれないが、もうクタクタだったので覚えていない。
昨日は父親はガス抜きだけって言って・・・バツズイは鎌谷に・・・バツズイだ・・・!!
土曜日の気絶しそうなアレはたしか、バツズイと言っていた。
「いやだいやだいやだ・・」
また拘束ベルトとあの開口器をつけられるのかと、亮は駄々っ子のように一人でベッドの上で転げ回った。
「おにいちゃん、なにやってるの?」
突然、妹の理緒の声がした。
「は?幼稚園児にはわかんないよ。ってか突然入ってくんな、何だよ。」
「りおね、ゆうごはんたべるの。おにいちゃんもたべるかきいてきてって、ママが。」
理緒はまだ幼稚園で、8時には寝るので、平日は母と二人で早い時間に夕食を取るのだ。
「大人はこんな時間に食べないの。ぎんこは一人で母さんと食べて来いよ。」
「ぎんこじゃないもん!りおだもん!」
理緒はぷりぷり怒って出て行った。
ぎんこ、か・・・そういえばさっき、瞳も銀歯だらけになってたな・・・
と、突然亮は気付いた。自分のこの歯は・・この後、どうなるんだろう?
まさか、全部銀歯になったりは・・・
さっきまでの拘束ベルトと開口器の恐怖に加えて、銀歯になる恐怖が襲ってきて、亮はふたたび頭を抱えた。
「亮、頭でも痛いの?」
今度は母親が入ってきた。なんで皆して勝手に入ってくるんだこの家は。
「別に。何さ。」
「今日、このあと、歯の治療でしょ?治療の後じゃ痛くて食べられないんじゃないかと思って・・」
そうだった。土曜日は少なくともベッドに直行したんだった。
「別にいいよ。一日くらい夕飯抜いたって。」
「一日じゃないじゃない、これから毎日でしょ。」
ま、毎日・・・そうだ、毎日だ。
と気付いたが、引くに引けず、強がってみる。
「別にいいって」
「痛くなくても、普通は治療の後30分とか1時間とか食べないように言うんだから。そしたら遅くなるじゃない。お母さん、そんな遅くに片付けるの嫌だから、今食べちゃって欲しいのよ。自分でやるならいいけど。」
亮は、めんどくさそうな顔を作って、
「しょうがねえなあ」
とつぶやきながら、のそのそとベッドから降り、「ぎんこ」が機嫌よくカレーを食べている食卓についたのだった。
30分もかからずに食べ終わり、歯を磨いていると、真菜が呼びに来た。
「あの、鎌谷先生が、そろそろ降りて来て下さいっておっしゃってます」
「あ、はい・・・」
「今日もたぶんいたーいけど、がんばるんだぞー。」
「あ、はい・・・」
「あ、ダメダメ、歯ブラシはそんな持ち方じゃあ。落ち着いたら一度、歯磨き指導もしなくちゃね。」
「いや・・いいです、遠慮します」
「とにかく。降りてきてね。逃げちゃダメだよ。」
そう言って真菜は戻っていった。
いったい、いくつだと思ってんだよ・・・
亮は、少し腹を立てつつも、今日もいたーいけど・・・と言った真菜の言葉に、気分が沈んでいくのを感じていた。
重い足を引きずりながら降りていくと・・鎌谷はまだ、治療中だった。治療を受けているのは・・・瞳。
か、勘弁してくれ・・・
瞳に、自分が治療が怖くてひどい虫歯を作ってしまったなんて、知られるわけにはいかない。亮は、そーっと引き返そうとした。が、ちょっと「すっごく優しい」鎌谷先生にも興味があった。
「あはぁー、いひゃいー」
「大丈夫、ちょっとだけ我慢してくれるかな・・あと5秒で終わるからね、5、4、3、2、いーち、はい、終わり。」
たしかに、亮の治療をしているときとは、声の調子からして違う。
すると、気付いてないと思っていた鎌谷が、背後の亮に声をかけた。
「亮くん、待合室からやって。」
「へ?」
真菜が、無言で亮を待合室に引っ張っていった。
「あの子、亮くんの知り合いなんでしょ?」
真菜が聞いた。
「あ、はい、小学校のときの・・」
「さっきね、先生が、そろそろ亮くんの番だから呼んで、って言ったら、あの子が、亮くんって、藤井亮くんですか?藤井くんも歯の治療ですか?って聞いて、なんでか知らないけど、鎌谷先生が、いや、掃除してもらうから、って嘘ついたの。だから、ここ、掃除してね。」
「え、そんな・・」
「まず、雑誌片付けて。それから棚とテーブル拭いてソファ拭いて、最後に床掃除ね。適当なところで交代するから。じゃ、がんばって。」
亮は、待合室で、仕方なく、テーブルやソファの上に散らばっている雑誌や本を片付けて、本棚に並べた。
なんで、そんな嘘ついたんだろ・・・
女の子に知られたら恥ずかしいだろって・・・いや、あいつがそんなこと気遣うわけない。むしろ、虫歯だらけだって、バラしそうだ。
亮は、釈然としないまま、しかし真面目な性格が出てしまい、律儀に掃除を始めてしまった。
「えらいねー、ここのぼっちゃんなのに掃除?」
気付くと、後ろに瞳が立っていた。
「あ、終わったの」
「うん・・今日はちょっと痛かった・・・って、藤井くんに見られちゃったよね、はずかし。」
瞳は、頬をさすりながら言った。
「平野瞳さーん」
受付から呼ぶ声がして、
「じゃね。掃除、頑張ってね。やっぱ綺麗な待合室はいいよね。」
と言って、瞳は受付に走っていき、会計を済ませると、そのまま帰っていった。
「じゃ、亮くん、掃除交代するよ」
衛生士の里美がやってきて、言った。
「鎌谷先生、呼んでるよ。」
「あ、じゃ、お願いします」
亮は、ぺこりと頭を下げると、診察室へと戻った。
診察室では、鎌谷が待ち構えていた。
「さてと。掃除も綺麗になって悪くないが。そのひどい歯も綺麗にしような。」
さっきの「すっごく優しい」鎌谷先生は跡形も無く消え、この間の鎌谷に戻っていた。
「はい・・よろしく、おねがい、します。」
なんとか頭を下げ、亮は治療台に座った。
「なんで、掃除させられたんだろと思ってるだろ。」
「いや・・掃除って言うか・・・」
「別にお前が恥ずかしいだろと思って言ったんじゃないからな。むしろ、こいつはこんなに虫歯にしました、って言いたいくらいだ。」
「そう言いそうだと思いました・・」
つい本音が出てしまった。後ろで、父親がぷっ、と吹き出したのが聞こえた。
「でも、お前よりもこっちの方が恥ずかしいんだよ。家に歯医者が何人もいるのに、先生たちは何してたのかしらってなもんだ。」
亮はうつむいた。診察室全体にも、重い空気が流れているのがわかる。
沈黙に耐え切れず、謝ろうかと亮が思ったとき、
「世間的に見たら、俺たちも悪いわけだが。」
と、鎌谷が言った。ちょっと優しくなった?と一瞬期待したが・・・
「俺に言わせれば濡れ衣だ。お前が悪い。」
同じ鎌谷だった。衛生士や助手も、みな口をつぐんでいる。
突然、横から父親が口を出した。
「俺は誰が悪いとも思ってないけど・・申し訳ないとか世間体が悪いとかいうのは、もちろんあるが、そこはちょっと別の話だ。」
かばってくれてるのかな??亮は少し期待した。
「なんにせよ、虫歯は治さないといけないわけで。ま、治療は痛くても、亮、虫歯を恨んで、歯医者を恨むなよ。鎌谷もちょっとなあ、若いというか、優しすぎて、冷静で居られないんだ。こっちはこっちで、虫歯を憎んで、患者を憎まずって言ってるだろ。患者が他人じゃなくてもだよ。」
鎌谷も、説教されたような形になってしまい、ちょっとむくれている。
「なんて、あれこれ言っても、誰が悪くても、痛いのはお前だ、亮。悪いとは言わないが、自分の歯だからな。仕方ない。頑張れよ。」
ははっ、と父親は言って、診察室に、ホッとした空気が流れるのがわかった。
ちょうど里美も待合室の掃除から戻ってきて、解散、という雰囲気になった。
「悪いな。仕事終わった後なのに。俺が診てもいいんだが、昨日診たら嫌われた。右下6番開けちゃったんで、後頼む。」
父親も、鎌谷に言い残して自宅へ上がってしまった。
診察室には、鎌谷と真菜、そして亮だけになった。
「冷静にねえ・・・」
鎌谷がつぶやいた。
「昨日院長に診てもらったって?冷静だったか?・・まあ院長なら冷静かもな・・」
「冷静・・興奮はしてませんでしたけど・・もう嫌って感じです」
亮の言葉を怪訝そうな顔で聞いていた鎌谷は、カルテをめくって、昨日の記録を見て、目を疑った。
「おいおい、すごいことされたな・・痛かった歯だろ?」
「はい・・」
「うわっ。もしかして、すっごく怒ってたんでしょうか、院長。」
亮にエプロンをかけながら、カルテをのぞきこんだ真菜も浸麻なしの髄開、を見て、驚きの声を上げる。
「そういう気は無いと思うがなあ、しかし、虫歯になったことないやつは恐ろしいことするな・・」
「優しいけど、患者の痛みはわからないってやつですね・・」
いや、あんたたちの治療も痛かったですから・・と思った亮は、痛そうに顔をしかめている鎌谷と真菜に気付いた。
「虫歯・・なったことあるんですか?」
亮はおそるおそる聞いた。
「それくらい・・普通あるだろ」
「そりゃ・・あるわよ・・」
二人は、歯切れの悪い答えをして、鎌谷はカルテに見入り、真菜は準備のためにキャビネットの方へ行ってしまった。
そういえば・・・鎌谷の前歯には、裏が銀色の歯が何本かあるのだ。治療のときはマスクをしているので見えないが、家で食事をしているときに、見えたことがあった。もしかすると、虫歯のせいなのかもしれない。
偉そうに言いやがって・・なんだよ、自分だって・・・
そう思った亮だったが、倒されていく治療台の上で、
とにかく、今この場で一番弱いのは、自分だ・・
ということを思い出して、押しつぶされそうな不安と戦いはじめたのだった。
「口開けて。」
少し口を開けると、ミラーで唇が押し広げられ、ロールワッテが詰め込まれる。
「チクッとするからな。」
目で頷く。
「うっ・・」
覚悟していても、痛い。針を刺すのは、父親の方がだいぶん上手いな、と、亮はまだ冷静な頭で思った。
ぐぐぐっ、とシリンジが押し込まれると、なんともいえない感覚が、歯茎から顎に広がっていく。
「ん・・ぁあ・・・」
ようやく針が抜かれたと思ったら、口を開けさせられ、内側からまた打ち込まれる。
「ぁぐ・・・ぅう・・」
「これくらい我慢しろ、麻酔なしで神経まで削られて我慢できたんだろ?」
「ぁああっ」
亮は、目をつぶって、眉間にぎゅっとしわを寄せて耐えていた。
我慢・・できなかったってば・・
針が抜かれ、ホッとしたが、口を開けさせている鎌谷の左手はそのままだ。
カチャリ・・カチャ・・・
なんで手を外してくれないんだろう、と恐る恐る目を開けると、またシリンジが近づいてきた。
「もう1本入れるからな。」
ええっ・・・
と思う間も無く、針が刺さった。
「んぁ・・・」
「こっちの歯は、中には打たなくてもちゃんと下から入っていくと思うんだが・・・」
ぷすり。
「ぅうっ」
「この間の7番よりはちょっと活きが良さそうだからな。まあ、大めに打つ、と・・」
全部で、5箇所くらいに打たれ、亮は、麻酔だけですでに疲れてしまった。
「よし、口ゆすいで」
右側はすでにしびれていて、ゆすごうとしても、水がダラダラこぼれてしまう。
エプロンはびしょびしょになってしまった。
「あらあら・・・しょうがないわね」
真菜が、エプロンを取り替えてくれた。
「ごめんなさい、明日の朝には新しいの届くんだけど。大人用が切れちゃって。これでちょっと我慢してね」
少し小さいと思ったら、隅のほうに汽車のイラストがついていた・・・子供用だ。
鎌谷が横目で見て、ぶっ、と笑った。
「いや、悪い・・案外、子供用でもサイズって違わないんだな・・気になるなら折っとけ。大丈夫だ。」
亮は、無いなら仕方ないし、自分でもちょっと可笑しいなと思いつつ、鎌谷に笑われるのはやはり腹が立った。
「今日は、6番、昨日穴だけ開けた歯な。そこをきちんと削って、それから神経抜くから。」
「はひ」
「終わったら、7番の穴を綺麗にする。たぶん完全には取りきれてないからな。」
またか・・・
亮は、暗い顔でため息をついた。
「そんな顔するな。まだ1本も治ってないんだぞ。治すのは全部で16本だからな。夏までには治るといいな。ん?そりゃ無理かな」
まだ6月になったばかりだと言うのに・・・こんな毎日が何ヶ月も・・・
「ま、やるしかない。倒すぞ」
治療台が止まり、ライトが乾いた音を立てて点灯された。真菜も左側にぴったりとスタンバイする。
なんでこんなに圧迫感を感じるんだろう・・・
「はじめるぞ」
ああ・・俺、怖がってるんだな・・・
亮は、頭の中に聞こえそうなほど激しくなった鼓動の中で、観念して目を閉じ、口を開けた。
ヒュィイイイイイ・・・
スコココココ・・・
機械音が近づいてきて、口の中にあれこれ突っ込まれるのがわかった。
キュィィィイイイイイイイイイイ
右下の奥歯から振動が頭に響いてくる。
ヒュィ、ヒュイ、ヒュィイイイイイ
チュインチュインチュインチュインチュイィィィィッィイイイ
・・・・・・・
「あー、亮くーん、お口閉じないでねー、きちんと開けてようね」
痛みはまだ感じないが、疲れて口を閉じかけてしまったらしい。
「また開口器突っ込むぞ」
鎌谷の言葉に、亮は震え上がり、必死に、大きく口を開けたのだった。
「よーし、それでいい」
キュィイイイイイイ
しばらくすると、やはり、かすかな痛みが出てきた。
チュイイイイイイイチュイチュイチュイイイイイイ
うぅぅ・・・
「亮くーん、痛くなってきたかなー、力抜こうねー」
キュィイィイイイイイイ、キュィィィィィィゥゥン。
痛みはじりじり強くなり、もうダメだ!と思ったとき、突然、タービンの音が止んだ。
しかし、治療台が起こされる気配は無い。
「我慢してるのはいいが、力入れるな。やりにくいだろ。」
鎌谷が怒ったように言いながら、タービンの先を取り替えている。
そんなこと言ったって・・
「声出してもいいから、力抜け。でもうるさくするなよ」
ムチャだよ・・・。
そう思いながら、亮は鎌谷の手元を不安そうに見つめていた。
「亮くん、そんなに怖がらなくてもいいのよ。先生は虫歯治してくれるだけなんだから。」
真菜が声をかける。
思わぬ方向からの声に、亮は無意味にビクッとして、真菜を見上げた。
「うふ、亮くん、うちで飼ってるハムスターみたいよ。知らない人が来ると、心配そうーな顔してじっと見てるの。でも脅かすとびくっ、とするの、すごいかわいいのよ。ふふ、似てる似てる。」
「甘いもの食べさせるなよ、ハムスターが虫歯になっても治せないぞ」
「やだ先生、野菜くずしか食べませんよー」
自分がこんなに痛い思いをしているのに、二人は面白くもない話で笑っている。
「ま、いい、続けよう」
鎌谷がミラーとタービンを構えたのを見て、亮は自分から口を開けた。
「すごい進歩だな。偉いぞ。だからって、痛いのは軽くならんがな」
真菜も真面目な顔に戻り、亮の横にぴったりついて、バキュームをかまえた。
やっぱり怖い!亮はぎゅっ、と固く目を閉じた。
ギュィィィイイイイイイ
口腔内に侵入してきたタービンは、躊躇なく6番をえぐっていく。
痛い!痛いよ!
亮はまた、体中に力を入れてしまった。
「ああー亮くーん、ダメダメ、力抜こうねー、息吐いてごらーん」
真菜にすかさず注意される。
「ぁ、ぁは、は、ぁ、ぁはっ、は・・」
痛みのせいで、スムーズに息を吐くのもままならない。
「全然力抜けてないぞ」
鎌谷の怒りを含んだ声が飛ぶ。
「なんで力入れずに口を開けるくらいのことができねえんだ」
そんなこと言われても・・・
亮は情けないような悔しいような気持ちがこみ上げてきて、鼻の奥が熱くなるのを感じ・・
「あ・・は、はぁ・・っ」
ついに泣き声が出てしまった。目からも涙が流れる。
ど、どうしよう・・涙目になるだけじゃなくて、ホントに泣くなんて・・
「よし、それでいいぞ、やっと力が抜けたのはいい・・」
チュイィィイイイイイイイ、チュインチュインチュィイイイイイ・・
「亮くーん、痛いねー、泣いちゃったねー、でももうちょっと頑張ろうねー」
「ぁああ・・はぁあ・・・」
止めようとしても口を開けたままではなぜか泣き止むことができなかった。
「あー、そんなに泣いちゃって・・、男の子なんだから頑張ろうねー」
真菜が、バキュームをあやつりながら、ガーゼで涙を拭いてくれる。
や、やめて・・何もしないで・・見逃して・・・
「あっ、あっ・・・」
気持ちとは裏腹に、さらに泣き声は漏れ、涙はとめどなく流れ出る。
真菜が拭ききれずに流れた涙が耳に入ってきてしまい、気持ち悪い。
キュゥウウウゥゥゥ・・
ジュボボボボ・・・
ようやくタービンがやんだ。
治療台が起こされると、真菜が新しいガーゼを差し出してくれた。
首を振ると、真菜に涙をまた拭かれてしまった。
恥ずかしくなって、手を払いのけそうになる。
「バキュームがもう一つ要るか?涙用に。」
鎌谷が笑いながら言う。
たしかに泣いてしまったのは自分だが、むすっとむくれて亮は鎌谷を無視した。口を押さえて口をゆすぐ。
口を閉じ、ようやく泣き止むことができた。それでも、ヒック、ヒック、としゃくり上げるような声が続いている。
ああ・・もう・・最低だ・・・
「ああ、そうだよ、涙拭くハンカチ持って来いって言っただろ。まさか中学生にもなった男がホントに泣くとは思わなかったけどな。」
横目で鎌谷を睨みつける。
歯医者を恨むなよ、と父親に言われたが、こんなに言われて、ちょっと我慢できない・・・
しかし、睨まれた方の鎌谷も、年の離れた弟のように思っていた亮の目を見て少しショックを受けていた。
なんだよ・・でも、元はといえば、そんなにした自分が悪いんだからな・・・でも、俺ももうちょっと気にしとくべきだったか・・・
自分も、ほとんどの虫歯は中学生あたりに作ってしまったものだということを、今さら思い出す。
ま、今さら何言っても同じだ。できてしまったものは治すしかないんだから。
鎌谷は、鏡を手に取った。
「ちょっと見てみろ」
と言いながら亮に渡す。
亮は、そこに映る自分の顔が泣き腫らしたようになっている・・目は真っ赤に充血し、まぶたも鼻も赤くなっているのを見て恥ずかしくなった。思わず鏡を伏せそうになる。
「見るのは顔じゃない、口開けろ」
言われて、しぶしぶ口を開ける。鎌谷がミラーを差し入れ、唇を右下に大きく開いた。削ったばかりの6番があらわになる。もっとも、歯冠部はほとんど削り取られた状態だ。後ろの7番もずいぶん高さが低くなり、仮封が不自然に白くまぶしい。
う・・・
無残な姿に、亮も少し動揺した。
「ここの2本はな、力が一番かかる大事な歯なんだ。それがこんなになってしまった。神経も取らないといけない。なんとか元の形に近づけるようにかぶせるんだが、ダメになった元の歯は戻らないぞ。」
それだけ言って、鎌谷はミラーを抜いた。
亮も口を閉じてうつむく。
「さてと。メインイベントだ。神経抜くぞ。」
鎌谷が若干嬉しそうに聞こえる声で言った。
ああ・・またか・・・・
亮は鏡を真菜に渡し、深呼吸をした。