奥田の妻、早智子は歯が弱く、結婚する頃はまさに奥田の理想だったのだが、今では少し歯が悪くなりすぎであった。40を前にして、すでに奥歯の半分を失っており、下の歯と左上はブリッジだが、右上は土台にする歯がなく、5番以降の部分入れ歯である。実のところ、さすがに入れ歯というのは少々萎える。少なくとも、奥田の好みではなかった。出会った頃はよかった・・・
取引先で事務をしていたのが早智子だった。初めて訪問したとき、まさにあくびをしている瞬間を見てしまい、奥のギラリと光る銀歯に思わず唾を飲み込んでしまった。来客に気付き、あわてて応対してくれた口元に見える、保険内の差し歯3本。微妙に変色度合いが違い、さらに隣接する歯は明らかに裏か内部が虫歯になっていて、変色が透けて見えていた。美人なうえに、歯が悪い。最高だ。
奥田は、歯の悪い女性が好きだった。もちろん、一番好きなのは治療だったが、歯の悪さや治療の様子をその口から聞くのも、興奮ものだ。口の中を見せてもらい、歯医者に行かせるのも、あるいは少し黙っておいて虫歯が進行する様子を眺めるのも好きだった。奥田は、早智子と付き合おうと心に決めた。
付き合いだしてからも、しばらくは、奥田からは歯の話はせずに黙っていた。が、観察するチャンスはあった。週末しばしば奥田の家に泊まりに来るようになった早智子は、口を開けて眠る癖があったのだ。もちろん、それはあまり美しい姿ではないのだが、歯の観察には最高だった。起こさないように、そっと首の後ろに手をあて、軽く持ち上げてやると、早智子の口はさらに大きく開いた。歯の治療中ほどには大きく開かなかったが、観察には充分なほどに。
ざっと見たところ、奥歯はインレーやアンレーが多かったが、後方の大臼歯、7番や8番は一部未治療のようであった。暗くてよく見えないが、虫歯になっていることはたしかだ。前歯は上顎の左右の1番と左の2番がメタルボンドの差し歯。右の2番は、後ろから見ると黒く小さい穴が開いていて、中は大きく広がっているようだった。3番も、かなりあやしい。早く早智子の口から、歯の状況を聞いてみたかった。
しかも、口を開けて眠ると、口腔内が乾燥するので、虫歯の進行にも最高だ。奥田は、眠る早智子を見ると、キャラメルを口の中で溶かし、その糖分たっぷりのキスをして、虫歯に栄養を与えることも忘れなかった。
半年ほど経ち、右上2番の虫歯に、前からもかすかに小さな穴が開いてきたある金曜日の晩、奥田は切り出した。
「あれ、さち、その前歯、黒くない?」
ソファーに座ってしゃべりながら、なるべくさりげない風を装い、聞いた。
早智子は、真っ赤になった。
「えっ!?」
「いや、ちょっと穴が開いてるような気がしたから。いや、気のせいかもしれないけど。」
歯のことを気にしていないなら、ここで「ちょっと見てくれる?」とか、「そうなの、歯医者に行かなきゃとは思ってるんだけどね」などと軽く言ってくるはずだが、どうやら、かなり気にしているようだ。早智子は口をつぐんでしまった。奥田の好みの展開だ。早智子はきっと、虫歯を恥ずかしいと思っているはずだ。
「ちょっと見てやろうか?」
「い、いや」
「まあ、いやならいいけど。」
「いやじゃないけど・・・」早智子はうつむき気味に言った。「銀歯がたくさんあって・・・もう見えてるだろうけど・・・見えないところにもたくさん、あるの・・・だから」
「だから?」
「恥ずかしくて・・・」
「俺にならいいだろ。ほら」
あごに手をあてて、少し押し下げると、早智子は観念したように目を閉じ、口を開けた。下顎の銀歯が、ソファの後ろに置いたフロアスタンドの光を反射してギラリと光る。
「歯医者じゃないんだからさ、目開けてよ」
奥田が言うと、早智子は目を開けたが、眉根にしわを寄せて、今にも泣き出しそうだ。
「すごいな・・」
早智子の顔を時々ちらちら見ながら、無邪気に感心したように言い、さらにあごを持ち上げて上を向かせる。さらに多くの銀歯が、その存在を主張していた。保険内の銀歯は、安いくせに自己主張がはげしい。ブスの厚化粧みたいなもんだな。奥田は思った。
「ギラギラだね、ああ、前歯の裏、こうなってたんだ・・・」
早智子の顎が細かく震えている。そっと口を閉じてやりながら、奥田はやさしく聞いた。
「いつごろから、こうなの?」
「子供のころは、普通だったの。でも・・・」
早智子は、ぽつぽつと語り出した。奥歯は少しずつ銀歯の数が増え、銀の面積が大きくなっていったこと、前歯は一本ずつ、高1のときと大学1年、3年のときに差し歯になったこと、最初に差し歯になったとき、悲しくて、これ以上差し歯にはしないと思っていたのに、その後増えてしまい、泣いてしまったこと、最近は差し歯の変色が気になっていること、鏡を見るたびに悲しいので見ないようにしているが、ときどき気になって見てしまい、涙が出ること・・・
話を聞き終えて満足した奥田は、手でやさしく早智子の上唇をめくってから言った。
「これ、やっぱりどう見ても虫歯だけど、歯医者行かなくていいのか?」
「実は、東京に出てきてから、歯医者行ってなくて・・どこに行ったらいいかわからなくて・・・あの、だから虫歯がそのままになってる・・だけなの・・行きたくないとかじゃないの」
あわてて言い訳するように付け足す。
「ああ、じゃあ、俺の友達が歯医者やってるから、紹介しようか?」
奥田は心配そうに言った。
「頼めば、週末でも診てくれると思うし。会社休んで病院とか行きにくいよな」
と、たたみかける。歯科医の荒井は中学からの悪友で、実家の歯科医院を継いでいる。実際、週末でも頼めば診てくれた。さらに、奥田の嗜好をよく知っており、診療を見せてもくれるのであった。
「ん・・・じゃあ、お願いしようかな。」
早智子が、決心したように言った。
「いつがいい?今度の週末でいい?って明日か。急すぎるか。」
「ちょっと急だけど・・行かなきゃとは思ってたから。」
「じゃ、早いほうがいいな。」
成功だ。時計は10時。まだ大丈夫だろう。奥田は、荒井の自宅兼クリニックに電話をかけ、予約を入れた。
翌日、朝10時。奥田は早智子を連れ、荒井歯科クリニックへ行った。受付で、荒井の妻の衛生士、和香が待っていた。
「及川早智子さん、ですね。」
「はい・・・お願いします。」
和香は、早智子に問診表を渡し、奥田の目を見て、しょうがないわね、という笑顔を作った。和香も奥田の嗜好を承知している。しばしばイジメモードで、奥田の興奮に加担してくれる、強力な味方だ。
「じゃ、そのまま診察室へどうぞ。あ、奥田さんも来てもらえますか。」
「えっ」
早智子は、驚いたように小さく声を上げたが、奥田に背中を押され、和香にうながされるまま診察室へ進むしかなかった。
「こんにちは。」
診察室では、荒井が待っていた。少し日焼けした好青年だ。
「これが荒井。ちょっと口が悪いんだが・・特別に優しくしてくれよ、荒井。」
「よろしく御願いします。」
早智子が頭を下げる。
「こちらこそ。ああ、たしかにちょっと厳しいことも言うかもしれないけど・・患者さんのためだと思って言ってるから。」
いいぞ、荒井。奥田は心の中で思った。早智子はこういう純粋さに弱いのだ。
「じゃ、早速診ようか。座ってくれますか。えっと・・・痛む歯はないのかな。」
「それは・・ないです」
「じゃあまず、検診からね。はい、では倒しますね」
治療台が、ゆっくりと倒された。ライトが点灯される。
「あーん」
早智子は、目を閉じ、口を開けた。
「んー?」
荒井が、喉の奥から不機嫌そうな声を出す。もちろん演出だ。早智子の足が、ぴくっと動く。
「これはまた、ずいぶんと虫歯作ったね」
早智子が体を固くし、とっさに少し口を閉じかけた。
「ああ、ダメだよ、口閉じないで。ちょっと、和香、これは良く診ないといけなさそうだから、開口器ちょうだい。」
奥田は、ごくりと唾を飲み込むと、治療台に近付いて行った。
和香が(あらかじめ用意してあった)開口器を荒井に手渡す。最近は、プラスチックでやわらかいものも出来ているのに、恐ろしげな金属製のものだ。
「ちょっと痛いかもしれないけど、良く診るためなので我慢してくださいね」
目を開けた早智子は、見慣れない器具に、怯えたような顔をし、助けを求めるような目で奥田を見た。奥田は、大丈夫だよ、というふうに優しく微笑んで見せ、髪をなでてやる。
「はい、あーん」
「んぐぁ!」
開口器をはめられ、口を無理やり開けられた状態の早智子は、その慣れない大口と、そのあられもない姿を奥田に見られているという恥ずかしさから、すでに泣きそうになっている。奥田は、急に心配そうな顔を作り、
「大丈夫か・・・痛くないか?荒井、これ、どうしても要るのか?」
と、わざわざ声をかける。その優しさがまた、早智子にはいたたまれないということも計算済みである。覗き込むと、大きく開けられた口の中は、昨晩よりもさらに、銀歯がギラギラと輝いている。奥の虫歯も、考えていたよりひどいようだ。大きく陥没しているものもある。
横から、和香が奥田をさとすように説明した。
「こういう、虫歯が特に多いような患者さんには、よく見えるように、つけてもらうことが多いんですよ」
「そうなんだ、ほら、銀歯がこんなに多いと、光って見えにくいところもあるから、じっくり診察するためには必要なんだ、それにこういうひどい虫歯の患者さんは、小さい虫歯も見逃したくないからね」
「そうか・・たしかにそうだな・・・じゃ、仕方ないな・・・早智子、大丈夫か?」
気にしている虫歯や銀歯を口々に指摘され、覗き込まれ、恥ずかしさといたたまれなさ、それに自責の念で、早智子は奥田に目で頷くと、目を閉じた。
荒井は、再びミラーと探針を手に取り、診察を始めた。
「じゃ、右上奥からいきます・・・8番、C2、これは磨けてないよ、及川さん。ほら。」
探針で、カリカリと引っかき、取り出すと、そこにはべっとりと歯垢がついていた。呼びかけられて目を開けた早智子に見せる。早智子は、本当に泣く直前だ。荒井は、そんな早智子をちらりと見てから、探針をトレイの脱脂綿でぬぐうと、検診を続けた。
「7番、うーん、これはひどいなあ。C2だけど・・・C3直前かな、咬合面に穴が開いてて・・・」
さらに、6番のアンレーとの間を探針でつつく。
「6番との隣接面もやられてるね」
和香は、カルテの他、歯列の模式図に、詳細に書き込んでいく。奥田用だ。
「次の6番、大きいアンレーだけど・・・歯との隙間に虫歯。5番に行って・・インレー。4番、インレー、だけど取れそうだね、これは。あと3番との間。C2。3番もそのままC2。2番・・・これもひどいねえ。中はほとんど虫食っちゃってるよ。C3。1番、差し歯。」
普通、歯科医は差し歯とは言わないが、そのほうがダメージが大きいと知って、あえて荒井は差し歯、と言った。早智子の目が、さらにぎゅうっと閉じられる。
「左に行って、1番も差し歯。ねえ、及川さん、これ、ずいぶん古いんじゃない?」
早智子に目を開けさせ、尋ねる。早智子が目で頷く。
「7年くらい?もっと?じゃ、8年?9年?10年?」
頷く早智子に、荒井はカルテを覗き、
「えっ、及川さん、いくつだっけ・・・25歳か・・・じゃ、15歳から差し歯?事故?違うか、虫歯?」
とさらに問いかける。悲しそうに頷く早智子。
「そんな若いときにもう、虫歯で、大事な前歯ダメにしちゃったか・・・女の子なのになあ・・・つらかったでしょう」
無神経のような言葉をかけつつ、同情も含ませる。早智子は頷き、涙を浮かべた。
「でも、虫歯にしちゃったのは、及川さん、自分なんだからね。」
横から、和香が追い討ちをかける。早智子の涙が、ぽろり、とこぼれた。
「おい、仕方ないじゃないか・・・早智子だって、虫歯にしたくてしたんじゃないんだ・・大事な前歯なのに」
かばう奥田を、早智子がすがるような目で見る・・・口に開口器をはめられたままの恥ずかしい姿で。奥田は、足がガクガクしそうなのを必死で抑え、流れた涙を指でぬぐってやった。
「次。2番も差し歯。ここはちょっと付け根がやばそうだな・・・」
早智子がびくっとする。2番は、大学1年で差し歯になったのだが、一度取れしまって入れなおし、次にまた取れたら、根っこがもたないので抜くしかない、と言われたらしい。
「3番、2番との境からC2。4番、インレー。5番、アンレー。6番、クラウン。7番もクラウン。8番、C2です。」
荒井は、一度早智子の口の中からミラーと探針を抜き、カルテを見ながら、早智子に言った。
「・・・うーん、及川さん、上の歯、全部虫歯になっちゃったね。新しい虫歯も、奥歯は削って・・・けっこう大きいから、銀歯をはめたりかぶせたりしないといけないね。前歯も・・・2番は差し歯にするより仕方ないでしょう、3番、犬歯も、これだけ進んじゃうと、プラスチックでは治らないなあ・・・もうちょっと早く来てくれればよかったんだけど・・・でも、銀歯をはめることになるかな、だから、上の歯は全部銀歯になっちゃうんだけど・・・つらいだろうけど、虫歯になっちゃったものはしょうがない。だから、頑張って治そうね。」
早智子は、呆然としたような表情で、かすかに頷いた。
奥田は、今白く見えている歯も、すべて銀で埋まるかと思うと、興奮を抑え切れなかった。しかし、心配そうな表情で早智子の髪を撫で、開口器をつけた早智子の視線を受け止めるのだった。
「じゃ、下も見ましょう。」
再び、早智子の口腔内に、ミラーと探針が差し込まれた。
「左から・・8番、C2。7番、アンレー入ってるけど、下が虫歯だな、6番、クラウン。5番、インレー、4番もインレーです。あ、3番との隙間がC1。3番、C2。2番は斜線で・・1番、はちょっと待って」
探針で、茶色い点をたしかめる。汚れではなく、穴が開いているようだ。
「ああ、立派に虫歯だった、C2です。普通、下の前歯なんて虫歯にしないんだけどなあ。」
しばらく、ただの読み上げが続いたので、飽きていた奥田には少し刺激になった。早智子は、閉じている目をさらにぎゅっとつぶる。奥田がまた髪を撫でてやると、閉じた目じりから、涙がぽろりとこぼれた。
「右行って、1番と2番斜線、3番・・・はC2、4番インレー、5番クラウン、6番もクラウン、7番・・派手に穴開いてるなあ、C3。痛くない?」
早智子は、目を閉じたままで首を振る。
「そうか、で、8番、C2。以上です。」
早智子が、ホッとしたように目を開ける。開口器を外してもらえるのを待っているようだ。しかし、荒井は開口器はそのままにして、右手にミラーだけ持ち、口の中をあちこち覗き込んでいる。
「さて・・・どこから治したもんかな」
奥田も、ふたたび心配そうな顔を作って、今度はじっくり覗き込む。奥田に覗き込まれ、早智子の顔がゆがむ。
「この・・右の下の奥から2本目・・・ずいぶんひどい虫歯だな・・痛くないの?大丈夫?」
早智子は黙って・・・もちろん開口器で口をきける状態ではないが・・・首を振る。
奥田は次にじっくりと上の前歯を見た。
「でも、この前歯の虫歯も気になるな、やっぱり前で目立つし。ところで、これ、もう外してもいいんだろ」
ん、という荒井の声を聞いて、奥田は、早智子の開口器を外してやった。早智子がホッとした顔をするが、外した開口器からツゥーッ、っと唾液が糸を引くのを見て、また、苦しそうな顔になった。
荒井が治療台を起こし、早智子に向き直る。
「さて。治すところが・・・」
「15本ですね。少なくとも。」
和香が答える。
「そう、15本。治療には時間がかかると思うんだけど・・・頑張ろうね。」
真剣に言われ、早智子は頷く。
「さっそく今日から治療に入ったほうがいいと・・・思うんだけど。」
早智子がはっと助けを求めるように奥田を見る。今日はもう、というつもりだった。奥田はそれをわかっていながらも、早智子に頷きながら、
「週末で休みなのに、申し訳ないが、頼むよ、荒井。」
と力強く言った。
「じゃあ・・・でも、治療したらしばらく食事はできないから、昼食べてからの方がいいな。」
時計を見ると、すでに11時を過ぎていた。
「近くに、おいしいイタリアンができたのよ。おススメ。」
和香が、明るく言った。
「じゃあ、1時半から治療しようか。」
真面目な早智子は、
「よろしくお願い・・します」
とだけ言うのが精一杯だった。奥田は、早智子を連れ、和香おすすめのイタリアンに足を向けた。
店内は少し早いせいもあってまだ空いており、奥田は席に着くと、早智子に言った。
「ごめん・・ちょっと、辛かったかな。でも、腕は確からしいんだよ。何より、早智子の歯が心配で・・・あんなに虫歯が多いなんて思わなくて」
早智子はあわてて、
「そんなことないよ、付いて来てくれてありがとう。先生も・・率直で、信頼できそうだった。怖くはないし。大丈夫よ。」
ととりなした。
「じゃあ、今日から頑張るか?その、前歯の虫歯、やっぱり気になるよ。それに、こうしゅ・・・」
奥田は、はっ、としたように口をつぐみ、早智子は、蒼白になってとっさに手で口をおさえ、そのまま小声で聞いた。。
「私の口・・・臭いの?」
「いや、そんな、そんなことないって」
奥田は、わざとらしく否定した。
「お願い。正直に言って。」
奥田は辛そうに目を伏せてから、口を開いた。
「昔から時々・・臭うことはあったんだけど・・・最近は・・・その、いつも臭う、気がする、でも、今日わかったよ、たぶん、虫歯のせいじゃないかな」
「もしかして、会社でも・・」
早智子は、口から手を離せなくなった。
「大丈夫だよ、普通の距離でなら、気にならない。」
「どのくらい・・・臭うの?正直に言ってよ。」
早智子は半泣きだ。口が臭いと言われて、ショックを受けない女性はいない。
「ん・・・普段話すときはちょっと、臭い、くらい・・・だけど、思い切り、顔の前で喘がれると、正直なところ、ちょっとキツイというか・・・いや・・・」
実のところ、最近たしかにひどくなってきた早智子の口臭は、虫歯フェチである奥田にとっては、むしろ芳香だったのだが、あえて、話しにくそうに、言った。
このあたりが、難しいところなのだ。奥田は、女性が自分に見られることを恥ずかしがっているところが好きなのだが、女と言うのは強いもので、恥ずかしいところを見せすぎて、限界に達すると、今度はもうこの人になら何を見られても平気、と、完全に自分に体を預けてくる・・・というと聞こえがいいが、開き直るのである。こうなると、ずいぶんと刺激に欠ける。
「嫌われてしまうかもしれない」という恐れを残しておくことが大事だと、奥田は経験から学んだのであった。口臭は、かなり強力な切り札であった。
その後、ランチはおいしかったが、早智子は、話すときは小声で、口元に手を持って行ってしゃべった。
「そんなに気にしなくていいよ・・・でも、すごくお上品な人みたいだぞ」
奥田の冗談に、笑顔を見せた早智子の口元に、虫歯の穴が痛々しかった。
1時15分に、荒井の歯科に戻った早智子は、化粧室で歯を磨いた。奥田は、勝手知ったる診察室に入り、治療の用意をする和香に、
「ありがとう」
と、礼を言った。実は和香も、奥田の元・彼女であった。もっとも、どちらかというと歯の丈夫な和香は、その点では奥田を満足させることができなかったが、なぜか奥田の歯フェチがうつってしまい、その後、OLをやめて衛生士になり、奥田に紹介されて、荒井と結婚した。今では貴重な味方である。
「いえいえ、こちらこそ」
普段は、真面目な、やさしい衛生士として仕事をしているが、奥田が特別に連れてくる患者には、きつい言葉も使えるし、フェチ心を満足させられるような器具も使える。さきほどの金属製の開口器も、和香が見つけてきたのだった。
和香は、今度は、金属製の口角鉤を用意した。
荒井が入ってきた。
「おう、メシ食ったか?おい、和香、久しぶりだからってあんまり飛ばすなよ、これ、プラのに変えて。使いにくいもん。」
苦笑しながら、和香の用意した口角鉤を指差す。小声で、
「今度はホントに要るんだから。」
と付け足す。荒井は、奥田と和香の関係も、和香の歯フェチも承知していたが、仕事には熱心であった。もっとも、奥田の患者の治療には、「最大限の安全を踏んだ」治療をしているが。神経を取るか残すか迷ったら、取る。削るかどうか迷ったら、大きめに削る。もっとも、倫理観の範囲でのことだった。
やがて、歯磨きを終えた早智子が入ってきた。
「あの・・・もう帰っても・・・いいよ。」
奥田のそばに来て、小声で告げる。相変わらず、手を口元に当てたままだ。マウスウォッシュのミントの香りと・・・それではごまかし切れない口臭が漂った。奥田はわざとふっと顔をそむけたあと、とりなすように、
「いいよ、待ってるよ」
と笑顔で言って、そばのスツールに座った。帰るわけにはいかないじゃないか。
「及川さん、治療台にどうぞ。」
和香にうながされ、早智子は治療台に座る。
「あの・・・」
早智子が、苦しそうに切り出す。
「私のこ・・こう・・・口臭・・・ひどいでしょうか?」
和香は、ちらっと横目で奥田を見たが、荒井は真面目な歯科医の顔で、言った。
「いや・・・でも、虫歯を治療すれば、少しは良くなりますから。」
しれっと、ダメージを与えるようなことを言う。
「そうですか・・・すみません」
早智子は、ハンカチを口に当てて言った。
「じゃ、まず、たくさんあるんですが、痛むところが特になければ、上の前歯の治療から始めたいと思うんですけど、いいですか?」
「はい、お願いします。あの、ここはやっぱり・・・」
「ええ、差し歯ですね。」
早智子が目を伏せる。
「はい。」
「じゃあ、倒しますねー。まず、麻酔打ちますから。」
「前歯は見にくいので、及川さん、これ、はめさせて下さいね。はい、あーん」
和香が、早智子の口にプラスチック製のアングルワイダーを嵌め込んだ。歯茎が大きくむき出しになる。奥田が我慢できずに立って近づくと、早智子はまた、泣き出しそうな顔になっている。お願い・・・見ないで・・・早智子は心配そうな顔をしている奥田に、目で訴えた。
「大丈夫・・・綺麗に治してもらえるから。」
わざと見当違いの言葉をかけ、早智子が絶望したように目を閉じたのを見て、奥田はじっくり早智子の口元を観察した。もともとの歯茎はけっこう綺麗みたいだけどな・・・それだけに、変色した差し歯と、付け根と周辺の歯茎の黒ずみが痛々しい。左の2番は、少し隙間も開いてしまっているようだ。右の2番も、歯全体が飴色に変色してしまっている。すぐそばの歯茎に、表面麻酔が塗られ・・・
「ちょっとチクっとしますよー」
細い針がささる。早智子はぴくっとしたあと、シリンジが押し込まれるのにしたがって、ぎゅうぅ、と眉根にしわが寄る。
「裏にも打ちますから、はい、あーん」
歯茎がむき出しのまま、口を開ける。
「もう一度チクっとしますねー」
また、ぴくっ、ぎゅぅぅ、と同じ表情を繰り返す。
「麻酔が効くまでしばらく待ちましょう。えーと、治療の手順はご存知だと思いますけど・・・」
早智子は、アングルワイダーをはめられた姿のまま、こくこくと頷く。和香が、早智子に手鏡を渡した。荒井が、探針を手に、歯を指し示しながら説明を始めたので、自分の姿を見ないわけにはいかない。早智子の顔が歪む。
「歯の全体がかなりひどくやられてるので、歯の部分はおそらく全部削って・・・そのあと、神経を抜いて、根っこに金属の棒を立てて、差し歯をかぶせます。」
歯茎を大きくむき出しにされたみっともない姿。さらに、鏡を見るたびに悲しい、差し歯の変色と、見ないようにしてきた歯茎の黒ずみを見せ付けられて、早智子は耐え切れないように鏡を伏せる・・・と、心配そうに自分を見つめる奥田の姿。早智子は再び、目を閉じた。
奥田は観察を続けた。早智子がはめられているアングルワイダーは、前歯の部分だけでなく、左右にも大きく広がるタイプで、奥歯の外側まで丸見えだ。右側の、犬歯と4番の間の虫歯は、横から見ると意外と大きい・・アンレーの下の虫歯もはっきり見える。しきりに観察し、満足して視線を外すと、
「そろそろ効いたかな」
と、荒井が手にエアタービンをとミラーを構えて言った。和香も、エアシリンジとバキュームを構える。
「じゃ、前から削っていきます・・・痛くなったら手上げて」
奥田は一歩下がり、早智子の歯に、うなりを上げてエアタービンが近づいていくのを見守った。歯のかけらが飛び散り、和香がタイミングよくエアーと水をかけ、ごごっ、ごごっ、とバキュームで吸い取る。
しばらく削った後、
「では、お口ゆすいでください」
和香がアングルワイダーを外し、治療台が起こされる。早智子は、ホッとしたような顔をして、口をゆすいだが、和香がアングルワイダーを手に持ったままなのを見て、それがふたたびはめられることを覚悟したらしい。観念したように、頭をヘッドレストに預けた。荒井が待っていたかのように再び治療台を倒し、
「まだ痛くないですか」
と尋ねると、早智子は首を振った。
「じゃ、またはめますね」
和香が、器用に左手で早智子の口にアングルワイダーをはめこむ。早智子はもう、目を閉じることに決めたらしい。奥田がふたたびむき出しになった早智子の口元を覗くと、荒井が身をよけてくれた。この歯は、表面の薄い部分だけが残り、内部はもうほとんど崩れかけていたらしい。早智子の右上2番は、半分以下の大きさになっていた。
「痛くなったら左手上げてくださいね」
何度か同じことが繰り返され、早智子の2番の歯冠部は、ほぼ削り取られていた。エアタービンは、歯のさらに内部をえぐっていく。
早智子の体に、徐々に力が入り始める。
「痛みだしたかなー、ちょっと我慢してー、力抜いてくださいねー」
和香は、早智子が左手をあげそうになるのを、牽制していた。
奥田は、早智子のストッキングをはいた爪先が、ぴんと伸ばされ、ぎゅうう、っと握り締められるのを見ていた。
「もう少しですからねー、動かないでー、我慢してくださいねー」
和香が、強く言ったが、
「ぁ・・あ・・あ、いあい!いあい!」
ついに、早智子が痛みに耐え切れず、声を上げ、体をくねらせる。
「動かないで!奥田さん!あぶないからおさえて!」
和香が叫び、奥田は早智子に駆け寄って足を押さえる。上の歯を削られている場合、絶妙のポジションなのだ。
「及川さん、もう少しですからね、我慢してください、ちょっと深いから痛いですけどねー」
荒井も、おだやかに言いつつ、手は削るのをやめない。
「んぁああ!あが!んあ!」
早智子の目からは涙もこぼれてきた。
ようやく、タービンの音がやんだとき、早智子の顔は涙でグシャグシャだった。
「頑張りましたね・・・」
早智子は、右上2番が欠損した口をむき出しにしたまま、ぐったりと頷いた。
奥田は、その顔を頭に焼き付けた。
その後、神経の処置、仮歯入れ、小さめの下前歯と左下4番のレ充処置などをしてもらい、その日の治療が終わって、二人が歯科を出られたのは5時近くなってからであった。
ぐったりした早智子の肩を抱き、
「うちに・・泊まるか?」
と尋ねると、早智子は小さく首を振り、
「だって・・もう、恥ずかしくて・・あんな顔・・見られて・・・」
と言ったが、奥田は、黙って早智子を家に連れて帰ると、玄関を入ってすぐ、靴も脱がずに強引にキスをした。
自分の口臭のことを思い出した早智子は、身を固くし、一瞬抵抗したが、すぐに力を抜いた。
奥田は、早智子の口臭・・・いつもの、進行した虫歯特有の臭いと・・・金属臭・・・硬質レジン冠の差し歯に染み付いた臭い・・・それに、歯科治療後の消毒薬の臭いとタンパク質の焦げたような臭いを堪能し、舌で、仮歯の感触を楽しんだ。髪にも服にも、歯科治療の臭いが染み付いている。たまらなかった。そのまま、靴を脱ぐとベッドに直行した。ベッドでは、「顔の前で喘がれると臭くてキツい」という言葉がフラッシュバックし、必死にこらえる早智子の苦悩と、やはり耐えかねて一気にその臭い息を吐きかける早智子に燃えた。「ア、ゴメンナサイ・・・」と言う早智子にうっ、と顔をしかめてみせ、あわてて慰めてみせることも忘れなかった。
その後、月にだいたい2度のペースで、3か月ほど治療に通ったのだが、早智子は妊娠が判明し、つわりがひどく、しかも長引き、治療は途中のまま、長い間中断されることになるのだった・・・治療の再開は、長女の出産後、歯がどうしようもなく痛み出してからとなる・・・
長女の出産に立ち会った奥田が見た、陣痛で叫ぶ早智子の口腔内は・・・
右上8番未処置、7番仮封脱離(根管治療中)、6番アンレー脱離、5番銀パラインレー、4番インレー脱離、3番裏側銀パラインレー、2番硬質レジン前装冠(未変色)、1番硬質レジン前装冠(やや変色)、左上1番硬質レジン前装冠(かなり変色)、2番硬質レジン前装冠(変色、歯肉と隙間あり)、3番裏側全体銀パラインレー、4番銀パラインレー、5番銀パラアンレー、6番銀パラクラウン、7番銀パラクラウン、8番銀パラインレー。左下8番銀パラインレー、7番銀パラアンレー、6番銀パラクラウン、5番銀パラインレー。4番銀パラインレー、3番裏側銀パララインレー。2番健全歯、1番健全歯(実はレ充済)、右下1番健全歯、2番健全歯、3番裏側銀パラインレー、4番銀パラインレー、5番銀パラクラウン、6番銀パラクラウン、7番仮歯(根管治療済)、8番未処置。