奥田は、2ヶ月になる娘の沙紀の泣き声で目が覚めた。時計を見ると、3時である。
やはり隣で目を覚ました妻の早智子を見る。
「どうする?ミルク作るか?」
「あ、ありがとう・・・お願いしていい?」
「ああ、いいよ」
台所でミルクを作ってから寝室に戻ると、
娘の沙紀を抱いてあやしながらも、妻は、左頬を押さえていた。
歯が痛むのだ。
薬を飲むと、母乳に成分が出てしまうと言われ、痛み止めは寝る前だけにしていた。それでも、夜の間は母乳を避けて、奥田がミルクを作って飲ませていた。沙紀を預かり、ミルクを飲ませながら、奥田は聞いた。
「痛むのか。もう薬が切れたのか?」
「ん、そうみたい・・・」
「朝まで、もうちょっと我慢しろよ」
「ん・・・」
早智子は顔を歪ませたまま、答えた。
約1年前。早智子は、奥田の友人の歯科医、荒井のところへ通い始めた。3年ぶりの歯医者であった。歯の弱い早智子に、3年のブランクは大きかった。治療すべき歯は15本も見つかった。早速、治療を始めたが、その3ヵ月後、早智子の妊娠がわかり、しかもつわりがひどく、8ヶ月くらいまで続いたため、治療は中断せざるを得なかった。当然、その間に虫歯は着実に進行し、出産後、ほどなくして、早智子は
「歯が痛い」
と訴えるようになった。歯が弱いとはいえ、今までに治療以外では歯の痛みを味わったことがなかった早智子は、絶え間なく続く歯の痛みというものに、参っているようだった。
右側は痛いうえ、インレーや仮封の脱離が多くてものが噛めず、1ヶ月以上、左側だけで食事をしていたのだが、今日の夕飯のとき・・・
ガリッ。
「あっ、つぅっ」
ついに、左側も詰め物が取れてしまった。左下の7番。大きなアンレーの下が虫歯になっている、と指摘されてそのままになっていたところである。
あわてて口の中を吐き出すと、大きな銀歯のほかに、歯のかけらもいくつかまじっていた。歯も欠けてしまったらしい。
嫌がる早智子の口を無理やり開けさせると、7番は無残な姿で、歯冠部はほぼ崩壊し、内部にぽっかりと大きな穴が開いていた。右側の、メタルコアだけが立っている・・・仮歯はとれてしまったらしい・・・7番と同じくらい痛々しい。
大きなアンレーだったが、抜髄はしていなかったようだ。その後、ズキズキと歯は強く痛み出した。早智子は涙目になり、
「お願い・・荒井先生に連絡してくれる?」
と奥田に懇願した。
治療は出産後、3ヶ月くらい経ってからの方がいい、と荒井に言われていたが、限界だった。明日は日曜だったが、朝、8時から診てもらうことになった。
翌朝。荒井歯科クリニックの扉を、左頬に手を当てたままの早智子が開けた。幼い娘を腕に抱いた奥田も一緒だ。
「おはようございます。お待ちしてましたよ・・・大丈夫ですか?」
和香が明るく声をかける。白い歯がまぶしい。そのまま、診察室へ案内する。
「・・・あの、すみません、治療を途中でやめてしまって・・・」
早智子が恐縮しながら奥へ進む。奥田も後に続いた。
「いえ、仕方ないですから・・・大丈夫ですか?ああ、これが沙紀ちゃんか、はじめまして。」
診察室の中の荒井が、これまたさわやかに声をかけるが、早智子は頬を押さえ、うつむいたきりだ。
「大分痛むようですね・・・では、さっそく見ましょうか。とりあえずは痛みを軽くしましょう・・・他は後で見ようか。」
「お願いします・・・」
早智子が、治療台に上った。
「じゃ、俺は待合室にいるから。頼むな。痛いところが終わったら呼んでくれ」
驚いて顔を見合わせる荒井と和香を尻目に、奥田は沙紀を連れて待合室に入った。
痛みで、恥ずかしがるどころではない姿は少々興奮が薄かったし、子供に母親の泣き叫ぶ声を聞かせるのもあまり良くないかな・・・と、ふと父親心が芽生えたのであった。ほどなくして、診察室から、エアタービンの音が響いてきた。
チュイーン、チュィー、チュ、チュ、チュ、チュィィイイイイイ
ああ、久しぶりだ・・・いい音だ・・・
やがて、早智子の泣き声が混じり始める。
んぁぁあああ、ぁあ、
「あー痛いですねー、もう少し我慢してくださいねー」
「動かないで!我慢して!」
荒井と和香の声も聞こえる。
チュィィィイィィィン、チュィィィィイイイン・・・
んはあぁ!!はぁあああ!
奥田は、目を閉じ、1年前に焼き付けた光景を思い出す。
アングルワイダーをはめられ、前歯を削られて痛みに苦しむ早智子。
チュイーン、チュィーン・・・・
奥田は、立ち上がり、診察室へと足を向けた・・・
チュィィィイィィィン、チュィイイイン
音がいっそう高くなり、泣き声も激しくなった。
はぁあああ、んんぁあああああ、はあああああっ
「動かないで!もう少しですから・・・ああ、口閉じないで!」
ギャラリーに気付いた和香の声が高くなる。今日はアングルワイダーはつけられていないらしい。
「この虫歯はだいぶんひどいからね・・・痛いけどね・・・もうちょっと我慢してくださいねー」
荒井も声をかける。
んんぁあっはあああああ、はあ、ああ、ああああっ
そのとき、沙紀が泣き出しそうな気配を見せ、奥田は、あわてて待合室にもどった。
その後、ぐずってなかなか泣き止まない沙紀をあやしている間に、
タービンの音はやみ、早智子の泣き声だけになり、やがて、ようやく沙紀がおとなしく眠った頃、和香が奥田を呼びに来た。
「とりあえず・・・応急処置終わったわ、検診するけど。」
あわてて荷物を取り、奥田が診察室に入ると、早智子は治療台を倒され、和香に開口器をはめられているところだった。
奥田が近づき、声をかける。
「どう、痛みは。おさまったか?」
「あっ」
開口期で口を開げられた姿を見られ、ハッとした顔をしたあと、早智子は頷く。
調子が戻ったらしい。奥田は満足して、治療された7番の仮封をちらっと見ると、
「じゃ、頼むよ」
と荒井に言って、少し下がった。
「では、検診しますね。前回の治療・・・はいつだっけ、」
「9ヶ月ほど前ですね」
「そう、途中でやめてしまって大分たつので、進んでしまったところもあると思うし、よく見て行きますね」
「あい」
早智子が不安そうな顔で、真剣に頷く。
「では右上奥からいきます・・・8番・・・C3、前どうだった?」
「C2でした」
「進行しちゃいましたね・・・これはかなりひどいな。次、7番。あああ。これは?」
「えーと」
和香がカルテをめくり、早智子の顔の不安の色が濃くなる
「根治中です。1回済の時点ですね」
「そうかー、まずいな、一応C4で。次、6番・・・これは」
「アンレーでした」
「脱離。中で進んじゃったなあ、これもC3。次が5番、インレー。4番、これもインレー取れちゃったかな、C2。3番インレーで、2番がえーと、差し歯。」
早智子が、あきらめたように目を閉じるのが見えた。
「1番、差し歯。左に行って・・1番も差し歯。2番、差し歯なんだけど・・・ちょっと良くないな、3番、インレー、4番もインレー、5番アンレー、6番クラウン、7番もクラウン、8番がインレー。えーと、ああ、先に全部見ちゃおう、左下行って・・・8番インレー、7番・・さっきのね、6番クラウン、5番インレー、4番インレー・・・だけど別の箇所からC2。3番インレー、2番斜線、1番レ充で、右行って1番斜線、2番斜線、3番インレー、4番インレー、5番クラウン、6番クラウン・・・7番・・・コア?」
「根治は済んでます、コア立ててから仮歯入れてます」
「ああ、仮歯取れちゃったみたい。8番が・・・C2。以上です。ちょっとレントゲン取ってもらえる?3箇所。」
「はい。じゃ、こちらへどうぞ」
和香が開口器をはずし、早智子をレントゲン室に案内する。
しばらくたって、早智子が戻ってきた。後から、レントゲンを手にした和香が着いて来て、荒井に手渡す。
荒井は写真をシャーカステンにセットし、眺めながら言った。
「ちょっとアングルワイダーつけて。説明するから」
「そうですね。じゃあ失礼します。あと、これ持って下さい。奥田さん・・旦那さんもこちらに。」
和香は、早智子を治療台に座らせ、治療台を倒すと、アングルワイダーを嵌め込み、手鏡を渡し、奥田を呼んだ。
早智子が恥ずかしさに顔を歪める。
まだ恥ずかしいんだわ・・・新婚さんね。和香はひそかに感心し、同時に興奮した。
「まず、さっきのところ・・・痛みがひどかったところですが」
荒井が、探針で左下7番を指す。
「かぶせた銀歯の下で、虫歯がひどくなっていたので、削って、神経を取りました。ほとんど歯は残っていませんが・・・」
早智子が辛そうに目を細める。
「このあとは、根の中を掃除して、クラウン、この手前の歯と同じものをかぶせます。」
「はひ」
早智子が頷く。
「で、問題は・・・3つあるんですが・・・」
早智子がびくっとする。
「まず、そうだな、右下から行こうかな。ここ。」
探針で、右下7番のコアがむき出しになったところを指す。
「これは、クラウンを立てるための支えなんですが、これがですね、むき出しになっていたので・・・根っこに直接ダメージが伝わっちゃったと言えばいいかな、この棒で歯の根っこをかき回しちゃったというか。で・・・」
荒井は、今度はレントゲンの1枚を指した。
「歯の根っこが割れてしまってるんです。割れてしまったら・・・」
早智子が、大きく目を見開いて、荒井を見る。
「残念ですが、抜くしかありません。」
早智子が、はっ、と息をのみ、奥田の顔を見る。
「抜いたら・・・どうなるんだ?」
当然知っているが、奥田が荒井に尋ねる。
「大丈夫です。幸い、8番・・・後ろの歯も治療しないといけないので、8番と6番のかぶせものとくっついた、ブリッジというものを入れます。見た目は・・このクラウンが3本並んでいるようなものです。」
「それは、その・・・入れ歯なのか?まだ早智子は・・・26歳なんだが。」
早智子が、入れ歯、という言葉を聞いて、びくっとして荒井を見つめる。
「いや、まあ、義歯という点では入れ歯とも言えるが・・・取り外しはできないし、見た目から言っても、クラウンだな。」
「そうか・・・入れ歯じゃないのか。いくらなんでも、26歳で入れ歯はちょっと・・・かわいそうで」
奥田は早智子の髪を撫でながら言った。
「ん、じゃ、次に・・・ここの上ですが。」
荒井の探針が、右上7番、仮封はしてあったが取れてしまい、歯冠部がほとんど残っていない歯と、その後ろの8番、大きく穴が開いて陥没してしまっている歯と、8番と同じような見た目の6番を指した。
「レントゲンを見ると・・・やっぱり7番、治療途中だったところの根っこがね・・・虫歯みたいなものだな、とにかくやられちゃったので、これも抜かないといけません」
早智子の組んだ両手は、爪が白くなるほど力が入っていた。
「8番がちょっと下よりも虫歯がひどいんですが・・ま、今回はなんとか同じようにブリッジで治せると思います。」
早智子は明らかに、今回は、という言葉に動揺していたが、何もいえない早智子にかわって、奥田が返事をした。
「ん、わかった。」
「あともう一箇所が・・・」
荒井が早智子のほうを向くと、早智子は口を開きかけた・・・もちろん唇はアングルワイダーで開かされているのだが・・・が、荒井がそれをさえぎるように言った。
「あ、歯は閉じてください。」
早智子が、また泣き出しそうな顔をする。
「ここです。」
荒井は、左上2番の差し歯の付け根を指した。
「妊娠中に少し歯周病気味になったことがあると思うんですが・・・それで、もともと少しゆるみかけていたこの差し歯がダメージを受けてしまったんです。この歯はおそらく、抜かないといけないでしょう」
「ここも、その・・・ブリッジ?」
「そういうことになります。もっとも、見た目は普通の差し歯です。隣の1番もかなり変色してしまっているし、綺麗になりますよ、3番もかぶせることになるけれど。」
早智子は、安堵したような、呆然としているような表情を浮かべている。
「3箇所。ちょっと大工事になるけれど。抜いて・・・すこし落ち着くのを待って、周りの歯をかぶせる準備をして、という流れです。ちょっと時間かかりますが、頑張りましょう。」
荒井の言葉に、早智子は頷いた。
その後、約半年ほど続いた「大工事」の結果、早智子の笑顔は少なくとも、少し綺麗になった。左上1番~3番の、3連ブリッジのおかげである。変色がひどかった1番と2番の差し歯が新しくなったのだ。その他、右上と右下に8番~6番の3本ブリッジが入った。大工事以外では、左下7番のアンレーがクラウンに、左下4番のインレーがアンレーに、右上4番のインレーが大きなインレーになった。口の中は、ますますギラギラになり、奥田は、早智子が普通にしゃべるたびに見え隠れする左下4番のアンレーを気に入っていた。
26歳の早智子の喪失歯は、すでに3本であった。