「私、インプラントにひようかと思ってるの」
早智子が、寝室のドアを閉め、ベッドに近付いて来ながら言った。寝る前に、洗面所で部分入れ歯を外してきたのだ。右上の奥歯が5番以降全くないせいで息が漏れるのか、発音が少しおかしい。入れ歯を外すと、頬も少しこけて、めっきり老ける。早智子はまだ30代だが、化粧を落とした後なせいもあり、40代半ばくらいに見えた。
「ああ、どこだっけ?」
やる気がなさそうに、奥田が答える。実際、興味の対象外だった。まさか40前に入れ歯にまでなるとは・・・。かかった歯医者が悪かったらしい。荒井のせいではない。荒井は、少し大きめに治療するが、腕は良かったはずだ。
しかし、一応の主治医である荒井は、7年前にクリニックを閉め、アメリカに修行しに行ってしまい、その間に早智子がかかっていた歯科医の雑な仕事がもとで、結局、早智子は歯を余計に喪うことになった。
「ここよ、右上。」
口を開けて見せた早智子には、すでにかつての歯の悪さを恥らうようなところはなく、指差した右上は、ごっそりと歯がなかった。
歯茎がヌラヌラと光っているだけだ。しかも、入れ歯の下になっているせいか、ピンク色の輝く歯茎ではなく、ところどころ赤黒く変色していたりして、汚らしい、という印象しかない。口の中をちらっと見ただけで黙っている奥田に、早智子は続けた。
「ほら、荒井先生、アメリカで、インプラントの勉強してらしたんでしょ。本にも出てたわ。」
最近、高級住宅地として知られるこのあたりにまた開業した荒井は、実際、インプラントの腕がいいとして評判らしい。
「ああ、荒井と言えば、亜衣はどうした。治療は終わったのか?」
夏休み、単身赴任中だった奥田のところに遊びに来た次女の亜衣は、歯が痛くなり、奥田のオフィスのビルにあった後藤歯科で応急処置は受けたのだが、1週間の滞在ではもちろん治療は完了できなかった。また、それまで痛い治療を受けたことがなかったために歯科治療に抵抗のなかった亜衣だが、後藤歯科での治療が思いのほか辛かったようで、その後、自宅に戻ってからも、歯科には行かずに黙っていたらしい。
早智子は、多忙なせいもあるが、自分の歯が悪いために「虫歯になるものはなる、しょうがない」と思うのだろうか、子供の歯に案外無関心である。
そんなわけで、亜衣にもうるさく歯医者に行けというわけでもなく、亜衣が再び歯科に通い出したのは、奥田が単身赴任から戻った10月に、再び歯が痛くなってからであった。
荒井のところに連れて行き、最初の数回は奥田がついて行ったが、その後は一人で通っている。
「明日で最後ですって。まだ小学生なのに大きい銀歯になってるわ。」
「最後くらい付いて行くかな」
「そうね・・・」
しばらくの沈黙の後、早智子が思い出したように言った。
「そうだわ、あなた、亜衣の治療に付いて行くんだったら、沙紀も連れて行ってよ」
「なんだ?沙紀も虫歯か?沙紀は歯は丈夫だろう。」
ついに来たか?実は夏休み、沙紀の前歯には虫歯のかすかな兆候があったのだ。ちょっと早過ぎる気もするが・・・
「それが、前歯が痛いらしいのよ。」
「痛むのか?しみるんじゃなくて?」
「さあ、よく知らないんだけど。」
本当に無関心な早智子であった。
翌日、土曜日の朝。奥田は、起きてきた沙紀にさりげなく聞いた。
「沙紀、夏休み、しみるとか言ってた歯はどうした?まだ痛いなら、一度診てもらうか?今日、亜衣を歯医者に連れて行くから。」
意外と父を嫌がらない沙紀だが、一応、中学生の娘ともなると気を遣う。
「えー、いいよー。見てもなんともないし、あれじゃないかと思うんだよね、チカクカビン?コマーシャルでやってるじゃん。歯がしみる人、って。あの歯磨き買ってよ、お母さん。」
「もう、すぐにあれ買ってこれ買ってって。」
「いいでしょ、歯医者に行くより安いもんだよ。いつもお母さん、歯医者さんはお金がかかるって言ってるじゃん。どうせ歯磨きって使うもんでしょ。」
「まあ、そう言われればそうねえ。」
「じゃ、歯医者は行かないんだな?」
奥田が念を押すと、
「まあ、わざわざ行かなくてもいいんじゃないかしらね、沙紀は歯が丈夫なんだし。」
と早智子が答え、沙紀も横で頷いた。
これまで虫歯になったことのない沙紀は、ちょっと歯医者に行くのが怖かった。もちろん、「自分は虫歯にならない」という自信もあったのだが・・・
その後もずっと、沙紀は、やはり時々しみる前歯が気になっていた。チカクカビンの歯磨きを使っているのに、あまり効果はないようだ。この間は、熱いココアもしみた・・・ような気がする。
年が明けてしばらくたったある日、沙紀は、薄暗い洗面所で、父親が「亜衣がちゃんと歯磨きできたか見るように」買って来たデンタルミラーをこっそり使って、前歯の裏側を見てみた。えっ・・・・・黒い!?
前から2番目の歯、裏側が少し黒い。でも、虫歯って、茶色くなるものじゃない?黒ってことはないかも・・・
沙紀は、今見た光景を、忘れようと心に決めた。
4月になり、沙紀は中学2年生になった。冷たいものや熱いものがしみる前歯は、ときどき沙紀を驚かせ、ドキッとさせたが、ふだんは、無意識に右側を使っているらしく、あまり問題はなかった。沙紀の中学では、歯科検診は4月の末、一斉健康診断日に行われた。各自、自分の健康診断票を持って、校内にあるいくつかの検診場所を回るのだ。
「奥やん、全部終わった?」
「あとは・・・歯科と視力かな」
「早いじゃん!回るの上手いなあ。歯科、今すいてるらしいよ」
「じゃ、行ってクルー」
廊下ですれ違う友人と、情報交換をして、歯科検診会場に走り出しかけた沙紀は、突然、しみる前歯のことを思い出した。足が止まる。ま、でも、ここの歯科検診、けっこう適当だから大丈夫よね・・・沙紀は勇気を出して、歯科検診会場に向かった。
情報どおり、歯科は空いていた。4人の歯科医が、手持ち無沙汰に座り、係りの生徒としゃべっている。
沙紀は、なるべくいいかげんそうな、適当に見てくれそうな歯科医を探した・・・ふだん、前歯って、ざっと見るだけよね・・・
きょろきょろしていると、
「歯科検診の人?どうぞどうぞ。ほらほら、遠慮せずに。」
と、歯科医の一人から声をかけられた。軽そうな青年だ。沙紀は、その隣の、老眼そうなおじいさん先生に診てもらいたかったのだが、そのジイサンは
「ああ、そりゃ若い男性の方がいいでしょうなあ、ほっほっほ」
と、診る気がなさそうだった。仕方なく、声をかけてきた青年医師の前に座る。
「よろしくお願いします」
「じゃ、あーん」
ミラーって、こんなに薬臭かったっけ・・・沙紀は、口を開けながら、早く終わることだけを祈った。
「へー、綺麗な歯だね・・・歯磨きもできいてるようだし・・・ま、OKかな・・・」
沙紀はホッとした。が、突然、歯科医が声を上げた。
「ん、あれれ?」
次の言葉は、沙紀が一番聞きたくなかった言葉だった。
「この前歯の裏、黒くなっちゃってるよ」
沙紀がびくっとすると、少し残酷な気分になったらしい歯科医は言った。
「前歯はねえ、早く治したほうがいいよ・・・目立つからね、変色しちゃったりすると。」
「はい・・・ありがとうございました」
左上の前歯にC2、C1と書かれた健診票を受け取った沙紀は、歯科医たちの会話から逃げるように、会場を後にした。
「そうなんですよ、うちもこのあいだ、若いOLさんが、差し歯はイヤだって大泣き。困りましたよ。」
「仕方ないですよね、自分が早く治療に来なかったのが悪いのに」
「最近の若い女性は、どうも口内衛生がなってないですよね。爪磨く暇があったら歯を磨けって言いたくなりますよ・・・」
その夜。沙紀は、パソコンに向かっていた。検索サイトで、
「前歯 虫歯 治療」
と入力し、検索する。色が変色しちゃったらどうしよう・・・差し歯になっちゃったら・・・沙紀の胸はドキドキしていた。どこのページにも書いてあるのは、
「神経を取ると変色してしまう」「とにかく早めに治療を受けましょう」
ということくらいだった。知りたい情報、どのくらいだと神経を取らないといけないのか、など、あまり載っていない。
「虫歯 しみる」
検索キーワードを変えて、いろいろ調べる。
「しみる場合はC2」「冷たいものだけでなく熱いものや甘いものがしみるのは虫歯が進んでいる証拠」
沙紀の鼓動は速まった。最近、熱いものも・・・しみる。甘いものは・・どうかな・・・しみるかも。
泣きたいような気分になりながら、さらに調べる。
「前歯 治療」 さらに、震える手でもう一つキーワードを追加した。「差し歯」
そしてついに、沙紀は望んでいた情報を見つけた。
「打診痛があるかどうかが、神経を取るかどうかの目安になります」
沙紀は、口を少し開け、左手の人差し指の爪で、しみる歯を、コツ、コツ、と叩いてみた。
・・・大丈夫!!
特になんともないような気がする。沙紀はようやく安心して、ベッドに向かった。
奥田は、さっきまで沙紀が使っていたパソコンの前に座ると、ホームページの履歴をチェックした。
虫歯の治療、前歯の治療、などのページがずらりと並ぶ。
沙紀はどうやら前歯の虫歯を気にしているらしいな・・・
奥田は満足し、歯の丈夫だった沙紀の心中を想像した。
その年の夏休み。奥田は、沙紀と「キャラメルかき氷」を食べに行く約束をしていた。オフィスのそばにある、甘味処の名物なのだ。かき氷にソフトクリーム、そこにキャラメルソースがたっぷりとかかり、熱いほうじ茶が出る。冷たいもの、熱いもの、甘いもの・・・歯にしみそうなもののフルコースである。
「お父さん!」
沙紀と店の前で待ち合わせ、店内に入る。
「食べてみたかったんだよー、キャラメルかき氷。」
沙紀は、普通にはしゃいでいた。席に着いて注文し、しばらくすると、それは運ばれてきた。
「すごいね!」
沙紀は目を輝かせ、スプーンを手に取り、大きくソフトクリームとキャラメルソースをすくって、ぱくっと口に入れた。
「んっ★※!」
うっかりしていた。口に入れた量が多すぎ、冷たいソフトクリームと甘いソースは・・・しみる歯を直撃した。
痛みがずーんと頭に響く。
顔をしかめ、左手を口に当てる。
「そんなに慌てて食べるなよ」
熱いお茶を目の前に置いてやる。
沙紀はあわててお茶を口に含み・・・この歯は熱いものもしみるんだった、ということを思い出した。
再び、痛む歯を唇の上から押さえるように口に手を当てた沙紀の目は、涙目になっている。
・・・かなり痛むようだな・・・
奥田は観察し、さりげなく切り出した。
「そういえば・・・しみるとか言ってた歯は、どうした?チカクカビン、の歯磨きで良くなったのか?」
結局、沙紀はかき氷を半分も食べられず、歯はまだしみる、ということを白状させられた。
「そうか・・・ま、早いうちに歯医者に行ったほうがいいんじゃないか?お母さんはたしか、15のときに前歯が虫歯のせいで差し歯になったそうだが、悲しかったらしいぞ」
奥田は他人事のように言い、歯医者に行くなら自分に相談するように、と言った。
夜、しみる歯を、人差し指の爪でそーっと、コツコツ、と叩いた沙紀は、歯の奥に、確かな痛みを感じていた・・・
「お母さんは15歳で差し歯になった」
という話が思い出される。自分はまだ13だ。沙紀は、こわごわ、奥田に言った。
「歯医者さんに・・・行きたいんだけど」
日曜日の朝。荒井クリニックの待合室に、奥田と沙紀の姿があった。
「じゃあ奥田さんとお嬢さん、診察室にどうぞ」
和香が呼びに来た。口元には・・・メタルボンドの差し歯。3度の妊娠・出産・授乳を経て、丈夫だった和香の歯は、すっかり弱くなってしまい、上前歯の4本の差し歯のほかに、奥には数本のクラウンさえ持っていた。
「こちらにどうぞ」
緊張している沙紀を、治療台に座らせる。
「あの、沙紀はたぶん歯医者は初めてで。」
入ってきた荒井に伝えた。もちろん、前もって話してもあるが。
「こんにちは。初めてか。そんなに緊張しないで。で、今日はどうしたの?」
沙紀が奥田を見、奥田は頷いてみせる。
「あの・・・前歯が・・・ちょっとしみるんです」
「へえ、冷たいもの?熱いものは?甘いものとかはどう?」
小さく頷く沙紀に、荒井は困ったような顔を造って見せた。
「それは・・・甘いものもしみるとなると、ちょっと進んでるかもしれないね。ちょっと見せてもらうね。」
不安そうな沙紀の気持ちを無視して、治療台は静かに倒されていった。
ライトのスイッチが入れられる。まぶしい。
「はい、あーん」
荒井がミラーを沙紀の口腔内に挿し込み、厳しい顔をする。
「ああ、だいぶん黒くなっちゃってるね・・・これはどう、ちょっと響くかな?」
突然、荒井はミラーの柄で、沙紀の歯をコンコン、と叩いた。
「んあ、いあい!」
沙紀はびくん、とはねた。この間、コツコツと指で叩いたときとは、比べ物にならない痛みだった。
これがきっと・・・打診痛だ・・・沙紀は絶望的な気分になった。たしか、神経を取らなくちゃいけないんだったっけ・・・
「うーん、そんなに痛い?思っていたよりも大分ひどいなあ。これは、ちょっとしみる、じゃないでしょう」
初めてなので厳しくやってくれ、と奥田に頼まれている荒井は、容赦なく厳しくすることにした。インプラントをメインにするようになって、欲求不満気味の歯フェチの和香が、「初めての歯医者なら、どのくらい痛くされるのかも、何をされるのかもわからないはずでしょ」と言って、昨晩、目を輝かせていたのを思い出す。
大分ひどい、と言われてうなだれている沙紀に、和香が声をかける。
「じゃあ次は、水をかける検査をします、どのくらいしみるのか見ますね。はい、これつけますねー」
言いながら、和香が沙紀の口にアングルワイダーをはめこむ。沙紀は、わけもわからず、されるがままだ。奥田も、そんな「検査」は初耳だ。和香が思いついたらしい。
開いた口に、和香がバキュームを突っ込む。
「じゃ、お願いします」
コココココ、とバキュームが音を立て始めると、荒井が、スリーウェイシリンジを手にした。
「まだ削るんじゃないからね、水かけるだけだから。」
そう言って、荒井は、水のスイッチを押した・・・通常、適温の水が出るが、今日は冷水にしてあるのだ・・・
「ゃやああああ、いぃぃぃぃぃあああああああぃぃぃぃいッ」
沙紀の叫び声が響く。頭がのけぞりそうになるのを、和香が
「我慢して。普通はそんなに痛くないんだから。早く治療に来ない自分の責任なのよ。」
と叱りつけて押さえる。
「ひぃ、ひぃ、ひぃ、ぃぃぃいいいいい」
沙紀は、声が枯れるほど叫び、足をばたつかせていた。奥田は、さすがに自分の娘なので可哀想で見ていられないだろうと思っていたのだが、和香のシナリオと演出に、思わず興奮し、生唾を飲み込んだ。
やがて、荒井が沙紀から離れ、バキュームも、コココココ・・・スココ、と停止した。
「うーん、沙紀ちゃん、その虫歯、かなりひどいようだね。いつごろからしみるの?」
荒井がカルテを見ながら尋ね、和香がアングルワイダーを外した。
「えっと・・・去年の・・・冬くらい・・・」
小さい声で答えかけた沙紀を、奥田がさえぎった。
「沙紀、去年の夏、アイスがしみるって言ってたじゃないか」
「あ、ん・・・そういえば・・・夏ごろから時々・・・・」
「じゃあ、一年も放置していたのかな?」
荒井が、少し厳しい声を出す。
「でも・・・見てもなんともなかったし・・・」
「そう、見た目でわからない頃に来ていれば、すぐに治ったんだよ。」
沙紀の顔が曇る。荒井はさらにたたみかけた。
「歯科検診はなかったの?春には十分大きかったと思うんだけど。」
「あっ」
実は沙紀は、歯科治療勧告を捨てていたのだ。
「無視したんだね?どうして?」
「私は・・・歯が丈夫だし・・・大丈夫だと思って・・・」
「でも、お母さんも亜衣ちゃんも、かなり歯が弱いよね?それに、歯の強さはだんだん変わるんだよ。甘い物も当然歯に悪いし。歯が丈夫だから虫歯にならないなんてことないんだよ。」
沙紀は泣きそうだった。
「で・・私の歯・・・どうなっちゃうんですか・・・」
「まあ、神経は取らないといけないね。そんなにひどく痛むなら。」
「お母さんみたいに・・・差し歯になっちゃうの?」
「僕の考えでは、今回は神経を取るだけでいいと思ってる」
沙紀の顔がパッと輝いた。一瞬。
「でも、神経を取った歯は変色してしまうけどね」
「どのくらい・・・」
「それは時による。すぐに変色してしまう人もいれば、何年か大丈夫な人もいる。なんとも言えないね。」
結局、沙紀は、左上の2番と3番の抜髄処置を受けた。途中、炎症を起こした歯の痛みに苦しんだり、治療の痛みに泣き喚いたりしながら、夏休み中、ほとんど2日おきに歯医者に通い、治療が完了したのは、9月も半ばに差し掛かった頃であった。
しかし不幸にも、沙紀の歯はすぐに変色が始まり、冬の足音を聞く前に、2番は全体が黒ずみ、3番は、艶のない、黄ばんだ歯になってしまっていた。友人に、
「沙紀、その虫歯治しなよ」
と指摘されてからは、歯を見せて笑うこともできなかった。沙紀は両親に訴え、泣く泣く、2本の前歯を差し歯に変える決意をした。沙紀の口に差し歯が入ったのは、歯の弱かった母親よりも早く、14歳の誕生日のことだった。