沙紀は、高校2年生になった。

子供のころは、歯が丈夫で、虫歯になったことのなかった沙紀だが、

14歳の誕生日に、おそらく同級生の誰よりも早く、前歯を2本も・・しかも虫歯で・・差し歯にしてしまってからは、

虫歯の菌も、沙紀の口腔内の居心地が良くなったらしい。

その後、奥歯にも普通に数本の虫歯ができはじめ、徐々にその本数は増えてきていた。

中3の歯科検診で虫歯が2本見つかり、すぐにレジンで治療されたが、高1では新たに3本見つかった。それらもすべて夏休みにインレーやレジンで治療したが、現在、新たにできた数本の虫歯が、高2の歯科検診での発見を待っていた。

すでに「歯が丈夫」という自信は無残にも壊され、実際、今では歯の弱い人の仲間入りをしつつあった。しかし一番のコンプレックスは前歯の差し歯で、人が自分の口元を見ていると、差し歯の裏が見えているのではないかと気になった。中2になったばかりの妹の亜衣は、すでに奥歯16本を全滅させ、ほとんどをインレーでギラギラ光らせていたが、あちこちレジンで治療されているとはいえ、亜衣が自前の前歯を保っていることは、沙紀を嫉妬させた。

 

沙紀には、去年のクリスマスから付き合っている、今は大学生の彼氏、修二が居た。最初は映画に行ったり、テーマパークに行ったり、食事をしたりするだけの関係だったが、沙紀が高2になると同時に、大学生になった修二が1人暮らしを始め・・・最近では、もっぱらデートといえば修二の家である。5月の日曜日の午後、修二の家でだらだらと向かい合ってコーヒーを飲んでいると、修二が突然言った。

「沙紀、その前歯、差し歯?」

沙紀は、ショックでコーヒーを落としそうになった。

「なんで?」

「だって、裏が黒いじゃん。」

修二は、あっさり答えた。沙紀の顔はこわばった。

「いつ・・いつから気付いてたの?」

大口を開けてのけぞっているのだろうか、ふだんは気をつけてるのに、と、沙紀は心配になった。

「最初のデートかなあ、絶叫マシン乗ったとき。ふと沙紀の顔見たら、歯の裏が真っ黒なのが見えてさあ、俺、こいつすげー虫歯なんか?ってびびったよー。」

修二は屈託なく笑った。

「む、虫歯・・」

「そしたら、クラスの子でさ、おんなじようなのが居て、聞いたら虫歯じゃなくて差し歯だっていうからさ。ちょっと安心したわけ。だったらチュー出来るってな。」

「あ、そうなんだ・・」

やっぱり、虫歯の女の子とはキスしたくないんだ、と、沙紀は思った。

「でも、高1で差し歯って早すぎじゃない?って言うからさ、ちょっと聞いてみたわけ。」

「えー、小学校のとき、自転車でコケて差し歯になった男子いたよー。小学生。」

何気なく反論してしまったが、修二に、

「へえ、沙紀は、コケて差し歯なの?」

と、逆に聞かれる羽目になってしまった。

「ううん・・む、虫歯。」

「そうなんだ。いつから?」

「中・・3かな?」

ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、沙紀は嘘をついた。

「へえ、前歯って虫歯になるんだね。」

歯の丈夫な人間特有の素朴な疑問だった。

「ところで沙紀、歯科検診は済んだ?」

「まだ・・あ、やだっ、来週だよ。」

「じゃあ、俺が沙紀に特別歯科検診をします。」

「やだっ。やだやだっ。そんなのもっとやだよ!」

「なんでだよ。いいじゃん。やらせろよ。歯ブラシにさー、おまけで、歯医者さんの鏡みたいなの付いてきたんだよね。歯医者さんごっこしようぜ。」

「やなのに・・・」

しかし、前歯の差し歯はもうばれているし、奥は・・5本くらいだっけ?去年の夏休みに治したもんね。いいかな。

沙紀は考え直し、修二がそんなにやりたいなら、と、OKした。

 

修二は、張り切ってユニットバスから、ミラーを取ってきた。ついでに、山登り用のヘッドライトも。

「よし、始めるぞ。ここに頭のせるべし。」

修二は、床にあぐらをかき、そのくぼみを指した。沙紀は、両手で髪をなでつけて、頭を載せた。

「じゃあ、奥田沙紀さん、あなたの歯をみます。痛くないですからねー。」

パチリ、と修二が自分の頭のヘッドライトをつけた。

まぶしい・・・沙紀は、本当に歯科にいるような気分になり、少し胸が苦しくなった。

「まずは、いー、ってしてください。」

沙紀が、おとなしくいー、とすると、修二は、両手の人差し指と中指で、唇をぐいっと広げた。

!!恥ずかしい!

沙紀は体を固くした。歯茎までむき出しにされている。治療のときの、アングルワイダーと同じ状態だ。

しかも、修二は無言でしばらく、じっと見つめてから口を開いた。

「うん、歯並びはいいですね・・・ああ、これとこれが差し歯ですね。意外とわかるなあ。」

右手を離し、その人差し指で、差し歯に触れた・・・ようだった。自前の歯は、触れられただけでもわかるが、差し歯は、押されたり叩かれたりしなければわからない。沙紀は差し歯を実感して、悲しかった。

もう・・・そんなにミナイデ・・・実は最近、少し歯茎が黒ずんできた気がしているのだ。

「うーん、ちょっと、歯茎が黒くなってますね。差し歯のせいですか?」

沙紀は震えながら頷き、歯科検診ごっこをOKしたことを後悔した。

「じゃ、次、あーん。」

沙紀は、あーん、と口を開けた。

「じゃあ・・・左下。奥歯は・・4本。」

修二はそう言ってから、ミラーを頬側に入れてきた。真剣に見ている。やっぱり恥ずかしい。

「うーん、なんかねえ、この、一番前の奥歯とー、次の奥歯の間。穴が開いてる気がするよ。外側にちょこーっとだけ見えるんだけどさあ。ぜったい、虫歯だと思うなあ。」

沙紀は固くなった。そんなの、知らない。また?また新しい虫歯ができちゃったの?悲しくなった。

「次は・・・右下。奥歯は・・4本でー。」

同じように、修二はまた、ミラーを頬側に入れた。またも、ゆっくりミラーを動かしながら、じっくり見ている。

「ここはねえ・・・一番奥?の向こう側?がなんか、真っ黒だよ。虫歯かなあ、やっぱり。黒いもん。」

それも知らなかった。たぶん、新しい虫歯だろう。沙紀は、しゃくりあげそうになり、喉の奥で、「あっ」という音をだした。

「じゃあ、次行くね。右上。見にくいなー、上は。奥歯は・・・4本でしょ。でねえ・・」

今度は、ミラーを頬側に入れて動かしたあと、噛み合わせの部分もミラーに映して見ているようだった。

ときどき、歯に当たるミラーの感覚と、カチカチ、という音が、歯科検診を実感させる。

「一番後ろがちっちゃい銀歯でー。その前がさあ、溝の真ん中に、穴が開いてるように見える・・・うん、開いてるね。」

修二は断言した。沙紀は、横になっているのに、頭がくらくらする気がした。

「他はー」

修二が、上の前歯の裏を、ミラーを滑らせながら左側へ移動し・・・真ん中に近いところで止めた。

「これも虫歯じゃないかな?この、サシバ、と前歯の間。ちょっと黒っぽーくなってるよ。」

また前歯が虫歯なの・・・?「治しても治しても虫歯になっちゃうの」という、歯の弱い友達の嘆きを思い出す。私もそうだ・・・昔は歯が丈夫だと思ってたのに・・・涙がこぼれそうになる。

「左上の奥歯は・・・一番後ろが、奥がなんか飴色みたいになってる。これも虫歯かな。」

修二は、そう言って、ミラーを抜くと、沙紀の口を閉じさせ、両手でほっぺたをすりすりした。

「奥田沙紀さん。虫歯がたくさん見つかりましたよ。早く治してくださいね。」

そう言って、ニッと、綺麗な白い歯を見せて笑ったが、沙紀の目の涙を見ると、あわてて言った。

「どうしたの?痛かった?」

沙紀は、修二の顔を見つめたたまま首を振り、

「なんで・・なんで私、こんなにどんどん虫歯になっちゃうの・・・?こんな歯、やだよ・・・」

と言って、涙を流した。

「いや、俺が見ただけで、虫歯だって決まったわけじゃないし、さ。」

修二は、明らかに慌てていた。

 

しかし、二日後の歯科検診で、修二の「検診」は、ほぼ正しかったことが判明した。沙紀は、左下の4番と5番の間にC2、右下の7番にC25番にC1、右上6番にC2、左上7番にC24番にC11番にC28本もの虫歯が発見された。これまでの処置歯と合わせて、虫歯の数は15本にもなり、前歯をすでに差し歯にしていることを重く見た歯科検診の担当医に、

「ちょっとこれはひどいですね。虫歯が多すぎですよ。もっと気をつけなさい」

と叱責された。

歯科検診の直後、歯科治療勧告をもらう前に、父親に付き添ってもらって荒井クリニックに行った沙紀の治療は、結局、秋の中ごろまで続いた。

これまで5本だった奥歯の処置歯は倍以上の12本に増え、しかも、今回の治療では、ほとんどがそれほど大きくないもののインレーで治療されたため、沙紀の口腔内は一気に華やかになった。新しくできる虫歯の数、2本、3本、8本・・・沙紀の歯は、加速度的に悪くなっていた。