「はあ・・」
昔の写真を眺めていた沙紀は、ため息とともに、アルバムをパタン、と閉じた。
そのページには、中学1年のお正月に、白い歯をいっぱいに見せて笑う沙紀の写真があった。歯が丈夫な沙紀の、最後の写真だ。もっとも、このころすでに、その白い前歯の中では、虫歯が少しずつ進行していたのだが・・・
その写真を撮った年の秋には、沙紀の前歯2本は虫歯がひどくて抜髄治療を受け、年が終わるころ、沙紀は14歳にして、差し歯の持ち主になった。
その後、それまで虫歯のなかった沙紀の歯はあれよあれよという間に虫歯に侵されていった。
次の年、中3の歯科検診で、奥歯に2本虫歯が見つかり、レジン治療。
高1の歯科検診では、奥歯3本が新たに虫歯。2本がレジン、1本がインレーで治療された。
高2の歯科検診ではなんと、8本もの虫歯が見つかり、奥歯に5本のインレーと2本のレジン、さらに前歯の裏側1本にレジン治療が施された。
高3になった沙紀は、さらに虫歯が増えていることを自覚していた。右上の奥歯が、どうも冷たいものがしみるような気がするし、舌でさわってみると少しひっかかりがある。左下の奥歯は、これまでは普通に白い歯だと思っていたが、最近、白い詰め物がされていると気が付いた・・・その周囲から、茶色く変色してきたからである。
「ホント、治しても治しても、虫歯になっちゃう・・・ちゃんと歯磨きもしてるのに・・・」
歯のことを考えると、自然と暗い気持ちになった。鏡の前で口を開けると、銀色の詰め物が見えるのは悲しかった。もっとも、見えやすい下の歯には銀歯はまだ2ヶ所・・・右の一番後ろと、左の手前2本の歯の間・・・だったが、これまでの、真っ白な歯が並ぶ光景とはずいぶんと違って見えた。
昔の写真はどれも、白い歯がまぶしかった。今じゃ、大口を開けて笑った写真なんて撮れない・・・
来週に歯科検診を控え、沙紀は修二の家でもため息をついていた。
「はあ・・来週歯科検診だ・・」
「でも、去年見つかった虫歯は治したんだろ?平気じゃないの。」
修二は、去年、沙紀に「歯科検診」をして泣かせてしまってから、どうやら歯の話はタブーらしい、と思い、自分からはあまり話さないように気遣っていたのだ。これも慰めようとしてかけた言葉だったが・・
「また新しい虫歯できてるもん・・・ぜったい・・・やだな・・・」
沙紀は落ち込んでしまった。
「じゃ、心の準備のために、俺がまた歯科検診ごっこしてやろうか?」
「やだっ。銀歯とかあるもん!恥ずかしいからヤダ!」
「お前の銀歯くらいしょっちゅう見えてるよ。さっきも見たぜ。恥ずかしがるなよ。見せてよ。」
別に修二は歯フェチでもなんでもなかったが、恥ずかしいと言われるとちょっと見たくなるのは、オトコの性というものだ。
「えー、でも、修二が見たいならしょうがないかなあ・・・」
結局、今年も修二が「歯科検診」することになった。
「はい、じゃ、あーん。」
「あーん」
修二があぐらをかいたところに、沙紀が頭をのせ、「歯科検診」がはじまった。
パッと目に入る下の歯には、去年とは違い、小さいながらも銀歯が黒く存在を主張している。ヘッドライトのスイッチを入れると、それはギラリと光った。
真っ白な歯がまぶしくて、よく笑う、可愛い子だと思ったんだった・・・修二も、出会った頃の沙紀を思い出していた。白い歯・・今は、その白い前歯のうち2本は、裏が銀色だと知っている。
「どうしたの?」
急に動きを止めた修二に不安になり、沙紀が聞いた。
「え?・・あ、いや、考え事。俺も、歯医者ってずっと行ってないなって思って。」
「行ったほうがいいよ、たまには。」
「俺は歯は丈夫だから、ま、いいよ。痛いとこもないし。」
「痛くなってからじゃ遅いんだぞー。私も、昔は丈夫だと思ってたんだから。」
「いいって。そのうち行くよ。ほら、もっかい、あーん。」
「もう・・あーん」
「じゃあ、右下見るね・・・一番奥が銀歯になったでしょ・・あれ、でも、その後ろに歯が生えかけてるかも。親知らずかな。でもよく見えないからいいや。そんな感じ。」
親知らず生えて来ちゃったんだ・・・沙紀はなんとなく不安だった。生えかけの歯は虫歯になりやすいらしいから。
「左下は・・・あ、これ、去年、俺が見つけたとこだ。手前の歯の間が銀歯でしょ、で、その後ろ、白いの詰めてあったんだね。白いとこの周りが茶色くなっちゃってる。これも虫歯って言うのかなあ。その後ろも似たような感じだけど。もう詰めてあるから、別にいいのかなあ。」
修二は、純粋に、それが虫歯なのかどうか不思議なようだった。
一番後ろも!沙紀は、その手前の白い詰め物のことは気になっていたが、その後ろもだと聞いて落ち込んだ。でも、それって治してあるんだから、虫歯じゃないのかな・・と楽観する気持ちもあった。
「じゃあ次、上見るね」
沙紀の顎を持ってちょっと上を向かせ、上の歯を見た修二は、ちょっとぎょっとした。下よりもかなり、銀色の度合いが大きい。右上の一番奥の銀歯は小さいが、その前の銀歯は、歯のかみ合わせを十字に埋めている。
「右上は・・奥から2本、銀歯でしょ。で、その前はちょっと真ん中に穴開いちゃってるよ。目で見える。これは虫歯だなー。」
沙紀がびくっ、と体を固くしたのに気付き、修二は、その手前の歯と犬歯が、その間から大分黒くなっている、というのは黙っておくことにした。
「えっと後は・・・」
修二は、ミラーを前歯に滑らせた。
「ここの歯の間もちょっと色が違うけど、でも真っ白になってるだけだから、虫歯じゃないと思うけどね。」
それは、まだなんともない右の前歯2本の間だったので沙紀も一瞬驚いたが、白いなら虫歯じゃないわよね、と安心した。
「あとはー、左上は・・・一番奥が銀歯だけど。他は平気かな」
修二は、前から2番目の奥歯の溝が茶色いような気がしたが、また泣かせても困るので、これも黙っておいた。
「はい、おしまい。」
沙紀の口を閉じさせて、修二は微笑んだ。
「そんなに虫歯はなかったんじゃないかな?」
沙紀もホッとして、微笑んだ。右上の、穴が開いてるっていうところが、たぶんしみる歯だわ。修二に見てもらってよかった。
「ありがとう。」
にっこりした沙紀の右上の犬歯の後ろの歯に、小さい穴が開いているのが、修二の目にハッキリと見えた。
3日後、沙紀は歯科検診の順番を待っていた。このあいだ、修二に見てもらって、新しい虫歯はたぶん1本くらい、と安心していた。
「はい、次。」
沙紀の順番が来た。去年、虫歯が多すぎだと叱られたことを思い出すと、やはりちょっと緊張する。
「奥田沙紀です、お願いします。」
「口開けて。」
沙紀は、口を開け、上を向く。手は膝の上で軽く握っていた。
「右上奥から行きます、7番○、6番○、5番・・C2、4番C2、3番C2・・」
えっ?なんで?虫歯になるようになって、C2が虫歯を表すことは知っていた。それが連呼されるなんて・・・膝の上の手に力が入る。
「2番・・C1、1番もC1。左行って・・1番・・・は○、2番○3番○、4番・・斜線かな、あ、違う、○だ、5番C2、6番○、7番○。」
上の歯・・・全部虫歯ってこと・・・?沙紀の手はかすかに震えていた。
「左下行って・・7番・・うーん、○、6番○、5番○、4番○、3番から右下4番まで斜線、5番○、6番○、7番○。」
歯科医はミラーを抜くと、沙紀に言った。
「右下の親知らずが生えかけてるね。」
「はい・・あ、ありがとうございました」
今年は、怒られなかった・・そのことにはホッとしたものの、多くの虫歯の指摘が頭から離れなかった。
ショックを受けた沙紀は、家に帰ると、珍しく早く帰ってきた早智子と奥田に涙ながらに報告した。
「私・・上の歯が・・・全部虫歯になっちゃったみたいなの・・・」
「あらやだ。私でも、もっと大きくなってからだったわ、そんなの。まあ、なっちゃうものは仕方ないのよ。」
今では、自分の歯が半分しかない早智子が、気遣いのかけらもなく言った。
「沙紀は歯が丈夫だったからショックだろうが・・・まあ、たしかに、仕方ないな・・。予約入れるか?」
「うん・・」
両親の言葉はどちらも慰めにならなかったが・・・なんとなく、修二に知らせる気分にもなれなかった。
その後、右上5番と左上5番には大きなインレーが入った。上顎のその他の虫歯は、レジンで治療してもらえたが、左下のレジン治療してある6番と7番は2次齲蝕であると診断され、ここも抜髄は免れたものの、がっぽり削られ、大きなインレーになってしまい、鏡の前で口を開けると、かなり目立った。それが気になって、あまり笑えなくなった。
修二は、白い歯でよく笑う沙紀が好きだったのだが・・・沙紀があまり笑わなくなり、かといって、たまに笑うと銀歯がギラリと光るのが気になってしまい、なんとなくギクシャクして、結局、別れてしまった。沙紀との付き合いにオマケがついていたと知るのは、そのずいぶん後のことである。