彩香は、教育学部に通う大学2年生だ。今日は、バイトの日。いつもと同じバスで、5分前に仕事先のマンションに到着した。時間は十分に余裕があるが・・彩香は、足を速めた。
バイトは、家庭教師。大学の学生課で紹介されたものだが、普通のバイトより、もちろん時給は高いし、教え子の小学生の愛華ちゃんも良い子だし、お母さんも少し厳しそうだけれど綺麗な人だし。
学生の間、ずっと続けられたら良いな、と思っている。
ただ一つ、マンションの1階に歯科医院があるのだけが欠点だ。横を通るとき、あの歯医者の匂いがするので、彩香はいつも息を止めて足早にマンションを出入りする。
そう、彩香は歯医者が大嫌いだった。怖いというのではなく、嫌いなのだ。歯科検診でさえ嫌だった。大きな口を開けさせられるなんて、屈辱的な気がする。最近、大学のそばに、ホワイトニングやティースアートをしてくれる「サロン」がオープンして、皆で行こうと盛り上がったのだが、初回に「お口のビューティーチェック」という名の歯科検診を受けさせられると聞いて、彩香は結局、行くのをやめた。そんなの恥ずかしい、と言う彩香に、友人たちは「やだ、彩香、レディースクリニックで内診受けようってんじゃないのに」と笑ったが、彩香なら、産婦人科か歯医者に行けと言われたら、ためらいなく産婦人科に行く。
そんなわけで、今日も彩香は、大きく息を吸って息を止めると、歯科医院の横を、ほとんど小走りで通り過ぎた。
「んぅっ」
突然、左下の奥歯にズキーン、と痛みが走ったのは、そのときだ。
・・ちょ、ちょっと・・。
マンションの入り口の自動ドアの中に無事「逃げ込んだ」彩香は、顔をしかめてため息をつき、歩みを緩める。どんなに彩香が行きたくなくても、どうやら、行かなければならない状況になってきているようだ。
高校の終わり頃からずっと、冷たいものがしみる歯だったのだが、今年に入ってから、しみるものが増えてきた気はしていたのだ。もっとも、左上には、ずいぶん前に詰め物が取れてしまった歯があり、左ではあまり物を噛まないので大した不便も感じずに、過ごしてきたのだけれど・・・
痛みが治まったことを確認すると、彩香はエレベータに乗り込み、最上階、7階のボタンを押した。
エレベータを降り、一呼吸おいて、腕時計をたしかめると、彩香は目の前のドアの前に立ち、インターフォンのボタンに指を乗せた。
「はーい」
カチャリ、とロックがはずされ、ドアが開く。
「すごーい、先生、今日もぴったり!」
愛華が興奮気味に顔を覗かせ、後ろでは、愛華の母も微笑んでいる。
・・こういうところ、時間に正確とか、そういうのは大事なのよね。
彩香は、心の中で満足しながら、笑顔で挨拶した。人の家に行くときは、早すぎてもいけない。これまでのところ、彩香は、理想の家庭教師としての信頼を得ることに成功していたのだった。
さて、1時間後。
お母さんが、いつもどおり、お菓子と紅茶を運んで来てくれ、彩香と愛華は、少し休憩することにした。
「今日のもおいしいねぇ・・・」
「お母さんが作ったんだよ」
「わかってるよー」
誇らしげな愛華に微笑み返しながら、チーズケーキを頬張った彩香は、直後・・
左下の奥歯に、微かな違和感と、キィィィィン、という痛みを感じた。
「はうぅっ」
大きく顔を歪めた彩香を、愛華が心配そうに覗き込む。
「どうしたの?先生・・」
「あ、あは、ベロ、噛んじゃった・・」
必死でごまかしながら、舌で痛むあたりを無意識に探る。
・・!?
そこには、ぽっかりと穴が開いているようだった。さっきまでは、そんなことなかったのに・・どうしたんだろう・・
同時に、ズン、ズン・・という痛みが奥の方から響き始めた。
「んふ・・」
思わず、顎に手を当てる。
「先生・・?」
「だ、だいじょう・・ぅぐ」
愛華に微笑んで見せたつもりだったが、顔は歪んでしまい、愛華はますます心配そうな顔になった。
「ねえ、どうしたの?痛いの?・・お母さん呼んでくる!!」
「あ・・」
止める間もなく、愛華は母を呼びに、部屋を出て行ってしまった。
「ぅぅうう・・」
痛みはますます強くなり、彩香は、両手で頬を押さえて、背中を丸めた。
「どうなさったん・・もしかして、歯が痛む?」
愛華の母、香澄がやってきた。その目がやや冷たくなったことに気付く余裕は、彩香には無い。
「ちょっと見せ・・」
「い・・いへ・・」
彩香は、顎を引いて首を振った。自分は家庭教師の先生なのだ。歯が痛いなんて・・
「いいから」
香澄の冷たい右手が、彩香の左頬に添えられた。
・・・こ、この匂い・・・?
彩香の嗅覚がとらえたかすかな疑問は、愛華の言葉で裏付けられた。
「大丈夫だよ、先生、お母さんは・・・歯医者さんだから。」
「ひっ」
彩香は、息を呑んで、香澄の手から逃れようとした。しかし、逆に、さらに親指が右の顎に添えられ・・香澄の手にがっちりと顎をつかまれた状態になってしまった。
「あぅぅ・・」
痛みはまた強くなったが、香澄の手にさえぎられて、頬に手を当てられない。
「ほら、見せて御覧なさい」
香澄が、ぐいっと顎を押さえ、彩香の口を無理矢理開かせる。
「ぁ・・はっ・・」
彩香は、泣きそうな目で、さらに無理やり顎を押し下げられたので、かなり情けない顔にされて口を開けた。
「もっとちゃんと開けて。」
「は・・ぁは・・」
ぐいぐいとさらに顎を押され、彩香は、顎を震わせながら口を少し開き、逆に、堪えられないといったふうに目を閉じた。
「んー・・」
香澄が不満そうな声を出し、左手を彩香の額に添え、上を向かせて光を口の中に入れようとした。彩香はそれでも首の力で抵抗したが、抵抗空しく、顔の向きを変えられてしまった。
「ひっどいわね・・」
吐き捨てるように言うと、香澄は手を放した。
「ちょっといらっしゃい、その虫歯、治療するわよ」
ようやく解放された彩香は、目にかすかに涙を浮かべたまま、答えた。
「・・あの・・まだ、愛華ちゃんのお勉強が・・」
「そんな、歯が痛むような状態で、まともに教えられるわけないでしょう。」
「いえ、大丈・・ぶ・・」
言葉の途中で、つい頬に手を当ててしまう。
「ほら。それに、そんな歯の人に、愛華のお勉強、見て欲しくないの。」
香澄の目が冷たく光っていた。
「え・・あの・・私・・く、クビ・・ですか」
頬を押さえたまま、彩香は上目遣いで聞いた。
「それ、治さないのならね。」
それは困る。カードの分割払いで、夏休みの海外旅行を予約してしまったのだ。
彩香は目を伏せ、ため息をついた。
「わ・・かり・・ました・・・おねがいします・・」
その様子を見て、香澄は勝ち誇ったように、
「じゃ、愛華ちゃん、お仕事してきますからね。ほら、あなた、付いていらっしゃい。」
と娘に言い残し、部屋を出て行った。彩香は、とぼとぼと香澄のあとを付いていくしかなかった。部屋を出るとき、愛華をちらりと見たが、愛華は無表情に彩香を冷たい目で見ているだけだった。
香澄に付いて、玄関を出て、着いた先は、いつも前を小走りで通り過ぎている歯科医院だった。
まさか、中に入らなければいけない日が来るなんて・・・
彩香は、重い足取りで、香澄に押し込まれるようにして、医院の中に入った。
すでに暗くなっている医院の中で、待合室の一角だけがぼおっと青く光っている。熱帯魚の水槽だ。ぶぅぅぅん、という低いモーター音も聞こえてくる。
自分も家にコリドラスを飼っている彩香は、一瞬、家に帰ったような気になったが、鼻腔をくすぐる歯科の臭いが、彩香に現実を思い出させた。
さらに、パチッ、と電気が点くと、目の前にはスリッパが並んでいる。
「こっちよ」
横をすり抜けて香澄が靴を脱ぎ、ナースシューズに履き替えて、先に立って診察室らしき部屋に入っていった。
逃げるわけにもいかず、彩香もスリッパにあしを突っ込み、引きずるように、後に続く。
「ここに座って。」
診察室に入ると、すでに白衣姿の香澄が、手袋を嵌めた手で、治療台のひとつを指し示した。いつもは香澄を少し厳しい教育ママに見せていた眼鏡が、ここでは、冷酷な歯科医に見せている。
「あ・・は、はい・・」
答えたものの、足が前に進まない。
「どうしたの?もしかして、歯医者が怖いの?それならそれで、やりようがあるけれど・・」
「いえ、そういうことは・・」
怖いのではない。嫌いなのだ。口を開けて見せるのが、裸になるのと同じような気がして嫌なだけ。
・・いい年して、歯医者が怖いなんて思われたら、恥ずかしいわ。
彩香はそう思って、無理やり足を進めた。治療台に腰を掛け、両足を乗せる。ふと、足がかすかに震えていることに気付く。
・・なんで?
と一瞬思ったが、その暇もなく、治療台が倒され始めた。
「はい、まず診せてもらうわよ。」
うぃぃぃぃん、というかすかな振動とともに、彩香は倒されていった。
完全に止まると、香澄がライトを操作した。そのライトを見上げながら、彩香は自分の鼓動が激しくなるのを感じていた。
・・こ、怖いんじゃないの・・怖い・・わけじゃないはず・・
「十分明るいから、じっくり診せてもらいますよ。お口開けて。」
冷たく言いながら、香澄がミラーを手に、彩香に開口を促した。
・・見るだけ・・見るだけよね・・・
彩香はおそるおそる口を開け、目を閉じて、気持ちを抑える。これはやはり、怖いのではないか、という不安を・・
一方、香澄は、彩香の口腔内を見て、眉をひそめていた。
痛むと思われる、左下の奥は、きたならしい大きな穴ががっぽりと開いている。しかし、それだけではなく、上にはインレー脱離を放置したような痕、そして、歯の付け根や間に磨き残しが溜まっていると思われる汚れや歯垢・・歯茎も赤く腫れている。
「ちょっと、いーってしてみてもらえるかしら」
いーっ。
おとなしく香澄の指示にしたがった彩香の唇を、ぐいっと指で開き、じっくり観察する。
歯はツルツルと綺麗に光り、特に磨き残しもないようだ。
香澄は、小さくため息をついて、首を振った。
見えるところは綺麗にしているが、そうでないところは手を抜くタイプ。香澄の一番嫌いなタイプだ。
「ぅ・・」
いーっとした状態のまま、彩香が顔をしかめてうめき声を上げた。痛むらしい。
「じゃ、もう一度、あーん」
「あー」
香澄は、大げさに顔をしかめた。
臭いがひどい。
奥の崩壊した歯からの臭いと、もともとの臭いが混じっているのだろう。
2,3ヶ月前から、愛華は
「彩香先生、お口が臭いから、一緒にお勉強するの嫌なの・・」
と訴えていた。そんなわけで、先月から、別の曜日にも、歯学部の学生に家庭教師に来てもらっている。どちらにしても、彩香には近いうちにやめてもらうつもりだったのである。