修二は、大学4年になったばかりの春、就職活動に追われていた。一度留年したので不利かな、と焦っていたが、あと少しで内定をもらえそうなところが2社。
先月、就職活動中に知り合った、白い歯が可愛い彼女、久美ともうまく行っている。3年前に気まずいまま沙紀と別れて以来、久しぶりの彼女である。
目下のところ、順調な日々であった。
「いてて・・」
しかし、最近すこし寝不足なせいか、2年ほど前から生えたり引っ込んだりしている左下の親知らずが、ときどき痛んだ。
今日は少し腫れがひどいようだが、外から見えるほどではない。それに、今日は大事な1社の最終面接なのだ。親知らずなどに負けているわけにはいかない。
しっかり時間を見て、訪問先の会社の最寄り駅に予定の30分前に着き、駅前のコーヒーショップでしばし時間をつぶす。
『今からA商事の最終面接・・ゲトしてくるぜ。ちょっと歯がイターだけど。』
久美に携帯メールを送る。歯は、朝よりも少し痛いような・・気がして、つい弱音を吐いてしまった。
『ガンガレ!歯なんて気のせい!クミョより』
久美は今日はバイトのはずだ。即、返事がやって来た。
そうだよな、気のせいだよな・・そう思いながらも、会社案内を読み返しているうちに、自然と左手を頬に当てていることに気がついて、ぎょっとする。
ちょっと神経質になってんだな・・・面接が終われば、きっと大丈夫。それとも・・どこか歯医者に駆け込んでもいいしな・・・

1時間後、修二は、なんとか無事に面接を終え、A商事を後にした。しかし、面接が終わって気が緩むと、歯の痛みはひどくなってきた。
幸いここはオフィス街だ。歯医者なんていくらでもあるだろう。修二は、一番に目に入った、「いつきデンタルクリニック」に飛び込んだ。
「あの・・親知らずが痛いんですが・・見てもらえますか」
受付けは、誰かに・・・沙紀に似た、かわいい子だった。
「はい・・予約なしということですね・・15分ほどお待ちいただくことになりますが、よろしいですか?」
「ええ、いいですいいです。」
「では、保険証をお出し下さい。問診票に記入してお待ちくださいね。」
待合室に入ると、修二は問診票に記入した。
痛むところが   ある・ない
「ある、左下の親知らず、と。」
他に気になるところが ある・ない
「ない、な。」
虫歯になりやすいほうだと思う はい・いいえ
「いいえ、っと。」
悪いところは  全部治す・何もしない
「うーん、ま、せっかくだしな、全部治す、っと」
その他、アレルギーの有無など記入し、受付けに出した。
15分もたたないうちに、
「小倉修二さん・2番の診察室へどうぞー」
修二は呼ばれ、診察室へ入った。個室だった。
「上着お預かりします」
受付けとは違うが、やはり美人タイプの子がやってきて、スーツの上着を預かってくれた。この子、かなり好みだ・・・オフィス街の歯科ってのは、美人スタッフを揃えてるんだろうか。修二は少しにんまりした。どうせなら、かわいい子にいじってもらった方が嬉しいしな。
「お座り下さい」
修二が椅子に座ると、エプロンをつけてくれる。
歯医者ってこの、エプロンが恥ずかしいよな・・と考えていると、
「お待たせしました。どうしました?歯科医師のいつきです」
と、眼鏡をかけた女医さんが入ってきた。まだ30前半と言ったところかな・・・これまた、かなりの美人だった。
「あ、あの・・親知らずが痛くて」
「そう?じゃ、さっと見せてね」
いきなり治療台が倒され、修二は慌てた。点灯されるライトがまぶしい。
・・・沙紀と、歯科検診ごっこしたっけな・・・ぼんやり考えていると、いつきに声をかけられた。
「はい、あーん」
「あーん」
「左下だっけ?・・ああ、ちょっと腫れちゃってるわね・・・ま、抜いてもいいかな・・かなり虫歯になっちゃってるから。」
「へ?」
「親知らず。生えかけで食べかすが溜まったりしやすいから、虫歯になっちゃうケースは多いわ。」
「はあ」
「他は・・うーん・・」
いつきが口の中を少し難しい顔で眺めている。ミラーがあちこちに当てられ、カチカチと冷たい音を立てた。
「ずいぶんと歯医者は御無沙汰でしょう。」
いつきが、ミラーを抜いて聞く。
たしか、最後に歯医者に行ったのは小学生のときだろう。
「あ・・10年くらい?行ってないかもしれないです」
その答えを聞いたいつきが、ふぅっ、とため息をついた。
「でしょうね、けっこう虫歯ためこんじゃってるから。これはかなり気合入れて治さないとダメね。」
「えっ・・俺が、虫歯ですか?」
「ざっと見ただけだけど、あちこちやられてるわよ。そのうち痛み出しそうな進んでるのもあるわ。しみたりしてない?」
「えっ・・いや・・どこも・・」
修二は動揺していた。たしかに甘いものはよく食べるが、子供のころから、虫歯になった記憶なんて、数回しかない。
「俺・・歯はけっこう丈夫で・・・」
言いかけた修二は、沙紀の、「私も昔は丈夫だと思ってたんだから」という言葉を突然思い出した。
「虫歯だらけで駆け込んでくる人も、みんなそう言うのよ。自分は歯が丈夫だと思ってたって。」
寝ている自分を見下ろすような位置から冷たく言い放たれた言葉に傷つき、修二は思わず情けない顔になった。
「・・・ま、いいわ。えーと、悪いところは全部治す、ね。じゃ、最初にレントゲン撮って、じっくり診ましょう。時間は大丈夫?大丈夫ならいくつか治療始めるわ。」
「あ・・いえ・・もう1件・・・面接があって・・・1時間くらいしか。」
今日は何もなかったのだが、いきなり、心の準備なしの歯科治療は少し怖く、修二は嘘をついた。
「ああ、就職活動中ね。どこ受けるの。って聞いてもいいかしら。」
「はい・・E&カンパニーです。」
一応、明日受けに行くことになっている会社の名前を答えた。
「ああ、あそこは外資だからね、歯とか見てるわよ。」
言うなり、いつきは修二の唇をミラーでめくり、しげしげと見た。
「うーん、厳しいわね・・小さいけど虫歯が見えてるわ。」
え・・そんなはず・・
ちょっと身だしなみには気を遣っているつもりの修二は、毎朝鏡の前で、にーっ、と笑顔を作り、白い歯をチェックしているのに。いったいどこに・・
「それにあなた、タバコも吸うでしょう。」
「あ・・はい・・吸いますけど・・でも、ヤ二とかは無いはず・・・」
ソニプラで買ったヤニ取り専用歯磨きも使って、綺麗にしているつもりだ。
「まあ気を遣ってるのはわかるけど、歯の間とか付け根には残ってるし。歯の先だけチェックしてるんでしょう。それに、歯茎の色も悪いわ、ほら。」
いつきはアングルワイダーを修二の口にはめ込み、治療台を起こして、サイドテーブルにセットされている鏡を修二の方に向けた。
う・・・なんかすげぇ恥ずかしい・・・
鏡の中で歯茎をむき出しにしている自分の顔は、あまり見たくなかった。
しかも、言われたように、歯の先は真っ白く綺麗だが、歯の真ん中あたりから付け根にかけては、うす黄色くヤニが残っている。
こんなとこまで、普通見ねぇし・・・
「ほら、ここ、虫歯よ、ここも。」
いつきが、探針で歯の付け根の小さい茶色いしみのようなものを指す。
汚れてるだけじゃ??磨いたら取れるんじゃないか?
と思った修二だったが、いつきの探針が、前から2番目と1番目の間にある、少し大きいしみの真ん中をくいっと突いた。
「んぃっ」
突き抜けるような痛みと共に、歯に小さな穴が開いたのが見える。
げ・・ホントに虫歯だ・・・前歯に・・・俺の前歯に穴・・。
「マオちゃん、ちょっと来て」
いつきが、さっきエプロンをつけてくれた子を呼んだ。
げ・・好みの子の前なのに・・俺はこんな表情・・・
ドギマギしていると、いつきが彼女に言った。
「歯茎、いーってして、見せて。この患者さんと並んで。」
「はい。失礼します。」
彼女は会釈すると、いーっ、と口を開けて、修二の横で並んで鏡に映った。
「ほら、綺麗でしょう、歯茎は綺麗なこういうピンク色なの。比べて見たら、あなたの歯茎の色、汚いでしょう。」
げ・・ホントに汚ねぇ・・は、恥ずかしい・・・口閉じれないし!
マオというらしい、衛生士の歯茎はピンク色で輝いていたが、横に並ばされた修二の歯茎は、どす黒く、ヌラヌラと光っている。
歯も、マオの歯は真っ白で・・俺のは黄色くて・・・
修二は耐え切れなくなって、目を伏せた。

「じゃ、レントゲン撮ってきて、お口の中診ましょう。親知らずは・・今日はお薬付けるくらいしかできないわね。抜歯はまた相談しましょう。」
「はい・・」
エプロンを着けたまま立ち上がり、マオとは別の衛生士に案内されるままに、隅のレントゲン室へ向かう。レントゲン室を出たところで、マオが別のビジネスマンらしき患者としゃべっているのが見えた。
「今日はホワイトニングですね・・2ヶ月ぶりですね。」
「はい、よろしくお願いします」
にっこり笑ったその口元は、マオと同じように、ピンク色の歯茎と真っ白な歯がまぶしく輝いていた。
ふう・・・
治療台に戻った修二の口からため息がもれた。
さっきまで、歯のことなんか気にもかけていなかったが、今は心に黒い霧がかかったように、払いのけても払いのけても気分が沈む感じである。
レントゲンを手にしたいつきが修二のもとへやってきた。
「長い間放っておいた代償はけっこう高いわよ」
ふふっ、と笑って、いつきがレントゲンをセットした。
なんだろう・・そんなにたくさん・・・虫歯があるのか?
「じゃ、ちゃんと診ていくわね」
マスクをしながら、いつきが言い、治療台のスイッチを入れた。
スッ、とまた別の、これまたかなり可愛い衛生士がやってきて胸ポケットからペンを取り出してカルテを構える。
ウィーン・・・と倒れていく治療台に身体を預けながら、修二は、自分が怯えているのを感じた。
沙紀が言っていた、歯科検診が怖いというのは、こういう感覚だったんだな・・と思う。
カチャリ、カチャリ、と甲高い音を立てて、いつきがミラーと・・先の尖った針を手にした。
そしてこちらに向き直りながら、右手を上に伸ばして、カンッ!とライトのスイッチを入れた。
う、まぶしい・・・
修二は、ぎゅっ、ととっさに目を閉じ、顔を右に傾けた。
右手でライトを修二の口元に合わせながら、いつきのゴム手袋越しでも冷たさの感じられる左手は修二の顎をスッとホールドし、修二は上を向かされた。
ああ・・ドキドキする・・・
修二は、ごくり、と唾を飲み込もうとしたが、口の中はカラカラに乾いていた。
「大丈夫よ、そんなに緊張しなくても。今は診るだけ。痛いことはそんなにしないから。」
いつきは笑いを含んだ目でこちらを見る。怖がっていると見破られたことも、痛いのを怖がっていると誤解されていることも恥ずかしい。
痛いのが怖いんじゃない・・・何が怖いんだろう。虫歯を宣告されるのが?自分でもよくわからなかった。
「はい、お口開けて下さいね・・・」
ついに来た。修二はおそるおそる口を開いた。乾いて粘っこくなった唾液が、舌と歯の間で糸を引く。
「もう少し大きく。」
少し強く言われて、修二は目をつぶり、思い切って大きく口を開いた。
「そう、それでいいわ。じゃあいきます。右上から・・」
修二の5年ぶりの・・・歯科医でのきちんとした検査という意味では12年ぶりの・・歯科検診が始まった。

「8ば・・」
いきなり、何かでカリカリ、と引っかかれる感触があった。
「ん・・C2ね。でも、曲がってるし、抜いたほうがいいわ。7番の虫歯も治しにくいし。7番もC2。6番○・・5ば・・ん・・これ、痛くなったり、しみたりしたこと無いかしら?」
いきなり聞かれて、修二は目を開けて、軽く首を振った。
たしかそんなことは・・なかったはず・・・
「そう。」
いつきは興味無さそうに言いながら、右手の探針をトレイに置いて、代わりにスリーウェイシリンジを引き出すと、修二の右上5番に、シュッ、と水をかけた。
「☆#つっ!!」
治療台の上で、思わずビクン、と反応する。
ビィィィィン、と響いた痛みに、修二は思い出した。
そういえば、正月に飲んだシャンパンがしみたんだった・・・
「うん、まあなんとかC2かしらね。4番はC1。」
いつきは、再び右手に探針を持ち直すと、そのまま淡々と検診を続けていった。修二は再び目を閉じた。
「3番は斜線、2番も斜線・・1番・・」
唇がめくり上げられる感触につづいて、歯の付け根を尖ったものがなぞっているのがわかる。
「C1。左に行って、1番・・」
カリッ、カリ・・と尖ったものが何か引掛かりを探り当てたようだ。
「C2。2番もC2。3番は斜線、4番斜線・・5番も斜線・・6番・・・」
また歯を尖ったものが引っ掻いている・・と感じた瞬間、修二は鋭い痛みに貫かれた。
「あぐぁっ!」
「あら・・これは思ったよりひどいわ・・C3・・。」
修二は、痛みのほかに、口の中に異臭を感じていた。
「けふっ・・」
と、衛生士の咳き込む声が聞こえ、修二が薄目を開けると、衛生士は握りこぶしを鼻に当てて顔をしかめている。
まさか・・俺のせい??
と修二が不安に思っていると、
「あら、臭いが出ちゃったわね」
という、いつきの声が降って来た。
「歯の穴の中で、食べかすとか虫歯が腐ってたのね。今、蓋みたいになってた歯の一部が崩れたからその臭いが外に漏れちゃったのよ。とりあえず、ひどい臭いだから、これだけはなんとかしましょうね。」
相変わらず冷静なトーンでさらりと言われたが、かなり恥ずかしいことを言われていると気付き、修二は顔を赤くした。
「次・・7番・・C2、8番、半分出てるけど・・これもひどいわね、中は虫歯。」
上の歯だけでどのくらい虫歯だっただろう・・修二が思い返していると、ぐいっ、と下あごを押されて顔の角度を変えられた。
「左下行きます。8番・・これが問題だったのよね。C2。7番もC2・・6番・・」
また、カリカリと歯を引っ掻かれている。さっきの痛みがまた来たらどうしよう、と修二は体を硬くした。鋭い痛みは襲ってこなかったが、そういえば、上の歯はさっきからトクトクと痛みが続いている。
さっきまで痛くなかったのに・・診てもらったせいで痛くなったんじゃ・・・
修二は歯医者に来たことを後悔し始めたが、痛みも臭いも出てしまった歯はどうにかしてもらわないと・・・
一生懸命考えていると、また右下の奥歯に小さい痛みが走り、
「んぁっ」
と声が出てしまった。
「これはC3ね・・。6番はC2、7番もC2・・ここは8番はまだ出てないわ。以上です。」
いつきは体を起こし、カチャカチャとトレイにミラーと探針を置いた。
ふぅっ、と息を吐いてから、いつきは話し始めた。
「ま、典型的な大人の齲蝕多発ね。ずっと問題がなかったので歯医者行ってませんでしたって人に多いの。30過ぎると、そろそろ虫歯の菌も弱ってきて、そういうことはあまり無いんだけど、20代までだと、ある時期に突然大暴れ、みたいなのがあるのよ。」
修二は、起こされない治療台から、いつきを見上げながらその診断を聞いた。
トクントクン・・
左上の歯が痛い。
「ああ、あと20分くらいしか時間がないわ。そのひどい左上、何とかしないとね。全部はムリだけれど・・出来る限り虫歯を取って、薬を詰めましょうか・・一応どうなってるか見て、こんなになってるのよ。口開いて。」
いつきが鏡を渡してくれる。同時にミラーが差し込まれ、鏡に左上6番が映し出された。
歯の真ん中が陥没して、中はぐちゃっと茶色い感じになっている。
うわ、汚い・・
修二が思わず鏡を視界から外したのを確認して、衛生士が横から鏡を受け取った。
「治療・・普通はこのくらいの虫歯だと、削るのに麻酔が必要なんだけど、この後が面接となると・・麻酔しないほうがいいわ。しゃべりにくくなってしまうし。口元がだらしなくなるし。だから、痛いけど我慢してね?」
いつきが言った。
修二は乳歯を抜くとき以外に麻酔を打ったことはなく、麻酔が必要とか口元がだらしなくなるとか、あまりピンとはこなかった。
まあ、今日は面接はないんだけど・・・ま、しなくてもいいなら別に要らないんじゃ?
そう思いながら、修二は目で頷いた。

「じゃ、始めます。」
ぐいぐい、と、頬の内側に綿が詰められる。衛生士が左側にぴったり座り、何かホースの付いたものを両手に構えた。
「行くわよ」
いつきが、タービンの先を付け替えた後、修二のほうに向き直った。
ヒュィイイイイイイ・・・・
甲高い音を立てるタービンが口の中に入り、すぐに振動が伝わってきた。
ギュィイイイイイ・・・チュインチュインチュイン・・・・・
「ぁ・・ぁ・・・・」
トクントクンと脈打つようにもともと痛みが出ていた歯は、タービンが歯に触った振動だけで敏感に反応した。
めちゃくちゃ痛い!!
修二は、それでも手を指先が白くなるほど握り締め、足をピンと突っ張って耐えた。が・・
「ぁ、ぁああああああああああはあああっ」
タービンの先が齲蝕部分を少し削っただけで、気絶しそうな痛みが修二を襲った。
「ぁが、ぁがっ、あ、んがぁあああっ」
あらん限りの声で叫ぶ修二に、いつきはそれでも冷静に聞いた。
「小倉さーん、我慢できませんかー」
「っ、ぃ、いいがぁああああっ」
ついに、首を横に振ってしまった。
「ああ、あぶないですよ。」
ヒュゥゥゥゥン。
タービンが止まった。
「仕方ありませんね・・」
いつきが治療台を起こすと、
「あ、あはっ・・うっ、ううっ・・」
修二は両手で左頬を押さえ、思わず嗚咽の声を漏らした。同時に、口の中に充満する臭いに閉口する。
「とりあえずお口ゆすいで下さい。」
衛生士に言われ、おそるおそるぬるま湯を口に含み、くちゅくちゅ、と口をゆすぐ。
背中を治療台に預けると、再び治療台が倒された。
「やはり麻酔なしでは厳しいですね・・でも何かしないとね・・ちょっと洗ってみましょう。頑張って。マオちゃーん、ちょっと来てくれる。」
「はい」
小走りでやってきたマオは、診察室に入り、修二の治療台に近づくと、ケホッ、と咳き込んだ。
「ああ、マスクしてね」
「はい」
さっき、マオにエプロンをつけてもらってにやけていたことを思い出し、絶望的な気分になる。
「この歯を洗いたいんだけれどね、この患者さん、面接があるらしいから麻酔ができないの。で、ちょっと押さえててくれる?」
いつきが説明する間、修二はもう目を閉じていることにした。
「あぁ、酷いですね・・・、わかりました。」
返事とともに、修二は、自分の両手が手首のところで重ねられ、その上を誰かが・・おそらくマオが腕で押さえたのを感じた。どうされているのか見たいが・・恥ずかしくて目を開けられない。
「じゃあ、いくわね・・あーん。」
黙って口を開ける。
スココ・・と音を立てるバキュームが歯の近くに当てられ、歯に何かかけられるのがわかった。
「ぁあ!ああ!」
タービンの振動ほどではないが痛みを感じて、修二は声を上げた。しかし、押さえ方がうまいのか、体は微動だにしなかった。
「ぁ・・はぁ・・いがが・・あは・・・」
しばらく痛みは続き、その後、何かが歯に詰められ、温かいものがかけられたのがわかった。
「はい、これで、なんとかいいわ。」
手を押さえていた腕がどけられ、治療台も起こされる。おそるおそる目を開けると、マオは個室を出て行くところだった。
「口ゆすいでね。お疲れ様。」
最後まで冷静で丁寧ないつきになんとか頭を下げると、修二は診察室を後にした。

「はあぁっ」
いつきデンタルクリニック、を出ると、修二はもらった痛み止めをペットボトルの水で流し込んだ。
痛みは、ズキ、ズキ、というものに変わっている。
「そういえば親知らずが痛かっただけなのに・・・」
肝心の親知らずは何もしてもらっていない。いや、最後に少し薬を塗られた気もする。しかしそれだけだ。
なんとか家に帰り着き、修二はそのままソファに座り込んだ。
「えっと・・薬っと・・」
薬の袋を取り出し、痛くなったらまた飲めるように近くに置いておく。
「これは?」
薬と一緒にもらった紙が出てきた。口腔衛生指導説明書、とあり、
歯のイラストと一緒に、
あなたのお口には虫歯が17本ありました。
と書いてある。
「じゅ、じゅうななほん・・」
修二は絶句して、くしゃっと丸めると、サイドテーブルの上に放り投げた。
「はあ・・」
背もたれに倒れこむ。

ガチャッ・・・
修二はそのまま眠っていたらしい。ドアが開く音で目が覚めた。
「なんだ、居るなら何か言ってよ・・・」
久美が入ってきた。久美は修二の部屋の合鍵を持っているのだ。
「どうだった、内定取れそうかな?」
笑いながら、久美が顔を近づけてきた。そのままキスを・・・
「ちょ!」
すぐに久美が唇を離した。
「修二、口くさいよ・・何この臭い。」
久美が口に手を当てながら非難するように言った。
「あ、ああ・・歯が痛かったから面接の後歯医者に行って・・虫歯があるって言われて・・歯医者の薬の臭い?」
修二が適当に答えると、
「薬の臭いとかじゃないから!ちょっと、なに、修二、虫歯あるの!?」
「あ・・うん」
「もう、虫歯なんかある口でキスしないでよね!もう、汚い!」
突然、久美は怒り出した。
「汚いって、そんなに言わなくても・・」
「だって虫歯あるなんて汚いじゃない。うつるかもしれないでしょ!」
「そんなのうつるかよ」
と言った修二は、ふと沙紀のことを思い出した。もしかして・・沙紀の虫歯がうつったのかもしれない・・・
考え込んだ修二に、久美の悲鳴に近い声が聞こえてきた。
「なにこれっ!虫歯17本って!やだ!そんな、虫歯の歯しかないような口で!もうっ!」
さっき放り投げた紙を見たらしい。
久美は洗面所に走って行き、歯磨きを始めた。
「そ、そんなにしなくても・・」
「前歯に虫歯があるなんて、絶対うつるから!もういや!今までそんな虫歯だらけの人とキスとかしてたなんて!明日にでも歯医者さん行かなきゃ!これ返す!」
久美は、歯を磨き終えると、なんと合鍵を返して出て行ってしまった。
どんだけ潔癖症なんだよ・・
修二はあっけにとられたが、たしかに、17本って普通に引くよなあ・・と、自分でも情けなくなってきたのであった。

さて、翌日。
「い、いてて・・」
修二は歯が痛くて目が覚めた。時計を見るとまだ4時だ。
歯がどうなっているか見ようとユニットバスに行った修二は、自分の左頬が腫れているのに驚いた。
「う、ぅわ!」
たしかに、左頬を触ると、少し熱を持っているような気がする。
「こ、こんなんじゃ面接行けねぇじゃん・・・どうしよ・・・」
外資は歯を見るからね、と言っていた、いつきの言葉が気になる。
親知らずが・・と言ってみようか。それなら不自然ではないだろう。仕方が無いという風に受け取ってもらえるんじゃないか??
そう考えた修二は、一応冷やしてできるだけ腫れが引くように努力しつつ、痛み止めを飲んでもう少し眠ることにした。
・・・ジリリリリリ。
「ん、んー・・・」
目覚ましの音が歯に響いた。とっさに左頬に手を当てる。
引いてない・・よな・・
しゃべることすら億劫だ。それでもなんとか歯も磨き、支度をして面接に向かった。
電車の中でも、途中で買ったペットボトルで冷やしてみたが、あまり効果がなさそうだ。むしろ、他の乗客の視線が気になる。
うーん・・・どんな顔なんだろ・・あれ以上腫れてはいないと思うんだけど・・・
なんとなく、人の視線を避けるようにうつむいてしまう。小さい子供がこっちをじっと見ているのに気付いて、思わず目をそらした。
昨日までは、こういうシチュエーションでは、にこっと笑って見せたのだが・・虫歯が見えたらどうしよう、と気になってとても笑う気になれないのだった。
はぁ・・なんかユーウツ・・
虫歯、早く治そう・・と思った修二は、しかし自分の虫歯の本数を思い出し、さらに絶望的な気分になって、空いた座席に座ると、ため息をついて目を閉じた。

さて、面接会場。面接官は、中年男性に、前回の面接でも会った若手の男性、それに30前半くらいの女性だった。
「あれ、どうしたの、この間と違って、なんだか暗いねえ。緊張してる?」
やけに元気のいい若い方の男性に言われ、会話が始まったが、なんとも盛り上がらない。面接官たちが顔を見合わせているのが気まずい。
う・・こりゃ落ちた・・・来なきゃよかった・・・
そう思った修二は、つい、言い訳したくなった。
「あ・・あの、昨日の夜から親知らずが痛くなってしまいまして・・・」
「あー、親知らず」
「ありゃ辛いねえ」
狙い通り、若干同情的な空気を作ることに成功して、修二は調子に乗った。
「歯医者行こうと思うんですけど・・どうしていいかわからなくて。歯は丈夫なんで、詳しく無くて・・・」
「だったら・・」
面接官が顔を見合わせ、にっこりと笑った女性が口を開いた。
「私が見てあげましょうか」
「え・・・」
動揺した修二に、中年男性が笑いながら言った。
「大丈夫、この人はね、今でこそ敏腕マネージャーだけど、元は歯医者さんなんだよ。いきなり歯医者辞めてMBA取って、ウチに来たの。華麗なる転身ってやつだな」
「そうでもないですよ、歯医者余ってますから。転落って感じかしら」
その敏腕マネージャーが立ち上がって、カツカツと近づいてくるのを、修二は椅子の上でのけぞって逃げの体勢を取った。
「あ、いや、あの・・・」
「はい、口開けて・・大丈夫でしょ、痛いことするようなものは何もないんだから」
椅子に座っている修二を見下ろしながら、マネージャは開口を促した。
「左が腫れてるわね・・この位置だと、左上かしら?」
顎を持ち上げられ、修二は逃げられなくなった。
「ほら。あーん。」
少し口調が強くなり、修二は恐る恐る口を開けた。
万事休すだ・・・
ぎゅっと目を閉じた。
「あなた、ちょっと・・・」
呆れたような声が降って来た。目を開けると、冷たい眼差しで見下ろしている目と視線が合った。泣きそうな目で見返す。見逃して下さい・・
すると、彼女の目の中に、すっと軽蔑の色が混じり、軽く鼻で笑うと、
「うーん、こーれーは痛いわね・・・」
とだけ言って、修二の顎から手を離すと、上半身を起こして、再び修二を見下ろすかたちになった。
「どうだね」
男性陣に聞かれ、彼女は笑いながらコメントした。
「若い子はホント、顎が小さいから。それ、ちょっとやっかいよ。ずいぶん長くかかるわ。」
「怖いっすねー」
若い男性が綺麗な白い歯を見せて笑った。
「ま、このあたりはオフィス街だから歯医者もたくさんあると思うけど。困ったら連絡して。紹介できるところがあるわ。」
そう言って、「敏腕マネージャー」は名刺を出すと、修二に差し出した。
「あ、恐れ入ります」
修二は両手で名刺を受け取ると、頭を下げた。
「じゃ、これで。」
中年男性の一言で、まったく手ごたえがつかめないまま、面接は終了した。

さて。本当に歯医者に行かなければ。痛み止めが切れてきたのか、再び痛みが強くなってきた。
次の予約は4日後だったが、修二は耐え切れず、「いつき歯科クリニック」に電話をかけた。
「あの・・・歯がどうしても痛むんです・・・診ていただけませんか」
しかし、受付の返事はつれなかった。
「急患は、初診の患者さんだけということになってるんですよ。うちの患者さん達は皆さんお忙しい方ばかりですし・・・予約の変更は受けかねます。別のところをあたってみて下さい。」
「え・・・」
そんなのありかよ、と思いつつ、仕方なく他をあたることにする。
しかし、携帯で検索した近くの歯医者はどこも、受付の応対は丁寧なのだが、歯が痛くて・・と言うと、今は忙しいというところばかりだった。
修二は途方にくれた。
し、仕方ない・・・あのオバサン・・・じゃないや、お姉様に電話してみるか・・・でも、なんであそこで何も言われなかったんだろ?実は17本も虫歯なんてないとか??
名刺を取り出し、書いてある携帯番号に電話をかける。
2回ほどの呼び出し音で、相手が出た。
「はい村川。」
「あ・・あの、先ほど面接でお世話になりました小倉と申しますが・・」
「ああ、あの虫歯君。」
バレてたか、と思う反面、そう呼ばれるのはやはり気分が良いものではなかった。なんとかそれを押し隠して会話を続ける。
「ま、まあそれはそうですけど・・実はその・・」
「歯医者が見当たらないんでしょ。」
「そうです・・2日後なら空いてます、とかそんなのばっかりで・・」
「このあたりじゃ、あんまり飛び込みは診ないわよ、どうせ痛いって駆け込んでくるようなのなんて、痛くなくなったら来なくなりそうだし、お金にならないし。」
「お金って・・」
「あっちだって仕事なんだから。家賃だって高いのに、割に合わないことしたくないわよ。ま、それはともかく、歯医者ね。この辺でも声は掛けられるけど、家と学校に近いほうがいいでしょ。これから、半年は通うことになるだろうから・・。」
「そんなに・・かかるんですか。」
「まあ、その虫歯、ホントに全部治す気があるならだけど。二桁は行ってるでしょ?」
「す、すごいですね・・あの一瞬で、そんなにわかるなんて」
「当たり前でしょ。そんなことはどうでもいいの。治す気あるの?それとも、今痛みを止めたいだけ?」
「あ・・きちんと治したいと、思います。」
一応、就職面接の面接官だったのだ。ここはそう言っておかないとまずいだろう。
「じゃあ・・家の近くね・・だったら実はうちの実家が近いのよね。」
「ご実家・・いや、でも近いならそこでお願いします。」
「悪徳ってことはないけど、優しくはないわよ。特にオバちゃんの方が怖いわ。それでもいい?」
「い、いいです・・」
じゃあ嫌ですと言うのも怖がっているようだし、怖い歯医者と言われても、ピンと来ない。

そうして、修二は、2時間後、こやま診療所のドアを開けていたのだった。
へええ、あの姉さん、結婚してたんか・・
仕事ができそうだったので、勝手に独身だと思い込んでいた。
「小倉さーん。診察室へどうぞー。」
他にも待っている人は居そうだったのに、早々に診察室へ呼ばれた。
おお、あの姉さんのコネだから?すげーな。
就職活動で「コネ」に敏感になっている修二は、妙に満足して診察室へ入った。
座るとすぐに、高校生のような助手がエプロンをつけに来てくれる。
お姉さんの質は、この間のとこのほうが高いな・・・
じろじろ見ているのに気付いたのか、高校生は
「少しお待ちください」
とだけ言って、すぐにどこかに行ってしまった。
「はい、先に少し見せてくださいね・・痛むところがあるんですね?」
次にやってきたのは、マスクをした衛生士だった。目元がちょっと沙紀に似てるな・・・
「は、はい、左上です」
修二は、倒されていく治療台に体を預けたまま答えた。

・・修二!
はたして、その衛生士は沙紀であった。衛生士学校に2年通い、卒業したばかりの新人である。
ちょっと、歯は丈夫なんじゃなかったの・・・
そう思いながらも、気付かない振りをして開口を促す。
「はい、じゃあ、お口開けてください」
「あー」
昔、逆の立場でこういうことをしたような気がするわ・・そう思いながら、ライトを調整する。
げ。何コレ・・。
ざっと見ただけでも、虫歯だらけである。
「んー、ちょっとひどいですね・・前歯も見せてもらえますか?」
「いーっ」
手袋をはめた指で、唇をめくって見てみると・・穴まで開いている。歯茎も汚い。
「うーん・・・」
苦笑いしながら手を離すと、修二がしゃべり出した。
「虫歯って、うつるんですかね?」
「は?」
「いや、昔付き合ってた彼女が虫歯多かったんで、うつされちゃったのかなって思ってるんですけど。」
沙紀は、少し腹が立ったが、それを抑えて、治療台を起こしながら言った。
「大人になったら、菌のやりとりなんて関係ないですから。虫歯になるのは自己責任です。」
だって、パパはあのママと結婚してても、虫歯ないもん・・・
歯磨きマニアのような父親のことを思い浮かべながら、沙紀は椅子を立ち、歯科医・・今さっき白衣を着ながら控え室から出てきた村川智香・・を呼びに行った。