「あ、やべ、今日、歯医者行くんだった」
達也は、あわてて部室に戻り着替えると、バッグをつかんで走り出した。
行き先は、達也の通う高校から歩いて10分ほどの駅のそばにある歯科医院であった。達也の姉の和歌子はそこで歯科衛生士をしている。2日ほど前、左下の親知らずがムズムズすると和歌子に訴えたところ、和歌子が翌日、さっそく予約を閉院ぎりぎりの時間に入れておいてくれたのだった。
「セーフ」
予約の5分前に到着した。
「では、あちらでしばらくお待ち下さいね」
受付で言われるままに待合室の椅子に座ると、閉院間際だけあって、待合室は誰もいない。置いてあったジャンプを手に取ったが、もう学校で読み終わったものだった。「妊娠中の食事と赤ちゃんの歯の健康」などという本を読む気にもならず、手持ち無沙汰に窓の外を眺めていると、すぐ外を古文の教師、澤田いづみが通り過ぎていった。頬に指先を当て、少し浮かない顔だ。そういえば今日の授業でも少し元気がなかったので、いづみ、失恋でもしたのか、と噂していたのだった。しばらくすると、和歌子の同僚の衛生士、美香が達也のところにやって来た。呼ばれる、と思って立ち上がりかけると、
「達也くん、今、歯が痛いっていう、急患の患者さんが駆け込んで来ちゃったから、もうちょっと待ってくれる?どのくらいかかるかわからないんだけど・・・明日に変える?」
と申し訳なさそうに言われてしまった。
「ああ、いいすよ別に。また来るのも面倒なんで待ってます。」
「ごめんなさいね・・」
美香は一度は受付に帰っていったが、またすぐに戻ってきて聞いた。
「ただ待ってるのもなんだから、歯のクリーニングとか歯石取りしてあげなさいって先生がおっしゃってるけど、どうする?私、クリーニングの講習受けたから、ちょっと練習したいなとか思ってるんだけど、なー。」
そういえば、新しく歯のクリーニングができる器械を入れたって姉ちゃん言ってたな・・・実は歯にはカナリ気を遣っていると自負する達也は、試してみることにした。歯石もちょっと溜まりやすいのだ。
「うーん、お願いします」
「おお、さんきゅ、じゃ、診察室へどうぞ。」
達也は、診察室へ入った。

「んぁあんっ」
診察室に入るなり女性の悲鳴が聞こえたので、驚いてそちらを見ると、治療台に横たわっているのは、さきほどの澤田いづみだった。ああ、歯が痛いって駆け込んできたのはいづみだったのか。元気がなかったのは歯が痛かったからか・・でも、いづみは若くて美人で、いつもキリっとしていて、白い前歯も綺麗だし、歯が痛いというのはピンと来なかった。いづみも親知らずかな?達也が考えていると、
「荷物はそこの棚へ入れてね、それからここに座って。」
と、美香に声をかけられた。
「あ、はい、どうも」
と答えながらも、なんとなくいづみのことが気になって、耳を澄ましていると、
「ああ、これもかなり進んでるねえ。どうしてこんなになるまで放っておくの。」
と、歯科医の三波が呆れたように言った。
「とりあえず、レントゲン撮ってもらいましょう。」
いづみの治療台が起こされ、和歌子がレントゲン室にいづみを連れて行くと、三波が達也のところにやって来た。
「やあ達也くん。さ、今のうちにちゃちゃっと見ちゃおうか。」
今度は達也の治療台が寝かされ、ライトがつけられた。
「あー、親知らず、これね。微妙な生え方だなあ。まだ綺麗だけど、磨きにくそうだし、達也くん、アゴ細めだから、抜いちゃったほうがいいと思うんだけど。覚悟してきたか?」
男らしくアゴの張った顔の三波が、ニヤッと笑った。
「あの、抜いてもらう、つもりなんですけど、あさってテストなんで、腫れたり熱出たりしたらやだなと思って。」
「んー、たしかに、昔のレントゲンによれば、ちょっと根性曲がってそうだしなあ。テストの後の方がいいな。今日は・・またちょっと歯石たまってるし、綺麗にしてもらって帰るか?レントゲンだけ撮って、すぐ帰ってもいいけど。」
「うーん、姉ちゃん待って、車で帰りたいし、せっかくなんで、やってもらいます。」
「ん、じゃ、そういうことで。」
あっさり済んでしまった。
三波は手を洗いに行き、横についていた美香も、
「じゃ、達也くん、私、クリーニングの用意するから。待ってて。」
と、張り切ってどこかへ行ってしまい、達也は起こされた治療台に、一人取り残された。

ほどなくして、いづみが右頬を押さえ、顔をしかめながらレントゲン室から出てきた。左手にはハンカチを握り締めている。達也はなんとなく、目が合ったら気まずいような気がして目をそらしたが、いづみは、他の患者のことなど目に入らないようで、そのまま治療台に戻って座ると、ため息をつき、器具を準備する和歌子を不安そうに見ていた。達也は、そんないづみを見ていた。さっきの三波の言葉から考えると、いづみは虫歯が痛むらしい。しかもひどい虫歯のようだ。いづみは几帳面そうだし、そんな風には見えないけどなあ・・・達也は、姉の和歌子がいつも、「歯が痛くなるまで放っておくなんてだらしない証拠だわ。」と言っているのを聞いて、かなり影響されているのだった。
やがて、三波がレントゲンを手に、いづみの治療台に戻ってきた。レントゲンをセットして、説明を始める。達也も、なんとなくレントゲンに見入ってしまった。和歌子の教科書に載っていたので、なんとなくはわかるのだ。白く写った詰め物は、奥歯に数本あるきりだった。
「えーと、澤田さん。いちばん痛む右上のこの歯はやっぱり、かなり進んでしまってますね。あと・・少し痛む右下。これもたぶん、神経まで行ってしまってます。自覚症状があるのはまあ、この2本だけのようですが・・他にも歯の間とか、あちこち虫歯になってますよ。いつ痛み出してもおかしくないのも多い。きちんと治さないと、後で大変ですよ。」
「はい・・」
いづみが、消え入りそうな声で頷く。
「全体的には綺麗な歯だったようですし・・たぶん、これらも、C0かC1でも小さい虫歯なんかで、経過観察したり、予防処置をしていたと思うんですけど」
「そう・・です」
「最近、多いんですよ、大人になって、歯の手入れがおろそかになって、そういう虫歯が突然息を吹き返しちゃうケース。なので、今回はきっちり治療していきましょう。」
「はい、お願いします・・」
いづみは、叱られたように、小さな声で言った。

「達也くん、お待たせ。最初にレントゲン撮っちゃおうか。親知らずの。それからクリーニングしていきましょう。」
美香が戻ってきた。達也は、言われるままにレントゲン室へ行き、レントゲンを撮った。自分の治療台に戻る途中でいづみを見ると、
麻酔の注射をされているところだった。大口を開けた状態で、さらに思い切り唇を右上に引っ張られ、目をつぶって横たわっている。
「もう少しですからねー」
三波が言い、いづみの眉間に大きく皺がよった。「されるがまま」という言葉が達也の頭に浮かび、達也はドキッとした。
治療台に座り、美香の問いかけに答え、口を開け、クリーニングが始まったが、達也は上の空だった。美香の巨乳が顔のそばに来ても、何も感じなかった。ただ、隣の治療台の様子が気になって仕方なく、達也は耳をそばだてた・・。

「では削っていきます・・・痛かったら左手上げてください。ただ、少しは我慢してくださいね。」
「はひ」
キュィイー
スコココココ
ヒュィィイイイイイイイ、ヒュィン、ヒュイン、ヒュイィィィイイイ
ゴゴッ
ヒュィン、ヒュイン、ヒュイィィィイイイ、キュキュキュキュィィイイ
「んんっ」
キュキュ、キュィィイイ
「ん、ぁああ」
キュ、キュイ、キュイ、キュイーン、キュイキュイーーン
「ぃあ、あ、あああ」

始めは削るドリルの音だけが聞こえていたが、徐々に、いづみの、搾り出すような声が混じり始めた。歯の治療中のうめき声がこんなにやらしい声だったなんて。さらに、さっき見たように、患者は歯科医と衛生士にされるがままになっているのだ。しかも、仕方なくとはいえ、自らの意思で。達也は、これまで気付かなかった歯科治療の魅力に目覚め始めていた。そして、目を閉じて、隣の状況を楽しむことにした。

「ぁあっ、ぃああああああ」
ヒュイン、ヒュイィィィイイイ、ヒュイィィィイイイ、
「もう少し我慢してくださーい」
「んぁあああああ」

いづみの治療はさらに続いていた、が・・・
「はい、達也くん、終わり。」
美香の声で、達也は我に返った。
「やだ、寝てたの?部活で疲れてるのかなー。」
美香が笑ったのに調子を合わせ、笑いながら起き上がる。
「ありがとうございました。すっきりしました!」
「いえいえ、どういたしまして。」
「姉ちゃんは・・・」
「あの分だと、まだまだかかりそうね。削った後、神経抜くと思うから。」
治療台のいづみを見ると、グレーのタイトスカートからのぞく、黒のストッキングを履いた脚は、つま先がぎゅぅっ、と閉じていて、ときどき、ビクン!と足全体が震える。
「痛そうだなあ・・」
「まあ、この後がまた痛いわね。」
「神経抜くってのも痛いの?」
「そりゃ痛いわよ。神経をグリグリされるわけだから。」
「うわ。こわ・・」
ふと達也は、美香が顔をしかめているのに気付き、聞いてみた。
「美香さんも神経抜いたことあるの?」
「あるのよ、こんな仕事してて恥ずかしいけど、昔、歯が痛くなるまで虫歯を放っておいたことがあるの。あー、思い出しても痛いわ。やめましょ。ところでどうする?隣の駅だっけ?駅までなら送ってくわよ。一緒に帰る?」
特に断る理由も見つからず、達也はいづみの治療に未練を残しつつ、歯科を後にしたのだった。