ある日曜日。達也は、彼女の綾子と向き合って公園の芝生に寝そべっていた。天気もいいし、節約デートである。
「おいおい、何言ってんだよ」
「ははは」
綾子と顔を見合わせて笑うと、綾子の右下の銀歯がきらっと光った。付き合う前からそこに銀歯があるのは知っていたが、歯科での体験以来、女性の銀歯が気になって仕方がない達也は、綾子の口から歯の治療の様子を聞きたくなった。
「オレさ、親知らず抜いたんだ」
「へー、親知らず痛かったの?」
「痛くはなかったんだけど、抜くときは痛かったよ、根っこが曲がってるとか言われて、削られたり叩かれたり・・」
うわ、と、綾子が痛そうな顔をした。これはもしや・・・
「オレあんまり歯医者って治療されたことないからさ、びびったよ、綾子は?」
「そりゃ達也、ラッキーだよ。私はねー、けっこう治してるよ・・」
「へー、見せて」
「ちょっと恥ずかしいなあ」
「なんで。」
「ホントに、けっこうたくさんあるんだよ、銀歯とか。引かないでよ?」
「そんなことで引かねーよ」
「あーん」
綾子は、口を開けて見せた。右下の手前の銀歯しか気付いていなかったが、たしかに、けっこうたくさんの銀歯が見える。特に、上の奥歯は、一番前の歯以外、全部銀歯だった。
「へー、たしかに銀歯だらけだな」
「だらけって言うなあ。」
綾子が、軽く達也の頭を叩く。
「もっかい見せて。」
「なんでよ・・」
文句を言いつつも、おとなしく口を開ける。
「オレ、この、全部銀色の歯、気に入った。綺麗じゃん。」
右上、前から3番目の歯を指差す。他の歯のように、銀が詰めてあるのではなく、歯全体が銀歯なのだ。
「あー、それねー、痛かったよホント・・。」
綾子は、自分から話し出した。
それは、期末試験の最終日前日の夜だった。
夕食のとき、少し右上の歯が痛いような気がしたのだが、なんといっても明日は最後の山場、数学の日だ。綾子はすぐに自分の部屋に戻り、問題集を解き始めた。
「いたた・・・やっぱり痛いかも・・」
はっきりと歯が痛くなってきたのは、一度お風呂に入り、勉強に戻ってからしばらくたった、11時ごろのことだった。健康そのものの綾子は、痛み止めなど持っていなかった。まあ、しばらくたてばおさまるだろう、と思っていたが、痛みはどんどん強くなるばかり。12時を過ぎたころには、もう勉強どころではなくなっていた。
「痛い・・痛い・・・痛いよぉ」
我慢できず、1階でまだテレビを観ていた両親のところへ行って泣きついた。
「歯が痛いんだけど・・・」
「痛み止め飲んだら?」
母親が薬箱を探してみたが、あったのは空き箱だった。
「我慢できないのか?」
「痛いよぉ・・・」
目に涙まで浮かべている綾子に、父親もうろたえた。電話帳をめくり、夜間救急歯科センターを見つけたので、連れて行くことになった。
救急歯科センターに着いてみると、すでに5人ほどが待っていた。皆一様に頬を押さえ、暗い顔をしてじっと座っている。永遠とも思われた長い待ち時間(実際には1時間ほどだったのだが)の後、ようやく綾子が呼ばれた。神経が炎症を起こして圧力が高まって痛いとのことで、歯髄に穴を開けてもらうと、痛みは嘘のように消えた。
「痛みが消えたからって、そのままにしないで下さいね。明日ちゃんと歯科に行って治療を受けてください。」
担当の歯科医にきつく言われ、翌日、テストが終わった綾子は、早速、近所の歯科に行って治療を受けた。
それは、昨晩の虫歯の痛みの方がまだましだった、と思えるほどの痛い治療であった。何度も通ってその痛い治療を受け、その全部銀色の銀歯、になったのだ、と綾子は話した。
「へえ、そんなに痛いのか・・・」
「思い出しても痛くなってきそうだよ」
「ま、よかったじゃん、治って。」
「うん、まあね・・・」
その夜から、達也は、綾子が歯科の治療台で泣き叫んでいる姿を一人想像し、楽しむようになった・・・
次の週の水曜日。クラスでは、1ヶ月前に行われた、歯科検診の結果の紙が配られた。綾子も呼ばれ、紙を受け取っている。
その帰り道、二人でマックに入ったので、達也は、軽く、
「ちゃんと歯医者行けよ、虫歯あったんだろ」
と言ってみた。すると、綾子は大きくため息をつき、
「そうなんだよ・・やだなあ、しかもさああ、」
と言って、その紙を見せてくれた。上の前歯の部分に、C2、が3本も並んでいる。
「前歯じゃん。」
「そう、ついに来たかって感じ。痛いらしいんだよね、前歯の治療。はー、ユウウツ。」
綾子はため息ばかりついている。
「痛いらしいって、皆治してんの?」
「んー、クラスでも何人かね。ミズキは思ったよりひどくて、サシバになったらしいよ。それだけはやーだーよー」
脚をばたばたさせながら言う。本当に気になっているらしい。
「じゃあ早く治せよ、ってか、見せてみろよ」
と言うと、案外あっさり、いーっ、としてみせた。
「うーん、わかんないな。あ、ここ、そういえば、ちょっと色が変だ。」
良く見ると、一番前の歯と歯の間から、同心円状に茶色く変色している。何か透けているような感じだ。
「がーん、見てもわかるか・・実は前から、冷たいものがしみるなとは思ってたんだ・・・やっぱり歯医者行かないとヤバイかー」
「そうだよ、治らないんだから早く行けって。」
「ああ!達也のお姉さん、歯医者のお姉さんじゃん!そうだ、ねえ、付いて来てよ。」
どうして女ってのは歯医者に付いて来て欲しがるんだ?と思いつつも、願っても無いチャンスである。
「ああ、別にいいよ」
部活を引退してから、暇なのだ。
翌朝、登校すると、綾子が走ってきた。
「明日の放課後に予約入れたから、付いて来てくれるよね。約束したよね。」
そんなに早く予約が取れるとは思っていなかった。明日は映画の日なので、映画を観に行こうと思っていたのだが・・・もちろん、歯医者だ。自分の彼女が歯を治療されるところを見られるなんて。しかも、痛いらしい。
「ああ、しょうがないな、行くよ」
面倒くさそうに返事をしつつ、心はもう明日の放課後のことでいっぱいだった。
「はー、いざとなるとやっぱり嫌だなあ」
翌日、しぶしぶ歯医者に向かう綾子を、「仕方なく」はげましながら、達也は付いて行った。
「大丈夫だって。案ずるより・・なんだっけ、産むが易しだろ。」
実際にはちょっと難産になるのを期待しつつ、三波歯科のドアを開けた。
完全予約制なので、ほとんど待つことなく、診察室に通された。綾子に手を引っ張られ、達也も診察室に入る。
「あら、達也くん、付き添い?」
美香にも笑われつつ、綾子の治療台の近くに立っていると、吉野がやってきた。彼が綾子の担当らしい。
「あの・・オレここに居てもいいですか」
「ああ、別にいいよ。」
そして、綾子の診察が始まった。
「えーと、治療勧告もらったのか。一応、全部見せてもらおうかな。」
「はい。」
ウィーン、と椅子が倒され、和歌子がカルテを持ってスタンバイする。
「じゃ、行きます。右上、7番○、6番○、5番○、4番・・C1、3番斜線、2番C2、1番C2・・・左行って、1番C2、2番・・C1、3番斜線、4番斜線、5番○、6番○、7番○、です。」
どうやら、紙に書かれていた3本以外にも、虫歯があるらしい。いいぞ。付いて来た甲斐があった。
「次、左下から・・7番C1、6番○、5番○、4番から右下3番まで斜線、4番○、5番斜線、6番○、7番斜線、です。」
下はちょっと収穫が少なかったが・・ま、いいか。
治療台が起こされ、綾子がちょっと緊張した顔で吉野を見る。
「えーと、神田さん。」
「はい。」
「治療勧告以外に、小さいんだけどね、あと3本虫歯がありました。」
「3本も・・」
「ま、すぐ治るけれど。ただ、ちょっと虫歯が多いな。子供のころから?」
「いえ・・子供のころはそんなでもなくて。小学校の高学年くらいから急に・・」
「それは・・何ていうかな、自分のせいなんだよ、手入れが悪いとか、甘いものの食べすぎとか。わかるかな。」
「・・・はい。」
「これからは、ちょっと歯にも気を遣ってね。もう、上の歯はほとんど全部虫歯でしょ。まだ高校生なのに。」
「はい。」
うつむいて頷く綾子の姿がなんとも言えない。意外とはっきり言うじゃん吉野っち。達也は心の中で喝采を送った。
「えーと、痛むところはないの?」
「痛いところはないんですけど・・・」
「しみるのかな?」
「前歯が少し。」
「うん・・ちょっと口開けてくれるかな?」
吉野はそう言って、シリンジを手に取った。
「ちょっと空気かけますね」
綾子が口を開けたままこくこく、と頷き、吉野は綾子の前歯にシュッ、とエアーをかけた。
「んひゃぁぁ!」
とっさに目を閉じ、顔をしかめる綾子。
「けっこうしみるみたいですね・・」
吉野がシリンジを置きながら尋ねると、口元を左手の指先で押さえた綾子が、涙目になって頷いた。
「じゃ、とにかく治していこうか。前歯から。前歯は痛みが出やすいんだけど、最初から麻酔しますか?それともちょっと頑張ってみる?」
「麻酔、お願いします。」
治療台がまた倒され、綾子はちょっと頭を持ち上げて髪をそろえ、頭の位置を落ち着けた。
「じゃ、最初、表側に打ちます。」
そう言って、吉野が、綾子の上唇をめくり上げた。綾子の目が不安そうに動くのが達也の場所からも見えた。
「ちょっとチクっとしますねー」
そのすぐ後で、綾子の脚がピクッ、と動いた。
「動かないでくださいねー」
和歌子が釘をさす。
「もう一ヶ所。」
ぴくっ。
「今度は裏に行きます。はい、あーん」
綾子が口を開け、同時に目をつぶる。
ぴくっ。ぴくっ。
どうやら綾子は、かなり痛みに弱いらしい。治療も期待できそうだ・・・
「じゃあ、口をゆすいでから、レントゲン撮ってもらってください。麻酔が効いてくるまでしばらくかかりますから。」
吉野はそう言って治療台を起こし、席を立った。
綾子は、口から水をこぼしながら、口をゆすいでいる。唇には少し麻酔が効き始めているらしい。
「じゃ、こちらへどうぞー」
和歌子が、綾子をレントゲン室へ案内する。達也はちょっと手持ち無沙汰で、綾子のカルテを覗いたりしてみた。
たしかに、ずいぶん虫歯が多いな・・・達也は、カルテもなかなか興奮するということを発見した。
しばらくして、綾子が戻ってきた。エプロンをかけ、少し不安そうな顔だ。スリッパをやや引きずるような音にも、綾子の沈んだ気分があらわれているようだ。体を引っぱりあげるようにして治療台に座る。小柄な綾子には、少し治療台が大きいのだ。
「大丈夫か?」
一応、声をかけてみる。
「ごめんね、付き合わせちゃって。でも・・ちょっと怖いから、付いててくれる?」
「ああ、いいよ」
治療シーンを逃すわけにはいかないのだ。
和歌子が、レントゲンを持ってやって来た。治療台横にセットし、蛍光灯を点灯する。吉野は隣の治療台で何かしているようだ。
へえ、銀歯って白く写るんだな・・・達也は感心して綾子のレントゲンを見ていた。奥歯はあちこち白く写っている。右上・・たしか全体が銀歯になっている歯は、歯の根っこまで真っ白だ。根っこまで銀歯なのかな・・・達也は、泣きながら歯に銀色のネジをぐりぐり差し込まれている綾子を想像していた。実際にはもちろん、根管を充填するのは銀ではないのだが、そんなことは達也は知る由もない。
綾子は、これから始まる治療が不安らしく、レントゲンを眺めたり、自分の指先を眺めたりして落ち着かない。仕方ないので、手を握ってやった。綾子はホッとしたような微笑を浮かべたが、実は、達也も少し待ちくたびれてきた。手を綾子に預けたまま、きょろきょろしてみる。
左側の治療台は、いつのまにか治療が終わったらしく、空いている。そこへ美香が、新しく器具をセットし始めた。美香も治療台に座る側になったら、不安そうな目で周囲を見回すのだろうか・・・そう考えていると、美香が奥から、白い歯の模型に、前歯が2本ついたものを持ってきた。表側は白くて綺麗な歯だが、裏側は銀色で、ギラギラしている。へえ、と思っていると、綾子が手をぎゅっと握り締めてきた。
「サシバ、だ・・・」
「へー、あれがサシバか。表が白くて裏は銀なんだ、へえ。」
すると、美香がこちらに気付き、
「そうね。だって、前歯が銀ギラってわけにいかないから、表には白いプラスチックをつけるのよ」
と説明してくれた。
ほどなくして、吉野が戻ってきたので、達也は少し後ろに下がった。治療台が倒され、和歌子が定位置にスタンバイする。
「では、削っていきますね。痛かったら左手を上げて。」
上唇の下に、ぐいっ、と綿の塊が詰められ、綾子の鼻の下がもっこりとふくらんだ。和歌子が口をこじ開けられていたときほどではないが、なかなかひどい顔である。
ヒュィィィイイイイ・・
タービンが音を立て始め、やがて、少し音の高さが変わり、綾子の前歯にタービンが喰い込んで行ったのがわかった。
キュィィイイイイ、キュィィイイイイ
しかし、綾子は痛がる気配を見せず、おとなしく削られているだけである。少しつまらないな・・と達也が思った瞬間、診察室に一人の女性が入ってきた。澤田いづみだ。
いづみは、美香に案内され、左の治療台に座った。差し歯の準備されているところだ。ということは、あの差し歯はいづみの口の中にはめられるのか・・・達也は再び興奮が高まるのを感じていた。でも、今日もいづみの授業はあったが・・・特に前歯が変だとは気付かなかったが・・・よくよく考えると、昔と少し形が違ったような気もした。もっとも、今日の綾子の治療のことに気をとられ、いづみの歯には、すでに注意はしていなかったのだが。
美香が、カルテを見ながらいづみに話しかけている。
「えーと、今日はこの差し歯を入れて・・あと、下の前歯の小さい虫歯を治したら、ようやく終わりですね。長かったですね。」
「はい・・」
えっ?もしかして、親知らずを診てもらった日に駆け込んできて、あれからずっと通ってるのか?達也は頭の中で計算した。あれから少なくとも・・8ヶ月くらい経っている。8ヶ月間、ずっと歯医者に通っていたのだろうか。冬休みも春休みもあったのに。歯医者に通い続けなければいけない生活。職員室で頬杖を付き、ため息をつくいづみ。
(はあ・・今日は歯医者の日だわ・・いつになったら終わるのかしら・・・)
この妄想は、なかなかに達也を満足させた。
「じゃあ、仮歯外しましょうね。」
「はい、お願いします」
ウィーン、と治療台が倒され、いづみの黒髪がヘッドレストからさらさらとこぼれた。
「はい、軽くお口開けて・・・」
いづみが目を閉じ、静かに口を開ける。美香が、手に何かを持って、いづみの口の中を少しいじり・・・前歯を外した。ツーッ、と唾液が糸を引いて、ライトに輝くのが見えた。いづみの口の中、前歯のあったところには・・・小さな銀色の棒が歯茎から覗いているだけである。達也は驚いた。あの前歯の下がこんなことになっていたとは!こうなるまでには、どういう治療がされたのだろう・・・達也は、綾子もこうならないかなあ、と期待しつつ、前歯を削られている綾子を横目で眺めた。首を伸ばして覗き込むと、一番前の歯の間が、ずいぶんと削られている。ちょうどそのとき、綾子の口から、少しずつ声が漏れ始めたのだった。
「ん・・い・・い・・・いはぁあああ」
ヒュィィィイイ、チュイ、チュイ、チュイイイイイ
「いはぁ・・あっ、あっ、ああああ」
綾子が左手を上げかけたが、吉野は、
「うーん、痛いねえ、もうちょっと頑張れるかなー」
と声をかけ、さらに削り続けている。
「あっ、あはっ、あはんっ、んいはぁあああ」
すると、左の治療台に、三波がやって来た。
「こんにちは。えーと・・ああ、ついに最後だね」
「はい・・よろひく御願いひまふ」
前歯の棒の間から息が漏れるようだ、間抜けなしゃべり方である。
「ずいぶんと長いこと通ったねえ・・・これが最後の前歯だね。以前に入れたところはどう?」
「はい、大丈夫でふ」
他の前歯も差し歯なんだ・・・達也は、いづみの会話に集中すべきか、痛みが本格的に辛くなってきたらしい綾子を観察すべきか、贅沢な悩みをかかえつつ、二人を見比べていたのだった。
そのとき。
「んいはぁあああっ」
ずっと泣くようなうめき声を出していた綾子が悲鳴を上げた。
ヒュゥゥゥウウ、とタービンが停止した。
ふと見ると、綾子は目に涙をいっぱいにためている。
・・・綾子にするか。達也は、綾子の治療台に近付いた。
「我慢できないくらい痛い?」
尋ねる吉野に、綾子は治療台を倒されたまま、こくこくと頷いた。
「まだ全然取り切れてないんだけどなあ・・」
削ったところをミラーで確かめながら、吉野が困ったように言う。
鼻の下を不恰好にふくらませた綾子は、右の前歯が左側から4分の1くらい削られ、すきっぱのようになっていた。
「神経までは行ってないと思ったんだけどね・・・ちょっと危ないかな・・・」
綾子が不安そうに、考え込んでいる吉野の顔を見上げている。
「よし、もう1本麻酔打って・・頑張ろうか。」
「ひっ」
綾子が怯え切った顔で首を振る。
「1.このまま削る、2.麻酔打ってから削る、っていうどっちかなんだけどな。やめる、ってのはないよ」
吉野が冷静に言う。綾子は小さく首を振り続けている。
「じゃ、麻酔・・おねがいします」
達也が横から言った。綾子が達也の方をハッと見た。治療台に横たわる彼女が、怯えた目で自分を見るのを上から見下ろすのも悪くない。
「仕方ないだろ、削らなきゃいけなくて、痛くて我慢できないなら、痛くないようにしてもらわなきゃ。」
綾子は、目を伏せて黙り込んでしまった。
麻酔の注射が用意され、
「じゃ、いくよ・・さっきより痛みは軽いからね」
と、吉野が綾子の歯茎に注射針を打ち込む。
「ん、んー」
綾子は、それでも目をつぶって、眉根を寄せて痛そうにしている。
ホントに痛いの弱いんだな・・これで、痛いから歯医者行くのやめるって言い出して・・虫歯が酷くなって・・・痛くなって・・・いづみみたいに、暗い顔で歯医者に駆け込む・・・
達也は、少し妄想にふけった。
チュィイイイイイイイン・・
気が付くと、綾子の治療が再開されていた。しかも、さっきまでの綿ではなく、アングルワイダーで視野が確保されていた。
おおおっ・・・携帯の待ち受けにしたいくらいの図であった。
2本目の麻酔が効いたのか、綾子はおとなしく削られていたがそれも一瞬で・・・
チュィイイ、チュィイイ、チュィイイイイ・・・
「ぁ・・・あ・・・・あがぁああああ。い、いぁああああ」
やはり痛むようで、声を上げていた。
しばらく綾子の鳴き声とタービンの音が、大きさを競うように鳴り響いた。
ヒュゥウウウウゥゥゥ。
ようやくタービンが止まる。綾子はしゃくり上げながら、涙を拭った。横から、和歌子がアングルワイダーをはずす。
「うーん・・神田さん。」
椅子を起こしながら、吉野が言った。
「今削ってた歯ね、削ってみたら神経まで虫歯が進行していてね・・・」
綾子が、不安いっぱいの顔で吉野を見る。
「治療は2つあるんだ。1.薬を詰めて様子を見る。神経はそのまま、だけどしばらく痛みます。でも、神経を残せるとは限らない。2.神経を抜いてしまう。神経を抜くときは痛い。らしい。」
黙って聞いていた綾子だが、突然声を出した。
「あの・・サシバは絶対に嫌なんですけど。そうはならないです・・よね?」
吉野は、少し困ったように答えた。
「神経を抜いた後には、普通、かぶせるんだけど・・・このかぶせる治療は、前歯の場合、まあ、サシバ、って呼ばれてるね・・」
「じゃ、じゃあ・・・神経は抜かないで下さい。」
綾子は、即答した。
「でも、残せるとは断言できないよ。痛みが出て、引かないとか、堪えられないようなら、あとで抜かないといけない。」
吉野は、誠実に説明していた。
「サシバは嫌なんです・・。」
「うん、まあ、それはわかるんだけどね。でも、もう少し早く来てくれていれば、ちょっと削って、プラスチック詰めるだけで終わったんだけどね・・」
「でも・・歯科検診の紙もらってすぐ来たんですよ!」
吉野も、やや困った顔だ。
「でも、前歯は以前から、しみたりしていたんでしょ?」
綾子が、あっ・・・という顔をした。
「は、はい・・・」
「ま、じゃあ、神経残すように頑張ってみよう。薬を詰めて、封するからね。残せるときでも、しばらくの間、ちょっと痛いよ。頑張って。」
「しばらくって?」
「1ヶ月か2ヶ月か・・まあそのくらいかな。」
「そ、そんなに・・?」
「もし、痛みが堪えられないくらい強くなったら、きちんと言って。」
「はい・・」
「じゃ、薬詰めていくから。」
再び、椅子が倒された。
達也が横目でいづみの治療台を見ると、すでに上の差し歯は装着されたあとのようだ。アングルワイダーをはめられ、下の前歯をなにかいじられているが、痛くもないようである。
ちょっとつまらないかな・・・
と、綾子に視線を戻す。綾子は、唇の下に綿をつめられているところだった。
「はい・・あーん・・あまり大きく開けなくていいよ・・・お薬入れるからね・・・」
吉野が、小さい綿球を薬につけて、綾子の歯につけた。
「いひゃぁっ」
綾子が、ビクンと跳ねて、叫ぶ。
「あー、ちょっと我慢してねー。もう一回・・・」
「いぐぁーぃぃ」
「じゃ、封するからね。あんまりここで噛まないようにね。」
そう言って、吉野はてきぱきと、綾子の前歯を、ほぼ元通りに整えた。
お、ちょっとすげえ・・
達也は、思わず見入ってしまった。
その間に、隣のいづみが治療台を立ち、挨拶して診察室を出て行ったのも、達也を見て一瞬足を止めたのも気付かなかった。
「はい、おしまい。口ゆすいで・・・どうする?他の小さい虫歯も治しますか?すぐ治るけれど。」
吉野が、口をゆすいでいる綾子に聞いた。
「あ・・今日はもう・・・」
痛みに泣いて疲れたせいか、綾子は首を振った。
「そうですか・・じゃ、次はもう少し治して行きましょう。」
和歌子が綾子のエプロンを外す。
「はい・・ありがとう・・ございました。」
綾子は、治療台からちょこん、と降りて、吉野と和歌子に頭を下げると、診察室を後にした。
「あ、どうも・・」
「達也くん、おつかれさま。」
達也も頭を下げて、綾子の後を追った。
「あ、達也・・ちょっと待っててくれたら一緒に帰れるわ。綾子ちゃんも送っていくけど。」
「ん・・わかった。」
待合室へ戻ると、綾子が座って、右手で鼻の下を押えていた。
「どうだ?」
「痛い・・・治療するまでは痛くなかったのに。来なければよかった。」
と、綾子は不機嫌そうに言った。
「そういうわけにはいかないだろ・・もっと早く来てればって言われたくらいなのに。」
「ん・・・そうだけど・・痛い・・・」
「ま、来るか来ないか決めるのは綾子だけど。そんなこと言ったら姉ちゃんに怒られるけどな。」
放置して、痛み出すのも悪くない、と思っていた達也は、それ以上あえて強制はしなかった。
しかし、翌日の放課後、綾子が泣きそうな顔で近付いてきた。
「達也・・歯・・・前歯が痛くて我慢できない・・」
我慢できないくらいに痛くなったら、神経抜いてかぶせるって言ってたような・・神経を抜くときはすごく痛くて、前歯をかぶせるのは、綾子がものすごく嫌がっている、サシバ。
達也は、昨日見た、仮歯を外したいづみの前歯の様子を思い浮かべ、ぞくっとした。
しかし、達也は心配そうな顔を作って、綾子の顔をのぞきこむ。
「次の予約は・・来週の火曜日だっけ。大丈夫か?」
「もう無理・・・今から歯医者さん行きたい」
達也はさらに顔を曇らせてみせた。
「でも・・痛くなったら神経抜くって・・かぶせるって言ってなかった?我慢できない?」
「そうなの・・差し歯は嫌・・でも痛いの・・・どうしよう・・・」
綾子は今にも泣き出しそうだ。立ち話している二人の後ろを、クラスメイト達が通り過ぎる。
「ちょっと熊谷くん、なに泣かせてんのよ?」
矯正装置をギラギラさせながら、クラス委員の真由子が偉そうに聞いてきた。
達也は、真由子をちらりと見て、あの口にキスしたら痛いかな・・と、突然思ってしまい、自分でも驚いて、軽く咳払いをしてから、綾子に言った。
「歯医者・・・行くか?吉野先生には嫌だって言ってみよう。」
綾子は、心細そうに頷いた。
三波歯科に着いて、受付で状況を説明していると、和歌子が気付いてやってきた。
「どうしたの?取れちゃった?」
「いえ・・あの・・昨日治療していただいたところが、痛くて我慢できなくて」
さらに痛みが強くなってきたのか、綾子は涙目になっていた。
「あら・・痛みは仕方ないんだけど・・・でも、そういう問題じゃなさそうね。ちょっと入って。」
綾子と達也は、診察室の中に入って行った。和歌子が、カルテのチェックをしている吉野に何か言っているのが見える。吉野は頷き、手を洗うとこちらにやってきた。
「痛み出しちゃったって?ちょっと見せて・・」
吉野は、綾子のあごをくいっと持ち上げ、左手で上唇をめくると、右手の人差し指で、綾子の痛む前歯を触った。
「んぁあっ」
綾子が痛みに顔をゆがめる。
「ん・・ちょっと炎症を起こしちゃってるかもな・・・なんとかしよう。でも今、詰まってて、もうだいぶん予約時間より押してるし・・診察が終わってからかな・・」
たしかに、待合室も人がいっぱいだ。子供や制服姿の中高生。診察室の椅子に座っているのもそんな年代ばかりだ。綾子と同じように、歯科検診の結果を持って来ているのだろう。
「痛み止めあげるから、飲んで。おさまらないようなら、合間に麻酔でも打ってみよう。」
「はい・・すみません。」
綾子は頭を下げて、待合室へ出た。受付で、和歌子が痛み止めと水を渡してくれる。
「効くといいけど。効かないようなら、また声かけて。」
待合室の椅子に空きを見つけて、二人で座り、綾子は痛み止めを飲んだ。
しかし、診察が終わるのは7時。今はまだ5時だ。
綾子はため息をついて、目の前に積まれた女性週刊誌を手に取り、背もたれにもたれかかった。
横目で表紙を見ながら、達也は、この、妻子あるプロデューサーと熱愛発覚とかいうアイドル、差し歯だな・・と思っていた。
「熊谷さんも、紙もらったんですか?」
暇なのでウトウトしかけたとき、突然、声をかけられたほうを見ると、部活でマネージャーをしていた2年生の怜子だ。
「いや、俺はもらってないけど。」
「ですよね・・熊谷さん健康そうですもん。うらやましいですぅ。」
「健康そう、って歯に関係ないだろ。安田は紙、もらったの?」
「もらっちゃいましたぁ・・そうなんですよね、健康は健康なんですけど、歯は別・・・はぁ。」
怜子がついたため息の中に、達也は口臭を感じた。口に出して言ったことは無いが、綾子もときどき、同じような臭いをさせている。虫歯が多い口の臭いなのかもしれない。
「で、部活サボりかよ。」
「すみません・・実は去年の紙を隠してた、ってのが親にバレて。無理やり予約入れられちゃって・・・」
「いや、俺はもう部活関係ないからいいし。た、たくさんあるの?」
達也は怜子の歯の状態が知りたくなって、さりげなく聞いたつもりだったが、突然、綾子が肩にもたれかかってきて、動揺した。
「それは恥ずかしいから言えませんよっ。前歯も治したあとがツギハギみたいになってるし・・」
怜子はあまり歯が見えないタイプだと思っていたが、見せないようにしていたのだろうか。
達也は、速まった鼓動が、肩にもたれている綾子に伝わっていないかとヒヤヒヤした。
そっと綾子の様子をうかがうと、興味のなさそうな様子で、ため息をつきながら女性週刊誌をめくっていた。
「綾子。痛みはおさまったのか?」
「ん・・ちょっとは。」
「大丈夫ならいいけど。」
「ありがと。」
綾子はそれきりまた口をつぐんでしまい、怜子も、彼女連れだとわかって遠慮したのか、それ以上声をかけてこなかった。
達也は、診察室から聞こえてくる声や治療の音を聞きながら、目の前の怜子や、その隣に座っている、いまどきヤマンバかよ、と突っ込みたくなるような女子高生を頭の中で治療台に座らせてあれこれ想像を楽しんでいた。
6時半ごろになって、ようやく怜子が呼ばれ、暗い顔で診察室に入って行った。
さらにしばらく後、
「神田さーん。神田綾子さーん。」
ついに、和歌子が呼ぶ声がして、綾子は立ち上がった。
「達也も・・来てくれるよね。」
綾子にじっと見られて、達也も立ち上がる。もちろん入る気だったのだが。
診察室の中は、5台ある治療台の4つはちょうど制服姿の中高生ばかりで埋まっていた。残り一つに、綾子が誘導される。三波と吉野のほかに、もう一人、女性の歯科医師が治療していた。
怜子は、ハンカチを握りしめ、女性医師の治療を受けていた。
「ぁ、ぁあああ・・・」
「だめよー安田さん、虫歯作っちゃったの自分でしょう、頑張って治さないと」
「ぃはああああ」
「放っておいたから治療も痛いのよ」
「ぁはぁあああんっ・・」
達也は、思わずごくりと唾を飲んで、怜子の治療台に見入ってしまった。怖い歯科医に怒られてるというのもいいな・・
しかし、綾子に手を引っ張られ、慌てて隣の治療台に目をそらす。
なんだ、こっちはオトコかよ・・・
がっかりしたところで、ちょうど吉野が担当していた中学生の治療を終えて、こちらにやって来た。
「待たせて悪かったね」
「いえ、こちらこそ急に・・」
「我慢できないくらい痛いって?」
「はい・・ズキズキするっていうか・・昔、奥歯の虫歯がすごく痛くなったときと同じ感じで・・・」
「ズキズキか・・それだと、残念ながら神経は残せないと思うから、抜かないといけないな。」
綾子がうつむいて黙ってしまったので、しかたなく達也が続けた。
「あの、その後・・・」
「差し歯は嫌だって言ってたね。」
「はい。」
「まあ、歯質・・歯そのものはそれなりに残ってるから、抜髄だけして、詰めて残すということも、できなくはないんだけど」
「じゃ、じゃあそれで・・」
綾子がぱっと顔を上げて言った。
「ただね、歯は死んじゃうわけだから、変色してくるよ。強度も落ちるし。」
「どのくらいで変色するんですか・・」
「完全に個人差だね。直後から変わっちゃう人もいるし、何年か大丈夫な人もいるし。」
「ん・・・」
綾子は考え込んだ。
「ま、とりあえず今日は痛みだけなんとかしようかな」
「はい・・・お願いします」
「じゃ、倒すよ」
いつの間にか、治療の準備は整っていたようだ。
「達也、居てもいいけど、ちょっとだけ下がってくれる」
和歌子に言われ、少し下がると、治療台が倒れてきて、治療台の上の綾子を頭の方から見下ろす感じになった。綾子が上目づかいに心細そうに達也を見ながら、ぐいぐいと唇の下に綿を詰め込まれているのは、なかなかの眺めだ。
吉野が、注射器を手にして、綾子に向き直った。
針の先は達也のところからは見えないが、刺さった瞬間、綾子の体がキュッと硬くなるのがわかる。
「ん・・んんん」
「次、裏からいくね」
「んぁ・・ぁ・・」
ホントに痛いの弱いんだな・・・
達也は、後に続く、「虫歯の痛みの方がまし」だという抜髄への期待に胸がまた高鳴るのを感じていた。
麻酔が効いてくるまで、せっかく来たので、右上4番の小さい虫歯を治す、とのことで、
治療台が倒されて、綾子の治療が始まった。しかし、痛がる様子もなく、やや達也は退屈していた。そのとき、
「あ、はぁあんっ!」
という悲鳴が後ろから聞こえてきた。怜子だ。
「いあぁぁ」
「イヤじゃないでしょ、こうなるまで放っておいたのはあなたなんだから。ここでちゃんと綺麗にしておかないと、後で歯抜くことになるわよ」
歯科医が脅しのような言葉をかけながら、針のようなものを怜子の歯に突っ込んでいるところだった。
「ぃいいいはぁあああ」
「我慢してねー、動いたら危ないよー」
と、美香が怜子を押さえつけている。
「あ・・がはぁ・・あ・・・」
あーあ、かわいい顔がこんなに歪んじゃうとはね。
怜子は、部活内にこっそりファンクラブがあるほどなのだが・・・
達也は、ファンクラブ会員の同級生や後輩にこの様子を見せたいくらいだった。
今、達也の目の前にいる怜子は、眉根をぎゅっと寄せて、必死に治療の痛みに耐えている。
しかも、大口を開けさせられ、唇を引っ張られ、汚く開いた虫歯の穴にグリグリと何かを突っ込まれ、衛生士に体の自由を奪われて、さらにジュボジュボと音を立てて唾液を吸い取られているのである。
治療台のところに貼られたレントゲンには、白い詰め物や黒く抜けた虫歯がいくつも写し出されている。
首を伸ばしてカルテを覗き見ると、要治療:10本 の文字。
かわいい顔して、10本も口の中に虫歯ためこんでるのか・・・
達也は、興奮してきてしまったので、深呼吸して、綾子のほうへ向き直った。ちょうど、削られ終わったところらしく、治療台が起こされるところだった。
「痛くなかったか?」
何食わぬ顔で、綾子に聞いてみる。
「うん、削ったとこは大丈夫・・」
口をゆすいだ綾子は、前歯を唇の上から押えながら、再び、治療台に体を預けた。前歯はまだ痛むらしい・・・
「ちょっとしみるかもしれないけど、大したことないからね」
吉野が、シュッ、とエアーをかけ、エッチング液を塗り、エアーをかけ・・・
言われたとおり、すべてがしみるらしく、綾子はいちいち、ビクン!ビクン!と反応している。
たぶん、安田がやられてるのが抜髄なんだろうな・・・
後ろを見ると、一番痛いところは過ぎたようだ。が、痛みが無くなったわけではないらしく、
「ぁん!」
と声を上げては、顔をしかめている。
綾子もさっきの安田みたいに痛がるわけだ・・・たぶん、綾子のほうが痛がりだからな。
達也は、何か青い光を歯に当てられている綾子をちらちら見つつ、怜子の痛がる様子を眺めていた。
綾子の治療台からタービンの音がするので、はっ、と向き直ると、今詰めた奥歯の研磨をしているだけだったらしい。
早く始まらないかな、前歯・・・
怜子のほうは、仮の封がされているところで、もう終わってしまいそうだ。
「はいオシマイ。次もこの歯の根っこ綺麗にしましょ。まだ2本残ってるから。」
「え・・2本って?」
怜子が、怯えを含んだ声で聞き返す。
「この歯はね、根っこが3本あるの。」
歯科医が、レントゲンを指しながら説明する。
「で、今日はこの前の根っこ1本治療したから、あと2本ね。今日よりは簡単に済むと思うから。止めたりせずに、ちゃんと来なきゃダメよ。」
「・・はい。」
「だいたい、この歯だって、昔の治療のときにちゃんと最後までやってれば、銀歯詰めるだけで済んでたんだから。」
「・・すみません」
怜子は半べそ状態でうつむいている。
「謝る必要ないわ、辛い思いするのあなただし」
怖いな、この先生・・
達也はそう思いつつ、怜子が、以前、歯の治療を途中で投げ出したというところにもちょっと興奮していた。
ヒュィイイイ
綾子の治療台から、今度は本当に前歯の治療のためのタービンの音がした。
アングルワイダーをはめられ、目を閉じて、前歯を削られている。後ろから削っていくらしい。
安田にも、アングルワイダーはめたいな・・・
レントゲンでは、上の前歯にも黒く抜けているところがあるように見えるが、その治療に居合わせることができるかどうかは運だ。
どうにかしてうまく、いつ歯医者に行くか聞きだせないか・・・
達也は、歯のことになると見境がなくなる自分に気が付いて、ハッとした。一応今日は、綾子の歯の治療に付いてきたのだった。
キュィィィィイイイ
「ぁ・・ああ・・」
綾子の顔がゆがみ、声が漏れ始めた。
お、始まった・・・
痛みが出ている歯なので、麻酔をしたとは言え、かなり削り始めから痛み出したらしい。
「んんん・・ぁはああああ」
「痛いかなー、でも動かないでねー」
和歌子が励ましながらも顎をしっかりとホールドする。
ああ・・ホント痛そう・・・痛いところは麻酔の効きが悪いのよね・・・これ以上痛みが出ないといいけど・・・
和歌子は、半年前の自分の虫歯の治療を思い出しながら、顔をしかめていた。痛みがよみがえってくるような気さえする。
おお・・痛そうだな・・・もっと痛くなるかな・・・
横では、弟が同じ光景を見て、一応似たような表情をしながらも正反対のことを考えていた。
チュィイイイイ、チュィイイイイイ・・・
「んがぁあああ」
キュィ、キュィイイイイイ・・・
「ぁあああ、あが・・・」
綾子の踵が、ぎゅぅぅぅっ、と治療台に押し付けられて、すねと膝上の筋肉に力が入っているのがわかる。
閉じられた目の端には、すでに涙がにじんできている。
ヒュゥゥゥゥン。
タービンの音が止み、綾子はふぅぅ、と息を吐いて目を開けたが、治療台も起こされず、バキュームもそのままなので、その目はキョロキョロと不安そうに宙を泳いだ。
「もう少し削るから我慢してね」
と、綾子の気持ちを察した和歌子が声をかけ、綾子は
「ひっ」
と怯えたような表情になり、達也にすがるような視線を向けてきた。
「大丈夫・・しっかり治してもらおうな。」
頭をなでてやりながらも、微妙に突き放したような声をかけ、達也は吉野がタービンを手にして再び綾子に向き直るのを見た。
「じゃ、もう少し行くよ・・たぶん楽になるからね・・」
チュィイイイイン・・・
「あが、あぁっはああああ」
ついに涙がこぼれるほどになった。それでも、動いてはいけないと思うのか、両手が治療台の両脇をがしっ、とつかみ、手の爪が真っ白になるほど力が入っているのがわかる。
キュィイイイイイイイイ・・・ン。
ついにタービンの音が止んだ。
「よし、開いた・・もうちょっとそのまま口開いてて・・」