「達也、ちょっと、お願いがあるんだけど」
「なにさ」
テストも終わり、件の親知らずも抜き、ホッと一息の日曜日、姉の和歌子が達也の部屋に入ってきた。
「今度、歯医者に付いて来てくれないかなあ」
「姉ちゃんの彼氏ならもう見たよ」
和歌子は、勤務先の三波歯科のヘルプの歯科医、吉野と付き合っているのだった。達也は吉野に親知らずを抜いてもらったのだが、明るく優しそうな感じで、悪くなかった。少なくとも、元彼の、女にはもてそうだがちょっと信用できない雰囲気の高良よりはずいぶんと良いな、と達也は思ったのだ。
「うちの歯医者じゃないわよ」
「は?」
「高良先生のところ・・」
「何しに?」
「歯・・治してもらいに・・・ちょっと・・・歯が痛くて・・・」
和歌子の声が小さくなった。
「姉ちゃんも親知らずか?吉野先生に診てもらえば。うまかったよ、抜くの。」
「違うの。親知らずはもう無いわよ。」
「え?じゃ何?む、虫歯?」
和歌子が黙って頷いた。急に達也の鼓動が高鳴る。
「姉ちゃん、歯が痛くなるまで放っておくなんてだらしない女だとか言ってたじゃん」
「ええ、どうせ私はだらしない女よ。だから嫌なの。」
「はーん、吉野先生に内緒なのか、虫歯。」
「そうよ。だから、付いて来て!」
「でも何で付いて行かなきゃいけないんだよ」
達也は高良が嫌いなのだ。
「実は・・歯医者さん怖いのよ・・自分が治されるのは嫌なの・・」
うつむいた和歌子を見て、達也はちょっと、残酷な気持ちが芽生えるのを感じた。
「でもオレ、来週は忙しいから、週末な。それまで我慢しろよ。」
「何よ偉そうに。でも、ありがと。」
和歌子は、達也に手を合わせ、部屋から出て行った。

次の火曜日。抜歯跡の消毒の日だ。
「おっと、歯医者歯医者」
閉院ぎりぎりの時間の予約とはいえ、部活の後、急がなければ間に合わない。
「セーーフ?」
今回は予約ぎりぎりの時間に駆け込んだ。
「お、やっと来たか、逃げたかと思った」
吉野が声をかける。受付の女性と助手は帰りかけるところだった。美香と三波もすでに診察室にはいない。着替えに控え室に入ったようだ。
「すいません。お願いします。」
さっそく治療台に座り、口を開ける。
「はーん、やっぱり若いね、治りが早い。もう今回で終わりでいいな。」
和歌子から差し出された薬で消毒しながら、吉野が言った。
「はい、お疲れさん。」
吉野が椅子を起こしてくれる。和歌子は奥に器具の消毒に行った。チャンスだ。
「あの、吉野先生。」
「ん?」
「姉ちゃん、歯が痛いらしいんですけど」
達也が声をひそめて言うと、なぜか吉野も小声で聞き返した。
「え、ホント?」
「ホントです、でも吉野先生に知られるのは恥ずかしいって・・・」
「そりゃ聞き捨てならないね、ありがとう。早速診ようかな」
「お願いします」

達也が治療台から立ち上がるとすぐ、
「熊谷さん。」
吉野が、和歌子を姓で呼んだ。仕事モードだ。
「はい?」
「僕に、何か隠してることない?」
「ちょ※★*!」
和歌子が、達也をにらむ。達也は目をそらした。
「まあ、こっち来てごらん。」
姉弟の争いに割って入るように、吉野の落ち着いた声がした。
和歌子は、少し迷っているようだ。
「いいから、ここ座って。僕はそんなに我慢強くないよ。」
観念したように、和歌子が近付いてきて、治療台に座った。
「歯が痛いって?」
吉野が優しく聞いた。
和歌子が、黙って頷く。泣きそうな顔だ。
吉野はそれを見て、治療台の肩の部分に手をかけ、和歌子の顔を覗き込むようにして言った。
「衛生士なのに虫歯作って恥ずかしいと思うのかもしれないけど、大丈夫。僕だって虫歯はあるし。ちゃんと治そう。な?」
和歌子はもう一度黙って頷き、吉野は軽く微笑むと、治療台を倒すスイッチを入れた。
少しその状況に感動していた達也は、ウィーン、という治療台が倒れる音に、今度は別の興奮が高まるのを感じていた。

「はい、じゃ、えーと・・ああ、達也くん、その隣の治療台の、セットちょうだい。」
達也は、言われるままに、さっき和歌子が明日のためにセットした、隣の治療台の器具セットを取って来た。
「ありがとう。じゃ、口開けて。」
吉野がカン、とライトのスイッチを入れ、位置を調節してから、手にミラーを持った。
和歌子がゆっくりと口を開ける。
左手で和歌子のあごを押さえながら、口の中を覗き込んでいた吉野の顔が曇る。
「うーん」
その声を聞いて、和歌子の顔が、はっ、と不安そうになる。
「これは・・思ったよりも手ごわそうだな・・」
吉野が、ため息まじりに言った。
いったい、どんな状態なんだろう。達也は気になって仕方が無かった。
「熊谷さん、ここにカルテある?」
「あ・・ないと思います」
「ん、ちょっとあちこちあるから、ちゃんとカルテ作ろう」
吉野はそう言って立ち上がると、受付の後ろから紙を持ってきて、ボードに挟むと、胸ポケットのペンで、
「くまがい、わかこ、っと。」
和歌子の名前を書いた。そして達也にそのボードとペンを渡して言った。
「これから、お姉さんの歯の状態を言うから、このカルテに書いてくれる?ここ。番号と何か言うから。C1、って言ったらそう書いて。斜線、って言ったらこう。まる、って言ったら○ね。」
達也は、いきなり歯科のカルテを渡されて戸惑ったが、和歌子の歯の状態がわかると思うと妙にドキドキした。たしかC1とかは虫歯だったはずだ。
「じゃ、いきます。」
いつの間にかミラーを構えて和歌子の口腔内を見ている吉野に言われ、達也は慌ててペンを構えた。
「はい。」
「右上・・7番、C2。」
いきなり、虫歯のキゴウが聞こえてきて、達也は手が震えそうになった。7番というのはどうやら奥歯らしい。
「6番、○・・5番、○・・4番、斜線。3番、斜線。2番、斜線。1番、うーん・・・」
吉野が、ミラーを左手に持ち替え、右手に針のようなものを持って、和歌子の前歯の裏をカリカリつつくと、
「んんんっ」
和歌子が、痛そうな声を上げ、顔をしかめた。達也は、思わずごくりと喉を鳴らした。
「ちょっと進んでるかな、C2。」
前歯が、虫歯だって。達也は、震える手で大きく、C2、と記入した。
「左に行って・・1番、C1。2番、斜線。3番、斜線。4番、斜線。5番、これだな、痛いのは。C3。6番、○。7番、○。えーと、次、左下。7番、斜線。6番。これ、いつ取れたの。」
「ちょっと・・前・・」
「ちょっとじゃないでしょ、虫歯進んじゃってるよ。6番、C3。5番、○。4番、斜線、3番から・・・ずっと横線引っ張って・・右下の3番まで。そうそう。で、4番、C1。5番、斜線。6番、○。7番、C2。以上です。」
達也は、震える手でなんとか書き終えた。
Cがつくのが・・・7本。姉ちゃん、虫歯7本もあったんだ・・・しかも、治してある歯は6本。13本も虫歯にしたのか・・・達也は、あらためて、治療台に横たわる姉を見た。普段は、治療する側にいる白衣姿であるところがまたなんともいえず痛々しい。きびきび働いていたさっきまでの姿とは打って変わって、怯えたような表情でじっと吉野の顔を見つめている。吉野は、そんな和歌子の視線に気付くと、ちょっと怖い顔をして見せたが、直後、ふふっ、と笑いながら言った。
「もしかして・・・治療怖いの?」
「そ、そんなことないっ!」
負けず嫌いの和歌子は、真っ赤になって反論した。
「そう?まあ、どっちにしろ、治療はするからね。」
からかうように、しかしきっぱりと言い切って、吉野が達也のほうに手を伸ばした。あわててカルテを手渡す。
「ありがとう。えーと・・どの歯が痛いの?上?下?」
「上・・あの、ずっとじゃなくて、時々、なの、お風呂入ったときとか・・・あれ、イタイかも、くらいで・・・」
姉がこんなにオロオロするところを見るのは初めてだった。昔、遊園地で二人で迷子になったときだって、もっとしっかりしていたのに。
「ふ・・ん、どうしたもんかな」
吉野がカルテを見ながら、和歌子の口元に手を伸ばし、上唇をめくる。
「そろそろ前からも目立ちそうだから、できればこっちの前を早くやっちゃいたいな。奥が和歌子の言う通り、痛くないなら。どうなの?」
吉野に聞かれ、和歌子の目がちょっと泳いだ。
「ホントは痛いの?」
「・・・ゴメンナサイ」
「もう、しょうがないな、早く言えよ。じゃ、奥から行こう。ところで、何が怖いの?痛いのが嫌か?」
和歌子が目で頷いた。
「じゃ、最初から麻酔するか・・・シンマ取ってくるから、必要なら、自分で表面麻酔塗って待ってて。」
吉野が立ち上がって奥の部屋に消え、和歌子は自分で起き上がって、治療台のトレイの上にある綿棒で、何か瓶の中のゼリーみたいなものを取り、口の中に塗っていた。振り返って、達也のほうを見て、にらむ。達也は、
「でもさ、優しいじゃん、吉野先生。」
と言い訳しつつ、これから始まるであろう治療に期待していた。

「じゃ、行くよ」
吉野が、左手の人差し指を和歌子の口の中に入れるのを見ただけで、達也は妙に興奮してきた。これから、和歌子が口の中を彼氏にいじられまくるのだ。
右手の注射器の先が口の中に入れられ、和歌子はぎゅうぅ、と目を閉じた。
「んん・・ぁぁぁ」
和歌子が痛そうな声を上げる。
「外にも打つからね」
そう言って、吉野は、和歌子の唇の端を斜め上に引っ張り上げ、歯茎に針を刺した。
「ぅ、ぅうううう」
すごい表情にされながら、和歌子はなおも痛そうに声を上げ、衛生士の白衣から出した脚を突っ張っている。
思ったより長い時間かかった注射のあと、しばらく待ってから、和歌子の治療が始まった。

「じゃ、削っていくから。痛くなったら・・ちょっとは我慢しろよ。」
和歌子は不安そうな顔だ。
「そんな顔しない、はい、口開けて。」
和歌子が、ゆっくりと口を開け、目を閉じた。
「あ、達也くん、その管、そう、曲がってるやつ。こっちの唇に引っ掛けて。」
達也は突然呼ばれて驚いたが、ダッシュで近付いていって、指示されたとおりに動く。ついでに、和歌子の口の中をのぞく。
あまり銀歯は見当たらなかったが・・今から治療しようとしている歯が見えた。黒い穴が歯に開いているが、思ったより穴は大きくなかった。
ヒュイィィィィイイイ、
タービンが、吉野の右手で音を立て始めた。左手のミラーで見ながら、タービンで和歌子の虫歯を削っていく。
ヒュィィィィイイ、ヒュィィィイイ、チュイ、チュイ、チュイイイイイ
削り始めてすぐ、和歌子が声を上げはじめる。
「ぁあ、はっ、はっ、ぁはあ」
「まだ平気でしょ、もうちょっと我慢して!」
ヒュィィイイイン、ヒュィイイイイイン、
「ぁはっ、ぁはっ、はぁあああん」
泣きじゃくるような声だ。
「おいおい、まだ泣くのは早いって。」
ふと見ると、和歌子の閉じられた目に力が入り、そこから少し涙がにじんでいる。
ヒュィィイイイ、ヒュイィィイイイイ
「んぁあああっ!」
「こら、動かない!」
ヒュゥゥゥゥウ
急に、タービンが止まった。
タービンとミラーを治療台に戻し、和歌子の口から管を外してから、吉野が言った。
「ごめん、一人でやりにくいから、あれ、つけさせて。」
「やだっ!」
和歌子が即答する。あれってなんだろう・・・達也の胸はまた高鳴った。
「だって和歌子、動くし。」
「やだっ。やめて!」
なぜか必死に懇願する和歌子を置いて、吉野は何かを取って戻ってきた。白いプラスチックのものと・・青いプラスチックのかたまりだ。
「ほら、口開けて。」
「もう絶対動かないから!おねがい!」
手を合わせて頼む和歌子に、吉野は、
「ダーメ。危ないからダメ。」
と、相手にしない。
「今さら恥ずかしがってもしょうがないぞ。虫歯隠してたほうが恥ずかしいだろ。」
和歌子はしゅん、となって、小さく口を開いた。
「もうちょっと大きく。」
イヤイヤ和歌子が口を大きく開ける。そこに、吉野が白いプラスチックをはめ込んだ。
「はい、これも噛んで。あーん。」
さらに口を大きく開けさせ、右の奥歯の間に、青いプラスチックをかませる。
達也が覗き込むと・・・和歌子は、大口を開けたまま固定されたうえ、さらに唇を大きく広げられ、歯茎をむき出しにされていた。達也は、倒れそうなくらい頭に血が上るのを感じた。歯医者にはこんな光景があったなんて・・・
「じゃ、始めます。」
和歌子の歯の治療が再開された・・・・

ヒュィィィィイイ、ヒュィィィイイ、
「あっ、あっ、あっ」
今度は、削り初めから和歌子の泣き声が混じる。
ヒュィィィィイイ、ヒュィィィイイ、チュイ、チュイ、チュイイイイ
「んんん、ぁああああん、ああんっ」
「ああ、こりゃ思ったよりひどいな・・・中で広がってる・・グズグズだよ・・・」
ビュィィィィイイ、キュイ、キュイイイイン
「ぁはあ・・いはぁあああん」
「どうしてもっと早くに言わないんだよ」
「ぁあはああん」
和歌子に説教をしながらも、吉野は一生懸命、和歌子の口の中をいじっている。和歌子はいたたまれない思いをしつつ、さらに肉体的な痛みに耐えきれず、泣き声を上げている。ああ、すごいシチュエーションだ・・・達也はひざががくがくして、立っているのがきつくなってきた。
「んぁああああああ」
和歌子の声が大きくなってきた。すると吉野が、
「こら!動かない!達也くん、ちょっと脚押さえてて。」
と言った。はっと姉を見ると、膝を曲げ、脚をもぞもぞ動かしている。達也はあわてて言われたとおりに押さえに行った。ちょうど、和歌子の口腔内を下から覗き込むような格好になった。手で和歌子の脚をおさえつつ、首を伸ばして必死に様子を伺う。先ほど、小さく黒い穴があいているだけだった歯は、茶色い穴ががっぽりと開いた状態に変わっていた。たしかに痛そうだ。
キュイ、キュイイイイン
「いはぁっ、ぁがぁ、ああああん」
「こら、オトナだろ、衛生士だろ・・」
確かに、大人がこんなに泣き叫ぶなんてなかなか見ないシチュエーションだ。

ヒュゥウウウウ・・・
しばらくして、ようやくタービンの音がやんだ。和歌子の顔はもう涙でぐちゃぐちゃだ。
「そんなに泣くなよ、そんなことならもっと早く言えよ」
和歌子の涙を吉野が指で拭ってやっている。和歌子は治療台に横たわり、口はアングルワイダーとバイトブロックで大きく開けさせられたままの姿だ。
「じゃ、もう一頑張りな」
和歌子の顔がこわばる。
「あ、あふふい・・」
「あ?ああ、抜髄は今日はしないよ、なんとかなると思うから。」
よくそんなんで通じたなあ・・と、達也は感心した。
吉野が立ち上がったので、達也は思い切って聞いた。
「あの・・聞いてもいいですか」
「ん?なに?」
「バツズイ、って何ですか」
「一般的に言う、神経抜く、ってやつ。虫歯が深くって、神経まで進んでたら、抜かないと腐っちゃうんだ。」
「へえ。でも、けっこう姉ちゃんの虫歯、深かったんじゃないですか?」
そう言って、達也は和歌子の顔を見た。
和歌子は、さっきまでは痛みで泣き叫んでいたので気にならなかったが、こんなに大きく口を開けさせられているところを弟にまじまじと見られ、
しかも衛生士のくせにひどい虫歯を治療されているとあっては、姉としての威厳もなにもあったものではない。消えてしまいたいくらい恥ずかしかった。しかし、ブロックを噛まされているので、見ないで、という言葉も出せない。なるべく視線から逃げるように、顔をそむけた。
「まあ、そこそこは深かったけど、そこまでは行ってないかな、って思ってるんだ。神経抜くと、歯は死んで弱くなるしね。抜くときは気絶するほど痛いらしい。残せるもんなら残した方がいい。とりあえず残してみて様子を見るつもり。」
そう言いながら吉野は、何か小瓶を取ってきた。
「ま、本音を言うと、やる方も面倒臭いんで、やりたくない。」
吉野は笑い、
「こら、ちゃんと上向け。」
と、顔をそむけている和歌子の顔を、上向きに戻し、小瓶の薬品を、治療中の歯にたらした。
「ああ・・けっこうまだ残ってるな・・・もうちょっと行くから頑張れよ。達也くん、暴れ出したら押えて。」
再び、タービンが和歌子の口の中に挿入された・・・
キュィィィィィイイイ
「あっ、ぁがあああ」
和歌子は削り始めから、下半身をよじって逃げそうになり、気付いた達也は、あわてて和歌子の腰のあたりを押える。
衛生士のブルーの白衣は、すべりが良いらしく、かなりしっかり押えないと、動いてしまう。
さらに、白衣から伸びた足も、もぞもぞとすり合わされるように動いている。
本来ならやや興奮していいものを触っているのだが、達也はそんなことよりも、治療そのものに夢中だった。
「動いちゃダメだって言ってるだろ!」
吉野がさすがに少し怒りを含んだ声で叱り、和歌子の動きはやや弱まったが、そのぶん、泣き声は激しくなった。
チュイィィイイイイッィッィイイイイイ
「あ、ぁはん、いはぁああああん」
ギュィィィイイイ!
「ぁがぁあああぃぃぃぃいいっ!」
キュィィッィイイイイ
「ぃいああああ」
・・・・・
ヒュゥゥゥ。
結局、かなりの長い間削っていたような気がする。
「ふぅ。」
吉野が、バキュームでジュポポ・・・と和歌子の口の中の唾液を吸い取ってから、
アングルワイダーとバイトブロックを外した。唾液が糸を引くのが、達也からも見えた。
「口ゆすいでいいよ」
起こされる治療台にぐったりと体を預けながら、和歌子は手の甲で涙を拭っている。
吉野に頭をなでられて、さらに涙があふれて来たらしい。
「達也くん、ありがとう、助かったよ」
「あ、いえ・・」
達也は、自分の声がかすれているのに驚いた。た、立ち上がれないかも・・・
実際、疲れてしまったので、床も綺麗そうだし、その場にあぐらをかいて座り込んだ。
「はは、見てるだけで疲れた?」
吉野に笑われる。
「いえ、見てるだけで痛そうで膝が笑っちゃいました・・・情けないですね」
と、ごまかしておいた。

和歌子は、口から水をこぼしながら、必死で口をゆすいでいたが、ようやく治療台に戻った。
「えーと、かなり厳しいけど、露髄はしてないし、ま、とりあえず薬入れて埋めよう。」
和歌子が頷く。
「しかし、なんでもっと早く言わない。毎日顔合わせてんのに。」
顔を曇らせて、和歌子は黙ってうつむいた。
「ま、自分も気付けよって話だけどな。」
そういって、吉野は立ち上がって何かを取りに行った。
「でもさ、姉ちゃん、よかったじゃん。今でもけっこう酷かったみたいだし・・」
達也は声をかけてみた。和歌子は、黙って達也を睨み返しただけだった。まだしゃくり上げている。
何かを板の上で混ぜながら、吉野が戻ってきた。
「痛いぞぅ・・」
といいながら、また治療台を倒す。
和歌子は怯えたような顔をして、吉野の手元を見つめていた。
「ま、これで良くなると思えば軽いもんだ、ほら、口あけて」
吉野は、板をトレイに置き、口を軽く開けた和歌子の唇をぐいっ、と左手の指で開くと、
右手にスリーウェイシリンジを取り、形成したばかりの歯に、水やエアーを当てて丹念に見ていた。
シュッ。
とエアーがかけられるたびに、和歌子の体がビクン!とはねる。
「じゃ、ちょっと我慢しろ」
痛いのかな・・・と、達也はまた抑えられるように腰を上げた。
吉野は左手はそのままにして、右手に何かヘラのようなものを持ち、先にさっき混ぜていたペースト状のものを乗せて、
和歌子の歯に・・・
「はぁあああああっ」
和歌子が、足をバタバタさせて痛がる。
達也は、蹴られそうになって思わず引いてしまった。
「ああ、ま、そんなに危なくないから押えなくてもいいよ」
吉野は、達也にも声をかけながら、もう一すくい、ペーストを和歌子の歯に入れ、くいくいと詰めた。
「ぁ、はぁ・・・」
和歌子はもうぐったりして、されるがままになっていた。
吉野が、エアーをかけたり、また別のものを詰めたり、いろいろ作業をするのを見て、
歯医者もちょっとかっこいいじゃん・・
と、達也は思っていた。
「はい、終わり。いったん口ゆすいで。」

和歌子が口をゆすいでいる間、吉野はトレイの上の瓶の蓋を閉めたり、綿を捨てたり、あれこれてきぱきと片付けながら言った。
「知ってるだろうけど、そこはしばらく、じんじんするからね。」
水を口に含んだまま、和歌子はこくこく、と頷いた。
「だいぶ疲れただろうから、ちょっと休んだら・・」
あれ?終わりじゃないの?
和歌子も同じ事を思ったらしい。水を吐き出したあと、一瞬固まっている。
「下もやろう。」
和歌子が、ばっ、とすごい勢いで吉野を振り向いた。
「見たけど、そっちもけっこうひどい。」
「い・・嫌」
和歌子は、首を振った。
「早い方がいいって。」
「でもイヤ。」
「治さないといけないんだよ」
「でも・・今日は嫌・・・」
「痛いついでだろ。」
「ついでとかいう問題じゃないわよ!」
「その感じだと、すぐ痛み出すよ。」
「わかってるけど・・・」
「今日の治療と・・あとさっき入れた薬で、そのあたりがちょっと刺激されてるから、そのせいで痛み出すかもしれない。」
「でも、今日じゃなくても」
和歌子は意外と頑固だった。
結局、吉野が折れて、今日の治療は、ここまでということになった。

「疲れてるだろうから、送ってくよ。明日も朝迎えに行くから。」
という吉野の言葉で、達也と和歌子は吉野の車に乗った。
「今日は薬飲んで、しっかり寝るんだよ。腫れてきたりすると困るからね。」
「ん・・」
「今日はやらなかったけど、明日はきっちり下治すからね。」
「・・うん・・明日じゃなきゃダメ?」
「先延ばしにしたって良いことないよ。けっこうひどいって言っただろ」
「・・ん」
「なんでそんなに嫌なの。」
「痛いし・・」
「放っておいたらもっと痛くなるでしょ?」
「そうなんだけど・・頭ではもちろんわかってるんだけど・・」
吉野と和歌子の会話を後ろで聞きながら、
自分では我慢強くないとか言ってたが、けっこう辛抱強いな、吉野っち。
と、達也は思った。自分なら、「勝手にしろ、痛くなっても知らないから」くらいは言いそうだ。
治しちゃえばいいじゃん、彼氏がやってくれるんだし。
と思うほどに和歌子は頑なだったが、歯の治療って、そんなに痛いもんなのかな、と、達也は考えていたのだった。

翌日。約束どおり、吉野が迎えに来た。
「あ、どうも・・」
「娘がお世話になって・・」
「いえいえこちらこそ・・」
吉野と母が、頭を下げあっている光景に吹き出しながら、達也は家を出た。
「先生、姉ちゃん頼みますね。おさえる要員が欲しかったら呼んでくれれば行きますからー!」
「あ、行ってらっしゃい」
その後から、やや足取りも重く、和歌子が家を出てきた。
「どう?治療したとこ、痛くない?」
「ん、大丈夫。ありがと」
少しじーんとはしていたが、思ったよりも痛みも少なく、和歌子はホッとしていたのだった。

住宅地にある歯科は、平日の午前中は、年寄りの患者、主婦、あとは前の晩に銀歯や差し歯が取れた、という患者がほとんどだ。
暇というほどでもないが、目が回るほど忙しいわけでもなく、ほどほどに仕事をこなし、昼休みになった。
昼食は、和歌子は、衛生士仲間、美香と先輩の衛生士と、休憩室でお弁当を食べる。
左では噛まないようにしないと・・
と、少し気をつける以外は、まあ順調に食事を済ませ、歯を磨いていたとき。
ズキーン。
左下の6番が痛み、和歌子はビクッとした。
昨日、言われたとおりに治療してもらえばよかった?
と、一瞬思ったが、すぐに強い痛みは消えたので、和歌子はいつもどおり歯磨きを終え、少しそおっと口をゆすいで、午後の診察の準備のために、診察室へ戻ったのだった。

午後になると、幼稚園児や小学校低学年の子供などが徐々に増えてきて、忙しくなってくる。
和歌子は、今日で治療が終わった小学2年生の女の子に、歯磨き指導をしていたが、
途中で急に、左下6番が疼き出した。
「んんっ・・・ん、けふん。」
思わずうめき声が出たのを、咳払いをしてごまかし、指導を続ける。
が、その後、急に表情が曇ったのを悟られたのか、
「おねえさん、おこってるの?」
と聞かれてしまった。
「え?ううん、そんなことないわよ」
笑顔を作って答えるも、顔が引きつりそうになる。
なんとかその指導を終え、合間を見てトイレに行って、
「あ・・いっつつつ・・・」
顔をしかめて、左頬をさする。しかし、勤務中は痛み止めを飲むわけにもいかない。和歌子は、大きく深呼吸をして、気持ちを静めると、また診察室へ戻った。

次の仕事は、三波の治療のヘルプであった。患者は、幼稚園年長のこれまた女の子。
偶然にも、和歌子の痛む歯と同じ左下の6歳臼歯が虫歯になっている。
嫌がるのをなだめたり、動くのを押さえつけたり、声をかけたり、この年代の治療はいちばん重労働だ。
「ぃいいいひゃぁああいいい」
削られて泣き叫ぶ、その甲高い声が、和歌子の痛む歯に響いた。
「大丈夫―、もうちょっと頑張ろうねー」
声をかけながらバキュームを操作するが、痛みで集中できない。何度か、頬の内側を吸ってしまった。
「あっ、ひいぃぃぃい」
「泣かないでー、年長さんでお姉さんだからがんばろうねー」
ホント、頼むからそんな声で泣かないで・・・お願い・・・・響くのよ・・・ぁああっ・・・・
和歌子は、自分も叫び出したくなるのを堪えて、患者を励ましながら作業を続けた。

「・・はい、終わり。よく頑張ったね。次は来週にしようね」
ようやく治療が終わった。が、今の子の泣き声に刺激されてしまった和歌子の歯の神経は、静まらなかった。
ぅううう・・・どうしよう・・・具合が悪いって早退しようかしら・・・って言っても、ここで治してもらわないとどうにもならないんだけど・・・はぁぁあぅぅぅうう
左頬に手を持っていきたくなるのを・・もっとも、さすっても痛みは軽くならないが・・・我慢して、考えていると、
「熊谷さん、手伝って。」
先輩衛生士に呼ばれた。吉野が治療している、小学1年生の男の子が足をバタバタさせはじめたので、
おさえつけに走る。
「ふぎゃぁあああああ」
まただ・・お願いだからその声出さないでよ・・・ぅっ、つつぅっ・・・もう、私が泣きそうよ・・・
和歌子は、再び、涙目になりながら、一生懸命患者の足を押え続けた。

その治療後、中高生も増えてきて、仕事は少し楽になった。
泣き叫ぶ患者は居なくなったが、それでも、自分の痛みは軽くなることはなく、徐々にではあるが、強くなる一方だった。
あと・・少し・・・あと1ターンくらいかしら・・・
「あ、熊谷の姉ちゃんだ。こんにちは。」
男子高校生に挨拶された。たしか、達也の小学校のときの同級生だ。
「あ、こんにちは。」
笑顔で挨拶するつもりだったが、顔が引きつってしまった。
あ・・もうダメ・・・ホントに・・・・
突然、さらに激しい痛みの波が和歌子を襲った。
「あ、ぁあああっ」
とっさに左頬を押さえる。
もう我慢できなかった。
「ぁ、ぁは・・いは・・いはいいい・・・」
と、両手で左頬を押さえ、泣きながらしゃがみこむ。
「熊谷さん!?」
横で滅菌をかけていた先輩衛生士が、驚いて走り寄る。
「どうしたの?何かぶつかった?」
「いだぁあいいいいい・・・」

吉野も、治療している患者の歯を削り終えて、治療台を起こしたところだった。
別の治療台では、女医の留美が治療している女子中学生が、椅子を起こされて型取り中だった。
3人の患者を含めて、診察室中の目が、和歌子に注がれていた。
ちょうど、男子高校生の治療をはじめるところだった三波が、和歌子に歩み寄って聞いた。
「熊谷君、どうした。言ってごらん。」
「あ、すみません・・あの、歯、歯がいはいんです・・・・」
和歌子が、泣きながらおそるおそる答えた。
「は・・歯?」
耳が信じられず、三波は聞き返した。
「歯が痛いって?」
和歌子は、泣きじゃくりながら、黙って頷いた。
三波は、困ったような顔で、吉野を見やる。
「熊谷さん。控え室行って、痛み止め飲んで待ってなさい。後で診るから。」
吉野が、ため息をつきながら首を振って言った。
「そ、そうだな、熊谷君、そうしたらいい」
そう言いながら、三波が、和歌子に手を貸して立たせた。
「す・・すみません、こんな・・・恥ずかしいところ・・・」
そのとき、達也の友達の男子高校生が言った。
「あの・・すぐ治してもらった方がいいなら・・俺、待ちますけど・・・すごく痛そうだし・・」
「いえ、そういうわけには・・・」
先輩衛生士がさえぎった。
「でも、歯医者のお姉さんじゃなくて、痛くて駆け込んできた人だとしたら、順番ゆずるわけだから・・かわいそうだから、診てあげてください。俺は親知らず抜くだけだし。」
男子高校生は熱心に言って、結局、和歌子は、皆が・・他の患者さえ見ている中で、三波に緊急治療されることになった。
「はい、じゃあここ座って」
少し厳しい声で三波が和歌子を呼んだ。
こんなに見られている中で、嫌とは言えず、和歌子はサンダルを引きずるような重い足取りで治療台に座った。すぐに治療台が倒されていく。
「どこが痛むのかな」
「左下の・・6番・・です」
「どれ、あーん」
三波のほうを向かされ、口を開けさせられる。
「んー?ずいぶんひどいな、もとはインレーダツリか?でもこりゃずいぶん経ってるな・・。」
いつの間にか、美香が和歌子のカルテを探し出して治療台に持ってきていた。
「ほう、未処置7本ね・・ずいぶん貯め込んだね、貯めりゃ金より増えるけど、貯まってもいいことないだろう、虫歯なんて。」
和歌子は口を開けさせられたまま、必死になって目を伏せた。
「ま、いい、治療始めるか。シンマ。」
美香が補助につき、三波にシリンジを手渡した。
あ・・表面麻酔もして・・・
和歌子は思ったが、とても言い出せる雰囲気ではなかった。
ライトが合わせられ、軽く口を開きかけた和歌子の口に、手袋をはめた三波の指が入ってきた。左の親指で唇をぐいっ、と下げて歯茎を露出させると、そこに麻酔のシリンジを躊躇いなく打ち込む。
「うっ・・」
針が刺さる痛みに、つい声を上げてしまう。
「虫歯に比べたら大したこと無いだろ・・もう少し行くぞ」
小声だが、叱られてしまった。
「ぁ・・ぁはっ・・」
和歌子は、体を硬くして痛みに耐えた。
しばらくしてようやく針が抜かれ、これで麻酔が効くまで一息つける、と和歌子はホッとしたが、
「ま、どうせ痛い歯だしな、削り始めは効いてなくてもいいだろ。」
三波は、左手の指でそのまま和歌子の唇を開いたままにし、右手のシリンジをエキスカベータに持ち替えると、和歌子の痛む歯に当てた。即座に、ガリガリと患部を引っ掻き始める。
「ん、んはぁっ!」