「やっぱり・・目立つ?」
しゃべる綾子の口元に見え隠れする、変色した前歯を見ていた達也は、不意に聞かれて驚いた。
「え、何のこと?」
一応、とぼけてみせる。
「いいよ隠さなくっても・・前歯。色、変でしょ・・・」
半年前、歯科検診で指摘された前歯の虫歯。C2といわれた3本のうち、右の1番と2番は、神経まで侵されており、抜髄・根治されたのだった。が、サシバは嫌だと綾子が言い張ったので、歯質は比較的残っていたこともあり、歯はそのまま残してあった。
「歯は死んでいるからね、そのうち変色はするよ、見た目と強度は差し歯・・というか被せた方がずっといいんだけど」と、歯科医の吉野に言われていたが、綾子は「サシバは嫌」というところにこだわったのだった。
「そうだな・・変色・・してきてるな」
達也は、少し言いにくそうに演技しつつ答えた。実際、1番も2番も、茶色っぽく変色してしまっていた。特に1番は、治療の際に表側も削ったため、その部分は白いレジンで治療されており、その白さと変色した自分の歯のコントラストが汚らしい。
「治した方がいいかなあ・・お母さんもね、汚く見えるって」
「でも、サシバは嫌なんだろ?」
「もちろん嫌なんだけど・・でも、ほら、来月、面接もあるでしょ、そのときにこれだとちょっと」
綾子は、推薦入学を希望していて、面接を受けないといけないのだ。
「ああ、面接か・・それだとたしかに・・いや、汚いって言ってるんじゃないけど、まあ、気になるかな」
「じゃあやっぱり・・歯医者さん行く。でね、あの・・」
「ついて来いって?」
綾子は歯医者の痛いのが怖いと、前回の治療の際は、達也がずっと付き添ったのだった。
「忙しいのはわかってるんだけど・・お願い」
「ん・・ま、いいよ、勉強にもなるし」
達也は、歯学部を受験することにしているのだった。歯医者に行ったからって、受験の足しには何もならないのだが、綾子が嫌がっている「サシバ」になるところは、是非この目で見ておきたかった。前歯がほとんど削られてしまう綾子。ショックだろうなあ・・
「じゃ、予約するね・・」
1週間後。綾子と達也は、三波歯科の診察室に居た。
「・・・なので、あの・・サ、サシバ・・にして欲しいんですけど」
サシバ、と言うのが辛そうな綾子の様子に、達也は興奮していた。
「ん、そうだね・・けっこう早く変色してきちゃったね。うーん、これは気になるね。わかりました。じゃあ、一応根の状態をチェックするから、レントゲン撮ってもらおうか」
綾子の上唇をめくって眺めながらサラリと答える吉野を見て、達也は、こんなに興奮していては、歯医者にはなれないんじゃないかという気がしてきた。隣の治療台では、中年の男性が野太いうめき声を上げている。あれは嫌だな・・・小児歯科はあっても、女性歯科ってないしな・・・
5分後。レントゲンが出来上がってきた。
「うん、根も綺麗にしっかりしてるし、大丈夫だね」
「はい・・お願いします」
「ところで、神田さん、他に気になるところはない?」
「え?」
不意に聞かれて、綾子は面食らった顔をした。
「どこか染みるとか・・痛むとか」
「歯・・ですか?いえ、特に・・・」
「そう。なら、まあ今はいいけど」
「何か・・あるんですか?虫歯ですか?」
今は、というところが気になり、達也は思わず横から聞いた。
「え?ああ、うん、治療済みの歯の下がね・・ほら、たとえばここ・・黒く抜けてるだろ」
吉野が指差した先は・・実のところ、達也にはよくわからなかった。真っ白く映った治療痕と比べると、もちろん黒いように見えるのだが、普通の歯と比べて明らかに黒いかというと自信がない。
「うーん・・」
「こっちの方がわかりやすいかな・・」
吉野が別のところを指差す。そちらは、たしかに、黒くなっていることが達也にもわかった。
「じゃあ、これもですか?」
「ああ、そうだね、それはちょっと大きいな」
あちこちあるじゃん。ふと綾子を見ると、心配そうな顔で吉野を凝視していた。
「ま、今はいいや。でも、半年でちょっと進みすぎかな。夜勉強するときに甘いココアとか、良くないよ」
吉野が諭すように言ったので、達也は驚いた。そう、綾子は甘いココアが大好きなのだ。
「なんでわかったんですか?」
「多いんだよね、そういうの。チョコ食べてお茶飲む、ってほうが歯にはいいんだけど。」
綾子がうつむく。
「ま、とにかく。歯は大事にね。とりあえず今は、前歯綺麗にしようか。」
吉野が言って、治療台を倒した。
「流れとしては、今の変色した歯を削って、金属のコア、っていう芯を入れて、そこに歯をかぶせる、って感じかな。」
綾子は泣き出しそうな顔で頷いている。
「まず・・今の歯の型を取りますね。仮の歯を作りますから。」
衛生士がやって来て、綾子の上の前歯の型を取る。ああ、これが綾子の自分の前歯の最期の姿になるわけだ・・・もう少ししたら、削られて無くなっちゃうんだもんな・・・達也は、不思議な気分で眺めていた。
「では、削っていきますね。神経は無い歯だから、麻酔はしなくても痛くないからね」
ヒュィイイイイイイ・・・
タービンが音を立て始め、綾子は目を閉じた。
チュイィイイ、チュイン、チュイン、チュイィイイイ、チュィイイイイイイイイ・・・
たしかに、痛みは感じられなかった。単に振動だけが伝わってくる。が、前歯が・・・無くなっていく・・・そう思うと、鼻の奥がツーンと痛くなり、閉じた目にうっすらと涙が滲んでいたのだった。
どれだけ削られていただろう。綾子の前歯2本は、歯冠部はほとんどが削り取られ、根元部分が少し残っているだけになった。
ヒュゥウウウウウ
「はい、口ゆすいで」
治療台が起こされる。口をゆすぎながら、綾子は舌で、削られた前歯を探った。・・・ない!歯が・・前歯がっ・・・
綾子は、かぶせる、というので、歯が半分くらいの大きさに削られるのだろう、と勝手に想像していた。が、舌で感じる限り、前歯は、ほぼ歯茎の近くまで無くなっていたのであった。綾子は動揺した。なんで・・こんなに・・やっぱり・・色が汚くても・・サシバになんかしなければよかった。しかし、もう、手遅れだった。綾子の前歯は、削られ、小さなカケラになって、もうどこかへ消えてしまったのだ。一部はさっき濯いで吐き出した水と一緒に、流れて行ってしまった。綾子は、とっさに、もう一度スピットンを覗き込んだ。小さな歯のカケラは、いくつか壁に残っていただけだった。
「おい、大丈夫か?」
傍から見ても激しく動揺している綾子に、達也が声をかけた。
「あ・・ん・・・らいじょうぶ・・」
微妙に息が漏れ、うまく発音できないことにも、綾子は動揺した。一方、達也は、綾子の少しだけ開いた唇の隙間から、見えるべき歯が見えないことに興奮し、その唇をめくりたい衝動を必死に抑えていた。
「じゃあ、土台の型取りますね・・あーん」
衛生士が、印象トレイを持ってきて、綾子の口を開かせる。唇をめくり、トレイを綾子の口の中に挿入する。
見えた!達也は、綾子の右の前歯2本の位置にぽっかり開いた空洞を、しっかりと目に焼き付けた。
しばらくして、印象材が外されると、今度は衛生士が、仮歯を持ってきた。治療台が倒される。
「じゃあ、これ着けるからね。大丈夫だよ。」
吉野は、仮歯を綾子の前歯のあった空洞に合わせ、数度削って調整すると、仮着用のセメントで固定した。
「具合はどうかな」
吉野が綾子に尋ねる。
「なんか・・感触がちょっと気持ち悪いです・・」
「ん・・まあ、そうかな、皆そう言うね、あと、口の中が狭いとか」
「・・はい・・」
「ま、仮の歯だから。あまり強くないからね、気をつけて。でも見た目はさっきより綺麗だよ」
治療台が起こされ、綾子は手鏡を手渡された。おそるおそる・・いーっ、と口を開く。
そこには、昔のように白い前歯が元通りにあった。
ああ・・たしかにさっきよりずっと綺麗・・・でも・・・これはニセモノ・・・自分の歯はもう無い・・でも綺麗・・
綾子は複雑な気分になった。
「あ、ありがとうございました」
「3日後にはコアができるから・・それを入れてもう一度型を取って・・で、本当のを作るから。特に希望がなければ、保険でできるものを入れるからね。」
帰り道、達也は、黙ったままの綾子に話しかけた。
「どう、変な感じ?」
「ん・・こう、ちょっとしゃべりにくいの。舌が当たるって言うか」
「でも、歯、綺麗になったよ、ずっといいぞ」
「それはそうなんだけど・・でも・・私の前歯・・無くなっちゃった・・」
沈んだ綾子に、達也はあえて言ってみた。
「でも、仕方ないだろ。その大事な前歯を虫歯にしちゃったのは綾子なんだから」
綾子の表情がさらに曇った。そうだった・・・私が虫歯にしちゃったんだ・・・後悔の念で涙が滲んできた。
「ま、綺麗になるんだから。そう落ち込むなよ」
達也は、次回の治療も楽しみだった。
3日後。2人は再び三波歯科に居た。
綾子の治療台のトレイの上には、金属の棒のようなものが2本刺さっただけの歯の模型が置かれていた。
「こんにちは。今日はこのコアを立てるからね。痛くないから。」
吉野がやって来て言った。早速、治療台が倒され、治療が始まった。
「仮歯外します」
タービンを少し当てて、歯が外された。
「作業しやすいから、これつけてもらいますね」
衛生士が、横から、綾子の口に開口器をはめた。
ごくり。今日は、綾子の口元がよく見える位置に立っている達也は、思わず唾を飲んだ。開口器でむき出しになった、前歯が2本無い口元。
綾子は、達也の視線に気付くと、泣きそうな顔で視線を天井に向けた。
その後、吉野は模型から金属を取ると、綾子の歯・・の中に押し込み、様子を見てから、セメントを付けて固定した。
歯茎から小さい金属片が飛び出している様子は、さっきまでの、歯が無い状態よりも怖い。
差し歯にしてる人は皆、歯を外したら、こんななのか・・
達也は、差し歯だと思われる女性教師、綾子よりも先に差し歯になってしまったという同級生のミズキ、芸能人などをいろいろと思い浮かべた。やべ・・達也は立っていられないほど膝が震えた。
「じゃあ、この状態で型取りますね」
衛生士がまた型を取り、仮歯がはめられて、その日の治療は終わった。
それから1週間後、綾子の口の中には、無事に、裏が銀の「サシバ」が入った。
達也は、綾子に上を向かせてしゃべらせ、裏の銀色がちらちら見え隠れするのを楽しんでいたが、綾子は、違和感と、裏側の金属が舌に当たったときの味が気になって仕方なく、さらには、英文科を受験するのに、英語の発音がしにくくなったことを感じていたのだった。
そして、レントゲンに映っていた二次齲蝕が痛み出したのは、面接の前の晩のことであった。