「つぎは・・XX小学校前・・」
降りるバス停の名前がアナウンスされ、朋美はあわてて停車ボタンを押した。
ギリギリのタイミングだったようだ。バスは急停車し、朋美はバランスを崩しそうになり、入り口に向かって数歩トトトッ、と踏み出して持ちこたえた。
うっ・・
バスカードを通し、バスを降りる。10mほど先の横断歩道で信号待ちをしながら、朋美は右手で頬をさすった。夕飯の途中からなんとなく痛むような重いような歯があるのだ。それがさっき、バスの中でステップを踏んだ衝撃で確実な痛みに変わっていた。トクン、トクン、と痛む。
・・虫歯の痛さとは違うような気がするんだけれど・・
何度か歯痛の経験がある朋美は、虫歯が痛いときはもっと、鋭い痛みのはずだ、と判断した。
頬に手を当てたまま、左手で門を開け、鍵も開けて家に入る。
「ただいまー」
「おかえり」
「おかえりー」
明かりが漏れている居間から母と姉の声がした。結婚したが近所のマンションに住んでいる姉は、出張の多い夫が家を空けるときはいつも家に泊まりに来る。
朋美はジャケットを脱いで玄関の横のクローゼットにかけてから、
「着替えてくる」
と居間に声をかけ、2階の自分の部屋に上がった。やっぱり、痛い。着替えてから、洗面所で、朋美は鏡の前であーん、と口を開け、上を向いた。右手の人差し指で唇の端を引っ張ってみる。ギラリ、と大きな、歯全体が金属で覆われたクラウンが光った。
・・そうよ、ここは神経も取ったんだし。虫歯じゃないわね。
詰め物の下が虫歯になることがあるのは経験から知っているが、神経まで取った歯が痛いはずはない。母が、肩が凝って歯が浮くわ、と言っているのをよく聞く。私もそろそろ年かなあ、27だしね。ため息をつきながら、朋美は手を洗って居間に入って、ソファに座る。
「朋ちゃん、いよかんあるのよ、食べる?」
「・・ちょっと、もうちょっと静かに座りなさいよ、女の子なんだから。」
母と姉が口々に言う。どすん、と座ってしまった衝撃が、また歯に響き、朋美は顔をしかめて頬をさすった。
「いらない・・なんか歯が痛いの。肩凝ってるのかなあ。」
「何言ってんのよ、虫歯じゃないの?歯医者さん行きなさいよ。」
母が言う。
「あなたは放って置くからいけないのよ。歯がまあまあ丈夫だからいいけれど、それで歯が弱かったら、お父さんみたいになってるわよ。」
10年ほど前に他界した父は、歯が弱く、50歳のときから総入れ歯であった。母によれば、結婚した25歳当時、すでに一部に入れ歯があったらしい。新婚旅行の最初の夜にそれを知った母は、ショックで熱が出たそうである。
「そうよ、大学卒業する前にもう差し歯になるなんて。前から虫歯よって言ってるのに。」
姉も横から言う。
「いいでしょ、それは。言わないでよ。」
そう、朋美は左上の2番が差し歯であった。大学に入ってずっと、黒いわよ、とか、歯医者に行きなさい、という母と姉の言葉を聞き流していたが、3年生の夏休み、少し痛むようになってきたのと、就職活動を始めなければいけないので気になってきたところで歯医者に行ったら、すでに神経までやられている、手遅れですね、と言われ、差し歯になってしまったのだった。裏の金属の感触は今でも慣れないし、普段見えないけれど歯茎は黒くなっているし、朋美もちょっと後悔している。
「でもね、前もって治しておかないとね、妊娠すると自由に治せないし、大変なのよ」
姉は妊娠6ヶ月だった。なんでも、虫歯が無かった姉は、急に虫歯が数本できたと思ったら妊娠していて、安定するまでは治療できませんと言われて、虫歯が進んだらどうしよう、と落ち着かなかった、とのことである。
「それ、何回も聞いたから。まだ結婚もしないし。」
朋美は、どうも痛みが強くなってきた気がして、再び頬に手を当てた。
「そんなの最近じゃわからないでしょう。お姉ちゃんみたいに、できちゃったとかなんとか」
「いいでしょ、それは。言わないでよ。」
姉が母に、さっきの朋美と同じ台詞を返した。そうは言っても、二人で育児雑誌を覗き込んだりして楽しそうにしている。普段なら朋美も一緒になってこの服を着せたい、などと盛り上がるのだが、今日は歯が痛い。
「ん、んん」
喉の奥から小さくうめいて、朋美は頬を押さえたままソファから立ち上がった。薬箱を開け、痛み止めを箱ごと取り出して、食卓に置いた。プチ、プチ、と手のひらに2錠出して、台所で水とともに流し込む。
「朋ちゃん、本当に痛いの?歯医者さん行きなさいよ・・」
「お風呂入って、さっさと寝たら・・・」
居間から母と姉の声が聞こえてくる。朋美は、お風呂に入ると痛みが増しそうだったので、軽くシャワーを浴びて、さっさと自室に帰ると、ベッドにもぐりこんだ。
・・だめ。痛い。
うとうと、とすると痛みが襲ってきて、さっきから30分に1度は時計を見ている。まだ3時・・
虫歯の痛みとは違うと思っていたけれど、ズキン、ズキン、と痛みは激しさを増してきた。これはちょっと虫歯っぽい・・もしかすると、さっき見た歯ではなく、もう一つ後ろ・・たしか神経を取っていない歯が虫歯なのかもしれない。
頬を押さえ、よろよろと階段を降り、もう一度薬を飲もうと、さっき薬を置いた食卓の上を探すが、箱はなかった。一瞬慌てたが、見回すと、出窓に置かれた電話の横に片付けられている。
・・今度は効きますように・・・
朋美は祈りながら、ふたたびベッドに入った。
結局、その後も同じようにうとうとしては痛みで目覚める、の繰り返しで、朝を迎えた。ほとんど眠れなかったので、身体がだるい。
朋美は歯医者に行くことを決意した。今日は会議もないはず。半休取って。
顔を洗おうと洗面所に入り、ふと鏡を見ると・・
・・う・・そ・・・
右の頬骨の下のあたりが、赤く腫れている。
・・やだ、もう、27にもなって虫歯でほっぺたが腫れるなんて・・でも、明日じゃなくてよかったわ。明日は合コン入ってるんだ。
朋美は少し情けない顔をして、キッチンに入っていった。
「おかーさーん・・」
呼ばれて朋美の顔を見た母が吹き出した。
「やだ、朋ちゃん、なにその顔。」
「笑わなくてもいいでしょ・・んー、痛いよぉ・・しかも眠いぃ・・」
朋美は頬を押さえて食卓の椅子に座った。
「食べるの?」
「お腹はすいてるの・・」
母親がヨーグルトを朋美の前に置いた。
「ん・・ありがと・・」
スプーンを手に取ったとき、姉の声がした。起きてきたようだ。
「やだ、どうしたのそれ。27だっけ?そんな年になって、虫歯でほっぺた腫らすなんて・・何回目よ。」
母親と同じように笑っている。
歯痛は3,4回あったと思うが、腫れたことは無いはずだ。朋美はスプーンを口に運びながら、姉を恨めしそうに見上げた。
「どうするのよ」
「半休取って歯医者行く・・」
「そうなる前に行きなさいよね」
姉が言いながらコーヒーを入れてくれる。
「半休って、それ、半日じゃ引かないわよ」
母親が姉の前にトーストを置きながら言った。
「そ、そうなの?歯医者さん行ったら治るんじゃないの?」
「行っても治らないわよ。お父さん見ててよく知ってるんだから」
「がーん、さいあく」
「それに、最近はどこの歯医者さんも完全予約制って、駆け込んでもそんなにすぐ見てもらえないんじゃないの?」
「え・・ふ・・」
朋美は頬を押さえて泣きたくなった。痛みだけでもなんとか・・
「あ、駅の向こうの・・三波歯科、あそこ、朝、一人空いてる先生居るのよ、この子みたいなバカなのが駆け込んでくるからですって。」
姉がバカと言いながらも教えてくれた。
「あら、そうなの。よかったわね朋ちゃん。早く行きなさいよ。っていうか朝美、なんでそんなこと知ってるの」
「実はねー、弘樹もけっこう歯が弱いのよね、だから何度か。あ、お父さんほどじゃないわよ、入れ歯はないから。」
姉は、夫の名前を出した。朋美は義理の兄の、白い歯が印象的な笑顔を思い浮かべた。母も同じことを思ったらしい。
「でも弘樹さん、キレイな歯じゃなかった?」
「ああ、お母さん前も言ってたわよね、あれ、全部差し歯よ。裏見たら真っ黒なのよ。」
「あらー、取れたりしたら大変ね、高いわよ」
「そう、高いやつらしいの。ホント心配で。それよりも、子供に遺伝しちゃったらどうしようって」
「小さいときは子供にうつるって言うから・・」
母と姉の、歯の弱い夫に悩む主婦談義を聞きながら、朋美は食卓を立ち、歯を磨いて出かける準備を始めた。
メイクで赤みは大分ごまかせたが、腫れはどうしようもない。ボブの髪を少し前にかぶせるようにしてみる。
「ちょっと恥ずかしいわねー」
「頑張ってー」
という母と姉の声に見送られ、朋美は家を出た。こういう日に限って近所の人によく会う。少し俯き気味で早足で歩き、急いでいる風を装って、おはようございます、だけで通り過ぎてやりすごしたが、早足で歩いたせいで血行が良くなったのか、痛みが増してきた。
「う・・いたたた・・」
頬に手を当ててしまう。駅まで、朝は歩き、夜はバスと決めているのだが、今日はバスに乗ることにして、駅の向こうの三波歯科になんとかたどり着いた。診察時間の開始よりも40分も早く着いたが、幸い開いていた。待合室に誰もいないのを外から確認してホッとしながら、受付に向かう。
「あの・・予約がなくても診て下さる先生がいらっしゃるとお聞きしたのですが・・」
「おはようございます、大丈夫ですよ、どうされました?」
「あ、おはようございます、あの、昨日の夜から歯が痛くて・・眠れなくて・・あ、初めてです。」
「ではお名前と年齢だけこちらの紙に記入して、保険証と一緒にお出し下さい。こちらの問診票は後で記入しておいてください。」
受付の女性が右頬をちらちら見ている気がして、朋美は赤くなりながら名前と年齢を書いて出した。
・・27にもなって、とか思われてるのかなあ・・・
なんのことはない、受付の女性は、朋美の治療を担当するはずの歯科医、若林留美が今朝、ちょうど同じところを腫らして出勤してきたのを見ていたので、少し面白いなと思っただけである。
朋美はボードにはさまれた問診票を手に、待合室のソファに座った。
来院の理由、っと・・検診、そんな理由で来る人、ホントに居るのかしらね。詰め物・歯が取れた・・今回は違うわ、痛む歯がある、これね。
具体的に・・場所、右上、いつから・・昨日の夜から・・よね。
希望する治療・・痛みだけ取って欲しい、気になるところだけ治す、問題のあるところはすべて治す・・どうしよ。まあ、せっかく来たしね、問題のあるところはすべて治す、と。
最後に歯科を受診したのは・・・いつだっけ、左上の一番奥の銀歯が取れちゃったとき・・ああ、そうだわ、社会人1年目よ、えーと、4年前、っと。
自分の歯は・・・とても虫歯になりやすいと思う、比較的虫歯になりやすいほうだと思う、どちらでもない、比較的丈夫なほうだと思う、とても丈夫だと思う、うーん。まあまあ丈夫、って、お母さんがいつも言ってるから、比較的丈夫なほうだと思う、これかな。
そのほか、アレルギーの有無などを記入して、朋美は問診票を受付に出した。
それでもまだ、診察開始まで30分近くある。
・・うう、また痛くなってきたわ・・
予約をしているらしい親子連れが来て視線が気になったせいもあり、朋美はハンカチを取り出して右頬に当てた。
・・こんなに痛いのは・・初めてかも・・
朋美が顔をしかめていると、
「福原さん。」
と名前を呼ばれた。見ると受付の女性が前に立っている。
「本当は診察時間はまだですけど、痛みがそんなにひどいようなら、先に診ましょうかって、先生が。どうされますか?」
「あ・・、お、お、お願いします。」
思わず、頼み込むような口調になってしまった。
「では、こちらへどうぞ。あ、予約の方はもう少しお待ち下さいね。この方、急患なので・・」
受付の女性は、親子連れに言ってから、朋美を連れて診察室へ向かった。後ろで、
「ママ、キュウカンってなに。」
「歯が痛いからなんとかしてください!っていう人のことよ。お姉さん痛そうだったでしょう。」
という親子の会話が交わされているのが聞こえる。
診察室に入ると、女医が待っていた。
「よろしく、お願いします」
と頭を下げる。姉と同じくらいだろうか。
「担当させていただく、若林留美です。どうぞ。」
治療台に座るように示されたので、朋美はバッグをそばのバスケットに置いて、治療台に上がった。
「えーと、福原さん、歯が痛むということですが・・どうされました?」
若林というその女医は、静かな口調で聞いてくる。
「右上の歯が、昨日の・・夕飯を食べている頃から痛み出して・・痛み止めを飲んだんですが、よく眠れなくて。」
朋美は説明した。
「それは、昨日が初めて?」
女医は、じぃっ、と朋美の顔を見ながら聞いてきた。
・・どうだったかな・・ちょっと重い感じがすることはあったわ。
朋美は答えた。
「そういえば、何度か少し、ちょっと浮くような感じがしたりしたこともあります、でも、その時は疲れてるのかなって」
女医が、冷たい目で頬の腫れを見ている気がする。
・・なんでそのときに来ないの、って思われてるのかな・・
朋美は言い訳するように付け加えた。
「で、でも、見ても虫歯ではなさそうなんです・・なので・・ついそのままに・・」
すると女医はふっ、と表情を緩め、意外と優しい声で、
「別に怒ってないですよ、進んで来たいところでもないでしょう。まずちょっと見せてもらいますね」
と言った。同時に、衛生士が後ろからエプロンを着けてくれる。
・・これってなんか、妙に恥ずかしいんだよね・・・
朋美は思いながら、手に持ったハンカチを握り締めた。とたんに治療台が倒れ始める。
・・ああ、きたきた・・
特に朋美は治療は怖くないが、やはりこの治療椅子に座ると緊張する。
女医はライトを点灯し、位置を合わせた。途中でライトが顔に当たり、まぶしくて目を細める。
「では、お口開けて・・あー」
と言われて、朋美は目を閉じて、ゆっくりと口を開けた。口の中にミラーが挿入され、まず消毒の匂いが口の中に感じられる。カチ、カチ・・歯にミラーが当たる音がする・・しばらくすると、少し唇を引っ張られ、直後、歯に何か・・おそらく尖った針のようなあの器具・・が当てられているのを感じた。
「福原さん、どの歯が痛むかはわかりますか?」
と聞かれたので、朋美は目を開け、かすかに首を振った。
「少し響くかもしれませんけど、我慢して下さいね」
・・ひびく?我慢して下さい?
その言葉を聞いて朋美は不安になったが、女医はそのまま、右手に持った針の上下を持ち替えると、柄でコツコツ、と朋美の奥歯を叩いた。一番奥の歯だ。
・・ん・・ちょっと・・痛い、かなあ。
朋美が少し眉をひそめて考えていると、隣の歯から、顎や目の奥に響く激しい痛みが走った。
「んはぁっ」
朋美は思わず声を出してのけぞった。
痛イィィっ!
女医は涼しい顔で、朋美の口から器具を抜いて、治療台を起こした。
「おそらく、昔治療した歯のかぶせ物の下が虫歯になっています。根っこがどうなっているか見たいので、レントゲンを撮らせて下さい。」
まだじんじんと響く痛みに、朋美は右頬に手を当てたまま頷いた。
・・かぶせ物って、この歯、神経は取ったはずなのに・・痛くないはずなのに。
朋美は不思議に思いながら、衛生士にレントゲン室に連れて行かれ、レントゲンを撮ってもらい、女医に連れられて治療台に戻った。
「今日、お仕事はお休みされましたか?」
座るなり、女医に聞かれた。答えながら、一つ気になっていたことを聞く。
「あ、半休を取りました・・でも、顔が腫れてしまってるから一日お休みしようかと・・あのぅ、これ、明日までに治るでしょうか」
女医は、少し言葉を選ぶようにしながら答えてくれた。
「そうね・・場合によるとしか・・原因が無くなれば引くはずだけれど、軽くても2,3日は続くでしょうね」
そこで言葉を切り、朋美の腫れた右頬を見つめている。軽ければ2,3日だけれど、これはもっと重いわ、と思っているのだろうか、と、朋美は心配になった。いずれにしても、明日までには治らないらしい。どうしよう・・合コン・・と、朋美は考えていた。
すると、衛生士が出来上がった大小2枚のレントゲンを持ってやってきた。
大きいほうは、全体を写しているらしい。白いものが治療の痕だなというのは朋美にもわかる。白いものが映っているのはほとんどは奥歯だが、前歯に1本、くっきりとした白い歯が映っている。
・・差し歯だわ・・レントゲン見られたらばれちゃう。ま、裏が黒いからさっき、口開けたときに見えたかな。
と、朋美は思った。最初に言葉を交わしたときに、先端の色を見ただけですでに差し歯だと判断されていたとは、朋美は夢にも思わなかった。女医は小さいほうのレントゲンを見ながら難しい顔をしている。大丈夫かな、と朋美が女医を見つめていると、写真を指しながら説明してくれた。
「やはり、痛みの原因はこの、奥から2番目、銀がかぶせてある治療済みの歯ですね。」
真っ白く映った歯を示しながら、女医は断定した。
・・白いだけなのに、なんでわかるんだろう。この歯は神経を取ってあるって、言った方がいいかしら。
朋美は遠まわしに、それは違うと思う、と説明しようとした。
「えっと・・その歯は・・けっこう治療に時間がかかって、たぶんなんですけど、神経を取ったはずなんです。それでも痛むって、どういうことでしょうか」
女医は不満の色も見せず、胸ポケットからペンを取り出して、紙に歯の絵を描いて説明し始めた。
「神経を取るというのは、歯の中の神経を取るわけですけれど、歯の周りには神経はあるんです。なので、少し取りきれずに残っていた虫歯が進行した場合や膿が溜まってしまった場合には、痛みを感じます」
「はぁ・・」
そうなんだ。知らなかった。朋美が感心していると、女医はさらに続けた。
「神経を取ると、その後にゴムのようなものを詰めて封をするんですが・・この白く映ってる部分ね、この歯は根の先の方が上手く詰まっていなくて少し隙間があって・・そこから膿んで、ここ、黒っぽく見える膿の袋ができてます。簡単に言うと膿で骨が溶けているから、黒く見えるのね」
・・骨が溶けてる!?
朋美は怖くなってきた。
「ど、どうやって治すんでしょうか・・」
「そうね、もう一度削って、根を綺麗に掃除しなおして、詰めて、って感じかしら」
女医はあっさりと答えた。少し冷たい感じはするが、怖い人ではなさそうだ。朋美は思い切って、おそるおそる質問した。
「あの・・ちゃんと、治り・・ますよね。」
「うまく行かないこともあるわね、その時は・・歯を抜くことも有ります。」
さらにあっさりと言われたが、その内容に、朋美は不安になって食い下がった。
・・抜くことも有ります、って・・先生は歯医者さんだからそんなこと無いんだろうけど、他人事だと思ってそんなあっさり・・
「よくあるんですか、あの・・」
「そうね、前のときは長くかかった?」
聞き返されて、朋美は考え込んだ。ここは・・たしか大学に入ってすぐの夏休みに痛くなって・・銀歯の下が虫歯だって・・それで・・終わったのは12月だったわ。思い出した。抜くかもって言われたんだった。
「はい、けっこう・・なかなか綺麗にならないって言われて、何ヶ月か・・ダメなら抜くって、そのときも聞きました」
「2度目となると格段に難しくって、成功率は4割から6割って言う・・わ・・ね・・・」
女医は考え込んで、さっきのあっさりした答えとは打って変わって、慎重に言葉を選ぶように言葉をつないだ。そして少しうつむいて黙り込む。
・・やだ・・さすがに、この年で歯抜けはちょっと・・
朋美も、新婚旅行で入れ歯がバレてしまったという父親のことを思ってうつむいた。すると、女医はふと顔を上げて朋美の顔を見て話し始めた。
「あと・・後できちんと見せていただきますが、その歯のほかに、写真を見る限り、治療が必要な虫歯が・・そうですね、奥歯に2本・・前歯に1本・・頑張って治していきましょうね。」
いつの間にそんなことがわかったのか、3本も虫歯を宣告され、朋美は、「問題のあるところはすべて治す」に○をつけたことを少し後悔した。また、治療台が倒されていく。
「では、まず、かぶせ物を外していきますね・・神経の無い歯ですし、削るのは金属の部分だけなので無くても同じだと思うのですが・・麻酔、したほうが良いですか?」
「あ、お願いします。」
だって、痛い歯なんだから。朋美は思った。カチャカチャとトレイの上に何かが用意されている。
「では。少しチクっとしますよ・・」
綿が詰め込まれた後、お決まりの言葉と共に、チクッ、という刺激があった。身構えたほどには痛くない。
何箇所か刺され、口を濯がせてもらい、再び治療台が倒される。
「では、麻酔が効くまでの間で、全体を見せていただきますね。」
女医が言った。気付くと、衛生士もカルテを構えて横に来ている。
やっぱり全部治さなくていいです、ここだけ治してください、とも言い出せず、朋美は頷いた。
「はい、あーん・・」
朋美は、目を閉じて口を開けた。
ミラーが口の中に入ってくる感触があった。
「右上から行きます・・7番・・インレー処置済・・で・・」
ミラーが頬との間に入ってきたり、探針でなぞられたり・・カチャリ、という音・・何かが入ってくる・・・シュッ!
「ぁはっ」
ビィィン、という痛みがあって、朋美は思わず声を上げた。直後、女医の冷静な声が聞こえてきた。
「2次カリエス、C2ね。続けます、6番・・はフルクラウン、これから治療するでしょ、5番・・C1・・C2かな・・」
探針が引っ掛けられ、ぐぐっ、と揺すられる。微かに痛むような気がする。そして探針が出て行き、また、カチャリ・・・また来る?朋美は身構えた。
「ちょっと沁みるかなー」
シュッ。
「ぁ・・」
さっきほどではなかった。朋美は一瞬体を硬くしただけで済んだ。
「C2です。4番、3番斜線・・2番はレジン処置済・・1番斜線・・左行きます、1番レジン処置済・・で・・」
順調に進んでいたミラーが再び動きを止めた。朋美は少し緊張した。探針が歯の裏側をカリカリと引っ掻いている。次にミラーが唇をめくるように押さえ、探針は歯と歯茎の間をなぞって・・真ん中の前歯の間に入って、カリカリと音を立てた。
「あ、ごめんなさい・・右上1番、やっぱりC1に直して・・」
「はい」
「左上1番はC2。次、2番、前装冠で処置済・・3番がレジン処置済・・・」
再び、探針が歯に当てられている。朋美は身構えたが、そのままミラーは次に移って行った。
「4番、インレー処置済、5番もインレー、6番もインレー、7番がクラウン処置済です・・そのまま左下行きます、7番インレー処置済、6番もインレー、5番はレジン・・4ば・・」
久しぶりにミラーが止まった。探針が歯列の内側・・後ろの歯との間を探っている。
「4番C2です、3番から・・右下4番まで・・斜線、5番インレー処置済、6番もインレー、7番はクラウン処置済、以上です。」
ミラーが抜かれ、朋美はおそるおそる目を開けた。
「福原さん・・今痛むところのほかに・・1,2・・全部で5本、虫歯が見つかりました。頑張って、治しましょうね。」
・・5本も・・
朋美はうんざりしたが、目で頷いた。
「そうね・・前歯は小さいから白いプラスティック・・レジンって言うんだけど、それですぐに治るわ。左下の一番前の奥歯、これはできればレジンで治したいと思ってるけれど、削ってみて広がってたら、もしかすると型を取って銀歯を入れることになるかも・・しれないわ、もしそうなりそうだったら言うわね。」
女医が同意を求めるように朋美の顔を見るので、朋美は頷いた。
「はい。」
女医はさらに説明を続けた。
「右上の奥歯・・手前の方は、削って型を取って、銀歯をはめます。そんなに大きくはないから大丈夫よ。奥の方は、今、銀歯が入ってるんだけど、その下で虫歯になっちゃってるのね。」
・・左上の一番奥とおんなじだわ。
「銀歯を外してみないと何ともいえないけれど・・もしかすると、神経を取ることになるかもしれないわ。そうすると、長くかかるんだけれど・・きちんと途中でやめずに最後まで通って来てね。」
「はい」
朋美は、不思議な気持ちで頷いた。歯医者さんに最後まで通うのは当たり前なのに。なんでそんなことを言われるのか不思議だった。
「では、痛むところの治療、始めましょうか。」
朋美は、女医の方を向いていた顔を上に向け、小さく深呼吸をした。
「あーん」
と言う声がして、朋美はいつも通り、目を閉じて口を開けた。
唇が右上に引っ張られ、
左側から、スコココ・・と言う音が聞こえてきて、口の中に入り、
さらに、右側から、ヒュィイイイイイイ・・・という音が近付いてくる。
んっ、と身構えて待っていると、すぐに歯にタービンが当てられたのがわかる。
歯から伝わる振動が上顎から頭に抜ける。
ガガガガガガ・・・
スココココ・・・
キュインキュィンキュィイイ・・・
かなりの騒音だが、麻酔のせいか痛みが軽くなり、寝不足だった朋美はうとうとし始めた。
「福原さーん、お口閉じないでくださいねー」
と言う衛生士の声に最初はハッ、と目を覚ましていたのだが、やがて本当に眠りに落ちてしまった。
口を開けて寝ているせいか、ときどき、
んごっ
と喉の奥からイビキのような音まで立てて・・。
「美香ちゃん・・バイトブロックくれる。ワイダーもセットでおねがい。」
削る手を止めた女医は苦笑しながら衛生士に指示を出した。
「ふふ・・昨日眠れなかったって言ってましたもんね」
衛生士も笑いながら言われたものを用意し、眠っている朋美の口に装着する。
朋美は知らない間に、無理矢理大口を開けさせられる形になったのだった。
視野が安定し、治療は順調に進んだ。クラウンを外し、コアを抜き、根に詰められていたガッタパーチャを取り除く・・
「ああ、開いたわ」
膿んでいた根の先までファイルが到達した。行き場を求めていた膿がタラタラと流れ出る。
ファイル、綿花、生理食塩水などで洗っているうちに、朋美はその違和感で目を覚ました。
「ぬぁ・・・あ?」
口を閉じられないことに気付いた朋美は、一瞬、何が起きているのかわからず、ビクッと身体を動かした。
「福原さん、動かないでくださいねー」
気付いた衛生士に声をかけられ、ああ、歯医者に居るんだった、と朋美は思い出した。
どうなっているのかわからないが、器具で大口を開けさせられていることに気付き、少し赤面してまた目を閉じた。
・・これで、唇が伸びたまま戻らなくなっちゃったらどうしよう・・
などと考えていると、目の裏に火花が散るほどの痛みが襲った。
「んはっ!」
顔を歪め、のけぞらせる。
「あー、痛いかしら・・ま、今日はこのくらいにしておきましょうか。」
女医の言葉にホッとした朋美だったが、薬が詰められ、またその薬が沁みて、何度かうめき声を上げる羽目になった。
・・歯医者さんで声出してるなんて・・恥ずかしいよね・・
心の中で苦笑していると、治療台が起こされた。
「はい、今日はこれで終わりです。なかなか手ごわそうですけど、がんばって治療していきましょうね。」
「あ・・はい・・よろしくお願いします・・・」
あわてて頭を下げる。
「痛み出すかもしれないので、痛み止めを出しておきます。次からは他の虫歯の治療も平行して進めて行きましょう。お手入れは綺麗にできているとは思うんだけれど・・あなたの年代にしてはちょっと、虫歯が多いかな。たとえば、虫歯になっていない奥歯はもう2本しか残っていないでしょう。受けている治療もあまり軽いものではないようだし。痛くなってから来るんじゃなくて、もう少し頻繁に検診なんか受けたほうがいいと思いますよ。」
女医が、やわらかい口調ながら、いろいろと厳しいことを告げたので、なんとなく朋美は謝ってしまった。
「はい・・すみません」
マスクを外しながら笑顔を返してくれた女医の歯は、白く綺麗に輝いていた。